あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

中山道 芦田宿から佐久平駅まで歩く①(芦田宿~望月宿)(長野)

2016-10-31 22:23:36 | 中山道を歩く
 カントリーウオークのグループの春秋恒例の一泊のウオーキング、今回は東信州の中山
道を芦田宿(あしだしゅく)からJR佐久平(さくだいら)駅まで歩いた。


 第1日 2916年10月29日(土)
 == 中山道芦田宿から望月宿へ ==

 東京、大宮、高崎などからJR北陸新幹線はくたか555号に乗り、佐久平駅で9時
58分に下りた。先着のKさんや長野から参加のYさんと全員が合流する。


 私は大宮から乗ったが、最後尾の自由席入口には20人以上が並び、到着の車両はすで
にデッキまで満員でいくら押しても乗れない。2両先まで急ぎ移動して何とか乗車したが、
久しぶりの通勤ラッシュ気分で高崎までがまんする。

 駅からの浅間山


     
 佐久平駅前広場の周辺は、紅葉、黄葉がよい彩り。10時21分発の立科町(たてしな
まち)役場行きバスで終点まで乗り、10時59分に着いた。上空は厚い雲に覆われてい
てうす寒い。


 11時11分に出発して、北側の芦田中央交差点で中山道に入る。この辺りは江戸から
26番目の宿場、中山道芦田宿である。
    

 すぐ東側にあるのが金丸土屋旅館。文化元年(1804)頃からの旅籠屋(はたごや)
で、2階の部分が表に少し出ている出梁造り(だしばりづくり)や、煙出しを持つ屋根な
どの特長が見られる。



 交差点の南西側には、県宝になっている旧芦田宿本陣 土屋家住宅があった。土屋家は、
慶長初期(1596~)から明治に至るまで芦田宿の本陣を務めたとのこと。


 門を入ると、正面によく手入れされた庭園が目に付く。県宝の客殿(きゃくでん)は寛
政12年(1800)の改築で、明治維新まで大名や公家などの宿泊や休憩に使われたと
いう。


     立科町のマンホール
    


 隣接する町区公会所前には、鉢植えのキクがきれいな彩り。その隣は「ふるさと交流館
芦田宿」だが、寄らずに先に向かう。


 道路の北側には「蛇石様(じゃいしさま)」の案内札立っていた。江戸末期頃から蛇石
神社として石を覆う社があったとされ、現在は周囲2m以上の大石のみが残され、石の真
ん中には蛇の通った跡と思われる筋が残っているという。


 芦田宿の西端辺りで北方の展望が開け、山頂付近に雲を被ってはいるが色づく浅間山が
望まれ、右カーブした次の交差点際には、道祖神石が立っていた。


 稲架(はさ)掛けの田んぼや、色づいた柿の付近などからも浅間山を眺め、家並みの途
切れた道を東に向かう。

 中居交差点の先、畑の一角のこんもりしたところに「三界無縁供養塔(さんがいむえん
くようとう)」が立っていた。
         

 標高727.3m水準点の先、道路がX常に交差したところで、左の茂田井間の宿(も
たいあいのしゆく)への旧道に入ると、落ち葉掃きしていた奥さんが居られ、ナツメの実
をもらう。


 近くの茂田井一里塚跡で小休止して味わい、さらにYさん持参のリンゴもたくさんいた
だいた。

 一里塚は織田信長の時代に設けられ、徳川家康、秀忠が受け継いで慶長9年(1604)
に完成したとか。天保年間(1830~44)の記録ではこの両側に土塚があり、こちら
にはケヤキが、北側にはエノキが植えられていたという。南側の跡地は、小さい盛土やベ
ンチ、トイレのある休憩所になっている。

 土蔵の横にまきを積んだ家や、軒先につるし柿の家などを過ぎ、石割坂の急坂を下ると
間の宿の茂田井に入る。


    

 間の宿とは、宿場間が長い場合や、峠越えなどの難路の場合に宿場の間に設けられた休
息場所。茂田井の宿は芦田宿と望月宿との中間にあり、きつい峠越えの休息場所として設
けられたようだ。


 大きな馬頭観世音塔や高札場跡を過ぎると、車の交差が出来ない細道の両側に古い建物
が残り、間の宿らしさがかなり感じられ、その沿道に二つの造り酒屋がある。

    
 手前の大澤酒造は元禄2年(1689)の創業で、酒造りや街道文化の資料を展示した
民俗資料館や書道館、美術館などがあるようだが、寄らずに過ぎる。門には大きな杉玉が
下がっていた。




    
 その先の武重本家酒造の門にも新しい杉玉が下がり、江戸後期建築の住宅や明治初期の
酒蔵などは国の有形文化財とか。今日は休業日のようで、銘酒御園竹(みそのたけ)を求
めることは出来なかった。


 門を入った正面右手の建物内には昔の酒造道具が展示され、玄関横の梁には古い駕籠
(かご)が掛けられていた。
    


 門前の細い流れを挟んで若山牧水の歌碑があり、酒を詠(よ)んだ三つの歌が刻まれて
いる。ちなみに牧水は酒好きで、次の望月宿には牧水の足跡が幾つか残るという。
        

 歌碑の横から南側を走る新道に回り、稲架掛けの並ぶ田んぼの横を通過して昼食地と考
えた古峰神社下に行くが、急斜面の上でスペースも無さそうなので止める。
     

 さらに坂を上がり、左手にあった潅漑(かんがい)用水用ため池の西側の路傍に12時
44分に着き、陽が陰ってうす寒いが昼食とする。


 池の対岸で、1羽のサギがしばらくの間動かずにジッと止まっていた。

                            サギ↑

 13時30に出発し、次の望月宿(もちづきしゆく)に向かう。池の横辺りがピークで、
右カーブして下って行くと望月の家並みが現れた。国道142号の下を細道で抜けて下り、
小学校跡らしい広場の横を通過する。
     
 バス道に合して望月宿の西端辺りにあった大伴(おおとも)神社に寄る。

 景行天皇40年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、延長5年(927)にまとめられた延
喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちよう)にも記されているという古社。現在の本殿は
延宝5年(1677)の建築という。

 社殿は急石段を60数段上がった上にあり、境内はケヤキの古木など豊富な木々に囲ま
れていた。


 次のT字路を左折して鹿曲川(かくまがわ)の橋を渡り、東側山上にあった望月城の山
ろくの城光院(じようこういん)に行く。

 門前の「望月山城光院」と刻まれた大きな石碑には、梵字のような変わった文字が記さ
れている。
         

 城光院は、望月城主望月遠江守光恒の開基で望月氏代々の菩提寺とのこと。ちなみに、
真田十勇士の一人、望月六郎は望月氏の子孫という。本堂は江戸後期の享和年間(1801
~4)の建築らしい。


 山門を入ると、本堂前の庭に色づいたドウダンツツジが並び、右手には「城光院の石造
十王像」と呼ぶ小さい石仏が並んでいる。



 モミジも色づき始め、マツなど植栽もよく手入れされていて趣ある庭。山門を入った左
手には、「城光院の石造庚申塔」と呼ぶ大小10数基の庚申塔が並んでいた。


 ツツジの間で記念撮影をして、城光院を後にした。



 寺の前を走る旧道を東南に向かう。寺の土塀に絡んだツタも鮮やかな彩り。南西側間近
に、佐久市役所望月支所の大きな建物が目に入る。



 色づいた柿がたわわに実る木があちこちにあり、山上の望月城址まで上がる遊歩道入口
を過ぎると、その先の民家の屋根下に大きなスズメバチの巣が下がっていた。


 間もなく次の寺、金峰山信永院(きんぷさんしんよういん)である。天文元年(1532)
に望月左衛門尉信永の開基で、荘厳和尚の開山と伝えられているとか。

 本堂は江戸末期の建築とのこと。本堂前には、根元から10数本の幹を生じた珍しいカ
ヤの巨木が立っていた。樹齢は約500年という。
     
 木の下でカヤの実を拾っていたら、ご住職だろうか作務衣を着た方が来られ、カヤの実
の食べ方を書いた紙をいただき、実の割り方も実演して下さった。

 少し戻って鹿曲川を渡り、中山道望月宿の東端近くの通りに入る。望月支所に上がるT
字路際の消防分団の建物は、宿場らしい建築に建て替えられていた。
     

 望月は清和天皇の頃(876)から「駒の里」と呼ばれ、「望月」の名は8月の満月の
日に朝廷へ名馬を治めたことが由来といわれ、紀貫之など多くの歌人に詠まれ親しまれて
いるという。
    

       
 町内のあちこちに、来週の文化の日に開催される駒の里ゆかりの草競馬大会のポスター
が貼ってある。
 

 望月宿入口交差点を右折して緩やかに上がり、鹿曲川の支流の八丁地川を渡る。養魚池
のすぐ先を入って、宿泊する青木荘には15時11分に着いた。


(参加 15人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 丸子、歩行地 立科町、
 佐久市 歩数 14,000、累積標高差 上り約140m、下り約170m)


 夕食の18時半までには3時間以上ある。望月宿本陣跡にある望月歴史民俗資料館を観
覧することにして、一人で宿を出た。

 望月宿入口交差点から北西へ望月宿の家並みが続き、あちこちの建物の前には、駒の里
望月ゆかりの木馬形植木鉢が目に入る。
    

 望月宿の中心部に、佐久市立望月歴史民俗博物館があった。この場所は本陣の跡地だと
いう。

 門を入った中庭には形の良い自然石が配され、建物前には大きな双体道祖神や、蓼科山
からの用水に用いられたという「水割場石(みずわりばいし)」と「木樋(きどい)」、
馬や牛などを止めるための駒つなぎ石などがある。
    

 博物館に入り(入館料300円)、今日は中山道を芦田宿から歩いたことを話したら、
「東信州 中山道を歩く」という小冊子を頂いた。

 展示室は1階と2階にあり、1階の第1展示室は「郷土の歴史と文化」で、縄文式土器
や石器、平安時代から室町時代まで献上された「望月牧(もちづきまき)」と呼ぶ貢馬
(みつぎうま)の様子などが展示されている。

 2階には、宿場町望月に関わる古文書や絵図などを展示する「中山道望月宿」と、望月
の近代の生活道具や仕事、祭り、養蚕から製糸までの流れなどを紹介する「人々のくらし
と伝統」の二つの展示室がある(館内の写真はネット紹介禁止とのこと)。

 観覧を終えて入口そばに戻ったら、係の男性が小室節(こむろぶし)の尺八演奏を聴か
せてくれるという。演奏の後、この小室節はモンゴルの民謡に似ていること、各地に伝わ
り江差追分など〇〇追分となって全国に広まったことなど、さらに明日歩く行程を話した
ら、八幡宿の八幡神社と塩名田宿の駒形神社の二つの国重要文化財の社殿をぜひ見るよう
勧めてくれた。

 50分近く経過して、15時半過ぎに民俗資料館を出た。

 館前の建物は、望月町商工会館の看板が掛かり「望月まちの駅」の表示もあるが閉館し
ていた。


 往路を戻る望月宿の家並みには、旅館山城屋↑、脇本陣鷹野↓、大和屋、犬神家一族の映
画で那須ホテルとして使われたという井出野屋旅館など、古い建物が残っている。




 井出野屋旅館


 気温がいっそう下がり、肌冷えが感じられて寒い道を急ぎ、17時前に青木荘に戻った。
(往復約1.6㎞)





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風景画展を観賞して新宿御苑を巡る(東京)

2016-10-26 22:45:58 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2016年10月26日(水)

 快晴になったのですが東京の気温は25℃を超えて、少し暑いくらいの陽気となった今
日は、東京・新宿御苑に出かけました。


 最初は、新宿御苑インフォメーションセンター1階のアートギャラリーで開催中の「第
20回『どんぐりの会』風景画展」の観賞です。
        
 このグループの中にカントリーウオークの仲間のTさんがおられ、毎年この会場で風景
画展を開催していて、今年も案内を頂いたので出かけたのでした。


 どんぐりの会は、「日本の美しい自然を楽しみながら描くことと、自然景観の保全に努
めることを目的として活動している」とのことで、会員12人が4点ずつ、あわせて48
点の作品が出展されていました。



 スケッチした場所は、新宿御苑を初め東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木など関東地方の
ほか、福島、山梨、長野、新潟、さらには北海道に出かけて描いた、私もよく知っている
観光地などがほとんどで、美しい風景画の数々を楽しみました。



 この風景画展は、週末の10月30日(日)まで開催中です(無料)。

 会場のそばのロビーでは、新宿御苑で採れるドングリがたくさん展示されています。


         

 観賞後は、例年同様に新宿御苑を回ってみることにして、そばの新宿門から入園します
(大人200円)。


 新宿御苑の広さは58.3㏊(約18万坪)、周囲3.5㎞になるようです。
 
 地図の左上が新宿門、そこから園路を右(東)に進んで下(南)に回り、3つの池のそ
ばを左(西進)へ、左側の中ほどの日本庭園を経て、新宿門に戻る予定です。

 園路の最初はモミジなどに覆われていますが、まだ緑のまま。


 イギリス風景式庭園付近から、いつも西に目に付くNTTDoCoMo代々木ビル。
   

     ジュウガツザクラが咲いていました。
    

        

 近くにももう1本


    

 イギリス風景式庭園の木の下では、幼稚園の園児が遠足に来て昼食中のよう。


 ユリノキの高木、明治9年(1876)頃に日本で最初に植えられたものとか。
     

 近くの丸花壇に花開くサルビア レウンカンサ


 その横では、たくさんのツワブキが見頃に。


        

 北側にはガラス張りの大温室がありますが、今日は通過します。


 北西端の大木戸門の南側にある大木戸休憩所に回り、見下ろす玉藻池。


 休憩所のそばには、低く枝を伸ばしたマツが。



 池のそばに下りて橋を渡り、流れに泳ぐカルガモなどを眺めながら南進しました。


 玉藻池の南側から眺める大木戸休憩所周辺。


     池のそばのモミジの色づきは、もう少し先になりそう。
    

 池の南側は、うっそうとした常緑広葉樹の森です。


 森を出て、フランス式整形庭園のプラタナス並木のそばへ。木の下のベンチで憩うのは
なぜか女性が多いよう。


 その西側は、園内で一番広いイギリス風景式庭園の東端になり、公園の西側に並ぶ新宿
副都心のビル街などが一望できます。



 南北にあるプラタナス並木の間はバラ花壇で、ちょうど秋バラが見頃になっていました。
    

        

    


 秋バラは、11月下旬まで楽しめるようです。
    



    



    



 今日は日差しが暑いくらいなので、どこも木陰が人気のよう。


 色づき始めたソメイヨシノの葉


 南側の下の池に下り、池の南に回って折り返して西に向かいます。


 こちらにもカルガモが


 下の池の西側は、中の池


 中の池の南側は、春はツツジの花で彩られるツツジ山ですが、いまはひっそり。


 中の池の北側に見えるのはレストハウス。


 中の池の西側から、北に回って日本庭園へ。


 日本庭園の茶室・翔天亭の背後から新宿門に向かいます。こちらの緑陰にも大勢の人が
休憩しています。


 そういえば今日は休日ではないのにこの人出、さすが新宿御苑です。



 13時過ぎに新宿門を出て右手のインフォメーションセンターに戻り、食堂で昼食とし
ました。




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アートウオークセラピーで三浦富士から武山へ(神奈川)

2016-10-24 22:01:02 | カントリーウオーク
 2016年10月23日(日)

 あと2回で終了という三浦半島のカントリーウオーク、山浦敬子さんの「アートウオー
クセラピー」No47に参加した。


 集合は京浜急行久里浜線の京急長沢(けいきゅうながさわ)駅。参加者は、啓子さんの
ほか、茅ヶ崎のIさん、葛飾区のUさんと私の4人。10時09にスタートした。今日は
好天なので、北側の三浦富士に向かって上がることにする。

 東側の車道を北へ、左カーブしたところで背後の5階建て集合住宅の北側に回る。住宅
のエンゼルトランペットが咲き残っていた。
    

 集合住宅の西北端へ、折り返すように北に上がる旧道を進むと、行く手の三浦富士山が
望まれる。


 狭い舗装路が尽きて登山道となり、間もなくの右手に「解放戦士の碑・平和母子像入口」
の標石があったので回ってみた。

    
 手前の広場に解放戦士の碑があり、神奈川県下の平和と民主主義運動で逝った活動家を
顕彰するため1982年に建立したとのこと。

       
 奥にある母子像は、1977年9月、厚木基地から空母ミッドウェーに向かった米軍機
が横浜市緑区に墜落炎上し、その際死傷した9名中の母子のことが記されていて、核も基
地もない日本を願う団体や個人により、1985年に建立されたことが記されていた。


 この辺りまで上がると高度が高まり、霞んではいるが南側の金田(かねだ)湾の展望が
開けてきた。


 登山道はマテバシイの純林が続き、根元から10本前後枝を伸ばした独特の樹層の林に
覆われている。ひとしきり登った後は傾斜が緩み、東側にミカン畑が現れた。


 展望はあまりないが、時折切れる樹間からは、やはりマテバシイなどの常緑広葉樹に覆
われた東側の稜線が望まれる。

 
 足もとに目を落とすと、トリカブトが2輪花を見せていた
  

     
 細くなった稜線を進むと、隣のYRP野比(わいあーるぴーのび)駅からのコースと合
する。そちらから上ってきた男性によれば、かなり傾斜はきつかったという。

 その先はやや斜度が強まり、最後は急斜面を上がって三浦富士山頂(183.1m)に
着いた。

 石の多い山頂には何個かの石の祠(ほこら)が並び、「津久井村社浅間神社奥宮」碑や、
昭和天皇だろうか「御大典記念」碑などもある。
        


 木々の切れ間からは、西に三浦半島西岸の小田和湾周辺↑、南に金田湾↓、南東に野比の
寺のものらしい五重塔が、北に横須賀方面のビル群などが望まれる。


       



    
 記念撮影をして10足らずで山頂を離れ、西北に下る階段から次の稜線を西に向かう。
     


 相変わらずマテバシイの深い樹林が続き、その切れ目から北に、谷を隔てた横須賀リサ
ーチパークの研究所の建物群などが望見できる。




    
 細い稜線沿いにはマテバシイのドングリがいっぱい落ちている。北からの道と合して、
軽自動車が通れるくらいの道幅となる。


 路傍にまたトリカブトが2輪だけ咲き、ミズヒキはたくさん花を見せていた。


 ベンチのある展望台があり、南に金田湾↑や西側の展望が得られる。


 その先で、赤く色づいてきた実はガマズミだろうか。


 Y字路に「砲台山」の表示があったので、幅広い道を右にぐるりと回り込んで行くと、
2基のパラボラアンテナ塔が立ち、コンクリート造りの円形の窪地がある。
     
 
 標高204mの大塚山のピークで、昭和初期に海軍が砲台を造ったことから砲台山(ほ
うだいやま)とも呼ばれるようになったとのこと。11時42分に着き、昼食とする。

 アンテナ塔は海上保安庁武山受信所のものらしい。すり鉢状の砲台跡の中央部には、か
つて高角砲が据え付けられ、8個の四角の穴は弾薬の格納庫と思われるという。


 12時20に砲台山を去り、Y字路に戻ってさらに緩やかなアップダウンの道を西進し、
最後は急な擬木の段を上がる。
     

       
 防衛省と携帯電話用らしい2本のアンテナ塔の間を抜けて武山(たけやま)山頂
(200m)に着いた。

 展望台があり、2段ある上の展望台まで上がると360度の大展望。北東には横須賀リ
サーチパークの建物群が連なり、その右手には東京湾を挟んで房総半島の山並みや横須賀
市の住宅地、先ほど通過した砲台山周辺など、南方に三浦半島の先端部などが一望できる。






 好天なら南に伊豆大島が、西方に伊豆半島や富士山も望めるようだが、今日は霞んで認
識は難しい。

 山頂一帯には2,000本のツツジが繁茂していて、5月上旬には武山ツツジ祭りが開催
されるという。狂い咲きの花が1輪だけ咲いていた。
    

 山頂西側には三浦半島霊場の1番札所不動院があるが寄らず、展望台から南に下る急坂
を津久井駅方面に向かうことにした。


 高度をどんどん下げ、津久井五丁目の古くからの集落の近くにはミカン畑が多く、色づ
いてきたミカンがたくさん目に入る。



 集落を抜けて前回の4月24日(日)の帰路に通過した、広々とした台地上の畑作地帯
に出た。


 霞んでいた東の空が澄んできて、房総の山並みがかなりはっきり見えてきた。



 キャベツなどの畑の中の十字路際に、「いも掘り案内所」の小屋と駐車場があり、近く
の畑では家族で来た多くのグループがサツマイモ掘りを楽しんでいる。





 ダイコンなどの畑の間を南に進み、次のY字路を左折して台地下に向かうと、斜面の崩
壊を防ぐように支えた、スダジイのたくさん根の張る一角があった。


         津久井浜高校↓

 台地下の津久井四丁目まで下り、高田橋際から津久井川の右岸沿いに付けられたハイキ
ングコースの細道を駅近くまで進み、今日のゴール京浜急行久里浜線の隣駅、津久井浜駅
に14時04に着いた。


(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦賀、歩行地 横須賀市、歩数 
 13,600、累積標高差 上り・下りとも 約370m)




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「続カタツムリ歩行」で南流山駅周辺を歩く(千葉)〈後半〉

2016-10-20 21:28:08 | カタツムリ歩行
 2016年10月16日(日) 〈続き〉

 続カタツムリ歩行が散会後の帰路は、近くの小金城址や本土寺(ほんどじ)を回って、
JR常磐線の北小金駅に向かうことにする。

 東側の大谷口集落の住宅地を北に下って東にすぐ、大谷口歴史公園になっている小金城
址へ金杉口(かなすぎぐち)跡から入る。


 小金城の虎口(こぐち・出入口)のひとつで、斜面を少し進んで最上部の城跡の広場に
上がった。ここには、「やまさん」こと山浦正昭さんの「関東百駅巡礼歩行」の第99番
目として、約3年前の2013年11月9日(土)に来ており、東屋(あずまや)で昼食
したことを思い出す。

 小金城は大谷口城とも呼ばれ、規模は南北約600m、東西約800mあり、県下で最
大級の中世城跡とのこと。城主の高城(たかぎ)氏は、千葉氏の一族か千葉氏から分かれ
た原氏の一族といわれ、戦国時代末には東葛飾地方で最大、下総国有数の領主、武将だっ
たらしい。

 小田原北条氏の軍事的勢力に組み込まれたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小
田原城攻めで北条氏と運命をともにし、小金領主としての役割も終わったという。


 広場の周囲には土塁↑が残り、東側に下る途中には、↓障子堀(しょうじぼり)の一部も
確認できた。北東の隅に下って小金城跡を出た。
     

 県道280号を横断して中金杉三丁目の住宅地に上がり、中金杉一丁目の中央部にある
香取神社に行く。



 ここもきょうは秋の祭礼の日で、そばの広場には舞台が造られ金杉自治会の出店もある。


 
 狭い境内にもテントが張られ、地元の方々多数が参拝に訪れて賑わう。ここにも、江戸
時代の青面金剛などの石塔が集められていた。


 東進して、新しい住宅地のそばに野菜畑も残る一角を過ぎる。


 金杉二丁目の東南端付近のY字路際に、寛政7年(1795)の青面金剛石塔と、年代
不詳の聖徳太子講中の石塔が並び立つ。
    

 その先で左カーブして本土寺の参道入口に着いた。そばに、漬物などを販売する古くか
らの店が2軒ある。



 桜並木の参道を進み、朱塗りで背高い山門前に出た。

 ここにも、3年前のやまさんの「関東百駅巡礼歩行」で来ていたが、その時にはこの山
門前までで、境内には入っていない。

 本土寺は、建治3年(1277)にこの地の豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子
日朗を導師として招いて開堂したのが始まりとか。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺とともに
「朗門の三長三本の本山」と称される名刹(めいさつ)で、松戸地方における日蓮宗の教
団活動の中心とされたという。

 近年は「あじさい寺」として市民に親しまれているようで、山門を入った一帯から境内
一円にかけて、数え切れそうにないアジサイが植えられている。


 モミジの名所でもあり、山門を入った両側、アジサイの上もたくさんのモミジに覆われ
ていた。

         
 アジサイの間にある「翁(松尾芭蕉)の碑」は、文化元年(1804)に行われた芭蕉
忌を期して建立されたとか。本土寺では、しばしば「翁会」と呼ぶ句会が催され、小林一
茶も参加したという。


 正面の本堂に参拝後、右手の回廊下をくぐると、徳川家康の側室、秋山夫人の墓がある。
     
 秋山夫人は甲斐武田家の一族、秋山虎康の娘で、15歳で家康の側室になり、家康の第
五子・万千代を生んだとのこと。万千代はのち武田信吉と名乗り、天正18年(1590)
に小金城3万石に封ぜられたという。墓石は、信吉の甥、水戸光圀が貞享元年(1684)
に建立したようだ。


 その先に「順路」の表示があるので、回ってみた。アジサイやモミジなどの植え込みを
抜けると、菖蒲田(しょうぶだ)などの低地に下る。
     




 菖蒲田の横を回り、折り返して回廊の下を抜けると、「日像菩薩誕生水」がある。

 第二の日蓮といわれた日像聖人が文永6年(1269)、ここ平賀家で生誕の折にこの
井戸が湧き出て、以来「乳出の霊水」とあがめられているという。


 自然のままの池や、がけ下に祭られた銭洗弁財天のそばを通過して本堂前に戻る。


     
 西側高みの五重塔や、そばの建治4年(1278)鋳造で県下で2番目に古いという梵
鐘(ぼんしよう)の下がる鐘楼も見て、30分ほど過ごして山門を出た。


 なお、アジサイや紅葉の見ごろの時期、本土寺は入山料(大人500円)が要るようだ
が、季節外れの今日は無料開放されていた。

     
 山門前から延びるケヤキなどの参道を抜けて、南に向きを変えた道を直進し、14時25
分にJR常磐線の北小金(きたこがね)駅に着いた。


(天気 晴 距離 9㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 流山市、松戸市、歩数
 18,600)




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「続カタツムリ歩行」で南流山駅周辺を歩く(千葉)〈前半〉

2016-10-20 16:42:49 | カタツムリ歩行
 2016年10月16日(日)

 JR武蔵野線の周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第38回例会に参加した。集合はJ
R武蔵野線の南流山(みなみながれやま)駅で、この辺りは地下を走る、つくばエキスプ
レスの駅とも交差している。


 カントリーウオークの仲間で、江戸川を挟んで川向こうの三郷市にお住まいのIさんも
参加されたので、一緒に10時02分に東口をスタートした。

 駅前を東北に進み、広い通りを横断して北側の台地上にある千仏堂に行く。

 開け放たれた堂内に千体の仏像が祭られているのかと思い、右手建物におられた方に伺
うと、ここは近くにある東福寺の奥の院で、千体仏は東福寺のお堂に近年移したという。

 参道の両側は墓地で、参道に面して江戸時代の石仏が何体も、一定の間隔で立っていた。
       

 台地下に戻り、千仏堂の西側を進む。道路際にたくさんの陶器製の樽が土嚢(どのう)
代わりに埋め込まれていた。流山はみりんの街なので、その容器を転用したのだろうか…


 流鉄(旧総武流山電鉄)の踏切を渡ると西平井地区だが、一帯は区画整理事業が進行中
で、地図上の道路は無くなったものもあり、新しい道路や住宅が出来つつある。


 つくばエクスプレスの線路が地下から堀割に出た辺りから、北に少しで本覚寺に入る。

 南北朝時代に創建された日蓮宗の寺院とのこと。どっしりと立つ本堂は昭和25年
(1950)の再建という。


     
 少し戻り東へ、つくばエクスプレスの堀割上を陸橋で越えた思井集落は、昔ながらの静
かなたたずまい。


 豊富な森に囲まれた一角に熊野神社が祭られていた。

 社殿は天和元年(1681)の再建とか。境内はシイノキやカシなど常緑広葉樹が豊富
で、急石段の近くに弘化5年(1848)銘の庚申塔↓や文化15年(1818)銘の馬
頭観世音石が立ち、社殿背後にも古い石塔が並んでいた。
       

 南に下って宮園二丁目から一丁目へと近年開発された住宅地際を進む。南西側の古くか
らの住宅にピラカンサがたくさんの実を付けていた。


    
 流鉄鰭ヶ崎(ひれがさき)駅の西北の踏切を渡り、高台の一角を占める東福寺に東側の
山門から入った。山門の近くにはホトトギスが花を見せる。




     山門の近く、枯れた木の洞にお地蔵さんが祭られている。
    

 弘仁5年(814)に弘法大師により開山したという古寺。天慶3年(940)には藤
原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門(たいらのまさかど)追討の祈願をし、朱雀天皇
から荘田(しようでん)500石を賜るなどして栄え、江戸時代には朱印地30石を有し
末寺132ヶ寺を統括するなどで繁栄したという。


 最初に訪ねた千仏堂の仏像は、本堂の西に並ぶ新しい千仏堂に祭られていた。



 扉を開けて拝観したら、中央の阿弥陀如来像を中心に小さな仏像も、まばゆいばかりの
金色の輝きで並んでいた。

 山門際の説明板によれば、中央の阿弥陀如来像は像高90㎝、小さい千体仏も阿弥陀如
来像で、江戸時代中期(18世紀末頃)の造立と考えられ、平成19年に修理後ここに移
されたという。


 境内にはほかに、真言宗中興の祖、興教大師(こううぎょうだいし)を祭る八角屋根の
密厳堂(みつごんどう)↑、弘法大師を祭る大師堂↓、周囲に四国八十八か所霊場の本尊石
仏を巡らした鐘楼、市保存樹木のイチョウなどがある。





 朱塗りの山門を出た南側の石段下には、数え切れないほどの庚申塔や青面金剛像などが
集められて並び、そばのドウダンツツジが色づきはじめていた。




    

 正午近くなったので、最短でゴールに向かうことにする。鰭ヶ崎小の一本北側の道を鰭
ヶ崎駅前に向かうと、民家の庭先に手づくりの風車がたくさん並んでいる。


       
 駅前を過ぎて、流鉄線路の南側沿いを進む。線路際にはフヨウが咲き残り、色づき始め
たミカンがたくさん実る木も多い。


     流山市のマンホールデザインは、市の花ツツジを描いたもの。
    

 市境の坂川の橋を渡ると、流山市から松戸市に入る。



 合流した新坂川沿いには草木が生い茂り、たくさん実を付けたピラカンサやムラサキシ
キブ、セイタカアワダチソウの花などが流れに彩りを添える。


 流鉄小金城趾(こがねじようし)駅の手前で橋と線路を渡って駅前を東進する。


 斜面林下の大谷口馬屋敷緑地↑の横を少し上がり、ゴールの大谷口神明神社には12時
06分に着いた。

 神社はきょう祭礼の日。拝殿正面が開けられ、氏子の方々が集まっているので、私たち
は西側のスペースで昼食をする。

 拝殿の周辺には、宝暦6年(1756)とか安政7年(1860)、宝永4年(1707)
などと刻まれた、江戸時代の庚申塔や青面金剛塔、供養塔などがたくさん並んでいた。



 食事を終えて記念撮影とミーティングをして、12時50分に散会した。〈続く〉




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杉並・高円寺と梅里の寺町を巡る(東京)〈後半〉

2016-10-18 20:39:46 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月15日(土)〈続き〉

 昼食を終え、そばの高円寺陸橋交差点を渡った青梅街道の南東側は、10月3日(月)
にも来た蚕糸の森公園。青梅街道の歩道には、これから行く妙法寺の参道入口として建て
られた青銅製の灯ろうが、参道を挟んで2基立っている。
     


 公園に入り、西側の園路を3日とは逆行して人工の滝の横から池の西側を回って南西端
に抜けた。


 妙法寺の旧参道だった細い道路を少しで、日蓮宗蓮光寺(れんこうじ)がある。江戸時
代は旗本寺として栄えたようで、台東区元浅草から、区画整理のため大正4年(1915)
に現在地に移転したとのこと。


 この寺で有名なのは「開運大黑天」で、日蓮上人が母妙蓮尼の病気平癒を祈願して彫っ
たと伝えられ、本堂右手前の大黒天堂↓に祭られている。本堂、大黒天堂ともコンクリー
ト造りで、近年塗り直したのか塗装は新しい。
        

 寺には、インド独立の志士チャンドラ・ボースの遺骨を安置しているようで、本堂前に
はボースの胸像があり、プラサット元大統領、インディラ・ガンジー元首相などの追悼文
も刻まれていた。
    

 南側の大学生協会館の建物前には、広島で原爆に被爆したアオギリの種から育ったとい
う、被爆アオギリ二世が葉を広げていた
     


 環状7号線に合して、南側の信号を渡った西側は、日蓮宗の宗延寺(そうえんじ)であ
る。

 大正8年(1919)に区画整理に伴い台東区東上野から移転してきたとか。本尊の祖
師像は通称「読経の祖師」と呼ばれ、江戸十祖師のひとつに数えられて江戸市民に親しま
れたとのこと。


 本堂前のさい銭箱は、移転以前からのもののようで、年代の古さが感じられる。
    

 北側の道路を挟み、北西側一帯には緑豊富な真盛寺(しんせいじ)の広い境内が目に付
く。天台真盛宗の東京別院で、大正11年(1922)に墨田区横川から移転したとのこ
と。寺は、日本橋に越後屋を創業した三井家の菩提寺で、俗に三井寺とも称されるという。

 本堂は安永5年(1776)、元三大師堂は文政3年(1820)など区内で少ない江
戸時代の建物があるようだが、参詣者以外入場禁止の表示があり、山門で引き返すしかな
く残念だった。(山門からは木々だけで本堂などは見えない)


 環状7号線の西に平行する路地を南下すると、福相寺(ふくそうじ)の門前に出た。

 昭和12年(1937)に文京区白山から移転してきた寺で、「願満大黑天」と呼ばれ
る木造大黑天像は病気平癒や福を授けてくれるとして、江戸後期には由来記を配るほどの
信仰を集めたという



 墓地には、俳人長谷川零余子(れいよし)・かな女夫妻の墓があるとのこと。墓は見つ
からなかったが、本堂前に零余子の句碑が立っていた。
       

 さらに南進し、掘ノ内東公園の先で右折して西に回ると、広大な境内を持つ妙法寺(み
ょうほうじ)の山門前に出る


 妙法寺は日蓮宗の本山で、江戸時代から「厄除(やくよけ)大師」として庶民に親しま
れ、浮世絵や黄表紙、川柳などの題材や画材として多く描かれとのこと。近辺の村々は将
軍家の鷹場になっていたため、将軍家もたびたび訪れたという。


 境内には、天明7年(1787)建立で都重要文化財の山門、文化8年(1811)建
立で都重要文化財の祖師堂↑、文政2年(1819)建立の本堂↓、文政11年(1828)
建立の日朝堂、明治11年(1878)建立で国重要文化財の鉄門などが並び、それらの
周辺は豊富な緑に覆われている。



 豪壮な山門を入り、一番大きな祖師堂に参拝し、左手から背後に回る。読経の聞こえる
本堂横から日朝堂↑へ、さらに広葉樹に囲まれた五重塔や、作家・有吉佐和子の碑、三十
三夜堂、病気平癒や家内繁栄を呼ぶとされる清水の浄行さま、鉄門などの周囲を一巡した。
     

        

            浄行さま
            

 国重要文化財の鉄門は、わが国近代建築家養成の恩師といわれている英国人コンドルの
設計で明治11年(1878)に完成したもの。


 日朝堂の背後は広大な墓地で、北側の道路に抜けられるかと一巡したが、塀に囲まれて
いて出られず、鉄門横に戻る。境内と墓地とで30分余りを経過して山門を出て、南西側
から塀沿いに北に向かう。

 妙法寺墓地の道路北側中心部は近代建築の本佛寺だが、ほかの寺のような説明板は無い。


 西側の妙祝寺(みようしゆうじ)は民家風の建物で、大正3年(1914)に港区元麻
布から移転してきたとのこと。

 墓地には伊予(愛媛県)西条藩主一柳家の累代の墓があるという。


 T字路を隔てた南西は修行寺(しゅぎょうじ)。大正元年(1912)に新宿区富久町
から移転してきた寺で、庫裡(くり)の前の植え込みに、きれいな花が何種か咲き競って
いた。




 寺の南から、新しい住宅街の間を西に抜けて北西に回り、西方寺(さいほうじ)に北東
側の新しい山門から入る。


 寺の開基は徳川三代将軍の弟、駿河大納言忠長といわれ、大正9年(1920)に国鉄
中央線と道路拡張のため新宿駅北側付近から移転してきたという。

 山門を入って右手にある鳥塚は、明治38年(1905)の造立で、食鳥を供養するた
めに建てたものらしい。
       

 墓地の入口には、墓地所有者全部の名前を記した墓地地図があり、ほかでは見たことの
ない詳細なものだった。


 本堂はコンクリート造り、最近改築したのか色鮮やかだ。


 西方寺を含む西北側一帯は「梅里の寺町」と呼ばれ、大正期に都心部の区画整理などを
きっかけに移転してきた寺院により形成されているという。

 南西に進んでV字状に折り返すと、民家の庭先にたわわに実る柿の実が色づいていた。
     

 北側の清徳寺(せいとくじ)は、大正2年(1913)に港区六本木から移転したとの
こと。本堂は平屋根のコンクリと造りで、境内は狭い。寺には当初、朱塗りの山門があっ
たことから「赤門寺」とも呼ばれていたらしい。


 道路の西は智光院(ちこういん)で、区画整理のため台東区西浅草から、大正元年
(1912)に移転してきたという。

 本堂は中野区の福蔵院の本堂を移築したものという。境内に樹木は少なく、閑静なたた
ずまい。本堂前に木の根のオブジェが飾られていた。
       

 道路を挟んで東側、聖徳寺の北側は慶安寺(けいあんじ)である。台東区池之端に開山
し、江戸初期の老中、阿部豊後守忠秋以降、阿部家の信仰が明治維新まで続いたと伝わり、
大正2年(1913)に当地に移転したという。


 裏手の墓地には、杉田玄白らとともに「解体新書」の翻訳にあたった江戸中期の蘭学者、
前野良澤(まえのりようたく)の墓があるという。ご住職の了解を得て墓地に入り、墓前
で手を合わせた。
       


 境内は狭いが木々が多く、小さな池や瀟洒(しょうしや)な東屋(あずまや)も設けら
れていて、東屋の近くには古い地蔵などの石像が並んでいた。
       

 北に接する心月院(しんげついん)は、区画整理に伴い台東区元浅草から大正2年
(1913)に移転したとのこと。

 白亜の本堂は独特の造り。本堂前のウメモドキの実が色づき、道路際には新しい動物供
養塔があった。
    

         

 青梅街道から分岐してきたばかりの五日市街道との三差路際には大法寺(だいほうじ)
がある。
     
 新宿区牛込榎町から明治42年(1909)に移転してきた寺で、近代的なコンクリー
ト造りの本堂は道路際に立ち、全体を撮ることはできない。

 五日市街道を南西に少しで、南側の華徳院(けとくいん)に入る。台東区浅草橋にあっ
た頃には運慶作といわれた閻魔(えんま)像が祭られ「蔵前の焔魔堂」と呼ばれ、「江戸
三閻魔」のひとつにも数えられたという。


 大正2年(1913)に区画整理のためにこの地に移転したが、大正12年の関東大震
災で閻魔像などは焼失し、現在は別の閻魔王像が安置されているようだ。道路側の墓地に
は、豊富な木々が植え込まれていた。


 梅里の寺町を巡り終え、次の信号を渡って北側の青梅街道に出て、西に少しで清見寺
(せいけんじ)へ。
     
 この寺は移転してきたのではなく、寛永前期(1624~35)に当地で開創したとの
こと。青梅街道沿いには地蔵堂がある。
         

 新しい塗色のコンクリート造り本堂は近年の改築らしい。


 明治8年(1875)から17年まで、現在の区立一小の前身、桃園小の第一番分校が
置かれ、杉並区近代教育発祥地のひとつという。墓地際には、近年造立と思われる3体の
立像が並んでいた。
     

 清見寺で今日の予定の寺巡りを終え、青梅街道を東に少し戻り、16時31分に東京メ
トロ丸ノ内線の新高円寺駅に着いた。
          

 今日巡ったほとんどの寺の門前には、杉並区教育委員会の説明板があり、移転前の詳細
な寺の歴史が記されていて、江戸時代の幕府や諸大名などとの関わりが分かり、墓地にも
ゆかりの人の墓が多いようだったが、長くなるのでそれらの説明は省いた。

(天気 快晴、距離 7㎞、地図 「杉並区史跡散歩地図」(1/2.5万地形図は東京
 西部)、歩行地 杉並区、歩数 16,700)




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杉並・高円寺と梅里の寺町を巡る(東京)〈前半〉

2016-10-18 15:55:51 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月15日(土)

 この秋初めての快晴となったので、JR中央線高円寺(こうえんじ)駅の南側、高円寺
と梅里(うめざと)の寺町巡りに出かけた。中央線下り電車で高円寺駅に着き、11時
05分に南口をスタートする。


 南東にすぐ、商店街の近くに高円寺氷川神社があった。

 駅に近いが境内はケヤキなど高木が多く、境内西側には全国で唯一という気象神社が祭
られている。

         
 気象神社は、昭和19年(1944)高円寺北四丁目の陸軍気象部構内に造営のものを
昭和23年に遷座し、平成15年(2003)に社殿を再建したもの。
    
 気象予報士受験者の合格祈願や快晴祈願などの参拝者が多いようで、下駄形の絵馬にも
それら祈願の言葉が記されていた。

 さらに緩やかに下ったT字路の東側にあるのが、この辺りの地名のもととなる高円寺。

 高円寺は、弘治元年(1555)の開山、かつて周辺に桃の木が多かったので桃園と称
され、寺は桃堂と呼ばれ、三代将軍徳川家光の知遇を得て、家光遊猟の折にはこの寺で休
息したという。

     
 本堂前にはよく茂ったイチョウの古木が立ち、境内は豊富な緑に包まれている。木々に
覆われた参道を抜けて南側の山門から出た。


     
 南進して、桃園川の流れを暗渠化した桃園川緑道を横断、緑道にはカッパの彫刻がある。
        

 その先、高円寺南二丁目には、明治末期から大正期にかけて移転してきた寺院が並び、
「高円寺の寺町」と呼ばれ、曹洞宗の寺院が多いのが特長とか。


 最初の鳳林寺(ほうりんじ)は、大正3年(1914)に新宿区弁天町から移転した寺。
 

 境内の地蔵堂には、厄よけ子育ての延命地蔵尊が祭られている。
    


 次は門前に2本の松の立つ長禅寺(ちょうぜんじ)で、国鉄線路の拡張で荒川区東日暮
里から大正15年(1926)に移転を余儀なくされたとか。


 ここは日蓮宗の寺で、本堂屋根上の龍などの飾り瓦が目に付く。


 境内にある三十番神堂は、「新編武藏風土記稿」に「谷中本村の鎮守」と記され、天保
4年(1833)の建物で、堂内には法華経を守護する三十体の番神が祭られた珍しいも
のという。
     

 本堂前には、七福神やお地蔵さん、お釈迦様のシンボルというライオン像などの石像が
並んでいた。


 西側の福寿院(ふくじゅいん)は、明治40年(1907)に区画整理で新宿区四谷二
丁目から移転したとのこと。


 本堂の裏手には、都指定史跡で美人画や木曽街道六十九次などの風景画を描いた江戸後
期の浮世絵師、池田英泉(いけだえいせん)の墓(左側)がある。
    


 南側のT字路を西にすぐ先には西照寺(さいしょうじ)がある。寺の再興に力を尽くし
たのが旗本の岡田豊前守善政で、以後代々の岡田家の菩提所になっているとか。


 明治中期に再建された堂舎には、明治女学校の講師だった島崎藤村が寄宿していたとい
われ、明治44年(1911)に当地に移転したという。


 境内はよく手入れされた樹木が多く、マツ、サクラなどは杉並区保護樹林に選定され、
モミジもきれいな彩り。
    

 江戸期建築の格式を持つという道了堂も、それら緑に包まれていた。
   

 東に接した松応寺(しようおうじ)は、大正7年(1918)、狭小となった北区西ヶ
丘から移転してきたとのこと。


 山門に掲げられた「萬壽山」の山号は、江戸時代の高名な書家、高玄融の筆になるもの
という。
    


 本堂背後の墓地には、幕末の農政学者で「農政本論」「開国要論」などの著者、佐藤信
淵(さとうのぶひろ)(1850没)の墓がある。
       

 境内はそう広くはないが、ここも豊富な緑にあふれていた。



 東に並ぶのは宗泰院(そうたいいん)。江戸時代、新宿区市谷左内町にあった頃には16
棟の伽藍(がらん)を有する旗本寺として隆盛を誇ったようだが、明治42年(1909)
に陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、移転してきたという。

 本堂は宝暦7年(1757)、開山堂↓は寛延3年(1750)建立のものを移築して
おり、ともに区内有数の古い建造物らしい。
     

 さらに東に並ぶ長龍寺(ちょうりゅうじ)は、やはり明治42年(1909)に陸軍士
官学校の拡張に伴い、新宿区市谷左内町から移転してきたとのこと。

 元文2年(1737)建立の山門、宝暦6年(1756)建造の本堂は、その時移築し
たものとか。



 よく手入れされた植栽の並ぶ境内には地蔵堂もあり、地蔵が小僧に化けて豆腐を購入し
ようとしたという伝説の「豆腐地蔵尊」が安置されていた。




        

 「高円寺の寺町」を巡り終え、東進して環状7号線の高円寺陸橋下を走る青梅街道を東
に渡る。陸橋の東側を折り返してすぐのT字路際に、古い石塔を集めた一角があり、「民
間信仰石塔」の説明板があった。
     

 それによれば、ここには正徳3年(1713)と元禄7年(1694)銘の庚申塔、寛
文10年(1670)、享保6年(1721)銘の阿弥陀塔、享保13年(1728)銘
の供養塔の計5基があるという。

 これら石塔は、この辺りが武州多摩郡高円寺村といわれた頃、地域の人々が悪病退散や
村民安全などを祈願して建立したようで、毎年11月23日の例祭日には、お札やお供え
物を配るという。


 13時近いので、そばの青梅街道に面したそば店「松月庵」に入り、とろろそば(ご飯
サービス付)で昼食にした。(続く)

    



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風景スケッチの会の作品展と県立歴史と民俗の博物館へ(埼玉)

2016-10-13 18:17:59 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2016年10月12日(水)

 首都圏に青空の見えた今日は、カントリーウオークの仲間Tさんが会長をされていると
いう、「大宮スケッチ会」の作品展の観賞に出かけました。

 11時30分過ぎにJR大宮駅に着き、東口から会場に向かいます。

 南から北へ約2㎞にわたって直線で延びている氷川神社参道の途中、二の鳥居から参道
に入りました。


 両側には、ケヤキを主にした古木が続いています。


 三の鳥居に近い沿道の右手にある、さいたま市の「氷川の杜(もり)文化館」がスケッ
チ展の会場。
     
 モウソウチクの間を進んで北向きの建物に入りました。


       

 「大宮スケッチの会」は、埼玉県内外の風景スケッチを楽しむ会で、毎年この会場で作
品展を開催していて、今回は21人の会員が40点の作品を出展していました。


   

      

         

 カントリーウオークで歩いことのある県内の風景や、東京都内、関東近県など、みな見
覚えのある風景を描いた作品でした。

 会場を出て、いつものように武藏一の宮の氷川神社に参拝しようと三の鳥居から境内へ。


 左手の建物の前に、1年前に建てたらしい「戦艦武蔵の碑」がありました。

 戦艦武蔵は、日本海軍が建造した最後の戦艦。昭和17年(1942)8月に広島県呉
(くれ)で行われた竣工式には氷川神社から神職が出向して式が執り行われたとのこと。

 2年後の昭和19年10月にフィリピン沖を目指して出航したのですが、米海軍の航空
攻撃により乗員1,039名が戦死し、生存者1,329名もマニラ防衛戦などに投入され、
祖国の土を踏めたのは430余名といわれているとか。

 戦艦武蔵を顕彰して、ゆかりのこの地に碑を建立したようです。


 神池の橋を渡って正面の楼門を入ります。


 すぐ先の舞殿前には、早めの七五三詣での家族連れが。


 拝殿に参拝して、東側の門から出ました。


 たくさんのおみくじと願いごとを記した絵馬が。


    

 春の花見で賑わう大宮公園の桜並木の下を回って、北側のボート池の南側に行くと、バ
ラが咲き残っていました。



 南側から見るボート池の東側↑と西側↓。


 池の東側沿いに遊歩道を進み、赤松林を上がって県立歴史と民俗の博物館に入ります。

 ここには何度も来ているのですが、今日は「徳川家康展」の観覧が目的。ところが会期
は週末の15日(土)からでした。入手していたリーフレットをよく見ていなかったので、
もう開催中と思っていたのでした。

     でも、せっかく来たのだからと、常設展示をまた観覧することに。
    

 常設展示室の一部は撮影可能なので、そられのコーナーの模様を幾つか。第1室は「旧
石器から弥生時代 -狩りから稲作へ-」




 第2室は「古墳時代 -鉄剣は語る-」


 こちらは、昭和53年(1978)に行田市の埼玉(さきたま)古墳群の中の稲荷山古
墳から発掘された鉄剣に、金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻まれていたことが当時大き
な話題になり、のちに国宝となった金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)のレプリカ。
        



 第3室「奈良~南北朝時代」から第5室「室町~戦国時代」、第7室と第8室「江戸時
代」は撮影禁止。

 1階の展示場から地階に下りた地階の第6室は「板碑(いたび) -武士の心-」

 なぜ、板碑だけで1室あるのかというと、埼玉県内の板碑は質・量ともに全国一といわ
れていて、県内だけで27,000基あまりも確認されているとか。


 板碑の材料も、荒川上流の長瀞(ながとろ)や槻川(つきがわ)流域の小川町下里(し
もざと)から産出する緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、県内のほか東京、群馬、栃木、
千葉、神奈川など旧武蔵国に隣接する地域に分布しており、ほかに、下の写真にもあるよ
うに県内には日本最大と最小の板碑、武藏武士に関する板碑など特徴的な板碑が多いので、
専用コーナーを設けて紹介しているものと思われます。

 日本最古の板碑という正嘉2年(1258)銘の阿弥陀三尊種子板碑(あみださんぞん
しゅじいたひ・本庄市出土)。
       

 私も現地で見たことのある、日本最大の地上高(高さ)5.37mある応安2年
(1369)銘の釈迦一尊種子板碑(長瀞町)のレプリカ。
    
 その下に、総高22㎝で日本最小↑の板碑もあるのですが、撮影禁止なので、そばでの
撮影は出来ません。

 ちなみに板碑(板石塔婆(いたいしとうば))は、鎌倉時代中期から戦国時代末にかけ
て造立された石の塔婆で、日本全国に見ることができますが、特に関東地方に集中してい
るようです。

 最後の第10室は「農業と暮らし」



 後期(光輝)高齢者には懐かしい、農機具や養蚕などの用具が並んでいます。




 ひととおりの観覧を終え、館内の食堂で遅い昼食をして、14時ちょうどに博物館を後
にしました。


 大宮公園内のボート池の東側をもどり、日本庭園を抜けて噴水の上がる白鳥池の横を通
過します。
     


 さらに氷川神社の神池の東側を過ぎ、参道を二の鳥居まで戻ります。


 一の宮通りを抜けてJR大宮駅に戻り、大宮駅発14時48分埼京線上り電車で帰途に
つきました。




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雨も上がって今年も「ところざわまつり」盛大に(埼玉)

2016-10-11 23:02:32 | 所沢だより
 2016年10月9日(日)

 毎年この時期に所沢市の中心街で開催されている「ところざわまつり」、午前中は雨だ
ったのですが、午後には雨も上がって祭りの会場は大勢の人出で賑わいそうなので、15
時近くになって出かけました。
      

 会場は、西所沢駅寄りの金山町交差点を西端に、銀座通りを中心にして所沢駅西口まで、
所沢市の中心市街地を貫く通りで、下図の赤いところは10時30分から21時まで車両
通行止めになり、祭りの山車(だし)やパレードなどが通り、歩行者天国です。


 西端の金山町交差点際には、地元金山町の山車が。


     山車の後部、屋根下を飾る精巧な龍の木彫
    

 今年は中心街の10の町内から10基の山車が出ているようですが、この時間は引き回
しはなく、それぞれの場所に待機中のようなので、所沢駅に向かって順次見ながら進むこ
とにしました。


     所沢市のイメージキャラクター「トコろん」デザインのマンホール
    


 近くに旧市庁舎があった元町交差点は、所沢銀座サンバカーニバルのゴール地点。ちょ
うどカーニバル終了の15時30分近くになり、ゴールに向かってカーニバルチームがや
ってきて、身動きできないくらいの人出です。


      

            



 その元町交差点付近には西所沢の山車が。


        

 やはり元町交差点の南側に並ぶのは本町と星の宮の山車。




 両側の歩道にはたくさんの露店が続き、フリーマーケットのエリアもありました。


 ただ一基、市の有形文化財に指定されているのが有楽町の山車。




 この辺り、車道も祭りの関係者や見物客でいっぱい。


 武蔵七祭会と呼ぶグループの比較的小柄な神輿(みこし)


 元町東の山車




 南側の高層マンションの空き地に出来た「やたい村」も大賑わい。


 北側の別の高層マンション前の広場では、力強い太鼓の演奏が終わったところ。


      寿町の山車の前で、自民党の柴山衆議院議員と町内の人とが記念撮影を。
       

 銀座通りの中ほど、喜多町の会所は、この通りでも少なくなった古い商家です。


 銀座通りの東端近くの賑わい。


 銀座通りとファルマン通りなどの交差する、ファルマン通り交差点の変則十字路まで進
みました。


 交差点を右折してファルマン通りへ。昨年まではダイエーだったイオンの前には、旭町
の花飾りが。
      

         近くにはその旭町の山車も出ています。
        

 日吉町と東町は、合同の山車だったとは知りませんでした。




     比較的新しい山車ながら、側面の木彫は見事なもの。
    

 その先では、御幸町の山車が獅子舞を披露中。


    



 こちらでは、所沢昭和会と呼ぶグループのひょっとこ踊り。
 

 イオンの南東側、昭和通りまで来るとまつり会場の南端間近です。


 南端の所沢駅西入口交差点際にも、神輿が出ています。


 同じ場所から北側のイオン方面をふり返り、16時過ぎに会場を後にしました。


 なお、この後も山車10基のひきまわしや祭りばやしの演奏、よさこいパレードなど、
いくつものイベントが21時まで続きます。




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谷中まつりで賑わう谷中から上野公園へ(東京)

2016-10-10 09:08:21 | 江戸・東京を歩く
 2016年10月8日(土)

 前月の例会と同様に雨の予報だが、カントリーウオークグループの第237回例会に参
加した。集合はJR山手線の西日暮里(にしにっぽり)駅。

 今回はタウンウオークなのでグループ分けはせず、全員一緒に10時14分に出発した。

 == 谷中祭りの会場を縫って ==

 線路の西側を南に少し上がって西日暮里公園に入る。公園はもとは花見寺のひとつ青雲
寺や旧加賀藩前田家墓地だったとか。


 小雨模様なので雨具を用意し、細道の諏訪台通りを南進して諏方(すわ)神社へ。信州
上諏訪社の分社で建久2年(1205)の創建、日暮里・谷中(やなか)の総鎮守とか。


 この辺りは道灌山(どうかんやま)と呼ばれ、豊富な木々の境内で、ひときわ大きなイ
チョウの古木が目に付いた。
   

 すぐ近く、西に下る急坂は富士見坂で「関東の富士見100景」のひとつ。現在も富士山
を望むことが出来るようだが、今日は雨で望むべくもない。
       

 その先東側の養福寺は、江戸時代の多くの文人の碑が残るというが、寄らずに過ぎる。


 JR日暮里駅から延びる通りに出て、そばの経王寺(きょうおうじ)に入る。

 明暦元年(1655)の建立で、大黒堂↓には日蓮上人作と伝わる大黑天が祭られてい
るという。


 慶応4年(1868)の上野戦争の時に敗走した彰義隊戦士をかくまったため、新政府
軍の砲撃を受けた銃弾の跡が山門に残っていた。

    
 西に下る七面坂の通りには、暮らしの道具を販売する店などがあり、すぐ近くで階段を
下って谷中銀座の商店街に入る。
      

     
 狭い通りには観光客が多く、両側には飴(あめ)の店、竹工芸店、きれいなランプを吊
す店、下駄や草履の店、手づくりのおかずや弁当の店など、小さいがレトロな雰囲気の店
が約70店ほど並んでいる。


    


 西端に抜けて「よみせ通り」を南に向かうと、市内局番が3桁や2桁のままの古い電話
番号を掲示した店が幾つか目に付き、ここも昭和のたたずまいが感じられる。


 折り返すように細い路地を左折し、突き当たりの岡倉天心記念公園に入る。岡倉天心は
東京美術学校(東京藝術大学の前身)の設立に関わり、のち日本美術院を創設した。この
公園は岡倉天心旧宅跡で、日本美術院発祥の地である。
      
 今日明日は「谷中まつり」の一環で六角堂が開扉され、平櫛田中(ひらぐしでんちゆう)
作の天心座像が公開されていた。
        
 ちなみに岡倉天心は、2日前の夜のNHKBS3「英雄たちの選択」に取り上げられ、
明治期における廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の防止に腐心したことや、日本美術に対す
る業績を認識したばかりだった。

 さらに東進して谷中防災コミュニティセンターへ。谷中まつりのメインイベント会場で、
南側の「初音(はつね)の森」と呼ぶ防災広場にはステージが設けられ、休憩用テントや
露店が並び、たくさんの地元区民などで賑わう。


 さらに石段を上がり谷中五丁目の台地に出た。左側に観音寺の長い築地塀(ついじべい)
が続く。江戸時代の築造のようで、当時にタイムスリップしたような一角だ。塀は国の登
録有形文化財である。


 すぐ先十字路際の「香隣舎」と呼ぶ古民家には花飾りが並び、近隣の小美術館やカフェ
などでの催し案内のはがきが用意されていた。
     

 東に進んで谷中霊園の交差点際へ。交番の北側、「子供の広場」でも谷中まつりのステ
ージが設けられ、演奏やダンスなどが進行中で、天王寺町会のテントでは、名物やきそば
の販売をしていた。


     
 霊園内の大イチョウなどを見ながらさくら通りを北進、突き当たりは谷中七福神の毘沙
門天を祭る天王寺である。

 室町期の応永年代(1394~1427)の創建といわれ、江戸時代には富くじの興業
が開催され、目黒不動、湯島天神とともに江戸の三富として賑わったとか。境内にあった
五重塔は古田露伴の小説「五重塔」で知られたが、昭和32年(1957)に焼失してい
て現在は見られない。境内はいまも緑豊富で、落ち着いたたたずまい。

       
 東側の新しい建物では、「古代文字アーティスト集団 天遊組(てんゆうぐみ)」と呼ぶ
グループが、ユニークな書アートの発表会を開催していた。


 山門近くには、若柳観音菩薩と呼ぶ穏やかな姿の観音立像が目に入る。
     

          
 昼食のため、防災コミュニケーションセンターに戻ることに。子供の広場のステージで
は腹話術の実演中。そばの十字路の北西側に長谷川一夫夫妻の墓地があり、墓石は予想外
に小さなものだった。           (後ろ側中央↓の墓が長谷川一夫夫妻)


 雨がひときわ強まり、急ぎコミュニケーションセンターに戻るが、建物内は食事禁止。
防災広場のテントに空きスペースを探して座り、雨漏りを避けながら昼食に。


 食事を終える頃には空が明るくなり、やがて雨も上がった。ステージではフラダンスの
グループが、何組か踊りを披露していた。

 建物前でミーティングをして、13時15分に午後のコースに向かう。
 
 == へび道や寛永寺を経て上野公園へ ==

 
 南側の三崎(さんさき)坂に出て、右折してすぐの大圓寺(だいえんじ)境内に入る。
ここも谷中まつり会場のひとつ、狭い境内では「谷中菊まつり」を開催中で、露店も並ん
でいる。


 横長の建物には二つの拝殿があり、右手の瘡守(かさもり)稲荷神社は江戸中期から祭
られ、疱瘡(ほうそう)や皮膚病を治すといわれて信仰が篤かったとか。


 左側の大圓寺本堂前はブルーテントで覆われ、催しに使われたらしい椅子が並んでいた。


 境内には、江戸三美人の一人という笠森お仙と、お仙を描いた錦絵開祖の鈴木春信の碑
がある。

 三崎坂を西へ、次の信号まで進んで南に延びる「へび道」へ。旧藍染(あいぞめ)川の
河道跡で、その名の通り右に左に小カーブが続く。
     
 左手が谷中二丁目、右は千駄木二丁目で、台東区と文京区との区境である。

     
 谷中二丁目の終わりに近い三差路近くに、開店祝のコチョウランが並ぶ小さい店があっ
た。女優川上麻衣子さんの「SWEDEN GRACE」と呼ぶ店で、明日が開店のよう。
川上さんご本人もチラと姿を見せた。
         

             

 へび道が終わり、少し左カーブしてその先に延びる通りに入り、次の十字路を左折して
三浦坂を上る。坂の名は、美作(みまさか)(岡山県北部)勝山藩主三浦氏の下屋敷前の
坂道だったの付けられとか。南側一帯は臨江寺の長い塀が続く。


 坂の中腹辺りに、「ねんねこ家」と呼ぶネコの飾り物の並ぶ店があった。その先の民家
には、見たことの無いピンクの花が咲く。
     

 上がりきったY字路の北西側、緑豊富な敷地には大名時計博物館があるが、入館は略す。
Y字路の突端部に大きなヒマラヤスギが立ち、木の下に「みかどパン店」と記された小さ
なパン屋があった。
    

          
 この辺りは江戸時代には「三方地店(さんぼうちだな)」と呼ばれた地区で、ヒマラヤ
スギを目印に古くからの店や工房、アトリエなどが並び、明治の頃から画家や彫刻家、作
家の川端康成などが近隣に住み、芸術文化を育む場所でもあったとか。

 「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定された谷中のシンボルであるヒマラヤスギ
は、切り取られて一帯が更地になる可能性があるようで、守ろうという活動が進められて
いる。


 谷中六丁目まで進んで言問通りに回り、三崎坂からの交差点際にある下町風俗資料館付
設展示場に行く。江戸商家の建築様式を残す旧吉田屋酒店の建物を移築したもの。ここも
谷中まつりの会場の一つとして、建物前でステージプログラムが続き、ギターの演奏中。


 甘酒のサービスもしていたので頂きながら演奏を少し聴き、開放された建物に入って酒
樽や徳利、ポスターなどの展示を見た。


 交差点の西側、古民家を活用したカヤバ珈琲店のネムノキに、色鮮やかな花が咲く。
       

 ひとつ南の通りを東へ、東京藝術大音楽楽部の北側を進む。北側の円珠院境内はよく手
入れされた植栽が、気持ちよい緑を見せる。



 次の交差点を渡って寛永寺に入り、旧本堂(根本中堂)の前で小休止後に記念撮影をし
た。建物は、明治9年(1876)から12年にかけて川越市の喜多院の本地堂を移築し
たもので、寛永15年(1638)の建造らしい。


       
 境内には、琳派の創始者として知られる画家・尾形光琳の弟、尾形乾山(けnざん)の
顕彰碑である乾山深省蹟(しんせいせき)や、江戸時代前期の黄檗(おうばく)宗の僧で、
難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)を設置した了翁禅師塔碑などがあった。
              

 根本中堂の北東側には、徳川綱吉霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)がある。5
代将軍綱吉は「生類憐み(しようるいあわれみ)の令」などを施行した将軍として知られ、
勅額門は国の重要文化財。

 その綱吉公霊廟内には、13代将軍家定(いえさだ)の正室、天璋院篤姫の墓所がある
ようだが、非公開で拝観は出来ない。


 上野中学校前の通りを南東に進み、国際子ども図書館↑の前を通過する。京成電鉄の博
物館動物園駅跡の建物横を左折して、国重要文化財の「黒門」と呼ぶ旧因州池田屋敷表門
前を過ぎる。


 東京国立博物館正門前↑から上野公園に入り、噴水池や開催中の大陶器市のテントが並
ぶ横を通過して、交番近くの広場付近でゴールとし、15時24分に散会した。


 多くのメンバーはさらに西郷隆盛像やアメヤ横町を経て二次会に向かい、私など3人が
JR上野駅の公園口から帰途についた。


(参加 15人、天気 雨後曇、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 
 荒川区、台東区、文京区、歩数 13,200)




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