2008年4月1日(月)(続き)
![](http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=34/57/31.34,135/46/41.112&scale=70000)
京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。
すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。
関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/31/8e004ad2bbd77aa377f5aa804e410737.jpg)
ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。
ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/ab/c0723195e00c684cfa1cbe241b75e0f0.jpg)
この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/3f/74fc3e023e18b7c11c3a8cca90eda41c.jpg)
墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。
平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/5b/c234420915681d74279d4feaf03cfdc8.jpg)
本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。
本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。
本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/87/7d6958af201cbd1a3562adea4d7440fa.jpg)
さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/13/c2e3b2b69a0667844eee47ebe567fd40.jpg)
入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。
深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。
嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ce/99dd4198863c0bc3c2bcd0465522228a.jpg)
室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。
境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。
北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/5c/4ce4dedee3fd7ecdf3573ecaffef399f.jpg)
永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/24/04f0bc13f84510b6cc1e130baec875fe.jpg)
多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。
西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。
少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/f7/803fd1b9888843cde377fe72209d9d83.jpg)
黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。
本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/0e/f9a6cf93b5503d85735d768bc7f6698d.jpg)
江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/db/5d6abca91b0a268075530ca70cfbff3b.jpg)
さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。
奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。
朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。
本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/e0/1c213b10911e504ef93904603295727a.jpg)
少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/53/0fac3a916c8a23451beb0fd9b568a29c.jpg)
応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/5a/fcd8311f766fafc6bfa6aaed578d8f29.jpg)
豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。
17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。
(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)
京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。
すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。
関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/31/8e004ad2bbd77aa377f5aa804e410737.jpg)
ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。
ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/ab/c0723195e00c684cfa1cbe241b75e0f0.jpg)
この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/3f/74fc3e023e18b7c11c3a8cca90eda41c.jpg)
墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。
平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/5b/c234420915681d74279d4feaf03cfdc8.jpg)
本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。
本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。
本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/87/7d6958af201cbd1a3562adea4d7440fa.jpg)
さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/13/c2e3b2b69a0667844eee47ebe567fd40.jpg)
入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。
深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。
嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ce/99dd4198863c0bc3c2bcd0465522228a.jpg)
室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。
境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。
北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/5c/4ce4dedee3fd7ecdf3573ecaffef399f.jpg)
永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/24/04f0bc13f84510b6cc1e130baec875fe.jpg)
多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。
西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。
少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/f7/803fd1b9888843cde377fe72209d9d83.jpg)
黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。
本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/0e/f9a6cf93b5503d85735d768bc7f6698d.jpg)
江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/db/5d6abca91b0a268075530ca70cfbff3b.jpg)
さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。
奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。
朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。
本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/e0/1c213b10911e504ef93904603295727a.jpg)
少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/53/0fac3a916c8a23451beb0fd9b568a29c.jpg)
応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/5a/fcd8311f766fafc6bfa6aaed578d8f29.jpg)
豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。
17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。
(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)