加藤家侍帳(肥後時習館本)をみると、二番備頭に齊藤伊豆守(五千二十石七斗)とある。「大日本近世資料・細川家資料」の人名索引において、東大史料編纂所は伊豆守を次のように紹介している。
【齋藤利宗】(齊藤)利三の子。天正十年山崎合戦に敗れ、剃髪して立本と穪す。細川忠興に預けらる。のち加藤清正に仕へ、五千石。清正歿後牢居す。寛永六年四月廿五日家光に仕へ、五千石。七年持筒頭、伊豆守。正保四年五月四日歿。年八一。(春日局はその妹)
新熊本市史・通史編第三巻-近世Ⅰの第一編の内、「第一章 佐々・加藤氏の政治」の「家臣団の構成と重臣たち」のp178に紹介されているが、「幕閣の稲葉正勝の兄」とあるのは明らかな間違いである。伊豆(利宗)は春日局の兄であり、正勝は春日局の子すなわち正勝は伊豆にとっては甥である。東大史料編纂所は「清正歿後牢居」としているが、「新熊本市史」は忠広代も加藤家に在った如くの表現がある。さていかに・・・
忠広が改易され、熊本城を受け取りのために派遣された正使こそ、稲葉正勝である。伊豆の想いは如何許りであったろうか。
【齋藤利宗】(齊藤)利三の子。天正十年山崎合戦に敗れ、剃髪して立本と穪す。細川忠興に預けらる。のち加藤清正に仕へ、五千石。清正歿後牢居す。寛永六年四月廿五日家光に仕へ、五千石。七年持筒頭、伊豆守。正保四年五月四日歿。年八一。(春日局はその妹)
新熊本市史・通史編第三巻-近世Ⅰの第一編の内、「第一章 佐々・加藤氏の政治」の「家臣団の構成と重臣たち」のp178に紹介されているが、「幕閣の稲葉正勝の兄」とあるのは明らかな間違いである。伊豆(利宗)は春日局の兄であり、正勝は春日局の子すなわち正勝は伊豆にとっては甥である。東大史料編纂所は「清正歿後牢居」としているが、「新熊本市史」は忠広代も加藤家に在った如くの表現がある。さていかに・・・
忠広が改易され、熊本城を受け取りのために派遣された正使こそ、稲葉正勝である。伊豆の想いは如何許りであったろうか。