あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

京都・伏見の社寺を巡る(下)

2008-04-19 22:44:12 | 京都を歩く
 2008年4月1日(月)(続き)



 京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。

 すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。

 関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。

 ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。

 ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。


 この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。


 墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。

 平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。

 本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。

 本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
 
 絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。

 本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。


 さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。

 入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。

 深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。

 嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。

 室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。

 境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。

 北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。


 永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。

 多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。

 西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。

 少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。


 黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。

 本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。


 江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。


 さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。

 奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。

 朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。

 本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。


 少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。


 応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。


 豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。

 17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
 歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)

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