あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

やまさんから「関東百駅巡礼歩行」の巡礼地図が届く

2013-12-19 16:42:23 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年12月19日(木)

 きのう、「やまさん」こと山浦正昭さんから、「関東百駅巡礼地図」が届きました。
   

 2004年2月から開始して、この12月14日(土)に全100駅を巡り終えて満願
(完了)となった、「関東百駅巡礼歩行」の全100駅の行程を、やまさんが丹念に記録
した100枚の地図です。

 最多参加(76回)の私だけへのご褒美ともいえるもので、大変嬉しくいただきました。
以下に、節目の1番、25番、50番、75番、100番の地図を紹介します。

 現地を歩いて、しっかりとメモをとらなければ出来ない貴重な記録で、やまさんならで
はの作品です。

 第1番 総武流山電鉄(現在は流鉄に改称)流山駅 2004年2月14日(土)
   

 第25番 秩父鉄道 三峰口駅(私は不参加) 2006年⑸月13日(火)
   

 第50番 JR内房線 那古船形駅 2008年12月13日(土)
   

 第75番 東武伊勢崎線 境町駅(私は不参加) 2011年6月11日(土)
   

 第100番 京成金町線 柴又駅 2013年12月14日(土)
   

 いただいた100枚の地図を眺めてみると、それぞれの場所で見つけたもの、出会った
人、思いがけぬハプニングなど、色々な事が思い出されます。

 そしてこの巡礼歩行に参加したお陰で、いままで知らなかった多くの方々と知り合いに
なり、一緒に何度も歩くことが出来、大きな財産となりました。これも、やまさんの人脈
の広さと、参加された方がさらに友人、知人も同行されたので、輪が広がったのです。

 大変ユニークな旅を企画していただき、さらにこのような記録をいただいたやまさんに
は、感謝のほかありません。

 以下には、最終回の100回目にやまさんからもらった、全100回の一覧表と概念図
も紹介します。朱塗りは私の参加した駅、水色はもらった地図で別途歩いた駅です。
   

   

 参加されたことのある方には、その日のことを幾分なりとも思い出していただければ幸
いです。

 ちなみに、私の参加した駅のうち、初期を除くほとんどは、当ブログのカテゴリー「関
東百駅巡礼歩行」からご覧いただけます。




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関東百駅巡礼歩行 第100番 京成金町線 柴又駅(東京)

2013-12-16 19:08:27 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年12月14日(土)

 「やまさん」こと山浦正昭さんが、10年前の2004年2月から始めた「関東百駅巡
礼歩行」は、毎年関東1都6県の10駅ずつを歩き続けて、ついに満願の100番目を迎
えた。

 最後の集合駅は、やまさんの地元、京成金町線の柴又駅。初回以来10年ぶり参加の横
浜のKさんなど、久しぶりのメンバーも集まり、総勢21人となる。

 駅前に居られた、そっくり寅さんにも入ってもらって記念撮影をして、11時にスター
トする。

 駅前広場の片隅に「おりつ地蔵尊」が祭られていた。昭和初期、この町で肉親のために
生命を絶たれた律子という女性に同情して、近所の人々が建立したという。
        

 線路沿いの通りを南に進んで踏切を越える。そばのコインランドリーに、鉛筆で描いた
著名人の似顔絵がたくさん貼ってあった。


 次の踏切を渡って東進する。手打ちそば「上総家」は、美味しいことで知られた店。私
も以前この周辺を歩いたときに、やまさんなどと入ったことがある。


 桜道中の東を回り、江戸から佐倉に通じる佐倉街道「さくらみち」へ。愛称は「親水さ
くらかいどう」。標石のところで、やまさんが明治時代のこの辺りの地図を見せてくれた
が、当時はほとんどが田んぼだった。通りにはソメイヨシノの並木が続いている。
     

 この通りを300mほど進んだ交差点際にも「似顔絵コインランドリー」があり、やは
り壁面や天井全面に同じ筆跡の似顔絵が並ぶ。

 コインランドリーの主、菅野さんが描いたもので、紹介の新聞記事も貼付されていた。

 次の交差点を右折し、北総鉄道の高架の手前にある鎌倉公園に11時35分に入り、昼
食となる。公園のソメイヨシノは、すっかり葉を落としていた。


 昼食を終え、参加したグループごとに自己紹介を行い、やまさんからは百駅を終えた後
の歩き方についてのアドバイスなどがあり、12時25分に出発する。


 北総鉄道の高架下を南に抜け、同じ鎌倉公園の一角にある鎌倉野草園に入ろうとしたが、
冬期は日曜・祝日のみの開園だった。

 野草園の東側の通りを南東に進む。京成本線の線路際に小さなお堂が二つ並び、大きな
石灯ろうも立っている。

 右のお堂には「鼎(かなえ)地蔵」と呼ぶ大きなお地蔵さんと青面金剛立像が祭られて
いる。この辺りは鼎橋跡、青面金剛像は道標になっていて、「橋向左矢切渡しみち」と記
されている。左のお堂は、南葛八十八ヶ所の第六番大師堂だった。

 ちなみに南葛八十八ヶ所霊場は、大正時代に旧南葛飾郡内を対象として整備された霊場
だという。

 お堂の前を東進して次の信号のある交差点を右折する。京成本線の線路のすぐ手前の交
差点際にも小さい「にがおえコインランドリー」があり、ここの壁面は女性の似顔絵が多
かった。
    

 東進して都道307号・柴又街道に出て、通りの東側にある大珠院に入る。境内は狭い
が植栽は豊富。
    
モミジがきれいに咲き残り、その下などにご住職が作陶したという小さい羅漢像が並んで
いる。
    

 寺は、南葛八十八ヶ所霊場の第十三番と第七十八番札所とか。ご住職と奥様が顔を見せ
て下さり、当寺の史跡案内とミニ地蔵のストラップをいただく。墓地は道路の北側にあり、
七十八番の小さなお堂は墓地の奥に祭られていた。

 墓地の東側から北に伸びる道路へ。すぐ左手の民家に大きな夏ミカンがたわわに実り、
エノキの古木が大きく枝を広げている。

 Tさんの家で、エノキは葛飾区保存樹木に選定されていた。

        
 クロガネモチがたくさん実を付けた鎌倉小の校門前を左折して、鎌倉八幡神社へ。

    
 当社は、相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、寛永年間(1624~44)に
鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守となって
いたとか。境内のイチョウの古木はすっかり葉を落としていた。

 西側の柴又街道を次の信号まで進み、鎌倉四丁目に戻って北へ。江戸川区北小岩八丁目
を少しだけ抜けて「親水さくらかいどう」に出た。東進して北側の柴又五丁目に回り、り
っぱな仁王門をくぐって医王寺に入る。


 医王寺は、応永14年(1407)に将軍足利義満が、下総国一円に赤目病と呼ぶ奇病
が発生しているのを聞き、京都仁和寺の観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、ここに建
立したもので、以後、眼病を守る仏として信仰を集めているという。

        
 柴又七福神の恵比寿天の寺でもあり、本堂前の大理石の祠(ほこら)には、南葛八十八
ヶ所霊場第五十七番札所の石仏が祭られていた。

 北総鉄道の高架下を新柴又駅際まで行き、北に抜けて近くの宝生院に向かう。宝生院の
手前、南側に接する広い墓地は、柴又帝釈天、題経寺のもの。墓地には、柴又駅前にあっ
た「おりつ地蔵尊」の「おりつの墓」がある。
        

 その横には「鑿(のみ)塚」と刻まれた大きな石碑があるが、由緒は分からない。
        

 入口近くには、「浅間山噴火川流(かわながれ)溺死者供養碑」が立っている。天明3
年(1783)の浅間山大爆発により、上流の吾妻川から当地に流れ着いた利根川、江戸
川流域の溺死者を供養したものとか。
        
 史上まれに見る大災害の一端がうかがえる貴重なもので、区指定文化財になっている。

 墓地の北に接する宝生院は、柴又七福神の大黒天の寺で、南葛八十八ヶ所霊場の第五十
番札所。境内のイチョウとモミジがよい彩りを残している。


 宝生院の東側は東柴又小、北側の校舎入口のガラス戸に、低学年児童が書いたらしいク
レヨン書きの「げんかん」の表示がある。

        
 南側の校門には、木彫りでこのような表示があり、木彫りの表示のある小学校はここだ
けだろうと、やまさんは言う。

 北総鉄道高架下を少し東進し、北側の柴又地区センター横を通り、江戸川右岸堤防に上
がる。眼下の堤外河川敷は少年野球用の第二運動場である。


 すぐ下流では、対岸の松戸市側から動き始めた、矢切の渡しの渡し舟が望まれる。


 堤防上を寅さん記念館のそばまで進んで今日の歩きは解散となり、矢切の渡しを渡りた
い人と、山本亭から帝釈天方面に向かいたい人とに分かれる。

 私は、やまさんなど約半数の皆さんと葛飾区山本亭↓に入る。


 山本亭は、地元でカメラ部品製造をしていた山本工場の創立者、山本栄之助の自宅。関
東大震災後ここに住み、昭和63年(1998)に葛飾区が取得し、5年後から一般公開
しているという。

    
 伝統的な書院造りと洋風建築を合した和洋折衷の建物に、純和風の庭園がよく調和して
いる。
    

 建物に入って部屋を一巡後、皆さんとその一室で喫茶のひとときを過ごし、やまさんが
持参の関東百駅の写真集や自作されたレポート地図を見せてもらい、10年間の歩みをふ
り返る。ゆっくりと過ごして15時18分に山本亭を出た。


 南東側から柴又帝釈天・題教寺に入り、関東百駅満願に感謝して参拝し、豪華な山門を
出る。



 参詣客などで賑わう門前の土産店をのぞいたり、草団子を求めたりして日の傾きかけた
商店街を進んで、15時35分に柴又駅にゴールした。

(参加 21人、天気 快晴、距離 6㎞、地図 葛飾区道路地図、歩行地 葛飾区、江
 戸川区、歩数 10,200)

 10年間百駅中、私が参加したのは4分の3の76回、でも参加者中では最多だった。
参加の都度押印した「関東百駅巡礼カード」がよい記念になる。 





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関東百駅巡礼歩行 流鉄流山線 小金城趾駅(千葉)

2013-11-12 16:13:45 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年11月9日(土) 

 あと1回となった、第99回の関東百駅巡礼歩行に参加した。

 集合は流鉄(りゅうてつ・旧総武流山電鉄)流山線の小金城趾駅。常連メンバーと、お
近くにお住まいのカタツムリ歩行事務局のDさんご夫妻が参加され、記念撮影をして11
時3分に駅を出た。
    

 改札口から跨線橋↑を渡り、線路と平行して流れる新坂川沿いの道路に下って南東に向
かう。


 線路の向こうにある民家の、たくさんの柿が色づいていた。


 県道280号の走る最初の踏切を渡る。傍らの左に入る車道とのT字路際に、「いぼ弁
天」とも呼ばれる平戸弁天の小さいお堂があり、いぼ弁天の名の由来を記した説明板があ
った。
        

 その通りを進み、すぐ先の十字路際から台地の斜面に残る大谷口馬屋敷緑地に入り、緑
地下の遊歩道へ。緑地の終わる辺りに「大谷口歴史公園」の説明を刻んだ新しい石碑があ
り、「ここが中世の城郭跡で、東葛地域最大勢力の高城氏の居城の一部が残されている」
ことなどが記されていた。


 台地下をさらに右に回り込み、金杉口と呼ばれた小金城の北側のの虎口(出入口)から
階段を上がって、最上部の広場に出た。広葉樹に囲まれた一帯が、別称大谷口城とも呼ば
れる小金城跡である。


 小金城は南北約600m、東西約800mに及び、12もの郭(くるわ)を備えており、
当時の下総国北西部で最大規模の平山城(ひらやまじょう)とのこと。

 千葉氏の家老である原氏の重臣、高城胤吉が天文6年(1537)に築城し、高城氏3
代53年の居城となり、のち徳川家康の五男、武田信吉の居城にもなり、文禄5年(1593)
に廃城になったという。


 大谷口歴史公園はその城郭の一部として整備されたもので、広葉樹に覆われた一帯に、
畝堀(うねぼり)や障子堀(しょうじぼり)↑、土塁(どるい)などの遺構が残っていた。

 園内を一巡し、11時35分頃、少し早めだがこの先に適地が無さそうなので、公園内
の東屋で昼食をする。20分ほどで食事を終え、ムラサキシキブの実の色づく北東端に下
り、公園を出た。
    

 その先、公園に接して大きな石積みの上に立つ大勝院の入口があったが、併設の幼稚園
の標石の上にはミッキーマウスが乗っていて寺らしさが感じられない。
        

 寺に入るのは止めて、北側の県道280号を越え、緩やかな斜面を上がって殿平賀(と
のひらが)小の北側に回る。

        
 学校に平行して東西に細長い殿平賀公園があり、縄文時代後期の殿平賀遺蹟の標柱が立
つ。公園の東端には、大石に埋め込まれたこの周辺一帯の区画整理記念碑も置かれていた。
    


 ソメイヨシノなどの色づく殿平賀小の校庭を見下ろし、突き当たりを北進すると住宅地
の中にポッカリと農地が残っている。


 その農地で収穫したネギを、父子がネゴ車で運んで来たので話を伺う。お二人の自宅は、
畑に接した北側の民家だった。

 その家の表側は本土寺(ほんどじ)の赤門の前にあり、収穫した野菜や漬物、農産物の
加工品などを販売し、食堂も兼営の「赤門家」と呼ぶ店。
    

    
 おいしそうな漬物などを試食して、何人かが購入する。私も、干し芋を求めた。


 本土寺の赤門を入ると、アジサイやサクラ、モミジなど松戸市の保護樹木になっている
木々が多く、さらに下ると木々の間に本堂が望まれた。


 本土寺は、建治3年(1277)、この地の豪族平賀忠晴の屋敷内に日蓮聖人の弟子、
日朗が開堂したのが起こりとか。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺と並び「朗門の三長三本の
本山」と呼ばれる名刹(めいさつ)で、近年はあじさい寺として親しまれているという。

 以前は無料だったようだが、その先に入るには拝観料500円が要るようなので、今日
は拝観は省いて先に向かう。境内のモミジの色づきは、もう少し先になりそう。
    

 本土寺の塀沿いを東北に進み、行き止まりを台地下に下る。幸田五丁目の住宅地を東北
に進んで坂川を挟む田園地帯に出た。


 坂川の橋を渡って左岸沿いの道を南東に向かう。流れに泳ぐカルガモを見下ろし、キク
の咲く畑の横などを過ぎ、JR常磐線の線路際まで進んだ。


 常磐線のガードをくぐり、小金きよしヶ丘一丁目の東端、流れに沿った道路を南下する。
流れ沿いに、昭和50年(1975)7月21日の豪雨で浸水したことを記すコンクリー
ト柱が立っていた。
        

 橋のそばの三差路際に、「圓満」というパン屋さんがあった。表に出ていた奥さんは、
台湾から来て京都でパン造りの修行をしたとのこと。

 店内には、手作りパンのほか、のりや梅干しなど日常食品、洗剤やティッシュペーパー
などの日常雑貨も少し並んでいた。

 500mほど進んで突き当たりを右折し、車道を越えて西側の小金きよしヶ丘一丁目の
住宅地へ。


 ケヤキの色づく清ヶ丘小金公園の北側を通過し、JR北小金駅に通じる車道に出た。す
ぐ南側に東漸寺(とうぜんじ)の入口があり、西に長い参道が延びている。
     

 東漸寺は、文明13年(1481)の創建で、小金城に高城氏が定着した16世紀中頃
に、ここに移ったと考えられているとか。東漸寺も高城氏とともに発展し、江戸時代には
浄土宗の学問所である関東十八檀林のひとつになり、第17世住職は、二代将軍徳川秀忠
の葬儀では導師を務めたという。


 まだ緑のモミジや、松などの古木の並ぶ参道には三つの門があり、二つ目が一番大きい
仁王門。三つ目の門のそばのモミジだけが、色づき始めていた。



 本堂前には、松戸市保護樹木のシダレザクラとクロマツの古木が立つ。



 境内を清掃していた女性が仕事を終えて本堂前に戻って来たので、寺の行事や花木の見
ごろの時期などの話を伺った。
    

 大きな鐘楼の横から広葉樹の間の階段を下り、車道を横断して小金清志町三丁目を西に
抜ける。JR常磐線のガードをくぐり、線路沿いを進んで、ゴールのJR新松戸駅に14
時32分に着いた。


 始終厚い雲に覆われて気温が上がらず、ちょっと薄寒い日和(ひより)だった。
 

(参加 12人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 流山、松戸、歩行地 
 松戸市、流山市、歩数はカウント漏れ)




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関東百駅巡礼歩行 関東鉄道常総線 水海道駅(茨城)

2013-09-12 22:05:30 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年9月10日(火)

 関東百駅巡礼歩行の第98回は、あの猛暑のピークだった8月10日(土)に実施され
たが、私は法要で参加出来ず、ひと月遅れて一人で訪れた。

 スタート地は関東鉄道常総線の水海道(みつかいどう)駅。地図は前回にやまさんから
もらってある。

 10時50分にスタート、まずは駅前の観光案内所に入って常総市のパンフレットを入
手し、駅前から北へ、宝町の商店街に向かう。

 今日は休業日なのか、閉じた店が多い。宝町会館のそばに、かなり背の高いりっぱな火
の見やぐらが残っていた。


 県道330号に出て西へ、すぐ先の十字路で折り返して広い通りを南に向かう。

 みらいみそという店の先で、ひとつ西の細い通りに回る。県道357号を横断すると市
立図書館があり、構内に旧水海道町役場だった二水(にすい)会館と呼ぶ和洋折衷の建物
が移築されていた。

 大正12年(1913)に建てられたもので、国登録文化財になっている。

 西に回り込んで再度県道を横断し、北へ向かう上り坂の横の水海道天神社に入る。菅原
道真を祭り、後村上天皇の時代(1339~67)の創建。

 現在の本殿は永禄9年(1566)の再建のよう。

 本殿の南には、一の日と六の日に開かれる「六斎市」の守護神とされる、「一六(いち
ろく)神社」の小さい社殿がある。

 天神社の前には青銅製の撫牛(なでうし)が座り、祈りを込めて撫でると身体健全にな
るという。


 坂を上がって水海道一高の北側を入ると、広い境内の報国寺。大本堂の前のサルスベリ
がきれいな彩りを見せる。


 鐘楼はどっしりしとした造り。境内の西隅に、古い石仏が100体近く並んでいた。


 西側にある愛宕神社の横を進んで、鬼怒川の豊水橋のそばまで行く。手前の三差路際に、
レンガ造りの古い建物が残る。「五木宗(ごきそう)レンガ蔵」といい、幕末から明治に
回漕業を営んでいた五木田家のもの。

 明治15年(1828)の建造で国登録有形文化財。近年に改装され、現在は五木宗関
連資料などの展示やギャラリーとして活用されているという。

 道路を挟み、鬼怒川に面した小さいエリアは観水公園。鬼怒川の眺めを見下ろせる東家
といすがあり、「水海道遊泳会発祥之地」碑が立つていた。



 橋桁を塗装工事中の豊水橋の、上流側歩道を渡る。このところ雨が多かったので流れは
豊富で、左岸の新八間堀川水門の北方はるかには筑波山が望まれる。


 橋を渡り終えてすぐ北側の河原集落に入り、右岸堤防沿いを進む。民家の柵際に、縞模
様のまん丸い柑橘が実っていた。


 集落の北端にあった安養寺へ。正応元年(1288)の創建で、寛文年間の鬼怒川改修
工事で現在地に移され、江戸時代には朱印地となったとか。南側の不動堂は、霊験あらた
かな厄除(やくよけ)不動として信仰されているという。


 本堂前のシダレザクラは「称名桜(しょうみょうざくら)」と呼ばれ、推定樹齢300
年の古木である。


 本堂の北側には、西国、秩父、坂東を合わせた百観音石像が並んでいた。


 西に向かい、台地上の古い住宅地を進み、前原集落の北西端にある池のほとりに下る。

 「けんちの苑」の看板があり、「水辺周辺には、環境省の絶滅危惧1類に指定する貴重
な生物の生息が確認されている」と記されていた。

 池には紅白のスイレンが咲き残り、カルガモの姿も見えた。


 池の西側を北進して谷津集落に上がり、三差路際にあった「明星菴」と記されたお堂の
濡れ縁を借りて遅い昼食とする。

 陽の当たる道路はやや蒸し暑いが、日陰は風が通りしのぎやすい。

 通りの西には、かやぶき屋根にトタンを被せた古い民家が残っていた。


 お堂から折り返すように南西に少し進むと、地図上にはない不動院があり、境内は公園
のように広くて開放的。


 地図上の標高18.8m三角点を探したら、不動堂と並ぶ不動会館のそばのモミジの下
に、三等三角点が見つかった。


 境内北側の三差路を西へ、県道134号に出たところに、石塚酒店の古い建物が残る。


 この辺りは報恩寺集落、その名の寺は、すぐ北にあった。

 報恩寺は、建保2年(1214)に親鸞聖人二十四輩の第一弟子、性信房(しようしん
ぼう)の創建とされ、親鸞聖人の旧跡として知られているという。


 本堂は文化2年(1806)の造営で、境内の幹回り4.22mの大イチョウや、西本
願寺門主御手植杉などが目についた。

 県道を北へ、水海道豊岡郵便局のある次の三差路を右折して豊岡小の前を通過すると、
やわらかな彩りのソバ畑が広がろ。

 横曽根の十字路を左折して、すぐ北にある法性寺(ほうしょうじ)に入る。法性寺は、
永徳2年(1382)に聖商上人の開創、聖商上人は浄土宗の開祖、法然上人から数えて
七代目の継承者で、教団の基礎を固めた重要な人物という。

 本尊の如意輪観音は、子育て・安産の守本尊として知られ、「横曽根の観音様」と呼ば
れて多くの信仰を集めているとか。

 本堂をのぞくと、茨城県有形文化財の木造如意輪観音座像が拝観できた。

 集落の北側に、結城街道三社のひとつという諏訪神社が祭られ、境内は杉木立に覆われ
ている。


 神社の横を北進し、国道354号バイパスである水海道有料道路下を抜ける。周辺には
水田があるがほとんど刈り入れが終わり、わずかに残る有料道路手前の田で、収穫の準備
をしていた。



 花の咲き出したソバ畑の横を過ぎて飯沼集落に入り、東京芝の増上寺の別院で、関東十
八檀林のひとつという弘教寺(くぎょうじ)へ。

 応永21年(1414)の創建、第十世了学の時代に徳川家から莫大な寄進が寄せられ、
堂塔を再建したとか。

 了学が導師を努めていたことから家康の孫娘、千姫(せんひめ)の菩提寺となり、遺言
や遺骨の一部が納められた墓所があり、遺愛の品々が寺宝として納められているという。


 寺には旧水海道市文化財という鐘楼や山門、教蔵、絵画や扁額、工芸品などが多く、落
ち着いたたたずまいの広い境内の中で、幹回り7.53m、樹高33mという大杉が目に
ついた。境内西南隅には、八幡宮が祭られている。


 門前を南東に向かい、台羽生集落の十字路を南進する。十字路際の電柱にノウゼンカズ
ラが絡まり、独特の景観を見せる。


 水海道有料道路に出て、下流側に付けられた歩道で水海道大橋を渡る。橋からは、豊水
橋よりはっきりと筑波山が望まれた。


 料金所の手前で道路下をくぐり、北側の左岸堤防下にある諏訪神社に寄る。天和3年
(1683)に、先ほど寄った横曽根の諏訪神社から分霊したもので、鬼怒川水辺の安全
と流域住民の安住のために信仰を集めて来たという。


 県道354号に出て有料道路を横断し、北水海道駅に15時28分に着いた。ホームは
一面だけ。15時34分発上り1両の気動車で水海道駅に向かった。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 水海道、歩行地 常総市、歩数 歩数
 計故障)


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関東百駅巡礼歩行 東武佐野線 佐野市駅(栃木)

2013-07-15 18:32:25 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年7月13日(土)

 関東百駅巡礼歩行の第97回に参加した。集合は東武佐野線の佐野市駅。佐野線の電車
は1時間に1本のみ。早めに着いたが待合室にテーブルがあったので、やまさんからもら
った地図に色塗りをして、11時ちょうどに駅をスタートした。


 駅の東側、七軒町の細い通りへ。T字路に出たところに普門院と呼ぶ寺があったが、地
図には記されてない。七軒町の「軒」の字の辺りなので記入できなかったようだ。


 更に東進して、赤坂町で秋山川沿いに出る。川をまたいで送水管が通っている。川原に
はアシが繁り流れは少ない。左岸堤防上の舗装路を上流に向かう。


 堰堤(えんてい)の少し先、流れから離れるところに「頭首工(とうしゅこう)竣工記
念碑」があり、3年かけて昭和43(1968)年にこの堰が完成したことなどが記され
ていた。


 北側の厳浄寺↑の横を北進すると次の橋際の涅槃寺(ねはんじ)の大本堂が目に付く。
橋からの通りを右折した南側に、関東の三大師のひとつ「佐野厄よけ大師」で知られる、
広い境内の惣宗寺(そうしゅうじ)がある。

 朱塗り鮮やかな山門を入ると、これも塗り替えて間もないと思われる佐野東照宮が祭ら
れている。

 徳川家康の霊が静岡県久能山から日光遷座の途中、元和3(1617)年3月にここに
一泊したのを縁に、諸大名の寄進で文政11(1838)年に造営されたもの。全国の東
照宮400余社中最も優れた建造物と評価されているという。

 その奥にもきれいな彩りの建物が並び、厄よけや方位よけ祈願者のための表示が幾つも
並び、本堂では、祈願者の姿も見られた。





 境内には、昭和62(1987)年に建立された高さ8mのパゴダ供養塔や、佐野生ま
れで足尾銅山の鉱毒事件を告訴したことで知られる代議士、田中正造の墓、日本一大きな
金(きん)の梵鐘という金銅(きんづくり)大梵鐘など、幾つもの建物や石造物などが目
に付いた。



 惣宗寺の道路を隔てた北側には、佐野市観光物産会館があったので入ってみた。広い館
内には土産物や地元産品などが多数並び、観光パンフレットも置いてある。


 通りを東に400mほど進み、小さい社の住吉神社に12時2分に入り、社殿の濡れ縁
を借りて昼食をした。

 木が1本だけの開放的な境内だが、昨日までの数日のような晴天でなく、曇っているの
で幾分暑さがしのぎやすくて助かる。

 20分ほどで神社を出る。通りの北側に小さい竹細工店があり、手作りのかごが幾つも
並んでいた。


 次の交差点を北に入ってうなぎ屋の前を通過し、金屋仲町の北側の広い通りを東に向か
う。ところどころに古い住宅が残るが、その数は少なく交通量も少ない。



 亀井町の東端で通りは終わり、突き当たりに徳雲寺がある。庭は狭く南側一帯は広い墓
地。その片隅のサルスベリが色鮮やかに咲く。


 振り返る通りは、真っ直ぐに西に延びていた。


 墓地の南側の狭い通りを東へ。東武佐野線の踏切を渡って浅沼町に入り、すぐ先の八幡
神社に行く。

 神社周辺は寿永元年(1182)に佐野氏の一族、阿曽沼四郎広綱が築いた阿曽沼城跡。
境内東側に、土塁と堀跡が残っていた。


 拝殿前に新しい茅の輪(ちのわ)が造られ、そばに茅の輪くぐりの回り方の説明板があ
る。拝殿左手には、「ふるさと佐野百選」の「おしどり塚歌碑」が立っていた。


 北側の民家は天井の高い造りで、庭木もりっぱ。すぐ先の十字路を北へ。変則四差路際
に、「ボンペール」というケーキ店があった。

 店にいた若い男性のお父さんが10年ほど前に開業したとか。店は小さいが美味しそう
なケーキが並び、町外れではあるが繁盛していそう。

 県道67号・例幣使道(れいへいしみち)を越えて並行する細道を西進し、樹木に囲ま
れた標高44mの台地上にある日向寺に上がり、小休止した。

 高台なので、木々の間から佐野の市街地が望まれる。古い造りの本堂↓は無人で神社風
の建築。本堂に並んで北側には神社もある。


 西に向かって下り、通りを横断して蛭子(ひるこ)神社とも呼ぶ西宮神社へ。七福神の
恵比寿神として知られ、11月の例祭には近郷の商売繁盛を祈る人で賑わうという。


 境内を西に抜け、次の通りを北進して金成院横の台地を上がる。北に下ってJR両毛線
の踏切と東武佐野線のガード下を抜けて久保町に入り、左折して球形のガスタンクの北側
を通過する。

 市の花、カタクリの描かれたガスタンクの西に回って線路際に出て、佐野駅の北側に延
びる佐野城跡である城山公園に上がる。

 佐野城は、慶長7(1602)年に唐沢山城主佐野信吉がこの地にあった惣宗寺を移転
させ、築城と現在の佐野の原型となる町割りを開始したとのこと。

 佐野氏は慶長12年に唐沢山城を廃してこの地に移ったが、同19(1614)年には
所領を没収され、間もなく廃城になったという。

 当時の内堀と外堀は市街化が進んで完全に埋め立てられたが、東西110m、南北390
mの主郭部は堀割をよく留めており、市指定史跡・名勝となっている。

 公園の南側にあった城山記念館に入り、城山の四季の映像を見る。受付には、公園内で
とれた木の実が並んでいた。



 緑豊富な園内を貫く遊歩道を北端まで進むと、日清日露と大東亜戦争の市内戦没者の霊
園があった。


 遊歩道を戻り、ゴールの東武佐野線とJR両毛線の佐野駅に14時12分に着いた。


 蒸し暑かったが曇り空だったので、前日までの猛暑のような中を歩かずに済み、幸いだ
った。

(参加 4人、天気 曇、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 佐野、歩行地 佐野市、
 歩数 11,000)




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関東百駅巡礼歩行 上信電鉄 上州富岡駅(群馬)

2013-06-10 21:34:15 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年6月8日(土)

 関東百駅巡礼歩行の第96回に参加した。集合地は上信電鉄の上州富岡駅。駅舎は建て
替え工事中で、プレハブの小さな仮駅舎。

 
 記念撮影をして10時30分に出発した。



 駅のそばの純和風建築の中華料理店の2階に、沿線の特産、コンニャク芋をスライスし
て串刺しにして干してある。駅前には、古い倉庫らしい建物が残っていた。


 西側の市役所そばの交差点を北へ、踏切を渡って小沢集落の住宅地を北に抜ける。富岡
保育所の横を通過して、交通量の多い国道254号バイパスを横断する。

 歩行者と自転車用の、緩やかな太鼓橋で高田川を横断して、左岸沿いを上流の西方に向
かう。


 倉庫のような建物のそばに、小さい水神宮が幾つか祭られていた。カッパのような石も
ある。



 冠水橋を見下ろし、大きなネギ坊主の畑の先に高田川の堰(せき)の記念碑が立ってい
た。上流には、石積みの堰が幾つか続いている。


 堤防にはもうキバナコスモスが咲く。


 川沿いを700m余り進んで川を離れ、北側の斜面を東北に上がる。眼下に町並みが、
その向こうには西上州の山々の展望が広がるが、遠くは霞んでいて山容は判別しにくい。


 クヌギなどの広葉樹林下となり、送電線下を過ぎるとナス畑がある。Fさんは、ナスの
花は無駄花がなく全部実が付くという。


 さらに先の緩やかな上り斜面に進もうとしたが、金網が張られて進めない。上に造成地
が見え、この一体も買収され通行禁止にしたらしい。

 少し戻り、東京電力の送電線鉄塔への林間の道路を進み、西毛線65号鉄塔下の緑陰で
昼食にした。

 川沿いに下り、老人ホーム共生に向かって上がって行く。途中、遅い田植えを始めた棚
田が何枚かあり、そのひとつにカモが泳いでいる。


 上黒岩に向かう車道に出て、上り坂を北へ、小さい峠を越えて市営富岡霊園の横に下る。
そばの桑畑に桑の実が実り、道路にもたくさん落ちていた。


 機足集落の手前で、折り返すように西側の斜面に向かって上がる。周辺には放置され伸
び放題の桑畑が多い。


 霊園の西側に。墓石店の看板が並んでいた。その辺りは高台なので、西方に県立自然史
博物館の建物や霞む妙義山が望まれる。


 霊園の園路を回り込むと北に機足集落が見下ろせ、路傍の栗が花盛りで強い匂いが漂う。



 もとの車道に下って峠を戻り、南側の黒川集落に入って御霊神社で小休止した。社殿か
らは、荒船山らしい霞んだ山容が望まれた。


 国道254号バイパスの七日市交差点と水の少ない高田川の三共橋を渡って、七日市の
家並みへ。

 上信電鉄の遮断機のない踏切を通過して東側のT字路に、文政13(1830)年銘の
秋葉大権現の石灯ろうが立っていた。


 その角を南進して国道254号へ。東に少しで甘納豆の小嶋屋という和菓子店があった。
店に入ると、80歳という大おかみが磯辺せんべいを出してくれた。

 店には、天皇・皇后両陛下が訪れたときの写真があり、ほかにこの店を取材した新聞記
事が幾つか張ってある。店内に並ぶ甘納豆や磯辺せんべいなど、思い思いに購入した。


 近くにある金剛院に入る。境内には「南無阿弥陀仏」と刻まれた元禄4(1691)年
建立の大きな名号塔が立つている。


 ほかに新しい水かけ不動尊、愛(め)で地蔵、なかよし地蔵など石仏が多く、赤銅色の
七福神を祭る七福神堂もある。名号塔横のカシワバアジサイが見頃になっていた。


 境内を南に抜けて西小の北側の通りを東進し、長いへい沿いに進んで東側に回る。ユネ
スコ世界遺産暫定リストに記載中の富岡製糸場の正門前に14時15分頃に着き、今日の
歩きは解散となる。

 私は、上信電鉄高崎駅で富岡製糸場の入場券付き割引切符を買ってあったので、Kさん
と製糸場に入る。製糸場の入場料は500円だが、割引切符では90円分で入れた。

 富岡製糸場は、明治5(1872)年、明治政府が日本の近代化のために最初に設置し
た製糸場。フランス人のポール・ブリュナの指導により、フランスの技術を日本に合わせ
た工法を加えて建てられ、建物は木材の骨組みにレンガを積む木骨レンガ造りである。

 創業時には世界最大規模の工場だったとか。フランス製の300人繰りの繰糸(くりい
と)機械を備え、全国から多くの工女が集められて模範工場として器械製糸を学び、帰郷
後は地元の工場で指導的な立場で活躍し、日本の器械製糸工業の発展に大きく貢献したと
いう。


 正門を入ってまず、正面の東繭倉庫でガイダンス展示を見る。同じ建物内には売店もあ
った。検査人館、女工館、ブリュナ館などを外から眺め、南側に回って眼下に流れる鏑川
(かぶらがわ)の流れを見下ろす。




 さらに、当時のままの器械の残る繰糸場に入って操業の模様のビデをなどを見た。


 東繭倉庫を抜けて中庭に回り、繭の乾燥場や西繭倉庫なども確認した。30分ほど観覧
して富岡製糸場を後にする。

 正門前の通りを北へ、国道の手前の通りの角にある「銀座まちなか交流館」に寄り、近
隣のパンフレットなどを入手する。


 国道254号沿いには、明治37(1904)年の建築という、土蔵造りの旧吉野呉服
店が残っていた。歌人吉野英雄が幼い頃過ごした家でもあるという。


 建物の東側の通りを進んで富岡市役所前を通過し、上州富岡駅に15時ちょうどに戻っ
た。15時11分発高崎行きに乗り、高崎、大宮経由で3時間余りかけ、18時30分近
くに帰宅した。

(参加 8人、天気 晴一時曇、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 富岡、歩行地 富岡
 市、歩数 17,200)




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関東百駅巡礼歩行 西武新宿線 入曽駅

2013-05-17 22:06:39 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年5月11日(土)

 関東百駅巡礼歩行の第95番に参加した。集合は西武新宿線の入曽(いりそ)駅。小
雨模様なので雨具を付け、東口駅前で記念撮影をして11時にスタートした。


 東口の商店街を進んで県道50号に入る。すぐ先の入曽交差点を左折し、「茶摘み通
り」と呼ぶ県道8号へ。墓地の先にあった細道を北に入って不老(としとらず)川沿い
に出た。

 流れに2羽のカモが泳ぎ、土手にムラサキツメクサが雨に濡れる。両岸はコンクリー
ト張りだったようだが、金属ネットに包まれた石積みに置き換えられていた。何年か経
つと草が伸びてきそう。


 左岸を県道50号近くまで行くと、県指定文化財の「七曲井(ななまがりのい)」と
呼ぶ漏斗状(ろうとじよう)の古井戸がある。周囲70m余り、直径26m、深さは
11.5mあるという。

 掘られた時期は建仁2(1202)年の説があるが確かではないらしい。ただ、府中
から入間川への奈良・平安時代の古道沿いなので、武蔵国府の手によるものと考えられ
るという。

 県道際には常泉寺の観音堂があり、江戸時代後期に作られた本尊、木造聖観世音菩薩
座像が祭られている。

 常泉寺は、元禄2(1689)年までこの地にあったが、観音堂を残して移転したよ
うだ。

 県道の入間(いるま)橋際を横断して、不老川左岸の草付きの道を下流に向かう。橋
の近くに「花と緑のイタリア料理店 ろくすけ」があり、流れに面して草花の鉢などが
たくさん並んでいた。


 少し先では、金網に詰めた石積みの堤防からクワなどの草木が伸びてきていて、昔の
堤防の様相に戻りつつある。大きなクワには、まだ青いが桑の実がいっぱいだ。



 大きくなったケヤキなどが川を覆う一角を抜け、新入曽橋を過ぎると住宅が減って畑
が増え、堤防にナノハナが咲く。





 再び住宅地が近づき、大きなクワやエノキなどが両岸に繁り、いっぱい花を付けたニ
セアカシアもある。 


 小さいダムのところで次の橋を渡り右岸に回る。南側一帯に貸し農園らしいエリアが
広がり、右岸には実を付けたハナモモが並ぶ。


 その先にはソメイヨシノの古木が数本続き、そのひとつに「観桜亭」の立て札があり、
下にベンチが設けられていた。



 貸し農園にはよく育ったネギやソラマメ、ジャガイモなどが見られ、ショウブやジャ
ーマンアイリスも咲いて彩りを添える。


 流れが右にカーブして県道八号の山王橋に出た。南に山王小があり、橋の左岸際の小
さいほこらに山王様が祭られていた。

 寛文12(1672)年に、入曽村の有志が村の息災を願って勧請(かんじよう)し
たものとか。祭られている山王様は青面金剛と三猿で、庚申信仰との習合が見られると
いう。


 その先にもソメイヨシノの古木が数本堤防に残る。流れが左にカーブした先、山王中
のグランドに接して休憩舎があったので入り、小雨を避けて昼食にする。


 すぐ先の東山王橋際に咲くたくさんのポピーを眺め、さらに左岸に沿って進み、次の
橋で不老川に分かれる。


 南側の山王保育所には、最近の卒園生の似顔絵を描いた大きなパネルが2枚並んでい
た。


 そばの十字路際のお宅には、手作りらしいものを含めて、たくさんのオモチャなどの
飾り物が所狭しと並んでいた。


 県道126号を横断して、周辺から何本も高圧送電線の集まる南狭山変電所の北端に
突き当たり、畑の境に茶の木の続く農道を北東に進む。


 古い土蔵などの残る富士見里集落を少しで、広い境内の堀兼(ほりがね)神社に入っ
た。


 うっそうとした常緑樹などに覆われた境内、ご神木のクスノキが高く枝を広げ、別の
ご神木は太い根元が空洞になっている。


 社殿の左下には「堀兼の井」呼ぶ、七曲り井と同様な構造の古井戸がある。やはり県
指定文化財で、江戸時代から史跡として知られているようで、さらに古くは千載集(せ
んざいしゆう)にて藤原俊成や源俊頼、西行法師などに歌われているという。


 朱塗りの山門を入り、石段を上がった盛り土の上に、周囲を木々に覆われた社殿が祭
られていた。


 背後の富士見台集落を東に抜けて畑のあぜ道を進み、「赤坂の森」と呼ぶ県の「ふる
さとの緑の景観地」になっている森に入る。


 森を横切って3月24日に開通したばかりの広い県道126号を横断し、堀兼・上赤
坂公園に入った。緑の森の中の大部分がサッカーグランドで、南側に管理棟がある。


 管理棟に入り、ふるさとの森に生息する鳥の古い写真を眺めたりして小休止した。


 赤坂の森を南下して県道を横切る。さらにうっそうとした森の中を進み、秋草学園高
の南側のT字路に突き当たる。ここから南西に向かい大河内集落の北側、標高66m水
準点の交差点に出た。

 この先、車道の西側に平行する林間の道との間のマッチ棒のような細長いエリアに、
両側を狭山市に挟まれた所沢市の一部が500mほど伸びている。


 中ほどで林間の道に回ると「八軒家大井戸跡」や「鎌倉街道」の標柱が立ち、所沢市
と思われる民家はその先に1戸だけだった。

 雨は本降りになってきた。車道を少し進んで先ほどの堀兼神社に14時30分に着き、
今日のゴールとなる。駅まで歩くという2人に分かれ、14時44分発入曽駅行きの循
環バスに乗った。

(参加 9人、天気 雨、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 川越南部、所沢、歩行地
 狭山市、所沢市、歩数 11,300)




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関東百駅巡礼歩行 JR東海道線 大磯駅(神奈川)

2013-04-19 14:59:16 | 関東百駅巡礼歩行

 先週末から昨日、4月18日まで、15日を除いて歩きに出かけていてアップの間隔が
長くなりました。その間の模様を、順次投稿します。

========================================

 2013年4月13日(土)

 爽やかな晴天に恵まれ、関東百駅巡礼歩行の第94番が開催された。集合地はJR東海
道線の大磯駅。


 集合前に駅前を少し回ってみる。駅の南側に、国登録有形文化財になっている大磯駅前
洋館と呼ぶ旧木下別邸があった。大正元(1912)年に建築されたという。


 初参加の2人を加えた参加メンバーは、記念撮影をして11時10分にスタートした。


 駅前の八百屋さんには、地元で採れた竹の子が並んでいる。


 その先の緑地の隅に、三菱財団の創始者・岩崎弥太郎の孫娘で、戦後、多数の混血孤児
を育て上げた、エリザベス・サンダースホームの創設者、沢田美喜さんのレリーフがあり、
読みにくいが沢田さんの生涯が紹介されていた。

 エリザベス・サンダーホームは、背後の丘陵の向こうにあるようだ。

 駅前から西南に向かう通りには、落ち着いた彩りの瀟洒(しょうしゃ)な建物が幾つか
目に付き、そのひとつ、ギャラリーさざれ石では、「ー大磯の光と風ー」という個展を開
催中。


 大磯小の先で国道1号・旧東海道に出ると、カレー店舗に転用した古い日本家屋も残っ
ていた。


 旧東海道松並木の始まるところで歩道橋を渡る。


 橋の上からは、これから上がる湘南平のテレビアンテナ塔などが望まれる。


 北側の台町の細道に入ると「松並木工芸」と呼ぶ小さい店があり、手工芸品などが並ん
でいた。


 東海道線の線路沿いに出て駅方向に少し戻り、標識に従い南に入ったところに、島崎藤
村の旧宅がある。



 昭和16(1941)年から、71歳で永眠するまでの2年余りをここで過ごしたという。

 近くの地下道を東海道線の北に抜けて、湘南平の山麓を東に向かう。御嶽神社の少し先
から、標識に従い湘南平に向かって上がる。

 ヘヤピンカーブを三つ過ぎた住宅街から展望が開け、前方に大磯の家並みや東海道の松
並木、太平洋の海原の展望が広がる。西に目を向けると、金時山、二子山など箱根連山や
真鶴半島は、春霞でぼんやりとしている。


 住宅街が尽きた上にあった高田公園に正午過ぎに着き、草の広場の木陰に腰を下ろして
昼食にした。


 この先は山道となり、ところどころに湘南平への立て札が立っている。広葉樹の木々は
淡い新緑の彩りを見せ、大きく枝を広げた大樹も見られる。





 上り道の中に二度の下り坂もあり、次第に高度を上げ、「曽我十郎之硯水」碑の立つ小
さい池の横を上がり、放送局のテレビアンテナ塔の立つ湘南平山頂に着いた。



 広場の北側にあった古い展望台に上がってみたが、広葉樹が伸びて南側の海の展望は利
かず、北側に大山(おおやま)や丹沢山塊の山並みの展望がわずかに得られる。


 広場の西に新しい展望台があり、そちらからは展望が良さそうだが、回らなかった。

 在京の民放五社とテレビ神奈川の平塚テレビ中継放送局のアンテナ塔の横を下ったあた
りで、わずかに北の展望が開け、大山の全貌が望まれた。



 上ってきた分岐に戻り、さらに前方に少し上がると浅間神社の小さい祠の横に、標高
181.3mの一等三角点があったが、ここは周囲の広葉樹が伸びて展望は得られない。
傍らのベンチで小休止した。




 稜線上の遊歩道を東に向かう。イノシシが掘り返したらしい真新しい跡の残るところが
あり、気持ちよい広葉樹林下を進む。


 北に下るじごく沢への分岐を過ぎ、次のピーク、標高160mの八俵山に上がる。

 「城郭としての高麗山(こまやま)」の案内板があり、ここは相模湾から相模平野一帯
を見渡せることから古くからの軍事上の要衝で、上杉持房が関東公方の足利持氏を討伐す
べく陣を構えたのが最初で、のち北条早雲が上杉顕定を討伐の際には、この山に立てこも
り、上杉謙信が小田原城侵攻の際にも、陣を構えて北条氏康と交戦したという。

 八俵山から高麗山山頂は近い。標高167.3mの山頂には、タブノキやスダジイなどに
囲まれた広場があり、説明板に、「奈良時代のころ、高句麗(こうくり)が唐(とう)、
新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に難を逃れた高句麗王族の高麗若光(こまじゃっこう)
は日本に帰化してこの山の麓の化粧坂辺りに住んだことから、この地が高麗と呼ばれるよ
うになった」と記されていた。


 ちなみに、埼玉県日高市の高麗(こま)神社のサイトによれば、高麗若光はのち、武蔵
国に新設された高麗群の首長として赴任し、関東や駿河、甲斐などから移住した高麗人と
ともに土地の開拓にあたり、没後、高麗明神として祭られたのが高麗神社の創建となった
とか。高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目だという。

 高麗山からの下りは男坂と呼ぶ急斜面となる。長い石段や木の段が幾つも続き、どんど
ん高度は下がる。20分足らずで、山麓の高来(たかく)神社に下った。


 江戸時代までは高麗寺に属し、明治元(1868)年の神仏分離令により高麗神社とな
り、明治30年に高来神社と改称したという。高麗山を背にした境内には、スダジイとヤ
ブニッケイが一体化した珍しいシイニッケイの古木があり、東郷平八郎書の大きな忠魂碑
も立っていた。モミジの新芽も色鮮やか。


 高麗二丁目の住宅地を西南に進んで旧東海道に入る。JR東海道線のガードをくぐると
松並木が数本残っていた。


 東海道大磯宿の江戸側の簡易防御施設だった江戸見附跡を過ぎ、国道1号に合する。

 和紙ちぎり絵展を開催中の「はまひるがお」という店に入り、低温調理の中川詮美さん
の、安心できる食事や生活のことを、NPO大磯福祉コミュニティの方に伺う。

 JR大磯駅には15時36分に戻った。

(参加 9人、天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 平塚、歩行地 大磯町、
 歩数 14,400、累積標高差 約680m)




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関東百駅巡礼歩行 東武伊勢崎線 堀切駅(東京)

2013-03-11 18:36:05 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年3月9日(土)

 五月並みの暖かさとなったこの日、関東百駅巡礼歩行の第93番が開催された。

 集合は東武伊勢崎線の堀切駅。この駅は上り改札口と下り改札口が別。下り改札口前に
集合して記念撮影後、11時ちょうどに出発する。


 駅の東側は荒川右岸堤防、荒川をまたぐ首都高の新荒川橋が隅田川左岸に向かう道路下
に沿って少しで、隅田五丁目の狭い路地へ。


 古い民家も幾つか残っていて、民家の庭先にあるサクランボの実るという桜が、このと
ころの暖かさで見頃になっていた。


 南に抜けたところにカネボウ公園という小公園があり、「鐘淵紡績株式会社 発祥の地」
碑と、溶岩で積み上げた上に震災記念観世音像が祭られていた。


 碑文によると、この地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代は徳川家専用の野菜畑だ
ったこと、明治20(1888)年に鐘紡の前身、東京綿商社が建設され、製品は欧米各
国に輸出されたこと、関東大震災で社員50余人が殉職したことなどが記されていた。

 鐘紡の工場跡だったグランドの横から細い路地を入り、隅田川七福神の毘沙門天を祭る
多門寺に行く。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられるとのこと。


 かやぶき屋根の山門は、江戸中期の享和3(1803)年までには再建されたもので、墨
田区最古の建造物だという。


 広い境内にはよく手入れされた松など庭木が多く、白梅の古木が見ごろ。


 山門を入ったところには、太平洋戦争中の1945年4月13日の空襲で焼かれた木と、
3月10日の大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨↓が展示されていた。


 境内にはほかに、江戸時代前期製作の六地蔵や、近年に造られた円筒形の永代供養塔、
常楽塔や映画人の碑などもあった。

 寺に隣接した香取神社の横から、隅田五丁目を南に進む。通りには商店やそば屋など、
昭和年代を思わせる建物が残っている。


 東武伊勢崎線の鐘ヶ淵駅に向かう通りに面した円徳寺に寄る。


 境内に、阿弥陀像や三猿を刻み、寛文12(1671)年11月銘で、墨田区内でも
大きなものという、りっぱな庚申塔が立っていた。


 隅田二郵便局前を抜けて墨堤通りへ出た。通りの西側には、防災用に造られた13階
建ての建物が続いている。


 その間を抜けて都立東白髭(ひがししらひげ)公園に入り、ナノハナの咲く畑近くの
木陰で昼食をする。


 食事を終えて公園の南端に向かう。正面に東京スカイツリーが望まれるが、春霞かそ
れとも黄砂の到来なのか霞んでいる。


 公園のジンチョウゲがこのところの暖かさで開花し、芳香を漂わせていた。


 公園を出て白髭橋東詰交差点から都道306号・明治通りを少し進み、国指定名勝・
史跡になっている向島百花園に入園する。

 江戸の町人文化が花開いた文化、文政期(1804~30)に、花の咲く草花鑑賞を
中心とした花園として開園されたもの。

 園内の中心付近には紅梅、白梅が多く、ちょうど見ごろとなり、たくさんの観光客も
見える。




 ほかに、サンシュユ、ボケ、キブシなども花開き、ヒカンザクラではメジロが蜜を吸
っていた。下草のスイセンも見頃である。




 百花園の南側から東へ、東武伊勢崎線の東向島駅横を通過する。高架の駅下は東武博
物館になっていて、建物外には東武日光軌道線の市街電車などが展示されていた。



 国道6号・水戸街道や曳舟川通り、高架工事中の京成押上線を横断し、京成線の東側
に平行する通りを北へ、八広五丁目から六丁目を抜けて荒川右岸に出た。


 広々とした河川敷や、荒川の流れに浮かぶ遊覧船、上流側の京成押上線の鉄橋などを
眺めながら木根川(きねがわ)橋↑を渡る。


 荒川左岸に平行して綾瀬川が流れているが渡らず、荒川右岸堤内(堤防の流れ側)に
設けら非常災害用道路を上流に向かう。川向こうには、逆行で霞む東京スカイツリーが
望まれる。


 水戸街道の四つ木橋下を過ぎると河川敷に野球場があり、少年野球の練習場になって
いた。



 木根川橋から1.5㎞余り進んで、中川の逆流防止と綾瀬川の排水のための堀切菖蒲
水門際を渡り、綾瀬川左岸を下って堀切菖蒲園に入る。

 この地に花菖蒲が伝来したのは、一説には室町時代初めといわれ、江戸末期から明治
には五つの菖蒲園が開園して「江戸百景」に数えられ、鈴木春信や安藤広重などの浮世
絵にも描かれ、全盛期は明治中期から大正末頃だったという。

 堀切菖蒲園は、ただ一つ残った当時の堀切園の一部を都が入手して昭和35(1960)
年に都立公園として開園し、その後葛飾区に移管されたとのこと。

 菖蒲田には花菖蒲約200種、6千株があるようだが、今はご覧の通りで入園料も無
料。ほかに開花した紅梅や古木のフジなどがあるが、季節外れで閑散としていた。


 堀切二丁目の曲がりくねった道路を北に進み、十二支の干支(えと)の石像の並ぶと
ころを通過し、15時5分に京成本線の堀切菖蒲園駅にゴールした。

(参加 12人、天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地
 足立区、墨田区、葛飾区、歩数 16,200)




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関東百駅巡礼歩行 小湊鐵道 上総鶴舞駅(千葉) 

2013-02-12 18:33:50 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年2月10日(土)

 第92回目の関東百駅巡礼歩行に参加した。集合地は、JR内房線の五井駅と上総中
野駅とを結ぶ小湊鐵道の中ほどにある上総鶴舞(かずさつるまい)駅。

 五井駅で出発を待つ小湊鐵道の車両。


 上総鶴舞駅はクラシックな建物の無人駅だが、「関東の駅百選」に選定されている。


 駅前には商店も無く閑散としていた。東京、神奈川、埼玉、栃木から集まったメンバ
ーは、駅前で記念撮影をして、11時43分に出発した。


 ホームから線路に下りて線路を横断し、西側の車道に出る。北側を走る国道297号
の手前を左折して矢田集落に入った。

 かやぶき屋根に瓦を被せた平屋の民家があり、集落の周辺は掘り起こされた田んぼが
広がる。


 南に回って開放的な社殿の十一面観世音堂へ。お堂は平成10(1998)年に修復
との石碑がある。


 境内の高いケヤキの上に、大きな寄生木(やどりぎ)ができていた。



 養老川を渡り、集落西端の山すそにあるお寺のマークのところに行ったが寺は無く、
小さい祠(ほこら)にお地蔵さんがあるのみ。そばの草原に腰を下ろして昼食をした。


 田園地帯の南側を回って次の小集落を抜ける。路傍のネコヤナギがたくさん花を見せ
はじめている。



 次の藪集落に入ると、スイセンが花を開いていた。


 養老川が直角に右カーブする地点のあたりから、車道をショートカットして工場のよ
うな建物のそばの三差路に出る。三差路際に「房総ふれあいの道」の道標が立っていた。

 道標に記された「橘禅寺(きつぜんじ)」の方向に向かい、緩やかな棚田の続く谷地
を上がり詰めたところに、潅漑用のため池があった。



 池の西で小さい峠を越えると前方に田園の展望が広がり、行く手の集落の家並みも望
まれる。


 少し下がったところの小さな池の岸辺は、氷が張ったままだった。


 北側に広々と田園風景が広がり、その南西端付近で折り返すように南側の丘陵に向か
う上り道へ。

 近くの畑には、ソーラー発電による、イノシシ除けの新しい電子柵が張り巡らされて
いた。そばの梅林のつぼみはまだ堅い。


 竹林やスギなどの林間を上がって行くと、猟銃を持った漁師が2、3人待機し、猟犬
が何頭も走り回っている。行く手の橘禅寺北側の林間にイノシシがいるので、猟犬で追
い出して撃つのだという。

 寺の境内へのカーブ点に、平成2(1990)年建立の慈母観音像が立つ。


 カシの古木などの間を上がり、橘禅寺境内に入った。

 橘禅寺は、天平9(737)年に僧行基が薬師如来を祭って建立したと言われている
とか。本堂は無く、コンクリート造りの薬師堂のみ。

 薬師堂には千葉県文化財の木造金剛力士像、木造薬師如来座像などが祭られているよ
うだが、拝観は出来ない。


 薬師堂の奥に石鳥居があり、その先の盛り土の上に、平和の女神像と航空兵らしい立
像がある。

                 

 薬師堂の近くには古いお地蔵さんが並び、東側には新しい夢違観音立像などがあった。

 境内にはスダジイやタブ、アラカシ、シラカシ、コナラ、スギなどがうっそうと繁り、
千葉県の郷土環境保全地域になっている。


 イノシシ狩りの犬と猟師の声が響く境内から、電子柵の畑付近までもとの道を戻り、
田園地帯の西端付近を北に向かう。盛り土上のため池のそばを回って皆吉集落に入った。


 カシの老木が立ち、その先の民家の庭先には、たくさんの庭石や石灯篭などが配置さ
れている。


 その家の横を入り集落内を北進して、寺のマークのところに回った。墓地はあるが寺
は集会所風の平屋。入口に挟まれた電気料金の伝票を見たら、観音寺となっていた。


 その先の民家の庭先にも、大きなクスノキが目につく。


 次のカーブ点には、「房総ふれあいの道」の一部「山辺とふるさとの道」の道標が立
っていた。


 新しい交通安全標語の立つ牛久小の横を進み、房総横断道路の国道409号に合し、
養老川の楓橋を渡る。


 珍しい「拓道隠士之碑」という石碑の立つ先の旧道から、牛久の町並みに入った。

 次の交差点を折れて国道に出て、郵便局や古い商店などの前を通過する。駅入り口の
T字路際に、土蔵造りの茶店の建物が残っていた。



 ゴールの上総牛久(かずさうしく)駅には、14時41分に着いた。15時7分発上
り五井行きで帰途につく。

(参加 12人、天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 鶴舞、歩行地 千葉県
 市原市、歩数 14,400)



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