津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■貞能は是政であるということ

2020-01-12 14:37:03 | 史料

 光秀が医者であったことを窺わせる「針薬方」を書き残した人物は、米田貞能とされているが、これは米田家初代の求政である。
ここに米田家系図をご紹介しておく。

          

        

 米田家関係略系図 

             細川忠利-----------長岡元知                   
                         ‖----是庸
                       +--- 吟  |
                       |      ↓
 米田求政---+---是政-----是季---+---是長---+=====是庸-----是直
      |         |
      +---是門       +---是正無子断絶

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■期待したい大河「麒麟が来る」

2020-01-12 10:34:45 | 徒然

 某女優の薬物疑惑で、明智光秀を主人公とした今年の大河ドラマのスタートが遅れている。
ちょっと水を差された感じだが、咋日は朝からNHKの「あなたが主役50ボイス」で取り上げられていた。
細川家も当然登場するからこれは一年間拝見しなければならないと思っているが、なかなか面白そうである。
久々、大河らしい大河ドラマになる予感がする。
その出自や生い立ちについては諸説紛々である。
熊本に於いては2014年光秀が医者であったことを窺わせる文書が見つかっている。(2月9日まで熊本県立美術館で公開中)
このことについては積極的に触れようとする研究者はまだ表れていないようだ。
この文書を書いたのは米田貞能、細川家家老家の初代是政のことだが、米田氏一族のお墓は、光秀とゆかり深い坂本・西教寺にある。
米田家の二代・是政の室・雲仙庵は明智光秀室の姪だとされる。
米田家と明智家の関係の深さをうかがわせている。
 一番謎とされる本能寺の変を何故起こしたのかについては是又深い闇の中で、それぞれの研究者が自説を押し立てていて結論は程遠い。
史実が確かではない部分が多い人物を、ドラマとしてどの様に仕立てていくのか、脚本家の力量が問われるし、見る側も創作と史実の境目をよく見極めながら観ていかなければならない。
ここ一二年大河は見ていない私だが、今年は大いに期待している。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(121)寛永三年・日帳(五月朔日・ニ日)

2020-01-12 08:14:30 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)朔日・二日

         「寛三
         |  五月」 朔日  
         |
         |一、三斎様為 御意、長舟十右衛門・沢井次右衛門両人ゟ水夫之儀ニ付、以早打書状被差越候、但、
         |  辰ノ上刻ニ着、
         |             今津村、下毛郡中津市今津
三斎上洛用ノ水夫 |一、右 三斎様御上洛之御用ニいますゟ国東迄之水夫被進候、則右之返事、此方御飛脚続亀介組前川
         |  もじ右衛門ニ持せ遣、但、水夫之様子ハ御郡奉行衆へ申遣也、
         | (田川郡)がんじゃく
早松茸      |一、岩石岩田喜右衛門所ゟさ松たけ十三本、次飛脚ニて越候、則上候事、
         | (規矩郡)まいそ村 (松 火
松火       |一、馬寄村新町助一まつひ壱すち持来、則慶閑ニ渡候事、
佐方少三郎宮部久 |一、佐方少三郎・宮部久八今日初而 御礼申上候、
八初見      |
         |一、弓削太郎右衛門家火事出来候へ共、其儘消候事、
         | (木下延俊)細川幽齋女婿             のちの阿部弥一右衛門・忠利公殉死
木下延俊鹿狩   |一、右衛門様御領ニて御鹿狩被成候時、山村弥一右衛門ニ右衛門様ゟ御小袖壱つ被遣由、立御耳申候
         |  事、
         |                     (八木)
松火       |一、馬寄村四郎右衛門まつび壱すち持来候、八喜則慶閑ニ渡させ申候事、
         | (規矩郡)                                                             (正慶)
鶴打ノ札     |一、曽根ノ大工源兵衛ニ靏打申御印上ヶ候哉と、御郡奉行衆せんさく仕られ候処ニ加々山源左衛門
         |  ニとく相渡、則権左衛門切手取置申候を差上候、則切手ハ又戻候事、
         | (松野親家)   (下関、長門豊浦郡)
         |一、利根川道孝下ノせきへ明日御使ニ被遣候間、早舟可申付旨、長庵彼申出候、則兵介・善右衛門ニ
         |  申渡候事、
早松茸      |一、岩田喜右衛門ゟ松たけ七本、次飛脚ニて来ル、
蝮ヲ医師ニ渡ス  |一、三ノ丸ゟ真虫壱筋持来候、則慶閑ニもたせ遣候事、
         |

         |
         |    二日
         |
運漕      |一、御馬のせ上り候御船頭三木清太夫今日被下候也、
三斎水夫加子ヲ雇 |一、昨日中津へ遣候飛脚今日罷帰候、水夫加子御やとひ被成間敷由、 三斎様御意之通、長舟十右衛
ハズ       |  門・沢井次右衛門ゟ申来候也、則懸 御目ニ申候事、
         |一、神戸喜平次被乗候舟出船、御船頭ハ明石角兵衛也、
         |   (親家)
二十丁小早    |一、松野道孝為御使と、下之関へ弐十丁小早にて被遣候事、
         |         (浅山)             (飯田)
惣積ノ目録    |一、惣積ノ御目録、清右衛門請取置候を、才兵衛を以指上ヶ申候事、
         | (沼田延元)
沼田延元ヘノ袖判 |一、長岡勘解由殿へ被成下 御袖判之請取切手ニ、清右衛門加判仕、才兵衛を以指上ヶ申候事、
ノ請取切手    |
         |     (加々山可政)
         |一、大坂ゟ主馬者京都ノ三人衆ゟ状才兵衛ニ相渡候事、
         |   (延俊)
木下延俊ヨリノ籠 |一、木下右衛門様ゟ鶉籠ニうつら入候て、鶉籠四つ、御文箱添候て参候を、則上ヶ申候ヘハ、返書ニ
ノ鶉ヲ送リ返ス  |  右之うつら被相添被成御戻し候、 御前ゟノ御使小谷忠次郎、
公事ノ書物ヲ受理 |一、明石源左衛門与ノもの、くじの由ニて書物差上候を、不請取ニ則返し、くじ聞衆へ上ヶ候へと申
セズ 公事聞へ差 |  候事、
出ヲ指示ス    |
         |            (山城愛宕郡)細川家京都屋敷
走者ノ請人ノ詮索 |一、明石源左衛門与ノもの、京吉田ニて壱人走候由申来候ニ付、則与頭幷小頭へかのものゝ請人のせ
         |  んさく可仕由、則申渡候事、
山犬ノ子親犬ノ囮 |一、有間七左衛門山犬の子弐つ持来候、内壱つ死、一つ生て有之を、又かの右ニとらへ所へ遣置、何
トス       |  とそおやを打候へと被 仰出由ニて、七左衛門彼地へもたせ参候事、
         |                               (者)
加子雇傭ノ手違  |一、下関へ加子雇ニ、塩飽屋伝次ニ御船頭壱人相添遣候、伝次自分ノ物を遣才覚仕、加子百三十人雇
         |  出、手付銀渡候処ニ、方々ゟ加子雇申参候、左様ニ仕候処ニ、雇申間敷由、爰元ゟ申遣候ニ付、
         |     
         |  右ノ銀損ニ不成様ニ仕、銀子持帰也、
         | 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする