津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

江戸図屏風の謎をとく

2010-06-25 18:38:21 | 書籍・読書
                        本日が発売日です・・・

江戸図屏風の謎を解く (角川選書)
黒田 日出男
角川学芸出版

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 この著書に紹介されている「江戸天下祭図屏風」紀州徳川家が描かれているらしい。
水野勝之氏(福山・結城水野家当主)・福田正秀氏(熊本在住歴史家)共著による「加藤清正『妻子』の研究」の刊行以来、紀州徳川家-水野家-肥後加藤家の新たな真実や関係がよく知られる処となり、研究者の評価を得て新たな研究の糧となっている。絵画研究の第一人者であるという著者もまた、この著書を参考にされているという。そしてこの屏風絵には、徳川頼宣や瑤林院(清正女)の姿が書き込まれている事を明らかにされた。それがどういうものなのか興味津々である。
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細川家家臣・渡辺(市門)氏

2010-06-25 15:09:22 | 歴史
 武左衛門を初代とする渡辺家は遠祖を栗山三郎左衛門としている。
栗山氏は播磨赤松氏の一統とされ、三郎左衛門の名も古い史料に登場しているようだ。
筑前黒田家の「黒田騒動」で有名な栗山大膳もその流れだとされる。

 細川家で馬乗り格の召出しにあたっては、その出自・由緒が大事だとされるが、渡辺家もこのような関係によるものだと察せられる。初代武左衛門は「御側物頭衆・御小人頭」等を勤め300石、代々家禄を減ずることなく明治に至っている。

   【武家家伝-栗山氏】 www2.harimaya.com/sengoku/html/kuriyama.html
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細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(9)

2010-06-25 13:17:05 | 歴史
     ■五月十六日 当番仁保太兵衛

  三月十三日ニ、加子四人乗せ候へと、差紙遣候へ共、四人二て不相成候て、時々加子数かわり候理ニて候、吟味仕候へ共、
   不苦儀ニ究候故、三月十三日よりさしかミニメ、加子数時々ニ吟味次第、被相渡候へと、さしかミ書直し候て、遣候也

一、田川郡ヨリ、川舟ニて廻り候御米、水上之事 1

  則、御なへ殿へ上ケ申候、使藤右衛門也
一、(規矩郡)城尾村の麦畠ニ、雉子壱つ死候てい申候とて、平井五郎兵衛持参候 2

  其段、御年寄衆へ可申候、■■此返事仕候也
一、勘解由殿(沼田延元)より、坂井半右衛門を御使ニて、寿斎へ戻ル女之事、頓而、寿斎より大積
   村へ可戻との書物を取、請人不被立候ハゝ、彼女寿斎へ御戻シ有間敷由、被仰候事 3

  さしかミ調、遣候事
一、御なへ様御台所ニ入申なへ三つ、いさせ候て、上ケ申候、此ね段之さしかミの事、寸尺ヲ書付
   くれ候へと申ニ付、四月八日之さしかミヲ書直シ、吟味之上ニて、相渡候 4

一、とうゆ之御鉄炮袋ニはく置候事 5

  則、十兵衛召寄、申渡候也、右馬助殿へも状ニて申入候
一、元和七年之塩御算用、大藪小左衛門手前之儀、せかれ十兵衛ニ可申付事 6

  小頭ニ申付候事、早田吉右衛門と申者ニ申付候由也
一、江戸へ参御飛脚之事 7

一、寺尾左助(勝永)所より、大道打之御脇差筒ヲためし、あはら弐枚かゝり申候ヲ、今一度ためし
   可申候やと被申、持せ被上候 8  

 (2)及び(4)は共に細川興秋女・なべに関する記事である。
 (2)は、城尾村の麦畠から、死んだ雉子一つが届けられたので、なべの元へ持たせたというものである。
 (4)はなべの元へ、新しく鋳た鍋の値段の問い合わせに対してである。思わず笑ってしまった一文。

 (8)九日に大脇差「大道」を預かり十日に誅伐された者を試斬りした寺尾左助、納得がいかなかったのか再度試したいとこの刀を
   借り出している。この人は宮本武蔵の二天一流の継承者・寺尾藤兵衛(求馬助信介)らの父親である。
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