あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

所沢の桜(金泉寺のしだれ桜)

2006-03-31 20:07:09 | 所沢だより
 青空が広がりましたが、今日も幾分風の冷たい日でした。

 市の西部、早稲田大学所沢キャンパスの近くにある金泉寺(こんせんじ)に
行ってみました。金泉寺は、真言宗の寺で、三ヶ島地区で最も古く、創建は平安
時代とのことです。

 本堂に上がる階段横にオレンジのミツマタが咲いていました。

 今日のここを訪ねた目的は、樹齢140年というしだれ桜です。運良くちょうど
見ごろで、何人かがカメラを構えていました。境内が狭いのと、私のカメラの画角
の限界で、全体像お見せできないのが残念です。

 このしだれ桜は、昨日までにご覧いただいた、砂川堀のしだれ桜、東川の桜並木、
と並んで、「ところざわ百選」に選定されています。


 「花の寺」と書いてある通り、庭にはいろいろな花が咲いていました。しだれ
桜の下にはクリスマスローズがうつむき加減の花を幾つも見せています。

 東側のがけ際には、ハナモモが花盛りです。

 本堂際にはオレンジと黄色のミツマタがたくさんの花を付けています。

 西側に回ってみたら、ヒカンザクラが房のような花を付けていました。

 本堂正面のソメイヨシノも満開でした。

 4月最初の週末、明日と明後日は、花見の方でこの寺もにぎわうことでしょう。


 



 

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所沢の桜(航空公記念園と東川)

2006-03-30 21:54:26 | 所沢だより
 昨日も今日も、北西の風が強く、寒さがぶり返した感じですが、所沢市内の桜
は見ごろを迎えました。今日は午後になって雲が増え、花の彩りはいまひとつ
ですが、まだ咲いていないところの方や、花見に行かれない方もおられると思い
ますので、桜を中心に所沢の花をご覧に入れます。青空の見えるのは、昨日の
写真です。

 航空記念公園内にある市立図書館のそばでは、すももが見ごろになりました。
白い清楚な花です。

 公園内の大きな柳が芽吹き、風にゆれています。そばのソメイヨシノもかなり
開きました。

 芝生に展示されている飛行機も、回りに桜が多いので、お花見をしているかも
しれません。

 公園の南を流れる東川(あずまがわ)に行ってみました。両側にソメイヨシノの
桜並木がこの先約3㎞続いています。観光協会のぼんぼりも吊るされました。

 岸には、桜だけでなく、ツバキやレンギョウ、ショカッサイなども咲いています。

 花は、ところどころにある橋から眺めるのがよさそうです。

 少し下流に進んだら、桃も鮮やかに咲いていました。

 写真を撮っているうちに、だんだん雲が増え風も強まりました。桜も寒そう
です。でも、この寒さなら、来週もお花見はできそうです。


 

 

 

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関東山の辺の道(1) 日立市南部~常陸太田市

2006-03-29 22:18:13 | 関東山の辺の道
 冬の間中止していた企画をそろそろ再開したいと考えています。名付けて「関東
山の辺の道」、関東平野の周辺部をグルッと回るウオーキングです。距離の見当
はつけていませんが、1000㎞前後にはなるものと思われます。冬と夏を除き、
月1~2日ずつ歩きつなぎ、数年かけて達成できればと思ってはじめた、私の
オリジナルウオークです。

 奈良県の「山の辺の道」には及ばないにしても、関東平野の山すそには、古い歴史
を残す町並みが多く、豊かな田園、そしてそれらを囲む緑の山並みが広がっています。
これら歴史と自然、そして地元の方とのふれあいを求めて歩こうというものです。

 歩く方向は、自宅からは遠方の茨城県からとし、栃木、群馬、埼玉、東京、神奈川
と反時計回りに進むことにしました。海岸部は別にして、おおむね標高50m~70m
くらいの、関東山地の山すそにもあたる、車の少なそうな道を結んで歩く計画です。

 今日は第1日目を紹介します。


04年9月3日(金) 晴
 JR常磐線大甕(おおみか)駅に10時23分に降りた。出発点は駅から東北にある
水木浜海岸である。ここは、前年3月下旬に行われた72年に1度の祭典、「磯出
(いそで)大祭礼」で、茨城県水府村(現在は常陸太田市)の2つの金砂神社からの
大行列が、3日かけて到着し、折り返す会場になったところ。私も祭礼期間中、ウオ
ーキング仲間のMさんと、水府村や常陸太田市内で、この祭礼の行列を観覧した。

 水木浜の砂浜には、テトラポット幾重にも並んでいた。

 海岸沿いに南に進み、田楽鼻(でんがくはな)と呼ぶ岬の公園に回る。磯出大祭礼
の行列は、途中何か所も田楽舞いの奉納をするのだが、ここもその場所。昭和6年
(1931)の第16回と昨年の第17回記念のモニュメントが残されていた。

 駅に戻り跨線橋を越え、国道6号沿いにある大甕神社に詣でる。スダジイなどの
古木の豊かな森に囲まれた神社は、元禄2年(1689)に水戸光圀公により、この地
に遷宮されたという。社殿はそう大きくはないが、精巧な彫刻が施されていた。

 旧岩城相馬街道を西に進んで国道に合し、石名坂で再び分かれる。石名坂榎木元
バス停そばに、「金砂神社磯出大祭礼記念植樹」の榎が植えられていた。72年後、
この木を地上1.2mで切り、切り株に祭礼のみこしを乗せ、祈願の神事が行われる。

 町並みが終わる頃、下り坂となり、日立工場の揚水場横を通過し、県道156号に
合する。大和田町1丁目の通には、大きな長屋門の家などが残り、旧岩城相馬街道
の街道筋だったことがうかがえる。

 東北自動車道を越えた本内集落の前後には、特産の香水などを並べた梨の直売
店が数店出ていた。

 左からの国道293号に合し、日立市から常陸太田市へ。国道は歩道があるが、
高速で通過するトラックなどが多く、わずらわしい。平宿の民家には、ヒマワリ、
ケイトウ、マツバボタンなど夏の花が鮮やかな彩り。2㎞余りで国道の車から解放
された。

 茂宮川の周辺では、早くも稲の収穫を始めた田んぼもあり、2つの田ではさ掛けを
していた。古い赤レンガの煙突の立つ家が見えたので、通りがかりの人に聞いたら、
造り酒屋だったが現在は廃業しているという。そのそばで里川を渡る。

 国道343号を横断して常陸太田市役所前に出る。次の東バイパス交差点を横断、
根谷坂にかかる。交差点角には、重厚な瓦屋根の旧家があった。

 常陸太田の中心街は、この急坂を上がった丘陵上にある。大きな木札の看板が
上がった薬局や、郷土資料館、白壁土蔵の郷土資料館別館など、古い家並みが
残っていた。

 十王坂を西に下り、源氏川を渡って太田二高の北の坂を回り込んで久昌寺へ。
水戸光圀公建立の寺だが、現本堂はコンクリート造りである。

 寺の先から、桜やアジサイの間を西山公園に上がると、義公廟がある。徳川光圀公
の生母の菩提を弔う法華経を納めた宝塔や、明版一切経が納められているという。

 裏手の「歴史の散歩道」に入る。展望台があったので上がってみたら、北から東側
にかけての展望がよい。

 桃源集落に入り、光圀公が元禄13年(1700)、73歳で没するまで過ごしたと
いう西山荘(せいざんそう)に行ったが、閉門時刻の16時30分を過ぎていた。

 薄暗くなった林間を上がって西側の車道に出て、白馬寺に行く。光圀公から朱印
20石を賜り、元禄9年(1696)にこの地に移されたという。夕方やって来た怪しい
人と見られたか、庫裡前の犬2匹がしきりにほえる。

 林を抜けて天神林町に入る。日が傾き、ツクツクボーシや秋の虫がにぎやか。
集落内の里道に「山寺の水道」の標識があった。光圀公が命じて造らせた2㎞ほど
の水路だが、300年前にトンネル式の水路とした工法は、ほかに類例がないという。

 県道61号に出ると、佐竹寺の仁王門が見えてきた。佐竹寺は、寛和元年(985)
花山天皇の勅願で創建したという古寺。坂東33観音第22番札所である。

 天文15年(1546)再建の本堂は、かやぶき寄棟造り。桃山時代の遺構を残す
重厚あふれる造りに圧倒される。

 車の多い県道を避け、猪ノ手集落を下って田園地帯に出る。黄金田の間を進み、
JR水郡線河合駅に18時29分に着いた。

(距離 25㎞、地図(1/2.5万) 日立南部、常陸太田、歩行地 日立市、常陸太田市)
 

 

 



 
 


 


 
 


 

 






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散歩道の花

2006-03-28 18:57:03 | 所沢だより
 曇り空の予報が、午後からは天気が良くなり青空が広がりました。少し風はあり
ましたが、暖かい春の風です。東京は、ソメイヨシノが満開になったようです。

 わが家の周辺のソメイヨシノも4~6分くらいに開き、見ごろ間近です。散歩コース
を歩くと、春の花がいろいろ咲いていました。今日はその幾つかを紹介します。

 家を出て10分くらい、町民会館の近くの畑にはスイセンが風にゆれていまし。

 保育園のソメイヨシノも、4~5分咲きくらいでした。小手指ヶ原(こてさしがはら)
交差点から国道463号バイパス沿いに出ました。

 バイパス沿いの畑に、毎年咲く桃の花が今年も咲いていました。数本ありました
が、近づいてみたら思ったほど花は付いていません。それでも青空に映えています。

 誓詞(せいし)橋交差点の近くに、天明6年(1786)8月と刻まれた百番供養塔が
あります。西国、坂東、秩父の札所を回った人が建てたようです。側面には、四国
八十八箇所、圓光大師二十五箇所供養塔とも刻まれていました。

 ちなみにこの辺りは、元弘3年(1333)、鎌倉に向かう途中の新田義貞軍と鎌倉
幕府軍との戦いや、正平7年(1352)、新田義貞の次男義興(よしおき)と足利尊氏
との戦いの舞台になった小手指ヶ原古戦場です。誓詞橋は、義貞が部下との間で
盟約を交わしたとされているところです。
 
 バイパスのイチョウの街路樹の下に、こぼれ種なのかショカッサイが咲いていました。

 住宅地を北に進むと、西武池袋線の線路の北側に小手指電車基地があります。
以前は池袋線最大の基地で、昼間は電車がいっぱい駐機されていましたが、近年
になって飯能市郊外に武蔵丘基地ができたので、車両が分散され幾分減りました。

 基地の下を砂川堀という流れが走っていますが、線路の北側から下流約500m
にかけて119本のしだれ桜の並木になっています。区画整理の完成に合わせて植樹
されたもので、淡紅色のしだれ桜が多いのですが、今日は白い花の方が先に開いて
いました。

 小手指駅近くのの西友に寄ってみたら、ソメイヨシノに似た桜が1本、見ごろでした。
木の下の表示を見たら、戦前、ワシントンのポトマック河畔に贈った桜が里帰りした
ものだそうです。

 西友の通りには、桜と交換に日本に贈られたアメリカハナミズキの並木があり、
あと3~4週間もすると見ごろになるはずです。

 日が傾き風も少し冷たくなってきたので、あとは寄り道もせずに帰宅しました。


 

 

 
 
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地理関連学会公開シンポジウム

2006-03-27 22:06:24 | Weblog
 数日前の新聞の情報欄で、『地理関連学会公開シンポジウム「地域多様性と共生
社会」が、埼玉会館で開催され、参加費も無料』という記事を見て、参加しました。

 私は学会というものには縁がなく、ここ2,3年行っているのは、日本ウオーキング
学会の特定の発表会くらいです。このシンポジウムに参加してみたいと思ったのは、
ウオーキングをしている中で、地域の多様性が失われていると感じたり、地域の文化
的景観に関心を持っているからです。

① 基調講演は、東京学芸大名誉教授 市川健夫先生の「地域の個性を考える-
地域主義の展開と地誌研究」です。先生は、長野県小布施町のご出身で、日本の
サケや雪国、風などの研究をされていたようです。

【講演要旨】地域の個性を考える上で重要な資料、地誌のことについて。

 古くは8世紀にまとめられた播磨風土記、常陸風土記など、風土記があり、江戸
時代の官選地誌として「新編武蔵風土」、民間地誌として知られる鈴木牧之の「北越
雪譜」が、また、各村の諸情報をまとめた「村差出明細帳」がある。明治から大正
にかけては「明治町村誌」や群誌などが残っていて、それぞれの時代の地域を知る
うえで貴重な資料になっている。

 現在は、郷土色、風土色といった地域の多様性が失われているが、衰退していた
食の文化の中で、野沢菜や、おやき、イワナのなれ寿司など信州の郷土料理を村
おこしの一環として先生が尽力して復活させたことなど。

② 2番目の講演は、京都大教授 金田(きんだ)章裕先生の「地域資産としての文化
的景観」です。先生は、富山県砺波市のご出身、人文地理がご専門で、文化的景観
や条理、地割、都市問題などを研究されているようです。

【講演内容】日本は文化的景観についての考えが遅れていた。UNESCOでは、
フィリピンの棚田やフランスのブドウ園など自然景観がすでに世界遺産に制定され
ている。

 昨年ようやくわが国も「景観法」が制定され、文化財保護法も改正され、「文化的
景観」が文化財として有形・無形・民族文化財や、記念物、伝統的建造物群などと
ともに保護される体制が整った。

 実写スライドで、重要伝統的建造物群や世界遺産に指定された富山県五箇山の
相倉集落の合掌造り、重要文化的景観第1号の滋賀県近江八幡市の芦原(芦原
そのものだけでなく、周辺の川、水田、集落、里山と一帯の景観保護が必要なこと
が分かる)、京都市内の烏丸通り、追手通りなど電線の地中化されたところと、
クモの巣状に電線の見える通りとの対比、オーストラリア・メルボルンの再開発に
よる景観の変化(バラバラの建造物ではなく一帯としての景観の整合を図る)など。

 日本の近代化は、伝統的な景観や生活を否定し、経済性の追求から合理化、
機械化された結果、均一化、画一化され、伝統的な木造家屋(例:京都の町屋)は
不適合となった。→景観法の制定はParadigmの転換となる。

 富山県砺波市の散村地域の写真:屋敷林の木材が建材や燃料としては不要に
なってはいるが、現在なお就業と生活が一体化している。

 良好な景観は地域共有の財産、外観は公共のもの、景観の保存は資産の維持、
増大につながる。したがって景観が欠落した場合は、支援が必要。

 地域多様性の象徴が文化的景観である。

③ 最後の講演は、弘前大教授 牧田 肇先生の「地域の多様性と生態系」。先生は、
植生の地理学とその生活、自然と人間との関係などがご専門で、白神山地の世界
遺産登録に尽力されたとのこと。

【講演内容】生態系の存立は種の多様性に依存する。種の多様性は移動や変化に
よって担保される。
 生態系の移動や変化は、地域の多様性が保証されることによって保証される。

 その後に、地域と生態系についての考察をかなり時間をとって述べられたが、
具体的な事例なしの理論的な話だったので、私の脳にインプットできず、ついに
眠くなり(失礼)メモを取ることができなかった。

 最後に、市町村の合併は「地域多様性の喪失と地名の喪失」である。
「ユックリズムとエコライフが地域多様性に必要」と結ばれた。

 それぞれの講師は、各々がご専門の立場から地域多様性に関わる話をされた
のですが、サブタイトルの「世界の持続的発展のために」地域多様性をどのように
して維持し、どう生かすべきかというようなことを、パネルディスカッションしてもらっ
たら、なお良かったかなと感じました。

 参加者のほとんどは、学会の先生方とその学生らしく、私のような民間人らしい
人は少なく、座席もかなりの空席がありました。
 
 私は座席の真ん中の良い位置に座ったのですが、中央部に座る人が少なく、両側
の席が多かったのはどうしてでしょうか。中央は画一的で、周辺に地域多様性がある
と見る?、地理学者らしい考えからなのでしょうか…。

 帰途の別所沼に近い民家に、ちょっと変わったコブシが咲いていました。

 別所沼から武蔵浦和駅に向かう桜並木には、ぼんぼりが点灯されていましたが、
花の見頃はあと数日後かと思われました。

 



  


 

 
 

  



 

 

 

 

 

 
 
 

 

  








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石神井川を歩く

2006-03-26 18:56:01 | ウオーキング
 花曇りの今日、多少は咲いているであろう桜に期待して、東京都ウオーキング
協会主催の「石神井(しゃくじい)川を歩く」という、ウオーキングに参加しました。
22㎞あるコースのほとんどが川沿い、かなりの部分が桜並木のはずです。

 石神井川は、都立小金井公園付近に源を発し、小平市、西東京市、練馬区、
板橋区、北区を流れ、北区船堀で隅田川に合流する、総延長25.2㎞、流域面積
61.6k㎡の荒川水系の一級河川です。
 
 集合地は、JR京浜東北線王子駅そばの飛鳥山公園です。ここも、江戸時代から
の花の名所ですが、ソメイヨシノはまだ2~3分咲きでした。9時9分に出発し、
それぞれのペースで歩く自由歩行です。

 出発して間もない紅葉橋付近の流れには、カルガモや大きなコイが見えました。
皆さん早いペースで進むので、足の遅い私はだんだんと後方に回ってしまいます。

 JR埼京線下を越えた辺りの桜は、かなり見ごろになっていました。

 流れがS字状にカーブする辺りの遊歩道には、何か所か句碑がありました。

 旧中山道の板橋と、国道17号の新板橋を横断し、桜並木の続く遊歩道を進みます。
やはり開花は2~3分くらいでしょうか。

 東武東上線を中板橋近くで横断すると、遊歩道はなくなり車道となります。しかし、
川沿いなのと道幅が狭いので、車はそう通りません。

 環七通りを越え、広い園内に樹木の多い都立城北中央公園沿いにしばらく進みます。
園内の桜も見ごろはまだ先ですが、川沿いにきれいな花がたくさん続いていました。

 公園の近くにあった自動車教習所に何年か前に通い、運転免許の教習を受けました。
そのとき、路上教習で石神井川の橋を渡ったり、教習の帰途、この先の石神井川沿い
に歩いて、西武池袋線の駅まで歩いたことを思い出しました。

 練馬区に入り間もなくの高稲荷公園の桜も、見頃は数日後の感じですが、花見客を
目当ての露店が数店、店を出していました。この辺りが、隅田川から10.3㎞の
ところです。

 大正15年(1926)に開園の遊園地・豊島園が近づき、コースは北側を迂回します。
石神井川は園内を流れているからです。次の週末には園内も花見客で賑わうことで
しょう。

 桜のない車道が続き、環8通りの練馬中央陸橋下で目白通りに出て、少し進んで通り
の南に回ります。若桜の遊歩道を進むと、右手に西友が見えたので入り、弁当を調達
しました。

 西武池袋線練馬高野台駅の下を通過して、両側に都営住宅団地の並ぶ遊歩道に入り
ます。両側に桜並木が続き、花どきは見事なのですがここも早めです。

 私の最初の通勤先は、次の石神井公園駅の近くでした。ン十年前に通勤していた頃
は、都営団地の辺りは全部田んぼでしたが、それを知っている団地の住人はどの程度
いるのでしょうか。

 石神井といえば、東京の難読地名の一つで、私が石神井で仕事をしていた時には、
遠方の人は「いしかみい」とか「せきしんい」と読む人が結構いたものです。

 都立石神井公園に近い、蛍橋のそばにある公園で昼食にしました。柳が淡い緑の葉を
風になびかせ、この辺りの桜はかなり開花が進んでいました。

 豊城橋を渡ると、両側に都営上石神井団地が続き、遊歩道の桜は見ごろ間近です。
やはり露店も数店出ていました。

 大きな本堂の見える本立寺の先で西武新宿線の踏切を越え、線路沿いを進んで武蔵関
公園に入りました。富士見池を中心にした練馬区最大の区立公園です。

 庭先に鮮やかなボケの咲く住宅地を抜け、ゴールの東伏見駅に13時27分に着き
ました。大半の人はずっと前にゴールして、残っている人はわずかでした。

 
  
 

  

 
   

 

 
 
   
  

 

 

 
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赤坂界隈の散策

2006-03-25 23:07:26 | 地図
 パリーク開幕の今日、インボイス西武ドーム球場への乗換駅、西武鉄道西所沢駅の
ホームは、荒川静香選手の始球式を見に行く?大勢の人で、あふれていました。

 私は、反対の池袋行き電車に乗り、地図愛好グループの野外例会で、赤坂見附周辺
を散策してきました。

 今日の地図は、尾張屋清七版赤坂絵図と国土地理院発行の1万分の1地図です。

 まず、一ツ木通りの西斜面を上がって威徳寺に行きました。赤坂不動で知られ、
不動尊は社殿の前に鎮座していました。

 背後に抜けると旧赤坂小跡、ここは、大岡越前守の屋敷があったところです。

 旧厚木街道の牛鳴坂から青山通りの北側の豊川稲荷に回ります。色鮮やかな桜が
かなり咲いていました。
 
 豊川稲荷は、もとは大岡越前守の屋敷にあったのを、明治時代にこの地に移設した
そうです。

 私は、2月24日にも寄ったのですが、本殿にあった新宿末広亭が昭和32年
(1957)に奉納した掲額や、大岡越前守の御廟など、気づかなかったものもあり
ました。

 青山通りを西に進むと、高橋是清記念公園があります。高橋は、日本金融界の重鎮で、
首相、蔵相を務め、昭和11年(1936)の2・26事件の日、自宅のあったこの地で暗殺
されたのです。公園の隅に、高橋是清像がありました。

 ドイツ文化会館前を通過し、斜度の良く分かる薬研坂の中間を横切り、円通寺に
寄りました。境内の大部分は大きなビルに占有され、入口の横に時を告げたという
時の鐘の鐘楼がありました。

 赤坂パークビル前を通過し、一ツ木公園に入りました。高台にあり、西と南側に
かなり落ち込んでいます。公園のソメイヨシノが2~3分咲きでした。

 公園に接する隣の下水道局の壁面に、拡大したこの辺りの絵図があり、主な旧跡の
説明も記されていました。

 そばの三分坂を下った右手は、江戸時代の大関・雷電為右衛門の墓のある報土寺
です。寺の築地塀は、坂に合わせて造られており、坂の傾斜がよくわかります。

 店の隅に勝海舟邸跡の標柱の立つ三差路を曲がって氷川坂を上がり、赤坂6丁目の
氷川神社に入りました。

 樹木の多い境内に鎮座する社殿は、享保15年(1730)、8代将軍吉宗が建立したもの。
石の鳥居の台座には、地図ファンには必見の明治初期の水準点が刻印されていました。

 うっそうとした境内には太いクスノキやイチョウなどがありますが、とりわけ都天然
記念物のイチョウは、幹周約7.5m、推定樹齢400年の巨樹で、太い乳根が幾つも
下がっていました。

 境内には、包丁塚、溶岩の上に乗った狛犬、近くに住んでいた勝海舟が名付けた
四合(しあわせ)稲荷神社など、ほかにも見るべきものがありました。

 北東に進んだ旧氷川小跡は、勝海舟邸跡でもあったところで、「勝安芳邸跡」の標石
が立っていました。

 氷川小跡の氷川公園で最後の休憩をしました。もとは淺野内匠頭などの屋敷があった
ところです。

 東京メトロ赤坂駅で解散し、錫杖を持った銅造の地蔵菩薩座像のある浄土寺に寄り、
赤坂見附駅に戻りました。

 今日回った赤坂界隈は、ほんのわずかなエリアですが、江戸の歴史を残す寺が多く、
その地名の通り坂の多い町であることもよくわかり、あわせて、江戸切り絵図上の
道路がほとんどそのまま残っていることも認識できました。 

 

   
 

 

 
 


 
  

 
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修学院離宮と曼殊院、知恩院など(2)

2006-03-23 21:10:24 | 京都を歩く
05年4月19日(火)の続き

 圓光寺のそばのしだれ桜が、こぼれるほどに花を開いていた。

 詩仙堂の下を西に下ったところに松が立っていた。一乗寺下り松で、宮本武蔵が
京都の兵法家、吉岡一門を相手に戦ったところ。現在の松は4代目らしい。

 近くの民家には、きれいな花が咲いていた。

 そばの交差点から西に150mほどのところに、雲母(きらら)漬けの「穂野出」と
いう店があった。創業は元禄年間(1688~)という京の老舗である。

 「接待所」と書かれた店に入ると、12代目の当主・田辺正さんが、「独特の味噌
漬けなので、味見してから買うか買わないか決めなさい」と言う。

 雲母漬けは、親指大の小ナスに白みそを和えた独自の漬け物。創業時の製法を
守り、店を訪れた人にだけ販売しているという。雲母漬けと花きゅうりを味見して、
買うことにした。

 白川通りに出て、交差点近くにあったSayur-Sayuran(さゆーる さゆらん)という
南国風のオリエンタルカフェに入る。定食のランチを注文したが、ベジタブルで
おいしかった。若い女の子には、ケーキが人気の店のようだ。

 一乗寺駅から京阪電車で三条駅まで行く。縄手通りの古い家並みの間を南に
進んで、大和橋から白川左岸の白川南通の遊歩道に入る。

 コイの泳ぐきれいな流れ沿いは、八重桜やしだれ桜、山吹、ツツジなどが咲き、
ヤナギの新芽が淡い彩りを見せている。

 白川北通りに入ると、葉桜となったソメイヨシノの並木が続く。流れにはアオサギが
いて、対岸の民家から投げるえさをもらっていた。

 この辺りは祇園の一角、2階のひさしからすだれを垂らした家並みが続いていた。

 東大路通りに出て、華頂短大や宿坊の並ぶ華頂通りなどを経て、三つ葵のまん幕
が下がる大きな山門・三門(さんもん)をくぐって浄土宗総本山知恩院に入る。

 国宝の三門は、高さ24m、桁の長さ27mあり、木造の門としては世界最大だと
いう。

 知恩院は、鎌倉時代に法然上人が居住し念仏の教えを説いた場所。寛永16年
(1639)に徳川家光が御影堂(みえどう・本堂)を、元和7年(1621)に秀忠が三門
を建立し、現在の寺域が形づくられたとのこと。

 女人坂を上がり御影堂の東に回って、まず方丈庭園を拝観する。小堀遠州と関係
の深い僧、玉淵坊(ぎょくえんぼう)の作と伝わる回遊式の庭園である。

 新緑が影を映す二つの池が大方丈、小方丈に面して広がる。小方丈の奥を上がる
と徳川権現堂と千姫の墓がある。

 最上部に法然の遺骨を納めた御廟があり、そばの八重桜が満開だった。

 御影堂に戻り、堂内に上がって参拝する。4000人が入れるという広い堂内には、
大勢の僧侶と信徒が並び、御忌(ぎょき)と呼ぶ法要が行われていた。

 16時を過ぎたので帰り道に向かう。三門を下って知恩院道から東大路通りに出て、
祇園会館の角を入った。舞妓さんも垣間見える狭い通りを経て四条大橋を渡る。

 ビジネスホテルに預けた荷物を受け取り、京都駅17時発ひかり号で帰途についた。

〈距離 14㎞、地図(2万5千分の1) 京都東北部〉

 


 
 
  

 

 

 

 

 
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修学院離宮と曼殊院、知恩院など(1)

2006-03-22 19:38:00 | 京都を歩く
 妻も出展しているので、市内の百貨店で開催中の華道展に行って来ました。桜、
サンシュユ、レンギョウなど、春の花がたくさん活け込まれ、華やかな彩りでした。

 昨日の続き、翌日の修学院離宮の拝観と東山山麓の寺社めぐりです。

05年4月19日(火)
 今日も素晴らしい、四条駅から京阪電車で出町柳まで行き、叡山電車
(通称叡電)に乗り換え、修学院駅に降りた。

 今日のメインは、3か月前から予約してあった修学院離宮の参観である。

 受付を済ませ、参観者休憩所で9時まで待つ。1度に30人くらい案内するのか
と思ったら、集まったのは10人だった。

 50代くらいの男性案内人から、参観にあたっての注意を聞く。全体を回るには、
およそ3㎞を1時間15分ほどかかるという。

 修学院離宮は、後水尾(ごみずのお)上皇の雄大な構想により万治2年(1659)
に比叡山の麓に造られた。桂離宮と並ぶ江戸時代初期の代表的な山荘である。

 自然景観を巧みに取り入れた開放的で簡素な造形は、わが国固有の文化遺産
として知られている。

 離宮は、下離宮、中離宮、上離宮の3つに分かれ、その間は松並木で結ばれて
いて、松並木の両側は、民間人が耕作する棚田や畑などの農地になっている。

 まず下離宮へ。玉砂利を踏んでこけら葺きの御幸門をくぐり、モミジの新緑や、
花開く山桜、木々の影を映す池、苔むす足元などを見ながら、寿月観(じゅげつ
かん)の庭先に回る。
 
 案内人から、開け放たれた3つの間に描かれたふすま絵などの説明を聞く。

 東門から下離宮を出て、黒松の間を進んで中離宮に向かう。耕作前の棚田の
東側に、東山の山並みが新緑の借景を見せていた。

 中離宮の建物は楽只軒(らくしけん)と客殿。楽只軒の間(ま)には、狩野探信の
ふすま絵が描かれていた。客殿には、天下の3棚といわれる飾り棚や、円山応挙
の絵などがあった。
 
 上離宮の表門を入り、急な石段を上がり詰めたところが修学院離宮の最高点、
隣雲邸(りんうんてい)である。

 眼下に、松や桜、モミジ、ツツジなどが影を映すU字状の浴龍池が見下ろせ、
鞍馬など洛北の山々や洛中の町並みも見える素晴らしい展望。しばらくはその
展望を楽しんだ。

 深い木立の間から流れ落ちる雄滝の下を下り、シャクナゲの咲く道を進む。
二つの中の島にかかる屋根付きの千歳橋が静かな池に独特の影を映している。

 池の北側はもみじ谷と呼ばれ、何種類ものモミジが新緑の彩りを見せていた。

 船着き場や生垣の横を回って浴龍池を一周、移り変わる池の景観や、生垣越し
に見える棚田や周辺の山並みなど、やわらかな春の彩りを満喫し、参観を終える。

 民家の間を北に抜け、鳥居をくぐってモミジの多い参道を上がり、赤山禅院
(せきざんぜんいん)に行く。

 赤山禅院は、京都の表鬼門にあり、陰陽道の祖、泰山府君を鎮守とし、日本
最古の「都七福神」の寺。比叡山延暦寺の荒行・千日回峰行の800日目の寺
としても知られているという。

 モミジやしだれ桜、つつじなど、樹木の豊富な境内には、地蔵堂、赤山大明神、
七福神など、神仏混淆(しんぶつこんこう)の遺構を残す社殿が幾つもあり、それ
らを周遊できるようになっている。

 もとの道を戻って修学院離宮前を通過、東に進んで曼殊院(まんしゅいん)を
拝観することにした。

 曼殊院は、明暦2年(1656)に現在地に再興された天台宗の門跡寺院。江戸
時代初期の代表的書院建築で、桂離宮との関係が多いという。

 庫裡(くり)から靴を脱いで上がり、狩野永徳のふすま絵のある虎の間など、
幾つかの間と大書院、小書院などを回る。

 それぞれの間にある書や日本画の掛け軸とふすま絵、違い棚などに見るべき
ものが多く、随所にあった生け花が彩りを添えていた。

 大書院前の庭は、樹齢400年の五葉松を中心に、ツツジ、モミジなどが
多く、白砂や石を組み合わせた趣ある景観を見せていた。

 山すそを南西に下がって圓光寺へ。慶長6年(1601)、徳川家康が国内教学
の発展を図るために建立した学校で、多くの書籍を刊行し、わが国出版文化史上
特筆すべき寺院。現在も伏見版版木活字52,000個余りが残っているという。

 山門をくぐり拝観受付に行くが不在、庭にはやわらかな新緑のモミジが多く、
その下に苔が一面に広がり、色鮮やかなシャクナゲが咲いていた。

 山側の墓地には、井伊直弼に仕えた密偵・村山たか女や、広島原爆で死んだ
マレーシア留学生オマール氏の墓があった。(続く)

【参考】修学院離宮を参観したい方は、下記「宮内庁参観案内」をご覧下さい。
http://sankan.kunaicho.go.jp/



 

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花の吉野山

2006-03-21 19:21:47 | 奈良を歩く
 風も治まって暖かくなり、所沢市内でのしだれ桜の名所、小手指町の砂川堀沿い
では、かなり開いたしだれ桜も見られました。

 以下は、昨年春の奈良・吉野山の蔵王堂拝観と観桜ウオークの模様です。

05年4月18日(月)
 京都のビジネスホテルを出て、近鉄京都駅7時41分発急行に乗る。乗換の橿原
神宮前駅で昼食用の柿の葉寿司を購入、近鉄吉野線終点の吉野駅に9時53分に
着いた。

 ロープウェイの乗り場横にある幣掛(しでかけ)桜と呼ぶ、八重と一重とが交じって
咲く、珍しい桜があり、満開だった。

 モミジや山桜が多い遊歩道、ウグイスのさえずりを聞きながら上がり、大橋と呼ぶ
朱塗りの橋の横に上がる。南朝の防御陣、城でいう空堀にあたる場所だという。
 この辺りが吉野山の下千本だが、山桜の花どきはほぼ終わっていた。

 稜線上の車道の両側は、葛もち、吉野葛、コンニャク等の店が並び、呼び込みの
声がにぎやかだ。 高麗風の門、黒門を過ぎると道が狭まり、柿の葉寿司や葛菓子、
吉野和紙などの店が増える。

 国の重文で日本三鳥居の一つ、銅(かね)の鳥居と呼ぶ大きな鳥居を過ぎ、旅館や
民宿が並ぶ。正面石段上に大きな仁王門が見えてきた。高さ20m、北向きの門を
くぐり、金峯山寺(きんぷせんじ)境内に入る。

 修験道の根本道場で、修行者の修行の地、本堂にあたる蔵王堂(国宝)に上がり、
天正20年(1592)以来、初めて特別ご開帳中の、日本最大の秘仏、金剛蔵王権現
(国宝)を拝観する。

 蔵王道の西側は、後醍醐天皇の行宮(あんぐう)だった吉野朝宮址、三層の新しい
南朝妙法殿が立ち、周辺の山桜が見ごろである。

 さらに、郵便局や桜香、吉野葛、奈良漬けの店などを見ながら進み、義経ゆかりの
吉水神社への下り道を過ぎる。三差路にある勝手神社は、静御前が追っ手に捕らえ
られ、請われて舞を舞ったところだが、社殿は2001年の不審火で焼失していた。

 竹林院に入り、大和三庭園の一つ、群芳園(ぐんぽうえん)を拝観する。秀吉が吉野
桜観桜の際、千利休が築造したという室町時代の遺構を残す回遊式庭園、満開の
しだれ桜やモミジの若葉の間を縫って頂上に上がり、展望も楽しんだ。

 さらに上がって吉野山上の千本へ。見ごろな山桜が一面を覆い尽くし、行楽客も
増えてきた。花の下にシートを敷き、花を愛でながら柿の葉寿司をおいしく味わった。

 満開の桜並木の先にあった花矢倉展望台に上がる。眼下の上千本の桜、中千本を
経て蔵王堂に至る稜線上の家並みや、桜、杉、新緑、それをとりまく山並みの大展望
は絶景であった。

 少し先に吉野水分(みまくり)神社がある。社殿は豊臣秀頼の再建、中庭にはしだれ
桜など、花盛りの桜数本が競って咲いていた。

 車道横の急坂を標高702mの高城山(たかぎやま)に上がる。山頂付近は山桜が
見頃だった。

 古い石塔などの並ぶ道を進んで金峯(きんぷ)神社に着いた。吉野山の総鎮守で、
修験者の荒行で知られる大峰奥駈け道の入口がある。

 杉木立の間を上り下りして、奥千本まで行く。少しだけの平坦地に、鎌倉時代始め
に西行法師がわび住まいした西行庵が残っていた。山桜は少し早めの感じ。

 帰路は右手に回り込み、苔清水と呼ぶ清水の横を通り金峯神社に戻り、一部は
往路とは別の道を下り、16時57分に吉野駅に戻った。

 好天に恵まれ、見ごろの吉野桜をたっぷり堪能し、金峯山寺の秘仏も拝観でき、
大満足の一日であった。

(距離 11㎞、地図(2万5千分の1)吉野山、新古)

〈追記〉もう少し詳しい紀行文を、15日発売の雑誌『新ハイキング』4月号に投稿
してあります。この号は、「春の花々を探しに」という特集で、ほかにも桜、カタクリ、
ミズバショウ、ヤシオツツジなどの咲く山の紀行文も掲載しています。
 興味がありましたら、まず書店でご覧になって下さい。
 

   

 

 

  
 

 

 
 
 
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