あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

昨日の大雨で倒れた瑞浪市、神明神社の大杉(岐阜・瑞浪)

2020-07-12 20:38:49 | 中山道を歩く
 2020年7月12日(日)

 今日正午過ぎのNHKBSニュースや夜7時のNHK総合のニュース7などで、「昨夜
の大雨で、岐阜県瑞浪市(みずなみし)にある樹齢1,000年を超す神社の御神木になっ
ている大杉が根元から倒れ、隣の住宅の屋根が壊れるなどの被害が出た」ことが報道され
ましので、ご覧になった方も居られるかと思います。

 午後2時過ぎのNHKBSニュースの映像から。








 このニュースを見て、もしかしたらこの大杉は中山道の街道沿いにある神社のものでは
なかったかと思い、当ブログのカテゴリー「中山道を歩く」をふり返ってみました。

 その結果、やはり2009(平成21)年4月4日(土)に歩いた、中山道美濃路(み
のじ)の細久手宿(ほそくてしゅく・瑞浪市)から大井宿(恵那市)まで歩いたときの、
細久手宿の次の大湫宿(おおくてしゅく)にある神明神社でした。

 当日撮った写真から。大湫宿入口に立っていた説明板。


 その地図部分を切り出してみると

 少し見にくいですが、ほぼ中央部の12番のところが大杉が立っていた神明神社。

      大杉の写真幾つかと大杉の説明板から
     

          

      



     

 中山道大湫宿周辺は、古い中山道の面影を残す風景や宿場の遺構などがよく残されてい
て、車の交通量も少なくて歩き甲斐のあるところだったことが思い出されます。

      神明神社のすぐ先に残る大湫宿脇本陣・櫻屋
     



 近くの大湫小の校庭が本陣跡で、皇女和宮(かずのみや)もここで一夜を過ごされてお
り、そのときに詠まれた歌碑がありました。
     

          


 なおニュースによれば、隣の恵那市の雨量計は今朝8時までの24時間に降った雨の量
は130.5㎜の大雨だったようで、この雨が大杉を倒してしまったようです。

 九州を初め全国各地にこの1週間、大雨による被害が続いており、この後もまだ雨が続
くところもあるようです。被害にあわれた方には改めてお見舞い申しあげ、あわせてこれ
からも一層注意されますようお祈りいたします。
 
 




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中山道 芦田宿から佐久平駅まで歩く②(望月宿~佐久平駅)(長野)

2016-11-02 21:12:28 | 中山道を歩く
 2016年10月30日(日)
 == 中山道望月宿から塩名田宿を経て佐久平駅へ ==

 宿泊した佐久市望月の青木荘で記念撮影をして、8時20分に出発した。

 今日は中山道望月宿(もつづきしゆく)から東へ、八幡宿(やわたしゅく)、塩名田宿
(しおなだしゅく)を経てJR佐久平(さくだいら)駅までの予定である。

 望月宿入口交差点まで戻って鹿曲川の橋を渡ると、右岸の木の下に西宮神社があった。
絶壁をうがって、近江(おうみ)・琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)から勧請(かんじょう)
した弁財天が祭られているという。


 右岸沿いの道を次の橋際まで進んで中山道に入り、長坂を上がる。斜面下に「中山道長
坂石仏群」の標柱が立ち、ツタの絡まったものなど古い石仏が並んでいた。近くの野菊な
どがよい彩り。




 車道を少しで、車道をショートカットする瓜生(うりゆう)坂の急坂へ。車道に合した
ところにも数基の石仏が並んでいた。


 瓜生坂のピーク、標高745m付近には「中山道一里塚跡」の標石と「中山道瓜生坂の
一里塚」の説明板があった。


 二つのヘヤピンカーブを下って国道147号に入る。百沢集落の旧道の交差点際に標高
690.4mの水準点が残っていた。
         

 近くに「祝言(しゆうげん)道祖神」と呼ぶ、宮廷貴族の服装をした男女が酒を酌み交
わす、珍しい姿の双体道祖神が立っている。そばのダリアが鮮やかな彩りで咲く。
     

         


 中山道はわずかな百沢の家並み抜け、再び国道142号に合して300mほど進む。周
辺の田んぼや山すそは秋の彩りを見せる。



 国道が右に離れる手前で、中山道に並行する北側の旧道へ。布施川沿いに広がる田園地
帯や、その北側の山並みなど眺めながら進む。




 宿を出て1時間余り経過したので、小さなカーブ点で休憩する。


 さらに500mほどで、北側の布施川沿いの車道にあるローソン佐久蓬田店に回り、昼
食を調達した。

 旧道に戻って先に進み、八幡(はちまん)神社に入る。鳥居と社殿の間には2階建ての
楼門、随神門がある。天保14年(1843)に小諸藩主牧野遠江守康哉が願主で、近隣
の村の寄進により造営されたとのこと。


 境内最奥正面の高良社(こうらしや)(旧本殿)は、延徳3年(1491)に望月城主
滋野遠江守光重などによる再建で、国の重要文化財。



 手前右手が八幡神社本殿で、社殿の周囲には彩色がわずかに残る精巧な木彫が豊富に施
され、建築当初はどのような美しい色彩だったろうかと想像させられる。




     
 この境内にも標高665.0mの水準点が残る。道路際の鳥居の近くには、大きく傾い
たケヤキの古木が目に付いた。
      

 北側の旧道を来たので中山道八幡宿の家並みは通過せず、本陣跡や脇本陣跡などは確認
せぬまま宿場の東端付近にある八幡神社まで来た。随神門前から東側を少し回り、再び中
山道の道筋に戻る。

 田園地帯を抜けて、次の下原(しもはら)集落を通過する。その中心部に旧浅科村(あ
さしなむら)役場だった佐久市役所浅科支所があった。


    

 天祖神社前を過ぎて再び田園地帯となり、家並みが途切れる。佐久川西自動車学校の北
側辺りの空き地に「中山道一里塚跡」の標石があるが、説明板などはない。


 次の御馬寄(みまよせ)集落の東で、中山道は千曲川(ちくまがわ)の中津橋を歩道専
用橋で渡る。


 渡り終えてすぐ、右に下り橋下を北に抜けると「舟つなぎ石・千曲川舟橋」の説明板が
あった。

 明治初年の水害で千曲川橋が落ち、明治6年(1873)に川に舟をつないで上に板を
掛けた舟橋で交通を確保し、その際舟をつなぐため大石に穴を開けた石を「舟つなぎ石」
と呼んだという。ここでしばらく休憩とする。



 東に延びる細道が中山道塩名田宿の西端で、短いが街道らしさが感じられる。


       
 中津橋からの車道と合する手前のがけ下に、十九夜塔や標高622.8m水準点などが
あり、休憩舎も設けられていた。
          

     
 かつてはここに豊富な湧水があり、旅人ものどを潤したというが、現在はわずかな湧水
のみ。そばに、木造三階建ての住居も残っている。その先の石垣のツタが、よい彩りに。
       

 中津橋からの車道に戻ると、南側に佐越(さごし)佐藤家住宅がある。佐藤家は、塩名
田宿で最も古い町屋の形式を残す家とか。間口7間半、奥行10間という大型家屋である。



 隣接する佐久市公民館浅科地区館前の広場には、塩名田宿の大きな案内図が掲示され、
道路の北側の建物には「問屋本陣」の標札が架かっていた。


 隣は「中仙堂」と呼ぶ書画・骨董などの店で、店の前に古い大砲らしいものなどが置か
れている。


 塩名田宿の東端、五差路の塩名田交差点際には道祖神塔が立っていた。
     

 交差点から南東に延びる県道154号が中山道、700mほど進んだ下塚原の高台にあ
る駒形神社に正午頃に上がり、昼食とする。

 神社の創建時期は不明のようだが、この辺りは信濃牧(馬)の地で、祭神は騎乗の男女
2神なので牧に関連した神社と推定されるとのこと。

 覆屋(おおいや)で保護された社殿は文明18年(1486)の再建と伝えられ、国の
重要文化財に指定されている。


 境内は色づき始めた豊富な落葉広葉樹などに覆われ、社殿の前には2本の大杉が並ぶ。
足もとの草むらを歩くと、数えきれぬほどの小さなカエルが飛び出した。
     

 12時42分に神社を出た。浅間山の西に延びる高峰高原などの山並みや、広々とした
田園地帯などを眺めながら東に向かう。


 下塚原集落の東端辺りには、大きなケヤキが1本、のびのびと枝を広げて立っていた。
      


 直線で延びる道を東へ、水田とリンゴ園が交互に何か所か続き、どのリンゴ園にも色づ
いた実がたわわに実る。




 中央を横切る白い直線は北陸新幹線


     
 路傍のススキの群落にカメラを向けたら、その向こうの寺の墓地に観音像らしい大きな
立像があるのに気付いた。



 根々井塚原集落の東端まで進み、中佐都郵便局の先の平塚の家並みで中山道の県道154
号に戻る。


 地図に無い新しい中部横断自動車道下を抜け、すぐ北にあった荘山稲荷神社で最後の休
憩。
     
 長野のYさんはこの自動車道の建設に辺り、周辺の環境アセスメントを実施されたとか。


 盛土上の神社からは、北側間近に佐久平駅前のイオンの大きな建物が望まれ、近くの田
んぼでは、コンバインで稲の刈り入れが進んでいた。


 自動車道の東側沿いに進み、リンゴ園の横を通過して北側の県道44号に出た。


     

        
 カエデやナナカマドが色づき広場で開催中のフリーマーケットを見ながら市民交流広場
の横を進み、ゴールのJR佐久平駅に14時ちょうどに着いた。

 私たちは14時23分発北陸新幹線上りあさま640号で、長野市のYさんは4分後の
下りあさま611号で帰路につく。往路のような混雑が心配されたが、上りの自由席はガ
ラガラだった。

(天気 晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 丸子、小諸、歩行地 佐久市、歩数
 22,500、累積標高差 上り約210m、下り約190m)




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中山道 芦田宿から佐久平駅まで歩く①(芦田宿~望月宿)(長野)

2016-10-31 22:23:36 | 中山道を歩く
 カントリーウオークのグループの春秋恒例の一泊のウオーキング、今回は東信州の中山
道を芦田宿(あしだしゅく)からJR佐久平(さくだいら)駅まで歩いた。


 第1日 2916年10月29日(土)
 == 中山道芦田宿から望月宿へ ==

 東京、大宮、高崎などからJR北陸新幹線はくたか555号に乗り、佐久平駅で9時
58分に下りた。先着のKさんや長野から参加のYさんと全員が合流する。


 私は大宮から乗ったが、最後尾の自由席入口には20人以上が並び、到着の車両はすで
にデッキまで満員でいくら押しても乗れない。2両先まで急ぎ移動して何とか乗車したが、
久しぶりの通勤ラッシュ気分で高崎までがまんする。

 駅からの浅間山


     
 佐久平駅前広場の周辺は、紅葉、黄葉がよい彩り。10時21分発の立科町(たてしな
まち)役場行きバスで終点まで乗り、10時59分に着いた。上空は厚い雲に覆われてい
てうす寒い。


 11時11分に出発して、北側の芦田中央交差点で中山道に入る。この辺りは江戸から
26番目の宿場、中山道芦田宿である。
    

 すぐ東側にあるのが金丸土屋旅館。文化元年(1804)頃からの旅籠屋(はたごや)
で、2階の部分が表に少し出ている出梁造り(だしばりづくり)や、煙出しを持つ屋根な
どの特長が見られる。



 交差点の南西側には、県宝になっている旧芦田宿本陣 土屋家住宅があった。土屋家は、
慶長初期(1596~)から明治に至るまで芦田宿の本陣を務めたとのこと。


 門を入ると、正面によく手入れされた庭園が目に付く。県宝の客殿(きゃくでん)は寛
政12年(1800)の改築で、明治維新まで大名や公家などの宿泊や休憩に使われたと
いう。


     立科町のマンホール
    


 隣接する町区公会所前には、鉢植えのキクがきれいな彩り。その隣は「ふるさと交流館
芦田宿」だが、寄らずに先に向かう。


 道路の北側には「蛇石様(じゃいしさま)」の案内札立っていた。江戸末期頃から蛇石
神社として石を覆う社があったとされ、現在は周囲2m以上の大石のみが残され、石の真
ん中には蛇の通った跡と思われる筋が残っているという。


 芦田宿の西端辺りで北方の展望が開け、山頂付近に雲を被ってはいるが色づく浅間山が
望まれ、右カーブした次の交差点際には、道祖神石が立っていた。


 稲架(はさ)掛けの田んぼや、色づいた柿の付近などからも浅間山を眺め、家並みの途
切れた道を東に向かう。

 中居交差点の先、畑の一角のこんもりしたところに「三界無縁供養塔(さんがいむえん
くようとう)」が立っていた。
         

 標高727.3m水準点の先、道路がX常に交差したところで、左の茂田井間の宿(も
たいあいのしゆく)への旧道に入ると、落ち葉掃きしていた奥さんが居られ、ナツメの実
をもらう。


 近くの茂田井一里塚跡で小休止して味わい、さらにYさん持参のリンゴもたくさんいた
だいた。

 一里塚は織田信長の時代に設けられ、徳川家康、秀忠が受け継いで慶長9年(1604)
に完成したとか。天保年間(1830~44)の記録ではこの両側に土塚があり、こちら
にはケヤキが、北側にはエノキが植えられていたという。南側の跡地は、小さい盛土やベ
ンチ、トイレのある休憩所になっている。

 土蔵の横にまきを積んだ家や、軒先につるし柿の家などを過ぎ、石割坂の急坂を下ると
間の宿の茂田井に入る。


    

 間の宿とは、宿場間が長い場合や、峠越えなどの難路の場合に宿場の間に設けられた休
息場所。茂田井の宿は芦田宿と望月宿との中間にあり、きつい峠越えの休息場所として設
けられたようだ。


 大きな馬頭観世音塔や高札場跡を過ぎると、車の交差が出来ない細道の両側に古い建物
が残り、間の宿らしさがかなり感じられ、その沿道に二つの造り酒屋がある。

    
 手前の大澤酒造は元禄2年(1689)の創業で、酒造りや街道文化の資料を展示した
民俗資料館や書道館、美術館などがあるようだが、寄らずに過ぎる。門には大きな杉玉が
下がっていた。




    
 その先の武重本家酒造の門にも新しい杉玉が下がり、江戸後期建築の住宅や明治初期の
酒蔵などは国の有形文化財とか。今日は休業日のようで、銘酒御園竹(みそのたけ)を求
めることは出来なかった。


 門を入った正面右手の建物内には昔の酒造道具が展示され、玄関横の梁には古い駕籠
(かご)が掛けられていた。
    


 門前の細い流れを挟んで若山牧水の歌碑があり、酒を詠(よ)んだ三つの歌が刻まれて
いる。ちなみに牧水は酒好きで、次の望月宿には牧水の足跡が幾つか残るという。
        

 歌碑の横から南側を走る新道に回り、稲架掛けの並ぶ田んぼの横を通過して昼食地と考
えた古峰神社下に行くが、急斜面の上でスペースも無さそうなので止める。
     

 さらに坂を上がり、左手にあった潅漑(かんがい)用水用ため池の西側の路傍に12時
44分に着き、陽が陰ってうす寒いが昼食とする。


 池の対岸で、1羽のサギがしばらくの間動かずにジッと止まっていた。

                            サギ↑

 13時30に出発し、次の望月宿(もちづきしゆく)に向かう。池の横辺りがピークで、
右カーブして下って行くと望月の家並みが現れた。国道142号の下を細道で抜けて下り、
小学校跡らしい広場の横を通過する。
     
 バス道に合して望月宿の西端辺りにあった大伴(おおとも)神社に寄る。

 景行天皇40年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、延長5年(927)にまとめられた延
喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちよう)にも記されているという古社。現在の本殿は
延宝5年(1677)の建築という。

 社殿は急石段を60数段上がった上にあり、境内はケヤキの古木など豊富な木々に囲ま
れていた。


 次のT字路を左折して鹿曲川(かくまがわ)の橋を渡り、東側山上にあった望月城の山
ろくの城光院(じようこういん)に行く。

 門前の「望月山城光院」と刻まれた大きな石碑には、梵字のような変わった文字が記さ
れている。
         

 城光院は、望月城主望月遠江守光恒の開基で望月氏代々の菩提寺とのこと。ちなみに、
真田十勇士の一人、望月六郎は望月氏の子孫という。本堂は江戸後期の享和年間(1801
~4)の建築らしい。


 山門を入ると、本堂前の庭に色づいたドウダンツツジが並び、右手には「城光院の石造
十王像」と呼ぶ小さい石仏が並んでいる。



 モミジも色づき始め、マツなど植栽もよく手入れされていて趣ある庭。山門を入った左
手には、「城光院の石造庚申塔」と呼ぶ大小10数基の庚申塔が並んでいた。


 ツツジの間で記念撮影をして、城光院を後にした。



 寺の前を走る旧道を東南に向かう。寺の土塀に絡んだツタも鮮やかな彩り。南西側間近
に、佐久市役所望月支所の大きな建物が目に入る。



 色づいた柿がたわわに実る木があちこちにあり、山上の望月城址まで上がる遊歩道入口
を過ぎると、その先の民家の屋根下に大きなスズメバチの巣が下がっていた。


 間もなく次の寺、金峰山信永院(きんぷさんしんよういん)である。天文元年(1532)
に望月左衛門尉信永の開基で、荘厳和尚の開山と伝えられているとか。

 本堂は江戸末期の建築とのこと。本堂前には、根元から10数本の幹を生じた珍しいカ
ヤの巨木が立っていた。樹齢は約500年という。
     
 木の下でカヤの実を拾っていたら、ご住職だろうか作務衣を着た方が来られ、カヤの実
の食べ方を書いた紙をいただき、実の割り方も実演して下さった。

 少し戻って鹿曲川を渡り、中山道望月宿の東端近くの通りに入る。望月支所に上がるT
字路際の消防分団の建物は、宿場らしい建築に建て替えられていた。
     

 望月は清和天皇の頃(876)から「駒の里」と呼ばれ、「望月」の名は8月の満月の
日に朝廷へ名馬を治めたことが由来といわれ、紀貫之など多くの歌人に詠まれ親しまれて
いるという。
    

       
 町内のあちこちに、来週の文化の日に開催される駒の里ゆかりの草競馬大会のポスター
が貼ってある。
 

 望月宿入口交差点を右折して緩やかに上がり、鹿曲川の支流の八丁地川を渡る。養魚池
のすぐ先を入って、宿泊する青木荘には15時11分に着いた。


(参加 15人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 丸子、歩行地 立科町、
 佐久市 歩数 14,000、累積標高差 上り約140m、下り約170m)


 夕食の18時半までには3時間以上ある。望月宿本陣跡にある望月歴史民俗資料館を観
覧することにして、一人で宿を出た。

 望月宿入口交差点から北西へ望月宿の家並みが続き、あちこちの建物の前には、駒の里
望月ゆかりの木馬形植木鉢が目に入る。
    

 望月宿の中心部に、佐久市立望月歴史民俗博物館があった。この場所は本陣の跡地だと
いう。

 門を入った中庭には形の良い自然石が配され、建物前には大きな双体道祖神や、蓼科山
からの用水に用いられたという「水割場石(みずわりばいし)」と「木樋(きどい)」、
馬や牛などを止めるための駒つなぎ石などがある。
    

 博物館に入り(入館料300円)、今日は中山道を芦田宿から歩いたことを話したら、
「東信州 中山道を歩く」という小冊子を頂いた。

 展示室は1階と2階にあり、1階の第1展示室は「郷土の歴史と文化」で、縄文式土器
や石器、平安時代から室町時代まで献上された「望月牧(もちづきまき)」と呼ぶ貢馬
(みつぎうま)の様子などが展示されている。

 2階には、宿場町望月に関わる古文書や絵図などを展示する「中山道望月宿」と、望月
の近代の生活道具や仕事、祭り、養蚕から製糸までの流れなどを紹介する「人々のくらし
と伝統」の二つの展示室がある(館内の写真はネット紹介禁止とのこと)。

 観覧を終えて入口そばに戻ったら、係の男性が小室節(こむろぶし)の尺八演奏を聴か
せてくれるという。演奏の後、この小室節はモンゴルの民謡に似ていること、各地に伝わ
り江差追分など〇〇追分となって全国に広まったことなど、さらに明日歩く行程を話した
ら、八幡宿の八幡神社と塩名田宿の駒形神社の二つの国重要文化財の社殿をぜひ見るよう
勧めてくれた。

 50分近く経過して、15時半過ぎに民俗資料館を出た。

 館前の建物は、望月町商工会館の看板が掛かり「望月まちの駅」の表示もあるが閉館し
ていた。


 往路を戻る望月宿の家並みには、旅館山城屋↑、脇本陣鷹野↓、大和屋、犬神家一族の映
画で那須ホテルとして使われたという井出野屋旅館など、古い建物が残っている。




 井出野屋旅館


 気温がいっそう下がり、肌冷えが感じられて寒い道を急ぎ、17時前に青木荘に戻った。
(往復約1.6㎞)





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第10次中山道ウオーク・日本橋にゴール

2009-11-11 22:24:38 | 中山道を歩く
 2009年11月11日(水)

 毎年実施されてきた中山道ウオーク、節目となる10回目の後半は11月
5日(木)に軽井沢をスタートし、6日間かけて昨日10日(火)、埼玉県南部
の蕨市まで到達しました。

 私はその間、都合で参加できなかったのですが、最終日の今日だけ参加
することにして、JR京浜東北線蕨駅に行きました。

 昨日までの6日間は好天だったとのことですが、今日は1日雨の予報、朝
8時半スタートの蕨駅西口も、かなりの雨でした。


 最終日の参加者は21人とか。1㎞余り西に進んで中山道に出て、間もなく
蕨歴史民俗資料館分館前を通過します。

 この通りには、中山道の宿場を描いたタイルが埋め込まれています。

 次の戸田市に入り、いつも立ち寄っている川岸公園でトイレ休憩。


 埼玉と東京の都県境になる荒川の戸田橋を渡り、東京都板橋区に入りま
す。この辺り、雨脚がかなり強くなり、靴の中もぬれてきました。

 ゴールの日本橋から3つめになる志村一里塚。いまも両側に塚がよく残さ
れています。 


 縁切榎、このエノキの皮を煎じて相手に飲ませれば、分かれられるといわ
れ、嫁入り行列は決してこの木の下を通らなかったとか。

 文久元年(1861)に皇女和宮が将軍家茂(いえもち)に降嫁したときには、
このエノキを包んで見えないようにしたといわれているようです。

 板橋区の名の起こりの板橋。もとは本当の板の橋でしたが、現在の橋は
疑木です。


 板橋の下を流れる石神井(しゃくじい)川は、雨でかなり激しく流れていま
した。


 JR埼京線板橋駅前に11時35分頃着き、1時間余りの休憩時間をとり、
各々周辺の食堂に入って昼食としました。

 ここから参加のNさんも加わり、12時40分に板橋駅を出発します。


 とげ抜き地蔵で知られる巣鴨地蔵どおり商店街に入り、お地蔵さんのある
高岩寺で小休止。


 JR山手線巣鴨駅横を通過して文京区に入り、東大構内を抜けました。


 午後は雨脚も弱まり、順調に進んで、ゴール間近の三越本店前へ。


 15時半近く、無事日本橋にゴールしました。

 今回のリーダー、Moriさんご夫妻を初め、ご参加の皆さん、お世話になり、
ありがとうございました。お疲れ様でした。

 (天気 雨、距離 21㎞、歩行地 蕨市、戸田市、板橋区、北区、文京区、
  千代田区、中央区)
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第10次中山道ウオーク④(細久手~大井)〈続き〉

2009-04-25 19:27:27 | 中山道を歩く
 2009年4月4日(土)
 =細久手宿から大井宿まで(続き)=

 古い家並みの残る大湫宿を抜けて十三峠へ。


 ウグイスの鳴く落ち葉道の上り下りが続き、本当に13あるのか、数
えながら上る人も。でも、分かりにくいピークもある。


 「尻冷やしの地蔵尊」というのがあり、そばにショウジョウバカマが咲
く。


近くには、道中の安全を祈って天保11年(1840)に建立されたという
三十三体の馬頭観音が、石窟(せつくつ)の中に並んでいた。


 中山道ゴルフ場の間を上がり、「巡礼水」と呼ぶ、小さい池の跡を過
ぎると、林の一角に権現山一里塚が残っていた。


 石畳道を下って炭焼立場跡を通過、馬頭観音の立つ観音坂を下り、
車道に出た。静かな山間の道すじに、大きな中山道碑が立っていた。


 再び緩い山道の上り下りとなり、昔と変わらぬ中山道らしい風景が
続く。


 いまは説明板だけだが、10余戸の人家があったという深萱(ふかが
や)立場跡の近くに、藤村高札場が復元されていた。



 ボタンの花のような模様を見せるぼたん岩の横を上がり、紅坂一里
塚へ。塚は残るが樹木はない。

 このあたりから、ポチポチと雨が落ちてきた。

 のどかなたたずまいの田園地帯から四谷の集落へ。この小集落に
は似つかわしくないりっぱな建物の四谷休憩所があったので休憩し、
Tさん差し入れの熱々のみそ汁をご馳走になる。

 十三峠の一つ、乱れ坂に向かい、乱れ川を渡る。坂が急で、大名
行列が乱れ、女の裾(すそ)も乱れるほどだったことから名付けられた
という。


 中山道から分かれて、現在の土岐市、多治見市を経て名古屋へ向
かう下街道の分岐に、古い道しるべの石標が立っていた。

 再び車道に出て少しで、槙が根立場跡の説明板があり、茶屋が9戸
あったことなどが記されていた。

 車道は少しで山道に戻り、稜線を進むと西行の森がある。

 「桜百選の園」碑が立ち、周辺はソメイヨシノがたくさん植えられ、かな
り開花していた。

 行く手に大井宿である恵那市の市街地が見下ろせ、その向こうには
恵那山が望まれる景勝地である。


 その一角に槙ヶ根一里塚があるが、塚に植えられていたというエノ
キは残っていなかった。

 左手に少し上がると、古くから中山道の名所のひとつである、西行
塚と呼ぶ五輪塔がある。

 塔は、室町末期のものと推定されるという。

 西行塚のそばにある休憩舎からも、恵那の市街地が間近に見下ろ
せる。休憩舎の下では、スイセンがたくさん、黄色い花を開いていた。

 坂を下り、中央自動車道とJR中央線を越える。新田集落に、西行
硯水(すずりみず)公園と呼ぶ湧水のある小公園があった。

 西行はこの地に3年住み、この泉をくんで墨をすり、多くの歌を詠ん
だと伝えられているという。公園のソメイヨシノが見ごろ。

 恵那市の市街地に入り、駅近くの店で昼食を調達し、13時49九分
にJR恵那駅に着いた。駅前の温度計は12℃から11℃を示し、この
時期としては寒い。、

 駅構内で昼食中に雨は本降りとなり、皆さんは雨具を着けて中津川
に向かう。私はここまでなので皆さんと別れ、14時8分発中津川行き
に乗る。

 車中で思いがけず、大阪のKさんから声をかけられた。中津川の宿
で今日、皆さんと合流し、明日からの中山道歩きに参加されるという。

 中津川から塩尻行きに乗り換え、さらに大月で乗り継ぐなどして、
22時近くに帰宅した。

【参考】後半、細久手、長久手、大湫など、「くて」の着く地名が続いた
 が、この「くて」とは何のこと。広辞苑によれば、「(愛知県で)低湿な
 土地、沼などのように水草の生えた地」となっている。

【コースタイム】細久手・大黒屋7・55ー弁天池8・25ー琵琶峠入口
 8・53ー二つ岩9・24ー大湫宿本陣跡9・40~48ー尻冷やし地蔵
 10・07ー炭焼立場跡10・34ー田尻高札場11・09ー四谷休憩所11・38
 ~12・05ー槙ヶ根立場跡12・30ー西行塚13・02~05ー恵那駅13・49

(天気、曇後雨 距離 19㎞、地図(1/2.5万) 土岐、御嵩、武並、
 瑞浪、恵那、歩行地 瑞浪市、恵那市、歩数 31,500)
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第10次中山道ウオーク④(細久手~大井)

2009-04-24 22:51:41 | 中山道を歩く
 2009年4月4日(土)
 =細久手宿から大井宿まで=


 
 朝から曇り空で、午後は雨の予報である。今日は、車で来て参加の
Tパパさん、ママさんの車に、不要品は預けて軽装で歩ける。

 85歳になる大おかみに見送られ、7時55五分に細久手宿でただ
一つの宿、大黒屋を出発した。

 細久手の標高は、約420mである。

 車の少ない車道を東に向かう。わずかな家並みを抜けて1㎞足らず
で、奥ノ田一里塚。目印の木はないが、塚はほぼ完全にもとの姿を
とどめていた。


 緩やかにカーブし、ウグイスの鳴く車道を進む。まだ両側の広葉樹
は芽吹き前で寒々としている。


 ソメイヨシノが咲き出し、ジュンサイが自生する池がある。

 太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人(しよくさんじん))が享和2年(1802)
に記した「壬戌(じんじゆつ)紀行」にもある弁天池で、中の島には小さ
い弁天様が祭られていた。

 さらに進むと、「天神辻の地蔵尊」と呼ぶ、古い地蔵さんが立つ。


 八瀬沢のわずかな集落を過ぎ、車道を離れるところに、琵琶峠西上
り口の石碑がある。

 峠に向かっての上り道には、日本一長いとされる古い石畳が復元さ
れていた。

 間もなく八瀬沢一里塚。両側の塚とも木がないが、ここもよくその姿
を復元している。


 琵琶峠の頂上は、美濃16宿で一番高い峠で、標高は558m。

 針葉樹に囲まれ展望は利かないが、宝暦13年(1763)銘の石仏
と、皇女和宮の歌碑がある。


 峠を下って車道に出たところに休憩所とトイレが設けられていた。
間もなく、左手山腹に大岩が二つある。

 烏帽子岩と母衣石で、「二つ岩」と呼び、前記、太田南畝の壬戌紀行
にも記されているようだ。

 次の大湫(おおくて)宿の入口には、りっぱな高札場が復元されていた。

 大湫宿は海抜510m、美濃16宿で最も高地の宿場である。

 通りの横の石段を上がり、美濃瑞浪三十三霊場の一つ、観音堂へ。
お堂に覆い被さるように、樹齢約300年というシダレザクラがあるが、
花はまだ少ししか開花していないのが残念。

 観音堂の軒下は、精巧な木組みで出来ていた。

 すぐ先の斜面には、大杉の目立つ神社がある。大湫神明神社で、
ご神木の大杉は、幹回り10m、樹高60m、樹齢約1300年の巨木
で、県の天然記念物である。


 近くの小学校の校庭が大湫宿の本陣跡で、皇女和宮もここで一夜を
過ごされたとか。校庭の隅に、和宮の歌碑が立っていた。


 その下には、3人のお姫様をかたどった人形が並んでいる。


 道路際の休憩所に五平餅の販売所があるが、閉まっていた。その代
わり、Tパパ、ママさん差し入れの麩(ふ)まんじゅうをいただく。(続く)

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第10次中山道ウオーク③(太田~細久手)〈続き〉

2009-04-23 18:07:51 | 中山道を歩く
 2009年4月3日(金)
 =太田宿から細久手宿まで〈続き〉= 

 キリシタン遺跡での昼食を終え、出発する。

 少し先に、旅人の休憩所だった十本木立場の説明板があり、さらに
進むと小屋の下に、「一呑(ひとのみ)の清水」と呼ぶ湧水が湧き出て
いた。

 皇女和宮が賞味して大変気に入り、岐阜県名水50選にも選定され
ているという。


 竹炭工房(上の写真)もある、のどかな謡坂集落を抜けたところには、
小さな湧水の「唄清水」が残り、かたわらにショウジョウバカマが咲い
ていた。


 さらに謡坂を上がり、ラ・プロヴァンスと呼ぶフランス料理店の横を進
み、御殿場と呼ぶ峠に出た。和宮一行が休憩する御殿が造られたとこ
ろから名付けられたらしい。展望台も設けられていた。

 峠を少し下ったところに、小さな観音像が立つていた。和宮が降嫁する
のを、静かに見守っていたのだろうか…。


 近くには「馬の水呑場」の説明板もあり、このあたりが険しい道中で
あったことがしのばれる。近くの斜面に大きなショウジョウバカマが花
を見せていた。


 津橋の集落に下り、農作業中の人に聞き、近くにあるカタクリの栽培
地を訪ねる。午前中通過した御嵩町内で、弁当販売の露店を準備中の
人から、ぜひ訪ねるよう誘われていたところである。

 誘ってくれた、持ち主のYさんが戻っていて、案内して下さる。

 山の斜面を切り開いて個人で育てた「地蔵洞園」と呼ぶ山野草園で、
祖母の土地だったが荒れたままだった山林を30年前から一人で整備
したという。当時、マムシを60数匹も捕まえたとのこと。


 急斜面を少し上がったところに、ちょうど見ごろなカタクリが、たくさん
咲いていた。




 京都の北山杉も300本育てており、ほかにクリスマスローズやイカ
リソウ、下の湿地にはミズバショウも花を見せていた。


 さらにこれから、クリンソウ、シラネアオイ、ヒメコウボネ、ササユリなど
が咲くという。10年来の中山道ウオークでも初めての、貴重な訪問先
だった。

 Yさんにいろいろ説明をしてもらい、ゆっくり拝見したので、津橋交差
点でザックの番をしていたMママさんには、1時間近くもお待たせしてし
まった。(家の密集しているところが津幡交差点)


 その先も上り坂だが、ウグイスが鳴き、落ち葉がたっぷりの気持ちよ
い道。


 鴨ノ巣一里塚は、両側に当時をしのばせる塚が、よく残されていた。
好天なら鈴鹿、伊吹、北アルプスなどが一望できるというが、今日は
見えない。

 さらに幅広い山道が続き、秋葉坂三尊石窟へ。3体の石仏が石積み
の中に並ぶ。明和5年(1768)銘の馬頭観音などである。


 西の坂から平岩集落に下った。交差点際に食料品や日用品などを販
売する商店があり、ここで「やくタイム」にするという。

 アイスクリームを買い、焼酎をかけて食べることを言うらしい。アップダ
ウンして汗をかいた後だけに、アルコール漬けのアイスはおいしかった。

 さらにウグイスの鳴く車道を緩やかに上がると細久手(ほそくて)宿。
築後150年、尾張藩の本陣であったおなじみの宿、大黒屋に16時35
分に着いた。

 毎年、定宿(じようやど)にしており、細久手宿でただ1軒、当時の面影
を残す建物である。

 地元の特産品を並べた夕食をおいしくいただき、食後は、食べ物談義
などで話がはずんだ。


【コースタイム】美濃加茂・元禄荘8・00ー太田橋南詰8・30ー中恵土
 交差点9・05ー上恵土神社9・20~35ー伏見本陣跡9・54ー比衣一里
 塚跡10・12ー鬼首塚10・35~37ー願興寺10・50~11・10ーKマート
 11・40~55ーキリシタン遺跡(昼食)12・33~13・20ー唄清水13・40
 ー津幡交差点(カタクリの里往復)14・05~55ー鴨ノ巣一里塚15・32
 ~36ー平岩15・57~16・15ー細久手宿・大黒屋16・35

(天気 快晴後晴、距離 24㎞、地図(1/2.5万) 美濃加茂、御嵩、
 土岐、瑞浪、武並、歩行地 美濃加茂市、可児市、御嵩町、瑞浪市、
 歩数 41,100)
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第10次中山道ウオーク③(太田~細久手)

2009-04-22 18:31:57 | 中山道を歩く
 2009年4月3日(金)
 =太田宿から細久手宿まで=


 
 朝はかなり冷えこんだが快晴。8時ちょうどに、美濃加茂市の旅館、
元禄荘をスタートして。

 市街地の東に出て、木曽川の太田橋を渡る。従来は車と同じ橋で
歩道もなかったが、歩道専用橋が出来たので、安心して渡れる。


 上流に、今渡ダムの堰堤(えんてい)が見える。橋の南詰めには、新
しい「今渡の渡し場跡」を記した石碑が出来ていた。

 今渡の家並みを抜け、JR太多線の踏切を過ぎ、上恵土神社で最初
の休憩。

 五分咲くらいのソメイヨシノの下で、女性グループがゲートボールを
楽しんでいた。

 間もなく伏見宿。古い家並みも少し残り、伏見交差点際には、伏見
宿一本松公園があり、一本松のそばに休憩施設が設けられていた。



 りっぱな石碑の立つ伏見宿本陣跡を過ぎ、1㎞余り先で比衣一里塚
跡を通過する。

 次の宿、御嶽(みたけ)宿の入口付近に、鬼首塚というのがあり、小さ
いお堂に「関ノ太郎首塚」と刻まれた自然石の碑が立つ。

 鎌倉時代の建久、正治のころ(1190~1200)、乱暴狼藉を極めた
男を捕らえて首を切ったが、検分のため都へ運ぼうとした首おけが重
くて進めず、この地に埋めたのだという。

 そばに子規の歌碑も立っていた。

 御嵩(みたけ)の町並みの中ほどにある大きな本堂の願興寺(がんこう
じ)で休憩する。一条天皇の勅願所で、屋根瓦には菊のご紋が並ぶ。

 伝教大師の開創で、可児(かに)薬師とも呼ばれており、参詣者も多
そう。 本堂を背にした、今日のメンバー。


 境内のソメイヨシノが見ごろになっていて、山門前には、5日(日)の
薬師祭りに使われるらしい大きな山車の骨組みが出来ていた。境内に
は、シラカシの古木もある。

 そばに、新しい「中山道みたけ館」もあるが、休憩直後なので通過
する。

 
 本陣跡周辺には、宿場の名残の古い建物が幾つか見られた。


 南側の林に、大きなヤマザクラが2本花を競って咲く。少し先には、
平安中期の女流歌人、和泉式部の墓があった。


 近くの井尻から、国道を離れて静かな里道に入る。

 このあたりは、東海自然歩道にもなっている。山すそのウグイスの
声を聞きながら田園を抜け、牛の鼻欠け坂と呼ぶちょっとした急坂へ。
牛の鼻がすれてかけるほどの急な上りというところである。

 坂を上がり、再び車道に出ると、左手斜面の林の中に耳神社があり、
割竹がたくさん奉納されている。全国でも珍しい耳の病気にご利益が
あるという神社。耳の病気が全快したら、その人の歳の数だけ竹でま
ねた錐(きり)を、すだれのようにして供えたのだという。

 次の謡坂(うとうざか)にかかると、1997年から4年かけて修復整備
した石畳が残っている。


 その途中から、標識に従い左手に入って少し回り、マリア像のある
キリシタン遺跡に行き、昼食にする。

 この地で、昭和56(1981)、道路工事中に十字架を彫った自然石
が見つかり、江戸幕府の過酷な弾圧の中で、発覚もせずにある期間、
信仰が続けられていた貴重なキリシタン遺跡であることがわかったと
いう。

 「平和の像」と呼ぶマリア像のそばには、小さい休憩所や子規の句
碑などもあった。


 周辺は、昔と変わらぬ静かなたたずまいを見せている。  〈続く〉


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第10次中山道ウオーク②(加納~太田)〈続き〉

2009-04-21 16:32:59 | 中山道を歩く
 2009年4月2日(木)
 =加納宿から太田宿まで〈続き〉

 各務原駅を出て3㎞余り進み、国道を右に分けて旧道へ。車が少なく
なりホッとする。

 鵜沼(うぬま)の町並みに入り、県下最大の円墳という衣裳塚(いしよ
うづか)古墳下を進む。このあたりは段丘上となり、町並みの南に国宝・
犬山城が望まれる。


 古い家並みの残る鵜沼宿の一角に、中山道鵜沼宿町屋館があった。
 
 江戸時代、「絹屋」と呼ぶ旅館だったところで、昭和30年代までは郵
便局だったという。登録有形文化財に指定され公開されていた。


 鵜沼宿の外れで左に大きくカーブして、うとう峠に向かっての上り坂と
なる。気温も上がってかなり汗ばんできた。

 鵜沼台の住宅地の間を進み、人造池の横を上がって、謡坂一里塚の
そばにある「日本ラインうぬまの森」に着き休憩。

 ソメイヨシノ咲く背後にアカマツなどの広い緑の森が広がり、久しぶり
に緑の豊富な一角である。

 出発を前に芝生地で靴を脱ぎ、Nさんなどのリードで、ストレッチ体操
をして疲れをとった。


 桜も咲く謡坂を上がってうとう峠を越え、さらに林間の気持ちよい落ち
葉道を下ると、木曽川の流れが現れ、再び国道21号に合する。


 国道の横に、数知れぬほどのツクシが並んでいた。


 1㎞ほど先、木曽川が90度流れを変えるあたりで、左手の急斜面を
上がり、大岩の下に祭られたその名も岩屋観音堂に参拝する。


 観音堂は高みにあるので、眼下に木曽川が見下ろせる。


 すぐ先の勝山集落西端付近で、木曽川の右岸堤防上に設けられた
「日本ラインロマンチック街道」と呼ぶ遊歩道に上がった。

 自転車と歩行者専用道が、この先3.5㎞近く続いている。

 右手に木曽川の流れと急斜面の山肌が続くが、水量が少なく、日本
ラインの景勝地という印象には少し弱い。しかし対岸の山肌に、ところ
どころヤマザクラの白い花や、萌え出たばかりの新緑が目に入り、車
を気にせず歩ける気持ちよい道筋である。

 「行幸巌(みゆきいわ)」碑の立つところで小休止。説明板には、ここを
訪れた昭和天皇を始め、皇族や外国の国賓などの名が刻まれていた。


 ここで、昨日通過した垂井町にお住まいで、何度もコースリーダをされ
た I さんが待っていた。

 行く手に美濃加茂の市街地が近づき、その向こうに雪を被った御嶽山
(下の写真)や中央アルプスが望まれ、右手には、恵那山らしいのも見
える。


 日が傾き、少し涼しくなった。中濃大橋で堤防の遊歩道を離れ、太田
宿である美濃加茂の市街地に入る。間もなく、太田宿中山道会館と呼
ぶ広場と建物がある。

 展示室や休憩飲食コーナー、物産展示販売コーナーなどがあるようだ
が、宿も近いので寄らずに通過した。


 うだつの上がる家や、連子格子(れんじごうし)の民家など、古い家並
みの多い町並みを進み、中心街に近い今日の宿泊地、元禄荘に16時
35分に着いた。

【コースタイム】JR岐阜駅前8・03ーR56号横断8・47ー手力雄神社9・12
 ~25ー善林寺9・50ー各務原市民公園10・19~30ー川崎重工業前
 11・11ーJR各務原駅周辺(昼食)11・47~12・52ー衣裳塚古墳下
 13・30ー日本ラインうぬまの森14・05~33ー岩屋観音堂15・03~05
 ー行幸巌15・30~42ー太田宿中山道会館16・26ー元禄荘16・35

(天気 晴後快晴、距離 28㎞、地図(1/2.5万) 岐阜、犬山、美濃関、
 美濃加茂、歩行地 岐阜市、各務原市、坂祝(さかほぎ)町、美濃
 加茂市、歩数 45,600)
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第10次中山道ウオーク②(加納~太田)

2009-04-20 19:16:29 | 中山道を歩く
 今朝、4月20日(月)のNHK総合TV、「生活ホットモーニング」を
ご覧になりましたか…。

 (以下2つの画面は、NHK総合TV(地上デジタル)から)


 ナマ出演したやまさんの、「駅」ローカル線途中下車ぶらり旅、の
クイズ、やまさんが現在実行している歩き旅は、次の4つのどれか
というもの。

 ①関東百駅 ②中央線全駅 ③東北線無人駅 ④「山」のつく駅

 当ブログをご覧いただいている方なら、お分かりだったことと思い
ます。カテゴリーの一つにもなっている ①関東百駅が正解でした。


 回答者3人とも違う答えで、当たった人はいませんでした。という
ことは裏を返せば、やまさんの歩き旅の、ユニークさが際立っている
ということになるのではないでしょうか…。

 さて、今日のレポートは、月初の中山道ウオークの2日目です。

============================ 

 2009年4月2日(木)
 =加納宿から太田宿まで=


 
 今日は好天の予報。JR岐阜駅南口に集合し、準備体操をして8時3
分にスタートした。


 加納宿本陣跡には、皇女和宮が文久元年(1861)10月26日、この
地の松波藤右衛門宅に宿泊されたとき、自分の心情を詠んだという、
「遠ざかる 都(みやこ)としれば旅衣(たびごろも) 一夜の宿も 立(たち)
うかりけり」の直筆を刻んだ歌碑が立っていた。


 加納宿大手門跡の、すぐ先で渡った小さい流れのソメイヨシノは満開。

 昨夜のテレビでは、岐阜市内の桜の満開を告げていた。

 幾つかの鍵の手を通過してJR東海道線の東に出て、岐阜市の市街
地を抜ける。間もなくの小さな地蔵堂に、右に分かれる伊勢道への石
標があった。


 近くには、復元されたらしい細畑一里塚の両側に、太い木が植えら
れていた。


 2㎞ほど車道を進むと、みごとなしめ縄の下がった朱の鳥居がある。

 ちょっと回り道して、その先にある手力雄(たぢからお)神社に寄った。

 白木の社殿は、再建されたばかりで真新しい。広い境内の隅に鉄骨
で組んだスタンドのようなものがある。4月第2土曜に行われる火祭り
のためのものらしい。

 境内の真ん中にある、やわらかな新芽を見せ始めた背の高いケヤキ
も目についた。


 東側の川の堤防沿いにソメイヨシノの並木があるが、満開にはもう少
しの感じ。


 名鉄各務原(かかみがはら)線高田橋駅付近で、中山道に戻った。

 東海北陸自動車道下を抜け、名鉄新加納駅の近くを右折して、織田
信長や尾張徳川家ゆかりの寺だという善林寺の前を通過する。


 寺の南東側道路の隅に、横向きの変わった双体道祖神が立つていた。

 東側は間の宿(あいのしゆく)である新加納宿。Y字路に「新加納一里
塚」の標識だけが立っていた。このあたりから各務原(かかみがはら)市
の中心街に入る。


 ソメイヨシノがかなり咲く那加橋を渡って、市民公園で休憩。園内の桜
もほぼ見ごろである。

 公園を出て、名鉄各務原線とJR高山本線の北に回ると、まだ枯れ枝
のメタセコイアとイチョウの並木がまっすぐ東に伸びている。

 2004年11月、韓国春川市との姉妹都市提携一周年を記念して、韓
国ドラマ「冬のソナタ」のロケ地である春川市南怡島の並木道と姉妹提
携し、「冬ソナストリート」と名付けたという。

 そばの公園のヤナギの若芽が、そよ風に揺れていた。


 中山道に戻ると、南側一帯は航空自衛隊岐阜基地。時折鋭い金属音
をとどろかせ、ジェット機が急上昇するのが見える。

 中山道は国道21号に合し、交通量が増えるが歩道はない。近くの川
崎重工業の工場内にもソメイヨシノが多いが、花はまだ三分咲くらいだ
った。


 正午近くにJR高山本線各務原駅近くに着き、1時間ほどの昼食タイム
となる。各々が周辺の飲食店に入って昼食をする。

 うどん店に入った私は、早めにJR各務原駅に戻った。無人の駅でトイ
レを借りようとしたが無い。市の中心駅なのにと、地方都市の現実を知る。
近くの、これも無人の名電各務原駅のトイレを借りた。   〈続く〉


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