津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

召出しの経緯

2008-03-04 17:52:47 | 歴史
 昨日は細川友山公家来の本家への召出しについての経緯を発見したが、今度は古野二郎左衛門、明石源右衛門、河野惣右衛門について「寛永五年正月廿一日日帳」に見つけた。慶長五年松井佐渡・有吉武蔵らが木付籠城の際、木付者ながら籠城して働いた事によるらしい。松井佐渡の寄子であったが、御家の禄を拝領している。寛永五年二郎左衛門の死去に伴う跡式にあたり、これらの事を改めて書き付けにしたとされる。名誉な事ではある。
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上巳の節供

2008-03-04 09:30:10 | 歴史
 江戸時代五節供(句)と呼ばれる行事があった。正月七日の「人日」、三月三日の「上巳」、五月五日の「端午」、七月七日の「七夕」、九月九日の「重陽」の日をさす。江戸幕府が定めた大事な日であり、公休日とされた。今では「お雛祭」とされる三月三日も、「上巳」と堅苦しく「元々は三月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より三月三日に行われるようになったと言われている。古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣(上巳の祓)があった。」と『ウィキペディア(Wikipedia)』は解説する。

 五節句の日は、(公休日だが)登城してお祝いを述べる。病やその他用務で都合が悪い人は、事前に届が必要とされた。うっかり忘れて「御咎」を蒙った話が、「日録」に沢山登場する。下手をすると知行さえも取り上げられる。節句を現代風に解釈すると、とんだ大間違いである。

 本来は旧暦だから今年は四月八日、この時期ならば「桃の花」も満開だろう。熊本でもあちら此方で「雛人形の展観」が催されている。わが家は「土鈴のお雛様」がお出ましである。
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