津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

あゝ屏山先生

2010-06-26 12:09:29 | 歴史
 水足半助安直という人がある。「肥後人名辞書」は次の様に紹介する。

 水足屏山 名は安直、字は仲敬、半助と称し屏山と号す。昧斎漁軒、成章堂等の別号あり。
        浅見絅斎に学び經義文辞皆顕はる。藩の文学となり禄百石を受く。弟子殆ど千 
        人、著書百余巻、家難によりて歿し、家禄を除かる。時に享保十七年四月九日、
        享年六十二。飽託郡池上村谷小崎に葬りしが、後年菊池郡黒石本宗に改葬す。

 水足氏は山城国水垂(ミズタリ)村の人で、大阪川船頭であった初代五郎右衛門が忠利に仕えたことに始まる。五郎右衛門の子、兵九郎・吉兵衛と兵九郎の子五助の二流三家が明治に至っている。

 さて、屏山は吉兵衛の二男(三代・庄三郎弟)とされるが、「肥後人名辞書」はその死を「家難によりて」と記している。その詳細については「續肥後先哲偉蹟-巻二」に次ぎのように記す。

 享保十七年四月九日、屏山妻前原氏、近隣の笠井源右衛門と密通せしことを聞きて、博泉(嫡子)と
共に、笠井を打果に行きて、笠井が設けし機に陥て、父子共に手負へり、同村居住の長谷川忠右衛門、
吉田善右衛門、同嫡子平九郎三人馳付、笠井を討捨たり、屏山は其日歿せり、博泉は治療平癒の後、
暇を賜はりて家亡ひたり


 なんとも悲惨な話しではある。博泉も父・屏山に劣らぬ優秀な人物であったが、母の過ちによってあたら人生を棒に振ってしまった。

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細川家家臣・妻木氏

2010-06-26 11:26:50 | 歴史
 細川家家臣妻木氏といえば、ガラシャ夫人の生母・妻木氏の一族と考えるのが妥当な処であろう。                    ja.wikipedia.org/wiki/妻木煕子
しかしながらその繋がりは確認できない。

 初代勘左衛門は細川光尚代寛永二十年江戸で召し出されている。先祖附は「長門国岩永の者にて」と記しているが、土岐一族妻木氏が何故長門にいたのか謎ではある。三百石という馬乗格であり妻木氏という由緒によるものであろう。

 春日局の末子で徳川忠長(家光弟)の家臣であった稲葉正利は、家臣として連座の罪に問われる。忠長の高崎配流-自害の後、寛永十一年正利は肥後細川家預かりとなり、赦される事無く熊本で歿した。春日局にとって唯一の痛恨事であったろうし、暗に自害を薦めたという話が有る。
承應二年妻木勘右衛門はこの正利御附と成っている。共に明智につながる人間としての配慮があったのだろうか。

 明智左馬助の家系である三宅家と、菩提寺(海福山泰陽寺)が同じであるのも何か因縁めいている。
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