2018年6月22日(金)
梅雨の晴れ間で28℃前後まで気温の上がった今日は、2日後から出かける予定の北東
北3県の資料収集と地形図購入のため、東京駅八重洲口から銀座方面に出かけました。
ひととおり用事が済んだので、JR有楽町駅横を通過して久しぶりに日比谷公園に行っ
てみました。公園の北東端の有楽門から入園すると江戸時代の名残、日比谷見附跡の石垣
が残っています。
この石垣は江戸城外郭城門の一つである日比谷御門の一部とか。
そばに咲くボタンクサギ
日比谷見附跡の南側は心字池(しんじいけ)ですが、池の東側斜面を上がって心字池を
見下ろすことにしました。上がる斜面の石段横に咲くアジサイ。
斜面を下り、心字池の北側からもう一度池を眺めます。心字池は公園ができる前は濠
(ほり)だったようです。
池の北西端近くにはアガパンサスが咲き出しました。
そばには「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」の説明板があり、ここには伊達政宗から3代
綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があり、政宗は江戸参勤の折、寛永13(1636)
年5月、ここで70年の生涯を閉じたことなどが記されていました。
池の西側を中ほどまで回ってみたら、対岸にアオサギがじっと立っています。つくりも
のではないでしょうね?。
心字池の西側は第一花壇と呼ぶエリア、その一隅に咲く花。
池側入口にあったアメリカデイゴも咲き出しました。
第一花壇北側にある、対のペリカンの噴水の一つ。
第一花壇の北に残る日比谷公園の旧管理事務所だった建物。
明治13(1880)年に竣工したドイツ・バンガロー風の建物で、明治期の数少ない
近代洋風建築の一つとして、東京都有形文化財に指定されているようです。
そばには、「松石」という化石が展示されていました。
いまから3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没後、珪酸質の液がしみこんだもの
を珪化木と呼び、北九州の炭田では炭層中に含まれた珪化木を松石または松炭と呼んでい
るようで、これは昭和初期に福岡市外亀山炭鉱の地下300mから発見されたものの一部
とのことです。
第一花壇の西側に立つクスノキの間を南に進みます。花壇のベンチで憩う人。
ルーパロマーナ(ローマの牝狼)という動物の母子像、昭和13(1938)年にイタ
リアから贈呈されたとか。
ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、レムス兄弟の有名な伝説に基づく像のよう。
第一花壇は、開園当時から現在まで同じデザインのままに保たれているそうです。
第一花壇の南西側にある草地広場は、幼児などに良い遊び場のよう。
公園の中央部にあるレストラン松本楼。何年か前、地図愛好グループのNさんと名物の
カレーライスを食べに入ったことを思い出しました。
松本楼の入口近くに咲くアジサイ。
松本楼の南東側にある第二花壇へ。南側正面のレンガ造りは日比谷公会堂。
第二花壇の北側の大噴水は、確か現在の天皇陛下の皇太子時代、ご成婚記念に造られた
と記憶しています。私が職種転換した年なので昭和34(1959)年のはず。
大噴水の北にあった小音楽堂は使われなくなったのか、入口のゲートがみすぼらしく見
えました。近くに職場があった頃、昼休みに警視庁音楽隊の水曜コンサート?などを聴き
によく通ったのでしたが…。
第二花壇に咲き残るバラ。
第二花壇の西側には新緑のプロムナードが。
その一角に埴輪が並んでいました。
昭和40(1965)年8月、都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園となっ
たとき、特別史跡 西都原(さいとばる)古墳群を始め多数の古墳のある宮崎県から贈ら
れたものです。
もう一度、松本楼の南側を進むと大きなイチョウが目につきます。
「首賭けイチョウ」と呼ばれる木で、公園開設までは日比谷見附(現在の日比谷交差点)
にあり、明治32(1899)年頃、道路拡張で伐採されようとしたのを、驚いた日比谷
公園生みの親、本多静六博士が東京市に進言してここに移植されたとのこと。
移植不可能とされたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行されたの
で、この呼び名があるようです。
その南側は少し盛り上がり、ツツジ山と呼ばれています。
西側にあるのが豊富な緑に囲まれた雲形池(くもがたいけ)です。
池の中央では「鶴の噴水」が水煙を見せていました。
ちなみに、私が近くに通勤していた頃、真冬の朝撮った噴水がこれ。多分昭和40年代
半ば(1971~2)頃だったと思われます。
寒かったこの冬も、このようなつららの下がった写真が新聞に掲載されたような気がし
ます。
池の南側は、デモやウオーキングで何度か入った大音楽堂ですが、コンサートに来た記
憶は残っていません。
池の南側に回り、もう一度鶴の噴水を眺めました。
この噴水は、明治38(1905)年頃、東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、
岡崎雪声氏が制作したもので、公園などの装飾用噴水では日本で3番目に古いとのこと。
15時頃に近くの霞門を出て、東京メトロ丸ノ内線で帰ることにして池袋行きに乗りま
した。
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梅雨の晴れ間で28℃前後まで気温の上がった今日は、2日後から出かける予定の北東
北3県の資料収集と地形図購入のため、東京駅八重洲口から銀座方面に出かけました。
ひととおり用事が済んだので、JR有楽町駅横を通過して久しぶりに日比谷公園に行っ
てみました。公園の北東端の有楽門から入園すると江戸時代の名残、日比谷見附跡の石垣
が残っています。
この石垣は江戸城外郭城門の一つである日比谷御門の一部とか。
そばに咲くボタンクサギ
日比谷見附跡の南側は心字池(しんじいけ)ですが、池の東側斜面を上がって心字池を
見下ろすことにしました。上がる斜面の石段横に咲くアジサイ。
斜面を下り、心字池の北側からもう一度池を眺めます。心字池は公園ができる前は濠
(ほり)だったようです。
池の北西端近くにはアガパンサスが咲き出しました。
そばには「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」の説明板があり、ここには伊達政宗から3代
綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があり、政宗は江戸参勤の折、寛永13(1636)
年5月、ここで70年の生涯を閉じたことなどが記されていました。
池の西側を中ほどまで回ってみたら、対岸にアオサギがじっと立っています。つくりも
のではないでしょうね?。
心字池の西側は第一花壇と呼ぶエリア、その一隅に咲く花。
池側入口にあったアメリカデイゴも咲き出しました。
第一花壇北側にある、対のペリカンの噴水の一つ。
第一花壇の北に残る日比谷公園の旧管理事務所だった建物。
明治13(1880)年に竣工したドイツ・バンガロー風の建物で、明治期の数少ない
近代洋風建築の一つとして、東京都有形文化財に指定されているようです。
そばには、「松石」という化石が展示されていました。
いまから3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没後、珪酸質の液がしみこんだもの
を珪化木と呼び、北九州の炭田では炭層中に含まれた珪化木を松石または松炭と呼んでい
るようで、これは昭和初期に福岡市外亀山炭鉱の地下300mから発見されたものの一部
とのことです。
第一花壇の西側に立つクスノキの間を南に進みます。花壇のベンチで憩う人。
ルーパロマーナ(ローマの牝狼)という動物の母子像、昭和13(1938)年にイタ
リアから贈呈されたとか。
ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、レムス兄弟の有名な伝説に基づく像のよう。
第一花壇は、開園当時から現在まで同じデザインのままに保たれているそうです。
第一花壇の南西側にある草地広場は、幼児などに良い遊び場のよう。
公園の中央部にあるレストラン松本楼。何年か前、地図愛好グループのNさんと名物の
カレーライスを食べに入ったことを思い出しました。
松本楼の入口近くに咲くアジサイ。
松本楼の南東側にある第二花壇へ。南側正面のレンガ造りは日比谷公会堂。
第二花壇の北側の大噴水は、確か現在の天皇陛下の皇太子時代、ご成婚記念に造られた
と記憶しています。私が職種転換した年なので昭和34(1959)年のはず。
大噴水の北にあった小音楽堂は使われなくなったのか、入口のゲートがみすぼらしく見
えました。近くに職場があった頃、昼休みに警視庁音楽隊の水曜コンサート?などを聴き
によく通ったのでしたが…。
第二花壇に咲き残るバラ。
第二花壇の西側には新緑のプロムナードが。
その一角に埴輪が並んでいました。
昭和40(1965)年8月、都立日比谷公園と宮崎県立平和台公園が姉妹公園となっ
たとき、特別史跡 西都原(さいとばる)古墳群を始め多数の古墳のある宮崎県から贈ら
れたものです。
もう一度、松本楼の南側を進むと大きなイチョウが目につきます。
「首賭けイチョウ」と呼ばれる木で、公園開設までは日比谷見附(現在の日比谷交差点)
にあり、明治32(1899)年頃、道路拡張で伐採されようとしたのを、驚いた日比谷
公園生みの親、本多静六博士が東京市に進言してここに移植されたとのこと。
移植不可能とされたものを、博士が「首にかけても移植させる」と言って実行されたの
で、この呼び名があるようです。
その南側は少し盛り上がり、ツツジ山と呼ばれています。
西側にあるのが豊富な緑に囲まれた雲形池(くもがたいけ)です。
池の中央では「鶴の噴水」が水煙を見せていました。
ちなみに、私が近くに通勤していた頃、真冬の朝撮った噴水がこれ。多分昭和40年代
半ば(1971~2)頃だったと思われます。
寒かったこの冬も、このようなつららの下がった写真が新聞に掲載されたような気がし
ます。
池の南側は、デモやウオーキングで何度か入った大音楽堂ですが、コンサートに来た記
憶は残っていません。
池の南側に回り、もう一度鶴の噴水を眺めました。
この噴水は、明治38(1905)年頃、東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、
岡崎雪声氏が制作したもので、公園などの装飾用噴水では日本で3番目に古いとのこと。
15時頃に近くの霞門を出て、東京メトロ丸ノ内線で帰ることにして池袋行きに乗りま
した。
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