あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

柴又駅から やまさん追悼ウオークへ(東京・葛飾)

2022-10-18 18:24:14 | カタツムリ歩行
 2022年10月15日(土)

 長年にわたってカントリーウオークやロングウーなど、数えきれぬほどのウオーキング
でお世話になった、「やまさん」こと山浦正昭さんが6月9日(木)に永眠されました。

 当ブログのカテゴリーのうち、「関東百駅巡礼歩行」「カタツムリ歩行」「国際ウオー
キングトレイル実踏」「英国のウオーキング」そして「ドイツのウオーキング」は、やま
さんが企画された歩きに参加させてもらったときの記録です。

 ほかに、「カントリーウオーク」の中にも、やまさんが企画されたものがあるはずです。 


 永眠され4か月余り、かたつむり歩行の事務局をされていたDさんご夫妻から、「やま
さん追悼ウオークをします」との案内メールをいただいたので、参加することにする。

 JR山手線の日暮里駅から久しぶりの京成本線に乗り、京成高砂駅で京成金町線に乗り
換え、11時25分に京成金町線の中間駅、柴又駅に下車した。

 葛飾柴又といえば、おなじみの映画「男はつらいよ」の主人公 寅さんの街。駅前には
旅姿の寅さん像がある。
     
 この像は何度も見ていたが、何年ぶりかに訪れたら、見送る妹さくら像も寅さんに向き
合うように立っていた。 
          

 追悼ウオークの集合は13時、何度か来ているが、まずは柴又帝釈天(しばまたたいし
ゃくてん)に参拝することにして、帝釈天参道に向かう。
     

 駅前の柴又観光案内所には、月末の10月29日(土)と30日(日)に開催される、
「寅さんサミット」のポスターが。

 
     
 そばの交差点際の小公園には、渥美清さん奉納の常夜灯が立ち、山田洋次監督による碑
もある。

 
 その先、帝釈天参道などは、「地域の人々の生活、歴史、風土などによって形成され、
それらを現在に伝える重要な景観地」として評価され、平成30(2018)年2月、都
内で初の「国の重要文化的景観」に選定されている。
     
  
 車は通行禁止で石畳の参道沿い、両側に並ぶ柴又名物の草だんごやせんべい、漬物、あ
め玉、手打ちそば、蒲焼きなどの店をのぞきながらゆっくりと進む。














 突き当たりが、柴又帝釈天こと題経寺(だいきょうじ)である。

 題経寺は、寛永6(1629)年に開創された日蓮宗の寺。

 総檜造りの山門という二天門を入ると、正面が帝釈堂。左手には松の古木が目につく。






 右手の本堂は帝釈堂と渡り廊下で結ばれ、背後の大客殿などとにも渡り廊下が続く。
 

 正午が近くなったので昼食をすることにして、少し人出の増えた参道を戻る。 


   その一角、そば処の入口横でワンちゃんが、マスクをして待っていた。
     

    参道入口まで戻り、往路で目を付けておいた元祖くず餅の船橋屋に入る。
     

 2階の食堂に上がり、玉子雑煮(900円)を注文して腹ごしらえをした。


 店員さんに聞くと、今日は曇っているので人出は少な目とのこと。店を出るまでに食堂
に上がってきたのはひと組だけだった。12時14分頃店を出る。

 
 まだ集合時刻まで少し余裕があるので、もう一度帝釈天まで往復することにして、撮り
残した店などのぞきながら進む。








      帝釈天二天門の手前、公衆トイレ前の郵便ポスト
     

 帝釈天境内に入ったら、雲が切れて青空が広がってきた。



 もう一度、ざっと境内を一巡する。



 そろそろの時刻になったので二天門を後にして、再び参道を戻る。


 12時40分過ぎに駅前広場に戻ったら、参加メンバーの多くがもう集まっていた。


 Dさんからは、やまさんの菩提寺、京成高砂駅に近い大光明寺周辺までの地図をいただ
いた。

 さらに、やまさんの、カントリーウオークの普及活動を様々な年代に広めた実績や著書
を紹介した資料と、やまさんの人柄がしのばれる「BAYFM78」で2004年2月放送の、
対談「カントリーウオーカー・山浦正昭さんの旅の極意」の記録資料もいただいた。
貴重な資料をまとめられたDさんに感謝する。

 出発前に気づいたのだが、駅前のファミリーマートは、ほかの店のような壁面上部のグ
リーンとブルーのカラー帯は無く、街の景観に配慮した彩りになっていた。


 今日集まったのは12人、新型コロナウィルスの感染拡大防止で3年以上途切れていた
カタツムリ歩行同窓会のメンバーの皆さん。

 13時15分頃に柴又駅を出た。14時頃までに南西に2㎞ほどの大光明寺に集まるこ
とにしたので、何組かに分かれて思い思いの道を進む。
 
 私はDさんと駅北側の踏切を渡り、次の交差点を左折して線路に平行する細道を南西に
進む。200mほどで線路の反対側からの道と合し、そちらから来た数人と落ち会い、そ
ばの小さなコインランドリーに似顔絵がたくさんあると言われた。
     


 何年か前に、やまさんと歩いたときに入ったことをすぐに思い出した。もう一度入って、
天井や壁面きっぱいに描かれた数えきれぬほどの有名人の似顔絵を眺める。




      入口横には、ここを紹介したいろいろな新聞が掲示されていた。
     

 少し先の路傍にあったミニポストなど。この会社の製品かもしれない。


 さらに進むと、変わった名のレストランが。表札でその漢字が「出来村」と分かる。


 街路樹の桜の葉が色づいてきた、「さくらみち」と呼ぶ通りを横断した。

 
 その五差路を左折して高砂8丁目を南へ、100m足らずで少し広い道路を横断後、高
砂5丁目に入って南西へと進む。正面に京成高砂駅が見えてきた。
     

     
 間もなく駅東側の踏切という辺り、右手の細道に小さな子育地蔵堂が祭られ、すぐ先の
妙榮院という日蓮宗の寺院のそばに、地元農産物の無人直売所が見えたので進んでみた。
          

 すると、地蔵堂の背後の建物前にハロウィンの飾り付けがあり、きらびやかな衣装を着
けた数人の姿もある。ハロウィンは月末なので、まだ2週間余り先のことなのだが・・・
     

 近寄ったらそれらの皆さんから声をかけられて、揃って記念撮影をする。中には寅さん
姿に扮装した人も。

 このような思いがけぬ出会いも、やまさんと歩いたときによくあったことを思い出す。


 もとの通りに戻り、すぐ先の京成高砂駅方向に向かう。こちらのイタリアンレストラン
のウィンドウは、秋の彩りに。



 近くには、懐かしい感じの八百屋なども。



 線路際に出て、京成本線や京成金町線、北総鉄道線など複雑に交わる駅東側の踏切を渡
り、駅南口前からさらに狭い道を西南西へと進む。


 
 沿道に咲く花や、色づき始めたモミジなど。




      宮前公園の北側、線路際に火の見やぐらが望まれた。
     


 天祖神社前を過ぎた突き当たりが、今日のゴール、やまさんの眠る大光明寺。ほかでは
見たことのない独特の山門は、ユニークな歩きをされた やまさんの菩提寺にふさわしい。


 やまさんの眠るお墓は、大本堂の左手にある。

 
     
 線香を炊いて皆さん交互に手を合わせ、数々のウオーキングでお世話になったことに深
く感謝し、謹んでご冥福をお祈りした。
          

 墓参後、本堂前で記念撮影する。今日参加の皆さん。


 ここで散会となるが、希望者は駅近くのカフェで、やまさんの思い出などを語り合おう
ということになり、全員が参加することになった。

 山門前を北へ、京成本線のガード下を抜けて200mほど先で折り返し、線路に平行の
道まで戻り、線路際の観蔵寺前を進む。


   境内のキンモクセイがこの秋2度目かと思われる花を開き、芳香を漂わせる。
     
 
 駅に近いY字路際にDさんが予約された喫茶白十字があり、14時35分頃入って、や
まさんの思い出などを語りあう。


 16時10分過ぎ、私は何人かとともに失礼した。全員の写真は撮り忘れ、さらに残っ
た皆さんのみ。


 京成高砂駅から16時31分発京成本線上り上野行き快速電車に乗り、帰途についた。
   
 



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カタツムリ歩行同窓会で府中本町駅周辺を歩く(東京・府中)(後半)

2019-11-19 16:30:27 | カタツムリ歩行
 2019年11月17日(日)〈続き〉

 カタツムリ歩行同窓会が13時頃散会し、その後、希望者14人は企画したKさんに従
い、公園の東端からふるさと通りを北へ、天然水のビール工場であるサントリー武蔵野ブ
ルワリーに行く。


    






 売店などのある工場見学者用ロビーで少し待ち、13時45分からのガイドツアーに参
加する。




 女性ガイドさんに従い、まずは映像を観た後、プレミアルビール「ザ・プレミアル・モ
ルツ」の素材である麦芽とホップ、天然水について、現物などで説明を受ける。
    


 そのあと工場の現場に回って製造工程の順序に従い、仕込、発酵、貯酒、ろ過、パッケ
ージングの現場を巡る。


     








 最後にお楽しみの試飲会場に入り、ザ・プレミアル・モルツや、ほかの銘柄など3杯ま
での試飲を楽しみ、14時55分過ぎに見学会を終えた。




 この後、私は歩いて府中本町駅に向かうことにした。工場を出てふるさと通りを北進し、
府中本町駅から東京競馬場への高架の通路下を抜ける。


 すぐ先、競馬場の北側にあった妙光院の山門を入る。右手の墓地の向こうに、競馬場の
メインスタンドが間近に望まれる。



 朱塗りの仁王門を入った正面に本堂があり、右手前には「府中の名木百選」のイチョウ
が、まだ黄葉前の葉で立っていた。


 妙光院の北側には、金比羅神社の社殿が、豊富な木々に囲まれてひっそりと祭られてい
た。
     

 通り沿いの民家の玄関先に、ハイビスカスが咲き残っていた。



 府中本町駅の東側まで戻り、大國魂神社の西鳥居から境内に入ると、すぐに拝殿前に出
た。

 昨日の七五三詣でに続き、今日も七五三の家族が何組も目につく。参拝後、北側の山門
を抜ける。



 周辺のケヤキが色づき、その先両側では菊花展を開催中で、何種類ものキクが花の彩り
や形を競って並んでいた。











 北に延びる参道の両側には出店が並び、その上にたくさんのちょうちんが幾重にも続い
ている。
    


 そちらには進ます、そばの立派な手水場↑の横から西側に抜ける。

    
     沿道のマンホール
    


 JR府中本町駅には15時44分に着いた。15時51分発武蔵野線の始発東京行き直
通の下り電車に乗る。

 ちなみに、東京行きは上り電車のはずだが、武蔵野線の終点は西船橋駅なので下り電車
になり、西船橋から京葉線直通で東京駅に向かっているのである。

 今日の府中市の最高気温は18.9℃、風も無く穏やかなウオーキング日和だった。

(天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 武蔵府中、歩行地 府中市、歩数
 18,000)




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カタツムリ歩行同窓会で府中本町駅周辺を歩く(東京・府中)(前半)

2019-11-18 22:14:05 | カタツムリ歩行
 2019年11月17日(日)

 好天となった今日は、カタツムリ歩行の第7回同窓会に参加した。集合はJR武蔵野線
・南武線の府中本町(ふちゅうほんまち)駅である。

 今回の担当のKさんから地図をもらい、皆さんよりひと足早く9時50分に駅を出た。

 駅の東側、広い空き地に「国司館(こくしのたち)地区と家康御殿(いえやすごてん)
史跡広場」の説明板があった。

 ここは、約1300年前に武蔵国府の国司館があったところ。さらに約430年ほど前
には徳川家康の府中御殿も置かれていて、府中市の歴史を象徴する国の史跡だという。

 広場の中央に国司館の10分の1復元模型があり、東側には2.4mの柱が立ち並び、
国司館の建物を復元していた。


 東側の道路の大きなウメモドキの街路樹が、たくさんの実を枝いっぱいにつけている。


 その道路を北へ、右手に大國魂(おおくにたま)神社の鳥居を見ながら進む。通りには、
地元府中市を本拠地とするサッカーJリーグ1部のチーム、FC東京の旗がある。
    


 次の五差路を西に少しで、大ケヤキやサクラの葉が色づく天台宗善明寺(ぜんみょうじ)
へ。

 山門を入ると、境内の樹木はよく手入れされていて気持ち良い。
     



     




 正面が本堂、右手前には朱塗り柱の金仏殿、山門近くには豊玉荼枳尼尊天を祭る小さい
お堂がある。


     

 ちなみに、金仏殿の正面には阿弥陀如来座像と脇侍の阿弥陀如来立像が安置されている
よう。

 いずれも全国でも珍しい鉄製鋳造の仏像で、国の重要文化財に指定されており、特に阿
弥陀如来坐像は像高195㎝あり、国内の鉄仏中で最大の像だという。。


 山門を出て、JR南武線の線路沿いの清水下小路(しみずしたこみち)を進む。線路の
向こうの建物の上に冠雪した富士山が望まれ、近くのツタモミジがよい彩り。
         

 南北に真っ直ぐに走る下河原原(しもがわら)緑道まで進む。緑道を北に少しの番場公
園交差点で左折し、旧甲州街道を西へ。

 木造の古い民家があり、すぐ先を南に入ると足利尊氏の開基という曹洞宗高安寺(こう
あんじ)である。

 室町幕府により武蔵国安国寺として位置づけられ、江戸時代初期までは臨済宗の寺院だ
ったとか。広い境内のたたずまいが、その歴史を感じさせてくれる。


 まずは赤い幟(のぼり)の林立する突き当たりの観音堂に参拝する。多摩川三十三観音
霊場の第三十三番、結願(けちがん)の札所である。

     
 少し戻り、東向きに堂々と構え立つ山門を入る。


     
 境内にはタラヨウ、コウヤマキ↑、クスノキ↓などの大木があり、いずれも「府中の名
木百選」に選定されていた。
         

 旧甲州街道に出ると、高安寺側に標高56.7mの水準点が目に入る。
  


 次の十字路を南に入り、JR南武線の分倍河原(ぶばいがわら)駅東側の踏切を渡り、
駅に向かって右折する。


 駅の南側は片町公園で、その一角に新田義貞(にったよしさだ)公の像があった。
     
 元弘3(1333)年、上州で兵を挙げた新田義貞は、ここ分倍河原で北条泰家率いる
幕府軍を撃破し、一気に鎌倉に攻め込んだゆかりの地。騎馬像は、文化勲章受章者の富永
直樹氏の作という。

 JRと交差する京王線分倍河原駅の高架下を西に抜ける。少し先で北側の住宅地を迂回
し、府中市史跡の高倉塚古墳の北側に出る。

 古墳時代後期の古墳で、6世紀前半の土器が出土したとか。この辺りに広がる高倉古墳
群の中で中心に位置し、墳丘が現存している数少ない古墳だという。

 すぐ先で分梅通りに出て、南へ緩やかに下る。坂の途中、左手の光明院の山門を入るが、
本堂は2階建てコンクリート造り。


     
 1階中央部の不動尊像と山門際の弁在天像だけが目についた。
        

 南側の交差点を東へ、鎌倉街道を少しの分量橋まで進み、南に伸びる雑田掘緑道へ。

少し先で東南に向かうが、京王線の線路手前で行き止まりのようなので緑道に分かれて南
下し、中央自動車道の高架下を抜けて新田川緑道に回った。

     
 すぐに京王線の下をトンネルで抜け、東南に向かって進む。緑道沿いは樹木が豊富で、
ところどころに色づいた葉も見える。
         


 下河原通りを横切り、間もなくホタル飼育場横を通過する。


 その先は流れが広がり二つの池が続き、モミジやサクラ、ケヤキなどの葉や、ピラカン
サの実などで彩りも豊富となる。


     





         
 池の先は幾分植え込みが少なくなるが、咲き残るケイトウがあり、さらに進むと南側に
は、ひこばえで黄緑色の田んぼが現れた。


 間もなく北からの下河原緑道と交差し、その緑道に入る。すぐ南側がゴールの郷土の森
公園だが、左カーブした緑道を少し先まで進んで入口が無いので折り返す。


 郷土の森博物館本館の北側を進み、ゴールの郷土の森公園の芝生広場には11時53分
に着いた。緑豊富な木々や、市民などの憩う広場を眺めながら昼食にする。



 食事を終えて、南側の修景池へ。大賀ハスなど何種ものハスが栽培されていて、池の西
側には「緑光燦舞」と呼ぶ変わった彫刻がある。



 道路の西側にある観光物産館に入り、地元産のハヤトウリを購入する。



 さらに北側、博物館前の広場で開催中の「第30回府中市農業まつり」会場にも回り、
「野菜でできた宝船」や農産物、飲食物などのテント、鉢植えの盆栽など眺める。









 12時50分過ぎ、昼食場所に戻って全員で記念撮影とミーティングをして、13時頃
散会となる。〈続く〉





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カタツムリ歩行同窓会で西武多摩川線多磨駅周辺を歩く(東京・府中市ほか)

2019-09-19 23:14:40 | カタツムリ歩行
 2019年9月15日(日)

 好天となり気温も30℃近くに上がりそうだが、カタツムリ歩行の第6回同窓会に参加
した。


 集合地は西武多摩川線の多磨駅。JR中央線武蔵境駅から乗り換えるこの西武多摩川線
に乗るのは初めかもしれない。


 今回の担当はNさんとKさんだが、Kさんは都合で不参加。地図をもらい、9時57分
に多磨駅をスタートした。

 線路沿いを北進して踏切際を左折し、人見(ひとみ)街道を西へ、

 多磨墓地が近いので通りには石材店などが並ぶ。


 近くの六差路を北西にすぐで、多磨霊園の正門を入る。


 右手の管理事務所で「東京都多磨霊園案内図」をもらう。表面は霊園の地図、裏面には
150人近い著名人の墓地の位置が示されていた。

 そばの円形建物は、平成5(1993)年に完成した新しい墓地形式の新納骨堂「みた
ま堂」。


 多磨霊園の開設は大正12(1923)年4月で、わが国最初の公園的風景を取り入れ
た大規模な墓地だとか。

 開設当初は約100万㎡だったが、昭和14(1939)年に西側に拡張して現在は約
128万㎡(約39万坪)あり、都立の8霊園の中で最も広く、霊園全体で墓地の面積は
50%以下に抑え、豊かな緑地を形成しているという。

 広大な霊園には、政治家、学者、芸術家など著名人の墓地があるようだが、今日はその
一部、東南側を回ってみることにする。

 北に真っ直ぐに伸びる幹線ともいえる園路を進んだつもりが、次の交差点で西北へ延び
た線と分かり、ロータリーを東へ。


 ロータリー近くの等身大の坐像は、教育者で東京女子大学長などを務めた新渡戸稲造
(にとべいなぞう)の墓地だった。
     


 東に進むと救世軍墓地があり、その先が3本の園路が南北に走る中央部最初の十字路。


 特種と呼ぶ西側最初には、第二次大戦開戦時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の山本
五十六(いそろく)の墓があった。
         


 その北に隣接して日露戦争時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の東郷平八郎墓がある。
         

          
 すぐ先、中央部ロータリーには8本柱の大きな塔が立ち、近くには純白のボタンヅルが
咲いていた。
         

 ロータリーの東北側に、第20代首相や蔵相を務めた高橋是清(これきよ)の墓地が。
         
  
 ロータリ北側には、大きなサルスベリがたくさんの花を見せている。



 北にすぐ、次の東西に長いロータリーの北東側に、霊園案内図にはないが福沢桃介(ふ
くざわももすけ)の墓がある。
         
 福沢桃介は明治から昭和初期の実業家。福澤諭吉の婿(むこ)養子となり主として電気
事業に関与し、木曽川などで水力開発を手がけている。私がこの人の名を知ったのは、中
山道ウオークで木曽川沿いを歩いて、ゆかりの発電所のそばを通過したことからだ。


 東側に隣接した開放的な芝生墓地の中央は石橋正二郎墓地。ブリヂストンタイヤの創業
者でプリンス自動車工業の育ての親でもあり、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大
な貢献をされている。
    

 ロータリーの北西側には、作家の有島武郎(ありしまたけお)夫妻が眠っていた。
         


 そして南西側は、枢密院(すうみついん)議長や第35代首相をされた平沼騏一郎(き
いちろう)墓地である。
         

 北に進んで次の交差点の先、西側には漫画家長谷川町子の眠る長谷川家墓地があった。
    


 その先、10区画北東端の十字路で右折して東に向かう。周辺にはりっぱな松などが並
び立ち、東への園路沿いにススキが穂を見せる。
    

 通りの中ほど北側に、陸軍大将山下奉文(やましたともゆき)墓が目に入る。
         
 太平洋戦争の初期、英領マレーとシンガポールを攻略し、「マレーの虎」の異名で知ら
れている。


 近くのロータリーを南下して次のロータリを東進し、11時に霊園の東門を出た。


 すぐ南側から東に延びる多磨町通りを進み、西武多摩川線の踏切を渡る。北側に永福寺
があるが寄らず、次の十字路を南への鶴川街道に入る。

 間もなく祭礼の準備中の三谷神社前だが、時間が無いのでここも通過した。


 多磨駅の北側から延びる通りに出て、近くの交差点から都立武蔵野の森公園の西北端に
入る。

 2004年の開園で面積は約34万7千㎡あり、調布飛行場を挟んで北地区と南地区に
分かれている。入った一帯は、桜などの植栽が伸び伸びと枝を広げる大芝生広場になって
いた。


 少し進むと南に滑走路が延びる調布飛行場が一望で、間もなく軽飛行機が北へと離陸し
た。



 滑走路の北端近くには修景池(しゅうけいいけ)があり、傍らに「この公園は災害時に
大規模救出・救助活動の拠点となる」ことなどが記されていた。

 池の北側、公園の北端に沿って玉石張(たまいしばり)の水路が残り、その沿革を記し
た掲示もある。



 池のそばに高さ数mの丘があり、上がると調布飛行場やその向こうにあるサッカー場・
味の素スタジアムなどが一望できる。






 味の素スタジアム、9月20日(金)に始まるラグビーワールドカップ初戦・日本-ロ
シア戦の会場である。


 車道を横断した東側も公園の一部で、そこに二つの掩体壕(えんたいごう)が残されて
いた。


 最初のは「掩体壕 大沢2号」で、そばの説明板によれば、掩体壕は軍用機を空襲から
守るための格納庫で、戦況が悪化した昭和19(1944)年頃から短期間に約60基が
造られ、この公園に2基と府中市内に2基が残っているという。

 この掩体壕には「飛燕(ひえん)」と呼ぶ戦闘機が格納されていたようだが、見た目に
は飛行機を格納するほどの大きさには見えない。


 南東側のもう一つの方にも回る。こちらは「掩体壕 大沢1号」で、やはり「飛燕」が
格納されていたようで、前面に飛燕のイラストが描かれ、そばに飛燕と掩体壕の模型彫刻
もあった。


 公園の北東端付近から出て、東側の水車通りを北進する。東側の野川(のがわ)右岸に
は水車小屋があるが、時間が無いのと以前訪ねているので省略とする。


 突き当たりを西にすぐで人見街道に合し、北側の龍源寺(りゅうげんじ)へ。本堂前の
大きなサルスベリが花盛り。

    
 本堂左手に比較的新しい双代道祖神があり、その横から本堂背後の墓地に回ると、東京
都指定文化財「近藤勇(こんどういさみ)の墓」や辞世碑があり、傍らに説明板が立って
いた。


         

    

 近くには長寿観音石像が、門前の人見街道際には「近藤勇と天然理心流」説明碑や近藤
勇の胸像などが並んでいた。
         

 人見街道を西にすぐ、変則五差路際に小さい祠(ほこら)と木製の鳥居の立つ近藤神社
の周辺が近藤勇生家跡。神社のそばに調布市史跡「近藤勇生家跡」の説明板が立っていた。
     
 それによれば、当時の屋敷は面積約7千㎡あり、建物は母屋のほか、蔵屋敷、文庫蔵、
乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋などがあり、周囲はケヤキ、カシなどの大木や竹林が茂っ
ていたという。

 その交差点際を北に入ると、野川を挟んで南北に広大な緑が広がる都立野川公園の正門
である。


 正門を入って左手の野川公園サービスセンターが今日のゴール、12時05分に着いた。
参加の皆さんのほとんどもあい前後して着く。


 センターの建物を北に抜け、蒸し暑くなった日差しを避けてクスノキなど大きな木の下
にシートを広げ、昼食にした。


 食事を済ませてしばらく休み、記念撮影とミーティングをして、近況報告や周知事項の
発表などあり、13時20分頃散会となる。




 皆さんは表門から帰路についたが、私は反対に野川公園を北に抜けることにする。

 家族連れやグループなど、たくさんの人が憩う広い芝生地と豊富な緑陰の間を進む。





 都道19号・東八(とうはち)道路の上を陸橋で渡り、北側の野川右岸近くに下ると、
野川公園自然観察センターがあったので立ち寄ってみた。

 国分寺崖線(がいせん)と野川があるこの場所ならではの自然の大切さを学ぶことので
きる施設で、野川公園の見どころ情報や、植物、野鳥、昆虫などについて、パネルや実物、
はく製などが展示されていた。


     

             

 自然観察センターを出て、そばの野川の櫻橋際へ。左岸沿いは、かなり以前毎年参加し
ていた東京スリーデーマーチで何度も歩いているのと、日陰が無さそうなので右岸沿いを
上流(西)に向かう。
     
 橋近くの川には、子どもたちが入って何か取ろうとしている。


 右岸沿いの豊富な緑陰下、ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら進んで三つほど橋際を
過ぎる。


 西武多摩川線の高架橋が近づいたところで左岸に回り、線路下を西に抜けて川を離れて
「二枚橋の坂」を上がる。


 東町五丁目から四丁目へと住宅街を北上して、14時30分にJR中央線の東小金井駅
に着いた。
     
 駅前では、「東小金井駅開業55周年祭」のステージイベントを開催していた。



 14時32分発大月行き下り電車で帰路につく。

(天気 晴、距離 7・6㎞(2・9+4・7㎞)、地図(2万5千分の1) 吉祥寺、
 歩行地 府中市、三鷹市、調布市、小金井市、歩数 13,700)





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カタツムリ歩行同窓会で王子駅周辺を歩く(東京・北区)〈後半〉

2019-05-23 22:18:45 | カタツムリ歩行
 2019年5月19日(日)〈続き〉

 カタツムリ歩行同窓会がゴールの名主の滝公園で解散後、帰路は、西南方向のJR埼京
線板橋駅に向かうことにして、13時28分に正門を出た。


 北側の急坂、三平坂を上がり王子本町二丁目の住宅地を南西へ。


 都道455号を王子本町歩道橋際で右折して西進し、都営王子本町三丁目アパートの東
側を下って石神井川の紅葉橋を渡る。
     
 橋の右岸上流際は以前訪ねた金剛寺で、門前に「源頼朝の布陣伝承地」の説明板がある。


 治承4(1180)年,頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、鎌倉を目指す途中この地に陣を
とったといわれているよう。当時の石神井川流域両岸は岩が切り立ち、松や楓があり深山
幽谷の趣をもっていたという。

 寺伝によれば、弘法大師空海がこの地を遊歴し不動明王像を彫り、これが本尊になって
いるとのこと。江戸時代は紅葉の名所として知られ、「紅葉寺」の別称でも知られている
よう。


 山門を入ると、本堂周辺はモミジなどが新緑の彩りを。



 右手には弁天堂が祭られ、その横に地蔵菩薩や七福神が並んでいた。


     



 南下して都営滝野川三丁目アパートの東南端を西へ少しで、新緑の森が残っていた。四
本木(しほんぎ)稲荷神社の森である。
     
 拝殿に参拝しようとしたら、境内を清掃中の男性が居られたので声をかけたところ、こ
の神社のことをいろいろと教えてくれた。


 神社周辺の広い一帯は、戦時中は陸軍の火薬工場地だったので地元民も入れず、戦後も
昭和26(1951)年まで同様で、境内地は現在も国有地だという。


 境内にある手水鉢と忠魂碑の裏面を見るように言う。手水鉢には「明治四拾参年四月 
銃包火具職工一同」と、りっぱな忠魂碑には「大正六年四月 火具製造所一同」との奉納
者の名がある。
     

 この神社は当時、火薬工場での作業中に火薬などの爆発で犠牲になった人たちの霊を祭
る神社だったとも教えてくれた。 こちらの小さい社殿が古い本殿だという。
     

 帰宅後、ネットでこの辺りの古い地形図を調べたら、1896~1924年の地形図に
は「雷汞所」、1927~39年には「火工場」と記されていた。

 また、別のネット情報では『滝野川地区にもかつて日本陸軍の火薬製造廠があり、東京
第一陸軍造兵廠滝野川工場、別名滝野川雷汞所〈らいこうしょ〉です。

 雷汞とは、水銀を硝酸で溶解しエチルアルコールを加えて反応させたもので、わずかな
加熱や衝撃で激しく爆発する起爆薬。雷汞を詰めたのが雷管で、ここは砲弾等の雷管を製
造する場所だったようです』などと記されていた。


 わずかな鎮守の森に、このような戦争の歴史が隠されていたとは…。貴重な巡り会いで
あった。

    
 鎮守の森の西南側には鎮魂のためか、たくさんの花が咲いていた。
         

    

         

 住宅地の中を南西へ、滝野川三丁目には八幡神社がある。
     
 八幡神社は滝野川村の鎮守で、創建は建仁2(1202)年ともいわれるが詳細は不明
とか。社殿裏手からは縄文後期の住居跡が発見されており、神仏分離以前は先ほどと訪ね
た石神井川畔の金剛寺が別当寺だったという。

 境内にある御神木のムクノキやケヤキなどは、北区の保護樹木に指定されている。

 神社の前を西進して、地下を都営地下鉄三田線が、上を首都高池袋線の高架が走る国道
17号線に出た。
     
 わずかなスペースに稲荷神社が祭られ、近くの滝野川6交差点で国道を横断する。


     
 南東に延びる「きつね塚通り」商店街などを進み、JR埼京線の板橋駅の東口広場に出
た。



 広場の東側に「近藤勇墓所」の標識があるのに気づく。駅前広場は10数年前の中山道
ウオークで休憩したことがあるが、この墓所は知らなかった。

 墓所には、新選組組長近藤勇と副長土方歳三の名の記された大きな墓碑、新選組長倉新
八墓碑のほか、近藤勇の立像、近藤勇埋葬当初の墓石、それに3人の肖像画などがある。
        

    

         

         



 説明板によれば「慶応4(1868)年4月25日、近藤勇は中山道板橋宿手前の平尾
一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られたが胴体は
この場所に埋葬された。大きな墓碑の側面には合計百四十名の隊士の名なども記されてい
る」ことなどが記され、近藤勇と新選組隊士供養塔は北区の有形文化財に指定されていた。


 駅間広場を横断して、JR埼京線板橋駅東口には15時03分に着いた。


(天気 晴 距離 7㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 北区、歩数 15,300)





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カタツム歩行同窓会で王子駅周辺を歩く(東京・北区)〈前半〉

2019-05-22 22:24:03 | カタツムリ歩行
 2019年5月19日(日)

 カタツムリ歩行の第5回同窓会に参加した。集合はJR京浜東北線の王子駅南口。今回
の担当のKさんに地図をもらい9時57分に駅を出た。



 西側線路沿いを少しで、歩道橋でJR東北本線の線路を越える。さらに階段を上がった
段丘上は、新緑あふれる飛鳥山(あすかやま)公園である。

 中央部辺りから入ると、桜などの豊富な新緑がみずみずしい。上がってすぐの所に、青
銅の聖観世音菩薩像が立っていた。
         

 東側の園路を北に進む。屋根がけの大きな石碑があった。「象山先生桜賦(さくらふ)」
碑のようだが、碑文は霞んでいて判読できない。

 桜賦は、信濃国松代藩士の佐久間象山(さくましょうざん)が、門弟吉田松陰の密出国
に連座し松代(まつしろ)に蟄居(ちっきょ)中の万延元(1860)年に作られたとい
われ、明治14(1881)年に門弟の勝海舟らにより建立されたという。


 公園の北端からは北側の展望が広がり、そばの花壇はパンジーの花盛り。


 近くに石積みの塔があり、標高25.4mと記され、その前に公共基準点もある。
         


 折り返し西側の園路を南へ。桜並木を中ほどまで戻ると「明治維新百年植樹記念碑」が
立っていた。

         
 その先には「そのかみの 山をおほひし 花ふぶき まぼろしにして あがる噴水 
赤鳥」と刻まれた水上赤鳥歌碑もある。すぐ下に和風の時計塔が目につく。
     

 近くには、「飛鳥山の歴史」碑と都指定有形文化財「飛鳥山碑」があった。「飛鳥山碑」
には、豊島氏が王子権現を勧請したこと、王子、飛鳥山、音無川の地名の由来、8代将軍
吉宗と飛鳥山との関わりなどが記されているという↓。



 公園の中央部やや南寄り一帯は児童エリアで、滑り台などの遊具が設けられ、その二隅
に都電6080号車輌とSLD51853号機関車が静態保存されていた。


 都電は公園横の荒川線も走っていて、戦後初めての新造車で昭和24(1949)年の
製造。昭和46(1971)年3月まで荒川車庫に配属されていたという。


 D51型SLは昭和18(1943)年の製造、吹田、姫路、酒田などの機関区に配属
され、月へ約2.5往復の194万2千㎞余りを走行したようだ。


 公園の南西側に紙の博物館↑、区立飛鳥山資料館、渋沢史料館が並ぶが入館は省き、渋
沢史料館の南東側、旧渋沢庭園に入る。

 この一角は、次の1万円札の顔となる渋沢栄一が明治12(1879)年から亡くなる
昭和6(1931)年まで、初めは別荘、後には本邸として住んだ「曖依村荘(あいいそ
んそう)」跡とのこと。
     
 敷地は約2万8千㎡あり、日本館と西洋館を結ぶ母屋のほか、いろいろな建物が建って
いたとか。現在は大正期の小建築「晩香廬(ばんこうろ)」と「青渕文庫(せいえんぶん
こ)」のみが保存され、国指定重要文化財になっている。

 晩香廬と青縁文庫は有料(300円)だが旧渋沢庭園は無料。桜など新緑あふれる庭園
を一巡し、石灯ろうや茶席「無心庵」跡、兜稲荷社跡などを回り、青渕文庫↓も眺めた。


        
 渋沢史料館近くに「平和の女神像」が立っていた。日中国交正常化を記念し、人類の理
想である平和と幸福を願い1974年に建立したもの。
         
 作者は長崎の「平和祈念像」の作者、北村西望(きたむらせいぼう)という。


 渋沢史料館↑の先から飛鳥山公園を出た。駐車場の先で折り返すように北東への細道を
進み、日蓮宗祈祷所の妙見寺へ。境内は狭いので山門から眺めるに留める。


 少し戻り、さらに細道を東に抜けて、七社(ななしゃ)神社に入る。

 江戸時代には、南東に1㎞ほどの現在の古河(ふるかわ)庭園内の無量寺境内に祭られ
ていたことが「江戸名所図会(ずえ)」に描かれていたとか。

 神仏分離により明治2(1869)年に当地に遷座され、西ヶ原村の総鎮守になったと
いう。

 古くから子宝・子孫繁栄の神徳があるようで、境内中央部の願掛け公孫樹(いちょう)
と呼ぶ大イチョウの回りには、たくさんの絵馬が奉納され、中には八重桜絵馬もあった。
    
 本殿前に咲く八重桜を描いたものだが、その八重桜の品種は御衣黄(ぎょいこう)で、
4月中旬頃開花するという。

 丸い絵馬には犬の親子が描かれていたが、どうやら拝殿前の狛犬を模したもののよう。
         

 7月21日には「一心泣き相撲」と呼ぶ催しも開催されるようで、なかなか興味深い神
社だった。
     


 正面の石鳥居を出て、都道455号に合するところに一の鳥居が立ち、都道の両側には
立派な一里塚が残り、ケヤキやクスノキなどの大木が目に入る。

 「西ヶ原一里塚」で、慶長9(1604)年に幕府が日本橋を起点として道程の目安と
して築いたもののひとつ。日光御成(にっこうおなり)街道では本郷追分に次ぐ2番目の
一里塚で、国指定史跡である。


 旧道を挟んで一対の塚が現存しているが、大正時代には東京市電の軌道延長路線上にあ
るため撤去されそうになったが、渋沢栄一や東京市長、滝野川町長などの運動で保存に成
功したようで、都内の一里塚で旧位置に残る貴重な文化財だという。



 都道を飛鳥山公園の中央部付近まで戻って西に延びる細道に入り、都電荒川線の飛鳥山
駅南側の踏切を横断する。


 すぐ先に小さな地蔵堂があり、「江戸三大身代(みがわり)地蔵尊」の標石が立ってい
た。
         

 左手には本智院・滝野川不動尊の立派な標石があるが境内はわずかで、小さいお堂に不
動尊らしい石像が祭られていた。


 首都高中央環状線・国道122号の広い道路を横断して滝野川二丁目へ。

 住宅街なので、速度を抑えるためにしたらしい緩やかなカーブ道沿いに、国重要文化財
「旧醸造試験所第一工場(赤煉瓦酒造工場)」が残ったいた。


 隣に醸造試験所跡地公園があるが、工場には柵があり近づけない。


 その道の途中から左折、右折して、石神井川(しゃくじいがわ)右岸を背にした正受院
(しょうじゅいん)へ。参道の途中に「不動の滝跡」の説明板がある。

 不動の滝は、正受院本堂裏の谷から下った石神井川の岸にあったとか。室町時代に大和
国の学仙坊(がくせんぼう)という修行僧がこの地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創し、
その秋に石神井川の増水後、川から不動像をすくい上げて滝のそばに安置したことから、
「不動の滝」と名付けられたという。

 中門を入った辺りに咲いていた花。



 境内は、豊富な新緑にあふれている。本堂前に立つ大イチョウの下に、石造の近藤守重
(もりしげ)坐像がある。
         
 守重は通称重蔵(じゅうぞう)で、寛政10(1798)年、幕府から蝦夷地の調査を
命ぜられ、高田屋嘉兵衛の協力を受け、この石像のような甲冑に身を固めてエトロフ島に
渡り、現地の開拓に尽力した人。

 文政5(1822)年から4年間、正受院の東隣に滝野川文庫という書斎を設けて住ん
だという。近藤重蔵の名は知っていたが、ここがゆかりの地であったとは知らなかった。

 本堂左手に慈眼堂が、その横には「赤ちゃんの供養塔」という地蔵大菩薩立像があり、
それらの前は赤ちゃん供養のための花束がたくさん奉納されていた。


 境内に咲くカルミヤ



 山門を出て東側から石神井川右岸沿いの遊歩道に回り、上流に向かう。川沿いはソメイ
ヨシノの並木が続いている。
     


 「音無さくら緑地」↑際まで進んで松橋を渡る。橋には松のデザインが施されていた。
    

 橋の北側、王子本町二丁目には、昭和時代らしい民家が目に入る。


 都道455号を横断して、王子二小横から急坂の「王子稲荷の坂」を下って行くと、そ
の王子稲荷神社が祭られていた。



 この境内も緑陰豊富で、拝殿はきらびやかな装飾や彫刻が施されている。


 急石段を東に下り、正面の山門を出た。



 北側近くにある金輪寺前を通過し、12時02分にゴールの名主の滝(なぬしのたき)
公園の東側の薬医門を入る。

 名主の滝公園は、安政年間(1854~60)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開
いたのが始まりで、名前の由来もここから来ているよう。

 庭園として整備されたのは明治の中頃、昭和13(1938)には精養軒が買収し、食
堂やプールなどが作られ公開され続けたが、昭和20年4月の空襲で焼失し、東京都によ
り再公開されたのは昭和35(1960)年という。

 王子周辺にはかつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝があったが、「名主の滝」だけが
現存する唯一の滝。落差8mで都内有数の男滝(おだき)など4つの滝があるが、現在は
男滝のみ10時~16時の間のみ流れ落ちているよう。

 園内にはケヤキ・エノキ・シイ、ヤマモミジなどが植えられ、斜面を巧みに利用して自
然の風景を取り入れた回遊式庭園になっている。

 名主の滝の名は知っていたが来たのは初めて。東京二十三区内とは思えぬ緑いっぱいの
公園だった。

 薬医門のそばに中の島のある池があり、対岸にキショウブが咲く。

 キショウブの横を経て、流れ沿いのうっそうとした樹林内を上がり下りして巡ったが、
なかなか皆さんの昼食地が見つからない。


 薬医門とは離れた、管理事務所やトイレのある公園の北端寄り、正門近くのベンチに着
いたのは12時18分だった。近くに、垂直の斜面から流れ落ちる男滝が望まれた。
     


 昼食後、記念撮影とゆっくりのミーティングをして、散会となる。(続く)





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カタツムリ歩行同窓会で大宮公園駅周辺を歩く(埼玉・さいたま市)

2019-03-19 14:33:17 | カタツムリ歩行
 2019年3月17日(日)

 カタツムリ歩行の第4回同窓会に参加した。

 集合は東武アーバンパークライン大宮公園駅。今回は私の担当なので用意した地図を皆
さんに配り、10時15分にスタートした。

 南側のY字路を西へ、大きなマンションの南側、小さな祠(ほこら)に「寛政12
(1800)年5月」と刻まれた2基のお地蔵さんが祭られていた。
          

 近くの住宅の赤紫色のモクレンがかなり開花している。
     


 大宮公園の北端近くに入り、弓道場と県立歴史と民俗の博物館の間を進んで舟遊池の北
西端に下り、池の北岸沿いを進む。


 池際の広葉樹の芽吹きが始まり、池にはカルガモやバンが泳ぐ。対岸の松林など眺めな
がら東北端まで進んで池を離れる。


 東北に緩やかに上がり、大宮北中の南端で右折して大宮競輪場の北側を東南へ進み、交
通量の多い県道35号・産業道路に出た。少し南下すると東側の庭に、カワヅザクラだろ
うかピンクの桜が葉を見せながら咲く。



 跨道橋の先を左折して遊歩道を大宮第二公園に向かう。橋際に大きなサンシュユが2本
あり、何れも花盛り。
    
  
     

 近くの民家では花弁の小さな桜の小木が満開に。


     
 見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)の橋際に水車小屋があり、上部からの
水で回転していた。


 大宮第二公園に入り、左側の駐車場に設けられた長いテントの東端に回る。テントの中
は「全国大陶器市」を開催中。

 今日が最終日とあり、たくさんの人で賑わう。だが正午のゴールまでの時間が少なくな
ったので入場は省く。

     
 北側が「第35回梅まつり」会場の梅林だが、今日は最終日なのでほとんどの梅は見頃
を過ぎ、わずかな花しか見られない。
     

         
 梅林の西端にあった、古今和歌集の梅の歌碑近くのしだれ梅のみが、かなりの花を見せ
ていた。
       

             

 梅林を西に抜けて見沼代用水西縁の橋を渡り、寿能町二丁目の住宅地を北西に抜ける。
産業道路を少し北進し、菱屋会館と呼ぶ展覧会場の建物際↓で産業道路を離れた。


     
 西側の寿能町一丁目を北西へ、ピンクの梅の咲き出した民家の前や大宮北中の塀沿いに
進み、大宮公園駅西側の踏切を渡る。
         

         
 大宮盆栽村に入り、庭先にミツバツツジ咲く民家の横を進み、ゴールの「盆栽四季の家」
に12時ちょうどに到着した。



 入口の門の横には、ピンクのアセビが花をいっぱいに開いて迎えてくれた。
    

 道路際には、この周辺の盆栽村についての説明パネルがある。
 

 建物は、18世紀初めに建てられた、氷川神社宮司の東角井光臣(ひがしつのいみつお
み)家の居宅の一部を移築復元したもの。

 昼食をした休憩室(無料)のほか、茶道、華道、句会などに利用できる和室2間(有料)
もある。
     

     

         
 庭先からは、東側近くの住宅に咲く大きなハクモクレンの花が見える。西側の民家には、
ヒカンザクラの若木が開花していた。
    


 食事を終えて記念撮影後、今年度の同窓会をどうするか話し合い、昨年同様4回開催す
ることにした。次回は5月19日(日)とし、以下、9月15日(日)、11月17日
(日)、2020年3月15日(日)の3回の日にちと担当も決める。13時15分に散
会した。

(参加 13人、天気 晴、距離 3.5㎞、地図 「さいたま市北区ガイドマップ」 
 歩行地 さいたま市大宮区、北区、歩数 6,700)



 散会後は、盆栽四季の家周辺の盆栽園の一部と、大宮盆栽美術館を巡ることにした。

 まずは、すぐ北側突き当たりの蔓青園(まんせいえん)へ。塀の外の道路際に、5鉢ほ
ど見事な松の盆栽が並ぶ。


 園内にもたくさんの松の盆栽と幾つかのモミジの盆栽があったが、園内は撮影禁止。

 東にすぐ、右手斜面上には盆栽緑地公園がある。奥の方に木製の遊具が少しあるだけで、
アカマツなど樹木の茂る自然公園である。
     

 住宅地の間を西北西に進み、広い通りに出て右手の「さいたま市大宮盆栽美術館」へ
(一般300円、65歳以上150円)。Kさんグループ4人が先着していたので、その
後に続いて入館する。

 当美術館は、盆栽文化の調査、研究を行うと共に、盆栽を広く世界に発信する拠点で、
世界初めての公立盆栽美術展という。

    
 入口を入った正面ロビーには、季節の一鉢として、寒桜(かんざくら)(推定樹齢85
年)が展示されている。

 最初に展示室で盆栽文化の重要な要素の盆器、水石、絵画、歴史、民俗資料の展示や盆
栽に関する解説パネル、座敷飾りなどを見る(撮影禁止)。

 その先から中央部の盆栽庭園に出ると、最初のコーナーは撮影可なので順次撮ってみた。
その幾つかを紹介する。

    
     五葉松(ごようまつ)(推定樹齢 120年)
 
    
     花梨(かりん)(推定樹齢 100年)



    
     山もみじ「紅陵(こうりょう)」(推定樹齢 120年)

    
     真柏(しんぱく)「寿雲(じゅうん)」(推定樹齢 800年)

 左 蝦夷松「轟」(推定樹齢 1,000年)

                    右 五葉松「平安」(推定樹齢 380年)






 中央部の盆栽は、少し高みの東屋(あずまや)周辺から俯瞰(ふかん)撮影のみ可能。





 さらに受付のある建物の2階に上がり、上からも眺める。40分ほど観覧して盆栽美術
館を出た。


     
 南側の盆栽村(盆栽町)に戻り、「しで通り」を西へ、通りの中ほどに立つマンサクが
花盛り。
         

 近くの民家の門前でボケが咲き競う。


 西側の桜並木の「かえで通り」を南へ、角にある藤樹園も、松の盆栽が多かった(撮影
禁止)。

 次の十字路際の小公園のようなところに植竹稲荷神社の鳥居があり、境内の大きな「清
水瀞庵翁紀功碑」が目についた。
         
 清水翁は明治7(1874)年東京・千駄木の生まれ。大正14(1925)年に3人
の人と協力してこの地に移り住み、盆栽村の今を実現した功績を称え、10年後の昭和10
年に碑を建てたという。


 南側は「さいたま市立漫画会館」で、日本近代漫画の創始者・北沢楽天の旧宅を改造し
たもの。



 以前に2度ほど来ているので少しだけ館内を巡り、楽天の漫画や収蔵品展「小川 武 原
画展」などを見た(入館無料)。



 大宮公園駅横を通過して、朝最初に向かった大宮公園の弓道場と県立歴史と民俗の博物
館の間の通りへ。弓道場では、埼玉県弓道連盟の催しが開催されていた。


 舟遊池の北端から西側の車道を南進し、護国神社に参拝する。


    
 境内左手には、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を壊滅した際に用いられた径24㎝、
全長約90㎝の砲弾が奉納され、その横には新しい「出征兵士之像」が立っていた。
         


 あと半月前後で見頃になりそうな、桜の立ち並ぶ大宮公園の樹林を見ながら西側の住宅
地に入り、東武アーバンパークラインの隣駅・北大宮駅に15時ちょうどに着いた。


(午前からの累積距離 6㎞、累積歩数 12,500)





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カタツムリ歩行同窓会で新鎌ヶ谷駅周辺を歩く(千葉)

2018-11-28 17:45:35 | カタツムリ歩行
 2018年11月18日(日)

 昨年末で終了した「カタツムリ歩行」の第3回同窓会に参加した。集合は東武アーバン
パークラインの新鎌ケ谷駅。北総鉄道と新京成電鉄の新鎌ケ谷駅とも立体交差している。

 今回担当のIさんから地図をもらい、9時52分に駅を出た。


 東口をすぐ、道路上に「東経140度線」と記された線があり、そばに円形の説明パネ
ルもある。
     


 それによれば、東経140度線は鎌ケ谷市の真ん中を走り、国内では宇都宮、会津若松、
八郎潟など、北はロシア、南はミクロネシアやパラオ、インドネシア、オーストラリアを
通っているという。

    
  
 すぐ先の通りを南へ、高架化工事中の北総鉄道と新京成電鉄の下を南に抜け、次の交差
点を左折して鎌ケ谷市役所の北側を東進する。



 国道464号と右カーブしてきた新京成線を再度横断して、中央一丁目から二丁目へと
住宅街を進む。あちこちの民家でミカンが色づいている。



 南初富一丁目でコミュニティバスの走る通りに入ると、ナシ畑が現れた。葉は残るが実
はすでに無い。ナシ畑の片隅にもミカンが何本か実をつけていた。



 東初富一丁目からは、畑の向こうに平地林が望まれる。バス通りの標識に従い細道を南
に入り、珍しい名の鴻徳(こうとく)神社へ。



 昭和57(1982)年10月に鎮座した新しい神社で、鎮守の森は無く明るい境内。
祭神は食物の神、御饌津大神(みけつおおかみ)を祭るとか。社殿横に独特の形の絵馬が
たくさん奉納されていた。


 社務所では書道教室や学習教室を併設していて、近在の方々の教育にも貢献しているよ
うだ。

 その先、瓢箪(ひょうたん)集落でバス道路を離れて南東に進み、広い車道に突き当た
って北東へ、近くにあるはずの神社を探すが見当たらない。


 道路の東側は、4面の野球グランドがある白井市の「冨士南園広場」で、各グランドで
少年野球チームが練習をしていた。


 グランド北端近くの交差点を左折してバス通りに戻り、少し先で北西に延びる旧道へ。
ナシ畑の間を進んで右左折をくり返し、「里山友の会」が管理する竹林沿いを進む。


 広い通りに出ると、西側に「福太郎アリーナ」と呼ぶ鎌ケ谷市立体育館が望まれる。


 北進して、東西に走る国道464号の東行、西行斜線が分離し、その間を走る北総鉄道
がトンネルになるところを横断する。


 さらに進んで落山集落にある八幡神社の森に入る。由緒などは記されてないが、境内南
側にたくさんの青面金剛と庚申塔、そして少しの二十三夜塔が並んでいる。

 その中の年号を見ると、文化14(1817)年、宝暦8(1758)年、享保11
(1726)年などが確認できた。


 右手の小さいほこらには、「女人講中」と刻まれ子供を抱いた石像が祭られていた。

 境内を西に出ると、南北に滑走路の走る「海上自衛隊下総航空基地」の東側で、基地は
ぐるりと厳重な金網で囲まれていた。
     


 基地を眺めながら基地沿いを南から西へと回り、滑走路などを遠望する。


 基地の南西端で折り返して南へ、国道464号の2本の車道を、信号が無いが車の途切
れを待って横断し、ゴールの市制記念公園へ北口から入る。


 野球場の西側を回り、先着の皆さんの待つベンチ付近に12時3分に着いた。晴天の昨
日は暖かだったが、今日は雲が多くて木陰の多いベンチ周辺はうす寒い。


 公園の西側は低地になっていて、大雨の時の調整池のよう。現在はアシが生い茂り水面
は見えない。間もなくほかの皆さんも相次いで到着した。


 昼食を終えた頃、野球場では「鎌ヶ谷警察署長杯少年野球大会」の開会式の行進が始ま
った。


 私たちも記念撮影とミーティングをして、13時20分頃散会した。

 

 帰路は、午前中回れなかった北西側を巡ってみることにした。市制記念公園の北口を出
て、2本の国道464号の北に広がる粟野(あわの)地区公園(粟野の森)の西端近くの
林間を北に向かう。
    

 この公園は、粟野地区の人たちが営々と守り続けてきた鎌ケ谷市内に残る最大の森のよ
うで、樹林地は約5.1㏊、途中に約500mの観察路もある。
     

         
 北西端まで進んで車道に出た。粟野集落を南西に少し、北西への細道を入ると林の中に
「三十番神」と呼ぶ小さなほこらが祭られていた。
     
 そばにケヤキの大木が3本あり、周辺は竹の侵食が進んできている。

 県道8号に出て南進し、次の粟野十字路交差点を右折して南西へ。この周辺にはナシ畑
が多く、沿道の民家ではナシの直売もしており、「梨御殿」ともいえるような立派な民家
が並んでいる。




     
 東武アーバンパークラインの踏切を越えたすぐ先に、八坂神社がある。



 境内はケヤキの高木などが鎮守の森をつくり、その下にたくさんの庚申塔が並んでいた。

 ここ粟野は民俗的行事が多く残っていて地域の結びつきが強く、その中でも庚申講は江
戸時代から継承されているとのこと。

 その庚申講により、江戸前期の元禄12(1699)年から340年間も途切れること
無く庚申塔が建てられ、特に文化12(1815)年から現在までは、5年おきに1基と
いう規則性を守って建てられているという。

     
 道路を隔てた北側の民家には、たくさんの柿が実る。すぐ先の畑からは、新鎌ヶ谷駅周
辺の中層マンションなどが望まれる。



 つぎのY字路を右へ、ススキ咲く小さい流れの先に豊作稲荷神社があった。

 明治2(1869)年、明治新政府が幕府の馬の牧場だった広大な下総牧(しもうさま
き)を廃止し、江戸の職を失った人々救済対策として開墾事業を実施したが、この開墾を
政府と共に担った豪商、湯浅七左衛門が、開墾地初富の農作物の豊作を祈り、京都の伏見
稲荷を勧請して明治6年に建立したのだという。


 少し戻り、ナシ御殿やナシ畑の多い初富(はつとみ)集落を南西へ。柿実る民家やキク
の咲き競う畑もある。






 早くもクリスマスの飾り付けをした初与園というナシ直売所の角を曲がり、北初富駅方
向に向かう。


 北初富近くまで進んで光円寺へ。本堂は大きく、右手前には小さいが精巧な五重塔があ
る。


     

         
 境内の植栽はよく手入れされ、純白のサザンカが咲く。
    

 左手には「土地記念講碑」が立っていた。

 明治政府の殖産事業の一環である初富開墾は、入植者のほとんどが農業未経験者だった
のと、耕地が火山灰地なので非常に困難なものだったよう。

 その開拓者の子孫が祖先の生活を忘れないようにと、大正から昭和にかけて記念講を結
成し、芋がゆをすすって祖先をしのび、共に励まし合い、豊かな農地への発展を成し遂げ、
開墾50年を記念して大正7(1918)年に建立したという。


 高架化工事中の新京成線の新初富駅に15時11分に着き、3分後の上り電車で松戸駅
に向かう。

(天気 晴一時曇、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 白井、松戸、歩行地 鎌ケ谷市、
 白井市(少し)、歩数 20,400)  





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カタツムリ歩行同窓会散会後、三宝寺池の周辺を歩く(東京・練馬)

2018-09-25 11:03:44 | カタツムリ歩行
 2018年9月16日(日) 午後

 カタツムリ歩行同好会の散会後は、南側の「区立池渕(いけぶち)史跡公園」と「石神
井公園ふるさと文化館」に入り、さらに西側の二つの寺や三宝寺池(さんぽうじいけ)な
どを回り、石神井公園駅に向かうことにした。

 池渕史跡公園は、練馬区の登録史跡「池渕遺跡」を埋め戻して整備したもの。遺跡では
旧石器時代の石器ブロックや縄文・弥生時代の竪穴住居跡、炉跡などが発見され、旧石器
から縄文、弥生、古墳、中世にいたる複合遺跡であることが分かったとか。

 園内で目につくのは、移築復元されたかやぶき屋根で区の指定文化財の「旧内田家住宅」。

 旧内田家は練馬区中村にあった民家で、明治20年代(1887~)初めの建築と推定
され、一部には江戸時代の古材も使われているという。





 園路沿いには、縄文時代の竪穴住居跡↑、区内にあった庚申塔や馬頭観音、力石(ちか
らいし)など江戸時代の石造物が配置されていた。
     
      庚申塔(元禄16(1703)年)

              
         馬頭観音(享和3(1803)年)と庚申塔(享保5(1720)年)          

 階段を下り、隣接する区立「石神井公園ふるさと文化館」に入る。

 練馬区の歴史や伝統文化、自然などを体験しながら学ぶことができ、観光情報も得られ
る博物館である。


 最初に常設展示室に入り、古代の出土品から現代に至る区内の歴史的な資料や産業など
の展示を一巡して観覧した。










    
     東映動画スタジオの第1号カメラ

 その後、2階の企画展示室で、開催中の特別展「鳥瞰図ー空から見る大正昭和の旅ー」
を見る(一般 300円、高・大学生 200円、65~74歳 150円、中学生以下
と75歳以上 無料)。


 会場では、吉田初三郎や金子常光など大正から昭和期の代表的作家の、おなじみの作品、
約120点が展示されていた。

 ここは撮影禁止なので、リーフレット掲載の鳥瞰図の一部を紹介する。









 14時25分頃、ふるさと文化館を出た。

 西側の都道444号・井草道を南進し、区立図書館そばの交差点を右折して所沢道に入
り、すぐ先の道場寺(どうじょうじ)へ。

 道場寺は曹洞宗の寺で、文中元(1372)年に当時の石神井城主・豊島景村の養子輝
時が建立し、豊島氏の菩提寺としたようだ。

     
 クロマツやモミジなど豊富な緑陰を見せ、山門を入ると左手樹間に三重塔が望まれる。


 その先右手には鐘楼があり、正面の奈良・唐招提寺を模した大本堂前にたくさんの白ハ
ギが花開く。




 西側すぐ先には、やはり豊富な樹木に覆われて広い境内の三宝寺がある。手前にある長
屋門は、勝海舟の屋敷門を移築したという。



 御成門を入ると右手に鐘楼が、左手に大黒天堂があり、そばに「ねりまの名木」のサル
スベリとアカマツが目に入る。




     

                      
   
 入母屋総欅造り(いちもやそうけやきづくり)銅板葺きの本堂は、大正3(1914)
年の再建計画以来、関東大震災や太平洋戦争などによるたびたびの中断を経て、昭和28
(1953)年に再建されたとか。


        
 本堂前に白いヒガンバナがたくさん咲き出した。
            

     
 西側の大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、天明元(1781)年の建立。大正
12(1923)年の関東大震災で倒壊後、御成門近くから現在地に移築したという。

     
 その西側には大きな根本大塔が立ち、背後の樹間には四国八十八ヶ所お砂踏霊場が設け
られていて、最奥には奥の院の大師堂がある。


 大師堂


     
 境内を一巡後、御成門を出て少し戻り、道場寺の三重塔横の細道を北に下り、三宝寺池
の東端付近に出た。

 三宝寺池は、石神井川有数の水源地。豊富な湧水のもとに氷河期から生息してきた湿性
植物群が、昭和10(1935)年に「三宝寺池沼沢(しょうたく)植物群落」として国
の天然記念物に指定されている。

 しかし戦後、周辺地域の急速な都市化で湧水が減り、湿性植物の種類や数が激減したの
で、東京都は平成5(1993)年から水質改善や希少植物の保護増殖に取り組んでいる
という。

 南岸沿いの周遊路を西に進むと、「石神井城址」碑と「石神井城跡」の説明板がある。
    
 石神井城は、中世武士の豊島氏の居城の一つ。築城は鎌倉末期と考えられ、文明9
(1477)年に太田道灌に攻められて落城し、廃城になったとか。

 城は、三宝寺池の谷と石神井川の低地に挟まれた台地に築かれ、全体で約9㏊の規模だ
ったと推定されているらしい。一帯ははうっそうとした木立に覆われ、周遊路があるが今
日は巡るのは省いた。


 池を見ながら南岸沿いの遊歩道をを進むと、中の島に2羽のアオサギがじっと立つ。




     

 さらに進んで、池の西南端近くの弁天島に祭られた厳島神社に参拝する。


     
 厳島神社などを眺めながら西岸を北西端まで進む。



 紅白のヒガンバナ咲く林間を上がり、北側の「練馬区立石神井松の風文化公園」に南西
門から入った。旧日本銀行石神井グランドを練馬区が取得して、4年前に開園したもの。

 園内には花と木立の広場、芝生の広がる多目的広場、松林の広場や、庭球場と管理棟な
どがある。

     
 花と木立の広場の西北端には、気象庁の「アメダス練馬観測所」の設備があり、気温、
風向、風速、降水量と日照時間を観測している。
  


 多目的広場の南側を進んで管理棟に入る。


 中に、先ほど観覧したふるさと文化館の分室があり、練馬区ゆかりの「絵本作家・さと
うわきこ展」を開催中。
     

 ほかに常設の「練馬区ゆかりの文化人」展示室、五味康介ゆかりの資料室、檀一雄の部
屋などがあり、ひととおり回って観覧した(撮影禁止)。

 庭球場横の正門から公園を出て、北側を真っ直ぐ走る都道8号・富士街道を石神井公園
駅の方向へ。

 この通りの駅近くには、私が半世紀以上も前に5年余り勤めた最初の職場があったのだ
が、通るのは何10年ぶりだろうか。当時とは全く様変わりした沿道である。

 その頃、今日のスタート地の練馬高野台駅などは無く、駅周辺や午前中に歩いた南田中
団地など、石神井川沿いは田んぼだった。

 西武池袋線も確か4両編成くらいで、石神井公園駅発上り電車の発車時刻は、毎時 0,
15,30,45分発の4本だけだったことを覚えている。

 職場では窓口に来る来客応対もしていて、わずかな収入の中で釣り銭がなくなると、通
りを挟んで北側にあったお茶屋さんでよく両替をしてもらったので、残っているかと探し
ながら進む。職場のあったところは、どうやらマンションになっている場所のよう。

 その前に、建物はビルに変わったが「創業明治40年」の茶店があり、今日は閉店して
いたが店名から間違いなさそう。当時を思い出し、懐かしく通過した。


 そばの練馬区役所石神井支所前には、「ロバと少年」像と「環境都市練馬区宣言」パネ
ルがあった。


 ゴールの、西武池袋線石神井公園駅には16時5分に入り、下り電車で帰途につく。

【午前午後通算】(天気 曇後晴、距離 8.4㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、
 歩行地 練馬区、歩数 18,400)





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カタツムリ歩行同窓会で石神井公園周辺を歩く(東京・練馬)

2018-09-21 17:16:06 | カタツムリ歩行
 2018年9月16日(日)

 4月15日(日)以来半年ぶりの、カタツムリ歩行の第2回同窓会に参加した。集合は
西武池袋線の練馬高野台(ねりまたかのだい)駅。今回の担当のZさんから地図をもらい、
9時55分にスタートした。


 北口広場にある花屋さんの前には鉢植えのきれいな花が並ぶ。


 西側を南北に走る都道443号・笹目通りを北に少し、長い参道を進んで東門から長命
寺(ちょうめいじ)へ。


 長命寺は、慶長18(1613)年に小田原北条氏の一族、増島重明が弘法大師像を祭
ったのが始まり。甥(おい)の増島重俊が紀州高野山の構えにならい、堂宇を建造して長
命寺と命名したとか。

 その後、徳川3代将軍家光から朱印地を賜るなどして、「東の高野山」と呼ばれる関東
有数の霊場として信仰を得たという。


 広い境内の中心にある金堂↑は明治37(1904)年の再建。左手背後の観音堂には
本尊の十一面観音が安置されている。
     

 さらに奥には弘法大師像を安置する奥の院にあたる御影堂(みえどう)がある。



 境内にはほかに、姿見の井戸、たくさんの石仏や石像、「ねりまの名木」であるシラカ
シやイチョウ、木遣(きやり)塚、地蔵堂、新しい十三仏、鐘楼など見るべきものが多い。


      「ねりまの名木」のイチョウ
     

 木遣塚

 

 南側正面の南大門を出た。西武池袋線の高架下を南に抜けると剣道の東松館道場がある。

 かなり前から西武池袋線の車中から見ていた建物だが、そばに行くのは初めて。右手植
え込みに、創設者らしい「剣道範士 榎本松次之像」の胸像があった。
         

 そばの東台野球場の西側を南進して石神井(しゃくじい)川の南田中(みなみたなか)
橋を渡る。流れの両側は、桜並木の下に遊歩道が延びている。


 中層集合住宅の南田中団地の南側斜面林は「南田中稲荷憩いの森」で、イヌシデ、エゴ
ノキ、シラカシなどの斜面林になっている。
     
 「塚越の森」の標柱もあり、段丘上に向かって階段を上がる。斜面にはヒガンバナがい
くつか咲いていた。
         
  
 西側に回り込んで南田中五丁目の稲荷天祖神社に入る。毎年7月には、盆踊り大会が開
かれ賑わうようだ。境内の鉢に白いヒガンバナが花開く。


 住宅地を南東へ、南田中四丁目に入ると榎本家長屋門があった。江戸時代末期の建築の
ようで、「練馬の文化財」に指定されている。


     
 南側の道を西に少しで、広い境内を様々な樹木や花に埋め尽くされた観蔵院(かんぞう
いん)である。




         
  
     
 観蔵院は真言宗智山派の寺で、豊島八十八か所第81番札所。北側の庫裡(くり)の隣
に「曼荼羅(まんだら)美術館」↓があり、六道曼荼羅などが観覧できるようだ。


 背後の道路を西へ400mほどで、広い境内に幼稚園を併設し樹木も豊富な善生寺があ
るが、門は閉ざされて入れない。


 下石神井三丁目を西進して北西へ、石神井川の豊島橋を渡りバ↑ス道路の北側の禅定院
(ぜんじょういん)に行く。


 禅定院も真言宗智山派の寺。約600年前に願行上人により開山されたようだが、文政
年間(1818~30)の火災で建物や記録などは消失しているらしい。


 本堂前の織部(おりべ)型灯籠は寛文13(1673)年刻で、「キリシタン灯籠」と
呼ばれ、区内でも珍しい石造物として区登録文化財である。
         

     
 鐘楼はかやぶき屋根、キリシタン灯籠を覆うヒヨクヒバ↓は「ねりまの名木」。
         

 現在の石神井小の前身の豊島小は、明治7(1874)年に区内初の小学校としてここ
に創立されたとか。そのことを記した「わらべ」の石彫がある。
             

 バス通りを北東に少しで、豊富な樹林に覆われた「石神井公園記念庭園」に入る。


 ここは、石神井村元収入役で地元の資産家だった豊田銀右衛門が大正5(1916)年
頃に造成した第二豊田園の跡。東京都が取得して都立石神井公園の一部として再整備し、
昭和53(1978)年に開園したという。

 モミジやソメイヨシノなど、緑に囲まれた静かな池を中心に遊歩道が巡らされている。
池の西側を上がって広場を横切る。北に下り東西に長い石神井池の南東側へ。



 池に浮かぶスワンボートなどを眺めながら西進し、メタセコイヤとラクウショウの林の
横を過ぎる。



 野外ステージの上部を通過して、ゴールの稲荷諏訪合神社に11時58分に着いた。



 参加の皆さんもあい前後して着き、境内で昼食をする。食事を終えて記念撮影後にミー
ティングをして、前回から半年経過後の各々の近況報告などする。13時20分過ぎに散
会した。 

(参加 15人、天気 曇後晴、距離 4.7㎞、地図(1/2.5万) 吉祥寺、
 歩行地 練馬区、歩数 9,400)


 なお、散会後の帰路の行程については別途アップします。






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