津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

段山(だにやま)界隈

2008-03-22 17:46:00 | 熊本
 熊本城域の西側のはずれの、護国神社や県営野球場があるあたりを藤崎台という。かっては藤崎八旙宮が有った。古い地図を見るとそれから更に段山(だにやま)という丘陵地らしいものがみられ、祓川(現在の井芹川)が山すそを流れている。あいだに小さな道が見受けられ、これが道幅を広げて新町から上熊本へ抜ける幹線になっている。段山は削り取られたのであろうJRが走り、これをまたぐようにトンネルで藤崎台に上った道は、高架橋となって島崎の方へ抜けていた。これが新幹線の工事で又とり崩され様としている。時代の趨勢に翻弄されて、幾度となく様変わりを見せている。JRで遮断されていた島崎地区は、新幹線・在来線とも高架を走る為、ようやくそれらの誓約を受けずに往来が出きるようになる。全国の有名酒造メーカーに酵母を供給している、「酒造研究所」なども隣接しているがどうなるのだろうか。(銘酒・香露の醸造元でもある)。西南の役の激戦地でもある。名前の由来がわからないという槙嶋坂などという坂があって、熊本城へ行くには近道となる坂であるが、市民はほとんどご存知なかろう。槙嶋坂の名前の由来は、槙嶋家の屋敷が近くに有ったのではないかと推測しているが、確たる証拠がない。少し南に下ると、蔚山(うるさん)町という、加藤清正が連れ帰った朝鮮の人達の住まいしたと言う町筋が残っている。地図を片手に散策すると、数百年前にタイムスリップする。
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・・・ではないか? 我が家のこと

2008-03-22 11:51:23 | 歴史
 細川忠興は忠利に家督を譲り、三万七千石の無役の隠居領をもって中津城に移る。「三齋様御附中津ニ相詰候衆」は忠興入魂の者で、隠居前の豊前細川家を動かしてきた人達であるが、隠居後は中津衆として「三齋家政」的立場となる。身分はあくまでも豊前細川藩の家臣(其方之者)であるが、「御前損」をした家臣は三齋により御暇を出されるとその身分を失っている。藩主忠利に対して新たな召出を願い出る事になる。

 これとは別に、三齋が自ら扶持を与えた者があることが推察されている。しかしながらこれらの人の名前は表に出てこない。いわゆる「陪臣」であろう。
我が家の先祖は、「豊前より江戸上下被遊候時分」の三齋に召し出されている。しかし病がちで再三「本国周防」への帰国を願い出ているが、「御見捨被成者ニ而無之候」ゆえ、この地で養生するようとの沙汰を受けている。細川家の肥後入国に際しても同様の事を願い出たが、「当地へ連参候様御意」にて八代入りしている。そして明暦元年八代で亡くなっている。「八代分領侍帳」にも名前が出てこない。
いろいろ考えていて、はたと思い至った。細川家家臣ではなく、三齋公から直に扶持をいただいていたのではないか・・・嫡男が本藩に歩之御小姓として召出されるのは13年後(寛文八年)のことであるが、新知扱いとされている。すなわち「陪臣」を「家臣」として召し出したということではないのか・・・そう考えると総ての事の辻褄が合う・・のだが・・さて。(三齋公の客分だったという言い伝えがあったそうだよ、とは先年亡くなった大叔父の言であるが・・)
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