あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

奈良・山の辺の道を歩く ②巻向から天理へ(その2)

2013-04-30 22:53:52 | 奈良を歩く
 2013年4月17日(水) (続き)

 昼食を終えて北へ。正面に念仏寺の大屋根が迫る。



 近づくと、門前で「お墓参りの心得」を下げた大きな童僧の石像が迎えてくれる。境内
は広くはないが植栽はよく手入れされ、紅葉のようなモミジの若葉や八重桜が映える。


 東に回り、念仏寺の墓地や柿畑の間を進む。東側一帯は前方後円墳の灯籠山古墳のよう
だが、墓地と柿畑なのでそうとは見えない。





 次の小集落の五社神社のある十字路を東から南に回り込み、中山大塚古墳の北東にある
西殿塚古墳へ。

 全長234mの前方後円墳で、第26代継体天皇の皇后・手白香(てしらか)皇女の衾
田(ふすまだ)陵とされるが、実際はもっと前の3世紀後半の造営とみられるという。

 五社神社の十字路に戻り、次の萱生(かよう)町の集落に入った。古墳時代後期の前方
後円墳、西山塚古墳の東側を通過する。


 その古墳の環濠の一部利用して環濠(かんごう)集落があり、家並みが水に影を映す。

 環濠集落は大和の戦国乱世が生んだ自衛の集落で、用水を兼ねた濠の内部に竹やぶを植
え込んだというが、現在残っている環濠も家並みもわずかである。

 萱生町集落の北端の交差点際から、北西間近に前方後円墳、波多子塚古墳の後円部が見
える。四世紀前半の築造と考えられるようだが農地になっていて、石垣が階段状に設けら
れていた。


 その先に萱生町の大きな看板があり、「大和平野を一望できるスポット 特産物は刀根
早生柿とみかん」と記されていた。確かにこの辺りの標高は100m前後で、今日は霞ん
ではいるが大和平野の展望が広がる。


 近くに「みちふく」という休み処がある、この日は休業日のようで、くさりが張られて
いた。


 東側に広がる柿畑や新緑の山並みなどを眺め、木のイスとベンチのある休憩所前を通過
し、ナノハナの咲く竹ノ内町の集落へ。


 新しいトイレと休憩施設があったので、ベンチでひと休みする。


 ここにも集落を囲む環濠があったようだが、いまはほんの一部だけが残り、そうと知ら
ねば気づかずに通過してしまいそう。


 次の乙木(おとぎ)集落南端に「せんぎりや」という無人販売の店があり、地元産の米
や野菜、果物などを販売している。おいしそうなかき餅があったのでひとつ求めた。



 家並みの間の細い通りへ。集落の中心、十字路際のお宅のベニバナトキワマンサクが満
開だった。


 集落を抜けると、大きなクスノキなど繁る夜都伎(やとぎ)神社の森が見えてきた。

 昔から奈良春日神社と縁深く、明治維新まではハスのお供えを献供し、春日神社からは
社殿と鳥居を下げられるのが例だったと伝えられているという。


 拝殿は珍しいわらぶきだが、かなり傷んでいる。本殿は春日造りの社殿が大小4つ並ん
でいた。


 神社の西を回って行くと、北に東乗鞍古墳が見えてきた。古墳の東を進んでT字路に合
し、東側山麓の園原町の小集落に入る。


 山麓を北へ緩やかに上がって天理観光農園の建物↑に入り、「峠の茶屋」と呼ぶ休み処
で休憩して、絞りたての生ジュースを味わう。


 庭にはベニバナトキワマンサクが数本満開。この花は近くの民家にも何か所かで咲いて
いた。建物の横にはシロヤマブキも花を見せている。


 少ない家並みが途切れ、石畳を少し上がって峠となり、柿畑の間を下る。ため池のそば
に「永久寺跡」の説明板が立っていた。


 寺は永久年間(1133~7)に建立され、これから訪ねる石上(いそのかみ)神宮の
神宮寺として盛時には大伽藍(だいがらん)が並んでいたが、明治の廃仏毀釈(はいぶつ
きしゃく)で廃寺となり、いまは池を残すだけという。

 当時の絵図も並んでいたが、広い境内に多くの堂塔が並ぶ様子は、池と山林だけの現在
地では全く想像できない。


 南北朝時代、後醍醐天皇が吉野遷幸の時に立ち寄った地とされる「萱野御所跡」碑もあ
り、池の北端には、当時永久寺を訪ねた芭蕉の句碑が立っていた。


 国道25号天理トンネルの西側で国道の下をくぐり、静かなたたずまいの池の横を進み、
うっそうたる石上神宮境内の森に入る。

 鏡池の角で西からの参道に合し、神の使いとされる鶏の遊ぶ参道を上がる。



 国重文の楼門を入って、国宝、檜皮葺(ひわだぶき)屋根の拝殿に参拝する。


 石上神宮は日本最古の神社で、神武天皇が即位した時に宮中に祭られ、崇神天皇7年に
ここへ移されたという。


 楼門横の回廊には、奉納された清酒の樽が並び、南北朝時代の応安2(1369)年銘
の松製の鎧櫃(よろいびつ)や古い自衛消防ポンプも置かれ、寺跡でも見た「内山永久寺
之図」も掲示されていた。

 楼門を出て南側高みには、国宝で廃寺となった永久寺から移設した出雲建雄神社の拝殿
↓や、天神社、摂社拝殿などが並び、その一角から拝殿後ろの本殿屋根も望まれる。


 山の辺の道はこの先北へ、奈良市内まで続くが、多くの人が歩くのは、昨日から歩いた
桜井駅からここ石上神宮までである。

 昨日は多くの神社を訪ね今日はたくさんの古墳を巡り、いにしえの奈良の歴史を再認識
し、新緑あふれる山並みや、春の花を眺めながらの静かな里道歩きを楽しむことが出来た。

 道標や説明板も多く休憩所やトイレも適度にあり、車を気にせずに歩ける、ほかでは得
られぬ道筋だった。沿道には数多くの無人販売所もあり、ゴミも無く、歩く人のマナーの
良さも感じられた。

 欲を言えば、途中の波多子塚古墳の説明板のところで会った、東大阪市の元消防署職員
の方が言われた、30年前とはすっかり変わってしまったと嘆いていた当時の、この地方
特有の民家の並ぶ里道を歩いてみたいことだった。


 参道を下って車道に出て、北進して国道25号に入ると、天理教本部周辺の大きな建物
群が見えてきた。布留川の橋の先で、西に直進して天理駅に向かう道に入る。



 明日の天理教教祖祭を控え、全国各地の教会のはっぴを着た信者が行き来し、たくさん
ののぼりやちょうちんの並ぶ天理教本部前を通過する。



 長いアーケードの続く天理本通に入り、参拝者用の土産物店などをのぞきながら進み、
17時25分にJR桜井線の天理駅に着いた。




(天気 曇後晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 桜井、大和郡山、歩行地 桜井市、
 天理市、歩数 23,900、累積標高差 上り 約260m、下り 約270m)




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奈良・山の辺の道を歩く ②巻向から天理へ(その1)

2013-04-29 22:40:47 | 奈良を歩く
 2013年4月17日(水)

 前夜は奈良市内のビジネスホテルに泊まり、昨日のゴールのJR桜井線の巻向(まきむ
く)駅に、8時57分に下りた。駅は無人でホームは東側だけ。9時1分に駅を出る。


 国道169号を少し進んで、相撲神社口バス停のある交差点を東に向かう。すぐ先に、
昨日は急いでいて気づかなかったが「垂仁天皇纏向(まきむく)珠城宮(たまきぐう)跡」
碑が立っていた。


 近くの巻野内集落の東端付近には、国指定史跡の珠城山(たまきやま)古墳群がある。
古墳時代後期の古墳で、1号墳から3号墳まで、三つの古墳が東から西へと並んでいる。

 西端の3号墳に上がり、墳丘上を2号墳の方に進む。



 東に三輪山や山麓の穴師集落方面が、南西には纏向遺蹟中の箸墓(はしはか)古墳↑、
北にはこれから向かう景行天皇陵↓が望まれる。


 さらに1号墳に回ると、南面に横穴式石室が残っていた。


 古墳の東、小さな池の横から昨日の延長になる山の辺の道に入り、田んぼの間を北に向
かう。


 田のあぜに、見たことのないピンクの小さい花が咲いていた。


 振り返って、いま通ってきた珠城山古墳を眺める。


 黒いテント掛けの無人スタンド前を過ぎ、桜井市から天理市に入り、景行天皇陵とされ
る渋谷向山(しぶやむかいやま)古墳の後円部東端へ。

 古墳時代前期に築造されたものでは国内最大の古墳とか。全長約300mの前方後円墳
で、この周辺では1番大きく、奈良県下でも2番目という。でも、そばに行くとそのスケ
ールは感じられない。


 北側の景行天皇陵ろ号陪塚のそばを通過し、渋谷町の集落に入る。公民館や卑弥呼庵
(ひみこあん)と呼ぶ民家を開放した茶どころ、甘夏などの無人販売所前を過ぎる。

 大和瓦の大きな民家を見下ろし、小さい流れに向かって車坂を下る。その大きな民家の
横には、黄門竹のつえを100円で売っていた。



 渋谷町に続く山田集落を北に出ると、行く手に崇神(すじん)天皇陵↑が、北西に黒塚
古墳↓が見えてきた。


 休憩所の横を通過して、崇神天皇陵とする前方後円墳、行燈山(あんどんやま)古墳の
後円部東側に着いた。

 全長242mあり、このあたりの柳本古墳群では、先ほどの渋谷山古墳(景行天皇陵)
に次ぐ大きさという。古墳周辺でサンコウチョウがしきりに鳴く。

 山の辺の道を挟んで東には、全長155mの双方中円墳と呼ばれる珍しい墳形の櫛山
(くしやま)古墳がある。その間を行燈山古墳の北へ回り込むと、路傍のクヌギが花を見
せる。



 環濠の中に桜の古木が花を広げ、西には天神山古墳も現れた。


 次の北別所集落の西端にある大きな休憩施設、天理市トレイルセンターへ。構内の八重
桜が見頃で水琴窟(すいきんくつ)もあり、周辺に広がる柳本古墳群の説明パネルが立つ。



 建物内では山の辺の道の情報が得られ、卑弥呼の鏡で知られる三角縁神獣鏡や土器、食
物の種で描いた絵文字などが展示され、無料で飲める湯茶のサーバーもあり、ゆっくりと
休憩や昼食ができる。


 20分ほど休んで北に出て、山門をくぐって東側の山すそにある長岳寺に入る。天長元
(824)年に淳和天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられ、盛時には48坊、
宗徒300余名を数えたという。


 国重文で日本最古の鐘楼門を入ると、放生池を囲む境内はみずみずしい新緑が広がり、
八重桜やモミジが彩りを添える。


 小さい石の祠に祭られた四国八十八ヶ所を巡ることも出来る。まずは境内を一巡して、
それらを眺めた。



 鐘堂から大師堂↑などを経て本堂↓に上がり、国重文で玉眼を最初に使ったことで名高
い阿弥陀三尊を拝観する。





 さらに鐘楼門そばの旧地蔵院の庫裡(くり)と、庫裡に続く地蔵堂内部を拝観し、ふす
ま絵や松などを配した庭園を眺める。50分近く境内を巡り寺を出た。


 トレイルセンター北の上長岡集落を抜けた辺りからは、東に新緑の山並みが広がる。中
山町集落の向こうに、中山大塚古墳が見えてきた。



 大和瓦の家並みの並ぶ中山町を北に抜け、眺めの良い休憩テラスと柿本人麿歌碑や、柿
畑の間を通過し、中山大塚古墳↑の西側台地に上がった。




 南に面して中山観音堂があり、そばの広場に「最古の御社 大和(おおやまと)神社御
旅所」の標柱が立つ。


 東側に広がる新緑の彩りが気持ちよい。


 広場の北には歯定(はさだ)神社の簡素な社殿がある。正午を過ぎたので、神社の横の
ベンチで昼食にした。


(続く)




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奈良・山の辺の道を歩く ①桜井から巻向まで

2013-04-27 22:47:05 | 奈良を歩く
 2013年4月16日(火)

 かねてから歩きたいと思っていた、大和平野の三輪山から北へ連なる山すそを縫うよう
に伸びる上古の道、「山の辺の道」を歩きに出かけた。

 東京駅発7時33分発東海道新幹線ひかり503号に乗る。京都、奈良で乗り継ぎ、正
午過ぎにJR桜井線の桜井駅に着く。


 駅北口に近い、「いにしえ茶屋」と呼ぶ店で三輪そーめんの昼食をして、12時43分
に出発した。

 川沿いを東へ、JR奈良線の線路を越えて桜井高校前まで進み、左折して北へ向かう。
三輪素麺(そうめん)を製造する巽製粉の工場前を通過し、大和川沿いに出た。


 三輪山の淡い新緑の彩りが気持ちよい。


 東進して二つ目の馬井手橋際に、海石榴市(つばいち)の説明板があり、「七世紀の頃、
山の辺の道をはじめ幾つかの古道が交わるこの周辺に大規模な市があり、平安時代には伊
勢詣でや長谷寺詣での宿場町として有名になった」と記されていた。

 車の通れぬ馬手井橋を渡ると、大きな「仏教伝来之地」碑が立つ。


 この地は難波津(大阪)から大和川をさかのぼってくる舟運の終着地で、日本書紀にも
記された百済(くだら)からの仏教伝来使節が上陸したと伝えられているという。


 対岸にそのイメージを描いたタイル絵があり、橋の上流右岸には馬の飾り物が数個並ん
でいた。



 大和瓦の家並みの続く金屋集落へ。左カーブ点の所を右に入ると海石榴市観音堂があり、
石造りの小さい観音様が祭られ、境内にもたくさんの石仏が並んでいる。


 小さい流れ沿いの住宅地を緩やかに上がる。家並みの途絶えた辺りの小さいコンクリー
ト造りの収蔵庫に、「金屋の石仏」と呼ぶ2体の石仏が祭られている。


 高さは2.14mで、釈迦如来像と弥勒菩薩像が浮き彫りにされ、平安時代後期の造立と
考えられるという。


 「やきもののうめだ」と呼ぶ陶芸の窯元の先、Y字路際に「第十代崇神天皇磯城瑞籬宮
(すじんてんのうしきのみずがきのみや)趾」の大きな標識があり、そばの日向神社↓境
内に、その石柱が立っていた。


 竹林を進んで右に回り込み、石段を上がって平等寺(びょうどうじ)に入る。


 581年に聖徳太子が建立し、徳川時代には修験道の霊地として、大峰山に向かう修験
者が境内の不動の滝で修行したとか。


 境内には鴟尾(しび)を載せた本堂を中心に、不動堂、二重塔の釈迦堂、鐘楼、山門な
ど多くの堂塔が立ち並び、聖徳太子立像や十六羅漢の石造などもある。


 平安時代の延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に記され、神社では珍しい北向
きの小さな社殿の神坐日向(みわにますひむかい)神社↑横を過ぎ、大和国一ノ宮の大神
(おおみわ)神社に入る。


 「三輪明神」とも呼び、背後の三輪山をご神体としており、国重要文化財で檜皮葺(ひ
わだぶき)の壮大な社殿の奥に三つの鳥居が立ち、本殿はない。

 酒屋の軒先に下がる杉玉は三輪山の杉で造られるので、全国の酒造家の信仰が厚いとい
う。

 平成9年竣工の祈祷殿には大きな杉玉が吊され、境内には、巳の神杉(みのかみすぎ)
と呼ぶご神木の大杉が立つ。



 平成21年に整備したという新しい参道「くすり道」を進むと、大神神社の摂社で薬の
神として信仰される磐座(いわくら)神社がある。神様が鎮まる岩が祭られていて社殿は
無く、原始の神道の姿を伝えているのだという。


 さらに林間を進んで鎮女池(しずめいけ)のほとりに出る。中の島には、大神神社の末
社で海や水の守護神である市杵島姫(いちきしまひめ)神社が祭られ、池にはたくさんの
コイが泳いでいた。


 その奥には、三輪の神様の荒魂(あらたま)を祭り、病気平癒の神として信仰される狭
井(さい)神社があり、2日後の鎮花祭を控え、拝殿の前にはビニールテントが張られて
いた。


 拝殿の右手手前に三輪山への登拝口があり、社務所に申し込むと山頂まで往復して登拝
出来る。


 また、社殿の左奥には、三輪山から湧き出る霊験あらたかな「くすり水」として知られ
る薬井戸があり、多くの参詣者が霊水をいただいていた。


 狭井神社までで大神神社の広い境内は終わる。市杵島姫神社まで戻り、東海自然歩道の
案内図の横から北に向かう。


 梅や柿の畑などの間を下り、万葉集の歌碑前を過ぎる。


 民家の横のT字路を左に入ると、「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」と刻まれた大きな
碑が立っているが説明板はない。


 T字路際に「花もり」と呼ぶヘルシーな野菜膳などの食事どころがあり、そばに大神神
社の末社の一つ、貴船神社の小さな社殿もあった。



 少し先、右手高みに池の堤防があったので上がってみたら、上にもう一つ池があり、そ
の間に八大靇王大神神社が祭られていた。



 池の下のレンゲの咲く田んぼの横や、新しい石だたみの林間を進んで、玄賓庵(げんぴ
あん)と呼ぶ静かなたたずまいの寺へ。


 平安時代、三輪山の桧原谷に玄賓僧都が隠棲(いんせい)した庵(いおり)を、明治の
神仏分離でここに移したとのこと。謡曲「三輪」の舞台として知られているという。


 玄賓僧都が修行したという小さな流れの滝を過ぎ、杉林の林間を抜けて桧原(ひばら)
神社境内に入る。神社は、林の中に三つの鳥居が立つているが社殿は無く、三輪山山中の
岩座をご神体としているとか。

 左手には、桧原神社と同様に大神神社の摂社の一つで、第十代崇神天皇の皇女を祭る、
豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の小さい社殿があった。

 境内からは、午後の逆光に霞む大和盆地や二上山(にじょうさん)が望まれる。


 西に下る道路際に地元の野菜などを販売する無人小屋があったので、ふきの佃煮を求め
る。この先の山の辺の道沿いにも、幾つも同様の無人販売施設があった。



 行く手の穴師集落の家並みや、背後の新緑を眺めながら三輪山の西麓を右に回り込み、
八重桜咲く穴師集落でヘヤピン状に折り返す。


 幾つかある万葉歌碑や無人スタンドを見ながら集落を進む。


 小さい坂の上がり口にあった無人スタンドで、大福もちを求める。とてもやわらかで、
疲れてきた足取りに元気を与えてくれる。坂を上がると「みかん発祥の地」の立て札が
あった。

 果樹園の売店の手前、東海自然歩道の道標のあるT字路から、果樹園の間を緩やかに東
に上がる。北側に上がってきた道路と合する広葉樹林の中に、相撲(すもう)神社の小さ
な社殿が祭られていた。


 「国技発祥の地」の説明板があり、「第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰(のみのすくね)
と当麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天皇の前で相撲を取ったこの地に、昭和37
(1962)年10月、日本相撲協会の時津風理事長、大鵬、柏戸の2横綱や5大関など
全力士が訪れ、境内の土俵↓で手数入りが奉納された」ことなどが記されていた。


 同メンバーが同じ日に顕彰大祭を行ったという大兵主(だいひょうず)神社は、すぐ先
の山ふところある。第10代崇神天皇の頃に創建と伝わる古社で、拝殿の奥に三つ屋根の
本殿を構え、生産と平和の神、芸能の神、スポーツの神が祭られているという。



 穴師集落の北端付近から、「歴史街道山の辺の道」の標識の埋め込まれた道を、西に向
かって緩やかに下り、「穴師かむなびの郷」と呼ぶ山の辺の道キーステーションの建物や
「景行天皇纏向(まきむく)日代宮跡」標石などの横を通過する。


 北には、明日向かう景行天皇陵の大きな前方後円墳が望まれた。


 山の辺の道を右に分け、珠城山(たまきやま)古墳の南側を進んで国道169号に入る。
18時5分にJR桜井線の巻向(まきむく)駅に着いた。

(天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 桜井、歩行地 桜井市、歩数 17,900、
 累積標高差 上り・下り 各約220m)




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庭のニホンサクラソウが見ごろに

2013-04-26 18:28:32 | 所沢だより
 2013年4月26日(土)

 3日間家を空けているうちに、庭のニホンサクラソウが見ごろになっていました。
    



    



    



    

        そばのウツギも開花しました。
        

 チューリップは、少し強めの風に揺れています。


    

 年々、庭の一隅で専有面積を広げているのがシャガ。


    

 わずかな芝生の中や周囲には、種が飛んできたパンジーが数を増やしてきました。


       

 鉢植えのミリオンベル。


       

 屋根下のシラン。


 サンデッキで厳しい冬を越したミリオンベルも花を見せてくれました。


       

 そばのキンギョソウも。


     小さな花を見せてくれたのは何でしょうか…。
     



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宮崎県のウォーキングへ

2013-04-25 18:30:54 | Weblog
先週、4月16日から18日に出かけた奈良、山の辺の道の
レポートのアップが出来ないまま、今週は宮崎県に来た。
23日には、小京都とよばれる宮崎県南部の日南市飫肥(おび)を
半日足らず巡り、国伝統的建物群保存地区に選定された
商家などの家並みや、飫肥城跡を訪ねた。
昨日、24日には雨の中、午前中に宮崎神宮と、そばの
県立博物館などもを訪ね、夕方、県西部のえびの市の京町温泉に泊まる。
好天になった今日、25日、宮崎県西端の駅、真幸(まさき)から、
京町温泉までカントリーウォークして、新緑の山並みや
田んぼの守り神である『田の神さあ』と呼ばれる、この地方独特の
石仏をいくつか探した。添付の写真はその一つである。
帰路、都城駅で途中下車して、島津氏の旧宅も訪ね、
いま宮崎空港に向かう列車の車中から、とりあえずの報告をして、
帰宅後に、詳細は報告します。
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続カタツムリ歩行 JR武蔵野線 西国分寺駅(東京)

2013-04-21 18:04:10 | カタツムリ歩行
 2013年4月21日(日)

 真冬並みの気温で冷たい雨となりましたが、続カタツムリ歩行の3回目に出かけました。

 集合はJR武蔵野線と中央線の交差する西国分寺駅です。雨なので参加者は少な目です。
雨具を付けて10時10分頃、駅の北口をスタートしました。

 JR武蔵野線の東側に回ると、東京都の「姿見の池緑地保全地域」の西端で、広葉樹林
の斜面が東に広がっています。

 この緑地保全地域の面積は10,552㎡あるようです。

 近くの住宅地のそばに、恋ヶ窪用水を復元した小さな流がありました。江戸時代の明暦
3(1657)年に、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村の田んぼの潅漑用水として、玉川上水
から分水した流れをイメージして整備したとのことです。


 流れに沿った緑道を東に進みます。雨に濡れた新緑がみずみずしい彩りですが、カメラ
も濡れてちょっとお見苦しい写真が続き、申し訳ありません。


 林の向こうに、緑地保全地域の名のもとになる姿見の池がありました。


 池のほとりでは、ミズキやヤマブキが花を見せています。




 姿見の池は、南側が崖地になっていて広葉樹林がJR中央線の線路に沿って続きます。


 北側の恋ヶ窪一丁目の住宅地には、庭木や草花を大切に育てているお宅が多く、それら
を眺めながら北に回りました。


 新しい住宅の一角に、こんもりした屋敷林を背にした、それこそ恋ヶ窪村の時代からあ
ったと思われる、古くからの民家も残っています。


 このあたりの守り神、熊野神社です。和歌山県の熊野神社を勧請したようですが、由緒
の文字はかすれて、よく読めませんでした。


 社殿の左手背後には、杉とケヤキの古木が立っています。


 西武国分寺線の踏切を渡り、東側の東恋ヶ窪三丁目に回ります。通りに面したお宅に、
ツツジとツキヌキニンドウが咲いていました。




 住宅に囲まれた畑でブルーベリーを栽培していて、もう開花し始めています。




 地図上の二つの老人福祉施設の場所を確認して、東恋ヶ窪二丁目を東へ。ここにも古く
からの民家のものとみられるケヤキの古木が望まれます。

 右奥の5階建てマンションより高いか低いかと、一緒に歩いた皆さんの中でも判断が分
かれましたが、20m~30mくらいありそうに思われました。

 国分寺第三小学校のところで西武多摩湖線の踏切を渡って、本多三丁目と二丁目の間を
東進すると、こんな看板が眼に入りました。

 1976年から続いているようですが、どんな食べ物の研究なんでしょうか。シャッタ
ーが閉じていて聞くことは出来ません。

 今日のゴールは近くの本多八幡神社ですが、時間も早かったのでその先に隣接する応
寺に入ってみました。関東では珍しい黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院です。


 本堂の右手前は、そう広くはありませんがよく手入れされた庭園です。




 庭園の奥に、享保11(1726)年に寺を開基した時に、ほかから移設したという、
コノテガシワの古木が立っていました。


 新緑にあふれた一角も。


 こちらがゴールの本多八幡神社。享保9(1724)年に本多新田が開発されたときに、
里の鎮守として山城国石清水八幡宮を勧請して、翌文元元年に創建されたと伝えられ、明
治の神仏分離令までは、祭祀は応寺の別当によりとりおこなわれたとのことです。

 11時40分に到着しました。

 雨宿りする場所がないので、社殿ひさし下で立って食事をしてから、境内を回ってみる
と、カッパのような石造物が無造作に置かれていました。


 記念撮影とミーティングをして、12時45分に散会となりました。


 (天気 雨、距離 4㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 国分寺市)



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水城公園、さきたま古墳公園やさきたま緑道を巡る(埼玉)

2013-04-20 22:03:14 | カントリーウオーク
 2013年4月14日(日)

 風雨で荒れるとの予報で1週間延ばした、カントリーウオークグループの第202回例
会は好天となった。集合は秩父鉄道の行田市(ぎょうだし)駅。4組に分かれて10時
10分に出発した。

 == 水城公園からさきたま古墳公園へ ==

 駅前から西に少しで蓮花寺へ。モミジの新緑が淡い彩りを見せ、ツツジも見頃である。




 参道を南に出た通りに、全盛期の足袋専門倉庫だった「時田足袋蔵」と呼ぶ昭和初期に
造られた土蔵造りの古い建物が残っていた。


 近くの旧小川忠治郎商店の店舗と主屋(おもや)は国登録有形文化財。昭和4(1929)
年頃の完成で、行田の足袋産業興隆期を象徴する近代化遺産だという。


 店舗には「そば処忠治郎蔵」の看板がある。のぞいたら、「中に入って見て下さい」と
言われたので入る。

 しっかりした造りの落ち着いた建物。2階への階段は垂直に近い急傾斜で暗く、荷物を
持っては上がれそうにない。入口際では開店前のそば造りをしていた。


 その先の建物には「藍染体験工房牧禎舎」の旗が立っていた。中では、NPOぎょうだ
足袋蔵ネットワークの方の指導で、観光に来たらしい3人の女性が布を浸した藍瓶に手を
入れ、藍染めを体験していた。


 藍染めの原料は徳島県から取り寄せているという。そういえば四国遍路の時に、戦時中
禁止されていた藍の栽培を密かに続けて伝統を守った、岩田さんの建物の前を通ったこと
を思い出す。

 突き当たりのT字路の角に、「時田蔵」と呼ぶ、行田では珍しいという袖蔵(そでぐら)
形式の土蔵が残る。

 「代官所跡」碑の角を回った通りには、大正13(1924)年完成の店蔵や大正11年
棟上の木造洋風工場など、足袋商店だった牧野本店の建物があり、工場部分は週末や休日、
「足袋とくらしの博物館」として公開されるようだ。


 可愛らしい仕草のわらべ人形が並ぶ国道125号を、市役所入口交差点まで進む。


 通りの民家のツツジが満開である。



 公園通りに入り、市役所やSL・C5726号を展示する産業文化会館前を通過し、北端
から水城公園(すいじょうこうえん)に入った。



 芝生広場の隅や日本庭園の池のそばの八重桜が満開で、モミジなどの新緑も気持ちよい。
小休止して水分補給をする。




 しのぶ池に沿って南端まで進んで、公園を出た。


 東方に向かう通りにも、足袋原料倉庫だった建物を再活用した「行田窯」と呼ぶ陶芸工房
がある。県道77号・行田蓮田線を越えて、高現寺に入った。


 忍城(おしじよう)佐間口の守将だった正木丹波守利英公が、天正18(1590)年の
石田三成忍城水攻めの際の彼我の戦没者の霊を弔うために建立した寺で、昨年映画になった
和田竜著「のぼうの城」にも記されているという。

 そばの用水沿いを行田中学校のそばまで進む。


 ナノハナの咲く忍川(おしかわ)を渡ると、田んぼの向こうに埼玉古墳群のひとつ、丸墓
山(まるはかやま)古墳が見えてきた。


 水量豊富で護岸修復中の武蔵水路を渡り、ビール麦の穂の伸びたた田んぼと民家の間を進
む。


 枯れアシの残る旧忍川の歩行者用橋を渡って、さきたま古墳公園に入ると古い石仏が並ん
でいた。


 八重桜の花の下を抜けて丸墓山古墳の北側に回り、メタセコイアの下の芝生の昼食地に、
12時10分に着いた。


 食後、東側に見える芝に覆われた前方後円墳の稲荷山古墳に行き、後円部から前方部へと
墳丘上を通り抜ける。


 古墳の全長は120mで、埼玉(さきたま)古墳群の中で最初の5世紀後半頃に造られた
と考えられるという。1968年の発掘で発掘された鉄剣に115文字の銘文が見出され、
ほかの副葬品とともに国宝に指定されている。


 墳丘上に、石を敷いた船形の埋葬施設が展示されていて、ナノハナと八重桜の咲く丸墓山
古墳など周辺の古墳群も望まれる。




 == さきたま緑道から石田堤へ ==


 ミーティングを終えて13時26分に出発する。丸墓山古墳にも北から上がって周辺の展
望を楽しみ、南に下り記念撮影をする。



 石田三成が忍城を水攻めにした、石田堤の名残の桜並木がそばに少し残っていた。東に
向かい、将軍山古墳↑から二子山古墳のそばを回り、県内から移設した二つの民家の一つ、
幸手市の旧遠藤家を見る。





 そばの「埼玉県名発祥の碑」を確認し、前のテントで販売中の行田の特産品などものぞい
てみる。南端にある奥の山古墳の横から、さきたま古墳公園を出た。

 利根川の水を荒川に導水する武蔵水路に回り、水路の左岸沿いのさきたま緑道を南に向か
う。ソメイヨシノは若葉に変わり、ケヤキやモミジなどとともに、やわらかな彩りを見せる。


 国道17号バイパス下を通過し、東家(あずまや)と埴輪(はにわ)の模造品の並ぶ緑陰
で小休止した。



 堤根集落の南で緑道を離れて西へ、忍川の左岸沿いに、石田三成が忍城を水攻めするため
に築いた石田堤が約250m残っている。


 説明板によれば、全長28㎞に及ぶ堤を1週間で作り上げ、利根川と荒川の水を引き入れ
たが、地形的に城や城下町より下忍(しもおし)方面に水が溜まり、ついには堤が決壊して
水攻めは失敗したという。

 市境の忍川を渡って鴻巣市に入る。忍川と上越新幹線との間に石田堤記念公園が設けられ
ていて、休憩舎に石田堤の説明があった。


 田んぼの間を西に向かい、老人ホームの北側から下忍の住宅地を進み、国道17号を横断
する。


 十二支の干支(えと)の像を小さいアーチにした橋の横から、元荒川右岸堤内の緑道へ。


 ソメイヨシノの並木の下を上流に進む。高砂橋まで行けば駅は近い。JR高崎線の吹上
駅に、16時5分に着いた。


(参加 15人、天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 熊谷、歩行地 行田市、
 鴻巣市、歩数 19,700)




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関東百駅巡礼歩行 JR東海道線 大磯駅(神奈川)

2013-04-19 14:59:16 | 関東百駅巡礼歩行

 先週末から昨日、4月18日まで、15日を除いて歩きに出かけていてアップの間隔が
長くなりました。その間の模様を、順次投稿します。

========================================

 2013年4月13日(土)

 爽やかな晴天に恵まれ、関東百駅巡礼歩行の第94番が開催された。集合地はJR東海
道線の大磯駅。


 集合前に駅前を少し回ってみる。駅の南側に、国登録有形文化財になっている大磯駅前
洋館と呼ぶ旧木下別邸があった。大正元(1912)年に建築されたという。


 初参加の2人を加えた参加メンバーは、記念撮影をして11時10分にスタートした。


 駅前の八百屋さんには、地元で採れた竹の子が並んでいる。


 その先の緑地の隅に、三菱財団の創始者・岩崎弥太郎の孫娘で、戦後、多数の混血孤児
を育て上げた、エリザベス・サンダースホームの創設者、沢田美喜さんのレリーフがあり、
読みにくいが沢田さんの生涯が紹介されていた。

 エリザベス・サンダーホームは、背後の丘陵の向こうにあるようだ。

 駅前から西南に向かう通りには、落ち着いた彩りの瀟洒(しょうしゃ)な建物が幾つか
目に付き、そのひとつ、ギャラリーさざれ石では、「ー大磯の光と風ー」という個展を開
催中。


 大磯小の先で国道1号・旧東海道に出ると、カレー店舗に転用した古い日本家屋も残っ
ていた。


 旧東海道松並木の始まるところで歩道橋を渡る。


 橋の上からは、これから上がる湘南平のテレビアンテナ塔などが望まれる。


 北側の台町の細道に入ると「松並木工芸」と呼ぶ小さい店があり、手工芸品などが並ん
でいた。


 東海道線の線路沿いに出て駅方向に少し戻り、標識に従い南に入ったところに、島崎藤
村の旧宅がある。



 昭和16(1941)年から、71歳で永眠するまでの2年余りをここで過ごしたという。

 近くの地下道を東海道線の北に抜けて、湘南平の山麓を東に向かう。御嶽神社の少し先
から、標識に従い湘南平に向かって上がる。

 ヘヤピンカーブを三つ過ぎた住宅街から展望が開け、前方に大磯の家並みや東海道の松
並木、太平洋の海原の展望が広がる。西に目を向けると、金時山、二子山など箱根連山や
真鶴半島は、春霞でぼんやりとしている。


 住宅街が尽きた上にあった高田公園に正午過ぎに着き、草の広場の木陰に腰を下ろして
昼食にした。


 この先は山道となり、ところどころに湘南平への立て札が立っている。広葉樹の木々は
淡い新緑の彩りを見せ、大きく枝を広げた大樹も見られる。





 上り道の中に二度の下り坂もあり、次第に高度を上げ、「曽我十郎之硯水」碑の立つ小
さい池の横を上がり、放送局のテレビアンテナ塔の立つ湘南平山頂に着いた。



 広場の北側にあった古い展望台に上がってみたが、広葉樹が伸びて南側の海の展望は利
かず、北側に大山(おおやま)や丹沢山塊の山並みの展望がわずかに得られる。


 広場の西に新しい展望台があり、そちらからは展望が良さそうだが、回らなかった。

 在京の民放五社とテレビ神奈川の平塚テレビ中継放送局のアンテナ塔の横を下ったあた
りで、わずかに北の展望が開け、大山の全貌が望まれた。



 上ってきた分岐に戻り、さらに前方に少し上がると浅間神社の小さい祠の横に、標高
181.3mの一等三角点があったが、ここは周囲の広葉樹が伸びて展望は得られない。
傍らのベンチで小休止した。




 稜線上の遊歩道を東に向かう。イノシシが掘り返したらしい真新しい跡の残るところが
あり、気持ちよい広葉樹林下を進む。


 北に下るじごく沢への分岐を過ぎ、次のピーク、標高160mの八俵山に上がる。

 「城郭としての高麗山(こまやま)」の案内板があり、ここは相模湾から相模平野一帯
を見渡せることから古くからの軍事上の要衝で、上杉持房が関東公方の足利持氏を討伐す
べく陣を構えたのが最初で、のち北条早雲が上杉顕定を討伐の際には、この山に立てこも
り、上杉謙信が小田原城侵攻の際にも、陣を構えて北条氏康と交戦したという。

 八俵山から高麗山山頂は近い。標高167.3mの山頂には、タブノキやスダジイなどに
囲まれた広場があり、説明板に、「奈良時代のころ、高句麗(こうくり)が唐(とう)、
新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に難を逃れた高句麗王族の高麗若光(こまじゃっこう)
は日本に帰化してこの山の麓の化粧坂辺りに住んだことから、この地が高麗と呼ばれるよ
うになった」と記されていた。


 ちなみに、埼玉県日高市の高麗(こま)神社のサイトによれば、高麗若光はのち、武蔵
国に新設された高麗群の首長として赴任し、関東や駿河、甲斐などから移住した高麗人と
ともに土地の開拓にあたり、没後、高麗明神として祭られたのが高麗神社の創建となった
とか。高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目だという。

 高麗山からの下りは男坂と呼ぶ急斜面となる。長い石段や木の段が幾つも続き、どんど
ん高度は下がる。20分足らずで、山麓の高来(たかく)神社に下った。


 江戸時代までは高麗寺に属し、明治元(1868)年の神仏分離令により高麗神社とな
り、明治30年に高来神社と改称したという。高麗山を背にした境内には、スダジイとヤ
ブニッケイが一体化した珍しいシイニッケイの古木があり、東郷平八郎書の大きな忠魂碑
も立っていた。モミジの新芽も色鮮やか。


 高麗二丁目の住宅地を西南に進んで旧東海道に入る。JR東海道線のガードをくぐると
松並木が数本残っていた。


 東海道大磯宿の江戸側の簡易防御施設だった江戸見附跡を過ぎ、国道1号に合する。

 和紙ちぎり絵展を開催中の「はまひるがお」という店に入り、低温調理の中川詮美さん
の、安心できる食事や生活のことを、NPO大磯福祉コミュニティの方に伺う。

 JR大磯駅には15時36分に戻った。

(参加 9人、天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 平塚、歩行地 大磯町、
 歩数 14,400、累積標高差 約680m)




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東京・丸の内で四国霊場の「お砂踏みと出開帳」

2013-04-13 21:43:49 | 四国遍路あれこれ
 先日、四国八十八ヶ所第一番霊場霊山寺(りょうぜんじ)の山主さんから、「お四国
を歩き遍路された皆さんさんへ」とのことで、東京で行われる四国霊場88ヶ所出開帳
の案内をいただきました。

 四国霊場開創1200年記念行事の一環で、77年の時を経て四国霊場88体のご本
尊が丸の内で出開帳されるようです。



 上が案内状ですが、改めて期間や場所などを紹介します。四国まで出かけてお遍路す
るのが難しい方、遍路はしたがもう一度ご本尊にお参りしたい方など、お出かけになっ
てお参りされてはいかがでしょうか。

 ちなみに、四国八十八ヶ所のお砂踏みと出開帳は、東京では初めてのようです。

 [期間] 2013年4月18日(木)~25日(木)

 [時間] 9時~12時(4部制)

 [場所] JPタワー(旧東京中央郵便局)=東京駅丸の内南口を出てすぐ。 
       JPタワーホール&カンファレンス(4階ホール)

      
 [入場料] 前売り券2,000円、当日券2,300円

        当日券は限りがあるので、購入できない場合があるかもしれないとの
        こと。中学生以下は無料。 

 [主催] 四国八十八ヶ所霊場会、株式会社JTB中部

 [協力] 東日本先達会

                                     以上




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石神井公園周辺と牧野記念庭園の花(東京)

2013-04-12 15:52:18 | Weblog
 2013年4月12日(金)

 今日は、昨日アップした石神井公園から牧野記念庭園へのウオーキングコースの中で咲
いていた、春の花を紹介します。

 石神井公園は、石神井池(「ボート池」とも言う)と三宝寺池及びその周辺の緑地など
を含む一帯で、東京都立公園になっています。

 はじめに回った、石神井池の北側に並ぶ民家のヤエザクラ。


 石神井池の中の島に咲いていた花。


 三宝寺池側の東南端付近のヤマブキの群落。


 武蔵野三十三観音霊場第三番札所の三宝寺境内、本堂付近にはシダレザクラが。




 三宝寺池の中ほど、売店近くには色鮮やかなベニバナトキワマンサクの若木が1本だけ
ありました。


 近くの湿地付近では、ヤマグワ(山桑)が地味な花を見せています。




 三宝寺池そばの湿地には、国天然記念物に指定されているミツガシワがたくさん開花し
ていました。




 これも国天然記念物のひとつ、カキツバタ。


 池のほとりにはクヌギの花も。


 近くの木の根元は、カントウタンポポでしょうか。




 湿地周辺の育成地に咲くホウチャクソウ。


 そばには、フタリシズカも開花したばかり。


 シャガは、三宝寺池畔のあちこちに咲いていました。


 三宝寺池北側の売店付近にあったゲッケイジュらしい木が花を見せていました。参加の
皆さんも初めて見た人がほとんどでした。


 最後に訪れた練馬区立牧野記念庭園でも、初めて聞いた名のザイフリボク(バラ科)が。


 こちらにもホウチャクソウが咲いていました。


 三宝寺池畔にも咲いていたニリンソウ、牧野記念庭園の広葉樹の下で。


 これはシロヤマブキとのこと。


 展示館の前には、大きなドウダンツツジが見頃に。


 この桜の花の名は聞き漏らしました。


 白い花が多くて、ちょっと彩りは淋しい感じですね。
   



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