津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

織田掃部(カモン)

2008-03-28 18:09:32 | 歴史
 「天正十年一色義有を御饗応の席にて被討果候節、一色之者と見誤、小腹を鑓にて突候故、一時はかりして果候、米田・有吉にも劣るましき者にて有しに惜しき事をしたりと後ニも被仰候と也」細川家臣嶋氏の祖・庄左衛門の事跡であるが、「此節家断絶」している。庄右衛門の甥又左衛門信由が、「金森法印之頼」にて慶長七年豊前にて千石を拝領して召出された。のち有馬の陳で討死している。
 金森法印とは豊臣秀吉に仕えた金森可重の事である。後宗和流を興した金森宗和なる茶人がいるが、可重の息である。何故又左衛門が金森法印の世話で細川家に仕官が出来たのかという疑問が有った。よくよく調べると「熊本県史料近世編第二」の附録「主要人物略歴」に、「父織田掃部は尾張國春日井の産、織田信長に仕」と書き込みがある。何かこの当たりの繋がりからだろうと推測されるが、織田掃部なる人物が特定できない。「掃部介」とか「掃部頭」とか、二三人の人物が見える。これからまったく前へ進まないでいる。ご存知の方が居られればご教示願いたい。   
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2 コメント

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織田掃部 (三左衛門)
2008-03-30 20:45:46
 織田掃部は「津田一安」という人物に否定されています。『甲陽軍艦』に織田信長嫡子奇妙丸と武田信玄の女松姫が婚約したときに織田方の使者としてその折衝にあった「掃部助忠寛」という人物と同一人とされています。後に誅殺されています。詳しくは谷口克広さんの『信長と消えた武将たち』(中公新書)をご覧下さい。この本は入手しやすいと思います。
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有難う御座います (津々堂)
2008-03-31 08:50:36
 津田一安=織田掃部助忠寛という事ですね。金森可重との関係など探っていきたいと思います。いつも有難う御座います。
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