津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「阿部茶事談」(20)釈文

2020-01-16 15:34:27 | 史料

20        更尓及けれハ妻子刺殺し屋敷の内尓死骸を
         埋め夫ゟ兄弟四人恩顧の下人等一所尓集り
         鉦鼓を鳴し高念佛を唱て夜を明しける
          茶話曰阿部屋敷山崎尓て斎藤勘助
          屋敷也 當時斎藤又五郎と云 弥市右衛門
          千五百石余の身躰 嫡子権兵衛 二男市
          太夫 三男五太夫 何連も原の城尓て働き
          新知被下候間父子尓て弐千石程の身上也
          兄弟同居をし故人数も多かりし也 向屋
          敷山中又左衛門 隣屋敷ハ栖本又七郎
          外山源左衛門 平野三郎兵衛也 又曰阿部
          屋敷を夜中忍出候者を討止候丸山三之允
          ハ佐分利喜左衛門組足軽也原之城尓て働
          有り 忠利公へ御目見も仕たる者也 當時
          丸山一平と云大筒打の先祖也
           竹内数馬討死付リ嶋徳右衛門幷二
           添嶋九兵衛討死之事
         此度阿部兄弟討手無比類働討死せし

         竹内数馬か先祖を尋る尓摂州尼か崎ニて
         細川高国の手尓属し討死せし武勇
         名高嶋村弾正四代の孫竹内吉兵衛末子也
         此吉兵衛と申者豊前宰相忠興公被 召

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■刀の下げ緒と祖母の帯紐

2020-01-16 13:58:53 | 徒然

 昭和49年89歳で亡くなった母方の祖母の存在は、私を歴史好きにした一因でもある。
良人や舅・姑を一度に亡くして熊本に帰った傷心の母と私たち姉弟と同居して、物心両面で支えてくれた人である。
幼いころ火鉢を囲んで暖を取ながら、色々な話を聞いた。
質素な生活で祖母のいでたちはいつも木綿の着物であったが、お出かけとなると取って置きの着物で盛装をした。
そんな祖母が帯紐に使っていたのは刀の下げ緒だったと聞いたことが有る。熊本特有のものだと聞いたが、名前はすっかり忘れてしまっていた。この帯紐を締めるとゆるみがないというのである。

 史談会を数日後にして「旦夕覚書」を読み込んでいるが、そこにこの下げ緒の名前が出ている。
随分以前「旦夕覚書  鳥‐2」でもご紹介していた。
それは細川家の侍が刀の下げ緒に使った「うねうち」というものだ。畑の畝のように数条の盛り上がりを見せている。


       
                                     趣味の和装小物「きねや」のサイトから引用

 まさに熊本藩独特のものでったらしく、「旦夕覚書」には、京伏見の女たちも「 細川の御家中斗と申候」とある。
編者堀内伝右衛門は、「 唯今の若き衆はうねうち見申間敷候」と述懐しているから、元禄の頃には廃れたのであろうか。

 そうなると、祖母の帯紐は本物に刀の下げ緒だったのだろうかと疑いたくもなるが、先祖伝来のものとして大事に/\に使っていたのだろうか。
亡くなった後処分されてしまったことを残念に思う。

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■細川小倉藩(124)寛永三年・日帳(五月八日)

2020-01-16 06:52:50 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)八日

         
              八日  
         |
小早大坂ヨリノ航 |一、大坂詰小早桑田左兵衛罷下候、今月四日之辰ノ下刻ニ大坂出船、同七日ノ夜寅ノ刻下着、
程        |     (可政)
将軍家光上洛延引 |  一、加々山主馬所ゟ言上ノ状壱通、但、上様御上洛、当月中ハ相延申由ノ注進、
ノ報       |
         |     (忠真)
         |  一、小笠原右近様ゟノ御返状壱通、
端午ノ祝儀    |  一、右近様へ端午之御祝儀ノ御使者ニ、寺嶋平兵衛被遣ニ付、御帷子御単物持参候処ニ、平兵衛ニ
         |    右近様ゟ御帷子弐つ被下由申下候事、
刺鯖ノ苞     |  一、殿様へ上り申さしさばのつと壱つ、
干瓜       |  一、同ほしうりのはこ壱つ、
         |  一、寺嶋ゟ我々へ之状壱通、
         |     右ハ桑田左兵衛持下候、
         |
蘇鉄移植ノ奉行帰 |一、そてつ奉行仕、被罷上歩ノ御小性渡辺加太夫・林作左衛門、御小早石井又左衛門舟ニ、大坂五月
着ス       |  朔日ノいぬノ下刻ノ時付之状、同八日ノ辰刻ニ下着申候ニ
京大坂ヨリノ来状 |
 大文箱     |  一、殿様へ大文箱壱つ、京都参人衆ゟ被上候也、
         |  一、同  築山兵庫ゟノ書状壱通、
 太刀ノ鞘    |  一、御太刀ノさや、京都衆ゟ下を、奥納戸へ衆右両人被渡候事、
         |  一、加々山主馬ゟ我々方へ書状壱、
         |  一、京都三人衆ゟ我々方へ書状壱、
         |  一、石本三介ゟ我々方へ、主ふち方の日限のさしあかミ、状共ニ壱包、
         |  一、大坂御米奉行三人ゟノ書状、我々ニ宛下ル一通、
         |    右歩ノ御小性両人持、登城被仕候也、
航海日数不審   |  右ノ桑田左兵衛ハ大坂今月四日ニ出船仕、七日夜ノ七つ時分ニ下着申候、又左衛門舟ハ同朔日ノ
         |  晩ニ出船之由ニて、八日ノ辰刻ニ下着申候、いかゝふしん、
早道       |一、筑後へ追々 御書箱、早道助市ニ遣、
         |   (勝茂)
         |一、鍋島信濃様へ 御書箱壱つ、御小人早道助市ニ遣也、
         | (木下延俊)
         |一、右衛門様へ 御文箱壱つ被遣候也、次飛脚ニて、
         |一、中津様へ 御書箱、御飛脚ニ持せ遣、
志賀へ米ヲ遣ス  |一、志賀へ米五十石、大坂着ニて被遣、 御印取置、寺嶋方へ可被相渡との きりかミ上せ置調候
         |    (敦行)  
         |  を続平右衛門被請取候事、
清田乗栄忠利ニ附 |一、吉住半四郎御使ニ被参候事、但、清田七助を 殿様ニ御奉公申候へと、 三斎様御意ニて、半四
属セシメラル   |  郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく 三斎
         |  様ゟ付被遣候事、
         | (田中氏久カ)
中津ノ造作銀ノ算 |一、田川猪兵衛・宇野里兵衛中津造作銀御算用相済、被帰候事、
用済ム      |
         |

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