あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

新宿・中井の「染の小道」と下落合の寺社や公園などを巡る(東京・新宿)

2019-02-26 21:21:35 | 江戸・東京を歩く
 2019年2月24日(日)

 好天で穏やかな日和の予報なので、一昨日から今日まで開催されている新宿区の中井駅
周辺での「染の小道」と呼ぶ催しを見に行くことにした。

 西武新宿線の中井駅に10時49分に着いた。駅前でこの催しのパンフレットをもらい、
10時55分にスタートする。


 中井駅周辺の落合や中井は染の町で、江戸時代から手描き友禅や小紋などの伝統が継続
され、昭和30年代までは妙正寺川と神田川沿いには300軒を超す染色関連業が集まり、
京都・金沢と並ぶ三大産地だったとか。その伝統を受け継いだ技術や文化が今でも息づい
ているという。

 「染の小道」は、街全体を染め物のギャラリーに見立てたイベントで、中井駅前の商店
街と妙正寺川の川面が3日間染め物に彩られる。

 その中で、駅の南側に線路と並行して流れる妙正寺川沿いは「川のギャラリー」と呼ぶ
「染の小道」の主会場のよう。
     
 駅前の寺斉橋を中心に、上流の栄橋から下流の大正橋周辺までの「川のギャラリー」で
は、6枚ずつの反物が流れの上にたくさん吊されている。

 「川のギャラリー」では、色とりどりの反物を川面に架け渡すことで、当時の街の記憶
を現代によみがえらせようと、江戸小紋や友禅染などの反物で着物には使うのが難しいス
トック品などを提供してもらい、展示用に手を加えてあるという。

 まずは上流に向かい、川面に架けられた反物群を眺めながら栄橋まで進む。
     





 橋沿いの細道にある各商店にも反物が下がり、出店では飲食物や小物などを販売し、着
物姿で訪れた人も多い。





 途中の店で甘酒を味わった。


 栄橋で来た方向を振り返り、同じ道を戻る途中では赤飯弁当を求め、寺斉橋に戻った。
     






 下流側も左岸沿いの細道を進んで、店をのぞいたり流れにかかる反物群を見下ろしなが
ら次の大正橋まで進む。


         


 ひととおり「川のギャラリー」を眺め、11時40分頃に川を離れた。


     


 ひとつ北側の細い通りは「ねこ路アートフェスタ」という催しで、小物の出店が並んで
いる。それらを眺めながら途中で北側の路へ回って折り返した。




     

 西武新宿線中井駅の東側、二つ目の踏切を渡るとその沿道でも出店が並んでいて、町中
がこの催しに参加していることが分かる。
     

 このあとは、北東側の下落合地区の寺社や公園などを回ることにして、中落合一丁目を
東北東に向かう。

 この通りのにも、「染の小道」協賛の出店がいくつか見られた。見晴坂(みはらしざか)
下を過ぎ、新目白通に出る直前の中落合公園ではしだれ梅が見頃になっていた。



 都道8号・新目白通りに入り東へ、交番のある交差点から北側を並行する細道を進み、
薬王院の前に出た。山門前に紅梅とピンクのしだれ梅が咲き競う。
    

         

 薬王院は、鎌倉時代に開山された真言宗豊山派の寺。東長谷寺とも牡丹寺とも呼ばれ、
ボタンの名所として知られるよう。


 山門を入ると境内は広くて植栽が豊富。境内にも何本もの白梅、紅梅があり、何れも見
頃になっている。



 奥の台地斜面中腹に大きな本堂が懸崖造りの上に立ち、境内や背後には松などの常緑樹
が多く、新宿区とは思えぬたたずまい。


 ボタンは、本堂下の斜面に広がるがまだ枯れ枝のまま。総本山の奈良・長谷寺から移植
した100株が、約40種・1000株まで増え、4月中旬から下旬にかけてが見頃のよ
うなので、その頃また訪れたい。


 本堂左手の階段を上がると6地蔵が並び、その周辺も紅梅白梅が花を競う。階段上の水
子地蔵堂まで上がり、もう一度梅の花や多彩な植栽などを眺めながら引き返した。




 山門近くには俳人・富安風生の牡丹を詠んだ自筆の句碑があるが、達筆で判読しがたい。
20分ほど境内を巡り山門を出た。


 境内東側に接して新宿区立「落合野鳥の森公園」があり、公園内で見られる野鳥12の
紹介パネルがあった。


 東に少し、七曲坂の上り口の交差点際に、江戸時代と思われる古い石仏3基が残されて
いた。


 南東側は下落合氷川神社。境内に咲き出した濃いピンクの花はヒカンザクラのよう。
    
 境内社の横には白梅が見頃で、反対側には大きな日露戦役記念碑が立っていた。
        

 神社の東側の変則六差路を東北東へ300mほど進み、おとめ山通りを北に上がり、通
りの両側にある「おとめ山公園」に12時51分に入る。

 「おとめ」とは、乙女ではなく御留のこと。江戸時代、この辺りは将軍家の狩猟地で、
立ち入り禁止の意味の御留山から起こったものといわれているよう。

 明治になり、御留山周辺は近衛家の所有になったが、大正初期には西側を相馬(福島県)
中村藩主だった相馬家が取得し、相馬家は敷地内に池と泉を中心の回遊式庭園を築造し、
その一部が現在の公園に残っているよう。

 その後敷地は分譲され、戦後は大蔵省が所有していたが荒れ果てていたのを、地元の人
が陳情して公園として整備されることになり、新宿区立おとめ山公園として開園し、さら
に隣接地を取得して拡張したという。


 西側入口近くの説明板を見たあと東側の公園に回り、弁天池とも呼ぶ「下の池」の周囲
を一巡し、池の上部斜面の「谷戸のもり」と呼ぶ草地や、下部の「水辺のもり」と呼ぶ草
地なども眺めた。


     
 西側の公園に再入し、雑木林の間の遊歩道を上がって南側の見晴台へ。木々が茂り展望
はあまり利かないが、東方に高田馬場駅に近いBIG BOXが、北東の樹間には池袋のサンシ
ャインシティらしいビル↓が望まれた。
     

 西北側、林間広場際に東屋(あずまや)があったので入り、「染の小道」で求めた赤飯
弁当で昼食にした。

 東屋の前には、「おとめ山賛歌」の歌詞のパネルがある。

 食事を終え、林間を北に少し下って谷間を東に回ると「おとめ山公園の湧水」の説明パ
ネル上がり、そばからわずかながら湧水が流れ出ている。

     
 流れに沿って遊歩道を東に進んで「上の池」際へ。池の中で1羽のサギが餌を探してい
た。
    

     
 「上の池」は「中の池」に続き、その横を進んで13時40分に公園を出た。

 公園の南側には東山稲荷神社があるので、南側から住宅の間を回って境内に上がる。神
社は、清和天皇の皇孫、源経基(みなもとのつねもと)が延長5(927)年に京都の稲
荷山から勧請(かんじょう)遷宮したという古社のよう。

 以後、経基をはじめ源家一門の守り神として厚く信仰され、のちには庶民の信仰も厚く
なり、「知恵と勇気」を授かる福徳の神として江戸市中から関東一円に増えていったとか。

 おとめ山公園の東側を北に上がり、目白ヶ丘教会の横を通過して下落合三丁目へ。住宅
地を西進して長い生け垣の家の前を進むと「中村彝(なかむらつね)アトリエ記念館」が
あった(入館無料)。

 中村彝は、国重要文化財の「エロシェンコ氏の像」など数々の名画を残し、37歳で亡
くなった洋画家。大正5(1916)年にここにアトリエを構え、創作活動を行ったとこ
ろのよう。

 増改築を経たアトリエを建築当初の姿に復元して一般公開し、中村の生涯や画業を映画
や解説パネルで紹介しているという。

 中村彝のことは、私も臼井吉見の大河小説「安曇野」で、新宿中村屋での生活のことな
どを読んでおり、中村屋創業者・相馬愛三の信州・安曇野の生家を訪ねたこともあり、興
味ある人物だったが作品を観たことはなかった。


 最初に管理棟↑に入り、「自画像」や「少女」↓、「老母の像」などの作品や、中村屋サ
ロンでの写真などを観覧する。
        




 そのあとアトリエ棟に回り、居間で生涯を紹介する15分のビデオ映像を観て、アトリ
エに飾られた作品や調度品などを一覧した。


 最後に庭に回り、満開の白梅やキンモクセイの古木などを眺め、40分近く滞在して
14時39分に記念館を出た。

 住宅地を西進して突き当たりを南へ下る。落合中の西側の交差点近くに標高35.7m
の三角点があるはずだが、その辺りは斜面上にテニスコートがあり、道路側はネットで入
れず、三角点の有無は確認できない。

 交差点際には、元禄3(1690)年銘の庚申塔が残されていた。

     
 折り返すように北西に向かって上がり、下落合四丁目の下落合公園横を進む。目白通に
出て西へ、次の交差点を北に入る。

 山手通りに合するところに天祖神社があった。社殿はコンクリート造りのシンプルなも
の。境内のヒカンザクラが咲き出していた。



 すぐ北側で、目白通を跨道橋で越えて西側に回り、少し南に戻って折り返して北へ。


 富士見台小や椎名町公園↑の横を通過して、西武池袋線の椎名町駅に15時15分に着
いた。


(天気 晴、距離 5㎞、地図 東京西部(1/2.5万)、染の小道“路のギャラリー”
 マップ、おとめ山公園周辺案内図、新宿観光マップ 落合、歩行地 新宿区、豊島区、
 歩数 11,900)




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あしがくぼの氷柱と秩父市内の清水武甲写真展へ(埼玉・横瀬町、秩父市)

2019-02-25 15:18:36 | ウオーキング
 2019年2月22日(金)

 この冬の会期があと3日になった秩父・横瀬町(よこぜまち)の「あしがくぼの氷柱」
と、秩父市のギャラリー「武甲庵(ぶこうあん)」で開催中の、秩父の写真家、故清水武
甲さんの写真展を見るために出かけた。


 西武秩父線の芦ヶ久保駅に10時14分に着いた。駅の北側斜面には幾つもの民家が点
在している。


 眼下に道の駅「果樹公園あしがくぼ」見下ろしながら線路沿いを西へ。
     
 横瀬川左岸沿いの遊歩道を南側の谷間に回り込み、氷柱会場のチケット売場でチケット
を求める(整備協力金300円)。


 西武線のガード下を抜けると、日陰になっている南側斜面一帯が氷柱に覆われている。










 間近の氷柱を眺めながら遊歩道を上がり、全体を一望できる「おもてなし広場」と呼ぶ
展望広場へ。

 まずは、広場にある「おもてなし処」で温かい甘茶をいただき、飲みながら氷柱を左か
ら右へと眺めた。






     
 少し下って間近に見下ろせる場所があり、行き止まりまで回って引き返す。


 そこには、溶け出しているが動物の形のよう氷柱も。
     

  
 広場に戻り、もう一度眺めてから下ることにした。今週は気温が上がっているので、日
当たりのよい場所は溶けて滑らかな氷柱が多い。11時05分頃会場を後にした。


     

 次の目的地、武甲庵は西武秩父駅に近いので電車で行くのがよいが、暖かなので国道
299号線を歩いて向かうことにした。

 川地集落の西端で横瀬川を渡り国道に入る。しばらくは民家がなくカーブが続き、ダン
プや大型トラックが高速で通過するが、右側に歩道があり安心して進める。


 3か月近く雨の日がわずかなので、横瀬川の水量は少ない。
     

 2㎞近く進んだら歩道が無くなった。車の危険を避けて側道が広めの方に回って進むと、
谷間から武甲山(ぶこうさん)が姿を見せた。


 路傍にお地蔵さんが立っていた。昭和31(1956)年10月5日の自動車事故によ
る犠牲者の冥福を祈る為に建てたよう。
        
 当時は西武線も吾野(あがの)駅が終点で、正丸峠を越えて秩父までは西武バスで行か
なければならなかった。まだ国道に昇格前の県道で、幅員もかなり狭かったはず。台座に
は西武自動車と記されているので、バスが転落事故を起こしたのではないかと思われた。

 間もなく、民家の現れた二番集落で左手の旧道に回り、途中国道の下をS字状カーブで
くぐる。右手に回って国道に合した後は、歩道が続くようになった。

 五番集落の交差点際、台地上に秩父観音霊場7番札所法長寺が見えたので、急石段を上
がり参拝する。

 法長寺は、牛伏堂(うしぶしどう)とも呼ばれるようで、本堂前には「牛伏堂由来の石
像」がある。



 境内からは、南に秩父のシンボルで日本二百名山の武甲山(1,304m)が、北には
日本百名山の両神山(りょうかみさん)(1,727m)↓が望まれる。


 石段下には交通安全祈願のお地蔵さんが立ち、背後に般若心経が記されていた。
     

 横瀬川を渡り六番集落に入る。横瀬町立図書館の前に民俗資料館の特別展の掲示が出て
いた。観覧することにして背後の横瀬町歴史民俗資料館へ(入館料00円)。



 初めに常設展示室での「武甲山をめぐる自然と生活展」と「地場産業の移り変わり」が
テーマの展示を一巡する。




 さらに特別展示室での「秩父札所展」も見て、あわせて20分近く観覧した。



 市立図書館と町民会館のある建物の先で東側の展望が開け、穏やかな起伏の山並みや斜
面に点在する民家、南東側の二子山↓などが望まれる。


 横瀬駅入口交差点先の空き地からは、石灰岩の採掘跡を示す武甲山北面が一望された。



 緩やかな上りを十一番集落の中ほどまで進んだ交差点際に、JAちちぶの農産物直売所
「アグリマルシェよこぜ」があったので入り、きび餅を購入する。


 羊山公園の横まで上がり、坂氷交差点をピークに下りとなる。羊山公園の北端下のY字
路で国道に分かれて熊木町へ。


 住宅街の中の細かな十字路を2、3度横断して折り返し、ネットで探してあったそば処
「まるた」に13時35分に入り、ごまだれそば(960円)を注文して昼食をした。
    

 14時頃「まるた」を出て、道路の東側にある「ちちぶ銘仙館」を観覧することに(入
館料200円)する。ここにこのような建物があるのは、来てみて初めて知った。


 当館は、秩父銘仙や秩父織物などの歴史的貴重な資料の展示や、伝統的な技術を伝承す
るための施設とか。

 もとは、昭和5(1930)年に秩父絹織物同業組合により、繊維産業の向上と振興を
図るために建築されたもの。

 建物は、旧帝国ホテルのライト館で知られる建築家フランク・ライト氏が考案した、大
谷石(おおやいし)積みの外装や昭和初期の特徴的な装飾を活かした建物で、平成13
(2001)年に国の登録有形文化財に指定されたという。


 最初に入口横の映像室に入り、歴代の同業組合長の写真や、たくさん並ぶソファなどを
見る。


 そのあと、学校のような廊下を進んで展示資料室、糸繰室、整経場、型彫室、捺染室、
手繰り体験室、染場・染体験室などの貴重な設備や材料、製品などを観覧した。













 最後に売店↑とギャラリー↓も見て、14時40分にちちぶ銘仙館を出た。


 庭からは、南側間近に羊山公園が望まれる。


 12月初めの秩父夜祭りの山車を納めた、熊木地区の大きな山車蔵の前を進む。国道
40号線を横断して市役所の北側に回り、今日二つ目の目的地、「武甲庵」で開催中の清
水武甲写真展へ。
     
 清水武甲氏は戦後の日本を代表する写真家の一人。若い時期から国内外の数々の写真関
係の賞を受賞し、木村伊兵衛、土門拳、入江泰吉などとの交流を深めながらも、生涯秩父
を離れず、秩父を愛し、秩父を発信し続けた写真家。

 写真以外でも、山岳、自然保護、文化、歴史、民俗学など幅広く活躍されている。

 私も昭和30年代(1955~)から、清水武甲さんの秩父の山や集落、祭り、動物、
生活など数多くの写真を、山の雑誌や写真集などで鑑賞していた。

 最近の新聞で、生前の写真館を改装したギャラリーの改装記念に写真展を開催すること
を知り、訪れたもの。
    
 写真館だった建物の1階にはカフェがオープンしており、その2階がギャラリー会場。
今回は東京都写真美術館収蔵作品中の第二次大戦中と戦後の写真16点、秩父地方の戦中
の貴重な記録10数点が展示されていた(撮影禁止)。

 今後も、10数万カットもある写真の中から順次企画展を開催するとのことなので、期
待したい。


 観覧後は、最近改装を終えた秩父市役所構内を抜けながらもう一度武甲山を眺める。構
内の広場にある神社造りは何かと思ったら、12月3日に行われる秩父神社大祭の御旅所
であった。



 今日のゴール、西武秩父線の終点、西武秩父駅に15時18分に着いた。隣接する駅前
温泉「祭の湯」の売店でしゃくし菜漬を求め、他の店ものぞいていたら、声をかけられた。

 誰かと思ったら、カントリーウオークの仲間で小鹿野町在住のTさん。今日は西武新宿
線中井駅近くで今日から3日間開催中の催し「染の小道」に出かけた帰りとのこと。


 上り電車の発車時刻が近づいたので分かれ、15時38分発飯能行き上り電車に乗る。

(天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 秩父、歩行地 横瀬町、秩父市、歩数
 17,200)





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飯能から高麗峠を越えて巾着田の「鍋まつり」会場へ(埼玉・飯能、日高)

2019-02-19 21:37:25 | ウオーキング
 2019年2月17日(日)

 今日は、飯能市・日高市・西武鉄道合同ウオーク『高麗峠を越えて巾着田の「鍋まつり」
を楽しもう!』に参加した。


 西武池袋線の飯能(はんのう)駅に9時16分に着いた。南口でスタート受付を済ませ、
9時25分に出発する。


 西北西に300m前後、右左折した二つ目の角に久下稲荷神社が祭られていた。


 さらに進んでこども図書館入口交差点を北へ、左カーブして飯能河原の横を通過する。

 春から秋にかけては花見や水遊びなどで賑わうが、今は人の姿はない。


 河原を向いて小さな水天宮があった。



 ボート場近くまで進んで北へと上がり、中央公園の西北端で右折する。北側には広い境
内の能仁寺があり、山門近くの2本の白梅が花を見せていた。


     


 次の交差点を左折して再び北へ、少しずつ高度を上げて山すそまで進むと、「飯能・西
武の森」の掲示が見える。


 その辺りから緩やかに下り、西武池袋線の高架下を東に抜けて国道299号の中山(西)
交差点を横断する。



 そばの「高麗峠(こまとうげ)入口」の標識に従い、北へ延びる山道へ。広葉樹林から
針葉樹林へと林間を進む。
     

 上空が開けたところに「青梻(あおだも)の森」の新しい標柱が立つが、背後はススキ
の生えた空間である。



 その先はさらに開けた空間で、「ほほえみの丘」と呼ぶ緩やかなピーク。何人かが休憩
していた。


     
 葉の落ちた広葉樹林下の道が続き、藤内峠に出た。西から南への展望が開け、奥多摩の
大岳山の左手に真っ白な富士山の上部が望まれ、「富士見峠」の標柱もある。

 (富士山は、ズームして撮ったらピンボケになったので写真は省く)

         
 さらに進むとピークの高麗峠(177m)だが、展望は北西側に限られる。



 分岐を左へ、巾着田(きんちゃくだ)に向かう下り道となる。
     

 少し下った路傍に二つに折れた古い石仏があり、その前に西国三十三観音霊場1番札所、
青岸渡寺(せいかんとじ)(和歌山県)の祈祷(きとう)を受けた木札が奉納されていた。
         

     
 林を抜けて民家の散在する集落を左に少し回り、高麗川右岸に出た。急階段を下って冠
水橋のドレミファ橋を渡る。


 対岸は、高麗川の円形の流れに囲まれた巾着田で、秋にはヒガンバナの大群落で知られ
るところ。


 今日はここで「第5回巾着田鍋まつり」を開催中。その手前にウオーキングのゴールテ
ントがある。10時50分に着き、ゴールのポイントをもらう。



 鍋まつりは地元日高市(ひだかし)と隣の飯能市との共催。北側には飯能市のテントが、
南側は日高市のテントが並び、高麗鍋、飯能すいとん、飯能はんじょう鍋、猪鍋などの店
が各々20店ずつ出店している。




     

 人気の店は長い列で、欲しいものを得るのは時間がかかりそう。私は、比較的空いてい
た店で甘酒と飯能はんじょう鍋↓を味わい、弁当と干し芋、まんじゅうを求めた。
     


 東側の仮設ステージでは、シンガーソングライター文字山 愛さんの歌声が響く。
         

 北側の土手に腰を下ろして憩う人も多い。


 ステージでは11時30分から、地元や近郊の9グループによる「新春よさこい」踊り
が披露されるようだが、駅に向かうことにして会場を出た。


 北に延びる田んぼと水路の間を進んでビオトープの横を過ぎる。


 北側の、高麗本郷集落の背後、巾着田の好展望台でもある日和田山(305m)を見な
がら進む。


     
 巾着田の東北端にかかる天神橋↑の横から、高麗川左岸沿いの細道を進んで県道15号・
川越日高線の下を抜ける。

 県道に上がると、高麗郷の古民家、旧新井家住宅がある。ちょうど「ひなまつり」の催
しが公開されていたの立ち寄ることにした。

 新井家は、敷地面積3,183㎡余り、敷地内には母屋(おもや)と続く客殿、南土蔵、
納屋、作業場、北土蔵などの建物があり、国登録有形文化財となっている。

 母屋は江戸末期から明治前半の建築と考えられるが、数度の改修が加えられているよう。
客殿は明治39(1906)年の建築と考えられているという。


 ナノハナ咲く斜面を上がった母屋前の庭にはテントが張られ、ひな祭りの参観者も多い。


 まずは南土蔵での「人間国宝 平田郷陽(ひらたごうよう)人形展」へ。
   

 平田郷陽は明治36(1903)年の生まれ。同名の父の死後、二代目を襲名した。
1927年に日米親善で米国から「青い目の人形」が寄贈され、返礼として作った郷陽の
作品が特出され、これを機に一躍名が上がったよう。

 のち帝展、文展、戦後の日本伝統工芸展などに出品し、1955年には人形界で初の人
間国宝に認定されたとのこと。

 ちなみに、私の職場の上司だったHさんは、平田郷陽の人形を平成9(1997)年6
月にテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出したところ、550万円と鑑定され、そ
れを期に私は郷陽の名を知り、のち千葉県佐倉市での美術展も訪れている。


 1階会場では、平田郷陽の可愛らしい↑人形5点と、弟・玉陽↓など弟子の作品3点が展
示されている。
             

 2階には、当地周辺の古いモノクロ写真が10数点展示されていた。



 母屋に回ると、広い場所にたくさんのひな飾りや吊るしびなが並び、きらびやかな飾り
付けに多くの観光客が感心していた。
     

          


 土間には、一昨年9月に巾着田のヒガンバナ観賞にご訪問された天皇、皇后両陛下の写
真が。


 土間の裏に出て西側の井戸の横を回り、母屋に続く客殿へ。こちらでも、明治期から昭
和初期などのひな飾りが展示されていた。


 さらに母屋の縁側の前から、もう一度たくさんのひな飾りや吊るしびなを観賞する。
     

          


 庭のテントで地元産の野菜の即売をしている。その横の納屋では、ヒガンバナなど日高
の風景を描いた作品展と、ひと組のひな飾りが観賞できるようになっていた。

 古民家で20分余りを過ごし、12時13分に駅に向かう。西側は、高麗板東観音霊場
第9番の長寿寺である。本堂前に2本の紅梅が咲いていたので境内へ。


         

 日当たりもよく無住のようなので、ここで昼食にしようかと考えたが、本堂の隅に怖い
表示があったので急いで境内を離れた。
         
  
 県道を西に少しで鹿台橋を渡る。橋の南側は高低差はわずかだがダムになっていて、そ
の向こうに巾着田の西側が望まれる。


 橋の西、鹿台橋交差点で県道に分かれて南への遊歩道へ。右カーブ点に「水天(すいて
ん)の碑」が立っていた。
         
 碑は、天保年代(1830~44)にくり返された干ばつや大洪水などの天災や水難事
故を鎮めるために建立したとのこと。高麗川を利用した西川材運送のための筏(いかだ)
流しとも深い関係があるようだ。

 すぐ先には「筆塚」がある。この地の名主(なぬし)だった新井家の11代名主を務め
た人が隠居後、塾を開いて学問を教えたことを称えたもので、書は勝海舟によるという。
         

 近くで、国道299号の台交差点を渡る。そばには高麗豆腐の製造直売店があった。


 ゴールの西武池袋線高麗駅に12時35分に着く。次の電車まで少し時間がある。駅前
広場のツツジの植え込みに腰を下ろし、鍋まつり会場で求めた弁当を平らげ、12時51
分発上り飯能行き電車に乗る。

(天気 快晴、距離 7㎞、地図 合同ウオーク地図 歩行地 飯能市、日高市、歩数
 15,900) 





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別府・黒川温泉と錦秋の九州紅葉美の旅③ 菊池渓谷、九年庵を観光後、福岡空港から帰途へ(熊本・佐賀)

2019-02-18 16:43:23 | 国内旅行
 第3日 2018年11月22日(水) 
 == 菊池渓谷、九年庵を観光後 福岡空港から羽田空港へ ==

 熊本県南小国町の黒川温泉の宿、深山山荘にて6時30分に起床した。昨夜は夕食後雨
になったが朝までには上がり、周囲は濃い霧に包まれている。


 7時30分から別棟「山みず木」で懐石料理をいただく。窓からは間近に紅葉の木々が
望まれた。


 バスは9時ちょうどに深山山荘を出発して、今日最初の観光地・菊池渓谷に向かう。途
中雨が少しパラつくが間もなく止んだ。

 昨日のコースを逆行、国道422号線西進して小国町の中心部に入り、国道212号線
を南下して大観峰近くまで進む。


 県道45号・菊池阿蘇スカイラインを西進して、9時55分に菊池渓谷の第1駐車場に
着いた。気温は7℃を示し寒い。

 菊池渓谷は熊本県菊池市の市街地の東約17㎞にあり、阿蘇外輪山北西部の標高500
m~800mに位置し、1,193haの広大な“憩いの森”のよう。

 菊池川の源をなす菊池渓谷は、うっそうとした天然性紅葉樹で覆われ、その間を縫う流
れは大小様々な瀬と渕と滝をつくり、変化に富む渓流と美しい森林がおりなす景観は、
「日本森林浴百選」「日本名水百選」「日本の滝百選」「水源の森百選」「くまもと緑の
百選」「熊本の自然百選」「新くまもと百景」に選ばれているという。


 200mほど左岸沿いを歩いて入口のゲートを入り、最初の吊り橋のところまで行く。

 あとはフリータイムとなり、11時までに駐車場に戻ることになった。だが、ほとんど
の人はガイドの石神さんに従って橋を渡り、右岸沿いの遊歩道を上流へと進む。



 苔(こけ)むす岩の間の複雑な流れや轟音を立てて激しく落ちる滝などを眺めながら、
うっそうと覆われた広葉樹林下の緩やかなアップダウンの続く道を行く。少し先には、江
戸時代の文政6(1823)年頃植えられたという杉が増えてきた。



 

 ゴロゴロとした石ころの多い流れを見ながら遊歩道をさらに進み、次の橋際に出た。そ
の先まで行くと時間がなくなりそうなので橋を渡り、左岸沿いの遊歩道を折り返すことに
する。
          
 橋の上から、上流の小さい滝や下流の静かな流れを眺めた。
     


 左岸に回ると『「名水百選」認定書』が岩に埋め込まれていた。左岸の遊歩道は、少し
高みから流れを見下ろし緩やかに下っている。




          
 幾つかの滝や激しい流れを見ながら進み、周辺のうっそうとした広葉樹林も眺める。
          


 往路で渡った朱塗りの橋の横まで戻り、そばの展望所からもう一度流れを見下ろす。傍
らの売店にも入ってから第1駐車場に戻った。




 皆さん早めに戻ったので、バスは10時57分に菊池渓谷を後にした。


 西進して国道387号線に入り、菊池市の中心街を抜けて南西に進んで九州自動車道へ。


 折り返すように北北西に向かい、菊水ICで九州自動車道を出て、近くの熊本県和水町
(なごみまち)にある道の駅「きくすいの里」に11時48分に着いた。



 ここが今日の昼食地で、広い食堂で「あか牛とあそび豚付せいろ御膳」というメニュー
の昼食をした。食事を済ませて道の駅の中の植え込みなど眺める。




     
 ちなみに和水町は、2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公のひとり金栗
四三(かなくりしそう)の出身地。売店には「いだてん」のポスターが掲示されていた。
          

 道の駅「きくすいの里」を12時48分に出発した。菊水ICから九州自動車道に戻っ
て北へ、佐賀県に入りさらに北上する。一昨日に通過した鳥栖JCで大分自動車道とは反
対に左折して長崎自動車道を西へ、13.6㎞先の東背振(ひがしせふり)ICで長崎自
動車道から出た。

 東脊振ICは吉野ヶ里(よしのがり)遺跡で知られる吉野ヶ里町にある。添乗員の馬場
崎さんは隣の神埼市の出身で、幼少の頃、まだ遺跡と確認される前の吉野ヶ里の原野で遊
び、土器のかけらなど見つけたことがあるとか。

 祖父は吉野ヶ里に山林を持っていたが、国史跡指定前の道路造りの際に二束三文の値で
手放してしまい、祖母はこれから行く九年庵近くに現在もお住まいという。

 今回最後の観光地である九年庵(くねんあん)は、吉野ヶ里町の西の神埼市(かんざき
し)にある。

 東脊振ICを出て北西へ、13時48分に近くの仁比山公園のバス駐車場に到着した。

 そばの城原川の橋を渡って左岸に回ると、広場にテントが幾つも張られ観光案内や土産
店などが並ぶ。


 その横を、上流になる北への細道を進んで仁比山(にいやま)神社の石鳥居と山門の横
を通過する。



 沿道には飲食店のテントが並び、たくさんの観光客で賑わう。右手に佐賀県史跡「伊藤
玄朴旧宅」があるが、帰路に寄ることにして過ぎる。

 さらに緩やかな上り道を進んで国名勝「九年庵」入口に着いた。

 九年庵は、佐賀の大実業家、伊丹弥太郎が明治25(1892)年に造った別荘と、明
治33(1900)年から9年の歳月をかけて築いた6,800㎡の庭園からなる。

 別荘は入母屋(いりもや)の屋根に土壁、竹格子の連小窓や濡縁など、野趣に富む外観
を持ち、茶室と書院の様式を折衷した近世和風の数奇屋建築とのこと。

 広い庭園にはたくさんのツツジやモミジ類などが植えられ、四季折々に美しい景色を描
き出しているという。

 毎年春の新緑の時期と秋の紅葉の時期に一般公開していて、この秋は11月15日(木)
~11月23日(金・祝)の9日間で、今回のツアーもこの期間中に限られている。


 門を入ると、回遊式庭園のそちこちに見頃のモミジが彩りを競う。
     






 少しずつ石段を上がり、かやぶき屋根の別荘前まで行き、趣ある内部も拝観する。




 庭園に敷き詰められたこけには、モミジの落ち葉がたくさん積もっていた。
    


 数知れぬモミジの饗宴を眺めながら進んで、別荘の裏手から九年庵を出た。


     
 その先の斜面もモミジが続き、仁比山神社境内へ。
     
 神埼市天然記念物の「仁比神社のクスノキ」の横を進んで東に回り、石段上に拝殿が祭
られている。 
     
 仁比山神社は、天平7(729)年に京都の松尾大社の分霊を祭った松尾明神を創始と
し、承和11(844)年に慈覚大師が唐から帰朝の際、土中から額を発見して朝廷に献
上し、時の仁明天皇が朝廷の祈願所とし、仁明天皇の仁と比叡山の比山とで仁比山とした
といわれる古社。

 古くから農業の神、山の神として崇敬され、山王さんの名で親しまれているという。

     
 この境内もモミジの紅葉が見頃で、境内には出店もあり多くの人が訪れていた。
          

   

 すぐ下には、九州西国観音霊場第20番札所という仁比山地蔵院があり、千手観音堂が
11月15日から24日まで特別御開扉されていたので、立ち寄り参拝する。




 そろそろバス駐車場に戻ることにした。近在の福岡の八女茶(やめちゃ)を並べた店の
前を過ぎ、少し下るとしょうが湯や甘酒などの店↓があったので入り、少し冷えてきたの
で温かい甘酒をいただき小休止する。


 有田焼の湯吞みや茶碗を並べて店もあり、さらに下って往路は通過した佐賀県史跡でモ
ミジも多い伊藤玄朴(いとうげんぼく)旧宅に立ち寄る。

 伊藤玄朴は寛政12(1800)年の生まれ。幼少から医学を学んで開業後、佐賀城下
の蘭方医、島本良順に入門し、さらに良順の勧めで長崎で蘭学を学んだ後、ドイツ医師シ
ーボルトの塾で学んでいるとか。
         
 26歳で江戸に出て、当時流行したジフテリアの治療で名声を高め、天保4(1833)
年には蘭学塾「象先堂」を開設して人材育成に努め、幕末から明治期に活躍する人材を多
数輩出したようだ。

 安政5(1858)年、将軍の奥医師となり徳川家定の脚気を治し、文久3(1863)
年には家茂の妻・和宮や家定の妻だった篤姫など多くの人を治療したとか。

 さらに、当時流行した天然痘予防のために種痘の必要性を感じ、外国から牛痘苗を取り
入れ、これを機に全国に種痘が広まったとされているよう。

 玄朴が他の蘭方医などと設立したお玉が池種痘所は、のちに東大医学部の前身となった
という。

 
 邸内の紅葉を眺めたり、旧宅内部を拝観したりして伊藤玄朴旧宅を出た。さらに下って、
先ほどより賑わう仁比山神社山門前を通過する。


 橋の上から周辺の紅葉や流れを眺めたりして、仁比山公園に戻った。

 バスは15時16分に出発して福岡市内へと向かう。東背振ICから鳥栖JCまで長崎
自動車道を東へと戻り、九州自動車道に入って北進し、初日の観光地太宰府市を通過する。

 最後の立ち寄り先、福岡市博多区月隈の「博多はねや総本家」に15時59分に着いた。
「福岡観光会館はかた」が3年前にリニューアル移転したところとか。

 30分間の買い物タイムとなり、福岡県内の土産物を各々が求めた。


 16時30分に出発し、博多駅の東側2㎞ほどにある福岡空港に10分ほどで着いた。
3日間お世話になった祐徳バスのドライバー松尾さん、巡った観光地だけでなく通過する
市や町などの詳細な情報もたくさん紹介してくれたガイドの石神さんにお礼を申し上げて
分かれる。


 添乗員の佐々木さんから搭乗券を受け取り、荷物検査を済ませて6番搭乗口に向かう。
搭乗まで時間があるので博多ラーメンの店に入って夕食をする。
     

 18時35分発羽田空港行きANA266便は、少し遅れて19時13分に福岡空港を
離陸した。

 機種は往路同様の大型機、B777-300型機(514人乗り)だが、搭乗者が座席
数を超えたようで、搭乗開始前、後便で帰る人には1万円提供するとかで募集のアナウン
スがあった。

 羽田空港には到着予定の20時15分より5分遅れの20時20分に到着した。第2タ
ーミナル21時05分発所沢駅東口行き空港バスに乗り、帰路につく。

                         (天気 晴、歩数 15,100)





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別府・黒川温泉と錦秋の九州紅葉美の旅② 湯布院、九重夢大吊橋、大観峰へ(大分・熊本)(後半)

2019-02-16 15:08:00 | 国内旅行
 第2日 2018年11月21日(水) 
 == 湯布院・金鱗湖、九重“夢”大吊橋、大観峰を観光後 黒川温泉へ(後半) ==

 10時40分に湯布院を出発してバスは県道40号を西へ、間もなく南に延びる県道
11号「やまなみハイウェイ」に入る。

 由布連山を眺めながら進み、11時20分に「九重(ここのえ)“夢”大吊橋」の駐車場
に着いた。

 この橋は、大分県九重町田野の鳴子川に架けられた歩行者専用の吊り橋で、日本一高い
歩行者専用橋。2006年10月に開通したもので標高777mの位置にあり、最深部か
らの高さ173m、主塔間の長さは90m、主塔の高さは43mという。
     
 開通当時は歩行者専用橋では日本一の長さと高さだったが、長さはその後開通した箱根
西麓の三島大吊橋に譲っているよう。幅員1.5mで大人1,800人の荷重に耐える設計
という。

 12時までフリータイムとなり、各々橋を渡って途中で戻るか対岸まで行くなどして自
由に往復することになる(入場料500円)。
     
 入場券をもらってゲートを入り、少し進むと九睡峡(きゅうすいけい)(鳴子川渓谷)
の深い谷が両側に落ち込み、右手には「日本の滝百選」に選定されている震動の滝(男滝)
が望まれる。




     



     

           男滝
          

     
 中央付近からは左手に女滝↑も眺められ、九重連山の主峰久住山(1787m)や三俣山
(1745m)、星生山(1762m)なども見えるようだが、今日は雲が多くて判然と
しない。


 対岸まで進んで出口を出て、九重連山を眺めたり橋を振り返ったりした。


     


 橋を戻って再び両岸の峡谷や幾分晴れて眺望が開けてきた九重連山などを眺め、入口に
戻った。












     

     
  
 駐車場のそばには入場券発売所や管理センター、観光案内所などの入る建物がある。



 12時にバスは出発し、県道11号・やまなみハイウェイを南南西方向へ。移りゆく九
重連山の山並みを眺めながら次第に高度を上げる。









 やがて眼下に草原などの広大な展望が開けてきた。南側高みには逆光で霞む阿蘇の山容
も現れる。



 右折して国道442号を東進し、「くじゅう花公園」横から県道669号・ぐるっとく
じゅう周遊道路に入って北東に回り込み、ガンジー牧場↑のそばにある昼食地の「レゾネ
イトクラブくじゅう」↓に12時42分に着いた。

 今日の昼食は豊後牛のビーフシチュー、おいしい豊後牛のコース料理を味わった。

 建物の前には、「平安の赤欅(けやき)」と呼ぶケヤキの古木がある。
     
 このケヤキは高山で育ったもので木の芯が赤く、樹齢は約1,000年と推定されると
か。これほどの樹齢を重ね、樹形やこぶが見事な赤欅は全国的にもまれなもののよう。

 13時40分にレゾネイトくじゅうを出た。やまなみハイウェイに戻り、南南西へと広
大な高原地帯を進んで大分県から熊本県に入る。


 逆光の阿蘇山を眺めながら県道45号・ミルクロードを高度を上げて西進する。



 14時20分に阿蘇の展望台である大観峰(だいかんぽう)に着いた。



 標高は936mあり、阿蘇北外輪山の最高峰にある展望台。昔は遠見ヶ鼻と呼ばれてい
たようだが、熊本出身のジャーナリスト・徳富蘇峰が大正11(1922)年、ここを訪
れて雄大な眺めに感動し、「大観峰」と命名したという。


 現在は全国各地から多くの観光客が訪れる観光スポットである。

 南側眼下には広大な阿蘇カルデラの中に広がる集落や田園地帯を見下ろし、その向こう
に阿蘇五岳の長い山並みが望まれる。



 阿蘇の山並みは、時間と共に彩りを変えてそびえ立つ。





 東側から東北にかけては昨日今日通過してきた九重連山の山並みが、さらに周辺はスス
キなどの草紅葉に覆われ、しばし広大な絶景を堪能する。

 今は姿は見えぬがこの草原は古来から牛馬の放牧場としており、刈り払った草は家畜の
飼料やかやぶき屋根の材料になるなど、人々の暮らしの中に様々な形で利用されてきたと
のこと。



 春先には、阿蘇の季節の風物詩ともいえる野焼きが行われ、人の手を加えることにより
やぶや林に変わらないよう草原の維持が行われてきたという。


 大展望を楽しんだ後そばの売店に入り、絞りたてで濃厚なジャージー牛乳を味わう。

 30分のフリータイムを終え、14時50分に大観峰を後にした。

 北に向かう国道212号を進み、小国町の中心街で右折して東進する。国道442号を
進んで南小国町の東部の黒川沿いの林間、狭い谷間に続く黒川温泉へ。


 その東部にある今日の宿、深山(みやま)山荘に15時30分頃到着した。

 深山山荘は、山あいの棚田跡の斜面に作られた、かやぶき屋根の民家を移築改造した8
棟の離れからなる宿。1棟は半分に仕切られていて2組のグループが宿泊できる。それら
の1棟に入り、ひと休み後、山荘内の遊歩道を一巡する。



 中にはかやぶき屋根のままの棟もあり、カエデなどの紅葉も残る。


     



    

 斜面上部には「村中の湯 たゆたゆ」と呼ぶ温泉があり、各々の棟にも掛け流しの温泉
が設けられていた。



 山荘内の周遊を終えてから「村中の湯 たゆたゆ」で暖まり、夕食は別棟↑「山みず木」
にて、メニュー豊富な季節の懐石料理を美味しく味わった。 

                           (天気 晴、歩数9,400)





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別府・黒川温泉と錦秋の九州紅葉美の旅② 湯布院、九重夢大吊橋、大観峰へ(大分・熊本)(前半)

2019-02-15 15:58:13 | 国内旅行
 第2日 2018年11月21日(水) 
 == 湯布院・金鱗湖、九重“夢”大吊橋、大観峰を観光後 黒川温泉へ ==

 別府・観海寺温泉の美湯の宿・両築別邸にて6時30分に起床した。すっきりした青空
ではないが今日も晴天である。
5階の部屋からは、大きな弧を描く独特の姿のグローバルタワーが望まれる。

 国際会議場や市民ホールなどのある場所のようで、設計は地元大分県出身で国内外の著
名な建築を手がけている建築家磯崎 新(いそざきあらた)氏らしい。高さは約125m
あるという。

 その向こうは別府湾のようだが、朝もやと逆光に霞む水平線がわずかに確認できるのみ。


 廊下からは北方に、近くの杉の井ホテルや九重(くじゅう)連山の一部らしい山並みな
どが望まれる。7時30分から1階のレストランで朝食をした。

     
 9時にバスは出発して湯布院(ゆふいん)に向かう。


 近くの道路から霞む別府湾を見下ろし、昨日来た道を戻って大分自動車道に入り、日出
ジャンクションから南西へと高度を上げると九重連山の山並みが迫る。


 9時30分に最初の観光地、由布市(ゆふし)(旧湯布院町)湯布院温泉のP3駐車場
で下りた。

 ほかの温泉街とは雰囲気の違う土産店や飲食店など並ぶ細い道を左折、右折して大分川
の右岸沿いに出て、さらに少しで大分川源流の金鱗湖(きんりんこ)畔へ。



 金鱗湖は、やや長方形で長辺約100m、短辺約70m、周囲約400m、最深部は約
2mの湖。湖の水は湖底からの温泉と5つの河川からの流入により、1日約23,300㎥
の水量が大分川の源流になっているという。

 湖面は朝の冷え込みで水蒸気に覆われ、湖面からは霧が立ちと込めていて幻想的な風景
を見せる。

 この池は、由布岳(1,584m)の麓にあることから「岳ん下(たけんした)ん池」と
呼ばれていたが、明治17(1884)年に大分の儒学者、毛利空桑(もうりくうそう)
が、魚が飛び跳ねて夕日に金色に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたと伝えられているよ
うだ。

 金鱗湖には、フナ、コイ、ハヤ、ウナギ、ナマズ、テラピア、グッピーなどが生息して
いるという。ここでフリータイムとなり、10時30分にP3駐車場に集合となる。



 周辺の紅葉も見頃である。





 湖畔の南側一帯には紅葉の木々が多く、そちらに回るとかやぶき屋根の建物があった。
その横には2階建て瓦屋根の大きな建物もある。

 雑貨を販売する鍵屋と、天井桟敷と呼ぶ茶房のよう。






     

          




 さらに西側にもかやぶき屋根が見えたので回ると、亀の井別荘という旅館で、宿泊者以
外は邸内には入れない。



 そろそろバス駐車場に戻ることにして、大分川右岸沿いの道を逆行する。澄んだ流れに
はたくさんの魚影が見られた。





 道路沿いに続くユニークな土産店などをのぞきながら進む。





 途中のP1駐車場のある角まで戻ると「夢ひろば」と呼ぶ建物があり、道路を挟んだ西
側には寺院の屋根が見られた。


 その間を右折して緩やかな上り道となり、家並みの間から由布岳の山頂付近が望まれる
ようになった。



 次の十字路近くに九州自動車博物館があり、建物の周辺に何台もの自動車と軽飛行機の
機体が展示されている。

 「レトロモーターミュージアム」の看板もあり、映画に登場した名車が70台あるよう
だが、観覧の時間はない。






 さらにこの地の特産品などを並べた土産店の前を過ぎ、犬屋敷や猫屋敷などの店の並ぶ
通りを西進する。


     

          

     


 湯の坪横丁と呼ぶさらに細い通りを抜けてP3駐車場に戻った。




 P3駐車場付近からの由布岳。

                                     (続く)





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蓮田から岩槻へ 武州鉄道廃線跡を訪ね歩くウオーキング(埼玉)

2019-02-13 17:16:55 | カントリーウオーク
 2019年2月11日(祝・月)

 埼玉県内を中心のカントリーウオークグループが、スタートからまる26年になる記念
日の今日は、武州鉄道の蓮田~岩槻間に残る痕跡を訪ね歩いた。

 集合はJR宇都宮線蓮田駅。予報では降雪の心配もあったが雪にはならず曇天、でも気
温は低い。10時ちょうどに蓮田駅東口をスタートした。


 ちなみに、武州鉄道は蓮田からさいたま市岩槻、大門を経て、川口市神根(現神戸(ご
うど))までの鉄道。大正13(1924)年に今日歩く蓮田~岩槻間がまず開業したが、
14年後の昭和13(1938)年に営業廃止となり、線路跡もわずかしか残っていない
よう。

 線路沿いの通りを少し西進し、交番のある交差点を左折して南東へ真っ直ぐに伸びる車
道を進む。

 蓮田三丁目で右折し、神亀(しんかめ)酒造の醸造所の周囲を北から西、南へとコの字
状に回る。北側にあった売店は今日は休業日だった。

 神亀酒造は日本酒蔵において最初に全量純米酒にしたことで知られ、現在も米と米麹
(こめこうじ)と水からのみで日本酒を造っているという。


 元の道に戻り、すぐ先で東へと進む。スイセンの咲く日陰の畑には、2日前の雪が残る。



 その辺りから東に見える林は小川原家の屋敷林で、「さいたま緑のトラスト」の保全7
号地だという。近くには安産子育てに御利益ある、延命地蔵尊が祭られていた。
         

 すぐに国道122号バイパスに出た。S字状カーブの中ほどに材木店があり、その南側
の畑の隅に「馬込車站(まごめしゃたん)建設碑」があった。
          
 「昭和6(1931)年2月1日」とも刻まれていて、武州鉄道馬込停車場のあったと
ころ。

 碑の上部は欠け落ち左側表面も剥落(はくらく)していたが、支え持って記念撮影する。
ここからも、緑のトラスト7号地の林が間近である。


 S字状カーブの終わる辺りで国道を離れて東へ、住宅地の間を東南東に延びる道路があ
り、これが武州鉄道の線路跡とのこと。


    
 沿道の家の紅梅が見頃で、近くの畑の向こうには屋敷林の残る民家も望まれた。


 東北自動車道の上を越え、東側の馬込交差点で東北自動車道の東側側道を横断する。そ
の先東南東に延びる静かな里道も武州鉄道の線路跡。


 河合小の校門横に小さい稲荷神社が祭られていた。どこにでもあるような稲荷神社だが、
この神社には岩槻の料亭お抱えのタクシー会社の運転手と狐との伝説があるという。
     

    
 河合小の南に回り、平林寺集落を東進する。紅梅、白梅、ピンクの3色の梅が見頃にな
った住宅があり、紅梅の下からはフクジュソウも咲き出していた。
    

               


 クランク状にカーブした曲がり角の家に黒と白の2頭の馬の像が置かれていたが、どの
ような作品なのか説明板などはない。
    

 すぐ先の十字路を右折すると、平林寺公民館に延びる短い直線が廃線跡のよう。


         
 すぐ先の十字路際に「片割れ地蔵」と呼ぶお地蔵さんが立ち、そばの小さい林には「平
林寺跡」の表示がある。

 ここは、県内新座市野火止にある平林寺があったところ。平林寺は、永和元(1375)
年にこの地に創建されたが、豊臣秀吉の小田原城征伐の影響を受け、塔頭(たっちゅう)
のひとつが残るだけとなったとか。

 のち関東に領地替えとなった徳川家康が鷹狩りに訪れ、休息で立ち寄った際に再興を約
束し、天正20(1592)年に新座市に中興されたとのこと。

 片割れ地蔵は、もとはこの地に一対の地蔵さんがあったが、そのひとつは現在の平林寺
に祭られたので、ひとつだけ残ったよう。

 この先は、真っ直ぐに伸びる畑と民家の散在する通りを平林寺集落から箕輪集落へと
1.2㎞余り東進する。武州鉄道はすぐ北側をほぼ並行していたようだが、その痕跡はな
いらしい。

 T字路に突き当たって左折、すぐの十字路を北東に入った先で、住宅の並びが少し周辺
と違う細い通りが線路跡と分かる。


 十字路に戻り東へ、次の十字路を左折した先にも線路跡の道路が残っていた。


 美幸町から日ノ出町へと東南東に進み、南側にも短い線路跡を確認した。
     

 県道65号・日光御成街道などとの変則五差路を右折して、もとは岩槻城の堀だったと
いう車道を南へと進む。


 愛宕町にあった「愛宕ふれあい広場」が今日のゴール。12時35分に着いた。ミーテ
ィングをして解散とする。

 この後、用事で帰るTさん以外は岩槻駅の東北近くにある「コロッケカフェふれあい」
に12時50分に入る。
     

    
 まずは暖かいカレースープとコロッケ入りサンドイッチをいただく。その後、昼食を兼
ねた26周年記念の会食をして、2時間近くの宴を楽しんだ。


 ちなみに降雪こそなかったがうす寒い一日で、さいたま市の最高気温は4.4℃だった。

(参加 11人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万)、岩槻、歩行地 蓮田市、
 さいたま市岩槻区、歩数 11,500)


 なお、「コロッケカフェふれあい」の藤野ヒロ子さんは、もと透明水彩画をされていた
が、現在は絵皿に植物などを描く工芸作家として活動されているとか。

 絵皿の焼成はどうされているのか伺うと、最近は断熱性能のよいファイバー材があるの
で大がかりな焼釜は必要なく、60㎝角くらいの釜の周囲をファイバーで覆えば室内でも
焼けるようで、藤野さんもこの上の階の自宅にそのような焼釜を設置して、電気炉で焼成
しているという。

 会場の壁面には、藤野さんが制作された美しい絵皿がたくさん並んでいた。
    



 藤野さんは、近くの東武アーバンパークライン岩槻駅に近いWATSU西館の3階で開
催している、さいたま市岩槻区の「第7回人形の里 区民総合文化芸術祭」のプロ作家の
展示にも出展されているとのこと。

 
 会食終了後は皆で会場に行き、藤野さんの作品↑を始め多くのプロ芸術家の油絵、水彩画、
人形、書、藤工芸など多彩な作品の数々を観覧する。


    

         



     



        

    



     
 さらに、岩槻駅東口駅前にある、人形のまち岩槻の代表的な人形店ともいえる東玉(と
うぎょく)総本店の4階で開催中の、「変わり雛(びな)」の展示も観ることにした。

      
 人形の東玉では、毎年その年に起こった印象深い出来事を全国から一般公募し、それら
をモチーフにした人形を製作、発表しており、まもなく平成の終わる今回は平成時代30
年分の変わり雛を一挙公開することになったよう。


 会場では、30年分の変わり雛を年代順に、各々の年の上位3点ずつ展示している。





 それらを観覧しながら、ああ、この年はこんな人が話題になったのだったかと、忘れて
いたことも多かった。
     














 あわせて、隣接するたくさんの武者人形などの展示も一巡して眺める。




         


 帰路は、東武アーバンパークライン岩槻駅↑から15時45分発大宮行急行電車に乗る。





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「埼玉の自然」写真展と水彩画展の観覧でさいたま市へ

2019-02-09 16:23:21 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2019年2月8日(金)

 明日は降雪の予報で連休も寒波が続くようなので今日うちにと思い、さいたま市内で開
催中の写真展と水彩画展の観覧に出かけました。

 JR大宮駅から、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)12時30分発のモノレー
ルに乗り換えて2つ目の加茂宮駅で下車し、さいたま市北区役所のあるプラザノースに入
ります。

 この2階で開催中の『第33回私がみつけた「埼玉の自然」フォトコンテスト』入賞・
入選者作品展を観覧しました。
         

 会場は撮影禁止なので、外から会場の様子だけを。



 会場には、最優秀賞1点、優秀賞3点、特選2点、準特選20点、奨励賞20点、入選
作品100点と、招待作品6点が展示されていました。

 鳥の動きや雷光など一瞬を切り取ったもの、早朝や夕方など光と影の美しい映像を切り
とった作品など、参考になる作品がたくさん見られました。

 会場の廊下側ウィンドウに展示されていた生花も。
     

          

               

 隣の会場でも、このような四季の風景を撮った写真展を開催していたので、観覧するこ
とに。7人の会員が各々5点ずつと、講師の作品2点でした。
         
 撮影場所の大半は埼玉県内、ほかに北海道から和歌山県まで、関東とその周辺が中心の
作品です。

 2つの会場を出て、階段を下って1階に下りる途中からの1階ホールの眺め。


 その一角に、地元北区をホームグランドとするサッカーJリーグ2部の大宮アルディー
ジャのコーナーが。




         

 ホールからの南側の眺め。


 隣のイトーヨーカドーに回り、1階食堂街で昼食をしてから南東に進んで、JR宇都宮
線の土呂(とろ)駅から上り電車に乗り、3つ目の浦和駅で降りました。

 西口駅前のロータリーには、浦和をホームグランドとするJリーグ1部の浦和レッズの
飾りが。


 ロータリーの背後に回ると、浦和のマスコットキャラクター「浦和のうなこちゃん」像
がありました。
         

 駅前通りを進んで近くの埼玉会館が次の水彩画展の会場です。


    

 この会には、カントリーウオークグループのメンバーのTさんが所属されていて、毎年
案内をいただくので、いつも観覧に出かけていました。



 今回は、この水彩画研究会の5つの教室のメンバー31人の方が、各々3~6点を出展
していました。会場は撮影可能なので、目についた作品をいくつか。


    

        

    





    





 ゆっくりと40分ほど観覧して会場を出て、1階のホールに飾ってある作品も眺めます。

      「ヴェニス」 互井 開一
     

          「阿蘇山鳥瞰図」 長田 演之
         

               「待春」 三浦 白琇    
              

     渋沢栄一像 倉田 白羊
    

 神保光太郎の「埼玉のこころ」


 この建物、埼玉会館の木製模型、ちなみに埼玉会館の設計者は前川国男のよう。


 入口横には「秩父上町屋台」の模型が展示されていました。
         


 埼玉会館を出て西に少しで、埼玉県庁の第一庁舎↑と第二庁舎↓の間を進みます。 

  
 第二庁舎側に県政情報センターの看板があったので入ってみましたが、私が欲しいよう
な資料はありませんでした。


 県庁の西側で中山道を横断して、さらに進んで別所沼公園に下りました。
     

 寒々とした風景の別所沼


 沼の西側に並ぶメタセコイア並木の間の遊歩道を南へ。
     

 西岸近くにはたくさんの水鳥が。




 弁天堂の入口にも、浦和駅前のより小さな「浦和のうなこちゃん」像があります。
         

 南東側の跨道橋上から振り返る別所沼。


 南に延びる桜並木とアジサイの続く「花と緑の散歩道」を武蔵浦和駅に向かいます。
     


 JR武蔵野線・埼京線の武蔵浦和駅に16時25分に着き、武蔵野線上り電車で帰途に
つきました。 





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別府温泉・黒川温泉と錦秋の九州紅葉美の旅① 太宰府天満宮と光明禅寺の観光後別府へ(福岡・大分)

2019-02-06 18:33:04 | 国内旅行
 出かけてからすでに2か月以上過ぎてしまいましたが、晩秋の北九州の旅の模様です。

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 晩秋の11月20日(火)~22日(木)、「九州1位別府温泉・熊本1位黒川温泉の
名湯でゆっくりと過ごし錦秋の九州紅葉美とこだわりのグルメを食す3日間」という阪急
交通社クリスタルハートの旅に参加した。

 第1日 2018年11月20日(火)
 == 羽田空港から福岡空港に飛び太宰府天満宮へ ==

 自宅を6時頃出て、隣の所沢駅東口から6時40分発の高速バスに乗る。まだラッシュ
前なので順調に進み、羽田空港第2ターミナルに予定の8時45分より少し早めに着いた。


 第2ターミナルビル2階に上がり、全日空の旅行会社カウンター14番の阪急交通社受
付カウンターで受付を済ませる。添乗員は馬場崎さん、検査場で荷物検査を済ませ、出発
ロビー64番搭乗口付近に移動する。


 10時30分発福岡空港行きANA249便の機種はB777-200型機(405人
乗り)、機体は映画「スター・ウォーズ」に登場する人気キャラクターをデザインした特
別塗装機。10時56分に羽田空港を離陸した。


 離陸して10分余り過ぎた頃、左窓眼下に冠雪の富士山が望まれる。





 順調に飛行して福岡市上空に達し、予定の12時30分より5分早い12時25分に福
岡空港に着いた。福岡市は晴天で気温は15℃とか。




 空港を出て3日間お世話になる祐徳バスに乗り、13時03分に出発した。ドライバー
は松尾さん、ガイドは石神さんとのこと。国道3号線を南東に少しで太宰府市(だざいふ
し)に入り、13時33分に太宰府天満宮に近い駐車場で下りた。

 今日の観光は太宰府天満宮と隣接の光明禅寺(こうみょうぜんじ)である。




 太宰府名物の梅ヶ枝餅(うめがえもち)の土産店や飲食店などが並び、観光客で賑わう
参道を進んで2つの石鳥居を入る。





 最初は天満宮の南側にある光明禅寺へ。寺へ向かう参道沿いの紅葉が見頃である。
         






 光明禅寺は、太宰府天満宮を代々守ってきた菅原家出身の鉄牛円心和尚が鎌倉中期の文
永10(1273)年に建立した臨済宗の寺院とのこと。九州有数の枯山水庭園があり、
「苔寺」として親しまれているようだ。


 山門を入ると「仏光石庭」と呼ばれる前庭がある。昭和32(1957)年に作庭家と
して知られる重森三玲(しげもりみれい)により作られたもので、15個の石を並べて
「光」という字を抽象的に表現しているという。



 本堂に上がって本庭を観賞する。本庭は本堂や茶室から観賞する座観式の庭園で、大海
をテーマにした白砂と多くの石組みによる岩島(がんとう)が表現されているとのこと。
     


 少し散り始めてはいるが、カエデなどの紅葉、黄葉の彩りを眺めた。ちなみに光明寺庭
園は、福岡県指定名勝である。

  

 二の鳥居前まで戻り、三の鳥居をくぐって心字池を太鼓橋で渡る。池の周辺にはクスノ
キの大木が目につく。



 檜皮(ひわだ)屋根で朱塗りの楼門を入ると正面がやはり檜皮葺のどっしりした本殿で、
その両側は回廊で結ばれていて、それら周辺はたくさんの参拝者で賑わう。

 現在の本殿は1591年の建立で、国の重要文化財に指定されている。


 太宰府天満宮は、「学問の神様」として知られる菅原道真の墓所の上に社殿を造営した
もの。学問の神、誠心の神として崇敬を集める福岡県を代表する神社である。

 菅原道真は、日本中の人々から信仰を集める学者・政治家・文人。幼少期から学問の才
能を発揮し、当時の学者の最高位・文章博士(もんじょうはかせ)になったが無実の罪で
京都から太宰府に送られ、延喜3(903)年に太宰府の南館で生涯を終えた。

 延喜5年にここに墓地と神殿を創建し、延喜19(919)年に社殿を建立したという。
天神信仰の聖地として年間650万余人の参拝者があるようだ。

 全国には菅原道真を祭神とする「天満宮」が約12,000社あり、太宰府天満宮はその
すべてをまとめる総本宮である。 


 本殿の右手前にはご神木の「飛梅(とびうめ)」がある。天神様(菅原道真)は、都を
発(た)つ時、庭前の梅に別れを惜しんで、「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の
花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだところ、この梅が天神様のあとを慕い、一夜
のうちに飛来してきたという。

 本殿前でフリータイムとなり、15時までにバス駐車場に戻ることになった。

 本殿横には「厄晴れひょうたん」がたくさん奉納されている。

 古来から不思議な霊力がこもるというひょうたんの中に、厄除けや願い事を記入した用
紙を入れ、除災招福を祈念するもののよう。

     
 広い境内にはたくさんのクスノキの古木が目につき、それらの間に包丁塚、野見宿禰公
碑、筆塚などがある。
          

     

 本殿の背後右手には樹齢1,000~1,500年と推定され、国指定天然記念物の夫婦
樟(めおとくす)の古木もあった。
     


 本殿の背後は梅林になっていて、梅の古木がたくさんあるが葉はすでに落ちて枯れ枝と
なっている。


    
 境内には幾つかの牛の銅像がある。なぜ牛なのか? それは、菅原道真亡くなり、その
亡骸を弟子が牛車に乗せて運んでいると牛が動かなくなった。「これは道真の意思に違い
ない」と弟子は感じ、この地に亡骸を埋めたという。
    


 境内では「天皇陛下御在位30年記念、第65回秋芳会菊花展」を開催中で、見事なキ
ク花がたくさん飾られていた。







 境内にはほかに、菅公歴史観↑、菅原道真にまつわる宝物など5万点を収蔵するという
宝物殿や、九州国立博物館もあるが見る時間はない。


 15時も近くなったので心字池方面に戻り、池や周辺のクスノキの古木などを眺める。


 池畔には国指定重要文化財の志賀社の小さな社もあった。海上安全の守護神で社殿は永
禄2(1458)年の再建とか。和・禅宗・大仏の三様式を持って構成され、美術工芸品
ともいえる精巧な建造物のよう。
         



 太鼓橋を渡り戻った二ノ鳥居の南東側には延寿王院(えんじゅおういん)と呼ぶ建物が
ある。

 安楽寺天満宮留守別当大鳥居(あんらくじてんまんぐうべっとうおおとりい)の宿坊で、
宝暦4(1754)年に桃園天皇から院号を賜ったとか。慶応元(1865)年から約3
年間、朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷の五卿が滞在し、その間、西郷隆盛や高杉晋作、
坂本龍馬ら大勢の勤王の志士が去来して明治維新の策源地となったという。門前に「五卿
遺跡」碑もある。


 二ノ鳥居から一の鳥居方面へと観光客で賑わう門前町を戻る。沿道のゴミ集積箱はタイ
ル張り。
         

     


 一の鳥居に近い梅ヶ枝餅の店・松屋で梅ヶ枝餅を求め、庭園に回ってたくさん実る柿な
どを眺めながら味わう。


 松屋は、西郷隆盛と共に鹿児島・錦江湾で入水(じゅすい)して亡くなった月照がその
前月に泊っており、店主孫兵衛はかくまったお礼に月照から和歌をいただいたという。


 西鉄太宰府駅前を通過して、バス駐車場に戻った。


 バスは15時に出発して、今夜の宿のある別府温泉に向かう。近くの↑太宰府政庁跡前
を進んで九州自動車道に入り南へ。鳥栖(とす)ジャンクションで左折して大分自動車道
を東南東へと進む。

 大刀洗町(たちあらいまち)、甘木市(あまぎし)、朝倉市、うきは市などを過ぎて熊
本県から大分県へ。日田市を通過して玖珠町(くすまち)に入り、玖珠SAで16時03
分から15分までトイレ休憩する。


 車中ではガイドの石神さんが、通過する沿道に見える山や川の名、建物などの紹介、移
り変わる市や町の見どころや産業、歴史、ゆかりの人物などを途切れなく順次説明される
ので、飽きることがない。

 九重町から湯布院町(ゆふいんちょう)へと東北東に向きを変え、山頂付近は雲に隠さ
れた九重(くじゅう)連山を見ながらさらに進んで別府市内に入る。


 別府ICで大分自動車道を出て県道52号を進み、別府市街地の西側山麓にある観海寺
温泉へ。大きな建物が目立つ杉の井ホテルの近くにあった初日の宿、美湯の宿・両築別邸
に17時頃到着した。               (天気 晴、歩数 11,400)





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東京ステーションギャラリーで「皇室と鉄道展」を観覧

2019-02-01 17:13:30 | 鉄道
 2019年1月29日(火)

 JR東京駅丸の内北口にある「東京ステーションギャラリー」で1月29日(火)か
ら2月3日(日)まで開催中の『天皇陛下御在位30年記念「皇室と鉄道展」』の観覧
に出かけた。

 この展覧会は、混雑を避けるために1時間ごとの入場者をネットで募集していたので、
空いていた時刻に応募して申し込んだもの。私の観覧時刻は14時30分~15時30
分の間である。

 ステーションギャラリー入口
        

 入口は1階で、展示場は3階と2階に分かれているが、いずれも撮影は禁止だったの
で、もらってきたパンフレットでその展示の一部を紹介する。

      表紙(ステーションギャラリー入口にもこの拡大パネルがあった)
     

      裏表紙
     

 パンフレット内の見開き


 これら写真や資料は展示されていたものの一部て、3階では「国民統合の象徴として」
「先の戦争への思い(慰霊の旅)」「被災地・被災者への眼差し」「皇后陛下への感謝、
ご家族への思い」のテーマで、2階では「駅 ~知らざれる貴賓室~」「お召し列車 ~
御料車の変遷、鉄道人の使命感~」「「天皇陛下の旅」と鉄道」のテーマごとに、関連の
写真やパネル、実物などが展示されていた。

 全部の展示を観覧後、2階の展示室に隣接したステーションギャラリーの横から、東京
駅丸の内北口のドーム2階部分を一周する回廊に出て、上からドーム内を見下ろした。

 こちらは、ショップを出た辺りから見下ろした丸の内北口。




 回廊の壁面には、丸の内南口と北口のドーム天井にある干支(えと)のレリーフが展示
されている。
 

 回廊を時計回りに回ることにした。改札口の上部辺りからの眺め。 


 さらに回ったところから。




 丸の内北口改札口周辺。


 ほぼ一周した辺りから壁側に、東京駅丸の内口や丸の内の変遷についての常設展示が
ある。


 東京駅の最初の設計をした、ドイツ人鉄道技師バルツァーの考えた中央停車場の模型。

 このプランは、西欧列強に肩を並べようとする当時の鉄道関係者には受け入れがたく、
1903年にバルツァ-が任期を終えて帰国すると、日本建築界の第一人者・辰野金吾に
託されることになったという。

 その辰野金吾の設計図による最初の東京駅舎模型。

 辰野金吾は、日露戦争の影響もあり約7年かけて1910年に最終設計を終えたよう。
6年9か月の工期を経て完成した駅舎は、3階建て全長300mを超えている。


 第2次世界大戦で消失した東京駅舎を、戦災後復興した建物の模型。私たちが近年まで
長い間見慣れていた東京駅の姿はこれ。

 第2次世界大戦末期の1945年5月25日深夜にB-29の空襲で消失後、2階建て
にして1947年3月に竣工したとのこと。その後、2007年までの60年間、この姿
のまま使い続けられた。
 

 2014年に再建を終わった東京駅復原駅舎。上側はミラーに映した線路側の様子。


 その先には、東京駅を含む丸の内の変遷が1914年から、50年後の1964年と
2014年の3つの時期の変遷の様子が示されている。最初は1914年当時の丸の内。




 東京オリンピックが開催された1964年のもの。


 2014年の丸の内。


 この辺りでドーム側に振り返り、出札口方面を見下ろした。


 一周し終えたのでミュージアムショップに入り、販売している鉄道関連の商品を眺める。




     

 2階から、レンガ積み壁面に沿った階段を下って1階出口からステーションギャラリー
を出て、丸の内北口のドーム天井を眺める。


 ドームの真下から


 ドームの隅にある干支の周辺






 丸の内北口の3つある出口の中、真ん中の出口上にあるディスプレイ。


 ここを出て地下に下り、東京メトロ丸ノ内線の東京駅に回り、池袋行き電車で帰途につ
いた。      







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