津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

監物人数之覚

2008-03-13 21:48:41 | 歴史
 元和八年の記録に次のようなものがある。(熊本縣史料・近世編第二p377)

   監物人数之覚
      一、壱人ハ      自身
      一、壱人ハ      母
      一、壱人ハ      監物女房共
      一、壱人ハ      せかれ
      一、貮人ハ      侍
      一、八人ハ      小性
      一、壱人ハ      臺所人
      一、七人ハ      女房達
      一、四人ハ      はした
      一、拾六人ハ     中間・小者
          上下合四十貮人
            外ニ馬壱疋

 ここで言う監物とは、米田家二代目の是季(興季・監物)である。是季は藤孝・忠興に仕 慶長十二年退去、同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
 私が上記データーに興味があるのは、家禄二千石・家族4人に対して、38人の召使という大所帯であるということだ。二千石の家の適正な家臣・召使の数というものは如何なるものなのだろうか。その一例として興味深い。
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阿蘇南郷・長野氏

2008-03-13 18:26:51 | 歴史
 先日「平成の花咲じいさん」を書いて後で、阿蘇南郷が「長野氏」の居住地であった事を思い出した。ある旅館のHPに次のような記載があったのでご紹介しておこう。

【長野城(南阿蘇村河陽付近)】
 長野氏の居城。阿蘇家分書には、名応7年(1498年)の記述に「長野次郎衛門尉」の名前が出てきます。旧長野村長野に「神楽の里公園」があり、長野阿蘇神社右側の道を進むと長野主繕養育と修学の地および長野城跡碑があります。長野神社が本丸の跡らしいと記してあります。325号線から149号線に入り、北上し東に曲がり長野地区に入ると大きな駐車場があります。   旅館・華もみじ【南阿蘇村の小さな歴史】から

 将に先祖の地を、櫻で満開にしようという壮大な計画に、ご先祖様もさぞかしの想いであろう。

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離国・・?

2008-03-13 10:17:50 | 歴史
 「新熊本市史・地図編」の細川家家臣の屋敷の場所を、侍帳に書き込む作業をしている。量が膨大で遅々として進まないが、面白い現象に遭遇している。藩主の屋敷「御花畑」周辺に住まいを持つ家臣で、その人の代で後の消息が分からない人が随分ある。共通しているのは、その消息が「寛文四年六月・御侍帳」が最後だという事である。相当量の作業をして気が着いた。何かの理由で「離国」下のではないか・・・。名前を総て控えておくべきだったと、後悔後に立たずである。のちのち、はたと気が付く何事かが出てくるかもしれない。問題は欠落激しい脳細胞が持ちこたえられるかという現実である。
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