津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

午砲台

2008-03-12 18:56:05 | 熊本
 熊本城内に午砲台と呼ばれる場所がある。正午に大砲を撃って時刻を知らせた事に由来するらしいが、東京では明治四年から皇居でドンとやったらしい。そして明治九年になると土曜日半休の制度が取り入れられ、土曜日はドンとなったらお休み、つまり「半ドン」となった。今日がその制度が取り入れられた日である。(お役所の話しでしょうけど)熊本城内午砲台では何時の頃から、ドンとやっていたのだろうか。週休二日制や隔週土曜休みの制度が定着して「半ドン」も姿を消し、午砲台の場所も「本丸御殿」の建設で無くなったようだ。

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ひい爺様の名前、その他諸々

2008-03-12 16:28:54 | 歴史
 我がひい爺様の名前は又太郎、先祖附には「多津人」とあり、慶應四年に改名したとある。「新熊本市史・地図編」の「68-3熊本所分絵図・高田原之絵図」に見える屋敷跡には「義人」とある。これがよく分からない。「義」という字は、祖父・父の通字と成ってはいるが・・・。1988年度熊本大学・九州大学合同ゼミナール「熊本藩藩校時習館」報告書に、天明三年以降の「時習館居寮生名簿」があり、最末尾に近い処にひい爺様の名前がある。「■■多津人 擬作高百石 御穿鑿役・佐敷御番・御裏方御用人支配」とあって、「東京遊学」ともある。佐敷御番については、間違いではないのかとも思うが、現在ではまったく見当がつかない。先祖附には見えない事実に驚いているいるが、確かに慶應四年には穿鑿役を仰せつかり、「吉田傳太」の仇討ち事件を調べその記録を「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」として残した。前者は「又太郎」、後者は「安正」となっている。又太郎安正(初・義人 多津人)が、ひい爺様の正式な名乗りであることが分かった。岳父・上田久兵衛の資料から結婚の年を調べているが、中々難儀である。
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