津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

友成津内

2010-06-23 11:20:02 | 歴史
 ヤフー・オークションに細川重賢の知行宛行状が出品されている。「友成津内」宛てである。
御軸に仕立てられており、箱付きという立派なもの。我が家に残る唯一の宛行状も重賢公のものだが、花押から見て本物である事は間違いない。
友成家は、吉兵衛--市左衛門--津内とつづき明治に至っているが、この宛行状は三代津内のものであろう。只今3,000円・・・友成さん御覧になっていませんか !!

                       肥後國於飽託益城二郡之内
                       百石如先規充行之訖全可
                       領地之状如件

                        寛延元年五月朔日 重賢(花押)

                               友成津内殿
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ドナルドキーンの・・・

2010-06-23 11:11:53 | 書籍・読書
       小御所会議で土佐の山内容堂は「幼沖の天子を擁し奉り・・・」と発言、岩倉がこれにかみついた。曰く「大不敬」だと。
         私は大河ドラマ「龍馬伝」で近藤正臣氏がこのあたりをどう演技するか大変興味を持っているのだが、或方から「小御所
         会議は龍馬死後のことだから」とのご指摘をうけ、放映はありえないかと残念に思っている。一方明治天皇について私は
         何にも知らない。ちょっと読んでみようと思って注文した。



明治天皇を語る (新潮新書)
ドナルド キーン
新潮社

このアイテムの詳細を見る


【本の内容】
前線兵士の苦労を想い、率先して質素な生活に甘んじる。ストイックなまでに贅沢を戒めるその一方で、実は大のダイヤモンド好き。はたまた大酒飲みで風呂嫌い—。かつて極東の小国に過ぎなかった日本を、欧米列強に並び立つ近代国家へと導いた偉大なる指導者の実像とは?日本文化研究の第一人者が、大帝の素顔を縦横無尽に語り尽くす。

【目次】
第1章 一万ページの公式記録(完璧な資料『明治天皇紀』外国人が見た明治天皇 ほか)
第2章 時代の変革者(十六歳で突然の即位 理想の花嫁候補 ほか)
第3章 己を捨てる(明治天皇の義務感前線兵士を想う ほか)
第4章 卓越した側近に支えられて(贅沢嫌いのダイヤモンド好き 天皇を取り巻く女性たち ほか)
第5章 天皇という存在(無関心だった自身の健康 惜しまれた崩御 ほか)

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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(6)

2010-06-22 16:05:04 | 歴史
     ■五月十日 当番仁保太兵衛

  御年寄へ差紙を以、申遣候事
一、樹下清十郎役儀之事 1

  九郎右内小田少右衛門を召寄、目録相渡候事
一、平野九郎右衛門へ、御加増知ノ目録相渡候事 2

  遣切手二日分遣也
一、野田小左衛門所へ之状ヲ持せ、中津へ遣候飛脚、今朝返事持参候 3

一、長崎へ御かい物奉行、今朝昼ノ塩ニ出船候事 4
  
  度々ノ御惣談ニも不相成候、菟角御下向之上、達御耳儀ニ相究候間、不成と申、書物返し申候
一、長浜之者共、柳村より廻り候かや舟損候、取上候ニ付、出入之儀、銀壱枚之過怠ニてゆるし被下候
   様ニと、書物上られ候事 5

  山田彦右衛門・吉村甚右衛門へさしかミ遣候事、御掃除之者ニ持せ遣候也
一、大学殿(沢村吉重)より、三官今日より金吹候ニ、かきはいの儀申来事 6

一、当町ニて、似横目ノ似仕候者、今日誅伐仕候、御大脇差大道打、一ノ筒ヲためし申候、あばら弐枚
   かゝり申候 7

2、九郎右衛門・長之--父(甚左衛門・長景)と共に大阪に籠城し、後洛外に居住、元和八年豊前召寄せられ、知行五百石組外に差し
  置き。忠利代元和八年八月、三百石加増、小姓頭。其の後大目付。寛永元年八月、百五十石加増・都合千石。
  島原乱の時光尚に近侍、武功吟味役。

6、沢村大学吉重--もと若狭國小濱邊見昌經家臣。邊見没落後、天正十年八月忠興に仕え千五百石。豊前入国後千五百石加増。
  都合三千石。寛永二年二月暇。同三年九月歸参、百人扶持。肥後入国時三千石を知行。慶安三年九月十七日歿。年九七。
  三官については「大日本近世史料-細川家史料」の人物索引によると「明國人。歯科の治療に功なり」とある。

7、頭注には「横目ヲ騙リシ者ヲ試斬」とある。誅伐された者を大脇差「大道」で「筒きり(胴斬)」にしたが、あばら骨に懸った(不成功?)
  と云うのである。この刀は再度砥ぎに出され、寺尾佐助が再挑戦することになる。
気持ちの良い話しではない。


     ■五月十一日 当番小篠次太夫

一、かわらノ弥兵衛、あかゆ玉可仕上之由、江戸へ大学殿・利斎より被得 御意候ヘハ、可仕上之由、
   被 仰出候との 御書、御城へ持参被仕、弥兵衛ニ御米借シ候へと被申候事 8

  入江仁兵衛・木村九郎兵衛・財津惣左衛門・上田忠左衛門方へ、被知行被引渡候へと、折帋遣候事
一、平野九郎右衛門尉方御加増分ノ知行諸へ、九郎右衛門内小田少右衛門入ア仕候事 9

一、中津かきせ口新開、凡五、六段程も在之由候、検地ノ御奉行出シ可申候 10

一、卯月十八日之御書、神戸喜平次与ノ者持参候也 11

一、北ノ御丸ノ御小風呂御苻切申候也 12

8、「かわら」とは地名、「香春」のことである。地元の人でしか読めないかも・・・
9、「2」に関連する記事、九郎右衛門の家来が知行地に入った事が判る。
10、「かきせ」は「蛎瀬」、中津市役所の北東部で周防灘に程近い地域。この時代から干拓が行われていた事が判る。「五・六段」の
  「段」は「反」のこと、5,000~6,000㎡といった広さである。
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加藤正方の遺品--2

2010-06-22 09:02:03 | 歴史
 八代市立博物館「未来の森ミュージアム」のサイトが新しくなり、夏季特別展「華麗なる西山宗因」の情報がUPされた。(6/19のことらしい)

   未来の森ミュージアム www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum
   西日本新聞 www.nishinippon.co.jp/nnp/item/178923

 ここに先にご紹介した加藤清正が八代城代・加藤正方に贈った陣羽織が紹介されている。
また素晴らしい筆跡の辞世も紹介されている。

 西山宗因はかっては正方に仕えた。正方が亡くなったおり、形見分けのリストに宗因の名前も記されている。

   加藤正方 ja.wikipedia.org/wiki/Search?search=加藤正方
   西山宗因 ja.wikipedia.org/wiki/西山宗因

 7月16日の開催が待ち遠しいが、さぞ賑う事だろう。
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57年前の悪夢

2010-06-21 23:15:12 | 徒然
 今日は夏至「陽熱至極し又、日の長きのいたりなるを以て也」というが、梅雨の真っ只中で「陽熱至極」には程遠い。今年の梅雨入りは一週間ほど遅れて、熊本市内はしとしと雨がここ三四日続き、今週は日のめを見ることも無さそうだ。6月26日は昭和28年に大水害を経験した日だが、小学校六年生だった私は命を拾った日でもある。学友20数名が濁流に呑込まれて死んだ。26日は何とか晴れてほしい。雨が降ると又夢を見そうな気がする。
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お藤さまの婿殿

2010-06-21 20:57:21 | 歴史
 綿考輯録を読むと、さかんに藤姫の消息が出てくる。保寿院の子供ではないが、忠利が愛していた事が伺える。廿歳で嫁いだ相手は奥平松平家の松平忠弘、当時山形藩十五万石の当主、父忠明の生母は家康女・亀姫、故をもって家康の養子と成った。

             細川忠利---+--光尚
                     |
                     +--藤
                        ∥
        +===========忠明---忠弘(山形藩主・十五万石)・・・伊勢桑名・・・武蔵忍
        |          ↑
徳川家康---+---亀姫    |
             ∥----忠明
          奥平信昌
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(5)

2010-06-21 11:33:59 | 歴史
     ■五月九日 当番浅山清右衛門尉

  又、取かへし、喜兵衛ニ相続也、十日ニ町ニテ、似横目仕候者ヲ誅伐仕候ヲ、ためし申候、一筒アラハ弐枚程かゝり申候
一、大道打之御大脇指、寺尾左介方へ渡ス也

  源右衛門・與兵衛ニ申渡候、即、御材木相渡候本切手見届、写を仕、中津へ遣申候
一、中津より、三輪源右衛門尉・森與兵衛手前之儀・釘本半左衛門女之出入之儀申来候事

一、釘本半左衛門知行所女之出入之儀、御郡代へ申候処ニ、中津御奉行衆より被仰越分■■之出入
   ニテ候由候、半左衛門上方より被申候迄、相待候て、様子承届、中津へ其節具ニ返書可申筈之事 

  (林)弥五左衛門・(河田)八右衛門ニ相尋候へハ、手伝入申間敷と、見及候由ニ候也
一、大槻久次手前手伝事

  加主馬(加々山可政)所へ、急度得御諚被申越候へと、門司ニ舟懸り候ニ、鯛瀬三郎太郎者ニ申遣候
一、中津奉行へ、拾弐貫目銀ノかり請取、返シ申事

  市左衛門ニ申渡候
一、御荒仕子弐人、田川郡より十日ニ、小倉へ罷越可申候、便舟次第江戸へ遣可申候事
  御荒仕子一人
  御荒仕一人牧市左衛門ニ申渡、明日より遣事
                ・荒木二郎八
一、明石権右衛門澤田吉右衛門・米田甚右衛門・余田左大夫人即事

  千手新左衛門・塩木又丞
一、岩石山より大橋の御材木、中嶋ノ橋ノ御材木出ス御奉行事

  和田伝兵衛方へ申遣事
一、白土之御奉行、手前ニ有之斤両之目をもり候事

  切紙遣候事
一、北ノ御丸路地之御掃地、明日より仕候ニ付、少介方へ差紙遣申候事

  過怠銀四十三匁、奥左衛門持参候而、藤崎言斎・竹村弥右衛門方へ被相渡候事
一、人もとしの御使ニ、豊後へ荒木助左衛門被参候時、国東郡内今市村久作案内者ニ被参、せうこ人
   ニ参候而、不埒明内ニ、罷帰候ニ付、過怠之事

   
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(4)

2010-06-20 09:53:09 | 歴史
     ■五月六日 当番浅山清右衛門尉 1

  善右衛門ニ申渡、三艘八日ニ上せ申候也
一、大坂ニて、御城通之御小舟差上せ候事 2

  式ア殿(松井興長)内辻少左衛門ニ相渡候也
一、山田喜斎へ被遣知行物成目録、可相渡事 3

  五月十五日之覚書ニ在之
一、八拾丁立之御舟、かわりノ内小なおしの事、(樋口)淡路所より申来候事 4

  ゐ兵衛(田中氏久)・小左衛門(野田幸長)判形ノ目録見届、残ノ米五拾七石余ノ内
一、樹下清十郎ニ、知行之目録可相渡事 5

  おいまはしノ様子、平太夫・佐二右衛門ニ申渡ス
一、両所之おいまわしのどて、ろくニきりたて申ニ付、土手ぎわへ馬そい候へハ、鐙当申候間、不当様ニ
   可申付旨、 御意之由、(横田)権左衛門■奉りニて候事 6

  御中間弐人相添、馬可差上候、則、申付候也
一、朝山市内馬、上り申ニ付、中間ノ事 7

  寺尾左助与小方甚左衛門、御昇衆弐人申付候事
一、長崎へ之御買物奉行衆ニ相添、遣候物書申御鉄炮衆壱人・御昇衆弐人可申付候事 8

  (住江)甚兵衛留守之間ハ、当時/\ノ宿奉行迄ニ而、可然との談合ニ相究也
一、御客人賄奉行之事 9

  御年寄衆へ御相談仕、則清兵衛(宗像景延)・(小野)九右衛門尉方へ被相渡候へと、各より差紙遣候也
一、今度被罷上候衆造佐銀之事 10

  竹屋喜兵衛ニ相渡也、成田奥平次・小林三之介之相渡也
一、大道打替、上ケ申候御越物、御大脇差・大小弐腰請取置候事 11

  黒右衛門ニ申渡、御舟ノ儀、(鏡)善右衛門ニ申渡事
一、林理右衛門ニ、御鉄炮衆弐人相添、上せ申付、御舟事 12

  八日ニかわりを上候時、申上せ候事
一、大坂へ、月役のね板ノ儀申上せ候事 13

  続亀介与(ママ)
一、伊賀守殿(三淵好重)貸付米之儀ニ付、野田小左衛門所へ之書状持せ遣候事 14

1、始め清右衛門修理亮、豊前に於二百石、寛永四年正月忠利の命によって修理亮と改。
  忠利・光尚に仕。元和九年奉行職、同二十年三月五百石加増、都合弐千五百石知行。延宝二年十一月二十三日 御暇被遣候

2、境善右衛門--御船頭頭


     ■五月七日 当番仁保太兵衛

  弓削茂右衛門尉・大石長右衛門ニ申付候也
一、九端帆ノ御船かこいとき申御奉行ノ事 15

  五月八日ニ差上せ也
一、味噌上せ候事、内、樽五つニ壱石入 16

  同日ニ差上せ候也
一、醤油上せ候事、内、樽五つニ九斗六升一合入 17

  五月十三日ノ覚書ニ在之也
一、生酒樽上せ候事 18

一、ひきわり大麦上せ候事 19

  手痛候通見届候間、一日ニ釘五合宛、けつり候へと申付候也
一、山路又兵衛役之事 20

  黒瀬九郎右衛門ニ申付候也
一、味噌・醤油詰御横目之事 21


     ■五月八日 当番小篠次太夫

一、伊賀(殿)米之儀ニ付、中津へ一昨日遣候飛脚、今朝辰ノ刻ニ罷帰候、又、飛脚ニ書状遣候事 22

  来ル廿日迄、飼料爰元ニ而相渡候間、廿一日よりノ分被相渡候へと、大坂御蔵本衆へ切手遣候事、但、大豆二升つゝ分也
一、朝山市内馬飼料事 23

  弐十五枚弐丸ニメ、御舟頭吉田里兵衛ニ相渡、差上候也
一、鹿皮上せ候事 24

一、筑前より走来候又左衛門、下香春新町ニ有之由候て、請人書物問四郎左持参候事 25

一、中野権佐所へ被遣候 御書、伊藤金内方へ渡候事 26

  加主馬(加々山可政)へ言伝、利斎書状を切手ニ被相副、被差上候事
一、御なへ様・御かね様端午之御帷子、矢(野)利斎・言斎(藤崎正義)切手上候事 27

一、今日晩塩(潮)ニ 藤十郎殿(山名宗由)・藤懸蔵人・内蔵丞(谷衛長)・与吉・主馬(加々山可政)・
   半丞・甚兵衛・(乃美)新四郎・覚兵衛・三郎太郎 以上住人、今日出船也 28


25、この時期の「走り百姓」については、中公新書・宮崎克則著「逃げる百姓、追う大名」に詳しい。細川藩に係わる記事が多く見られる。

  

  
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細川家家臣・白井氏

2010-06-19 11:50:42 | 歴史
白井家初代・太左衛門尉は薩摩島津家々老喜入摂津守忠續の伯母聟。忠續より依頼あり長岡佐渡取次にて寛永十年忠利に召出され、知行三百石、小性組。正保元年三月二日、江戸にて乱心者のため深手を負い、程なく歿した。
「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」によると転切支丹だとされ、「寛永十三年七月十三日 法華宗に罷成り・・」との記述がある。又上妻博之先生の「肥後藩の切支丹史」には「私家来轉切支丹白井太左衛門系」とする系図が紹介されている。

喜入(島津)忠續とは鹿籠(現・鹿児島枕崎)の領主。季久四男として元亀二年生る。初名忠政。又長重。攝津守。元和頃より國家老。正保二年三月十八日歿。年七五。

長岡佐渡とは松井興長のことであるが、喜入忠續との関係がいかなるものであったのか興味深い。

代々三百石をもって明治に至った。
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(3)

2010-06-19 11:22:49 | 歴史
     ■五月四日 当番仁保太兵衛 1

  来ル十日ニ、爰元へ罷出候様ニ申付候也
一、江戸へ参、御荒仕子三右衛門事 2

  林理右衛門ニ目録相渡シ、申付候事
一、井上宗和賄道具、不足分書立可申付事 3

  利斎・言斎へ相渡申也
一、御なへ様・御かね様端午之御帷、今日下着候事 4

  送切手持参候て、相渡候へと申候也
一、嶋田甚太夫預りの舟に、御寺之御材木積下り候事、并安田久兵衛預り之舟ニ、ふのり三石下着候事 5

一、加藤半右衛門尉手前御算用相済、返号帳持参候て被見せ、見届申候事 6

  則、返事仕候、御郡奉行、又勘解由殿(沼田延元)へも様子申渡候、使ハ酒井半右衛門と申仁ニ相渡ス也
一、中津奉行衆より、寿斎下女之儀ニ付、状参候事 7

  遣切手遣候
一、伊賀殿(三淵好重)米之ふれ状持せ遣、御鉄炮衆芦田與兵衛組末岡次右衛門尉、ふれ状ニ判形
   相調、罷帰候事 8

一、国東郡留木(富木)村、谷助太夫知行ノ内ニ罷居候八十斗のうば在之ヲ、何者共不知、卯月五日之夜
   打ころし申候、色々せんさく吟味仕候へ共、仕てしれ不仕候由、御郡奉行(田中)與左衛門被申候事 9

1、仁保慰英。父は毛利家臣仁保右衛門大夫。幼より彦山座主忠宥の許にて養われ、元和二年廿七歳の時忠興に召出さる。中小性、二十
  石五人扶持。元和三年知行二百石、馬廻組。元和九年頃惣奉行。寛永初年には大坂米奉行・同屋敷奉行等を勤む。寛文元年隠居。

4、御なへ様は細川興秋女・南条元信室、御かね様は細川幸隆女・筑紫重門室、利斎は矢野利斎、言斎は藤崎作左衛門。
7、寿斎とは樹下左馬之助(入道寿斎)田辺城籠城衆であり青龍寺以来の家である。「於豊前小倉御侍帳」に「三斎様御付中津ニ相詰候衆 
  三百五十石」とある。



     ■五月五日 当番小篠次太夫

  少二郎ニ申渡、切手相調、翌日六日ニ、手間銀五拾め相渡候事
一、分清目薬箱ノぬりちん、可相済事 10

一、吉田吉左衛門出津候を、(井上)宗和奉行ニ付候と申て、御金山へ戻シ候事 11
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熊本・観光文化検定

2010-06-19 09:15:55 | 熊本
 熊本商工会議所が主催する「熊本・観光文化検定」は四年前から実施、すでに4,500余人が合格。
平成22年下期試験の要領が発表されている。

         www.kmt-cci.or.jp/authorization/kankoubunka.php
         www.mind-k.com/kentei/index.html

 いっちょうチャレンジしてみるかという思いもあるが・・・皆様如何 !!
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加藤正方の遺品

2010-06-18 19:54:06 | 歴史
 加藤時代の八代城主・加藤正方の遺品や史料134点が、広島在住のご子孫のお宅から発見され、八代市立博物館(未来の森ミュージアム)に寄贈されたという。メディアの報道によると、清正から贈られたという陣羽織は、黒地のフェルト製の素晴らしいもので、裾に蛇の目紋が配されたデザイン。その内の16点は7/16から開催される、「華麗なる西山宗因」展で初御目見えになる。
 
すばらしい・・・!! 今日の熊本日日新聞をどうぞ
             kumanichi.com
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(2)

2010-06-18 09:38:13 | 歴史
     ■五月二日 当番続兵左衛門 1 

  (粟野)伝介より御郡奉行衆へ、御炭奉行へ切手遣也
一、呼野へ遣たき炭之事 2

  まこも三荷、御荒仕子壱人ニからせ、桜田藤右衛門ニ相渡候へと、指帋遣也
一、御なへ様御賄ニ、節供ノ■ちまき・まこも事 3

  先、拾石御米被渡候へと、伝介へ差紙遣之也
一、松下松殿御賄米之事 4

  くわふろの儀、御買物奉行衆への差紙遣候也、かなつきのゑ、上野文左衛門ニ申付ル也
一、御金山へ遣、(井上)宗和手前ニ鍬のふろ・かなつきのゑの事 5

  奉行ニ甚右衛門与小頭村上久次・八左衛門与市丸與左衛門、両人申付候、礼之儀ハかぢ奉行田辺七兵衛・橋本孫左衛門両人ニ
   申渡候

一、御弓・御鉄炮衆七百拾三人、自分ニ代出シ、誘申なた・かま七百拾三丁之事、
   内弐百三十七丁ハかま也、四百七十六丁ハなた也 6

  御郡奉行衆へ触状を廻之事
一、伊賀殿(三渕好重)米かり候御百姓改ノ儀、中津より、野田小左衛門(幸長)被申越候事 7

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・但、借状ハ調次太 清右 太兵中津より帰を待也
一、松下松殿御賄米之事 4

1、「於豊前小倉御侍帳」には「江戸江相詰衆 藤 三百石」とある。肥後入国後、御中小姓・頭、御側物頭衆・御側筒三十丁(頭)等
  を勤めた。三百五十石。続亀介の男子である。

2、規矩郡呼野の金山で使用する炭の手配の指示である。粟野伝介については現況不明。
3、錩 又ハ 鍋とも。細川興秋の息女であり、南条元信(5,000石)室である。端午の節供の粽用の真菰の調達の指示である。
  桜田藤右衛門については「寛文四年六月・御侍帳」に「御台所衆 百石」とある。

4、人物の特定が出来ないでいるが、松下之網に係わる人物ではないかと推測している。ご存知の方があればご教示いただきたい。

     ■五月三日 当番加々山主馬(可政) 7

  かなつきしよゑん・与州くわ・つるのはし・ゆりはち・御荒仕子ニ持せ遣也
一、井上宗和へ渡、金ほり道具事 8

  やすめ可被申さしかミ、かゝみ善右衛門ニ遣
一、せつくニ御かこやすめ申事 9

  御馬やへ渡ル御あらしこの内、壱人遣候へと、仁兵衛ニ申渡ス
一、井上宗和ニ付而、届候御馬ノあらしこの事 10

一、御さん用聞衆替の事 11

  
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(1)

2010-06-17 20:59:04 | 歴史
  ■五月朔日 当番小篠次大夫
              1
  相済との書物請取也
一、田川郡荒発之御奉行、杉山藤兵衛与野坂茂太夫・西沢文右衛門尉与田中喜左衛門仕舞、罷帰候事
       2                  3                        3
  竹を此方より遣、壱人ニ一日ニ、こけらふきノくき壱升つゝあて、被上候へと、(林)弥五右衛門・(河田)八右衛門へ申渡、差帋遣候事
一、所〃御番衆隙有之分ニ、仕事あて候事             5
   4

1、この時期の記録は、小篠次大夫・続平左衛門・加々山主馬(可政)・仁保太兵衛・浅山清右衛門尉が持ち回りで行っている。
  小篠(おざさ)次太夫は転切支丹(慶長拾九年頃)として知られる。先祖附では嫡子・七左衛門を初代としている。
  明治に至り「神風の乱」に於いては四人兄弟が参加して自刃した。  
2、荒発之御奉行の「荒発」については現況不明である。「荒地の開発」の意であろうか。
3、奉行の野坂茂太夫・田中喜左衛門の名前は「侍帳」では確認できない。
4、御番の衆は隙の折に杮葺(こけら)用の竹釘を一升づつけづるようとの指示である。
  業務の詳細が伺えて面白い。
5、林弥五右衛門は林家の二代、五代・六代は郡奉行を勤めている。
  河田八右衛門は河田家初代「於豊前小倉御侍帳」には「歩小姓百石」とある。


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「福岡県史」再読へ

2010-06-17 17:47:45 | 徒然
 「正保四年のポルトガル船の長崎来航」に係わる読み下しや、関係資料の読み込みも一段落してさて何をしようかと思案している。「利休百回記」を読んだり、さきにオークションで落札した「「史籍集覧・細川忠興軍功記」を眺めたりして一段落の時間をすごした。
ちょっと時代を遡って勉強しようと考えて、「福岡県史・近世史料編--細川小倉藩」をじっくり読み返そうと思っている。ご承知のように三巻からなってるが、一番古い記録は元和九年(1619)五月朔日からの「御用覚書帳」からである。細川家の豊前入国は慶長五年の末であるから、十三年余しか経過していない。これが何故か三巻に収録されているのでここから読み始めようと思っている。宮崎克明氏の「逃げる百姓・追う大名」も時代的にそう違わないし、この本等も読み合わせていこうと思う。一日一ページも進まないかもしれないが・・・
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