津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■原文に触れる「阿部茶事談」(30)

2020-01-29 14:32:03 | 史料

                                     

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■野田小左衛門という人

2020-01-29 09:41:22 | 人物

 現在ご紹介している「細川小倉藩‐日録」を眺めていると、盛んに野田小左衛門(幸長)の名前が出てくる。
奉行を勤めていたようだが、於豊前小倉御侍帳には「馬廻組五番 百五十石」とあるし、松本寿三郎氏編の「熊本藩御書出集成」には、元和八年の忠利公の判物に百五十石とある。なかなか剛毅な性格の人物だったようで多くの逸話が残されている。
古史料として「随聞録」というものが残されているが、2年前のいまごろ、熊本県立大学の大島明秀教授がこれを翻刻して「細川侯五代逸話集」として発刊された。
野田小左衛門についても、23話から28話まで登場しており、この人物の逸話が異常に多いことが伺える。

   23・屋敷が気に入らない  
     これは八代に三斎のために建てた新居の材料についての話である。
     次の間以下は節のある材木で作られていたことに対する三斎の怒りに対して弁明に赴き、これを言い伏せてか
     えって「忠利はよい家来を持った」と言わしめている。
   24・奉行のつとめ     
     これも三斎の怒りを買った話。奉行として「水夫米」や「墓所年貢」を八代領にも懸けたが、三斎の怒りは死
     を給うかも知れないと忠利の心配をさそうが、是も見事に乗り切っている。
   25・財政再建の秘訣    
     忠利から財政再建のための献策を求められ、小左衛門は忠利が平常使用する高価な紙を用い、「殿様に都合の
     悪い事をな
さる事」と認めた。紙一枚でも節約するようにとの意である。
   26・類焼の責任
     細川家の大坂蔵屋敷からの失火により近辺の商家が類焼した。忠利は細川家による再建を思い立ち家老衆も同
     意したが、小左衛門は「馬鹿げたこと」と発言して忠利の怒りをかった。
     責任者は切腹して事の重大さを知らしめており、小さな火事ゆえ再建をし、もし大火を出してこれは再建でき
     ぬでは通らないだろうと小左衛門は主張する。

     これらの事がすべて記録に残り、これが先例となりすべての事例で再建が求められる。
     他藩に於いても起こりうる話で、細川家の行いが悪しき事例とならないようにすべきだとのべる。
   27・船が沈んだ
     大阪のコメ相場は肥後の米の取引によりもたらされたとも言われた。どうやらその発案者が小左衛門らしい。
     大量のコメを大坂に運び高値で売りさばき、藩に利益をもたらそうというのである。
     大船を出航させたところ運悪く米を乗せたまま舟が沈没した。怒った家老衆は17ヶ条の悪事があるとして攻め
     立てたが忠利は弁明の機会を与えた。かえって御羽織を下しおかれて面目を施している。
   28・石高は増えない
     小左衛門は老齢に至り、頭巾と胡坐がゆるされ忠利の話相手を勤めたという。
     奉行としてその職責を果たした小左衛門だが、加増もなく禄高は150石のままであった。
     (役職に対して足高が定められるのは宝暦に入ってからの事である)
 
 小左衛門は片目が見えず、足も不自由で馬にさえ乗れなかったという。(島原の乱以降の事か?)
                              追記: 寛永元年八月四日「日帳」
            野田小左右衛門(ママ)まなこ煩申候間、一両日宿ニ而やうしゃう(養生)申候て、
            少能候ハヽ、中津へ参候由被申、今日よりはいり被申候事
しかしながら生来弁舌爽やかで道理を説き明かすことに秀でていたという。それぞれの逸話がこれを物語っている。
豊前時代から肥後入国後までの彼の働きぶりが「細川小倉藩‐日録」も含めて記されているが、150石の小身ながらも政事の中心にあってその職責を見事に果たしていることが伺える。




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■細川小倉藩(135)寛永三年・日帳(六月十日~十一日)

2020-01-29 07:17:24 | 細川小倉藩

                       (寛永三年六月)十日~十一日

         
         |     十日
         |

         |  (萩、長門阿武郡)
         | はきノ商人
萩ノ商人     |一、肥前ゟ此地を罷通候処ニ、筑前ニゟ当町之所米町ノ小野久六所へ書状遣申候を、則御町奉行衆へ
         |                〃  〃〃
         |  差上、御家老衆被成御聞届被成御済候、此様子御奉行衆へもきゝ候ておき候へと、御申候由、吉
         |  田少右衛門を以被仰越候事、
         |         惣吉
女敵討ノ処分   |一、国東郡木子村ノ〇めかたき五右衛門冣前一度様子相済、誅伐可仕旨、御郡奉行へ申渡候処ニ、只
         |                                      (是門)
町奉行公事開ノ存 |  今かのめかたき五右衛門所ゟ書物を差越候由ニて、吉田少右衛門被持来候、米田與右衛門殿も被
念        |  仰候ハ、冣前様子相済候時、其座敷ニ居申候へ共、御郡奉行ゟ様子被相究、まかたきニ相究候上
         |                   御郡奉行ゟ我々所へ之お届も無之候由ニ付、
         |  ハ、我々申分ハ無之居申候由ニて候、〇則国東郡へ次飛脚ニて御奉行へ書状を遣、右ノめかたき
         |                               
誅伐ヲ差留ム   |  幷女房誅伐可差留之由、申遣候事、
藍島へ矢箆竹ノ検 |一、横山藤左衛門組田代藤右衛門、あいの嶋へ矢箆竹見せニ遣候事、
分        |
江戸ヨリノ来状覚 |一、安東加兵衛と申歩之御小性衆被持下候状其外覚
国廻ニ供侍ノ替米 |一、当春御国廻中ノ時、御供衆替米之帳、上方ゟ野小左衛門被差下候を、松本彦進・豊岡甚丞へ相渡
ノ帳       |  候事、  〃
         |                      (栗野)(加藤)
中津家中知行替ノ |一、中津衆ノ知行替之書付、小左衛門被下候を、伝介・新兵衛ニ渡候事、
書付       |
         |一、御書被成下候、又奉書弐通、奉行衆ゟ小左衛門ゟも被下候、幷方々への書状不残届候事、
米価高      |一、御米ハ高ク罷成、大つハやすく候ゆへ、如先例ニ、大つをかい、うち米も前々の様ニ可仕由、か
大豆買入     |  い料左右衛門ニ申渡候事、
当春検地ヲ命ゼラ |一、臼杵半左衛門被申候ハ、当春御検地被 仰付候ゆへ、主知行御郡役被引下との御切紙、宇佐御郡
レ郡役引下グトノ |  奉行衆遣候へ共、御検地被仕仕候間、御郡役仕由、庄や・百性申候由被申候、重而御郡奉行三人
         |             〃〃〃
切紙       |  被出候時、此段可相尋候、以上、
         |         ( マ マ ) 
         |一、秋吉又左衛門・    両人を半大夫・弥兵衛手伝ニ渡候事、
         |

         
         |     十一日
         |     鬼籠
女敵討誅伐ヲ延期 |一、国東郡木子村ノ惣吉、めかたき五右衛門幷女房誅伐可被差延之由、次飛脚ニて申遣候処ニ、得其
シ当人等ヲ召寄セ |  意存候、惣吉・五右衛門幷女房、此地へ召寄、御糺明可被成由、申来候事、
糺明ス      |
薩摩へ綱買ニ行ク |一、さつまへつなかいニ、岐木與右衛門被遣候ニ付、與右衛門被申候ハ、さき/\ニて、奉行人・宿
ニ肝煎セシ者ヘノ |  主なとニ似相ノ礼物を仕候へと、申渡候ニ付、町奉行ニ紙四束、やとぬしニ銀拾五匁遣由被申
礼物算用     |  候、其ニ付、此御算用聞中摩市太夫・山田七左衛門覚書ニ被尋候ニ、右分申渡儀無紛候間、遣
         |                                  (田中氏次)  不
         |  候分ニ御算用可被聞届、肩書仕遣候、但、右ノ與右衛門さつまへ被参時、與左衛門被居ニ付、
         |  (浅山)
         |  清右衛門一判ニて遣候事、
         |   (武次)
物書       |一、牧丞太夫与ノ遠藤五郎左衛門、福田吉介手前へ物書きニ相渡候事、
         |

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