津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・堀氏

2008-03-05 09:11:37 | 歴史
 過日、本妙寺と宗岳寺を訪れたが、両方に堀家のお墓があることを始めて知った。本妙寺というより、その横に広がる広大な市営の花園墓地の一番高い処に、細川家墓地泰勝寺を見守る様に名大奉行・堀平太左衛門を始めとする、数基の大きな墓石が並んでいる。一方宗岳寺では、そう広くない墓域の中にとりわけ広い場所を占めている。

 堀家が細川家臣となったのは元和の頃とされるから、そう古い家柄ではない。しかし初代平左衛門は忠利・光尚に仕え出頭、光尚の死に際し殉死した。嫡男・勝安、二男時久があり、時久二男次郎大夫が嫡男家・勝安の養嗣子(勝行)となった。これが大奉行・堀平太左衛門の父親である。十七歳で家督(享保十八年)、十九歳で御中小姓頭、二十四歳で小姓頭になった。延享四年重賢公が藩主になるに及んで御用人、三十六歳で大奉行となり重賢公の手足となって宝暦の改革の立役者となった。明和二年家老となり御三家同格、治年・齊茲公に仕え寛政五年七十七歳で生涯を終えた。時代が欲し現れたまさに偉人というべき人物であろう。

 花園墓地が本家、宗岳寺が分家ということであろうか。幾星霜を重ね、墓石に穿たれた文字も一分判読し難い状態にある。改めて確認せねばと思っている。
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