津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 2

2010-06-09 08:10:24 | 歴史
敵舟是を見て無調法ニテ渡海誤り申候、向後全参る間敷候、無事ニ帰帆被仰付被下候様ニと御詫言すれは上意の下る迄奉待へしと也、扨も此三階櫓と申ハ忠利公御在世の御時、異国口なれハ自然軍御用之事も有と思召、合紋尽しにして河尻御茶屋・御舟蔵のつしに上させ被召置つ、是のミならすろを壱万丁矢野吉之允と申御船頭被仰付作らせ、是も右之所々ニ上ケ置せ給ふ、嶋原・天草両嶋の土民一揆蜂起の砌御国荷船ハ不及申、旅より商売船来るを被留置、水夫・加子ニ件の櫓早舟同前にして御用ニ立られ候、又此度も御用ニ立られし名将の被成置し事共、割符を合様ニ御用ニ立候キ、妙ならすや、聖ならすやと奉感、且又がりあん御詫言相叶、後年二度不参候様ニ、若万一参候ハゝ、即刻刑伐可被仰付旨ニ而、かりあん運を全して帰帆仕る、事発して右之諸具岡又兵衛請取へし渡へしと下知給ふ、又兵衛熊本より仕出し候根目録に引合請取るへしと云、作之允左様のわけ不存、切折たるも有、潮ニひかれて流レたるも有とかや、手形らしき物もなけれバ不存と云、夫ニてハ何を証拠ニ請取へしや、請取らすと云、然らは窺とて相窺、監物殿一陳の御用ニ立候得は、皆古物也、有の儘ニ作之允渡し次第ニ請取へしとの儀にて、右往左往ニ舟ニ取積、河尻へ相届る、請取しよつ沓ニては中々船橋も即時ニハ出来せましと、定而そこをかんかミてこそ存不寄、渡辺ニ御申付候哉、兎角大将ハ人をしる耳と古来申伝候、妙ならすや、於江戸も光尚公御威光かゝやきけると也、其初秋光尚公江戸より下国被成ける翌春、西国諸将参府し給ふ、何も召候て於殿中井伊掃部頭様を以、去秋長崎へ異国船入津仕候刻、早速人数を差出、御喜悦被遊て候、因茲彼地逗留中之兵粮被下之旨被仰渡候、御老人と申御先官ニ付而鍋嶋信濃守様有難奉存候、御前可然様ニ奉頼候由御受被仰上何も御平臥、光尚公御年若被成御座けるか、彼地ニ而人数ニ骨をおらせ申上ニ而、右之上意ニ御座候ハゝ至極有難可奉存候ニ、渡海仕たる迄の儀ニ御座候処、右之上意御受に答(当カ)惑仕候、兎角御前可然様ニ奉頼候由、そこにて掃部頭様肥後守殿御請之趣御尤ニ候、可達上聞之旨也、達上聞御気色の御由也、於殿中是沙汰殊之外何も感し給ふと也と云々 (了)
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