あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

京都国立博物館で「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」を見る

2012-04-26 20:17:04 | 京都を歩く
 2012年4月22日(日) 雨
 
 朝から雨なのでゆっくりして、8時過ぎに東横イン五条大宮で朝食を済ませ、9時過ぎに
出発した。JR山陰本線丹波口駅発9時20分に乗り、3分で京都駅に着く。

 一日中雨の予報なのと、京都の桜の名所のほとんどは見ごろを過ぎているようなので、今
日は寺社の拝観は止め、京都国立博物館に行くことにする。

 小雨模様の京都駅北口を出て、七条通りを東に向かう。東洞院通りとの交差点に、「電気
鉄道事業発祥地」碑があり、明治28年(1895)2月1日にここから伏見下油掛通りま
で6㎞の電車運転を開始したことが記されていた。



 鴨川の七条大橋を渡る。両岸のソメイヨシノの花は散り始め、ヤナギが軟らかな若葉の彩
りを見せる。


 橋の先の川端通りを過ぎ、すぐ近くの小さい書店で、京都国立博物館の前売り券を求める。


 その先の通りには京菓子の店や食べどころなど、京都らしい店が並んでいた。


 10時半頃、京都国立博物館に着き、南門から入る。正面の平常展示館は工事中。今日の
目的は、右手の特別展示館で開催中の「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」である。




 ちなみに、ネオルネッサンス様式平屋建てレンガ造りのこの建物は、東京の赤坂離宮など
も設計した宮廷建築家の片山東熊博士の設計で、明治30年(1897)5月の開館。明治
洋風建築の代表のひとつとして、国の重要文化財に指定されている。


 陽明文庫は京都にあり、昭和13年(1938)、近衛家29代当主でのちに内閣総理大
臣も務めた近衛文麿(ふみまろ)が設立したもの。

 五摂家(摂政や関白に任ぜられる家柄)の筆頭である近衛家の持つ10数万点の宝物を保
存管理しており、この展覧会では同文庫所蔵の国宝8点、重要文化財60点のすべてを初め
て一般公開し、およそ140点を展示しているという。



 館内を約3時間かけて一巡して、8つのパートに分かれて展示されている宮廷貴族のライ
フスタイルともいうべき所蔵品を見る。

 中には、日本最古の日記という藤原道長の国宝「御堂関白記(みどうかんぱくき)」、み
やびな和歌の遊びを記録した国宝「歌合(うたあわせ)」、重文で鎌倉時代の「春日鹿曼荼
羅図」、流麗な文字が記された国宝「倭漢抄下巻」、江戸時代の御所人形や銀細工の小さな
雛(ひな)道具など、千年の歴史や華やかな王朝文化の一端をうかがい知ることができた。

 なお、この展覧会についての詳細は、京都国立博物館のウェブサイトで。


 国立博物館の敷地内は緑が多く、その中にロダンの「考える人」像、古い灯籠や道しるべ
などが散在し、雨に濡れたシダレザクラが散ろうとしていた。








 同じ七条通を京都駅まで戻り、14時過ぎに地下街の食堂で遅い昼食をする。


 早めに帰宅することにして、新幹線改札を入って買い物をして、15時29分発のひかり
526号で東京に向かった。




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京都・仁和寺から平野神社へ

2010-05-14 22:46:17 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 京都・仙洞御所の参観を終えて昼食後、洛西といわれるあたりの寺社のひと
つ、仁和寺(にんなじ)前までバスで行き、御室桜(おむろさくら)で知られる仁和
寺に入りました。

 境内にたくさんある御室桜はすでにかなり散っていましたが、まだ咲いている
花もありました。ところが、デジカメのモードダイヤルが動いてしまったのか、撮
ったサクラはみな露出オーバー、ご覧いただけるようなのがありませんでした。

 花見を終えて回った御影堂(みえどう)。この後は撮れていたので紹介します。


 国宝や重要文化財の並ぶ霊宝館を拝観し、境内をあちこち回った後、東側の
山門を出て、仁和寺を後にしました。


 東隣には五智山蓮花寺(れんげじ)があり、本堂の横に古い石仏が並んでいま
した。


 蓮花寺から北東へ、苔寺で知られる龍安寺前を通過し、立命館大学の南にある
等持院(とうじいん)に行きました。

 等持院は、暦応4年(1341)、将軍・足利尊氏が夢窓国師(むそうこくし)に依
頼して、衣笠山の南麓に創建し、足利将軍歴代の菩提所になったところ。特に
庭園は、夢窓国師作の三大名園のひとつとのことなので、拝観しました。

 書院からの眺めです。


 書院の一室。




 書院から庭園に下りて回ることもできるので、回遊してみました。

 庭園の中心は、草書体の「心」の寺をかたどった心字池です。




 等持院の拝観を終え、京福電鉄の終点、北野白梅町駅そばから北に進んで、桜
の名所として知られる平野神社に入りました。


 境内には、珍種10種と呼ばれる、珍しい桜が10種類植えられています。その中
で見ごろだった桜を幾つか紹介しましょう。 これは妹背(いもせ)という桜。


 濃い赤色の桜は、突羽根(つくばね)です。


 緑色の花びら、御衣黄(ぎょいこう)桜。
 

 鬱金(うこん)です。


 こちらは平野撫子(ひらのなでしこ)。


 雨上がりで、時刻も17時近かったので色はいまひとつですが、ほかでは見た
ことのなかった桜も見ることができました。
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京都・仙洞御所を参観する

2010-05-12 23:17:58 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 新年早々に申込みをして抽選で当選した、京都・仙洞御所(せんとうごしょ)を、
11時から参観しました。

 場所は、京都市街の中心、京都御苑の一角、京都御所の東南にあり、周囲は
京都御所と同様、築地塀(ついじべい)に囲まれています。

 御所は、たび重なる火災にあい、わずかな建物を残すのみですが、その代わり
独特の宮廷庭園の姿をとどめており、スケールの大きな池泉式回遊庭園として、
評価は高いようです。

 あいにくの冷たい雨の日でしたが、一緒の参観者25名ほどが、約1㎞の庭園
を1時間ほどかけて、宮内庁職員の案内で回りました。

 西側にある表門から入った正面にあるのが、大宮御所常御殿(つねごてん)車
寄(おくるまよせ)と呼ぶ玄関口です。
 

 表門と常御殿の間、南側の広場には、大きな松が枝を広げていました。


 南庭から見た大宮御所常御殿。大きな建物はここだけでした。

 
 案内の宮内庁職員に従い、御所内を回ります。北池の周囲は新緑がいっぱい。


 池の周囲にある、このような園路をめぐります。


 北池の北西端、阿古瀬渕(あこせがふち)と呼ぶあたり。


 阿古瀬淵にかかるのが六枚橋。切石6枚を3枚ずつ2列に並べ、つなぎの部分に
短い橋脚を建て、やや反りを持たせています。


 北池の一角からの眺め。


 南池の中ほどに中島があり、中島を結ぶ橋のひとつ、八ッ橋で、上には藤棚が
かかっていました。


 花咲くモミジ。


 中島へのもう一つの橋、土橋です。


 南池の西側には、州浜(すはま)あるいは大浜ともいう広がりがあり、粒の揃っ
た楕円形の石が一面に敷き詰められています。


 南池の南端から見た州浜と八ッ橋。


 中島にかかるもう一つの橋。 


 南池の西側に柿本社(かきのもとやしろ)という神社があり、万葉の歌人・柿本
人麻呂が祭られています。


 庭園をほぼ一周して北池の西に回ると、又新亭(ゆうしんてい)の中門の横を
通ります。


 こちらが又新亭、かやぶき屋根入母屋造りの建物は茶室です。


 又新亭の北側にあるくぐり門を抜けて、常御殿車寄の前に戻り、約1時間の
参観を終えました。

 ちなみに、この大宮御所のほか、京都御所、修学院離宮、桂離宮などの参
観については、宮内庁参観案内 をご覧下さい。 
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相国寺から京都御苑へ

2010-05-07 21:41:46 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 この日は11時から、京都市街の中心、京都御苑の一角にある仙洞御所(せん
とうごしょ)の拝観を申し込んであったので、その前に、近くの相国寺(しょうこくじ)
と京都御苑を回りました。

 相国寺は、京都御苑の北側にあり、足利義満が創建した禅宗五山のひとつで、
下の図のように広い境内に、多くの堂塔が並んでいます。 


 これは宝塔。


 背の高いアカマツの向こうの大きな建物は、本堂に当たる法堂。


 東北の隅にある飛天閣と呼ぶ美術館に向かう両側は、みずみずしいモミジの新緑
が続いていました。


 モミジの下は、やわらかなコケに覆われています。




 秋のような彩りのモミジも。


 飛天閣の入口左手には、大きなソテツもありました。


 法堂の北側に回りました。法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進による
ものです。


 法堂の東側にある鐘楼。


 南側に並ぶ同志社大の、幾つかのレンガ造りの建物の間を南進し、京都御苑
に入ります。

 京都御苑は、京都御所や、このあと拝観する仙洞御所を含む約65haの、緑が
いっぱいの国民公園。明治2年(1869)に御所が東京に移るまで、約200軒の
公家屋敷や宮家があったところです。

 園内北側に、シダレザクラが咲き残っていました。

 東の方に回ると、皇女和宮誕生の地といわれる橋本家跡の表示がありました。

 和宮は、弘化3年(1846)にこの地で生まれ、14歳までここで育ったとか。
有栖川宮との婚約を破棄され、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁したことは
よく知られたとおりです。

 近くには、学習院跡の表示もあります。

 学習院というと、東京・目白がすぐ浮かんできますが、この地は、安永8年(1779)
に皇位を継いだ光格天皇が公家の教育振興に取り組もうと考たのが発端で、弘化4
年(1847)に開講したとのことです。

 京都御所の周囲は、高い土塀に囲まれていますが、ここは内部に入る門のひとつ。

 普段は閉ざされたままのようです。

 こちらは、このあと拝観する仙洞御所の長い土塀。


 塀の中にある八重桜が、花を見せていました。
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雨の仙洞御所(京都)

2010-04-22 22:04:52 | 京都を歩く
 昨日、4月21日夜、奈良・京都のウオーキングや社寺めぐりから帰宅しました。
先週歩いた国際ウオーキングトレイル実踏のレポートから投稿するつもりでしたが、
留守中に溜まった用事や資料整理などがあり、本日は時間がとれません。

 そこで、20日(火)午前に拝観した、京都・仙洞御所(せんとうごしょ)の写真を
数枚紹介することにします。



 仙洞御所は、京都市街の中心、京都御所の東南に接しています。 


 仙洞御所は、桂離宮や修学院離宮とともに17世紀に築かれた、宮廷庭園の姿を
いまにとどめる、スケールの大きな池泉回遊式庭園です。












 桜などの花はほとんど見られませんでしたが、冷たい雨に濡れて、新緑がみずみず
しい園内を1時間ほどかけて、ゆっくりと拝観しました。
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京都・伏見の社寺を巡る(下)

2008-04-19 22:44:12 | 京都を歩く
 2008年4月1日(月)(続き)



 京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。

 すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。

 関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。

 ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。

 ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。


 この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。


 墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。

 平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。

 本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。

 本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
 
 絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。

 本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。


 さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。

 入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。

 深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。

 嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。

 室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。

 境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。

 北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。


 永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。

 多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。

 西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。

 少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。


 黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。

 本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。


 江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。


 さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。

 奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。

 朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。

 本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。


 少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。


 応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。


 豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。

 17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
 歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)

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京都・伏見の社寺を巡る(上)

2008-04-13 23:44:11 | 京都を歩く
 2008年4月1日(火)



 京都の社寺巡りの最終日は、京都市の東南部、伏見周辺
を回ることにした。JR奈良線のJR藤森(ふじのもり)駅を9時
35分にスタートする。

 東に1㎞近く進み、携帯電話のアンテナ塔の先の斜面を上
がって、古御香宮(ふるごこう)とも呼ぶ御香宮社に行く。

 文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見築城にあたり、城内の
鬼門除けの神として伏見九郷にあった御香宮をこの地に遷宮
して、社領300石を寄進したという。

 秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、現在の本殿は
その後に建てられたものとか。

 秀吉がここに神社を祭ったのは、隣接する「桓武天皇陵
参考地」を保護する必要とも伝えられているようで、南側
にはそれと思われる林が残っていた。

 車道に戻り、さらに南東に進み、八科峠の交差点際を東
に入って仏国寺へ。

 延宝6年(1678)、中国福清の人で隠元(いんげん)禅師
の招きで来日した、高泉(こうせん)和尚が復興した寺。


 墓地にある高泉和尚銅碑は、正徳元年(1711)に鋳造の
青銅碑で、撰文は高泉和尚の教えを受けた近衛家(いえ
ひろ)によるものという。

 墓地には、江戸初期の代表的作庭家で伏見奉行でもあった
小堀遠州の墓もあるというが見つからず、韓国姓の新しい墓
がたくさん並んでいたのが目についた。

 八科峠に戻ると、民家の傍らに道しるべの標石と、逢坂山
車石という石碑が並んでいた。


 峠の交差点を西に入る。すぐ先の左側一体は伏見北堀公園。
伏見城の北堀跡を自然公園に整備したものらしい。

 堀跡には小さい流れがあり、両側は桜やハクモクレンなど
が咲き競い、散歩やウオーキングの人たちが次々にやって
来た。

  堀跡を隔てた南側にあった高台に上がったら、思いがけ
ず大きな城が見える。
 
 地図で確かめたら何と伏見桃山城。野球のグランドの先に
回って城のそばへ行く。

 周辺のソメイヨシノが見ごろ。城は大きいのと小さいのが
並んでいる。しかし石垣は自然石の感じがせず、砕石して
形を整えたようで最近のものらしい。

 帰宅後調べたら、1964年に伏見城の花畑跡にできた遊園
地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉として建設されたが、
経営母体の近鉄のリストラで閉園、京都市が無償譲渡を受け、
一体を伏見桃山城運動公園として、最近整備したようだ。

 五重六階の大天守と三重四層の小天守、楼門などは史実
には直接関係ないと知り、ちょっと拍子抜け。公園内に、城
の説明が何もなかったことも納得した。

 雲行きが怪しくなりちょっと冷えてきたが、城を一周して
伏見北堀公園の西端に回り、北側の車道に出た。


 藤森小や森林総合研究所の北側を下り、JR奈良線の西を回
って海宝寺に入る。

 海宝寺とその周辺一帯は、仙台藩伊達政宗の伏見上屋敷が
あったところとか。正宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの
屋敷地を与えられ、一時は千人以上も住んでいたという。


 本堂横に正宗手植えという桃山時代の名木、モッコクがある。
手前は枯れたのか布で覆っているが、奥は枝を大きく伸ばし
ていた。

 境内の庭園もよく整えられている。

 国道が90度カーブしている近くには、栄春寺があった。
永禄11年(1568)、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として
開創したという。

 現本堂は天保10年(1839)の改築で、本尊は徳川家康
の家臣・酒井重勝が寄進したものという。

 この庭園も、よく手入れされていた。
 

 京阪電鉄墨染駅の横を通過し、水量豊富な琵琶湖疎水を
渡って桜の名所、墨染寺に向かう。

       
                                 (続く)

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京都御所とその周辺を巡る(下)

2008-04-10 23:16:24 | 京都を歩く
 20008年3月31日(月)続き

 イョウ並木のある寺町通を南に進む。二条通との交差点に、
井原西鶴の「通い路(かよいじ)は 二條寺町 夕詠(ゆうながめ)」
の句碑があった。

 この句は、延宝5年(1677)の「西鶴俳諧大句数」に納められて
おり、当時、このあたりの風情ある町並みの夕景色にみとれつつ、
四条河原の涼み床へ駆け抜けていった粋人たちをうたったものだと
いう。

 鴨川の二條大橋を渡る。2つ下流の三条大橋は、毎年の中山道
ウオークのスタートかゴール地点なので何度か渡ったが、この橋は
初めて。左岸のソメイヨシノはまだ少し早めだった。


 橋より2本東の通りに回って、頂妙寺へ。何か所か点々とし、延宝
元年(1673)にこの地に移ったという。 

 楼門には持国天と多聞天像を安置し、その前に仁王門の拝殿
と呼ばれる祓(はらい)堂があり、門前の通りを「仁王通り」と呼ぶ
のは、この仁王門が起源のようだ。

 再び二條大橋を渡って鴨川の西に戻る。加茂川左岸下流では、
しだれ柳が芽吹き始めていた。


 橋の近くに、2階建て洋館の島津創業記念資料館があった。明治
8年(1875)、島津製作所がこの地で理化学機械製造業を興し、
2代目島津源蔵は蓄電池製造法を発明するなど、わが国科学技術
の発展に尽くした場所。

 資料館として公開されている建物は、国の登録有形文化財に
指定されている。

 すぐ南側は「高瀬川一之船入」と呼ばれ、いったん暗渠(あん
きよ)になった流れが再び姿を現したところ。

 高瀬川は、大量輸送を目的に伏見・二条間をつなぐ水運として
慶長16年(1611)につくられ、京都と大阪を直接水路で結ばれ
ることになり、近世京都の経済発展を支えるもとになった。

 全長約11.1㎞、川幅平均約8mあり、高瀬舟の荷物のあげお
ろしをする船溜まりを船入といい、水路に沿って九か所の船入り
が設置されたという。


 高瀬川一之船入の周辺には、京の昔をしのばせる趣ある家並み
が並んでいた。


 南側の広い通り、御池通に出て、京都市役所横まで進む。市役
所と通を隔てた南側は本能寺である。

 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に襲撃され、自刃し
たことで知られるが、そのおり30余りの大伽藍は焼失した。

 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年{1589}に現在
地に移転、現在の本堂は昭和3年(1928)の再建とのこと。

 境内には信長公廟(びよう)があり、武将の魂とされる信長所持
の太刀が納められているという。


 境内にはほかに、本能寺変の戦没者合祀墓、9代将軍家重夫人
の供養塔、後伏見天皇7世皇孫・日承聖人墓などがあった。

 南側の三条通から、いつも修学旅行生や観光客などでなどで賑
わう新京極のアーケードに入る。 

 幾つもの京土産店などをのぞきながら南に進む。

 通りの一角に、平安の女流歌人の代表とされ、才色兼備で知
られる和泉式部の墓所という宝篋印塔(ほうきよういんとう)があ
った。

 謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている石塔で、高さ約4m、幅約
2.4mあり、正和2年(1313)に改修建立されたもの。


 そばの誠心院の初代住職が和泉式部だったとか。関白藤原道
長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部のために一庵を与え
たのが、この寺の起こりだという。

 境内は狭いが、和泉式部歌碑や、珍しい二十五菩薩の石像(下)
などがある。

 二十五菩薩は、豊臣秀吉の頃、宇治田原の城主、山口甚助に
より誠心院に寄進、建立されたとか。10体が焼失しているが、
石仏の二十五菩薩は珍しいという。

 京都の繁華街、四条通の1本北になる錦小路通に入る。

 京野菜や漬け物、煮物など、京の台所に欠かせぬ品物の並ぶ
狭い通りを抜け、17時半近く、四条烏丸の宿に戻った。

(天気 晴時々曇にわか雨、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 集成図
 京都、歩行地 京都市上京区、中京区、左京区、歩数 23600) 
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京都御所とその周辺を巡る(中)

2008-04-08 22:22:50 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)続き

 京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。


 北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
 
 このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。

 今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。

 さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。

 御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。

 貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。

 本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。

 すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。

 境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
 
 堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。


 塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。


 廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。


 境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。

 飲んでみたら、まろやかな味わいだった。

 仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。


 少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。

 厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。


 池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。


 九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。


 京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。

 歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。

 京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。

 御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。

 不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。

 当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。

 ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。

 上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。


 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。

 現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。       (続く)
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京都御所とその周辺を巡る(上)

2008-04-07 21:45:38 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)



 京都市内社寺巡りの2日目は、今回の旅の1番の目的で
ある、京都御所の拝観から始まる。

 京都御所の拝観は昨年4月10日に予定していたのだが、
出かける前日の4月7日に交通事故にあって中止したため、
今年の正月初めに改めて申し込んだもの。

 ちなみに、京都御所の参観には申し込みが必要で、3ヶ月
前1日から受付が始まり、サクラの頃は申し込みが多い。

 9時からの拝観を申し込んだので、8時40分過ぎ、御所西
側の清所門(せいしょもん)と呼ぶ参観者入口から入った。


 参観者は案内人に従い、説明を聞きながら回る。1回の
参観時間は約1時間で、1周約1kmあるという。

 以前行った修学院離宮や桂離宮に比べて人気が高いの
か、1回辺りの参観者は150人と多い。

 京都御所は、築地塀に囲まれた南北約450m、東西約
250mの方形で、面積は約11万㎡あり、京都大宮御所、
仙洞御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産として
宮内庁が管理している。


 参観者休憩所を出て、まず、御車寄(おくるまよせ)(写真
上)に続く諸大夫の間(しょだいぶのま)へ。

 正式な用向きで参内(さんだい)したときの控えの建物で、
3つの部屋がある。これは中間の諸侯・所司代の控えの間
に描かれた鶴の絵で、この部屋は「鶴の間」とも呼ばれる。


 南側に回ると、鮮やかな朱塗りの柱の承名門(じょめいもん)
がある。

 承名門からは、南庭を通して北に紫宸殿(ししんでん)の大
きな建物が望まれる。

 紫宸殿は、安政2年(1855)の再建、代々の天皇の即位礼
など、重要な儀式を行う最も格式の高い正殿で、間近で拝観
することは出来ない。

 間口37m、奥行き26.3m、棟の高さ20.5mの入母屋
(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の高床式宮殿建築である。

 建物の右手前に見えるのは左近の桜で、門扉で見えないが、
左側には右近の橘がある。 

 東に回ると、御所の東南の門、建春門(けんしゅんもん)が
見える。


 東側から紫宸殿の背後を回って清涼殿前に行く。
清涼殿は、天皇の日常の生活の場として使用されたところ。


 清涼殿の北側に続く建物


 東側に戻って小御所の横を北に進むと、入母屋檜皮葺の
御学問所(おがくもんじょ)がある。

 学問のためだけでなく、和歌の会などにも用いられたという。


 小御所や御学問所の東側には、池を巡らした御池庭(おいけ
にわ)が広がっている。




 御池庭の北側にあって御所最大の建物が御常御殿(おつね
ごてん)。これは、御殿の扉に描かれた絵。


 御常御殿で折返し、御学問所との間を西に抜けると広場
になっていて、しだれ桜が見頃である。

 参観者は、思い思いに桜をバックに記念撮影をしたり、花
を鑑賞したりして拝観を終えた。


 参観者休所にある売店で記念の品を幾つか求め、10時
15分に参観者の出入り口、清所門を出た。     (続く)
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