津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■第一高女生

2020-01-09 16:03:08 | 熊本

               
 ヤフーオークションを眺めていたら、熊本の古い写真が出品されている。大方は三井住友トラスト不動産の「このまちアーカイブス(熊本篇)」で紹介済のものばかりだが、この写真は掲載されてなく少々面白い。
左の建物は旧・熊本市役所、右は旧・九州電気通信局の庁舎である。この二つが取り壊されて今の熊本市役所が建っている。
この写真が面白いというのは、前の方に写っている女学生である。セーラー服の大きな一本線から第一高校の生徒だとわかる。
しかし古い写真だから、学校はまだ現在の古城町には移転していない。
この時期第一高女は、生徒たちの背中のあたりにあった。現在の九州郵政局やホテルキャッスルあたりである。
校庭に在った大きな楠木が数本残されて、現在はホテルキャッスルの裏手に「オークス通り」として名残をとどめている。
西からの太陽の陽で、生徒の影が大きく伸びて夕方であろうことが判るが、下校時であろう、横断歩道もなく悠々たるものだ。
彼女たちのセーラー服のデザインは変わっておらず、クラシックな車が時代を物語っている。
二つの建物とも、大いに出入りした建物で記録に残る懐かしい建物である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■顔

2020-01-09 13:42:44 | 徒然

 仏壇の近くに亡き母の遺影を飾っている。
東京在住の折、夫・舅、姑を一時に亡くして寡婦となり、熊本へ帰り姉と私を育てる等苦労の連続であった中での穏やかな晩年の顔である。
私はそろそろ78歳の誕生日を迎えるが、ふとこの歳になって私は誰に似ているのかと考えたりする。
父親とは一歳数か月で死別したが、写真を見ると大きなウエーブがかかったくせ毛の、彫りの深い顔をしていて全然似てはいないと思う。
母はといえば細面で、身体も細くこれも全く似ていない。
隔世遺伝という言葉からすると、父方・母方の爺様・ばあ様に似ているのかもしれないが、どちらにも似ていないと思える。
但し、母方の祖父は写真でも見たことがないが・・・
随分以前自画像を描いてみた。
今みても、あまり変わっていないと思うのだが、髪の毛の量が大いに減少し白毛90%になって違いは歴然だ。
リンカーンは「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」といった。つまり人間の内面が顔に出るという訳だ。

 私の友人が、自らの遺影とすべく毎年写真館に出かけて写真を撮っている。現役時代からすると「おれも好々爺の顔になったと思うよ」と述懐している。
「爺さんの顔より若いときの写真が良かろうに」というと、「女房が、現役の頃の俺の顔は険があるというんだ」と・・・。
そういわれると、ご尤もという感じもする。 

 私は以前 「きれいごとではない過去もあって去年今年」 という下手な句を作ったことがあるが、その頃は公私ともに心配事が多く、そのころはどんな顔をしていただろうと思ったりする。
現役から離れどうやら平穏な日々を過ごす今日を考えると、今の自分の顔は好々爺の顔になっているのだろうかと考える。
苦労を乗り越えて穏やかな顔になった母のように、私もなりたいものだと思う。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(119)寛永元年・万日帳(十一月廿四日~廿五日)

2020-01-09 07:07:38 | 細川小倉藩

                        (寛永元年十一月)廿四日・廿五日

         
              廿四日  
         |
中津人返シ請取切 |一、住江四郎兵衛者、中津御領分へ差返シ、其在所ゟ請取切手持せ被越候事、
手        |一、山路左助者、中津御領分へ指返シ候而、其在所ゟ請取切手取候而、左助持参申候事、
         |                
鉄砲足軽牢死   |一、佐分利兵太夫〇広瀬半左衛門、新籠ニ入置候処ニ、腹中相煩候而、相果申候事、

木屋貸付米ノ利分 |一、木屋理右衛門貸付米ノ利分弐百五拾石相渡候事、
中津町人貸付米ヲ |一、本庄久右衛門、中津堀川二郎右衛門借シ付米、返上成不申候ニ付、扶持方米之内ニ而取越、相渡
扶持方米ヨリ取ル |                             (ママ)
         |  候ニ相談申候、星出市左衛門も成不申候ニ付、来年之御借米之ノ分ニて不足無之有之ニ付、弐石
         |  五斗かし可申ニ相談申候事、                     〃〃
         |
         | (南条元信室、細川興秋女)
鍋かねノ正月ノ衣 |一、御様・御かね様正月之衣類之儀、與兵衛・小介ニ申渡候、御返事次第ニ可申上事也、
類        |      (筑紫重門室・細川幸隆女)   
         |     
欠落者ノ取替米  |一、住江武右衛門召遣候弥三、御馬屋ニ居候処、大坂御普請をかけおち仕ニ付而、理り被申上候付、
         |  指返し候処ニ、又武右衛門手前ニ居不申、御馬やへ出申候ニ付、其段埒明候へ共、彼者取替米之
         |  儀ニ付、相済不申候由、角十郎書物上ケ被申候を、指返し申候、様子忠三郎方へ相尋可申候由、
         |  申越し候事
         |
鍋ノ衣類ノ調整  |一、御様之御衣類、早晩ノことくか申付候旨、被 仰下候事、
         |
         |   (親英)大友宗麟の二男・田原親家道孝の子
松野親英造作銀ニ |一、松野織ア造作銀ノ儀ニ付、江戸ゟ之奉書写候て、浦上九右衛門を以、御家老衆へ懸御目候所ニ
付意味不通ノ奉書 |  此奉書ニてハ埒明不申候由ニて、被差返候条、本書ノ判形をもけし、ひかへをもけし申候、
ノ判ヲ消ス    |
鋳銭ノ者銭運送ノ |一、銭鋳共馬をかい候て、馬借町ニ置候て、御銭を付させ可申候間、惣並之駄賃被下候様ニと理り
馬ヲ飼ヒ駄賃ヲ請 |  申上候、相談ニて、右之通ニ申付候事、
ウ        |
かねノ衣類ノ調整 |一、御かね様ノ御衣類も、早晩ノことくニ、上方へ此方ゟ申上せ、調可申旨候事、
         |
諸運上銀ノ代米  |一、中津御奉行衆ゟ、諸運上銀之代米之儀ニ付、式ア少殿・民ア少殿へ之書状参候、写置候、
         |

         
              廿五日  
         |
女敵討詮索ニ百姓 |一、田川郡河崎村助兵衛女房、召連参候を、しちへやへ入置申候事、
女房質部屋入   |
         |          虎 落)                                                      (林)      (河田)
新籠ニ虎落建設  |一、新籠之東ノ土手もかり無之候て、人とをり候由候間、弥五右衛門・八右衛門ニ申渡、もかり可被
         |  仕旨、申渡候事、
         |
江戸廻米四千五百 |一、江戸へ廻シ申米四千五百石より米申付候付テ、御代官・御借米奉行衆、竹内吉兵衛与今池長右衛
石   借米奉行 |  門ニ持せ遣候事、
         |
糸屋代銀請取切手 |一、糸屋・御在国之砌仕上候代銀請取切手ニ、請取人無之ニ付、改候処ニ、江戸へ御供ニ被参候ニ付、
         |  はぶやノ忠兵衛請状を取置、相渡候事、
         |
鴨罠差手伝ニ夜ノ |一、鴨わなさしノ手伝ニ、付置申御長ゑ衆、よるひるノさかいなく候間、夜之分も夫算用ニ立被下候
夫銀算用ニ入ル  |  へと、小頭参理申ニ付、其分ニ被仕候へと、林弥五右衛門・河田八右衛門ニ申渡候事、
         | (周防大嶋郡)  (破)
加室沖難破船ノ加 |一、沖加室ニ而、波損舟之御加子弐拾四人之御扶持方、壱人ニ付、四斗三升宛、但、九月十八日ゟ十
子扶持方損米   |  月晦日迄ノ分捨り申候間、御損米ニ相談之上、相立申候事、
         |
町人ノ家中貸付米 |一、松屋道仁・糸屋宇右衛門・井上源三郎手前米、御家中へ御借付被成、利米相渡候事、
ノ利米      |
         |
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■原文に触れる「阿部茶事談」(18)

2020-01-09 07:02:29 | 史料

           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする