津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家旧臣・三池式部少輔・小代下総守

2008-03-23 18:32:55 | 歴史
三池式部少輔・親家(左馬之丞)  
     加藤清正臣・二千四十八石(加藤家侍帳・時習館本)
     布治丸・作十郎、式部少輔・左馬允 
     加藤清正ニ仕エ後細川氏家臣 法名道安(新撰事蹟通考他)
小代下総守・親泰  
     加藤家侍帳・四千百三十五石五斗三升
     人持衆併組迯衆 百五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)

かっては敵味方の仲であった両氏だが、共に清正旗下に組み込まれ、加藤家没落後は細川家臣となった。

 寛永十五年の「覚」によると三池左馬丞は同年四月五日に病死している。跡目相続に関する「覚」であるが、(嫡子)廿五歳の左兵衛、二男廿歳の善大夫、三男でまだ四歳の亀松それに母親と妻が残された。ところが「右右馬允ハいまた御扶持方をも不被下候」とあり、相続すべき扶持がないまま亡くなっていることが分かる。七年後の正保二年「御扶持方御切米御帳」によると、御合力方として「五十人扶持・三池左兵衛」「五十人扶持・三池善大夫」と記載されている。左兵衛・善大夫は「覚」にある、嫡子・二男である。「真源院様御代御侍名附」に「善大夫・親次 人持衆并組外衆 五十人扶持」とあり先の記録と一致する。

又、「百五十人扶持・小代下総」の記載もある。これも「真源院様御代御侍名附」の記録と一致している。「真源院様御代御侍名附」の成立は寛永二十一年と考えられているそうだから、両家の召出は寛永十五年から二十一年の間である事が分かる。
尚、この「御扶持方御切米御帳」に宮本武蔵の名前が登場し、「七人扶持十八石」を頂戴したことが分かる。

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地図を歩く・・手取本町界隈

2008-03-23 16:18:38 | 歴史
 熊本市役所前の道路向こう(西)には坪井川が流れており、熊本城内に向かう道に架かるのが厩橋、熊本市役所の場所には藩政時代大規模な厩があった。市役所の東側は、幕末家老職を務めた有吉市左衛門の屋敷跡、その裏側は35年程前火災で104人の死者を出した太洋デパートが有った場所(現ダイエー)、繁華街下通に面している。市役所の道を挟んだ東側には九州郵政局、此処は知行1,000石番頭を務めた松山権兵衛屋敷、その右隣は番頭から中老となった3,000石尾藤金左衛門の屋敷、その隣は小姓頭から用人となった鎌田軍之助1,000石の屋敷跡である。その一角は先に売買があって、地価坪700万円だったという話しを聞いた。郵政局庁舎の建築は昭和34・5年だと思うが、その前は第一高等学校があった。校地は三つの敷地が合わさってたものより広かったように思う。(現在は城内古城)東の隅に大きな楠木があったが、今はホテルキャッスルの裏通りにその姿をみることが出来る。長さ100メートルにもみたない通りだが、オークス(大楠)通りと洒落た名前がつけられている。
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桜開花 & 知事選挙

2008-03-23 09:25:51 | 熊本
 自衛隊の正門前道路は桜の名所である。軍隊と桜は昔からセットものだが、意識して植樹されたものなのだろうか。1キロほどの距離に植えられた桜は、まだ蕾がかたく開花したとは思えない。まだ夜風も寒いが、その内に酔狂者がござを敷いて鍋パーティーなどを始める事だろう。熊本城内などはどうなのだろうか・・・いよいよ御殿大広間が完成し、又永青文庫の常設展示などが始まる。嬉しい本格的春の到来である。

 今日の熊本は雨模様、そんな中で知事選が行われる。女性知事による不毛の県政があって優劣つけ難い五人の立候補者が乱立した。東大教授にして国際学者K氏、高級官僚出身にして弁護士のK氏、元衆議院議員のI氏、元衆議院議員にして元某村村長Y氏・元熊本県環境部長K氏etcである。熊本も「どぎゃんかせんといかん」状態である。どのような審判が下されるのか・・・さて雨の中だが、そろそろ投票に出かけるとするか。投票所の小学校の桜は咲いているだろうか・・・。
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段山(だにやま)界隈

2008-03-22 17:46:00 | 熊本
 熊本城域の西側のはずれの、護国神社や県営野球場があるあたりを藤崎台という。かっては藤崎八旙宮が有った。古い地図を見るとそれから更に段山(だにやま)という丘陵地らしいものがみられ、祓川(現在の井芹川)が山すそを流れている。あいだに小さな道が見受けられ、これが道幅を広げて新町から上熊本へ抜ける幹線になっている。段山は削り取られたのであろうJRが走り、これをまたぐようにトンネルで藤崎台に上った道は、高架橋となって島崎の方へ抜けていた。これが新幹線の工事で又とり崩され様としている。時代の趨勢に翻弄されて、幾度となく様変わりを見せている。JRで遮断されていた島崎地区は、新幹線・在来線とも高架を走る為、ようやくそれらの誓約を受けずに往来が出きるようになる。全国の有名酒造メーカーに酵母を供給している、「酒造研究所」なども隣接しているがどうなるのだろうか。(銘酒・香露の醸造元でもある)。西南の役の激戦地でもある。名前の由来がわからないという槙嶋坂などという坂があって、熊本城へ行くには近道となる坂であるが、市民はほとんどご存知なかろう。槙嶋坂の名前の由来は、槙嶋家の屋敷が近くに有ったのではないかと推測しているが、確たる証拠がない。少し南に下ると、蔚山(うるさん)町という、加藤清正が連れ帰った朝鮮の人達の住まいしたと言う町筋が残っている。地図を片手に散策すると、数百年前にタイムスリップする。
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・・・ではないか? 我が家のこと

2008-03-22 11:51:23 | 歴史
 細川忠興は忠利に家督を譲り、三万七千石の無役の隠居領をもって中津城に移る。「三齋様御附中津ニ相詰候衆」は忠興入魂の者で、隠居前の豊前細川家を動かしてきた人達であるが、隠居後は中津衆として「三齋家政」的立場となる。身分はあくまでも豊前細川藩の家臣(其方之者)であるが、「御前損」をした家臣は三齋により御暇を出されるとその身分を失っている。藩主忠利に対して新たな召出を願い出る事になる。

 これとは別に、三齋が自ら扶持を与えた者があることが推察されている。しかしながらこれらの人の名前は表に出てこない。いわゆる「陪臣」であろう。
我が家の先祖は、「豊前より江戸上下被遊候時分」の三齋に召し出されている。しかし病がちで再三「本国周防」への帰国を願い出ているが、「御見捨被成者ニ而無之候」ゆえ、この地で養生するようとの沙汰を受けている。細川家の肥後入国に際しても同様の事を願い出たが、「当地へ連参候様御意」にて八代入りしている。そして明暦元年八代で亡くなっている。「八代分領侍帳」にも名前が出てこない。
いろいろ考えていて、はたと思い至った。細川家家臣ではなく、三齋公から直に扶持をいただいていたのではないか・・・嫡男が本藩に歩之御小姓として召出されるのは13年後(寛文八年)のことであるが、新知扱いとされている。すなわち「陪臣」を「家臣」として召し出したということではないのか・・・そう考えると総ての事の辻褄が合う・・のだが・・さて。(三齋公の客分だったという言い伝えがあったそうだよ、とは先年亡くなった大叔父の言であるが・・)
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勝手不如意

2008-03-21 19:41:54 | 歴史
 ある方から先祖附に記されてあるという、「在宅」の意味についてお尋ねを受けた。熊本大学の吉村教授の著書から引用してご返事を差し上げた。つまり「勝手不如意の家に対し、城下を離れて知行地に居住させ、軍役・奉公の大幅免除を受けて家内整理をして自力更正を促す」というものである。一定期間を経て旧に復帰する事になるが、延長を願い出るケースもざらである。「勝手不如意」は何処にでもあった。100石取りの家では、手元に入るのは18石ほどである。家族と下男下女六七人では2石程の赤字が出て、前借をすると借金は雪だるまである。高禄の家とて、多数の人間を抱えると生活は困窮する。史料を見ると著名な家臣が沢山見受けられる。更に活き詰まると「上知」となる。「知行を差し出し、知行物成の一部を扶持方として受給し最低的生活を送りながら債務を完済する」更正方式である。
(参考:近世大名家の権力と領主経済・・吉村豊雄教授著)

色々の人が「上書」を上げる時期は、すでに御家中すべてが貧乏の中にあった。
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田原(タバル)坂

2008-03-21 08:46:53 | 熊本
 熊本から北へ10キロばかりの所に、田原坂という丘陵地がある。明治十年の西南の役では三月の十数日間で約5,000人の人達が命を落とした。昨日は慰霊塔がたつ現地で追悼の式典が催された。130余年まえのこのような悲惨な陣痛をもって、近代は夜明けを迎えた。熊本民謡「田原坂」の歌詞をみると、哀切胸に迫るものがある。

        雨は降る降る 人馬は濡れる
             越すに越されぬ田原坂

        田原坂なら 昔が恋し
             男同士の 夢の跡

        春は桜よ 秋なら紅葉
             夢も田原の 草枕

        心濡らすな 虫のね時雨
             此処は田原の 古戦場

        右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
             馬上豊かな 美少年

        山に屍 川に血流る
             肥薩の天地 秋淋し

        草をしとねに 夢やいずこ
             あけの御空に 日の御殿

        泣いてくれるな 可愛しの駒よ
             今宵忍は 恋でなし

        どうせ死ぬなら桜の下よ
             死なば屍に花が散る

 熊本はそろそろ桜の開花時期である。慰霊塔周辺の桜の木々も其の時期を待ち、多くの死者に哀悼の花びらを散らしてゆく。この後も西郷軍は官軍の追討に抗しながら、勝ち目のない戦いを強いられ古里を目指す。西郷隆盛が自刃するのは9月24日、両軍合わせて13,000余の人達が命を亡くした。

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沢村大学吉重

2008-03-20 19:26:24 | 歴史
 寛永十二年六月の大学宛て忠利の書状はすごい。

   其方事毎日城廻其上風雨之時も見廻候由聞届候
   年寄候而ハ万事違物にて候間左様之心遣仕間敷
   候煩不申候様ニ心得可申候謹言
      六月廿三日        忠利
        沢村大学殿
    尚々其方いきて居候得ハ奉公にて候間其心得
    可申候以上

 「元気でいてくれ、それが奉公だ」というのだ。凄い殺し文句ではないか。
 それに答えてか、亡くなったのは慶安三年九月十七日、九十一歳である。
 光尚の傳役を勤めているが、その光尚の死をも見送っている。充分な奉公振りである。
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光尚の心遣い

2008-03-20 09:12:34 | memo
 正保二年松井寄之は持病を発している。僅か三つほど年長の叔父・寄之に対し、
光尚は見舞いの手紙を出している。松井家に対する思いやりが伺われる。

   式部少儀持病頃又差發候へとも用之儀者相勤候ニ付養生
   急度難成様ニ其聞候此節取究候て羪生可然候左候者佐渡
   守知行所其外在郷へも被越ゆる/\と逗留候て急度一ト
   養生可仕候尤不可有油断候 謹言
     六月十一日                光尚
        佐渡守殿
        式部少殿

     尚々温気之刻気分無心元候若水引いつともなく候
     てハ以来何とも苦々敷存候間取極保養干様候已上

 その年の十二月六日付け、長岡佐渡(興長)宛て光尚書状には、寄之がまだ快復していない事をうかがわせるものがある。
  一、式部少事寒気之砌気分如何候哉養生之儀寛容候由可被申候事
 又佐渡に対しても健康を気遣かっている。
  一、其方事寒ニ入息災候哉承度候仍万事気分能成候而花畠へ移候由満足申事候

 同日付けの澤村大学宛書状、上月文右衛門宛書状、小田原友庵宛書状も同様、家中の老臣たちに対する思いやりの言葉があって、光尚の心配りにほっとさせられる。
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B型かい?

2008-03-19 11:30:14 | 徒然
 昨日のお昼のタモリの番組のゲストは「美保純」、会場に贈られた「花」の中に、贈主「OA会」というものがあった。「O型とA型の人でお酒を飲む会」だそうな。

 私はかって「B型かい」という同様の会を作った事が有る。会員はたったの三人でスタート(正会員)。三人が声をかけた人であれば参加は自由、血液型関係なし。但し「B型かい?」と声を掛けて、B型の人は「B会員」そうでない人は招待客、招待客は上座にお座りいただく。カウンターであれば中央、椅子席であれば奥の方にお座りいただくのは当然である。飲み代は割り勘、但し招待客には何故か500円の参加料をいただくという趣向である。「招待客が500円高いというのはおかしいだろうが」とか「最初から聞いてりゃ来てねえぞ」とか、くだを巻く者もいたが、「次からは招待しねーぞ」の一喝で、お会計も無事済んで二次会へと相なる。二次会はもちろん「B型」は関係なしである。四五年つづいてなんとなく尻ツボミになってしまった。
 招待客から徴収した500円×○人分のお金は、二次会に「御樽代 B型かい」としてお届けしたのは言うまでもない。
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忠利の湯治

2008-03-19 10:28:17 | 歴史
 忠利の最期の手紙「右のてくひより手なへ申計二候、しに可申様ニハ、無之候、可心安候、以上」は、その筆跡とともに、忠利の無念さが伺われて胸に来る。寛永十八年三月十日書状の端裏の自筆である。一週間後の十七日花畑屋敷で亡くなった。

 寛永十七年十一月四日、忠利は山鹿で湯治している。

   山鹿へ参湯へ入申候此前も入候餘りあか落候心候哉身はし/\と
  覚へ此度も其分候間身内煩少も無之間さらに入ぬ事と存ニより疝気
  斗あらい申候へハはや事之外能覚え申候加様之きとく成事無之候其
  方なとためにハ如何可有之候哉兎角あたヽめ候湯と覚候謹言
     十一月四日              忠利
       中庵老(波多氏)

 すでに病中にあった忠利だが、まだ気力にあふれた姿が見える。翌二月家老松井興長に対して若しもの時の後事を託している。
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ぐじゃぐじゃ状態

2008-03-19 08:43:42 | 徒然
 「福岡県史・細川小倉藩」「熊本縣資料」「新熊本市史」、その他の信頼すべき資料から、個人の特定できる項目を侍帳に転記している。当主が亡くなった後の家督に係わる記事などからは、死亡の年月日や家族構成・年齢、家督や分知などの状況が分かり、先祖附では伺えない貴重な情報がある。また、召出しや加増の年月などが特定される事もある。それぞれ【消息】として該当者の欄に書き込んでいるが、相当量の書き込みになり、侍帳がぐじゃぐじゃ状態になってしまった。これは「侍帳」の体裁ではないとお叱りを受けそうだが、それは甘んじてお受けし我が道を行こうと思っている。時には「気違い」(今で言う老人性痴呆のようなものだろう)などの不穏当な表現の記事も有り、これをどうするかで悩みが深い。私の得意な「■■■」でやり過ごそうと考えている。別項に個人で取り上げた人物が、実はあるお宅の次男坊だと判明したりすると、爺様はもう狂喜乱舞である。一方では間違いを密かに抹消する作業も並行している(・・・)
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国立公文書館デジタルアーカイブ

2008-03-18 11:37:54 | 歴史
次のような情報を、簡単に手に入れることができるのは大変ありがたい事だ。
ただ、お江戸まで登らないといけないのが難点、コピーサービスは出来ないのかしら。

上田休(久兵衛)処刑に関する公文書
14 上田休元口供擬律宣告書届
[請求番号] 本館-2A-010-00・公02170100 [件名番号] 014 [作成部局] 太政官 [年月日] 明治10年 10月 [マイクロフィルム] 027600-0111
15 大山綱良同上(上田休元口供擬律宣告書届)
[請求番号] 本館-2A-010-00・公02170100 [件名番号] 015 [作成部局] 太政官 [年月日] 明治10年 10月 [マイクロフィルム] 027600-0117
16 同人始処断届
[請求番号] 本館-2A-010-00・公02170100 [件名番号] 016 [作成部局] 太政官 [年月日] 明治10年 10月 [マイクロフィルム] 027600-0127
19 臨時裁判所於テ処刑ノ概表
[請求番号] 本館-2A-010-00・公02170100 [件名番号] 019 [作成部局] 太政官 [年月日] 明治10年 10月 [マイクロフィルム] 027600-0186

上田久兵衛を含む贈位内申書
15 故 細川忠利(内務省九)
[請求番号] 本館-2A-040-05・贈位00132100 [件名番号] 015 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和03年 05月31日
16 故 浅井鼎泉(内務省九)
[請求番号] 本館-2A-040-05・贈位00132100 [件名番号] 016 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和03年 05月31日
22 故 上田久兵衛(内務省九)
[請求番号] 本館-2A-040-05・贈位00132100 [件名番号] 022 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和03年 05月31日
23 故 池辺吉十郎(内務省九)
[請求番号] 本館-2A-040-05・贈位00132100 [件名番号] 023 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和03年 05月31日
(忠利公と一緒というのに首を傾げるが、他はかっての仲間である。もっとも久兵衛に関するこの申請は
空振りに終わっているようだ)
 
「殺しておいて叙勲もなかろう」というのが、子孫の一人としての正直な思い。
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典拠

2008-03-18 08:38:35 | 徒然
 「肥後もっこす」をぐぐると、「ウィキペディア」が極めて丁寧に解説してくれている。今日の熊本日日新聞の「新生面」に、「肥後の鍬形」という言葉があって目に飛び込んできた。次に「薩摩の大提灯」とある。優秀な記者さんのことだから、先刻ご承知の言葉だろうが、「ウィキペディア」の内容によく似ているなと、ふと思ってしまった。「ウィキペディア」は二つの言葉の典拠として、【高松光彦 『九州の精神的風土』(改訂版)p.352 】【祖父江孝男 『県民性 - 文化人類学的考察』 p.203 】をあげているが、私は「ウィキペディア」に頼ってきたので、これではいかんと二つの著書に目を通さなければと思っている。インターネットの世界は、沢山の情報を瞬時に手に入れることができるが、まさに玉石混交の世界で、何が本物かを見定めるのは利用者の力量である。恥ずかしいことだが、私もある情報を信じ込んでしまい、あるお宅の情報として書き込んでいるが、最近どうも間違いだと気が付いてその修正に頭を悩ませている。(サイト内検索がないから、何所に書き込んでいるのかが把握できない)典拠を明らかにすればよいというものでもない。典拠が間違っているという事実が問題なのだ。インターネットの利用者は、それに気がつかず情報を利用した結果、出所が推察されるような間違い情報が散乱している。発信者の一人として心しなければならないと、深く感じている。
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和綴じ製本

2008-03-17 16:33:05 | 徒然
 最近コピーがやたらと増えて、ブルーファイルに綴じたりしてきたが、パンチングで大事な文字が消えたりしてどうも面白くない。そこで和綴じ製本をしてみようとチャレンジしている。ポリカーボネートの薄板で、所定の位置に穴をあけた型板を作った。これを製本する数十枚の紙にクリップで止めて、目打ちで穴を開ける。紙がずれないようにしなければならないが、これが一番気を遣うところだ。別途、縦横僅かに大きい表紙を作って、是も同様に穴をあける。重ね合わせて糸を通すのだが、これが中々骨である。糸の両端を針に通し、靴屋さんが靴底を縫い付けるような感じで、上から交互に、順次縦、横、縦、横と針を通して綴じこんでゆく。糸の強さが必要だし、糸の長さも問題である。糸が切れたり、寸足らずだったりと何度か失敗してしまった。少しくらいの歪みなどは、自分の品物だから諦めることが寛容。そしてちょっとお洒落な紙に「題字」を書いて貼り付けると、一丁上がり・・・。
(後で気が付いて、京都の専門店のHPをのぞいたら、糸の長さは綴じる辺の長さの4倍とあった・・まさしく正解である・・何度失敗したことか・・)
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