あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

スーパー オザムけやき台店に自動車が突っ込む(埼玉・所沢)

2017-10-24 19:06:57 | 所沢だより
 2017年10月24日(火)

 今日夕方、右肘の痛みで通院している整形外科へ行った帰りに、近くにあるスーパーオ
ザムけやき台で買い物をしようとしたら、駐車場は閉鎖され店内にも人影がわずかでした。

 
 どうしたのかとよく見たら、店の右側に自動車が突っ込んでいました。そのために臨時
休業になっていたのでした。

 買い物に来たこの自動車の持ち主が、ブレーキとアクセルを踏み間違えたのでしょうか。
ガラスが破られ車の先頭が店に突っ込んでいます。

 店内の損傷状況や、店内にいた人が被害に遭ったかどうかも分かりません。


 最近はよく、高齢者がこのような過ちを繰り返していることが報道されていますが、こ
こでもそうだったったのでしょうか…。いつ頃発生したのかも分かりません。



 
 どうぞ皆さん、自動車の運転には十分ご注意下さい。ちなみに私は、高齢のためにもう
運転は止めようと、2年前に運転免許証は返上しました。



〈追記〉 朝日新聞デジタルによれば、『24日午後3時20分ごろ、所沢市の60代女
性が運転する乗用車が突っ込んだ。女性にけがはなかったが、店にいた同市の40~50
代の女性2人が軽傷を負い、病院に運ばれた。
 
 所沢署によると、運転の女性は買い物に来て、駐車場に車をとめようとしたが、「後退
時にブレーキとアクセルを踏み誤った」と話しているという。』 などと記されています。


〈10月25日追記〉

 今日は、午前から品川まで出かけ、帰りにオザムけやき台店はどうなっただろうかと、
新所沢駅近くで買い物をしてから回ってみたら、自動車に突っ込まれたガラス張り部分は
ベニヤ板でふさがれていて、店ももう営業していました。



 今日はまだ臨時休業かと思っていたのですが、そんなにのんびりしていられないようで
す。お陰様で店を利用する人は、買い物に不自由したのは1日足らずで済みました。




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鉄道博物館から大宮公園へ(埼玉・さいたま市)

2017-10-19 18:10:52 | 鉄道
 2017年10月17日(火)

 今日は、JR東日本の大人の休日倶楽部会員限定「鉄道博物館貸切イベント」に当選し
たので、さいたま市大宮区にあるJR東日本の鉄道博物館に行くことにしました。

 JR大宮駅に11時頃に着き、雨模様ですが歩いて行くことにして西口を出ました。

 実は、西口から東北・北陸新幹線沿いに埼玉新都市交通のモノレールがあり、次の大成
(おおなり)駅の下が鉄道博物館なのでモノレールで行けば早いのですが、道路沿いの展
示も見ながら行くことにしたのです。

 大宮駅西口の北側から、線路沿いにJR東日本大宮総合車両センターがあり、その塀に
沿って「RAILWAY GARDEN PROMENADE」になっていて、道路側壁面に鉄道車両の展
示が続いているのです。

 それらの展示を眺めながら進むと、D51 187号機の実物も展示されていました。

 このSLは、大宮総合車両センターの前身である国鉄大宮工場で昭和13(1938)
年9月に完成した最初のD51形で、準鉄道記念物になっています。

 なお、大宮工場ではD51形は31両製造しており、D51形蒸気機関車は民間工場と
国鉄の8工場で、1945年までに全部で1,115両製造されたようです。

 その先には、EF58 154号電気機関車とEF15 168号機の頭部も展示されて
いましたが、説明パネルなどはありません。


 鉄道博物館には11時35分頃着き、入館しました。入口を入ると、今日のイベントの
表示が。


       

 まずは1階右手にある、この博物館のメイン展示場ともいえる車両ステーションに入り、
たくさんの機関車や車両などの展示を一巡することにします。


 間近にあるのが1号機関車、鉄道記念物であり国の重要文化財にも指定されています。


 その横には弁慶号機関車(7100形式)が。明治13(1880)年開業の北海道最
初の鉄道「幌内(ほろない)鉄道」ではじめて使われたアメリカ製の蒸気機関車で、やは
り鉄道記念物です。


 こちらはナデ6110形式6141号電車で、ひと月前の9月15日に国の重要文化財
に指定されたばかり。大正3(1914)年に鉄道院新橋工場製です。
        

 内部にも入ってみました。


 中央にある転車台には、わが国唯一の流線型電気機関車EF551号が展示されていて、
今日はイベントの表示もあり、その前で記念撮影できるようになっていたので、私もガイ
ドの方に撮ってもらいました。
       

     

 近くにあるのはキハ41307号気動車。国鉄で初めて量産された気動車で、昭和9
(1934)年の製造、各地の非電化ローカル線で活躍しました。


 12時から、転車台の回転実演と汽笛吹鳴があるとの場内アナウンスなので、転車台の
そばの少し高いところに上がり、その様子を見ることに。


 汽笛の吹鳴とともに回転が始まり、反時計方向に一巡して行きます




 まもなく半回転に









 展示解説員の説明を聞きながら、約10分でEF55形電気機関車の回転実演は終わり
ました。

 転車台を離れ、回転実演の前に見たキハ41307号気動車の内部に入ります。


 キハ41307号の運転席。


 転車台の反対側からもう一度見たEF551形電気機関車の後部。


 東北本線の特急ひばり号で知られたクハ481形式電車 


 上越線特急とき号の先頭部、クハ181形式電車


 特急ときの車内


 EF66形式電気機関車66 11号、たからのヘッドマークが。

 特急貨物列車用に開発した国鉄最高出力の直流電気機関車で、高速・高性能を活かし、
東京~下関間で高速特急貨物列車や寝台特急列車をけん引しました。

 車両ステーションの右手最奥にあるのが、お召し列車の国旗を付けたC51 5号蒸気
機関車です。
     
 C51形は、大正8(1919)年に登場した国産初の大型旅客用蒸気機関車です。
日本初の直径1,750㎜の動輪で、安定した性能は高く評価され特急列車として活躍し、
さらに信頼性も高かったのでお召し列車専用機関車にもはじめて指定されたようです。

 その横から別室に回ると、東海道新幹線最開業時の21形式新幹線電車が。


 21形式新幹線の車内、この車両で名古屋や大阪などに行かれた人も多いのでは…


 車両ステーションに戻り、さらに回ってみます。あちこちの駅でたくさん見たことのあ
るEF58形の89号電気機関車(昭和31(1956)年製造)。

 第2次大戦後、電化区間の拡大から長距離走行に向く旅客用電気機関車が必要になり、
昭和21(1946)年に戦後初の電気機関車として登場し、東海道本線の主力機関車と
して活躍しました。 

 最初に見た弁慶号機関車の後にあるのが開拓史号客車、幌内鉄道で使われたもので、開
拓使など高官専用のアメリカ製特別客車で、これも鉄道記念物です。


 その横に並ぶ9850形式蒸気機関車9856号は、内部構造が分かるようになってい
ます。




 1階の車両ステーションはこれくらいにして2階に上がり、最初に鉄道ジオラマの部屋
に入ります。 

 今年7月14日(金)にリニューアルしたようで、今まであった観客席との仕切りのガ
ラス面を取り外したので間近に観覧できるようになったとか。

 風景や線路も新しく制作されたようで、線路の総延長は約1,200m、総数約1,400
両のHOゲージ車両(新幹線は1/87、在来線は1/80サイズ)が何編成も走ってい
ました。




 鉄道ジオラマの部屋を出て、北側の空間から1階の車両ステーションを見下ろします。


 左手の通路から2階最奥の北側まで進み、反対側から見下ろした車両ステーション中央
の転車台周辺。


 2階通路の東側壁面には鉄道歴史年表が掲示されていて、明治初期の開業当時から現在
までの鉄道の歴史が見られます。


 その下には、それぞれの時代の記念すべきものが展示されているので、順次見て行きま
した。こちらは明治5(1872)年9月12日、鉄道開業にあたっての明治天皇の勅語。
     

          昭和4(1929)年8月、東京~下関間の新特急つばめ号の関連
         

      第2次大戦終戦後間もない頃の、山手線の行先表示板でしょうか。
     

 ときどき1階の車両群も見下ろしてみます。


 新幹線開業記念メダル、左から東北新幹線(昭和57(1982)年6月)、上越新幹
線(同じ昭和57年11月)、東北・上越新幹線上野駅開業(昭和60(1985)年3
月)。
     

 国鉄が民営化されてJRになったのは1987年4月1日、あれからもう30年になっ
たのですね。 こういった展示は、まだまだたくさんありました。      
     

 もう一度1階を見下ろし、そろそろ退館することにします。
 

 1階に下ってレストラン日本食堂で昼食をしようとしたら、13時半を過ぎていてもう
食事類はすべて無くなったとのことなので、退館しました。

 入口近くに展示されていた鉄道車両。一番奥の赤いのはドイツの大型蒸気機関車のもの
で、直径は2m以上あるよう。


 南側の鉄道博物館交差点近くにあった手打蕎麦店 木挽庵に入り、とろろそばで昼食に。
信州戸隠(とがくし)産のそば粉を使用しているとか。
     

 さてこの後は、交差点を東に進んでJR宇都宮線(東北線)と東武アーバンパークライ
ン(野田線)の踏切を越えて、大宮公園の北西端のボート池際から公園中央部を南下する
ことにしました。



 公園の木々は、まだ桜の葉が色づき始めた程度。

 日本庭園の池の横を南側に下ります。


 東門を入り、いつものように武藏一の宮の氷川神社に参拝しました。



 表門を出て参道に向かいます、池の横の木が2本ほど色づきはじめています。


 三の鳥居を出て二の鳥居に向かう参道の両側には、近く開催されるらしい「明治天皇御
親祭150年祭」のためのちょうちんが、数えきれぬほどたくさん並んでいます。


 JR大宮駅東口に15時10分に着き、15時18分発の埼京線で帰ることにしました。


 なお、鉄道博物館のサイトはこちらをご覧下さい。
 



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続カタツムリ歩行で船橋法典駅の東部を歩く(千葉)

2017-10-16 22:04:21 | カタツムリ歩行
 2017年10月15日(日)

 一日雨模様の予報だが、先月は休んでしまい、残り3回となったこともあり、続カタツ
ムリ歩行の第48回例会に出かけた。


 集合はJR武蔵野線の船橋法典(ふなばしほうてん)駅。駅の南南西側近くには中山競
馬場がある。駅を出たところで方位を誤り、わずかに行き戻りして10時10分に再スタ
ートした。


 線路の東側沿いの道路を北へ、武蔵野線との間に「法典の湯」という日帰り温泉施設が
あった。


 突き当たりのT字路まで進み、標識に従い林間の階段を台地上に上がった。
  


 広々とした草地が広がる国指定史跡 姥山(うばやま)貝塚で、一帯は姥山貝塚公園に
なっている。



 姥山貝塚は、縄文時代中期(約5千年前~3千年前)に形成された、東西約130m、
南北約120mの馬蹄形貝塚で、ハマグリを主に、アサリ、シオフキなど30種以上の貝
が出土したとのこと。

 貝塚の調査は明治以降何度も行われたが、大正15(1926)年の東京人類学会によ
るものでは、竪穴(たてあな)住居跡の全容が平面的にとらえられ、これはわが国で初め
てのことだったという。

 園路をほぼ一周して、幾つかの地点に記された発掘状況を記したパネルを見て、上がっ
てきた階段を下り車道に戻る。

 貝塚の南側下にある住宅地を東に抜けて、県道9号・船橋松戸線に出て南西へ。


 淀川製鋼所住宅の先の三差路には7基の石塔が並び、右手の古い石塔には正徳5
(1715)年、宝永元(1704)年などの銘があった。
     

 その横から林間の石段を上がって唱行寺(しょうぎょうじ)に入る。

 唱行寺は、建長6(1254)年にこの地の念仏僧鐘阿弥(しょうあみ)が、日蓮上人
に帰依(きえ)して改宗した、主題坊(しゅだいぼう)日唱が建立したのが起こりとか。
日唱は日蓮の許しを得て、題目唱行(だいもくしょうぎょう)に初めて太鼓を用いたので、
当寺を「太鼓の霊場」と呼んだという。

 本堂は近代的なコンクリート造り、朱塗りの鐘楼は珍しい。
    

     
 境内には大イチョウやケヤキの高木などが目に付く。「宗門最初 太鼓の霊場」碑もあ
った。
          

       

             

 県道9号に戻って南西に進み、県道59号・木下(きおろし)街道を東に向かう。
     
 県道9号は市川市だが、県道59号からは船橋市に戻る。県道59号は交通量が多いの
に歩道が狭く、向こうからの人とすれ違いにくい。
     
     
 500m足らずで藤原観音堂があった。かやぶき屋根にオレンジのトタンが被せられ、
趣ある造り。拝殿には「行徳札所番外 藤原観音堂」の木札がかかり、上には「身代観世
音」の掲額がある。
        
 堂内の観世音菩薩像は像高90㎝の寄木造りで、鎌倉時代か江戸初期の製作と推定され、
土地の人は「身代り(みがわり)観音」と呼ぶ秘仏だという。身代わり観音の由来も、説
明板に記されている。県道際には2本の大イチョウが立っていた。
     


 かなり広い私有林を挟み、Y字路の先は藤原神社である。 上が拝殿、下は本殿


 ここも、鳥居を入ったところに2本の大イチョウが並び立つ。

 境内はそう広くはないが、豊富な木々に覆われていて雨でうす暗い。

 車の途切れるのを待って県道を横切る。住宅地の間を東南東に延びる細道は上山(かみ
やま)神明宮の参道で、県道近くに石鳥居があった。


 参道が右からのY字路から来た車道と合する辺りで、上山神明宮に入る。ここも、鳥居
を入ると2本の大イチョウが目に付く。
     

 ケヤキの太い幹の根元には、道祖神が屋根付きのほこらに祭られていた。
       

 正午が近いのでゴールに向かうことにする。少し先のY字路でV字状に折り返して、上
山町二丁目から前貝塚町へと南西に進む。船橋市のマンホール。
     

   
 きれいな花の咲く民家や、たくさんの柿が色づく民家の前を通過する。


 少し行き過ぎてメンバーのZさんに声をかけられ、12時02分にゴールの神明神社に
着いた。

 拝殿は平屋の民家風で、その背後に回ると屋根掛けの通路を挟んで本殿が祭られている。


 ほかの皆さんは早着したようで、もう散会して駅に向かおうとしていた。雨で座る場所
がないので、ほかで食事をするという。私だけなら拝殿と社殿の間の屋根下が利用できる
ので、ひとり残りここで昼食をさせてもらった。


 本殿の横には屋根がけのほこら3基を含み6基の石塔が並び、↓右端の青面金剛塔には
元禄11(1698)年と刻まれていた。
       

 12時25分に神明神社を出た。前貝塚町の住宅地を南に少し進んで行傳寺に寄る。

 本堂前に十三重石塔が並び、境内のハイビスカスが雨に濡れて咲く。お地蔵さんの背後
にはシュウメイギクが見頃になっていた。
   
     
            
 
 掲示板の「今月の聖語」は、なんだか自分のことを言われているようでもある…。
   

 道路際のほこらに子安観音が祭られていた。昔は、子どもがよく死んだり母親がお産が
もとで亡くなったりしたので、村の女たちが子安講という集まりをつくり、子どもや母親
の健康をこの子安観音に願ったのだという。
     

 前貝塚町の住宅地を南西に抜けて前貝塚バス停近くを通過し、北西に延びる細道を少し
で幅広い県道9号を横断する。台地に向かって上がるところに上山公園があり、豊富な樹
林が残されていた。
     

 JR武蔵野線に近づき、堀割を走る線路を歩道橋で横断し、船橋法典駅に13時02分
に着いた。

 13時15分発武蔵野線下り、京葉線直通東京行きに乗り、西船橋、大手町、池袋経由
で帰る。

 始終雨は止まず、気温も15度前後で11月並みだが、本降りにならなかったのが幸い
だった。

(天気 雨、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 船橋、歩行地 船橋市、市川市、
 歩数 12,200)




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野火止緑道、本多緑道を経て古刹 平林寺を訪ねる(埼玉・新座)

2017-10-09 22:27:47 | カントリーウオーク
 2017年10月7日(土)

 カントリーウオークグループの第247回例会に参加した。集合地はJR武蔵野線の新
座(にいざ)駅。

 前夜からの雨が心配されたが、スタート時にはほぼ止んだ。4組に分かれ、10時07
分に大きな水車の回る南口をスタートした。


 == 野火止緑道から本多緑道へ ==


 野火止(のびどめ)用水からの分流が流れ、植え込みの続く「ふるさと小道」と呼ぶ遊
歩道を700m余り進み、「ふるさと新座館」に立ち寄る。



 地元産の野菜などが数多くみな安い。買いたいが、重くなるので見るだけに止めた。


 東側の通りを南西へ、すぐ先の国道254号・川越街道を歩道橋で越えて、そばの野火
止公園へ。かなり古びた「野火止用水」の説明板があった。


 公園の横を流れる細い野火止用水沿いに、野火止緑道が続いている。車を気にせずに進
めるので安心だ。緑道の反対側には「野火止緑道憩いの森」もある。


     
 野火止用水は、承応4(1655)年に川越藩主松代伊豆守信綱(まつだいらいずのか
みのぶつな)により、野火止台地開拓のために必要な生活用水確保を目的として造られた
用水路。東京都小平市の玉川上水から分水して、全長は約24㎞という。

 工事は家臣の安松金右衛門らにより、約40日で完成したとか。その後、平林寺堀、陣
屋堀などの支流が作られ、豊かな水を得た土地の人々は殿様に感謝し、野火止用水を「伊
豆殿堀(いずどのぼり)」とも呼んだという。


 野火止緑道はこもれび通りを横断して、広大な敷地に豊富な境内林の広がる平林寺の西
側を進む。手前には畑やミカン畑もあり、ミカンは色づき始めていた。



 緑がいっぱいの平林寺境内林は、コナラ、アカマツ、クリ、クヌギなどからなり、広い
面積にわたり自然の残る貴重なものとして、境内を中心とした約56㏊が国の天然記念物
に指定されている。

 流れの北側に、地元町内会がボランティアでホタルを飼育している「野火止ホタルの里」
があり、「ホタルのお宿」の看板の下がる建物がある。

 今日久しぶりに参加のAさんは、自宅で飼育したホタルの幼虫をここに提供しているよ
うだが、来たのは初めてとか。


 西側の畑に花の咲くウドが望まれ、用水沿いには太いシラカシに根元を包まれるように
ヤマザクラとケヤキが立っていた。
     

 伊豆殿橋で野火止緑道を離れて陣屋通りを東へ、橋の傍らに古いお地蔵さんあった。
       

 送電線の下辺りから、平林寺に流れ込む平林寺堀沿いの細い遊歩道に入る
   

     
 枯れそうな木の幹にたくさんのキノコが生え、太い幹に縦縞のあるモミ木の木などが目
に付く。東側の林には、たくさんギンナンの落ちた太いイチョウが立っていた。
        

 西屋敷通りに出ると、通りの両側に野菜を販売する無人小屋があった。東側の小屋には
30品近い野菜が並び、そばの家からご主人が補充に来られた。

 家族全員で従事されているようだが、種類が多いので管理は大変だという。

 すぐ先の隅屋敷橋で関越自動車道の上を横断する。平林寺堀も水路橋で関越道を越えて
いた。


 関越道の側道沿いにある、新座市民総合体育館でトイレを借りる。

 体育館の東側も野火止用水の流れが続き、流れ沿いには本多(ほんだ)緑道が延びてい
る。
     

 体育館の南側は「本多の森」と呼ぶ平地林で、緑道にはソメイヨシノの桜並木が500m
ほど続いていた。本多緑道を次の車道まで進んで緑道を離れる。

 すぐの西陣屋通りを左折して折り返すように戻り、右左折を繰り返して神社のあるT字
路に出た。


 新座市の排水用マンホールふた


 コンクリート製円筒タンクの立つ西堀浄水場横を通過し、2本の送電線に挟まれた小緑
地につくられた、昼食地の本多公園に12時14分に入った。


 == 平林寺を拝観して新座駅へ ==

 
 昼食後ミーティングをして、13時13分に本多公園を出た。南側の水道道路を北東に
すぐ、本多交番の横で産業道路を横断する。少し進んで旧道を東へ、関越自動車道を歩道
橋で横断して馬場四丁目の畑作地帯を進む。

 右手に新興住宅地、左手に畑作地帯↑の間の真っ直ぐな道を500mほどで左折して北
西へ。馬場一丁目を北西に抜けて陣屋通りに出る。

 陣屋小前を西進して平林寺前交差点を右折し、平林寺の総門前に14時に着いた。ここ
で15時までの1時間、平林寺境内を参観することにした(拝観料500円)。

 平林寺は関東でも名高い古刹(こさつ)のひとつ。開山当時は現在のさいたま市岩槻区
にあり、寛文3(1663)年に川越藩主松平伊豆守信綱の遺志を継ぎ、その子輝綱(て
るつな)によりここ野火止に移されたとか。

 寺域は広く境内林は約43㏊あり、前述の通り国の天然記念物に指定され、とりわけ紅
葉が有名で、毎年秋が深まる頃には各地から観光客が訪れるという。


 かやぶき屋根の総門横から入り、平林寺のシンボルである山門を背に記念撮影をして、
時間まで各自自由行動とする。

     
 境内にたくさんあるモミジの中には、紅葉の始まったものもある。


 山門の両側に立つ仁王像は、明治から昭和にかけて日本の電力事業の基盤を築いた実業
家・松永安左エ門(まつながやすざえもん)の寄進という。
     


 山門を入った正面は仏殿で、手前にある左右一対の石灯ろうは、ずっしりとした形から
座禅灯ろうとも呼ばれているようだ。右手背後には鐘楼がある。
     


 背後の中門↑を入り本堂に参拝する。江戸末期に火災で焼出した本堂は、明治13
(1880)年に旧堂に近いかたちで再建されたという。


 中門を出て左手(南)に回る。「片割れ地蔵」と呼ぶ独特の姿のお地蔵さんがあった。
       
片割れのもう一つは、岩槻の平林寺にあるらしい。


 そばの放生池(ほうしょういけ)にはたくさんのヒゴイガ泳いでいる。


     
 緑に覆われた境内林内の散策路を北に進むと、島原の乱供養塔があった。寛永14~15
(1637~38)年、肥後国天草の農民がキリシタン信者と起こした大反乱を、松平伊
豆守信綱が収めたことに由来する供養塔のようだ。
       

     
 近くには増田長盛(ましだながもり)の墓↑と、武田信玄の娘である見性院(けんしょ
ういん)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)↓がある。増田長盛の墓には説明板があるが、
字がかすれて読めない。
           

 小さな流れの平林寺堀を渡った先には、安松金右衛門(やすまつきんうえもん)と小畠
助左衛門(おばたすけざえもん)の墓が並んでいる。
       
 2人は松平信綱の重臣で、玉川上水や野火止用水の開削に貢献した人のよう。

 その背後が大河内松平家廟所(びょうしよ)で、墓域は約3,000坪あるという。

 大河内松平家は、第5代川越藩主として優れた治世で「知恵伊豆」と称された松平伊豆
守信綱により興され、信綱ほか多くの老中を輩出しており、墓域には一族合わせて160
基余りの墓石があるという。中央前部にある松平信綱夫妻の墓は、県の指定史跡である。
       
        松平信綱の墓

 墓域から南西へ、さらに右手に回り込んで墓域の背後、西側の境内林内の散策路を北へ
向かい、散策路を一巡することにした。

 コナラやクヌギなどの林の中を進み、アカマツが多くなった辺りには、「野火止塚」と
呼ぶ小さな円墳のような盛土があった。




 散策路の北端まで進み、V字状に折り返す。



 緩やかに下る途中に「歴代塔所(れきだいたっしょ)」と呼ぶ墓域があり、寺の歴代の
住職と思われる墓が並んでいた。



 さらにモミジの多い一角を通過し、大八車の車輪などが保存された作業小屋らしいとこ
ろに出た。



 近くの鐘楼の前を通って仏殿前に戻る。そばにコウヤマキの老木↓が立ち、その下には
島根県出雲の仏教山産というさざれ石がある。
     

         
 総門のそばに15時近くに戻った。

 総門を出て、道路を隔てて斜向かいにある「睡足軒(すいそくけん)の森」に入る。現
在は平林寺の境内林だが、もとは「日本の電力王」と呼ばれ茶道にも造詣の深かった松永
安左エ門の屋敷地だったところ。

 面積は9,379㎡あり、クヌギやコナラなど武蔵野の雑木林を象徴する樹種など650
本を超える樹木があるとか。

 敷地内にある睡足軒は国の重要文化財で、以前は室内が見られたのだが今日は入れなか
った。




 平林寺境内に沿って北へ、市役所際の交差点を左折し、こもれび通りを少しで右折して
北側の国道254号に回る。野火止緑道の跨道橋で国道を越え、スタート直後に通過した
ふるさと小道を戻り、15時43分に新座駅に着いた。

(参加 15人、天気 小雨後晴、距離 10㎞(+平林寺境内一周2㎞)、
 地図(1/2.5万) 志木、歩行地 新座市、歩数 23,200)




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石神井公園ふるさと文化館から牧野記念庭園へ(東京)

2017-10-03 20:38:32 | 江戸・東京を歩く
 2017年10月1日(日)

 秋晴れとなったので、練馬区西部の二つの催しの観覧を中心に、石神井(しゃくじい)
公園周辺のウオーキングに出かけた。


 西武池袋線の練馬高野台(ねりまたかのだい)駅に下車し、駅構内の弁当店で弁当を求
めて10時50分に駅を出た。


 東側から石神井川左岸沿いの遊歩道に入り、桜並木の下を西進する。次の橋で右岸に回
り、流れが南西へと向きを変える直前の和田堀歩道橋を渡って川を離れる。


 少しだけの和田堀跡遊歩道を進み、都立石神井公園の東端、石神井池のボート乗り場際
に出た。

 好天の日曜日なので公園は大勢の人出で、ボートもスワン型を含めてたくさん池に浮い
ている。


 池の南側にあり、豊富な広葉樹林と池の残る石神井公園記念庭園に入り、池の縁を南に
進む。

 記念庭園は、地元の資産家だった豊田家が大正時代に造成した第二豊田園という日本庭
園の跡だという。

 公園を南に抜けて、バス通りの豊島橋交差点際にある禅定院(ぜんじょういん)に入る。
禅定院は豊島八十八ヶ所第70番札所で、「新編武藏風土記稿(しんぺんむさしふどきこ
う)」によれば、約600年前に願行上人の開基とか。

 本堂はコンクリート造りだが、鐘楼は珍しいかやぶき屋根。
 

     
 本堂前には「ねりまの名木」に指定された樹高7m、幹回り2.1mのヒヨクヒバが立
ち、その下には寛文13(1673)年建立の「キリシタン灯籠」と呼ぶ、珍しい石灯ろ
うが祭られていた。
        

     
 石神井公園記念庭園に戻り、柿の実の色づくピークから北に下って石神井池の南岸に出
た。

 池に浮かぶスワンボートなどを眺めながら樹林下の遊歩道を西進する。


     
 中の島の橋近くにはカルガモが泳ぎ、池の西端近くに古くて奇怪な形のモニュメントが
立っていたが、説明板などは無い。




     

          

 南側斜面を上がると稲荷諏訪合神社があり、社殿はコンクリート造り。拝殿前に古い手
押しポンプが残されていた。


 神社と道を挟んで南側の「石神井公園ふるさと文化館」が、今日の目的地のひとつ。



 入館してまず1階の情報コーナーで、石神井公園の歴史年表や練馬区の伝統工芸品など
の展示を見る。
     

         


 2階の企画展示室が、来訪目的の特別展「描かれた練馬」である。
     

     
 練馬区独立70周年記念展で、江戸時代の名所だった三宝寺池(さんぽうじいけ)や長
命寺(ちょうめいじ)などを描いた「江戸名所図会(ずえ)」、鉄道開通後の豊島園や三
宝寺池、武蔵野風景などの風景画、版画、水彩画、油彩画などである。

 特別展は撮影禁止なので、リーフレットから何点か紹介する。

「池畔新緑」中村善策

   
   「石神井」吉田 博    

         
         「三宝寺池(石神井)」川瀬巴水   

         
         「大東京十二景の内 八月・豊島園の夏」藤森静雄

     
     「武蔵野古物」部分


 私は、1950~60年代の15年近く練馬区に住み、最初の職場も石神井公園駅近く
だったこともあり、練馬区はなじみの場所で懐かしい風景もあった。


 特別展を観覧後、同じ2階の常設展示室にも入り、土器などの出土品、名産だった練馬
大根ゆかりの展示、農具や生活、産業関連の展示などを観覧した。






 館の東側は練馬区立池淵(いけぶち)史跡公園で、区の登録史跡「池淵遺跡」を埋め戻
し整備したところ。園内には、区指定文化財「旧内田家住宅」が移築復元されている。

 明治20年代(1887~)初めの建築と推定され、一部には江戸時代の古在も使われ
ているという。土間にも入り裏手に抜けた。


     
 桜の葉が色づき始めた園路沿いには、区内にあった庚申塔や馬頭観音など江戸時代の石
造物が配置されていて、縄文時代の竪穴住居跡の表示もあった。
       
 左の馬頭観音は享和3(1803)年、右の庚申塔は享保5(1720)年の造立

 縄文時代の竪穴住居跡の場所


 13時を過ぎたので神社横を下って、石神井池を眺めながら近くのベンチで昼食をする。

 昼食を終え、ふるさと文化館の西を南北に走る都道444号・井草通りを横切り西へ、
細道を進んで南に回って道場寺(どうじょうじ)に行く。

 道場寺は、文中元(1372)年に石神井城主豊島景村の養子輝時が建立し、豊島氏代
々の菩提寺としたと伝えられているよう。寺には、永禄5(1562)年に道場寺の税を
免除することを記した、小田原の北条氏康からの朱印状が所蔵されているという。


 
 緑がいっぱいの境内、山門の前や本堂の周辺などに白花のハギがたくさん花を見せてい
た。


 山門を入った左手には三重塔が立つが、モミジなどの木々が多く全景は見えない。
     

 中間に古くからの住宅地を隔てて、西側には三宝寺がある。三宝寺は応永元(1394)
年の創建、正門の御成門(おなりもん)↓は徳川家光が狩りの際に休憩所としたことが由
来しているとか。

 現在の門は文政10(1828)の再建という。東側の長屋門は、勝海舟邸の屋敷門を
移築したといわれているよう。

 ここも緑が豊富で、広い境内には本堂↓を中心に大師堂、大黒堂、根本大塔、正覚院、
鐘楼堂などの堂塔が立ち、四国八十八ヶ所お砂踏霊場も設けられている。


     
      根本大塔



 西側墓地際には大きな平和観音が立ち、御成門の近くには「ねりまの名木」に指定され
た、樹高10mのサルスベリがある。
     

 少し戻って道場寺の西側を北へ、突き当たりの長屋門のある屋敷の東側を北に進み、都
立石神井公園の西側を占める三宝寺池の東端近くに出た。こちらも多くの人出で、スケッ
チのグループもいる。

 三宝寺池は石神井川の水源地で、豊富な湧水のもとに氷河期から生息してきた湿性植物
が残り、昭和10(1935)年に「三宝寺池沼沢植物群」として国の天然記念物に指定
された。

 しかし、戦後は周辺の都市化で湧水が減って湿性植物も激減しており、東京都で平成5
(1993)年から水質改善や希少植物の保存増殖に取り組んでいるという。

 スイレンだろうかビッシリと埋め尽くした池の東端から、中の島や周辺の豊富な樹木や
カルガモなどを眺めながら池の北側の遊歩道を西進する。




 
 遊歩道の西側にはメタセコイアの高木も並んでいた。


 池の西南端にある氷川神社や池に浮かぶ東屋(あずまや)を眺めて、西北端から北に上
がり三宝寺池を出た。


 北側は、広いエリアを占める芝生の多目的広場などのある区立石神井松の風文化公園で、
庭球場、野球場、松林の広場などもある。


 入った南西門から西側園路を少し進むと、気象庁アメダス練馬観測所があった。ここで
は気温、風向・風速、降水量、日照時間を観測しているようで、それら測器が狭い一角に
設置されている。
     
 報道される練馬の気温は都内でも高温の日が多いが、このような公園の一角でのデータ
なので、区内東部の市役所周辺などではもっと高温ではないかと想像される。

 北側の都道8号・富士街道沿いの出入口を出て、石神井台三丁目の都営石神井団地の間
や東京学芸大附属大泉小・大泉中などの正門前を通過後、上石神井通りを横断して、今日
二つ目の目的地である区立牧野記念庭園に行く。

 ここは、世界的植物学者だった牧野富太郎博士↓が大正15(1926)年から昭和32
(1957)年に94歳で死去するまでの30年間居宅にした跡地。
       

 博士が「わが植物園」としてこよなく愛した地を広く開放して博士の偉業を後世に伝え
るため、区立庭園として博士没後の翌年の昭和33年に開園したという。

 園内には、博士が国内外から探し求めた300種以上の草木類が植栽されていて、珍し
いものも数多く、スエコザサ、センダイヤ、ヘラノキなど学問的にも貴重なものも残され
ているようだ。

                
 園内西南端には、妻壽衛(すえ)さんへの感謝と愛情を込めて命名したスエコザサに囲
まれた牧野博士の胸像がある。

           
 園内を一巡して、各々に名札の付けられた植物を確認して回る。この時期に花は乏しい
が、シモバシラ↑、マルバフジバカマ↓などが花を見せ、マユミは実がついていた。
       
   
      マユミ
     

 「ねりまの名木」に指定され、区内では珍しい樹高13mのヘラノキも立っている。
     


 この後、北側にある建物に入り、常設展示室と企画展示室で開催中の今日二つ目の目的
の「牧野式植物図への道Ⅱ」と題する高知県立牧野植物園からの巡回展示を見た(撮影禁
止)。
     
 牧野博士の植物図は、植物の成長段階を追った精密な部分図や解剖図などもあり、丹念
にスケッチされた実物大の図は、植物観察への強い執念が、石版印刷技術を習得したこと
や植物図の校正原稿などには印刷時におけるきめ細かなこだわりなどが感じられた。

 牧野記念庭園のパンフレトに記載されていた展示室の写真


     
 さらに園内東北端の鞘堂(さやどう)に保存された書屋展示室にも回り、牧野博士が研
究や執筆にこもったという、当時のままに保存されている7坪の書斎と書庫も観覧した。
     



   書屋展示室近くにある、牧野博士の自筆文字を刻んだ石碑
     
        

 これで今日の予定コースを回り終えた。東側を走る上石神井通りを北へ300mほど進
み、15時53分に西武池袋線の大泉学園駅に着いた。


(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、歩行地 練馬区、歩数
 16,300)




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