津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■厠と南天

2020-01-07 13:39:48 | 徒然

 建築を志す人の必読書に、谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」がある。
現代においては、本格的な和風建築に携わる機会は少ないが、この著には谷崎が生きた時代に彼が理想とする日本建築の住まいについての考えが記されている。
全てを肯定するものではないが一つの卓見である。中に厠(トイレ)に関するくだりは、文学者としての思考表現として興味深い。

 この時期あちこちに「南天」が赤い実をつけている。お正月にもよく使われるものだが、南天は「難を転ずる」ということで良く使われるらしい。
今ではそうではないが、昔の南天の定位置は「厠」の側であった。南天の効用に殺菌ということが有るらしい。(南天のど飴というものもある)
毒消しの為に南天をかむという話も残るが、真偽のほどは如何であろうか。
そして古いお宅には「厠」のそばに手水鉢がおかれ、柄杓が添えられていた。上には「手ぬぐい」がハンガー状のものにかけられてゆれていた。

 私が幼少期を過ごした借家にも、便所の横にはお決まりの「南天」が植えられていたが、さすがに手水鉢はなく替りに下の写真のような手洗い機がぶら下がっていた。
お若い方はご存知ではあるまいが、当時としては画期的なトイレグッズである。

                    
水をたたえたブリキ製のバケツに蓋をして、底には押し上げるとジョウロから水が出るような仕掛けがしてあった。
今ではプラスティック製で販売されているらしいが、もう見る機会もないだろう。

 今では南天はすっかり厠の添え物ではなく、どちらのお宅でも庭の重要なポイントに位置を得ている。これも時代が変わった故といえるだろう。
散歩の途中、あちこちで見受けられる南天を眺めていたら、妄想が飛躍してしまった。

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■細川小倉藩(117)寛永元年・万日帳(十一月十七日~十九日)

2020-01-07 06:30:13 | 史料

                        (寛永元年十一月)十七日・十八日・十九日)

         
              十七日  

         |
借米奉行ヘノ触状 |一、野田小左衛門・豊岡甚丞ゟ、御借米奉行衆へ遣候され状もたせ遣候ま、飛脚申付候へと申候間、
吉田二郎右闕所ノ |  則申付、右両人へ遣候事、右同便宜ニ吉田二郎右衛門かし付、石本三介かり申ニ付、其らち恵良
貸付米      |       〃                                                                                              (埒)
         |  半右衛門ニ明候へと申候て、状遣候事、
         |
         | (苅田村、京都郡)
苅田牧山ノ駄馬逸 |一、かんだまき山ニ居申だ馬壱疋、昨日はしり申由、彼地牢人百性二郎兵衛申来候事、
走        |
         |一、原田安右衛門此中御郡ニ参、今日罷帰之由候て、登城被申候、
         |
入牢者ニ差入ノ布 |一、山本ノ少左衛門ぬのこ参候、籠へ入候て、きせ可申やと、御籠番衆申来候間、よく/\相改、入
子ヲ着セシム   |  候て、きせ候へと申付候事、
         |
真野兵左加増二百 |一、真野兵左衛門御加増弐百石分也、当物成御蔵米を以、双相渡可申旨、被 仰出に付、先六拾石弦
石    弦懸斗 |  懸斗ニ而相渡候事、
         |
吉田二郎右貸付米 |一、明石二郎九郎手前ニ、吉田二郎右衛門かし付有之候而、右二郎九郎方平右衛門・少五郎ニ相談
         |  候て被申候所ニ、前かとハ帳ノわきニ有之候へ共、もはやらち明候間、重而ハ申入ましきよし、
         |  〃〃
         |  右両人被申通、二郎九郎登城候而、可申され候事
         |                  〃
         
         |                                    
              十八日
         |  

         | (篠崎村、規矩郡)
金山見立     |一、しのざきノおき赤たふと申所ノ山ニて、金山見立申よしニて、加嶋久左衛門かゝり申、金子少持
         |  参候也、
         |
寒田牧山ノ山犬打 |一、沢田ニて山犬うち申候由候て、大学殿ゟ持せ被差上候、則御犬うち久左衛門ニ渡候事、
御犬打      |
         |一、吉井加右衛門知行之儀ニ付、少介・十右衛門ゟ御家老衆へ参候返事、此方へ給候間、写置返し申
         |  候
         |
         
         |                                    
              十九日
         |  

         |一、福田善右衛門呼野・採銅所へ参候事、
         |一、上村甚四郎御郡へ参候事、
         |一、水橋五郎介大坂ゟ罷下候事、
中津ヘノ家ノ代銀 |一、中津へ参候家之代銀・同目ろく、長谷部文左衛門方へ相渡候事、
目録       |
         |一、歩之御小性十弐人出船候事、
         | (猪膝村、田川郡)
         |一、いのひさ太郎左衛門登城仕、申上候事、
         |        (安芸安芸郡)
         |一、河村弥右衛門倉橋ゟ罷戻候事、
倉橋島新造荷船ノ |一、弐十艘之御荷舟之儀相談仕候、今迄ニ十六艘分仕作懸り候分をハ急度仕立、残而四艘分ハ作り不
諸奉行相談    |                       〃
完工分十六艘   |                    (正直)(慰英)        (栗野)  
未着工四艘ハ中止 |  申筈相究候、此談合之人数、我々三人、河喜多・仁保・松本彦市・栗伝介・深野新介・浦上九右
         |  衛門・野田小左衛門也、
         |

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