津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■神話のロマン「高千穂」

2020-01-23 11:26:04 | 徒然

 神話の故郷、宮崎の高千穂では多くの観光客でごった返しているらしい。今日のメディアが伝えていた。
シーズンには車の渋滞が起きえらいことになっているらしい。メディアの報道は高千穂峡の貸しボートの値段が3倍に跳ね上がるということらしい。二人で乗ると5~6,000円だというから、これは異常だともいえる。
年間150~200万人がおとずれる神話の故郷が物議をかもしている。

 最近私は長部日出雄著の「天皇はどこから来たか」を読んでいる。
神話論争の古くは、本居宣長と上田秋成の評価の違いに代表されるように思うが「邪馬台国」の所在については以降そのお互いの説を受け継いで議論が続いているようだ。素人には「大和国説」かなと思ったりしているが、熱い議論には興味が尽きない。
高千穂についても「鹿児島説」「宮崎説」がしのぎを削り、これが観光客を魅了しているようだ。
碩学津田左右吉先生のお説は、現在の「象徴天皇」を予見させるものであったが、熊本人・原理日本社蓑田胸喜の訴えるところにより罪を得られたが、まさに先見の明であった。
蓑田胸喜は戦後天皇の人間宣言を受けて自裁しているが、裁判自体は戦前のものであり時代があと数年下れば津田先生も無罪であったのかもしれない。
その津田先生は、東征の出発の地として高千穂の地を否定しておられる。
長部の著書から引用すれば、「僻陬の地ヒムカが、皇室の発祥の地であったというのには、ほとんど根拠がない」と断じている。
しかしながら九州人たる私としては、神話の世界のロマンを高千穂の地に委ねたいと思うのである。

 私は運転免許の期限が30日をきり、免許返上の前に車でどこかに出かけようと考えていて、高千穂を経て奥方の実家がある延岡まで足を延ばしてみようかとおもっていた。
しかし、片道3時間弱の運転は少々荷が重たい。今ではあきらめに似た心境になっているが、「皇室発祥の地」ともいえる「高千穂」を訪れることもない事だろう。

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■「阿部茶事談」(24)釈文

2020-01-23 10:15:01 | 細川家譜

24                            尓名乗懸て一所尓討死すと也
           茶話曰予か父十二才ゟ光尚公近習尓在て其
           日ハ松野右京宅江御成尓て御供尓行ける 未明
           尓御供中御玄関尓揃有之時分阿部屋敷へ
           討手寄たりと聞へ大勢の聲御殿ニ聞へし由
           被物語連り 無程注進数馬討死と達しけれハ
           光尚公甚た惜ませ給ふ 其時の御意尓数馬
           事ハ思召違尓て討手被仰付御残念の御様
           子也 世上尓ても全く外記か讒言故討死せし也
           と沙汰也 大目附林外記皆人大尓恐連大小名
           尋問■す門前市をなす事言葉尓難述                                     
           然る尓真源院様御逝去何連も御懇意の
           面々殉死せしか外記曽て御追腹の気無り
           けれハ諸人の物笑と成初の勢ひ尓引替出
           入する人もなし 監物殿斗初尓不替懇意
           尓て出入被致外記か所存如何成故尓や彼レか
           心尓こそあらめ士は一期の後ならでハ善
           悪知連ぬ物也とて不替懇意也 綱利公
           御代初八月朔日伊藤十之允討果伊藤
           一家押寄せ踏潰し家断絶尓及べり 又曰
           数馬兄有り八兵衛と云 討手尓は非すして
           阿部屋敷尓来り働けるが終りて後

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■細川小倉藩(130)寛永三年・日帳(五月十九~廿二日)

2020-01-23 07:21:28 | 細川小倉藩

                        (寛永三年五月)十九日~廿二日

         
              十九日
         |

         |一、岡田一角者ノ儀、言上之状一通、
豊後横目へ茶入進 |一、豊後御横目衆へ、御茶入被進候様子ノ言上状壱通、
上        |    右弐通、渡海ノ船頭小倉うら町の小一郎ニ上せ申由、舟瀬里兵衛申候事、
         |一、荒木権右衛門被罷上候事、
子馬墜落死    |一、かん田ノ御牧ノ馬ノ子、昨日うミ申由申来候へ共、今日五つ時分ニ、松山北ノ方ノほきゟおち候
         |  て、死申由申来候事、
         |

         
              廿日
         |

百姓ノ書物墨引仕 |一、当郡高月村百姓之書物、墨引申候を、仕直シニ遣申候、則被来五郎兵衛下代安倍又左衛門ニ相渡
直シ       |  候事、
河崎伝右歿    |一、河崎伝右衛門今月十六日ニ相果候由、但、溝口里兵衛申来候事、
買物奉行ノ横目  |一、渡長右衛門儀、野口久五郎替御買物奉行ノ横目ニ申付候事、
         |                  (直正)
日向材木買入   |一、日向へ御材木買ニ遣候御鉄炮衆寺本八左衛門組下野甚七、伊藤金左衛門組椎佐左衛門両人遣可遣
         |                                          〃
         |  由、今日申付候、但、廿三日ニ参由、
         |

         
              廿一日
         |    ニて

日向ニテ舟造リ  |一、日向へ御舟作せ申ニ付、御船頭南喜右衛門・御舟大工青木三郎右衛門両人ニ、御加子相添遣候、
         |    〃
加子小屋仮設   |      居申  
         |  御加子之小屋作候へと申付候、喜右衛門・三郎右衛門ハ知行取にて候故、小屋ハ不申付候、又御
         |  加子遣銀ハ、野田小左衛門罷下候而、相談ニて可相渡事、
         |一、伊藤金内・谷小八郎・菅十兵衛、今日江戸ゟ被罷帰候事、
         |             (ママ)
         |一、江戸御留守居衆ゟ、宮村千斎小者、三十め之借銀之儀被申越候書物、豊岡甚丞へ相渡候事、
         |一、米・大つ・薪、右衆江戸ゟ被持下候事、
         |

         
         |     廿二日
         |                                            (松本)(豊岡)

上方供ノ切米取ノ |一、今度上方御供之御切米取衆遣銀、浅井五左衛門・宗田伝左衛門手前ゟ被相渡候処ニ、彦進・甚丞
         |                かミ
遣銀ノ請取ニ銀奉 |  ゟそれ/\へ被渡候へとのきり〇斗ニて被渡候銀子、請取人うけ取申とのうら書を仕せ、取置可  
行無念      |  被申処ニ、無年ニて取後被申候、然上ハ、両人ノ御銀奉行、重而銀かり主請取不申由申候ハヽ、
         |  五左衛門・伝左衛門弁上納可仕とのうら判をさせ、可被取置候、左候て、付替ノ御帳ニ被写候へ
         |  と、椋梨半兵衛方へ申渡候事、但、当番国遠道倫也、
         |              (室、播磨揖保郡)八日
六丁小早     |一、六丁小早之御船頭続二右衛門、むろゟ十七日ニ出候由ニて罷下候、
         |                    〃〃
忠利書状三斎宛  |  御書箱壱つ 三斎様へ被進候、長舟十右衛門ニ被成御当候也、
         |  私共両人ニ 御書被成下候事、
         |   (宗茂)
         |  立花飛騨様ゟ式ア少殿へ御状壱通被遣也、右之御船頭衆被持下候事
         |          

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