2008年1月27日(日)
栃木県足利市は、古来から織物の町として栄え、毛野
国(現在の栃木・群馬県)の政治、文化の中心地だった
といわれ、多くの史蹟と豊かな自然に恵まれている。
このような歴史風土の中で、町の繁栄と家運隆盛、健
康増進を祈って昭和62年(1987)1月、半世紀ぶりに
七福神めぐりが復活したという。
コースの全長は43.8㎞あるが、全11社寺中の最短
距離で巡れる、市街地の8社寺を巡ることにした。
東武伊勢崎線足利市駅に10時20分に下車する。
駅構内の観光協会に寄った後、すぐ北を流れる渡良瀬
川の中橋際に出て、左岸堤防を上流に進む。
堤防上は北風が冷たく吹きつけ、渡良瀬橋の向こうに
雪を被った日光連山が望める。
その渡良瀬橋を渡って細い通りの旧道へ。JR両毛
線の踏切を渡ってすぐに左折、特養老人ホームや示現
稲荷神社前を抜け、料理店鳥つねの横で広い通りに
出た。
すぐ南の交差点を渡って真っ直ぐ進み、石段を上れ
ば布袋尊の福厳寺(ふくごんじ)である。
福厳寺は、寿永元年(1128)、藤姓足利の4代目
忠綱が母の菩提と父の供養のため創建したという。
本堂前にしだれ桜があり、境内にはモミジの古木も
立つ。布袋尊は、本堂左手のイチョウの下で立って
いた。
そばに数体の地蔵が並ぶ地蔵堂と、延命地蔵尊を
祭り、セキ止めに効験があるといわれるるセキ地蔵堂
もある。
本堂左手の墓地の間の階段を上がって足利公園に
出た。
市街地の展望が良く、公園内には近代日本で初め
て古墳の学術調査が行われたという10基の古墳群が、
桜や松、ケヤキ、ツツジなどの下に残されている。
車も通れる園路を南に下ると、JR両毛線の線路際
に草雲(そううん)美術館があった。
足利が生んで幕末の勤王画家・田崎早雲の遺作・遺品
を展示しているようだが、今日の目的からは外れるので
入館は省略する。
公園の下側を東に回り、足利六十六郷の総鎮守と
いう八雲神社に参拝。貞観年間(859~876)創建と
伝えられる古社。
社殿は再建して新しく、境内はそう広くないが、神木
のケヤキの古木が枯れ枝を大きく広げていた。
福厳寺前に戻り、水の枯れたところもある柳原用水
沿いの旧道を北東に向かう。交通量の多い県道67号
に出ると、北側の山すそが毘沙門天の常念寺。
平安末期の康治2年(1143)の創建と伝えられる
時宗の寺。昭和61年(1986)新築という鉄筋のどっ
しりした本堂横に、幼稚園を併設している。
そのため境内はほとんど無く、県道寄りに一遍上人
像が立つていた。
さらに柳原上水沿いの旧道を進む。三宝院の先で、
用水は東向きにカーブし、廃校になった旧西小付近
からは暗きょとなり、そのうえに幅広い歩道ができて
いた。
すぐ先の交差点の南側に、赤い鳥居と赤い柱の小
ぶりな社殿が目につく。弁財天の厳島神社、長尾弁
天である。
もとは北側の長林寺境内に、足利城主・長尾景長
が祭ったと伝えられ、明治元年(1868)の神仏分離
令で、現在地に遷座したという。
社殿前に机を出し、七福神巡りの人のためにお守り
や資料などを並べていて、甘酒と日本茶のお接待をい
ただいた。
交差点を北へ、旧道に入って山すそを右に回り込み、
長い境内を進んで福禄寿の長林寺へ。山門の手前に
ある池には厚い氷が張っていた。
長林寺は、文安5年(1448)、足利領主・長尾景人
により創建した竜沢寺がはじまり。元禄時代に伽藍
(がらん)を整備し、明治維新まで修行道場として
人材育成の場だったという。
豊富な樹林に囲まれた墓地の一角に、戦国時代に
上杉方の勇将として活躍した足利長尾氏歴代の墓地
や、江戸末期の足利藩絵師で、明治22年(1889)の
パリ万国博で名誉賞を受賞した田崎早雲の墓がある。
旧道に戻ってさらに北に進み、足利工高の東側山腹
の石段を114段、恵比寿神の西宮神社に上がる。
江戸開府の慶長8年(1603)、代官・小林重郎左衛
門が、領地繁栄のため摂津(兵庫県)の西宮神社を勧
請して創建、「福の神」として関東一円の崇敬を集めた
という。
杉や松木立に囲まれた境内には、本殿のほか、秋葉、
稲荷、八坂、山神社などの社殿があり、恵比寿神は、
奥の神明殿に祭られていた。
もとの道を長尾弁天そばの交差点まで戻り、暗きょ
上の歩道を東に進んで織姫神社下まで行く。
南側に社殿の彫刻がみごとな神社が見えたので、ひ
とつ南側の通りの鳥居の方に回る。
八雲神社で、鳥居のそばに高さ25mという大イチョ
ウがあった。市の天然記念物になっていて、ギンナン
もたくさん実るようだ。
本殿の背後にある社殿に精巧な木彫が施されている
が、本殿を含め周囲を石の柵で囲ってあり、そばで拝
観することはできなかった。
織姫神社下に戻り、229段の石段を上がって織姫
神社に参拝する。足利織姫神社は、奈良時代初期の
和銅6年(713)の文献が残り、足利織物の守り神と
して創建されたもの。
明治13年(1890)9月の火災で消失後、昭和12
年(1937)朱塗りの現社殿が造営され、鉄筋コンク
リート造りながら、日本古来の寝殿造りを再現し、国
の有形文化財に指定されている。
境内からは足利市街の展望が良い。
東側から北の両崖山へ向かうハイキングコースがあ
るが、石段下に戻り、再び現れた柳原用水沿いを北東
に向かう。
足利赤十字病院下から徳正寺付近まで進むと、落ち
着いた住宅地となる。樹覚寺前で歩道が終わって広い
通りへ。間もなく2つめの弁財天、明石弁天がある。
昔この地に清らかな湧水の池があり、弁財天を祭っ
たと伝えられ、現在の社殿は寛政5年(1793)建立
だという。
松とケヤキ1本ずつの境内には、美人弁天を祭る朱
塗りで緑屋根の弁天堂もある。氏子の方2人がおられ、
お茶のお接待をいただいた。
広い道路をそのまま進む。小さい峠を下ったところに
あるのが次の心通院かと思ったら、善徳寺墓苑。寿老
人の心通院は、墓苑前を東に進んだ右手にあった。
心通院に入る前にそばに、近くの中華料理店で遅い
昼食をする。
心通院は、永禄9年(1566)、足利長尾5代の政長が、
両親の菩提のために創建したのだという。
現在の鉄筋八角形の社殿は、昭和38年(1963)の
再建とか、両崖山を背にして独特の景観を見せている。
第二中の南西側付近から、南南西に直線に延びる
道路を1㎞ほど進み、最後の鑁阿寺(ばんなじ)に北門
から入る。
建久7年(1196)、源姓足利氏2代義兼が建立し、
大日如来を祭ったのが始まり。3代義氏が堂塔伽藍を
建立し、足利一門の氏寺として隆盛したという。
周囲に土塁を巡らし広さ約4万㎡という広大な境内、
大黒天は、境内北側にある校倉造りの大黒堂に祭ら
れていた。
境内には、本堂にあたる大御堂や、鐘楼、一切経
堂が国の重文、はかに楼門、多宝塔、御霊屋敷、屋
根付太鼓橋などが県の文化財に指定され、大御堂の
そばには、樹齢約550年、縁結びのご神木といわ
れる見事な大イチョウが立っていた。
南門に出て太鼓橋を渡り、大門通の途中から東に
回って、日本最古の学校、足利学校も訪ねる。
16時の受付時刻を過ぎ、急ぎ一回りして閉門後の
木戸から出る。
電線、電柱を地中化した足利氏の中心街、県道67
号を通2交差点まで進み、渡良瀬川の中橋を渡って、
16時27分に足利市駅に戻った。
快晴ながら1日中風が冷たく、地図を見るのもおっ
くうになる寒さだった。
鑁阿寺と足利学校については、別途紹介することに
する。
(天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、
足利北部、歩行地 栃木県足利市、歩数 19300)