あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

蕨の三学院を訪ねる(埼玉)

2015-06-23 21:05:35 | ウオーキング
 2015年6月21日(日) 午後

 続カタツムリ歩行の例会が、ゴールの和楽備(わらび)神社で13時過ぎに散会になり、
ポチポチ雨も落ちてきましたが、近くの北町三丁目にある三学院(さんがくいん)を回っ
てから帰ることにしました。

 神社の南西端から、北西に延びる住宅街の道路を300m足らずで、三学院の仁王門前
に出ます。


 仁王門を入ると、広い芝生地の正面に立つ大本堂に圧倒されます。


 三学院は、真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺とか。創立年代は不明の
ようですが、本尊の木像十一面観音菩薩立像は平安時代後期のということや、ほかの資料
などから、中世以前の創建と考えられているようです。

 天正19年(1591)には、徳川家康から寺領20石の朱印状を賜り、以後歴代の将
軍からも同様の朱印状が与えられているとのこと。また、足立坂東三十三観音霊場20番、
北足立八十八霊場30番霊場、関東百八地蔵霊場5番札所のようです。

 仁王門を入って右手には、これも大きな新しい阿弥陀堂が目に付きます。


 門内左手の、回廊に沿って幾つものアジサイが花を見せていました。そのひとつ。
    

 その先には、鐘楼と三重塔が立っています。いずれも近年の建立のよう。
      

 本堂前に立つ弘法大師の修行大師像。これも、ほかのお寺さんで見たものよりかなり大
きな像でした。
        

 本堂左手の庭園には、あちこちの水がめにハスが咲いていました。
    

        

 本堂と阿弥陀堂の間を裏手に回ると、正面に弁天堂が。

 堂内の極楽弁天は江戸時代の作といわれ、結縁、商売繁盛、学業などに霊験あらたかと
のこと。

     近くに咲くアガパンサス
    

 阿弥陀堂横の仏舎利殿金亀舎利塔は修理中でした。

 この仏舎利殿には、西遊記で親しまれている玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほし)
の霊骨が納められているようです。

     阿弥陀堂の前に戻ると、ユリが何株か咲いていました。
    


 仁王門を入って右手の手水舎には、黄金のカメが。
    
    三学院の山号、金亀山(きんきさん)にちなむもののよう。

 境内を一巡して仁王門を出て、長い参道を南進しました。中ほどに大きな地蔵堂があり、
中には子育地蔵、六地蔵石仏、それに目疾地蔵が祭られています。

 正面の子育地蔵は、元禄7年(1694)に造立されたもの。高さ約2.4mあり、蕨
市内最大の地蔵尊で、火伏(火災防止)・開運・子育地蔵として、信仰を集めているよう。
        

 左手前は目疾(めやみ)地蔵、その横に六地蔵石仏が並んでいます。

 六地蔵は、江戸初期の寛文~元禄年間(1661~1704)にかけて造立され、蕨市
内の六地蔵中、最古で最大のものとのこと。 

 目疾地蔵は、万治元年(1658)の造立、高さ約1.9mあり、目に味噌を塗ると目
の病気がなおる、あるいは目の病気にならないといわれているとか。
        

 地蔵堂のそばに立つ常夜灯は、元禄14年(1701)の造立。
    

 傍らには、お釈迦様のお足跡を石面に表した、健脚祈願のための新しい仏足石が。
    

 参道の出入口、惣門の近くには、梵字馬頭観音塔が立っていました。
        
 江戸後期の寛政12年(1800)に造立されたようで、梵字で表現した馬頭観音塔は
初めて見たような気がします。

 ふり返り見る惣門。


 三学院を出て、国道17号・中山道を市役所入口交差点の方に進むと、古い薬局が。


    看板は右書きなので、少なくとも70年以上の歴史はありそう。
    

 近くに立つ中山道の標識と広報板。


 次の信号を右折して富士見公園通りに入ると、これも古い甘納豆の店が。


 富士見公園通りを西南に向かい、隣の戸田市に入ると北大通りに変わりました。



 JR埼京線の戸田駅に14時20分に着き、下り電車で帰途につきました。




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続カタツムリ歩行で蕨を歩く(埼玉)

2015-06-22 17:30:35 | カタツムリ歩行
 2015年6月21日(日)

 前夜の予報では朝から雨だったが、朝起きたら曇り空だった。今日は、続カタツムリ歩
行の第25回例会である。


 集合はJR京浜東北線の蕨(わらび)駅。9時55分に西口をスタートした。改札口の
ある2階から西口の階段を下りたところに、駅の開設記念碑がある。蕨駅の開業は明治
26年(1893)7月16日だという。
        

 中央一丁目を貫いて南に延びる通りを少し進むと、とみなが園芸という店に、販売する
野菜や花、植木など何種類もの品が所狭しと並んでいた。


 県道110号を斜めに横断して、中央二丁目に入る。民家のユリがきれいな彩り。
        

 南町一丁目にあるあけぼの公園には、蕨市の「土のうステーション」というがあり、大
雨などの際の浸水対策用の土のうが保管され、市民が自由に使えるようになっていた。


 その先を右折して南に向かい、最初の目的地である南小へ。校庭の南西端に標高2.9m
の三角点があるはずだが、道路側から見たらその辺りはしの竹が茂っていて、確認できな
かった。

 校庭の南側を、南町桜並木遊歩道が西に延びていた。桜並木の下に小さな流れもあるの
でその遊歩道を進む。


 次の交差点の南西側にはせせらぎ公園があり、湧出したせせらぎのそばで小さい子が水
と楽しんでいた。
    

 中央二丁目に戻って三蔵院に入る。開山時期は不明のようだが、「新編武藏風土記稿」
には、天正3年(1573)再建と記されているとか。

 時を経て昭和20年(1945)4月13日夜、空襲による焼夷弾で本堂や本尊の観音
菩薩像などは灰燼と帰し、現在の耐火構造の本堂は昭和57年(1982)5月の再建と
いう。


 境内には、江戸時代造立と思われる地蔵を祭る地蔵堂↓と、比較的新しい6地蔵堂が並
んでいた。  
        

 境内北側に隣接する緑地に、ヤマモモがたくさん熟している。つまんで初めて口に入れ
てみたら甘酸っぱい味だった。ジャムにするとより美味しいかも知れない。
    

 中央浄水場通りに出て蕨市水道部の前を通過し、中央二丁目交差点を左折して背後の墓
地から宝樹院に行く。

 観応3年(1352)以前の創建と伝えられ、本尊は地蔵菩薩とか。蕨城主渋川氏の菩
提寺である。

 本堂の左手前に、渋川公墓(しぶかわこうぼ)があった。渋川公(宝寿院殿)は永禄
10年(1567)、上総国三舟山(みふねやま)(千葉県富津市・君津市境付近)の合
戦で里見氏に敗れて戦死し、その死を悲しんで、夫人は榛名湖に入水したといわれている
とか。
        
 入水した夫人は竜神となり、榛名神社(群馬県)に雨乞いに行くと雨が降るという伝説
が生まれ、榛名湖まで水をもらいに行く雨乞いの行事が昭和初期まで行われていたという。

 山門の前にはお地蔵さんが並んでいた。


 墓地北側の中央土橋通りを少しで、標識に従い中央6丁目に入ると右手に正蔵院がある。
樹木の無い小さめの境内は、墓参の人や関係者以外は立ち入り禁止の札がある。


 参道に古い青面金剛像が並ぶ。左端は享保17年(1732)と読めたが、ほかの造立
時期は分からなかった。
    

 中央小の南を通過し、国道17号の東に平行する旧中山道に入る。この辺りから約1㎞
ほどが中山道蕨宿(なかせんどうわらびしゅく)の家並みが並んでいた辺り。


 蕨宿は江戸から2番目の宿場で、天保14年(1843)の人口は2,223人、家数は
430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、問屋場と高札場が1か所ずつあったという。

 歩道には、中山道の宿場のタイル絵が埋め込まれている。


     蕨郵便局前には、こんな案内板が立っていた。
    

 近くに、市立歴史民俗資料館の分館があったので入る。


 敷地の3/4を庭園が占め、北西側道路に接して母屋↓や蔵などの建物が並んでいる。

 母屋の、きめ細かな木組み細工の障子。



 庭園内の園路を一巡する。奥の一角に咲くアカンサス。


 中央部には池がある。


     南東の道路際には、何株かのアジサイが花を競っていた。
    

 分館から600mほどには歴史民俗資料館の本館がある。


 入ったロビーは照明が少なめで薄暗い。その奥の常設展示場を観覧した。


 本陣、加兵衞家(かへえけ)の上段の間を復元したもの。大名や貴人の休泊する部屋で、
ほかの部屋より一段高くなっている。
    

         上段の間に並ぶ、大名の食事メニュー。
        

 中山道蕨宿の模型。

 
 蕨では江戸時代末期から織物業が盛んになり、明治から昭和初期まで織物の種類も増え
て栄えたが、日中戦争が始まった頃から次第に経営が苦しくなったとか。
    

 正午が近いので館を出てゴールに向かい、そばの交差点を右折して市役所前を通過する。
ちなみに蕨市は、面積5.11㎢で全国の市の中で最も面積が少なく、総人口は72,805
(6月1日現在)で人口密度14,247人/㎢は全国の市町村で最も高い。

 すぐ先のゴール、和楽備(わらび)神社には12時ちょうどに着いた。社殿は、平成9
年(1997)の再建で新しい。

 和楽備神社は、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城の守り神と
して八幡社を勧請(かんじょう)したのが始まりとか。明治44年(1911)に町内の
18社を八幡社に合祀して、和楽備神社と改称したのだという。

 神社に接した南側が蕨城跡で、現在は蕨城址公園になっている。公園内の市民会館周辺
で昼食をした。


 ちなみに蕨城は、南北朝時代に渋川氏が館を構えたのに始まり、戦国時代の永禄10年
(1567)、上総国三舟山合戦で渋川氏の戦死に伴い廃されたといわれ、江戸初期には、
鷹狩り用の用の休憩地の「御殿」として跡地が利用されたという。 


 和楽備神社に接する木々の下、本丸跡に、文学博士 諸橋轍次(もろはし てつじ)氏の
選書(せんしょ)による「蕨城址碑」が立っていた。 
        
 
 城址公園内には、「成年式発祥の地」碑もある。終戦直後の昭和21年(1946)
11月26日、当時の蕨町青年団が20歳を迎えた成人者を招いて、祖国再建の先駆者と
しての自覚を持って行動すべき時と激励し、前途を祝したのが高く評価され、2年後に成
人の日が国民の祝日として制定されることになったという。
        

 近くには、 マッカーサー元帥が座右の銘としていたという、アメリカの作詩家サミエ
ル・ウルマンの「青春」の詩碑もあるが、字が細かくて読むのは困難だった。

 市民会館のそばには、万有引力を発見したイギリスの物理学者アイザック・ニュートン
の、生家のリンゴの木の子孫という「ニュートンのリンゴの木」が枝を広げていた。
    

        
 食事を終えて記念撮影後、ミーティングをして、数人から最近の経験や思いなどが語ら
れ、13時過ぎに散会となった。

 (天気 曇、距離 4.4㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 蕨市、
                                歩数 8,600)





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梅雨時の所沢航空記念公園 日本庭園に咲く花(埼玉)

2015-06-17 18:39:15 | 所沢だより
 2015年6月17日(水)

 この1週間あまり、夏かぜというか梅雨かぜとでもいうのか、風邪に押されてのどが痛
く、外出も少な目のまま日々が経過し、14日(日)には自分が担当だったカントリーウ
オークの例会も休んでしまいました。

 ようやく快方に向かってきたので、今日の市内ウオーキングは所沢航空記念公園に入り、
日本庭園も巡ってアジサイなどの花を眺めてきました。

 表門を入った付近に咲くスミダノハナビやガクアジサイ。


    

 茶室・彩翔亭(さいしょうてい)の南西側、小さい流れ周辺には、アジサイやガクアジサ
イがたくさん咲いていました。
        

    

        

 樹林下にはビオウヤナギも。


        

 庭園の中心、池にはスイレンが咲いていそう。


 池の北側に回ると、白いスイレンが花盛り。


    

         赤い花は1輪だけでした。
        

 

     池のそばにはこんな花も。
    

 池の東側、築山の下には白いアジサイやガクアジサイが。


    

        

 遊歩道を挟んでビオウヤナギとアジサイの群落。


    

 築山を上がると、もうハギも花を見せていました。


 築山の南東側、野外音楽堂への出口周辺はスミダノハナビやアジサイが多く、花を競っ
ています。
    

        

    

 さらに回った築山の南西辺りも、何種類かのアジサイが。




 今週は曇か雨の日が多い予報。しばらくはアジサイの彩りが楽しめそうです。





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郵政博物館での「前島密 生涯とその業績展」へ(東京)

2015-06-11 22:29:45 | 美術館・博物館等の観覧
 2015年6月2日(火)

 東京・墨田区押上(おしあげ)の東京スカイツリータウンにある、郵政博物館で開催中
の「前島密(ひそか)生涯とその業績展」のチケットを入手したので、出かけました。

 東京メトロ半蔵門線の押上(スカイツリー前)駅で下り、東京スカイツリータウン・ソ
ラマチと呼ぶビルに入り、エスカレーターで9階にある郵政博物館に向かいます。

 途中の階からは、ソラマチと周辺の景色がよく見えます。

 そばを走る東武スカイツリーライン(伊勢崎線)を走る電車も間近に。


 スカイツリータウンの途中階に張り出したテラス。

 平日の正午頃なので人出は少な目ですが、休日はかなり賑わいそう。


 9階まで上がり、郵政博物館に入りました(入館料 大人300円)。


 前島密展と常設展示室にある膨大な切手の撮影は禁止ですが、それ以外はフラッシュ無
しなら撮影可能とのことでした。

 こちらは、前島密展と同時開催中の「平成27年新収蔵資料展」に展示されていた、小
笠原諸島が日本に復帰して10周年の昭和53年(1978)6月23日に発行された記
念切手の初日カバー。
    

 このコーナーには、切手資料や一般資料、図書資料などが50数点展示され、中には古
い絵はがき、最初のエコーはがき、昭和28年や昭和35年のお年玉くじ付き年賀商品、
など、博物館が今年入手した貴重な資料や冊子などが展示されていました。

 前島密展のリーフレット、6月21日(日)まで開催中です。


 前島密は天保6年(1835)に生まれ、明治の新しい国造りに参画しており、「日本
郵便の父」として知られていますが、ほかにも郵便為替や貯金の創設、道路や鉄道、通信
など、近代日本の産業や生活の基盤を作り上げました。

 さらに報知新聞の前身である郵便報知新聞の創刊、東京・上野での勧業博覧会の開催、
早稲田大学の前身、東京専門学校の創立など、数多くの業績があったことも分かり、知ら
なかった郵便創業以外の数多い業績を、この展覧会で知ることが出来ました。

 ちなみに現在の1円切手が前島密の肖像ということは、多くの方がご存じの通りです。

 前島密の業績を記したリーフレット、会場では、もっと多くの業績が紹介されています。
   

 このあと、常設展示室へ。ここでは、郵便や通信の歴史と文化を展示し、楽しく学べる
博物館として、日本最大の約33万種の切手、重要文化財の「エンボッシング・モールス
電信機」など、郵政・通信関係の資料が約400点展示されています。

 常設展示室の入口にあった俵谷式ポスト(模造)。
      
 明治の発明家、俵谷高七が考案したポストで、明治34年(1901)に東京・日本橋
際に試験的に設置されたとのこと。

 日本で発行された切手はもとより、世界各国の切手もある「切手」の世界コーナー。


 創業の頃かと思われる時代の郵便収集車や郵便箱など。


         日本初の切手やはがきの自動販売機
        
         これも俵谷高七が考案したようです。

 ものものしい柵のある郵便局の窓口


 近年の郵便業務に使われたものなど。


 定額貯金を紹介したコーナー。


 デルビル社磁石式電話機


         磁石式電話の交換を取り次ぐ磁石式交換機
        

 郵政博物館の観覧を終えてソラマチの下まで下りて、入ってきた駅とは反対側に出てみ
ました。高さ634mの東京スカイツリーを下から見上げたところ。
      

 その下、ソラマチの下部。もっと広角レンズでないとスカイツリー全体が1枚に収まり
ません。


 そばに流れる北十間川沿いには、遊歩道が設けられています。


 同じ流れの反対方向。こちらの方が散策するには良さそう。


 ソラマチの下を回って押上駅に向かうと、途中に「生コン工場発祥之地」碑がありまし
た。住友セメントの前身が、ここに生コン工場を初めて作ったようです。
      


 押上駅の入口に戻り、地下の改札から東京メトロ半蔵門線で大手町に向かいました。




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明日香・キトラ古墳と橿原考古学研究所附属博物館などへ(奈良)

2015-06-07 17:42:02 | 奈良を歩く
 2015年5月28日(木)

 今日も好天、連泊した奈良・新大宮駅前のビジネスホテルを8時に出る。近鉄奈良線の
新大宮駅8時8分発に乗り、昨日と同様大和西大寺駅と橿原神宮前駅で乗り換え、飛鳥
(あすか)駅に9時4分に着いた。

 今日の前半は飛鳥駅の東南方の檜隈寺跡(ひのくまじあと)とキトラ古墳めぐりの予定
で、9時10分に出発した。


 駅前の交差点で国道169号を渡り、東に少しで南に延びる飛鳥周遊歩道に入る。


 車の通行を気にせずに済むので、周辺の風景を眺めながら安心して進める。飛鳥の田植
えは6月に入ってからのようで、昨日と同様周辺の田んぼにもまだ水が入っていない。



 御園集落の東部を経て、東側の家並みや山並みを見ながら台地にある檜隈集落へ。



 落ち着いたたたずまいを見せる瓦(かわら)屋根の民家の間を進み、集落を南に抜ける
と「明日香村近隣公園」が見えてきた。

 まだ完成して間もないようだが、広い敷地に多目的グランドや休憩施設などが望まれる。

 最初の目的地、檜隈寺跡は集落を抜けて南東にすぐ、於美阿志(おみあし)神社の境内
にある。




 檜隈は、応神天皇の時代に百済(くだら)から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住
したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神としているとか。「日本書紀」の天
武天皇朱鳥元年の条に、「檜隈寺」の寺名が記されているという。

 於美阿志神社の社殿左手の草地には講堂の塔石が並んでいて、寺跡からは7世紀末の瓦
が出土しているらしい。

              
 社殿右側の塔跡には上層の一部を欠いた十三重塔石が残り、国の重要文化財に指定され
ている。


 講堂跡からは北東の展望が開け、すぐ下に復元された3棟の竪穴住居が並んでいる。一
帯は公園として整備するようで、北側には新しい建物を建設中だった。


 東北方の田んぼの向こうに、緑濃い森が望まれる。肉眼では認識しにくいが、デジカメ
のズームを利かせてみたら、どうやら文武天皇陵のよう。


 神社を出てさらに東南へ。東側から広い車道が近づく辺りに、昨日も幾つか見たような
小さな石仏が祭られていて、この地の信仰の深さがしのばれる。
        

 大根田バス停付近でその広い車道に入り、キトラ古墳に向かう。東側に大根田集落が、
行く手には整備されたピークが見える。


 キトラ古墳かと近づくと囲いがしてあり、キトラ古墳周辺地区の公園の整備中の立て札
が立つ。工事担当者に聞いたら、古墳はこの先だという。道路の反対側も広く工事が進め
られていて、かなり大規模な公園ができそう。


 緩やかに下る道路が右カーブする辺りで、左に入る道がある。一帯も工事中だが、キト
ラ古墳の矢印が続くので回ってみた。


 建物の工事現場の先の斜面上部がキトラ古墳のようだが、工事中なので道路から眺める
しかなく、土がむき出しで古墳らしさが感じられない。


 国特別史跡のキトラ古墳は、高松塚古墳や昨日訪ねたマルコ山古墳と同様、飛鳥時代の
7世紀後半の終末期古墳とのこと。

 古墳は、南東から北西への尾根の南斜面を平らに削って墳丘が築かれ、墳丘の直径は下
段13.8m、上段9.4m、高さ3.3mの2段築成の円墳という。

 昭和58年(1983)、ファイバースコープにより石槨(せっかく)内に壁画が描か
れていることが分かり、高松塚古墳に続く壁画古墳として話題になった。

 平成16年(2004)には、石槨内の発掘調査で漆喰木棺(しっくいもっかん)の破
片、太刀金具、ガラス玉などが発見されたとか。その後壁画の劣化が急速に進み、現在は
はぎ取られて保存修理中である。

 広い車道に戻り、右にカーブして西に向いた明日香村と高取町との町村境で、南への道
に回り、阿部山集落から延びてきた用水沿いの道路を西進する。

 700m程で、国道169号の手前を平行する旧道、土佐街道と交差した。



 両側に屋根の低い家並みが続き、交差点際には古くからの漢方薬専門の薬局があった。


 ちなみに「土佐街道」は、大和王朝時代に土佐の国から移り住んできた人が多くいたこ
とから名付けられたのだという。

 車の少ないその街道を進めばよかったが、直進して国道に出る。こちらはかなりの交通
量で、そのうえ車道がない。次の信号まで注意して北進して、壺阪山(つぼさかやま)駅
前の交差点へ。

        
 交差点際に、高取町で作った「土佐街道かいわい散歩道」の絵地図があるが、実際の道
路と地図の方向が逆で分かりにくい。カラーながら担当者の意識が疑われ、全く不親切な
絵地図だ。

 交差点を西にすぐ、突き当たりが飛鳥の隣の壺阪山駅。10時58分に着いた。



 クラシックな喫茶があるが駅前は閑散としていて、西国三十三番第6番札所で「壺坂霊
験記」でも知られる壺阪寺への玄関口とは思えぬ閑静な駅。駅には高取町の観光パンフレ
ットなども置いてない。駅前の観光地図を見ると、高取町はくすりの町でもあるらしい。

(天気 晴、距離 3.3㎞、地図(1/2.5万) 畝傍山、歩行地 明日香村、高取
 町)


 11時23分発上り電車に乗り、橿原神宮前駅で乗り継ぎ、次の畝傍御陵前(うねびご
りようまえ)駅に11時35分に下りた。


 今日後半は、近くにある橿原考古学研修所附属博物館の観覧である。

 駅舎のある西口を出て、閑静な住宅地を西南に進む。住宅の間から西に、大和三山のひ
とつ畝傍山が望まれる。



 5分ほどで博物館に着いた。建物の右手の植栽の下に、橿原考古学研究所で発掘された
近隣の遺跡の石造物や復元品などが、幾つか展示されていた。


 そのひとつが、昨日最初に訪ねた束明神(つかみょうじん)古墳の復元石槨。


 ほかに、斑鳩町(いかるがちよう)竜田(たつた)御坊山の↑横口式石槨、桜井市穴師
(あなし)の組合式石棺、桜井市高家(たいえい)の横穴式石室などがあった。
    

        
 それらをひととおり見てから博物館に入る。


 この博物館は、橿原考古学研究所が1938年以来行ってきた発掘調査の出土資料を中
心に展示しており、研究所の調査・研究活動と一体となっていて、学芸活動として展示公
開しているという。(入館料 一般400円、特別展開催中の現在は800円)

 エントランスホールには、斑鳩町藤ノ木古墳から出土した金銅製屨(こんどうせいくつ)
の復元品などが展示されていた。
    

 6月14日まで「継体大王とヤマト」と呼ぶ特別展を開催中なので、最初にそれを見る。
      
 継体大王は、「日本書紀」に大伴氏(おおともし)、物部氏(もののべし)、巨勢氏
(こせし)などヤマトの豪族たちが集まり、越前(「古事記」では近江)から新しく迎え
た天皇として記されているとか。

 特別展示室には、継体の陵とされる大阪・高槻の今城塚(いましろづか)古墳や、大阪、
福井、滋賀、愛知、奈良など各府県の継体大王関連の古墳のこと、埴輪や土器、飾り物な
ど出土品、考古資料などが展示されていた(特別展示は撮影禁止)。

 次に、3室に分かれた一般展示室を回る。第1展示室は旧石器から縄文、弥生時代、第
2展示室は古墳時代と飛鳥前期、第3展示室には飛鳥後期から奈良、平安、鎌倉・室町時
代の、出土品や資料、年表、写真などが展示されている。

 以下にそれらの展示の幾つかを紹介する。


 こんな大きな埴輪もある。






 エントランスホールに金ピカの復元品があった、藤ノ木古墳から出土した本ものの金銅
製屨はこれ。
    

 家型陶棺(奥)と石棺(手前)


    平城宮内の主要寺院の瓦     
    

 特別展と一般展示室とを合わせて1時間半ほど観覧して、館を出たのは13時20分を
過ぎていた。

 博物館のある駅の西側には食堂などは無さそう。駅に戻って地下道を東に抜けて、国道
24号に出た。南に少しで、レストラン「和食さと」が見つかったので入り、今日も遅い
昼食をした。   
    
  注文した「日替わり麺 彩五色うどん」(680円)とリンゴジュース(162円) 


 14時40分過ぎにレストランを出て畝傍御陵駅に戻る。15時8発近鉄京都線京都行
き急行で、京都駅に16時23分に着く。

 JR京都駅の新幹線改札構内で土産物や弁当などの買い物などをして、16時56分発
上りひかり476号に乗り、東京駅に向かった。

 今回の3日間は、春日大社の特別拝観と明日香周辺の古墳めぐりが中心だったが、未知
の古墳を訪ねて各々の歴史やゆかりの人物を知り、橿原考古学研究所附属博物館の観覧も、
当時の歴史への興味をいっそうかき立ててくれた。


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明日香村西部の古墳めぐり(奈良)

2015-06-05 22:54:29 | 奈良を歩く
 2015年5月27日(水)

 近鉄奈良線の新大宮駅発8時29分発の電車に乗る予定で、駅前のビジネスホテルを出
た。ところがホームに入って忘れ物に気付き、急ぎ宿に往復したので10分ほど後の電車
になる。

 次の大和西大寺駅と橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)駅で乗り換え、吉野線の飛鳥
(あすか)駅に10時03分に着いた。


 明日香村(あすかむら)へ来たのは2000年5月以来だから15年ぶり。今日は古墳
めぐりの予定である。

 明日香の古墳というと、近鉄線の東側にある高松塚古墳や石舞台古墳、キトラ古墳など
が知られているが、今日巡るのは明日香観光の人がほとんど回らない線路の西側の古墳で
ある。10時7分に出発した。

 駅前のレンタサイクル店には、このような貸し自動車も用意されている。


 駅の東側、線路と国道169号の間を流れる檜前川沿いに遊歩道があったので、その道
を南進して二つ目の踏切を渡る。
      

 線路の西側を少しで、次の踏切のところで合した車道に入った。この道は地形図上は鎖
線の徒歩道だが、車道になっていて、南側は高台にある高取国際高、北側は田んぼに沿っ
て西南に向かっている。
                              
 田んぼを隔てて北側には真弓集落が望まれ、その東端付近には、この後訪ねる予定のマ
ルコ山古墳らしい芝生の斜面が見える。          マルコ山古墳↓?


 こちら側は明日香村の南に接する高取町(たかとりちよう)。少しずつ高度を上げて踏
切から1㎞ほどで佐田集落へ。集落の入口付近に、自然石の石仏が祭られていた。
        

 集落に入ると虫籠窓(むしこまど)の民家↓も見られ、家並みのほとんどが大和らしい
風情の瓦(かわら)屋根の家。集落の中にも庚申塔を祭る小さな祠(ほこら)があった。


 集落の中心付近で5方向からの道が合している。地図上では南への道に岡宮天皇陵が記
されているので行ったが、分からない。


 交差点に戻って北西への狭い道を上がり、束明神(つかみょうじん)古墳を探すと、門
の閉ざされた円浄寺↓の先に石段が延びていた。



 上がってみたら杉などの木立に覆われた春日神社。


 石段の上部右手の盛土が束明神古墳。説明板が無ければ、これが古墳とは分からない。

 後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳とみられ、橿原考古学研究所
などが発掘調査をした結果、直径約60mの範囲で造成され、中央部に墳丘があり、終末
期古墳としては大規模なもので、7世紀後半から末頃のものと考えられるとか。

 埋葬者は、天武天皇と持統天皇との間に生まれた、草壁皇子の墓である可能性が大きい
といわれているという。

 翌日観覧に訪れた橿原考古学研究所附属博物館の構内に、この古墳の復元石榔(せっか
く)があった。
 

 春日神社の来歴などはなく、境内には神武天皇と明治天皇の遙拝所の石柱が立っていた。


 大和棟の並ぶ集落を北に向かう。家並みの切れ目から、先ほど上がってきた高取国際高
方面の展望が広がる。


 集落を出た辺りにも、自然石の石仏が祭られていた。


 振り返り見る佐田集落の眺め。


 集落の外れから、地図上では徒歩道がマルコ山古墳のある真弓集落に延びていて、1㎞
ほどで行けるはず。だが、送電線の下を通過して高取町と明日香村の町村境を過ぎたら、
草付きの道は梅やかんきつ畑付近で消え、アシなどの茂る湿地帯となり通過できない。 

 少し戻って、地図上にない新しい道を東に回る。次の山すその農道を進んだが、やはり
がけ地の畑に突き当たり行けない。

 見下ろすと、高取町と明日香村との境界の田んぼの間には潅漑用水路が流れ、渡れそう
にない。

 結局、高取国際高のがけ下の道を踏切際まで戻り、真弓集落へは東から延びる道を回る
ことにする。


 線路の近く、民家の背後の森に神社があったので上がる。式内社(しきないしや)だと
いう櫛玉命(くしたまのみこと)神社で、小さいが由緒ありそうな社殿が石垣の上に祭ら
れていた。


 ちなみに式内社とは、延長5年(927)にまとめられた延喜式神明帳(えんぎしきじ
んみょうちよう)に記された、当時の「官社」のことで、2861社の名が記載されてい
るという。

 神社から400mほど進んだ集落入口付近の南面の斜面に、国史跡のマルコ山古墳があ
った。

 7世紀後半の終末期古墳で、対角辺24m、見かけの高さ約5.3mの二段構成の六角
墳と考えられているとか。

 石室からは漆喰木棺(しっくいもっかん)や金銅製(こんどうせい)六花形(ろっかが
た)飾金具、太刀金具などが出土され、被葬者は皇族クラスの人物が考えられるという。


 古墳を訪れる人も多いのか、ここにはトイレも設けられていた。墳丘の中腹に上がると、
東南方向の集落や山並みの展望がよい。


 12時半に近いので、北東側の飛鳥駅に近い越(こし)集落にあるはずの農家レストラ
ンを探すことにした。

 線路近くまで戻って北へ進む。突き当たりのT字路に、庚申塔と古い石仏が幾つか並び
立つ。



 右折すると大きな樽があり、すぐ先の「おやじ工房」と呼ぶ建物とその背後に、タヌキ
の焼き物がたくさん並んでいた。




 この辺りも越集落のよう。線路際で広い道路に合して西進し、つぎのT字路を北東に入
る。細い十字路の先の高台に、許世都比古命(こせつひこのみこと)神社があった。

 社殿は、先ほどの櫛玉命神社と同様に石垣の上に祭られている。

 やはり『大和国高市郡 許世都比古命神社』と記された式内社のようだが、創建時期は
不明という。

 目指す農家レストラン「ことだま」はこの辺りのはずだが、見当たらない。運良くそば
の家の奥様が出てこられた。聞くと、なんと昨年11月で廃業しているとのこと、駅のそ
ばの喫茶で昼食が出来ることも教えてくれた。

 ちなみに、このレストランのことは、昨年5月に広島県福山市の万葉集時代からの潮待
ちの港、鞆の浦(とものうら)を訪ねたときに入った「景観茶坊」の主、Tさんに教えて
もらったもの。持参したネットの情報コピーは、まだ営業していた頃だったようだ。

 なお、許世都比古命神社の南側にあった喫茶「cafe ひそひそ」は、「ことだま」の後を
利用して今年4月に開店したばかりだということが、帰宅後調べて分かった。

 昼食のため飛鳥駅方向に向かうことにして、集落の中の旧道を南東に緩やかに下る。
      
 4基の石仏が並び立つ近くの曲がり角に、りっぱな石の道標が立っていた。
        
 安政5年(1858)の建立で、「左おかてら(岡寺)とふのみね(多武峰)、右ごせ
(御所)こんかうさん(金剛山)」などと読め、この道が古い街道だったことが知れる。

 線路に近い北側の民家の間に、思いがけず国史跡岩屋山古墳の南面が見えた。
      
 岩屋山古墳は7世紀のもので、一辺約54m、高さ約12mの方墳(ほうふん)と推定
され、墳丘の西側は民家の敷地になっていて現在は失われている。


 石段を上がると、2人の絵描きさんが古墳を描いていて、その先に横穴式石室があった。


 南面に開口する石室は、大きな切石を用いて構築されていて、全長約16.7m、玄室
は長さ約4.72m、幅約2.7mあり、入ってみると、当時の高度で緻密な技術に驚か
される。


 りっぱな祠に祭られた三界萬霊塔の前の踏切を渡り、ふり返ってもう一度岩屋山古墳を
眺めた。線路沿いを飛鳥駅前に戻り、東側を走る国道169号の信号を渡る。


 すぐ先にあった大和棟造りの「珈琲の館 御園」に13時40分に入り、サンドイッチ
と冷たい飲み物を注文して遅い昼食をした。
    

 14時25分に店を出て、飛鳥駅前から往路の踏切を戻り、線路の西側を右に回り込む。


    
 畑の隅にケムリノキが咲き、近くのアストロメリアも鮮やかな彩り。
        

 先ほど上がった許世都比古命神社の南側の道路を西進して、特養老人ホームあすか荘の
西側に下る。

 田んぼの向こうの森が、次に目指す牽牛子塚(けんごしづか)古墳のようで、横に4~
5台の車が止まっている。


 田んぼの間を回って少し上がると、やはり国史跡の牽牛子塚古墳で、明日香村教育委員
会の担当者と協力者が修復作業をしている。

 牽牛子塚古墳は、万葉集によく読まれた真弓丘陵の一角にあり、対辺の長さ約22m、
墳丘の高さは約4.5mで、7世紀の天皇の墓に特徴的な三段構成の八角形墳の可能性が
強いとのこと。

 2010年9月の明日香村教育委員会の発表で、被葬者が斉明天皇であることが極めて
有力になり、新聞やTVで大きく報道されている。

 墓室は、巨大な凝灰岩(ぎょうかいがん)をくり抜いた横口式石榔(せきろう)で、中
央部に間仕切り部のある2室の構造である。


 作業している人の許可を得て、墳丘上を回ってみる。南側の墓室には大きなシートがか
けられていたが、前面の石段を下ると2室に分かれた墓室を見ることができた。


 翌日観覧した柏原考古学研究所附属博物館に展示されていた、出土品の一部。


 もとの道を許世都比古命神社の南の十字路まで戻り、南側の広い車道を西に緩やかに上
がる。


 「あすか峠の朝市」と呼ぶ直売所↑への道を入り、道標に従い林間を西への山道を下る。


 竹林を出ると田んぼの南に、木々に覆われた真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳が見
えてきた。

 真弓鑵子塚古墳は、直径約40m、高さ8m上の二段築成の円墳で、南側に開口するド
ーム状の石室があり、全長17.8m、玄室長6.5m、幅4.3m、高さ4.3mとか。
須恵器、馬具、装身具などが出土していて、築造年代は6世紀中~後半で、被葬者は渡来
系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)が推定されているという。



 もとの道を戻り、飛鳥駅には15時55分に着いた。今日回ったのは南北1.5㎞、東
西1㎞ほどのエリア。だが、各々の古墳が谷で隔てられていて東西の往復が多く、5つの
古墳を回っただけで6時間近くを経過した。30℃前後の暑さと何度もの斜面への上り下
りで、結構疲れを感じる。

 ホームに急ぎ、3分後の近鉄吉野線上り電車に乗る。橿原神宮前駅で橿原線に乗り換え、
大和西大寺駅に16時37分に着いた。

 駅構内の2階部分は、JR東日本の「駅ナカ」のようにたくさんの店舗があり、乗り換
え客の買い物で賑わっている。


 北側の展望所に出ると、ひんぱんに出入りする電車を真上から眺めることも出来る。


 店の一つで夕食用に吉野鮨の弁当を求め、次の新大宮駅で下車し、17時頃連泊のビジ
ネスホテルに戻った。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 (1/2.5万)畝傍山、橿原考古学研 附属博物館
 リーフレット裏面の地図ほか、歩行地 明日香村、高取町、歩数 20,100)





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奈良・春日大社本殿の特別拝観と2つの日本庭園めぐり

2015-06-03 12:51:46 | 奈良を歩く
 2015年5月26日(火)

 5時44分に自宅を出て、東京駅7時33分発東海道新幹線ひかり503号に乗る。京
都駅に10時11分に着き、10時34分発JR奈良線快速にて奈良駅には11時18分
に着いた。


 隣接する旧駅舎内の奈良市観光案内所に入り、観光パンフレットや展覧会のリーフレッ
トなどを幾つか入手した。

 観光案内所に待機していた奈良市観光協会マスコットキャラクターの「しかまろくん」。
    


 歩道が広くなった三条通に入ると、30℃を超えるという予報通り日射しが暑い。小西
さくら商店街を近鉄奈良駅に向かい、正午を過ぎたので駅近くのビルの「うどん亭」でま
ずは昼食とする。
    

 12時55分頃店を出た。近鉄奈良駅構内のコインロッカーに荷物を入れ、登大路を東
大寺大仏殿の方向に向かう。興福寺境内付近からは歩道が松並木の下になり、暑さからは
幾分開放された。
      

 でも、5月でもこの暑さではシカもたまらぬようで、木陰で休んでいるシカないのかも
しれない。
    

 周辺には「鹿の飛び出し注意」の標識も幾つか見たが、山間地ならともかく、県庁近く
では奈良シカないのではなかろうか…。
        

 県庁東交差点を右折して国道169号沿いの芝生園地を進み、春日大社の一の鳥居から
参道に入る。こちらも、アカマツなどの木々が日射しを遮ってくれる。


 緑の車両が止まっていて、そばに小学生がたくさんいた。近づくと、傷ついたシカが用
水溝に倒れていて、それをNPOのシカの救急隊が来て担架で車に収容したところ。これ
も、奈良ナラではのことといえよう。



 近くに和洋折衷の独特の建物が見えた。国重要文化財の旧奈良県物産陳列所で、明治35
年(1902)の竣工とか。明治中期を代表する近代和風建築として高く評価され、現在
は奈良国立博物館の仏教美術研究センターとして活用されているという。



 参道は緩やかに上がり、両側には奉納された大きな石灯ろうが並ぶ。


 参道の東側の飛火野(とびひの)では、近くの中学生だろうか、伸び伸びと運動をして
いた。



 修学旅行生の多い二の鳥居をくぐって石段を左に上がり、第60次式年造替(しきねん
ぞうたい)記念で特別公開中の、春日大社本殿を拝観することにする。


     特別公開のリーフレット
    
 春日大社の式年造替は20年に一度で、普段は入ることの出来ない国宝の本殿を間近に
拝観できる。今回の特別公開は4月1日から6月30日まで(リーフレットでは5月31
日までだが、その後延長された)。
        

 ちなみに式年造替とは、社殿を全部作り替える伊勢神宮の式年遷宮とは異なり、本殿の
神々を仮殿に遷座後、本殿の傷んだところを修理したり、色を塗り替えたり、檜皮葺(ひ
わだぶき)の屋根を葺(ふ)き直したりなどの大修理を行うことだという。

 混雑していて並んで待つようならあきらめようかとも思ったが、暗に反して拝観者は少
なく、すぐに入ることができた。


 朱塗りの南門を上がった弊殿(へいでん)↑の先は撮影禁止で、本殿を撮ることは出来
ない。




 樹齢1,000年を超えるといわれる傍らのご神木の大杉も、根元しか撮れなかった。
      

 左手(西側)の回廊から入り、日本の代表的な神社建築様式のひとつ、春日造りの典型
で、4棟が横一列に並ぶ朱塗りの本殿を、裏手から表側へと間近に拝観した。

 また、社殿の間の御間塀とよぶ塀に描かれた獅子や神馬の絵や、今回初公開という本殿
に祭られている「磐座(いわくら)」と呼ぶ神秘の石、明治維新以来閉ざされていたとい
う後殿(うしろどの)なども拝観できた。(拝観料 1,000円・特別記念品↓付)
       

 拝観を終え、いったん南門を出て回廊の西側に入り、一番奥の内侍門から西に下りる。


 そばの酒殿(さかどの)↑と柱昌殿(けいしょうでん)↓の間を進み、駐車場の横を通
過する。


 さらに春日大社神苑を緩やかに下り、奈良県新公会堂横を過ぎる。その先は「鴟尾(し
び)の庭」と呼ぶ池を巡らす日本庭園があり、北に東大寺大仏殿の屋根が望まれる。



 広い芝生地となり、背後に若草山も見えてきた。大仏殿交差点から北に伸びる道路沿い
には土産物店や飲食店などが並び、修学旅行生や観光客で賑わう。


 この先の登大路は樹木が少なく正面からの西日が暑い。すぐ先の奥村記念館は無料休憩
所になっていたので入館した。

 ここは、総合建設会社の奥村組が、創業百年を記念して2007年に開館した施設。1
階は観光インフォメーションセンターとショールームで、奥村組の歴史や技術紹介の展示
があり、無料の飲み物をいただき、休憩コーナーで休ませてもらった。

 次の三差路の先に氷室(ひむろ)神社がある。橋を渡った正面、表門の右手にシダレザ
クラの古木が立つが、枝に癌腫(がんしゆ)と呼ぶ悪性の腫瘍があり、樹木医の指導で樹
勢回復中で、花咲寄進(はなさかきしん)お願いの張紙があった。


 県文化財の表門を入ると、舞楽を上演する舞殿(拝殿)で、その奥には文久3年
(1863)造替という独特の社殿形式の本殿↓が祭られ、やはり県文化財である。


 季節外れの暑さに応え、舞殿の左右からは冷風を吹き出すミストがあり、暑さを和らげ
てくれる。神社でこのような施設を見たのは初めてのことだった。


 舞殿の正面下に、ドイツの造船所で建造された清国(しんこく)海軍の戦艦「鎭遠」の
主砲の30.5サンチ(㎝)砲弾が置いてある。
        
 鎭遠は日清戦争では帝国海軍の脅威だったが、後日座礁して帝国陸軍軍艦として使用さ
れたという。

 さらに西へ、県庁東交差点の手前の細い三差路を右折して土塀の間を進み、突き当たり
を右折するとすぐ先に、吉城園(よしきえん)と依水園(いすいえん)の二つの日本庭園
が公開されている。


 まずは右側の吉城園に入る。万葉集にも読まれた吉城川に隣接して明治・大正時代につ
くられた庭園で、奈良県が取得して平成元年(1989)に開園したという。

                        旧正法院家住宅(奈良県文化財)


 敷地面積約8,900㎡あり、園内は池の庭、苔(こけ)の庭、茶花の庭からなっている。
池の庭は江戸時代からの地形の起伏や曲線を巧みに取り入れ、建物と一体になるように作
られているようだ。



 順路に従い変化ある園路を15分ほどで一巡し、緑豊富な日本庭園の景観を楽しんだ。

                 茶  室

(入園料 大人250円、外国人、65歳以上、中学生以下無料)

 16時となり、北に隣接する日本庭園、依水園へ。

 依水園は、江戸時代前期に作られ周囲から隔絶された前園と、周りの景色も借景として
取り入れ明治時代に作られた後園からなり、昭和50年(1975)に国の名勝に指定さ
れている。

 面積は11,000㎡あり、正門を入った前園左手には、寧楽(ねいらく)美術館↓が併
設されている。



 最初に前園にあるかやぶき屋根の三秀亭↓横から池の周辺を回り、対岸の↑茶席清秀庵
の方に進む。





 その先は、より大きな池の背後に春日山や若草山、東大寺南大門などが望まれ、開かれ
た後園のエリア。池の右手から水車小屋を経て、池の北岸を戻った。

                 氷 心 亭   


                 水 車 小 屋






                   三 秀 亭    

 最後に寧楽美術館↑に入り、依水園を買い受けた実業家・中村準策が収集したという、
古代中国の青銅器や拓本、古鏡、高麗・朝鮮王朝時代の陶磁器、日本の茶道具や古瓦など
の展示を観覧した。(館内は撮影禁止)
    
    美術館の前のクスノキが、気持ちよい若葉の彩りを見せる。

 観覧を終えたら閉館時刻の17時、正門は閉じていて、横の小さい門を開けて園を出た。
(入園料 一般900円)

 県庁構内を通過して近鉄奈良駅に戻り、預けた荷物を持って電車に乗る。次の新大宮駅
で下りて、奈良では定宿としている近くのビジネスホテルに入った。

(天気 晴、距離 7㎞、地図 (2万5千分の1)奈良、奈良公園ウオークマップほか、
 歩行地 奈良市)





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