あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新河岸川のナノハナ(埼玉)

2009-04-29 23:16:05 | ウオーキング
 4月23日(木)、埼玉県ふじみ野市と川越市の市境を流れる新河岸
(しんがし)川沿いを歩きました。

 両岸のいたるところナノハナが花盛りでしたので、その様子をご紹介
しましょう。

 好天に誘われ、対岸に幼稚園の園児がたくさん、遊んでいます。


 こちら側(右岸)では近所の奥さんでしょうか、セリ摘みをしていました。


 下流に向かい、右岸を進みました。


 このあたりには豊富な斜面林が残り、新緑の彩りを見せています。 




 水面に映る花の色。




 好天だったので、遠くに秩父のシンボル・武甲山もよく見えていました。
(写真中央の山)


 一旦川沿いを離れたら、近くの民家の庭で、シャクナゲが花盛り。


 少し先で再び右岸に戻ると、両岸とも花盛りでした。
 

 ショカッサイも、たくさん花を競っています。


 近くでは、ウワミズザクラも開花していました。


 対岸に、大きなお寺の屋根と境内の木々が見えています。


 中央に見えるピークは、乳首山とも呼ぶ奥武蔵の笠山、その左は堂平
(どうだいら)山などの山並み。


 新河岸川は、江戸時代から昭和初期まで、小江戸・川越と江戸との間
の物資輸送路として舟運が盛んで、近くにも名残の家が残っています。



 いま、この流れにその面影を偲ぶことは出来ませんが、そのかわり春
の小川の雰囲気で、ナノハナを、たっぷり楽しみました。



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大阪市内を半日巡る

2009-04-28 22:07:21 | ウオーキング
 投稿があと先になりましたが、中山道ウオークへの参加前日の3月
31日に、朝日新聞大阪本社で開催されたヘンロ小屋展を訪ねたとき
に、周辺の寺社などを巡ったレポートです。

=============================

 2009年3月31日(火)



 前夜宿泊した、谷町4丁目のビジネスホテルを8時25分に出た。
阪神高速道路下の通りを西に向い、まず、地下鉄本町駅に近い坐摩
(いかすり・通称ざま)神社に行く。

 摂津国一宮で、住居や旅の安全、安産などの守り神として信仰を
集めているようだ。境内には、火防の神だという陶器神社もある。

 四つ橋筋を北に進み、靱(うつぼ)公園に寄る。園内のソメイヨシノは、
3~8分咲きくらいだった。


 さらに北へ、肥後橋を渡り中之島にある朝日新聞大阪本社に行く。

 この建物は、やがて取り壊され、高層ビルになるらしい。

 今日の主目的は、このビル1階のアサコムホールで開催されていた
『歌一洋「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」展』の観覧である。
10時オープンに合わせて入館した。

 四国の遍路道に、ボランティアで89棟のヘンロ小屋を造ろうと、近畿
大学の歌 一洋教授が地元の方と進めているプロジェクトの紹介で、
すでに完成した32棟の模型や、写真家・溝渕ひろし氏の写真などが
展示されていた。

 期間中常駐されているという四国八十八ヶ所霊場会公認先達の山下
さんにお会いするはずだったのだが、ご都合で来られないとのこと。久
しぶりの再会を楽しみにしていただけに、本当に残念だった。

 次の目的地に向かい、土佐堀川北岸沿いを東に向かう。対岸に見え
るのは、住友ビル本館だろうか。

 このあたりには、近代化遺産ともいうべき、明治から昭和初期にかけ
て建築されたらしい建物が幾つか目についた。

 そのひとつが、淀屋橋北詰にある大阪市役所。


 手前は日本銀行大阪支店。東京・日本橋の日本銀行本店に似た建築
様式に見える。


 二つのビルの南側にかかる淀屋橋も、石造りでなかなか趣がある。


 橋の近くのケヤキの新緑が、みずみずしい。


 市役所の隣は、大阪府立中之島図書館。ソメイヨシノがかなり花を
広げ、建物は見えにくいが、ブルーのドーム屋根が印象的。


 その東、栴檀木橋の北側には、大正7年(1918)開館で国重文の
大阪市中央公会堂がある。

 「赤レンガの公会堂」として親しまれているようだ。

 大阪市市章のある堺筋橋で中之島を離れて天神橋一丁目へ。天神橋
一番街に入る。

 北に向かって3㎞の長いアーケードが延び、商店街は今も賑わって
いる。

 その中ほどで右折して、大阪天満宮に参拝する。

 天暦3年(949)、村上天皇の勅願で菅原道真を祭神として創立
されたという。
 
 菅原道真にあやかり、学問、詩文の神、芸能の神として信仰を広げ、
社殿横には、幾重にも積み重なり何千、何万とも知れぬお札が奉納
されていた。

 北に出て、「繁昌亭」と呼ぶ寄席の先を北西に向かい、堀川戎(ほり
かわえびす)神社にも参拝する。

 境内の一角に榎木神社の小さな社があり、「地車稲荷」ののぼりが
立っていた。
 
 さらに北西に進んで、町名にもなっている太融寺(たいゆうじ)へ。 

 弘仁12年(821)、嵯峨天皇の勅願で弘法大師が開基。本尊の木造
千手観音立像は、平安時代のもので、市内に残る古仏の一つという。

 境内には、宝塔、不動堂、大師堂、客殿など、多くの建物が並んで
いた。新西国三十三観音霊場など、幾つもの霊場にもなっている。

 今日訪ねた坐摩神社、大阪天満宮、太融寺は、神仏霊場会加盟150
社寺中の3社寺なので、霊場会の朱印帳にご朱印をいただいた。

 大阪の鉄道の玄関口、阪神・阪急梅田駅やJR大阪駅は近い。12時
40分にJR大阪駅に着いた。

 地下街で昼食をして、翌日からの中山道ウオークへの参加に備え、青
春18きっぷを使い、JR東海道線上り電車で尾張一宮駅に向かった。

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カントリーウオーク北柏(千葉)

2009-04-27 21:27:34 | カントリーウオーク
 わが家の周辺は、すっかり若葉になりましたが、レポートの投稿がず
れており、まだ4月はじめの報告が続きます。

=============================

 2009年4月5日(日)



 カントリーウオークグループの4月例会は、手賀沼周辺の桜を見よう
と開催された。集合はJR常磐線北柏駅、10時11分に出発する。

 =手賀沼西部を半周=
 
 線路の南側を線路沿いに進み、線路をまたぐガードの先で線路に分
かれて南側の雑草地を回る。霊園の建設計画があるのか、反対の立
て札が幾つか立っていた。

 北柏二丁目の住宅地から交通量の多い車道を越え、手賀沼北西端
の北柏ふるさと公園に入る。ソメイヨシノは満開に近く、その下のシバ
ザクラも見ごろである。


 川の中洲のナノハナや対岸の花などを眺めながら、柏ふるさと大橋
を渡り、手賀沼の南へ。


 こちらも柏ふるさと公園になっていて、ソメイヨシノがたくさん花を競う。


 大きな建物の北千葉導水ビジターセンター横を通過し、タナゴ釣りの
釣り人が並ぶ、沼に並行する小さな流れに沿って進む。

 手賀沼を一周する湖岸の遊歩道に上がった。このあたりは、まだ枯
れ枝のアシがたくさん続き、湖畔のヤナギが芽吹き始めていた。

 広々とした展望と、さわやかな風を感じながら湖畔を東に進む。

 大津川を渡って田んぼの間を横切り、新舟戸集落の福満寺に行く。
ソメイヨシノが咲き、本堂前の庭は、よく手入れされている。


 陰陽道と記された奇怪な石の塊があり、「陰陽道とは、天地の和合、
人類の和合、森羅万象、草木国土、皆ことごとく大調和、大和合の世
界なり」と記されていた。

 境内にある弁天池の弁財天は、上野の不忍池弁財天を天保11年
(1840)に勧請(かんじよう)したものとか。西側の斜面には、数えき
れぬほどたくさん、小さな社がある。

 明治11年(1878)に出来た、准四国八十八ヶ所だという。

 ほかに、享保13年(1728)建立の鐘楼堂、江戸時代創建の六地蔵
堂、趣ある山門など、見るべきものが多い。

 山門前にシロバナタンポポが咲いていた。

 隣は、うっそうとした木々に囲まれた香取神社。その中で、2本の大
きなスダジイがひときわ目についた。


 神社の前から東に回り、古くからの屋敷の間を進む。紅葉のように色
づいたモミジの若葉、白やピンクのモモ、黄色いナノハナなどが咲き競
い、春の彩りが豊富。


 このあたりの民家は、皆大きくてりっぱで、庭木もなかなかみごとな
家が多い。その一角に、お城のような建物があった。

 石垣や望楼、土蔵などもあるが、やはり個人のお住まいらしい。

 再び手賀沼南岸の湖畔に続く遊歩道に出て、大勢の人出で賑わう
道の駅しょうなんの横から、手賀沼大橋を渡る。

 橋の東側に見える独特の建物、水の館のそばの芝生が今日の昼食
地。12時44分に着いた。


 水の館の前の芝生に、シートを広げて昼食をする。

 
 =手賀沼北岸沿いを西へ=
 
 湖岸に咲き始めたソメイヨシノの下で記念撮影をして、14時10分、
全員で午後のコースに向かう。


 手賀沼大橋下を抜け、湖岸の遊歩道を西に向かう。ヤナギがやわら
かな若葉を風になびかせ、ソメイヨシノも多いが、こちらは5分咲くらい
で、見ごろはもう少し先になりそう。

 手賀沼公園のそばには乗船場があり、湖岸の広場は行楽の家族づれ
などで賑わう。


 公園の先で車道の北に回り、白山一丁目から三丁目の台地下を進む。
船戸一丁目にかかるところで、根戸船戸緑地へ。ピンクの濃い桜が満開
である。


 その横から台地に上がり、気持ちよい林間を進む。落ち葉の間から、
ゼンマイが顔を出していた。近くのコブシも花盛り。

 緑地の西端まで行き、そばの旧武者小路実篤屋敷跡に行ったが、別
の標札になっていて公開されておらず、門が閉じていた。邸内のミツバ
ツツジが見ごろである。


 竹林の間を下って台地下に戻り、さらに西へ。車道を横断した先に、
根戸(ねど)城跡・金塚(かねづか)古墳の説明板がああり、このあたりが、
荒追遺跡という縄文時代から奈良・平安時代まで続く大きな集落跡だっ
たことが記されていた。

 北柏五丁目で、朝通過した道に合し、ゴールの北柏ふるさと公園に、
15時50分に入った。

 ミーティングをして解散となるが、ほとんどのメンバーは残り、シバザ
クラのそばの芝生にシートを広げ、花見の宴とする。

 持ち寄ったつまみものや飲物、幹事さんが近くのコンビニから調達して
きたものを口にしながら17時過ぎまで歓談した。

(参加 22人、天気 晴後快晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 流山、
 取手、歩行地 柏市、我孫子市)
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第10次中山道ウオーク④(細久手~大井)〈続き〉

2009-04-25 19:27:27 | 中山道を歩く
 2009年4月4日(土)
 =細久手宿から大井宿まで(続き)=

 古い家並みの残る大湫宿を抜けて十三峠へ。


 ウグイスの鳴く落ち葉道の上り下りが続き、本当に13あるのか、数
えながら上る人も。でも、分かりにくいピークもある。


 「尻冷やしの地蔵尊」というのがあり、そばにショウジョウバカマが咲
く。


近くには、道中の安全を祈って天保11年(1840)に建立されたという
三十三体の馬頭観音が、石窟(せつくつ)の中に並んでいた。


 中山道ゴルフ場の間を上がり、「巡礼水」と呼ぶ、小さい池の跡を過
ぎると、林の一角に権現山一里塚が残っていた。


 石畳道を下って炭焼立場跡を通過、馬頭観音の立つ観音坂を下り、
車道に出た。静かな山間の道すじに、大きな中山道碑が立っていた。


 再び緩い山道の上り下りとなり、昔と変わらぬ中山道らしい風景が
続く。


 いまは説明板だけだが、10余戸の人家があったという深萱(ふかが
や)立場跡の近くに、藤村高札場が復元されていた。



 ボタンの花のような模様を見せるぼたん岩の横を上がり、紅坂一里
塚へ。塚は残るが樹木はない。

 このあたりから、ポチポチと雨が落ちてきた。

 のどかなたたずまいの田園地帯から四谷の集落へ。この小集落に
は似つかわしくないりっぱな建物の四谷休憩所があったので休憩し、
Tさん差し入れの熱々のみそ汁をご馳走になる。

 十三峠の一つ、乱れ坂に向かい、乱れ川を渡る。坂が急で、大名
行列が乱れ、女の裾(すそ)も乱れるほどだったことから名付けられた
という。


 中山道から分かれて、現在の土岐市、多治見市を経て名古屋へ向
かう下街道の分岐に、古い道しるべの石標が立っていた。

 再び車道に出て少しで、槙が根立場跡の説明板があり、茶屋が9戸
あったことなどが記されていた。

 車道は少しで山道に戻り、稜線を進むと西行の森がある。

 「桜百選の園」碑が立ち、周辺はソメイヨシノがたくさん植えられ、かな
り開花していた。

 行く手に大井宿である恵那市の市街地が見下ろせ、その向こうには
恵那山が望まれる景勝地である。


 その一角に槙ヶ根一里塚があるが、塚に植えられていたというエノ
キは残っていなかった。

 左手に少し上がると、古くから中山道の名所のひとつである、西行
塚と呼ぶ五輪塔がある。

 塔は、室町末期のものと推定されるという。

 西行塚のそばにある休憩舎からも、恵那の市街地が間近に見下ろ
せる。休憩舎の下では、スイセンがたくさん、黄色い花を開いていた。

 坂を下り、中央自動車道とJR中央線を越える。新田集落に、西行
硯水(すずりみず)公園と呼ぶ湧水のある小公園があった。

 西行はこの地に3年住み、この泉をくんで墨をすり、多くの歌を詠ん
だと伝えられているという。公園のソメイヨシノが見ごろ。

 恵那市の市街地に入り、駅近くの店で昼食を調達し、13時49九分
にJR恵那駅に着いた。駅前の温度計は12℃から11℃を示し、この
時期としては寒い。、

 駅構内で昼食中に雨は本降りとなり、皆さんは雨具を着けて中津川
に向かう。私はここまでなので皆さんと別れ、14時8分発中津川行き
に乗る。

 車中で思いがけず、大阪のKさんから声をかけられた。中津川の宿
で今日、皆さんと合流し、明日からの中山道歩きに参加されるという。

 中津川から塩尻行きに乗り換え、さらに大月で乗り継ぐなどして、
22時近くに帰宅した。

【参考】後半、細久手、長久手、大湫など、「くて」の着く地名が続いた
 が、この「くて」とは何のこと。広辞苑によれば、「(愛知県で)低湿な
 土地、沼などのように水草の生えた地」となっている。

【コースタイム】細久手・大黒屋7・55ー弁天池8・25ー琵琶峠入口
 8・53ー二つ岩9・24ー大湫宿本陣跡9・40~48ー尻冷やし地蔵
 10・07ー炭焼立場跡10・34ー田尻高札場11・09ー四谷休憩所11・38
 ~12・05ー槙ヶ根立場跡12・30ー西行塚13・02~05ー恵那駅13・49

(天気、曇後雨 距離 19㎞、地図(1/2.5万) 土岐、御嵩、武並、
 瑞浪、恵那、歩行地 瑞浪市、恵那市、歩数 31,500)
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第10次中山道ウオーク④(細久手~大井)

2009-04-24 22:51:41 | 中山道を歩く
 2009年4月4日(土)
 =細久手宿から大井宿まで=


 
 朝から曇り空で、午後は雨の予報である。今日は、車で来て参加の
Tパパさん、ママさんの車に、不要品は預けて軽装で歩ける。

 85歳になる大おかみに見送られ、7時55五分に細久手宿でただ
一つの宿、大黒屋を出発した。

 細久手の標高は、約420mである。

 車の少ない車道を東に向かう。わずかな家並みを抜けて1㎞足らず
で、奥ノ田一里塚。目印の木はないが、塚はほぼ完全にもとの姿を
とどめていた。


 緩やかにカーブし、ウグイスの鳴く車道を進む。まだ両側の広葉樹
は芽吹き前で寒々としている。


 ソメイヨシノが咲き出し、ジュンサイが自生する池がある。

 太田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人(しよくさんじん))が享和2年(1802)
に記した「壬戌(じんじゆつ)紀行」にもある弁天池で、中の島には小さ
い弁天様が祭られていた。

 さらに進むと、「天神辻の地蔵尊」と呼ぶ、古い地蔵さんが立つ。


 八瀬沢のわずかな集落を過ぎ、車道を離れるところに、琵琶峠西上
り口の石碑がある。

 峠に向かっての上り道には、日本一長いとされる古い石畳が復元さ
れていた。

 間もなく八瀬沢一里塚。両側の塚とも木がないが、ここもよくその姿
を復元している。


 琵琶峠の頂上は、美濃16宿で一番高い峠で、標高は558m。

 針葉樹に囲まれ展望は利かないが、宝暦13年(1763)銘の石仏
と、皇女和宮の歌碑がある。


 峠を下って車道に出たところに休憩所とトイレが設けられていた。
間もなく、左手山腹に大岩が二つある。

 烏帽子岩と母衣石で、「二つ岩」と呼び、前記、太田南畝の壬戌紀行
にも記されているようだ。

 次の大湫(おおくて)宿の入口には、りっぱな高札場が復元されていた。

 大湫宿は海抜510m、美濃16宿で最も高地の宿場である。

 通りの横の石段を上がり、美濃瑞浪三十三霊場の一つ、観音堂へ。
お堂に覆い被さるように、樹齢約300年というシダレザクラがあるが、
花はまだ少ししか開花していないのが残念。

 観音堂の軒下は、精巧な木組みで出来ていた。

 すぐ先の斜面には、大杉の目立つ神社がある。大湫神明神社で、
ご神木の大杉は、幹回り10m、樹高60m、樹齢約1300年の巨木
で、県の天然記念物である。


 近くの小学校の校庭が大湫宿の本陣跡で、皇女和宮もここで一夜を
過ごされたとか。校庭の隅に、和宮の歌碑が立っていた。


 その下には、3人のお姫様をかたどった人形が並んでいる。


 道路際の休憩所に五平餅の販売所があるが、閉まっていた。その代
わり、Tパパ、ママさん差し入れの麩(ふ)まんじゅうをいただく。(続く)

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第10次中山道ウオーク③(太田~細久手)〈続き〉

2009-04-23 18:07:51 | 中山道を歩く
 2009年4月3日(金)
 =太田宿から細久手宿まで〈続き〉= 

 キリシタン遺跡での昼食を終え、出発する。

 少し先に、旅人の休憩所だった十本木立場の説明板があり、さらに
進むと小屋の下に、「一呑(ひとのみ)の清水」と呼ぶ湧水が湧き出て
いた。

 皇女和宮が賞味して大変気に入り、岐阜県名水50選にも選定され
ているという。


 竹炭工房(上の写真)もある、のどかな謡坂集落を抜けたところには、
小さな湧水の「唄清水」が残り、かたわらにショウジョウバカマが咲い
ていた。


 さらに謡坂を上がり、ラ・プロヴァンスと呼ぶフランス料理店の横を進
み、御殿場と呼ぶ峠に出た。和宮一行が休憩する御殿が造られたとこ
ろから名付けられたらしい。展望台も設けられていた。

 峠を少し下ったところに、小さな観音像が立つていた。和宮が降嫁する
のを、静かに見守っていたのだろうか…。


 近くには「馬の水呑場」の説明板もあり、このあたりが険しい道中で
あったことがしのばれる。近くの斜面に大きなショウジョウバカマが花
を見せていた。


 津橋の集落に下り、農作業中の人に聞き、近くにあるカタクリの栽培
地を訪ねる。午前中通過した御嵩町内で、弁当販売の露店を準備中の
人から、ぜひ訪ねるよう誘われていたところである。

 誘ってくれた、持ち主のYさんが戻っていて、案内して下さる。

 山の斜面を切り開いて個人で育てた「地蔵洞園」と呼ぶ山野草園で、
祖母の土地だったが荒れたままだった山林を30年前から一人で整備
したという。当時、マムシを60数匹も捕まえたとのこと。


 急斜面を少し上がったところに、ちょうど見ごろなカタクリが、たくさん
咲いていた。




 京都の北山杉も300本育てており、ほかにクリスマスローズやイカ
リソウ、下の湿地にはミズバショウも花を見せていた。


 さらにこれから、クリンソウ、シラネアオイ、ヒメコウボネ、ササユリなど
が咲くという。10年来の中山道ウオークでも初めての、貴重な訪問先
だった。

 Yさんにいろいろ説明をしてもらい、ゆっくり拝見したので、津橋交差
点でザックの番をしていたMママさんには、1時間近くもお待たせしてし
まった。(家の密集しているところが津幡交差点)


 その先も上り坂だが、ウグイスが鳴き、落ち葉がたっぷりの気持ちよ
い道。


 鴨ノ巣一里塚は、両側に当時をしのばせる塚が、よく残されていた。
好天なら鈴鹿、伊吹、北アルプスなどが一望できるというが、今日は
見えない。

 さらに幅広い山道が続き、秋葉坂三尊石窟へ。3体の石仏が石積み
の中に並ぶ。明和5年(1768)銘の馬頭観音などである。


 西の坂から平岩集落に下った。交差点際に食料品や日用品などを販
売する商店があり、ここで「やくタイム」にするという。

 アイスクリームを買い、焼酎をかけて食べることを言うらしい。アップダ
ウンして汗をかいた後だけに、アルコール漬けのアイスはおいしかった。

 さらにウグイスの鳴く車道を緩やかに上がると細久手(ほそくて)宿。
築後150年、尾張藩の本陣であったおなじみの宿、大黒屋に16時35
分に着いた。

 毎年、定宿(じようやど)にしており、細久手宿でただ1軒、当時の面影
を残す建物である。

 地元の特産品を並べた夕食をおいしくいただき、食後は、食べ物談義
などで話がはずんだ。


【コースタイム】美濃加茂・元禄荘8・00ー太田橋南詰8・30ー中恵土
 交差点9・05ー上恵土神社9・20~35ー伏見本陣跡9・54ー比衣一里
 塚跡10・12ー鬼首塚10・35~37ー願興寺10・50~11・10ーKマート
 11・40~55ーキリシタン遺跡(昼食)12・33~13・20ー唄清水13・40
 ー津幡交差点(カタクリの里往復)14・05~55ー鴨ノ巣一里塚15・32
 ~36ー平岩15・57~16・15ー細久手宿・大黒屋16・35

(天気 快晴後晴、距離 24㎞、地図(1/2.5万) 美濃加茂、御嵩、
 土岐、瑞浪、武並、歩行地 美濃加茂市、可児市、御嵩町、瑞浪市、
 歩数 41,100)
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第10次中山道ウオーク③(太田~細久手)

2009-04-22 18:31:57 | 中山道を歩く
 2009年4月3日(金)
 =太田宿から細久手宿まで=


 
 朝はかなり冷えこんだが快晴。8時ちょうどに、美濃加茂市の旅館、
元禄荘をスタートして。

 市街地の東に出て、木曽川の太田橋を渡る。従来は車と同じ橋で
歩道もなかったが、歩道専用橋が出来たので、安心して渡れる。


 上流に、今渡ダムの堰堤(えんてい)が見える。橋の南詰めには、新
しい「今渡の渡し場跡」を記した石碑が出来ていた。

 今渡の家並みを抜け、JR太多線の踏切を過ぎ、上恵土神社で最初
の休憩。

 五分咲くらいのソメイヨシノの下で、女性グループがゲートボールを
楽しんでいた。

 間もなく伏見宿。古い家並みも少し残り、伏見交差点際には、伏見
宿一本松公園があり、一本松のそばに休憩施設が設けられていた。



 りっぱな石碑の立つ伏見宿本陣跡を過ぎ、1㎞余り先で比衣一里塚
跡を通過する。

 次の宿、御嶽(みたけ)宿の入口付近に、鬼首塚というのがあり、小さ
いお堂に「関ノ太郎首塚」と刻まれた自然石の碑が立つ。

 鎌倉時代の建久、正治のころ(1190~1200)、乱暴狼藉を極めた
男を捕らえて首を切ったが、検分のため都へ運ぼうとした首おけが重
くて進めず、この地に埋めたのだという。

 そばに子規の歌碑も立っていた。

 御嵩(みたけ)の町並みの中ほどにある大きな本堂の願興寺(がんこう
じ)で休憩する。一条天皇の勅願所で、屋根瓦には菊のご紋が並ぶ。

 伝教大師の開創で、可児(かに)薬師とも呼ばれており、参詣者も多
そう。 本堂を背にした、今日のメンバー。


 境内のソメイヨシノが見ごろになっていて、山門前には、5日(日)の
薬師祭りに使われるらしい大きな山車の骨組みが出来ていた。境内に
は、シラカシの古木もある。

 そばに、新しい「中山道みたけ館」もあるが、休憩直後なので通過
する。

 
 本陣跡周辺には、宿場の名残の古い建物が幾つか見られた。


 南側の林に、大きなヤマザクラが2本花を競って咲く。少し先には、
平安中期の女流歌人、和泉式部の墓があった。


 近くの井尻から、国道を離れて静かな里道に入る。

 このあたりは、東海自然歩道にもなっている。山すそのウグイスの
声を聞きながら田園を抜け、牛の鼻欠け坂と呼ぶちょっとした急坂へ。
牛の鼻がすれてかけるほどの急な上りというところである。

 坂を上がり、再び車道に出ると、左手斜面の林の中に耳神社があり、
割竹がたくさん奉納されている。全国でも珍しい耳の病気にご利益が
あるという神社。耳の病気が全快したら、その人の歳の数だけ竹でま
ねた錐(きり)を、すだれのようにして供えたのだという。

 次の謡坂(うとうざか)にかかると、1997年から4年かけて修復整備
した石畳が残っている。


 その途中から、標識に従い左手に入って少し回り、マリア像のある
キリシタン遺跡に行き、昼食にする。

 この地で、昭和56(1981)、道路工事中に十字架を彫った自然石
が見つかり、江戸幕府の過酷な弾圧の中で、発覚もせずにある期間、
信仰が続けられていた貴重なキリシタン遺跡であることがわかったと
いう。

 「平和の像」と呼ぶマリア像のそばには、小さい休憩所や子規の句
碑などもあった。


 周辺は、昔と変わらぬ静かなたたずまいを見せている。  〈続く〉


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第10次中山道ウオーク②(加納~太田)〈続き〉

2009-04-21 16:32:59 | 中山道を歩く
 2009年4月2日(木)
 =加納宿から太田宿まで〈続き〉

 各務原駅を出て3㎞余り進み、国道を右に分けて旧道へ。車が少なく
なりホッとする。

 鵜沼(うぬま)の町並みに入り、県下最大の円墳という衣裳塚(いしよ
うづか)古墳下を進む。このあたりは段丘上となり、町並みの南に国宝・
犬山城が望まれる。


 古い家並みの残る鵜沼宿の一角に、中山道鵜沼宿町屋館があった。
 
 江戸時代、「絹屋」と呼ぶ旅館だったところで、昭和30年代までは郵
便局だったという。登録有形文化財に指定され公開されていた。


 鵜沼宿の外れで左に大きくカーブして、うとう峠に向かっての上り坂と
なる。気温も上がってかなり汗ばんできた。

 鵜沼台の住宅地の間を進み、人造池の横を上がって、謡坂一里塚の
そばにある「日本ラインうぬまの森」に着き休憩。

 ソメイヨシノ咲く背後にアカマツなどの広い緑の森が広がり、久しぶり
に緑の豊富な一角である。

 出発を前に芝生地で靴を脱ぎ、Nさんなどのリードで、ストレッチ体操
をして疲れをとった。


 桜も咲く謡坂を上がってうとう峠を越え、さらに林間の気持ちよい落ち
葉道を下ると、木曽川の流れが現れ、再び国道21号に合する。


 国道の横に、数知れぬほどのツクシが並んでいた。


 1㎞ほど先、木曽川が90度流れを変えるあたりで、左手の急斜面を
上がり、大岩の下に祭られたその名も岩屋観音堂に参拝する。


 観音堂は高みにあるので、眼下に木曽川が見下ろせる。


 すぐ先の勝山集落西端付近で、木曽川の右岸堤防上に設けられた
「日本ラインロマンチック街道」と呼ぶ遊歩道に上がった。

 自転車と歩行者専用道が、この先3.5㎞近く続いている。

 右手に木曽川の流れと急斜面の山肌が続くが、水量が少なく、日本
ラインの景勝地という印象には少し弱い。しかし対岸の山肌に、ところ
どころヤマザクラの白い花や、萌え出たばかりの新緑が目に入り、車
を気にせず歩ける気持ちよい道筋である。

 「行幸巌(みゆきいわ)」碑の立つところで小休止。説明板には、ここを
訪れた昭和天皇を始め、皇族や外国の国賓などの名が刻まれていた。


 ここで、昨日通過した垂井町にお住まいで、何度もコースリーダをされ
た I さんが待っていた。

 行く手に美濃加茂の市街地が近づき、その向こうに雪を被った御嶽山
(下の写真)や中央アルプスが望まれ、右手には、恵那山らしいのも見
える。


 日が傾き、少し涼しくなった。中濃大橋で堤防の遊歩道を離れ、太田
宿である美濃加茂の市街地に入る。間もなく、太田宿中山道会館と呼
ぶ広場と建物がある。

 展示室や休憩飲食コーナー、物産展示販売コーナーなどがあるようだ
が、宿も近いので寄らずに通過した。


 うだつの上がる家や、連子格子(れんじごうし)の民家など、古い家並
みの多い町並みを進み、中心街に近い今日の宿泊地、元禄荘に16時
35分に着いた。

【コースタイム】JR岐阜駅前8・03ーR56号横断8・47ー手力雄神社9・12
 ~25ー善林寺9・50ー各務原市民公園10・19~30ー川崎重工業前
 11・11ーJR各務原駅周辺(昼食)11・47~12・52ー衣裳塚古墳下
 13・30ー日本ラインうぬまの森14・05~33ー岩屋観音堂15・03~05
 ー行幸巌15・30~42ー太田宿中山道会館16・26ー元禄荘16・35

(天気 晴後快晴、距離 28㎞、地図(1/2.5万) 岐阜、犬山、美濃関、
 美濃加茂、歩行地 岐阜市、各務原市、坂祝(さかほぎ)町、美濃
 加茂市、歩数 45,600)
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第10次中山道ウオーク②(加納~太田)

2009-04-20 19:16:29 | 中山道を歩く
 今朝、4月20日(月)のNHK総合TV、「生活ホットモーニング」を
ご覧になりましたか…。

 (以下2つの画面は、NHK総合TV(地上デジタル)から)


 ナマ出演したやまさんの、「駅」ローカル線途中下車ぶらり旅、の
クイズ、やまさんが現在実行している歩き旅は、次の4つのどれか
というもの。

 ①関東百駅 ②中央線全駅 ③東北線無人駅 ④「山」のつく駅

 当ブログをご覧いただいている方なら、お分かりだったことと思い
ます。カテゴリーの一つにもなっている ①関東百駅が正解でした。


 回答者3人とも違う答えで、当たった人はいませんでした。という
ことは裏を返せば、やまさんの歩き旅の、ユニークさが際立っている
ということになるのではないでしょうか…。

 さて、今日のレポートは、月初の中山道ウオークの2日目です。

============================ 

 2009年4月2日(木)
 =加納宿から太田宿まで=


 
 今日は好天の予報。JR岐阜駅南口に集合し、準備体操をして8時3
分にスタートした。


 加納宿本陣跡には、皇女和宮が文久元年(1861)10月26日、この
地の松波藤右衛門宅に宿泊されたとき、自分の心情を詠んだという、
「遠ざかる 都(みやこ)としれば旅衣(たびごろも) 一夜の宿も 立(たち)
うかりけり」の直筆を刻んだ歌碑が立っていた。


 加納宿大手門跡の、すぐ先で渡った小さい流れのソメイヨシノは満開。

 昨夜のテレビでは、岐阜市内の桜の満開を告げていた。

 幾つかの鍵の手を通過してJR東海道線の東に出て、岐阜市の市街
地を抜ける。間もなくの小さな地蔵堂に、右に分かれる伊勢道への石
標があった。


 近くには、復元されたらしい細畑一里塚の両側に、太い木が植えら
れていた。


 2㎞ほど車道を進むと、みごとなしめ縄の下がった朱の鳥居がある。

 ちょっと回り道して、その先にある手力雄(たぢからお)神社に寄った。

 白木の社殿は、再建されたばかりで真新しい。広い境内の隅に鉄骨
で組んだスタンドのようなものがある。4月第2土曜に行われる火祭り
のためのものらしい。

 境内の真ん中にある、やわらかな新芽を見せ始めた背の高いケヤキ
も目についた。


 東側の川の堤防沿いにソメイヨシノの並木があるが、満開にはもう少
しの感じ。


 名鉄各務原(かかみがはら)線高田橋駅付近で、中山道に戻った。

 東海北陸自動車道下を抜け、名鉄新加納駅の近くを右折して、織田
信長や尾張徳川家ゆかりの寺だという善林寺の前を通過する。


 寺の南東側道路の隅に、横向きの変わった双体道祖神が立つていた。

 東側は間の宿(あいのしゆく)である新加納宿。Y字路に「新加納一里
塚」の標識だけが立っていた。このあたりから各務原(かかみがはら)市
の中心街に入る。


 ソメイヨシノがかなり咲く那加橋を渡って、市民公園で休憩。園内の桜
もほぼ見ごろである。

 公園を出て、名鉄各務原線とJR高山本線の北に回ると、まだ枯れ枝
のメタセコイアとイチョウの並木がまっすぐ東に伸びている。

 2004年11月、韓国春川市との姉妹都市提携一周年を記念して、韓
国ドラマ「冬のソナタ」のロケ地である春川市南怡島の並木道と姉妹提
携し、「冬ソナストリート」と名付けたという。

 そばの公園のヤナギの若芽が、そよ風に揺れていた。


 中山道に戻ると、南側一帯は航空自衛隊岐阜基地。時折鋭い金属音
をとどろかせ、ジェット機が急上昇するのが見える。

 中山道は国道21号に合し、交通量が増えるが歩道はない。近くの川
崎重工業の工場内にもソメイヨシノが多いが、花はまだ三分咲くらいだ
った。


 正午近くにJR高山本線各務原駅近くに着き、1時間ほどの昼食タイム
となる。各々が周辺の飲食店に入って昼食をする。

 うどん店に入った私は、早めにJR各務原駅に戻った。無人の駅でトイ
レを借りようとしたが無い。市の中心駅なのにと、地方都市の現実を知る。
近くの、これも無人の名電各務原駅のトイレを借りた。   〈続く〉


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第10次中山道ウオーク①(関ヶ原~加納)続き

2009-04-19 10:52:40 | 中山道を歩く
 風邪で中止した国際ウオーキングトレイル実踏に、遅れて3日目の
4月17日(金)のみ参加し、予定どおり山梨県の中心・甲府盆地の
南部、市川三郷町のJR身延線、市川大門駅まで歩いてきました。

 昨、4月18日(土)は、午後、早稲田大学、早稲田キャンパス内の
早稲田ギャラリーで開催された、四国遍路公開シンポジウムのプレ
イベントに出かけ、歩いて2度四国遍路をされた月岡祐紀子さんの、
四国遍路や継承しているごぜ三味線の話と、ごぜ歌と月岡さんご自
身で作詞作曲の遍路組曲の演奏を聞いてきました。

 その様な次第で、第10次中山道ウオーク初日の続きが、だいぶ間
があいてしまいました。

=============================

 2009年4月1日(水)
 =関ヶ原~加納=〈続き〉

 美江神社で食事をして休んでいると雲行きが再び怪しくなり、冷えて
きた。美江寺宿を抜けて田園地帯に出たら再び雨となり、ザックカバー
を被せたり傘を差したりしたが、雨は長くは続かずに済んだ。

 長良川の支流にかかる慶應橋を渡って河渡(ごうど)宿へ。

 一里塚碑の先で長良川右岸下に出て、「相染堂」とも呼ぶ観音堂の
横を通過する。



 本堂の大屋根が目立つ円成寺の横から河渡橋際に上がり、700m
ほど上流に進む。


 支流の寺田橋を渡って長良川に残る渡し場、「小紅(こべに)の渡し」
の乗船場に行く。


 小紅の渡しは、道路の延長ということで無料。モーター着きの小舟に
船頭を入れて一度に9名乗船できる。

 乗船前に記念撮影をして、2組に分かれて渡った。背後に見えるピー
クは、岐阜城のある金華山。


 水量は多いが流れの幅は2~300mくらいか。鵜飼いで知られる上流、
岐阜市内の金華山下付近に比べると狭い感じ。数分で対岸に着いた。


 左岸に上がると、一帯は岐阜市の市街地の外れ。

 近くの乙津寺に寄りトイレ休憩。ここのトイレを使えるのは、善男善女
に限られる。


 境内には、弘法大師がこの地にお堂を建てた折、杖を逆さにさしたの
が芽を出したという梅の木があり、梅寺と呼ばれているという。

 本堂前には、大きく枝を広げたクスノキの大木が立つていた。


 JR東海道線の高架下を抜けると加納宿西の番所跡碑が立つ。加納
宿とは現在の岐阜市の中心部。今日の歩きは休んで先行していたリー
ダーペアの一人、Morimamaさんが待つ、JR岐阜駅前に16時32分に
着いた。


 雨が通り過ぎた後の午後は風が冷たく、気温も下がって真冬を思わせ
る寒さだった。

【コースタイム】関ヶ原駅8・00ー六部地蔵8・24ー垂井宿西の見付9・02
ートミタヤ(相川橋近くのスーパー)9・12~25ー青野一里塚跡10・00ー
兜塚10・33ー赤坂宿本陣跡10・40~50ー三ツ屋町の桜堤11・21ー小簾
紅園12・03~10ー美江神社(昼食)12・55~13・45ー生津のファミリーマ
ート14・15~22ー河渡一里塚跡14・37ー河渡の渡し15・08~25ー乙津
寺15・32~40ーJR岐阜駅前16・32

(天気 晴一時曇にわか雨、距離 32㎞、地図(1/2.5万) 関ヶ原、
 大垣、岐阜西部、北方、岐阜、岐阜北部、歩行地 岐阜県関ヶ原町、
 垂井町、大垣市、瑞穂市、岐阜市)

 注、距離はフリーソフト「カシミール3D」にて2.5万分の1デジタル地図
   上を測定したもの。
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