津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(8)

2010-06-24 15:08:08 | 歴史
     ■五月十三日 当番仁保太兵衛

一、式ア少殿よりひの木六寸角・長さ弐間木五本・檜木六寸書く壱本、同しゝれう五丁、御借用有
   度由○被仰越候間、則、かし被申候へと、式ア殿御書立のさしかミニ加判仕、(林)弥五右衛門・
  (河田)八右衛門ニ当候て遣候、横目衆うら判在之也

  十四日之覚書ニ在之也
一、井上清兵衛ニ、呼野ニて留置候薪ノ儀可相尋事

  十四日次大夫番ノ覚書ニ在之
一、御薪舟ニ、ぬかつミ上せ候事、拾石上せ可申事

  中村二兵衛相渡候
一、かきはい壱斗、呼野へ遣候、右田三右衛門ニ渡候切手之事

  十四日ニ、御加子壱人相渡候へと、申付候事
一、御出舟かこノ事、鏡善右衛門尉ニ可相尋事

  五月廿日之覚書ニ在之
一、北前より、御材木長サ弐間ノ大丸太千弐百本積上せ候舟事、鏡善右衛門ニ談合可仕事

一、五月十三日ニ、御馬船出させ申候、御舟頭中村二郎右衛門と申者也、此御船ニ生酒樽十五つミ
   上せ候事

     ■五月十四日 当番小篠次太夫

一、伊賀殿米拾分一ニ乄、五百拾八石八升八合三夕九才七毛

  入江勘三郎・元田長兵衛・鏡善右衛門・御仙(ママ)頭吟味候へ共、御国山ニ無生事
一、八十丁ノ御船こなおし、同ともかわらノこつき楠ノ木、大小板弐枚ノ事

  中川佐左衛門・近藤長四郎・河喜多九大夫ニ申渡候事
一、元和七・八年分、御国中ニ而米銀惣入目之目録、被仕立候様ニと可申渡候事

  矢野兵蔵ニ申渡事
一、上田忠蔵替之奉行事

  早川十郎兵衛ニ申渡候事
一、町市丞相奉行ノ事

  走候女ニ候ハゝ、先寿斎へ一度被差返、其上、(規矩郡)大積村へ被帰候様ニ、被仰候へと、(沼田)勘解由殿へ書状遣候事
一、大積村百姓と、樹下寿斎と出入有之女ノ事

  御金山にて売候へと、井上清兵衛ニ申渡候事
一、御金山ニ而、無札ニきり候薪留置候事

一、御薪船、今日出ル御船頭吉田市左衛門也、御薪三百束、ぬか十石、生酒樽三十五、其外御台所
   道具万つミ上せ候

  
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松平忠直と越後騒動

2010-06-24 11:22:16 | 歴史
 昨日のブログ「細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(7)」で、越前宰相の書状が細川家に届けられた事を書いた。松平忠直が豊後に配流となって到着した日のことである。萩原という場所であったとされるが、後に津守に移居するが共に細川家の肥後入国後細川領となる鶴崎は目と鼻の先である。昨日もコメントしたが書状の内容は承知していない。

 忠直は豊後に於いて幾人かの子をなしている。二人の男子、永見市正長良・同大蔵長頼は忠直の嫡子光長の家臣となった(2,000石)娘は光長の重臣・小栗美作正矩の妻となった。
(忠直については東大史料編纂所のデータベース「松平忠直・忠昌家譜」に詳しい)
(豊後に於いての様子  www.e-obs.com/heo/heodata/n689.htm
               homepage1.nifty.com/saizou/tadanao4b.htm )
これらの人たちが後の「越後騒動」に関係する事となる。

 「越後騒動」事件は、越後国高田藩で起こった御家騒動。 藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対するお為方(永見大蔵ら)を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった事件である。(ja.wikipedia.org/wiki/越後騒動) 
                            改易 
 徳川家康---結城秀康---松平忠直---+--光長================三河守綱国
                         |                    ↑
                         +--永見市正長良---万徳丸(三河守綱国)
                         |
                         +--永見大蔵長頼 流罪・八丈島(死去)
                         |
                         +---●勘
                             ∥  死罪    死罪
    大六重国---重勝---吉六正重---+--美作守正矩---大六長治
                         |
                         |  流罪・八丈島(死去)
                         +--兵庫---+--● 男子三名・松平陸奥守御預(二名死去)
                                 |
                                 +--○ 姉(のち京都在住)
                                 |
                                 +--岡之助(当時八歳)
                                 |
                                 +--八之助(当時六歳)元禄七年五月病死
                                 |
                                 +--六十郎(当時四歳)・・・・→小栗半十郎家
                                 |
                                 +--小三郎(当時二歳)正徳三年四月病死

この事件に連座した美作弟・小栗兵庫(家老職1,000石)の幼い子供四人が細川家に預けられ(延宝九年-1681-七月)、四十年の長きに渉り熊本城内竹の丸の囲い屋に止め置かれた。享保五年(1720-吉宗代)九月に開放され後、細川家家臣として召し出された。長男岡之助、三男六十郎は四十年振りに囲い屋を出るが、二男・四男は囲い屋をでることなく亡くなっている。何とも気が重くなる事件ではある。

 六十郎は後に改名、九十郎を名乗る【小栗半十郎家】の初代である。
岡之助についてのその後の消息は分からない。       (一部古いブログから再掲)

  参考:CiNii「越後騒動覚書 騒動記を中心に」 ci.nii.ac.jp/naid/110004627734  

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