津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(132)寛永三年・日帳(五月廿六~廿九日)

2020-01-25 17:31:44 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)廿六日~廿九日

         
         |     廿六日
         |                                

忠利十九日大坂着 |一、御供舟下申由、三宅清兵衛申来候、今月十九日ニ大坂へ被成御着、廿三日ニ京都へ被成御上洛候由  
舟        |  候事、
長崎買物之覚   |     長崎にて被成御買物之覚
 赤玉 吹玉   |  一、赤玉五きん、但、ふき玉之内ニ御座候也、
 唐渡ノ碁石   |  一、唐ヨリ渡申ごいし三斤、但、白黒共ニ、
 吹玉      |  一、ふき玉拾きん、但、アホキこんノばかり、
         |     右長崎にて殊外やすく御座候、
         |      以上
         |    寛永三年五月六日         問太郎介判
         |  右ノ書付、石寺加兵衛方へ相渡、則長崎ニて被相調候へと申渡候事、但、右ノ分太郎介書上候
焼物ノ用     |  て、御やき物之御用ニ入申由候間、得御意候処ニ、長崎御買物奉行へ申付、かわせ可申旨、
         |  御意ニ付、右之通申渡候也、

         
         |     廿七日
         |                        (ママ)

詰小早      |一、御用之儀候て、上方へ詰小早差上せ申候、御舟頭
         |一、式ア殿ゟ言上之状、右之御舟ニ御言伝候也、

         |      (マ  マ)
         |     廿八日
         |五十貫文

初穂料      |一、彦山へ   東兵介
         |弐十貫文
         |一、求菩提山へ 池内源介
         |三十貫文
         |一、宇佐宮   松山小右衛門

         
         |     廿八日
         |

波奈之丸下着   |一、御船頭甚右衛門、御めし舟波奈之丸乗下候、無事ニ下着候事、
         |       
         |一、式ア少輔殿御小早申付候へ、御休養之儀大坂へ申上せ候間、可被得其意之由、被仰越候、
         |                          五月十一日ニ江戸ヲ立、
         |一、江戸へ被遣候御鉄炮衆国友半右衛門与村岡少右衛門、〇今日罷戻申候、江戸ゟ殿様へ上り申御状
         |   (播磨加古郡)
江戸米価壱両ニ五 |  共、高砂まて罷出、差上申候由申候、御供舟之罷戻候ニ、のり罷戻下申候也、江戸ノ米ノ双場、
石四斗五升    |                              〃   〃
         |  小判壱つニ付、五石四斗五升かい可申由申候よし也、
長崎買物ノ借銀  |一、飯銅庄内・石寺加兵衛、長崎へ今日被罷下候、 御銀子十貫目、菊原五郎兵衛方ゟかり候て遣申
明寰へ口入銀   |  候、其外白井太郎左衛門所へ、明寰ニ口入銀五百目遣候事、
苅田ノ母馬壁蝨故 |一、かんたノ御牧ノ母馬一疋、今朝たに殊外つき候ゆへ死候由、申来候事、
カ死ス      |
         |一、式ア少殿・頼母佐殿・監物殿ゟ御休養之儀ニ付、大坂へ御小早差上申候、御船頭ハ宮崎孫左衛門
         |                                   (敦之)
        
 |  也、御奉行所ゟも野田小左衛門所へ之状、坂崎清左衛門・長良長兵衛・続平右衛門所へ之状、飯
         |  田才兵衛所へ之奉書之御請、右之御小早二差上せ申候事、
         |   (貞晴)                                  今日                 (牧興相)(三淵重政)
桑山貞晴書状三斎 |一、桑山左近様ゟ 三斎様へ被進御状、江戸ゟ御掃除坊主衆〇持下候を、則頼母佐殿・左馬殿・右馬
宛        |  助殿三人ゟ、中津へ次飛脚にて持せ被遣事、
         |       (浅山)    (田中氏次)
泰厳寺掃除検分  |一、泰厳寺へ、清右衛門・與左衛門、御掃除彼是見廻ニ参候事、
         |

         
         |     廿九日
         |
忠利廿二日上洛ス |一、鏡善右衛門夜前罷下候、 殿様去十九日ニ大坂御着、同廿一日迄大坂御逗留、同廿ニ日ニ京都へ
         |  被成御上洛旨申候事、
掃除坊主奉行用状 |一、御掃除坊主四人江戸ゟ罷戻候、江戸御奉行衆ゟ参候状持上り候処ニ、てんりう河にて、御状幷
等ヲ天竜川ニ流失 |  きかへ已下ながし申由ニ候、然共、江戸へ便宜御座候間、則江戸御奉行衆へ、右之通申遣由申
ス        |  事、
         |一、御船頭明石角兵衛夜前罷下候事、
         |

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「麒麟が来る」から、三淵藤英という人

2020-01-25 15:14:52 | 歴史

 NHKの大河「麒麟が来る」は大方の予想通り好発進をしたようだ。
その出自が明らかではない人物なので、どのような扱いでスタートするかと思ったが、早々に光秀が三淵藤英と出会うというシーンには驚いてしまった。
三淵藤英という人物について詳しく知る人はそう多くはあるまい。熊本人でも同様であろう。
その人となりについては、サイト「明智家の館」に詳しいが、細川藤孝(幽齋)の実兄と紹介されることが多い。
藤孝は将軍義輝の子とされ、生母(清原宣賢女)が身ごもったまま細川晴員にお下げ渡しとなって生まれた。
藤孝は細川家に入って肥後細川家の祖とされている。
藤英にとって細川藤孝は異母弟である。又細川家家臣となった末弟・三淵好重も同様である。
藤英の嫡男・秋豪は父と共に戦死し、嫡流は秋豪の次弟・光行の嫡男・藤利が継いだ。
藤英の三男・昭貞は朽木氏(稙綱)を継承して細川家に仕えた。弟(五男)昭長が養嗣子となって以降明治に至った。
藤英は将軍家につき、藤孝はのち信長につくなど必ずしもその行動は同じではない。

俳優谷原章介の美麗ないでたちが印象的だったが、藤孝(眞島秀和)がどの様に登場するのかも大変興味深い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「阿部茶事談」(26)釈文

2020-01-25 07:35:01 | 史料

26                       此木を伊達政宗尓てハ柴舟と云 歌尓
            世の王きのうきを身尓つむ柴舟の
             たかぬさ紀より古かれい川らん
         同木禁中尓てハ藤はか満と云 歌尓
            藤はかまならふ匂ひもなかりけり
             花ハ千種尓色か王れとも
         小堀遠州尓てハ初音といふ 歌尓
            聞たひ尓めつらしけれ(ハ)ほとゝきす
             いつも初音の古ゝちこそす連
         数馬御小姓役の節此名香を拝領して所持
         せしを討死の時留木とせし也
         又曰竹内と云ハ在名也 本来嶋村と云 島村弾正
         八隅氏を授て同姓として八隅市兵衛と名乗
         其後竹内と云所を領知し八隅を改て竹内
         市兵衛と名乗一子を吉兵衛と云 武功度々ニ而
         信州太田ノ城水攻の時各別働有て秀
         吉公ゟ白練尓朱の日の丸の陳羽織を拝領す
         初小西行長尓仕て朝鮮尓て武功有 日本
         和平の時行長ゟ人質として朝鮮尓三年
         居たり 此時金銀の膳椀など国王ゟ給り其
         外寶物貰たり 御家ニ被 召出御入国後手

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする