あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

秩父 贄川宿(にえがわじゅく)かかしの里から白久へ(埼玉・秩父市)(後半)

2021-01-04 10:41:44 | カントリーウオーク
 2020年12月27日(日)〈午後〉

 贄川宿(にえがわじゅく)かかしの里から三峰口駅近くまで戻ると、駅構内には秩父鉄
道の急行電車などが引込線に入っていた。背後は武甲山。



 駅前には、往路で草餅を買った店や食事処などがある。

 12時30分近いので、そのひとつ大衆食堂 福島屋に入り、月見そばを注文して昼食に
した。
    

 午後は、線路の南側を東進して、次の白久(しろく」)駅まで行くことにする。

 白川橋寄りに少し戻ってY字路を緩やかに上がると、無住の松風山洋向寺本堂が東向き
に立っていた。


 本堂左手の斜面下には、閻魔様など13体の仏像が祭られた十王堂↓と医王殿がある。



 北側、線路を挟んで並ぶ青梅集落や上郷集落と思われる家並みなどを眺めながら少し進
む。



 りっぱな公衆トイレがあり、その東側がトイレの名になっている神明社である。

 社殿は、幕末に南側の熊倉山麓の伊勢山に建立されたものを明治45(1912)年に
移築したとか。拝殿に参拝して、新型コロナウィルスに感染しないよう、さらに早期の終
息を祈る。
     
 
 神明社では春、夏、秋の3季に、歌舞伎的手法が取り入れられた神楽が奉納されるよう
で、この神楽のことと神社の歴史を記したパネルがある。


 また、神明社の夏の川瀬祭と傘鉾行事は市指定無形民俗文化財のようで、その詳細を記
した説明パネルもあった。


 さらに東進した里道は左折して、秩父鉄道の線路近くてまで進む。T字路を東にすぐで
折り返して南へと緩やかに上がって円通寺に行く。

 円通寺は曹洞宗の寺院で、応永2(1395)年に村の有志により創建された地蔵堂が
初めのよう。慶長2(1597)年に円通寺に改称したという。

 境内で目につくのがシダレザクラの古木。エドヒガン科で、近くの上田野集落の清雲寺
にある県天然記念物の桜の子を移植したといわれているようで、樹高10m、目通り周囲
約2.5mという。
     
 ほかの花より早く開花し傘鉾(かさほこ)のように咲くという、花どきに来てみたい。
          

   境内にはこんな看板もあり、気をつけなくては・・
     

     
 参道入口付近には白久学校跡碑、数基の石仏や格好良いアカマツなどがある。




     
 近くの民家にはナンテンがたくさんの実をつけ、周辺のケヤキはすっかり葉を落として
いた。
         



 線路近くまで戻って近くの落合沢の橋を渡り、東側の秩原集落を抜ける。ふり返り見る
落合沢の橋。





 静かなたたずまいの民家や周辺の山並みなどを眺めながら進み、白久駅に14時近くに
着いた。

 次の上り電車まで30分余りあるので、さらに次の武州日野駅まで進むことにした。


 駅の東側で線路の北に回りこみ、Y字路で荒川対岸からの道と合して双見沢川の橋を越
える。北側、道路沿いに広がる豆早原(ずさばら)集落の西端付近に「白久の串人形芝居」
の説明パネルが立っていた。

 この地区に幕末の頃から伝わるもので、義太夫の語りにあわせて2人で操る全国でも珍
しい人形芝居で、県指定無形民俗文化財と国選択無形民俗文化財になっている。

 集落の半ばを過ぎた辺り、線路下の斜面に「カタクリ・ニリンソウの里」の表示がある。


     
 その先から線路の南側を迂回する里道があったので、踏切を越えて回ってみたが少し先
で行き止まり。
  


 時間を見たら戻れば次の上り電車に間に合いそう。引き返すことにして14時32分に
白久駅に戻った。



 14時32分発上り電車に乗り、秩父駅で下りた。

 駅ビル1階の物産館で小鹿野町の漬物を求める。


         
 駅前には、秩父市のイメージキャラクター「ポテくまくん」のマンホールふたがあった。
        

            


 県民の日の11月14日にも来ているが、近くの秩父神社に参拝して新型コロナウィル
スに感染しないよう祈願する。


 拝殿正面には、名工左甚五郎作の「子宝・子育ての虎」(右)の彫刻が目につく。


     
 まだ15時過ぎだが、太陽は西に傾き少し寒さを感じる。境内には門松を販売するテン
トも出ていた。



 西向きの鳥居を出て、その先の通りの古い建物などを見ながら西武秩父駅に向かう。
     




 往路に乗車した御花畑駅構内を抜けて、西武秩父駅には15時28分に着き、15時38
分発上り普通電車に乗る。

(天気 快晴、距離 8㎞(秩父駅~西武秩父駅間含む)、地図(1/2.5万) 三峰、
 秩父、歩数 15,900)


 今日の秩父の最高気温は12.8℃、風も無く穏やかな日和で、この時期としては高め
の気温であり、良いウオーキング日和だった。  



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秩父 贄川宿(にえがわじゅく) かかしの里から白久へ(埼玉・秩父市)(前半)

2021-01-03 18:47:53 | カントリーウオーク

 年を越してしまいましたが、昨年最後のウオーキングレポートです。

========================================

 2020年12月27日(日)〈午前〉

 9月に入手した西武鉄道内を1日乗降自由のフリーきっぷ「ありがとう!としまえん」
の使用期限が12月末までなので、これを利用してコロナ渦には縁遠いと思われる秩父へ
と出かけた。


 西武秩父線の終点、西武秩父駅に9時48分に着く。本来なら、この電車は秩父鉄道に
乗り入れて三峰口駅行きなのだが、新型コロナウィルスの感染拡大で短縮されていた。

     
 近くの秩父鉄道御花畑駅(芝桜駅)から10時15分発下り電車に乗る。


 終点の三峰口駅には、乗り入れダイヤより20分遅い10時37分に着いた。


     
 10時47分に駅を出て、西へ200mほどで荒川に架かる白川橋を渡る。橋から眺め
る上流は狭いV字谷だが、下流は少し開けた河岸段丘になっている。
          
 ここは秩父山地と秩父盆地との境で、上流側は約2億年~1.5億年前の「秩父帯」と
呼ぶ固い地層で、下流側は約1700万~1500万年前に「古秩父湾(こちちぶわん)」
の海底に堆積した柔らかい地層が広がっているのだという。


 橋の下流側に、左岸から右岸へと細い吊り橋と駕籠のようなものが架かり、その向こう
に日本二百名山の武甲山(1304m)が望まれる。
     

 橋を渡ったすぐ先のT字路で国道140号線・秩父往還(彩甲斐(さいかい)街道)に
入り、すぐ先の歩道橋際へ。


 白川橋から見えた吊り橋はこの横にある「秩父ジオグラビティパーク」と呼ばれるもの
で、荒川渓谷の雄大な自然の中でスリル満点のアクティビティを楽しむことができるとい
う民間施設のよう。

 利用者は専用のハーネス(安全帯)を着用した上で、ワイヤー等に接続された安全な状
態で楽しめるものとか。

 例えば「キャニオンウォーク」というメニューでは、旧白川橋の橋脚を使用して架けら
れた高さ約50m、長さ約100mの吊り橋を、ハーネスを付けて渡るアクティビティで、
渓谷を使った同様の施設は日本で最初という。


 そばの建物が受付になっていて、橋脚際では利用者が担当の人に説明を受けていた。

 
 今日来た目的地は、この先、贄川宿(にえかわじゅく)の「かかしの里」めぐりである。
     
 最初のかかしは、このジオグラビティパークの入口際で迎えてくれた。


 橋を渡ったY字路際には3体のかかしが立ち、その下に旧白川村の道路元標がある。
     

 すぐ先、贄川宿の標柱際にも女性かかしが立ち、そばに贄川宿の説明パネルがある。
     


 斜向かいにある贄川宿観光トイレの横から、秩父御岳山登山口への道が左へ回り込んで
いるが、トイレと道路際でもかかしが迎えてくれた。
     

          

 近くの門松を飾り終えた家では、これから洗濯しようというかかしも。
     

           公会堂の門番かかし。
          


 さらに贄川宿の家並みを進むと、それぞれの家にも。
     

          

数え切れないほどのナンテンの実。





 「贄川宿ギャラリー」があったので入ってみた。

 たくさんの木彫りの人形や民具、以前行われていた縁側展の看板、古い日用品やおもち
ゃなどたくさんの展示が店いっぱい。








「贄川宿かかしの里 歩くガイドマップ」があったので、ひとつもらう。
     

 ガイドマップによれば、「蜷川宿はかつて三峰神社や甲州への街道の宿場として栄え、
平賀源内やナウマン象で有名なナウマン博士などが逗留した宿も残っている」とか。

 かかしについては、「2016年から地元の主婦達が鳥獣害対策と自分たちのコミュニ
ケーションの場として始め、古着などを利用して廃物利用で作ったかかしは思いのほか評
判を呼び大変嬉しく思っている」とのこと。

 なお、集落の現在の住民35世帯79人に対し、かかしは住民より多い約100体ある
という。

     
 ギャラリー周辺の民家の前でも、次々にかかしが迎えてくれる。



 さらに進むと、どの家の前にもかかしさんが見られる。
     







 この家の横には、数体のかかしが並んでいる。




     




 次の三差路があり、その周辺の家々のどこにもかかしが。






三差路を北にすぐ、もう一つの三差路際には庚申塔とお地蔵さんが祭られていた。

 庚申塔は、秩父三十四ヶ所霊場の巡礼者や旅人の道中安全を祈ってこの先600mほど
の山道に享保13(1728)年に建立したよう。

 その上のお地蔵さんは「御堂鐘(みどうがね)地蔵」と呼ばれ、宝暦7(1757)年に
建立され、地元民はもとより近隣近郊の人や旅人が「地蔵十福」を祈願したという。

 その後の交通発展に伴い古い山あいの巡礼道は廃れてきたので、平成7(1995)年
に庚申塔もこの地に遷座したようだ。

 この三差路を右に上がると西小があるようだが民家なさそうなので、左手の道を北に向
かって少しずつ上がる。


 両側の斜面にも、畑を耕すかかしとそばの流れで釣りをするかかしなどが。




 もう一つ左に分ける里道があり、その先のT字路付近で民家は終わる。そばの広場から
は東に武甲山(左)から小持山、大持山ヘと延びる奥武蔵の稜線が望まれた。

 
 右手上に鳥居が見えたので上がってみた。秩父の山里らしい素朴なたたずまいの諏訪神
社だった。


 境内は広くはないが伊勢神宮、稲荷神社、天満宮、秋葉神社など6つの摂社が一つの屋
根下に並ぶ。


     
 そばの梅林の下にスイセンが咲き出し、近くのミカンが色づいた実を。


 中ほどの里道を西に進む。1戸の民家の先で家は途切れて南面の展望が開け、右手の
「かかし広場」と呼ぶ芝生地に、生活感あふれるたくさんのかかしが並んでいた。




     
 道路の反対側には、武甲山などを眺める旅人らしいペアかかしなども。
       

 ここからもう一度、東方の武甲山から大持山へと伸びる稜線などを眺める。


 すぐ先に秩父御岳山の登山口があり、道は左へと回り込んで下って行くと東北東の山麓
には近くの反平集落らしい家並みも望まれた。


 下ったところは最初の贄川宿観光トイレ際だった。


 往路を戻って荒川の白川橋を渡る。下流に架かった吊り橋には、「秩父ジオグラビティ
パーク」でのキャニオンウォークを楽しんでいるらしい人が何人か見える。



 白川橋を渡り終えてふり返る(国道140号線は向こうの山麓を走っている)。(続く)



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古隅田川など在原業平ゆかりの地をカントリーウオーク(埼玉・春日部、岩槻区)

2020-02-13 22:17:50 | カントリーウオーク
 2020年2月11日(祝・火)

 埼玉県内を中心に歩いているカントリーウオークグループの、発足から満27年の記念
日となる第270会例会に参加した。


 集合は東武アーバンパークライン(野田線)の八木崎(やぎさき)駅。快晴たが少し風
が冷たい。10時09分にスタートした。

 鎌倉街道中道(なかつみち)の枝道という、線路の北側沿いの道を東北にすぐ、県立春
日部高校前を過ぎる。



 さらに少しで春日部八幡神社へ。鳥居の横に「八幡神社参道入口」碑と「都鳥の碑」が
並んでいた。

 「都鳥の碑」には、平安初期の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)が詠んだ「名に
しおはばいさ事問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」の歌碑の由緒が記されている。

 業平が奥州に旅したとき、武蔵国と下総(しもふさ)国境にある隅田川の渡しで詠んだ
もの。当時は当神社の辺りが二つの国の境で、奥州への通路にもなっていたとか。その故
事を後世に伝えようと、江戸末期の嘉永6(1853)年に粕壁宿(かすかべしゅく)の
名主が依頼したものという。


 豊富な樹木の立ち並ぶ参道を進むと、二の鳥居の先に大イチョウが立ち、その先に端正
な拝殿が祭られていた。
     

 春日部八幡神社は、元弘年中(1331~4)この地の武将だった春日部氏により鎌倉
の鶴岡八幡宮を勧請(かんじょう)したといわれているよう。

 春日部氏の領地だった新方領(にいがたりょう)の総鎮守で、天保11(1840)年
の氏子連名帳には、現在の春日部市のほか、久喜市、白岡町、宮代町を含む52か村の氏
子の名が記録されているという。


 参道中央の大イチョウには、元弘年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに生長し、
参詣人を驚かせたという伝説があるようだ。

 拝殿右手の壁面には、生まれ年の絵馬に願いを込めると福が来るという、新しい十二支
大絵馬が掲示されている。


 拝殿の右手に「希典書」と刻まれた招魂碑が立っていた。日露戦争の将軍・乃木希典の
書で、背後には、日露戦争で戦死した地元の英霊の名が刻まれているよう。
     
 この碑は、昭和20(1945)年の敗戦後、GHQによりつぶされそうになったが、
近所の人が土に埋めて難を逃れ、昭和26(1951)年夏掘り起こしたという。

 その奥の稲荷神社横には、「浅間山」と呼ぶ高さ8・2m、周囲200mある、江戸時
代の富士信仰の対象として築かれた富士塚があるようだが、確認は省いた。

 また、招魂碑の右手には、「中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘」の説明板がある。

 榛名山や浅間山の火山灰などによる大量の砂が、平安~室町時代の寒冷期の強い季節風
で利根川の旧河道沿いに吹き溜ためられてできた内陸性の砂丘で、境内の長さ200m、
幅50mの規模で見ることができるという。

 ちなみに、この時代の利根川は隅田川から東京湾に流入していた。隅田川も現在の流路
ではなくて、これから向かう古隅田川が本流だった。

 大イチョウの近くには、重さ63.75㎏と123.75㎏の力石が保存されていた。


    

 駅前まで戻りさらに西へ、西八木崎三丁目の住宅地を進む。庭に石灯籠などのある家や、
ミツマタの咲き出した家の前など過ぎ、国道16号線に出た。


 北に少しで、内牧工業団地の南側沿いの古隅田川遊歩道へ、遊歩道は流路に従い西から
北へと緩やかにカーブする。

 沿道の白梅が咲き出し、その先は堤防だったらしい盛土になった樹林に沿って進む。






 国道から700m前後で、樹林越しに見えた西側の満蔵寺に入ることにした。柵を越え
て墓地を抜けると、大きな本堂が西向きに建っている。


 本堂前の大イチョウは高さ27m、根回り周囲10.4m、推定樹齢350年で、「満
蔵寺のお葉付イチョウ」と呼ばれ、県指定天然記念物である。
     
 このお葉付イチョウは、実が葉の付け根に実ることから名付けられたもの。今は枯れ枝
だが、枝の付き方も普通のイチョウが上に向かって伸びるのに対し、水平もしくは下に向
かって伸びている。


 山門を入り左手に立つお堂。


 山門の右手前に小さな祠(ほこら)が祭られ、そばに「梅若塚」碑がある。

 謡曲「隅田川」のもととなった、大切なわが子・梅若を失った母の哀しい伝説の地は東
京・墨田区の木母寺(もくぼじ)というのが定説のようだが、ここが発祥の地と伝えられ
ていて、ここから木母寺に移されたとされているよう。

 この梅若塚を略記した応永3(1393)年の版木が、ここ新方袋の名主の家に所蔵さ
れており、寛延2(1749)年の「葛飾記」にも、ここから木母寺に移されたと記され
ているとか。

 この梅若丸の悲しい生涯と母の哀れな運命を知った海蔵寺の裕閑和尚は木像を彫り、体
内に梅若丸が抱えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を立てて安置したといわれ、こ
れが当寺にある子育て地蔵尊だという。


 門前にはほかに、日光石、月光石と呼ぶ巨石や、大きな一会(いちえ)観音像などが目
に入る。
     

 寺の周囲は田んぼが広がり、北側には屋敷林に囲まれた古くからの住宅などが望まれる。



 寺の前の道路をすぐ先で左折して南西へ、白梅が見ごろな宮川小の北側を進んで古隅田
川の左岸沿いに南下する。



 流れは、周辺の住宅の排水だろうかやや汚れていたが、岸辺にはコサギが1羽見えた。


 宮川小と豊春中の中間辺り、堤防が続く古隅田公園に、移設された石橋「やじま橋」が
ある。

 橋はここ中曽根と対岸のさいたま市岩槻区小溝の間の古隅田川に架けられていたもの。
元文2(1737)年の造立で、石材は江戸城の石垣などにも使用された神奈川県真鶴
(まなづる)地方産。現存の石橋としては県内最古のひとつという。

 200mほど先で右折して西にすぐのところで、橋の架けられていたという矢島橋の位
置を確認した。
     

         
 元の通りに戻り、堤防上に植栽の続く古隅田公園沿いに少し進み、豊春中の南側で公園
の遊歩道に上がった。
          
 間もなく「古隅田野鳥の森」の表示があり、遊歩道は左から右、さらに左へとカーブS
字状に進む。その途中で記念撮影した。


     
 東端まで進んで東武アーバンパークラインの線路際で車道に出る。


     
 踏切を渡り、東側の春日部ハイタウンと呼ぶ住宅地を抜けて県道2号・さいたま春日部
線に出た。


 右折してすぐ、古隅田川に架かるのが業平橋。明治時代に架けられた橋だが、もとは
100mほど上流にあり、在原業平が渡ったと伝えられ、近くに在原業平ゆかりの舟塚が
あったといわれているという。


     
 橋の南東側は豊春小。次の十字路を右折し、豊春郵便局前を過ぎ、東武アーバンパーク
ライン隣の駅・豊春(とよはる)駅に12時25分に着いた。


(天気 快晴、距離 5・4㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、歩行地 春日部市、歩数
 10,300)

 このあと、2駅先の岩槻駅まで行き、本町三丁目の愛宕神社の近くにある「にわさきカ
フェいわさ喜」と呼ぶ古民家のカフェへ。


         
 満27年の記念日を祝って乾杯し、27年間の思い出などを語り、大きなメークインを
じっくり煮込んだ今日のメニュー、「ほっこり肉じゃが」を美味しくいただいた。
    

 食後、Nさんが珍しいものを見せてくれた。園芸品種ハツユキカズラの 種だという。イ
ンゲン豆のような細いさやをむくと、このような穂に小さな種が付いているようだ。
    


 14時30分頃岩槻駅に入り、大宮行電車で帰途につく。

 帰路、駅のコンコースにある岩槻観光案内所でもらった、「楽楽楽さいたま」第16号を
帰宅後見たら、なんと「にわさきカフェ いわさ喜」が見開きで紹介されていた。
     








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熊谷市郊外・江南台地の里山や林間、田園などカントリーウオーク(埼玉)

2019-11-11 22:35:14 | カントリーウオーク
 2019年11月10日(日)

 前回の10月12日(土)は、関東甲信越や東北などに大きな被害をもたらした台風19
号の接近に伴い中止となり、2か月ぶりにカントリーウオークグループの例会に参加した。

 集合はJR高崎線熊谷駅。10時15分発県立循環器・呼吸器病センター行バスに乗り、
10時41分に終点に着いた。

 直前に東武東上線小川町駅からの逆行バスで着いた私と、その前に自家用車で来ていた
Tさんと合流し、10時50分に出発する。

== ゴルフ場の西側から北へ田園地帯や林間などを駒形公園へ ==

 快晴で風も無く、気温も20℃近くまで上がる予報で、絶好のウオーキング日和である。


 バスの通る県道130号を越えて北へ、畑の中に建築間もない立派な瓦屋根の民家があ
り、鶏小屋にはウコッケイが飼育されている。
    

 直線の道が右カーブし始めるところに「生みたてたまご 田中農場直売所」の看板の建
物があった。


    
 入ってみたら、ミシュランガイドでも評判の店のようで、東京からも美味しい卵を買い
に来るという。


 まだ歩き始めなので卵は買う訳には行かず、残っていた三つの「宝玉ぷりん」を私など
3人が求めた。

 ちなみに、田中農場のサイトはこちらをご覧下さい。

 右カーブした道は台地上の工業団地に突き当たり、金網の柵沿いに北北西へと進む。

 西側には谷地田(やちだ)が延び、ひこばえの伸びた緑の田んぼの先には、刈り入れ前
で粒の熟した田んぼが何枚か残っていた。





 その辺りからは北から西方の展望が広がり、冠雪した日光連山、長い裾野の赤城山↑、
かすかに雲のかかる浅間山、秩父の二子山などが確認できた。









 次第に右カーブして東方に向かうと、近くに白壁の立派な民家が、田んぼの向こうには
高岡集落の民家が望まれる。


 その先からは林間の道となり、まだ緑の広葉樹林の間を進んでV字状に折り返す。
     

 上ノ山集落の北側に、なぜか庭にライオン像のある民家があり、その先で台地と田んぼ
の間の道に下った。
         


 太平洋クラブゴルフ場の北側、流れに豊富な藻の茂るきれいなせせらぎに沿って東進す
る。流れにはホタルも生息するようで、その保護活動を記した看板が何か所か立っていた。
     


      
 流れの南側、斜面林下にキクの花が飾られた天保年間(1830~44)建立の馬頭観
音があった。
     


 田んぼが途切れて大林集落に入り、キクやヒャクニチソウ、バラなどの咲く畑や、小さ
な稲荷神社の横などを過ぎる。
         








 大きな刈込の植栽が目立つ民家や、色づいてきた幾つかのブルーベリー畑の横を通過し、
県道47号・深谷東松山線を横断する。


    


 カラスウリが実り皇帝ダリアの咲き出した民家の先が、昼食地の駒形公園。


 12時28分に着き、暖かすぎるくらいの日差しを避け、広場南側のベンチで昼食とし
た。





 公園の西側芝生地はターゲットバードゴルフ場。南側斜面林下には、旧江南町時代の
「彩の国ふれあいの里整備事業」による三本(みつもと)遊水路が走り、この公園の辺り
は親水エリアで、樹林を囲んで二つの池が静かな清流を見せていた。


 昼食後ミーティングをして、13時26分に公園を後にする。

 == 太平洋クラブ江南コースゴルフ場東側の里道を戻る ==

     
 往路を県道の西側まで少し戻り、大林集落東部から南下する。サザンカやバラが咲く民
家の先で平地林に入ると、10月の台風の強風による被害か、倒木が目につく。


 その先、杉林の中に「権現坂埴輪窯跡群(ごんげんざかはにわかまあと)」の説明板が
立っていた。

 江南台地北縁のこの地で、昭和37(1062)年に3基の窯跡が確認され、平成元
(1989)年からの調査では埴輪製作の工房跡と推測される古墳時代の竪穴住居や粘土
採掘坑が確認され、町の指定史跡に指定されたという。

 樹林下の周囲を見回したが、それらしいものは見つからなかった。

     

 北方集落の西側で右左折して再び太平洋クラブゴルフ場の東側の林間を進む。
    


 ゴルフ場のハゼ系の葉などが色づき、右手のゴルフ場の池の横からコースが望まれる。


 少し先でゴルフ場から離れ、東側の南方集落に入って普門寺へ。

 普門寺は、もとは薬師庵だったが、天和2(1682)年に舜佑和尚が建立、本尊は薬
師如来とか。

 当地は昔、千代村と呼ばれ、当寺は成田下総守(なりたしもうさのかみ)の家人の子孫
が開基といわれ、文政12(1929)年の火災で本堂や古記録などを焼失したが、天保
元(1830)年に再興されたという。


 本堂前などにシダレザクラが数本あり、本堂左手には、珍しい「標本は我が師なり」と
刻まれた小久保整形外科病院の手術切除標本塚の石碑が立っていた。
     


 境内で小休止して記念撮影する。その背後には「葉奈(はな)」と呼ぶ日本犬が長いひ
もにつながれていて、久しぶりの人間が嬉しいのか、はしゃぎ回って歓迎してくれた。



 東に出て、南側の柴集落に咲くキクやダリアなど見ながら集落西端の八幡神社へ。

 創立は後鳥羽天皇時代の建久年中(1190~9)といい、明治維新前までは西方300
mにあり、数百年の松や杉の老樹が生い茂っていたという。


 鳥居の横の柿の木に、たくさん実が熟していた。



 さらに西進して太平洋クラブゴルフ場の南側沿いへ。



 南側のため池を囲む木々が逆光に色づく。



 少し先から南西に向かい、北側の堤防のようなところに並ぶススキの穂列を眺め、たく
さんの実の付いた大豆畑↓の間を南下して、「おにっこハウス」と呼ぶ、田舎のカフェに
立ち寄る。




    
 あいにく今日は休日だったが、山羊が草を食む横のベンチで最後の小休止をした。

    
 バスの通る県道130号の南に回り、たくさんキウイが実る畑や樹木園、鬼ユズの実る
民家前などを西進する。
    

 時間調整でもう一度県道を横切り北へ、深谷ネギ畑の横などを回り少し先で折り返す。


 東京都心では天皇ご即位記念の祝賀パレードが赤坂御所に着く頃の15時30分、出発
地でゴールの県立循環器・呼吸器病センターに着いた。

 私は待っていた同時刻発の小川町駅行バスに急ぎ乗る。ほかの皆さんは15時55分発
バスで熊谷駅に向かい、Tさんは構内に駐車の愛車で帰路につく。

 今日の熊谷の最高気温は19.2℃、風も無く穏やかで快晴の日和。車に出会うことの
ない静かな里道や里山と田園地帯のみを歩き、高低差もほとんどないという、カントリー
ウオークには絶好の1日だった。

(参加 9人、天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万)、三ヶ尻、歩行地
 熊谷市、深谷市、歩数 18,800)




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東松山市の東南・辰野文庫を訪ね周辺の里道を歩く(埼玉・東松山ほか)

2019-09-23 18:30:21 | カントリーウオーク
 2019年10月16日(月・祝)

 敬老の日だが、市の敬老の催しには例年同様参加せず、カントリーウオークグループの
9月例会に参加した。

 予報では午前中は雨が残るかと心配されたが、集合地の東武東上線東松山駅に着いたら
ほぼ止んでいた。

== 下野本の寺や古墳を巡り辰濃文庫へ ==


 10時13分に東口をスタートして2階の駅舎から道路に下りると、今日の昼食地、辰
濃文庫ゆかりの辰濃和男(たつのかずお)さんが日本スリーデーマーチについて朝日新聞
の天声人語で記した、「楽しみながら歩けば 風の色がみえてくる」碑があった。
     

 その左手に新しい碑が目に入る。2015年にノーベル物理学賞を受賞した、東松山市
出身の梶田隆章(かじたたかあき)さんの受賞記念碑だった。
     

 線路に平行の道を南へ、近くのY字路で南東に進むと、長い間広大な空き地だったボッ
シュの工場跡地にビバモールを建設中で、鉄骨がほぼ完成していた。

    
 その東端の変則六差路から南への細道へ。民家の軒先にキノコの飾り物が並び、その先
の草地には大きなキノコが幾つも生えていた。


    
 今年は育ちが遅いのか、栗のいがはまだ緑色。近くの畑の隅のニラが花盛り。

 国道254号バイパス沿いを少しで国道の南に回り、向山集落を南に抜けると、かなり
色づいた水田が広がる。


 まずは、すぐ近くの清見寺(せいけんじ)に入る。

 上田能登守朝直が帰依(きえ)していた地蔵尊を安置して、元亀年間(1570~73)
に地蔵堂を建立したのが始まりのようだが、地蔵尊は確認できない。

 本堂左手に「市指定考古資料 清見寺心字座板石塔婆」の標柱がある。そばに三つ並ぶ
板碑の中央がそれらしく、鎌倉中期の建長元(1249)年造立のよう。



 東側近くで国道407号を横断し、すぐ先の無量寿寺へ。

     
 山門近くに「線香地蔵尊」のお堂があり、山門前に市指定文化財「野本館跡(のもとや
かたあと)」の説明板が立つていた。そばに黄色い花が咲く


 ここは、野本基員(のもともとかず)を初代とする野本氏一族の館跡。平安時代の公卿
藤原基経(836~891・堀川大臣)の警護をしていた片田基親の子が武蔵国野本に移
り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりのよう。

 基員は源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物
だという。

 館は現在、無量寿寺の境内地で、本堂の北側に土塁(どるい)と堀がわずかに残るだけ
だが、当時は二重の堀と土塁を廻した構造だったらしい。

 徳川家康が関東入国した天正19(1591)年には、寺領10石の御朱印状を受領し
ているという。


 寺の南側に、杉木立などに覆われたこんもりした森がある。県指定史跡・野本将軍塚古
墳で、県内第2位の前方後円墳とか。

 墳丘の全長115m、高さは前方部8m、後円部15mで、まだ学術調査がされてない
ので詳細は不明だが、5世紀終わり頃に造られたものらしい。


 後円部墳丘上に社殿があるが、何神社かは不明。南側の前方部上部には二つの忠魂碑が
立っていた。
     

  


 古墳前の県道345号を東へ、少し先に大きな流木を並べた中華料理店が。


 その東側には市の学校給食センターと埋蔵文化財センターの入る建物が目に入る。


 天神社の先から北東に進んで曲輪(くるわ)集落に入り、台地を背にしてうっそうとし
た木々に覆われた、了善寺境内へと石段を上がる。

 了善寺は、了海(天正17(1589)年没)が三河国に開山し、渡邊丹後守が当地を
知行(ちぎょう)時に三河から呼び寄せて移転したという。

 第10世住職の嵩俊海は日本屈指の漢詩人で、20歳の嘉永5(1852)年に「春桂
家塾」と呼ぶ学問所を開き、大正3(1914)年の閉塾までに門弟3千人を超したとか。

 その塾跡は市指定史跡になっていて、東屋(あずまや)のような建物が境内中段に残っ
ていた。

    
 本堂前のモミジの1枝だけが色づく。今日の担当のKさんが庫裡(くり)に挨拶に行っ
たら、ご住職夫妻が本堂を開けて下さり、上がらせてもらう。


 本堂は大正時代の再建とのこと。正面の梁は境内に立っていたというヒノキの太い一木
(いちぼく)で、立派な彫刻が施されていた。

 奥様は、女性登山の先駆者・坂倉登喜子さんと登山されたようで、エーデルワイスクラ
ブの会員だったのだろうか。

 寺の東南側に立つ火の見やぐらの横から背後の台地へ。傍らの曲輪集会所は、大正か昭
和前期の建築かと思われる貴重な建造物だ。



 寺の東側のザクロが色づき、墓地際にたくさんのハギが咲き競う。
    

                  
 近くの畑にヒャクニチソウが咲き残り、大きな栗の木にまだ熟しきらないイガたたくさ
ん付いていた。
    

 曲輪集落を東南東に進んで国道407号を横断し、等覚院の横を西から北へと回り込む。


 寺の背後一帯はまだ若葉のソバ畑が広がる。


 東松山市東南端の集落、古凍(ふるごおり)に入り、鷲宮大明神前を東へ。



 鳥居の横にはたくさんの花が咲き競い、近くにかやぶき屋根をトタンで覆った民家が。




 その先を北に入り、昼食地の辰野文庫に12時42分に着いた。

 辰野文庫は、朝日新聞「天声人語」を約13年間執筆した辰濃和男さんの蔵書約1万冊
を無料で貸し出す。ここは、昨年12月に死去した辰濃さんの遺族から寄贈された図書を、
吉見町の建築家、佐藤清さんが古い土蔵を改造して公開したもの。


 まずは、ベジダリアンランチやコーヒーなども味わえる大きな母屋に入り、休憩卓で昼
食をする。昼食後、母屋西側の土蔵にある辰野文庫を訪ねた。



 四周の壁面に並ぶ書棚には「水」「日本語 話す」「歩く」「新聞記者 芸能」「沖縄
 戦争 平和」「人物」などに区分された図書や、分類されてないものなどが並ぶ。
     

          





 
 中央のテーブルや2階にも少し蔵書があり、辰濃さんが13年にわたり執筆された「天
声人語」も目につく。入口横には、辰濃さんの写真と色紙も飾られていた。
    

         
 蛇足ながら、私は辰濃さんの著書「四国遍路」(2001年刊)を読んだ後の2004
年晩秋、初めての四国遍路の途中、辰濃さんが同書で紹介していた若い三味線奏者、月岡
由紀子(つきおかゆきこ)さんの演奏を、夜に高知県西端の村のホールで、翌日は県境に
なっている遍路道の峠上で聞いたことを思い出す。

 辰野文庫の前で記念撮影をして、13時40分に出発した。


 == 黄金色の田園や大沼を経てウオーキングセンターへ ==

 南側の県道345号に出て東へ、「国分牧場」と呼ぶ牛関連のレストラン前を過ぎ、市
町境の市野川(いちのかわ)の慈雲寺橋を渡り吉見町に入る。


 カモジグサかと思われる穂の出た草の並ぶ左岸堤防を400mほど進んで堤防を離れた。


 色づく田んぼの間を進むと、若木のブルーベリー畑にたわわについた実が熟していた。
    

    
  
 流れの突き当たりまで進んで東へ、最初の橋を渡り、少し先で折り返す。


 県営ほ場整備事業竣工記念碑のある用水池の角を曲がり、田んぼの間を1㎞ほど北へ、
左手に大きな貯蔵庫らしい建物が2棟見える。



 台地に突き当たり、県道27号を少し西進して東北に上がり、晴れ間が広がり蒸し暑く
なった天神沼西端の建物前で小休止した。


 西に延びる細道を進んで大沼の東岸に出た。沼を眺めながら南岸を進み、南吉見集落の
長源寺に入って再度小休止する。


 境内南側に、午前中にも見た白いキノコがたくさん傘を開いていた。


 南側の県道27号に戻って西へ、西日を正面から受けて暑さを感じる。丘陵上に見える
武蔵丘短大の下や、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されている松山城跡下
を南から西へと回る。



 吉見百穴が間近な市野川の市の川橋を渡り、東松山市に戻った。市街地に入った県道を
西進して、ウオーキングの町東松山のシンボル、東松山ウオーキングセンターに入って最
後の休憩をする。





 さらに県道を西へ、下沼公園の南端から沼を見下ろし、ゴールの東松山駅に16時40
分に着いた。

(参加 11人、天気 曇後晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 東松山、歩行地 
 東松山市、吉見町、歩数 24,300)





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荒川を挟み吉見町東部と鴻巣市西部をカントリーウオーク(埼玉)

2019-06-10 18:46:19 | カントリーウオーク
 2019年6月9日(日)

 梅雨入り3日目の今日は、カントリーウオークグループの第264回例会に参加した。
集合はJR高崎線鴻巣駅。

 西口から10時26分発東松山駅行川越観光バスに乗り、荒川の御成橋(おなりばし)
を越えた古名(こみょう)バス停で10時32分に下車した。


== 川幅日本一を確認して吉見運動公園の管理事務所へ ==

 北側の旧道から荒川右岸堤防に上がり、御成橋西詰に回ると「川幅日本一」の標柱が立
っていた。
     
 吉見町と鴻巣市との間を流れる荒川の川幅は2,537mあり日本一。ちなみに川幅は、
「荒川左右岸の計画最高水位での堤防間の距離」としているという。



 堤防から望む堤内(ていない・住宅地側)は早苗田の田んぼと新緑の森などが、幅広い
堤外(流れ側)に流れは見えず、広大な草地と幾つもの常緑広葉樹の塊が望まれる。



 川幅日本一の実際の位置は、橋から上流360m、河口から62㎞の地点で、そこにも
標識が立っていた。
    


 今にも降り出しそうな雨雲の下、早苗田に影映す田んぼや、広大な堤外の草地など眺め
ながら1㎞ほど進み、送電線の下で堤防を下る。


    
 北下砂集落に入ると、民家にユリやノカンゾウなどが咲き出し、大きなビワの木に色づ
いた実がたわわに実る。





 北側の小さなお堂は龍渕寺(りゅうえんじ)で、墓地のそばに吉見町指定考古資料で宝
暦9(1759)年造立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っていた。
          
 塔内には紙の曼荼羅経のほかに、銅板の経が納められていたとか。水害の多かった吉見
町では、腐朽しやすい紙本のほかに銅版なら永続的に残りやすいからという。


 さらに北へ少し、県道76号下を跨道橋で抜けて、昼食地の吉見運動公園管理事務所に
11時45分に着いた。

 運動公園の利用者や荒川右岸の自転車道を走るサイクリストなどのための休憩施設にな
っていて、小規模の売店やカフェ、自販機などもある。

 屋内外にある休憩用椅子に腰を下ろして昼食とする。

== 荒川左岸の寺社を巡り鴻巣駅へ ==

 食事を終えてミーティングをして、12時45分に運動公園管理事務所を出た。

 堤防を越えて東側から北へと広がる吉見運動公園に下り、テニス場エリアから多目的広
場へ。

 広々とした草地のところどころにメタセコイア並木がある。それらを眺めながら草地を
県道76号・鴻巣川島線沿いに東進し、中ほどで記念撮影をした。




 公園の東端まで進み、県道が左カーブして糠田橋(ぬかたばし)となるところで県道下
を抜けて糠田橋に上がる。


 見下ろす堤外の小麦畑は、麦秋を迎えて小麦色の広大な畑が一面に広がり、その向こう
にはJR鴻巣駅周辺のビル群も望まれた。



 橋の中ほどで荒川の流れが見下ろせ、上流側右手に利根川からの導水路・武蔵水路が合
流している(下の写真は下流側)。
     


 左岸に渡り終え、堤防下の公衆トイレ際から県道の下を西に抜け、そばの聖泉寺で小休
止した。





 墓地には、累代住職の墓らしい宝篋印塔に似た墓が建ち並ぶ。山門を入り左手には、文
久3(1863)年からという「歯目鼻の神様」の小さな祠(ほこら)が祀られていた。
                  

 南西側すぐ先にうっそうとした鎮守の森がある。県の「ふるさとの森」に選定された糠
田氷川神社の森で、参道沿いや本殿背後には鴻巣市保護樹木のケヤキやイチョウ、カシな
どの古木が目につく。
     

 糠田氷川神社は文禄の頃(1692~6)までは小社だったが、寛永年中(1624~
44)に村の鎮守として造営されたよう。



 現在の本殿は享保3(1718)年の建立で、本殿の四周を飾る精緻な木彫は市指定文
化財。




 だが、近年その一部が心ないものに盗まれてしまったという。ここでも社務所の濡れ縁
で小休止した。



 北東側近くの放光寺にも立ち寄る。境内のアジサイやタイサンボクが咲き出していた。
    

          


 本堂前に数個のハス鉢が並び、中でたくさんのメダカが泳いでいた。本堂前には小規模
の枯山水もある。
    

 本田一ノ割集落を東へ、糠田橋から延びた県道76号下を抜けて、ひとつ北に並行する
道へ。

              
 民家にユリが咲き、そばの畑では、もうコスモスが花開く。たわわに実をつけたブドウ
の目につく民家もある、
     

        

 集落東端の足立北部排水路際、区画整理記念碑の横に青面金剛像の石塔が立ち、側面は
「東 鴻巣十八丁」などの道しるべになっていた。
         


 足立北部排水路を越えて本田五ノ割集落を東北に抜け、登戸集落にある永林寺へ。

 徳川家光が三代将軍になった約380年前の開創のよう。境内前面で、庭を掃く小坊主
姿の石像が迎えてくれた。
         

 住宅地の中を登戸から緑町、大間二丁目へと南東に進み、拝殿の西側から大野神社に入
る。

 創建は天慶元(938)年で、長元3(1030)年には源頼義が平忠常の謀反征伐の
ため、獅子頭を掛けて祈願したとか。江戸時代は氷川神社だったが、明治19(1886)
年に大野神社に改称したという。


 最近は 来年末で活動を停止するというアイドルグループ「嵐」の聖地として知られる
ようになったようで、「嵐」に関わる祈願の絵馬がたくさん奉納されていた。
    

         

 参道を進んで南側の町道に出て、戸建て住宅地を南東へと進む。鴻巣市のマンホールに
は特産のおひな様が。
    

 ゴールの鴻巣駅西口には15時45分に着いた。


 心配された雨は午前中わずかに感じた程度で傘を差す必要も無く、気温も20℃ほど。
梅雨時としてはまことに歩きやすい一日であった。

(参加 15人、天気 曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万)、東松山、鴻巣、
 歩行地 吉見町、鴻巣市、歩数 19,400)





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北本市西郊、新緑の荒川左岸台地をカントリーウオーク(埼玉・北本)

2019-05-15 22:08:48 | カントリーウオーク
 2019年5月12日(日)

 平成から令和に年号が変わって最初、カントリーウオークグループの第263回例会に
参加した。


 集合はJR高崎線の北本(きたもと)駅、10時15分に西口をスタートした。

     
 西口ロータリーに立つ、数本のベニバナトチノキが鮮やかな花を見せている、
    

 その下のテントで、今日開催の「きたもと緑の森めぐり」スタンプらラリーのリーフレ
ットを配布していたのでもらう。北本名物、トマトカレーも販売していた。


    
 駅前から西に延びる広い市道の1本南の細道を進むと、民家のバラやシャクナゲなどが
あちこちで咲き競う。
         


 細道を突き当たり、南下した交差点際、「プリムローズ&デグラン」という店が「きた
もとオープンガーデン」に参加していて、今日までの金土日が公開日。

 店の前と道路を挟んだ東側の一角に、バラを中心にテッセンなど鉢植えの草花がたくさ
ん咲いていた。
    

                

 次の角を右左折して、広い敷地に立派な建物が相対する市役所↓と文化センターの間を
抜ける。


    
 西側の本町六丁目の住宅街にも、レモンやシャクヤク、アルストロメリアなど春の花が
彩りを競っていた。


         
 
 本町七丁目へ、緑豊富な真福寺に北東側から入る。石戸厄除両大師と呼ばれ、社殿は朱
塗りコンクリート造りで堂々とした造り。

 創建から約600年という古寺で、地元では「両大師」や「大師様」の愛称で親しまれ、
正月3日と2月3日には「だるま市」が開かれ大変多くの参詣者で賑わうよう。


 境内中央部にクスノキの大樹が新緑のやわからかな彩りを見せ、囲んでみたら5人がか
りの幹、その下で小休止する。

     
 そばの立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、安永8(1779)年と刻まれてい
た。境内のほかの木々も伸び伸びと枝を広げている。



 境内南側、安永3年建立の仁王門を出て西へ、すぐ先で北への細道を入ると畑の向こう
にたくさんのルピナスが咲いている。



 次のT字路を左折して門前からの道に合し、石戸二丁目と四丁目の間を西進する。周辺
は小麦畑が多く、もう穂が出そろっていた。

    
 沿道の民家にも鮮やかなバラが咲き、古木の梅園もある。
         



 さらに西進して県道57号・さいたま鴻巣線を横断したすぐ先、南北に走る旧道に鎌倉
街道の説明板が立っていた。
     
 鎌倉街道の中道(なかつみち)から枝分かれして荒川沿岸を走る上野道(こうずけどう)
と考えられるという。その道路沿いには「景観フラワーロード」の表示もあり、道路沿い
に花畑が続いている。


 その延長となる東側すぐ先に、高尾氷川神社と浅間神社、須賀神社が接して祭られてい
た。

 氷川神社の創建は貞観11(869)年と伝えられ、市内最古の神社とされ、旧高尾村
の総鎮守とか。豊富な鎮守の森に覆われ、正月に地元の方から甘酒が振る舞われる初詣ス
ポットだという。


 拝殿左手には、親子お笑い芸人「完熟フレッシュ」が紹介した「ぴこりん絵馬」が奉納
され、その横には桜みくじが並んでいた。


 境内西側、道路下の谷底に下ると弁天池があり、弁天島の中央に厳島神社が祭られてい
る。


 この周辺も豊富な樹林に覆われていて、周辺一帯は県の「緑のトラスト保全第8号地」
である。


 厳島神社の南側、須賀神社は旧荒井村の鎮守で「荒井の天王様」ともいわれ、創建は天
正年間(1573~91)という。


 拝殿内には明治天皇と日露戦争の軍神・広瀬武夫中佐の肖像画などが掲げられていた。
    


 緑のトラストのやわらかな新緑を眺めながら西進し、「高尾さくら公園」の駐車場から
公園に入る。駐車場の北には、独特の鐘楼門のある阿弥陀堂が望まれる。


 高尾さくら公園は、広々とした芝生地に全国から集めた桜など、約30種約200本の
桜が植えられ、ソメイヨシノやヤマザクラの咲く4月初旬には、さくらまつりが開催され
るという。

 以前の例会でも来ているが、年数が経過して桜もかなり生長しており、花どきにもう一
度訪れたい。

 12時12分に着き、予定の昼食地の手前だが東屋(あずまや)もあるのでここで昼食
とした。


 南側には荒川の幅広い河川敷が望まれるが、その向こう、奥武蔵や奥秩父方面の山並み
は霞んで判然としない。

 昼食後にミーティングをして、13時ちょうどに高尾さくら公園を後にする。南東に下
ると「ヘイケボタルの里」と呼ぶ小さい池があり、その横から荒川左岸に出た。



 左岸沿いを下流に進み、8月下旬の日曜に「水辺まつりが」開催されるという「北本水
辺プラザ公園」の入口横を過ぎる。


 少し先の十字路を左折して東側台地に向かい、コイの泳ぐ池に沿って進む。



 台地上には「野外活動センター」の建物があり、遅れてきたCさんがここで合流した。

 建物内を少し観覧後、そばで記念撮影をして東側の道路に出る。


 南進して次のT字路を東へ、高尾八丁目を進み、県道33号・東松山桶川線を少しで南
側の荒井四丁目から五丁目へ。

 左下の栗畑に下りて背の低い梅林を進むと樹林となり、道なき道を久しぶりにやぶこぎ
して北本自然観察公園の北西側遊歩道に出た。


 少し先の東向斜面に、市指定天然記念物のエドヒガンザクラの古木が立っていた。樹齢
200年を超えると推定され、根回り3m、枝張り南北42m、東西13m、高さ20m
の大木である。
     
 北本の春を告げる桜として開花期には多くの見学者で賑わうようだが、新緑に覆われた
いまは周辺の木々に溶け込み、標識がなければそれと気づかないだろう。



 遊歩道を南進して「埼玉県自然学習センター」に入り、館内の展示を見るなどして小休
止する。





 休憩後は、建物の南西側のアシの茂る池の周囲を反時計回りに一周する。最後は池の中
を木橋で横断し、ニセアカシアの白い花咲く下を抜けてセンター横に戻った。


     

 東側の橋を渡って北本自然観察公園を出て、北東に進んで荒井三丁目を東へ、西中の北
側を東進して石戸八丁目から七丁目へと畑作地帯を進む。


 県道33号を横断して石戸六丁目の大蔵寺へ。参道を少しで独特の山門を入り、正面の
本堂前で小休止する。ここも境内の豊富な新緑が気持ち良い。



 大蔵寺については、新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)に「創建年代等は
不詳ながら、天台宗、安楽山無量院と号す」などと記されているようだ。


 東側に広がる大規模団地・URの北本団地に入り、郵便局横を北へ、団地の北端から東
進し、大きな北本中央幼稚園との間を進む。

 団地の北東端で北へ、県道312号・下石戸上菖蒲線を北本郵便局の西側で横断し、緑
一丁目で宗教法人解脱会の森に着き当たる。


 東に回ってさらに北進し、ゴールの北本駅には15時55に着いた。気温22℃前後で
東からの涼しい風もあり、強い日差しも少なくウオーキング日和だった。

(参加 11人、天気 晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 鴻巣、歩行地 北本市、
 歩数 22,100)





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蓮田から岩槻へ 武州鉄道廃線跡を訪ね歩くウオーキング(埼玉)

2019-02-13 17:16:55 | カントリーウオーク
 2019年2月11日(祝・月)

 埼玉県内を中心のカントリーウオークグループが、スタートからまる26年になる記念
日の今日は、武州鉄道の蓮田~岩槻間に残る痕跡を訪ね歩いた。

 集合はJR宇都宮線蓮田駅。予報では降雪の心配もあったが雪にはならず曇天、でも気
温は低い。10時ちょうどに蓮田駅東口をスタートした。


 ちなみに、武州鉄道は蓮田からさいたま市岩槻、大門を経て、川口市神根(現神戸(ご
うど))までの鉄道。大正13(1924)年に今日歩く蓮田~岩槻間がまず開業したが、
14年後の昭和13(1938)年に営業廃止となり、線路跡もわずかしか残っていない
よう。

 線路沿いの通りを少し西進し、交番のある交差点を左折して南東へ真っ直ぐに伸びる車
道を進む。

 蓮田三丁目で右折し、神亀(しんかめ)酒造の醸造所の周囲を北から西、南へとコの字
状に回る。北側にあった売店は今日は休業日だった。

 神亀酒造は日本酒蔵において最初に全量純米酒にしたことで知られ、現在も米と米麹
(こめこうじ)と水からのみで日本酒を造っているという。


 元の道に戻り、すぐ先で東へと進む。スイセンの咲く日陰の畑には、2日前の雪が残る。



 その辺りから東に見える林は小川原家の屋敷林で、「さいたま緑のトラスト」の保全7
号地だという。近くには安産子育てに御利益ある、延命地蔵尊が祭られていた。
         

 すぐに国道122号バイパスに出た。S字状カーブの中ほどに材木店があり、その南側
の畑の隅に「馬込車站(まごめしゃたん)建設碑」があった。
          
 「昭和6(1931)年2月1日」とも刻まれていて、武州鉄道馬込停車場のあったと
ころ。

 碑の上部は欠け落ち左側表面も剥落(はくらく)していたが、支え持って記念撮影する。
ここからも、緑のトラスト7号地の林が間近である。


 S字状カーブの終わる辺りで国道を離れて東へ、住宅地の間を東南東に延びる道路があ
り、これが武州鉄道の線路跡とのこと。


    
 沿道の家の紅梅が見頃で、近くの畑の向こうには屋敷林の残る民家も望まれた。


 東北自動車道の上を越え、東側の馬込交差点で東北自動車道の東側側道を横断する。そ
の先東南東に延びる静かな里道も武州鉄道の線路跡。


 河合小の校門横に小さい稲荷神社が祭られていた。どこにでもあるような稲荷神社だが、
この神社には岩槻の料亭お抱えのタクシー会社の運転手と狐との伝説があるという。
     

    
 河合小の南に回り、平林寺集落を東進する。紅梅、白梅、ピンクの3色の梅が見頃にな
った住宅があり、紅梅の下からはフクジュソウも咲き出していた。
    

               


 クランク状にカーブした曲がり角の家に黒と白の2頭の馬の像が置かれていたが、どの
ような作品なのか説明板などはない。
    

 すぐ先の十字路を右折すると、平林寺公民館に延びる短い直線が廃線跡のよう。


         
 すぐ先の十字路際に「片割れ地蔵」と呼ぶお地蔵さんが立ち、そばの小さい林には「平
林寺跡」の表示がある。

 ここは、県内新座市野火止にある平林寺があったところ。平林寺は、永和元(1375)
年にこの地に創建されたが、豊臣秀吉の小田原城征伐の影響を受け、塔頭(たっちゅう)
のひとつが残るだけとなったとか。

 のち関東に領地替えとなった徳川家康が鷹狩りに訪れ、休息で立ち寄った際に再興を約
束し、天正20(1592)年に新座市に中興されたとのこと。

 片割れ地蔵は、もとはこの地に一対の地蔵さんがあったが、そのひとつは現在の平林寺
に祭られたので、ひとつだけ残ったよう。

 この先は、真っ直ぐに伸びる畑と民家の散在する通りを平林寺集落から箕輪集落へと
1.2㎞余り東進する。武州鉄道はすぐ北側をほぼ並行していたようだが、その痕跡はな
いらしい。

 T字路に突き当たって左折、すぐの十字路を北東に入った先で、住宅の並びが少し周辺
と違う細い通りが線路跡と分かる。


 十字路に戻り東へ、次の十字路を左折した先にも線路跡の道路が残っていた。


 美幸町から日ノ出町へと東南東に進み、南側にも短い線路跡を確認した。
     

 県道65号・日光御成街道などとの変則五差路を右折して、もとは岩槻城の堀だったと
いう車道を南へと進む。


 愛宕町にあった「愛宕ふれあい広場」が今日のゴール。12時35分に着いた。ミーテ
ィングをして解散とする。

 この後、用事で帰るTさん以外は岩槻駅の東北近くにある「コロッケカフェふれあい」
に12時50分に入る。
     

    
 まずは暖かいカレースープとコロッケ入りサンドイッチをいただく。その後、昼食を兼
ねた26周年記念の会食をして、2時間近くの宴を楽しんだ。


 ちなみに降雪こそなかったがうす寒い一日で、さいたま市の最高気温は4.4℃だった。

(参加 11人、天気 曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万)、岩槻、歩行地 蓮田市、
 さいたま市岩槻区、歩数 11,500)


 なお、「コロッケカフェふれあい」の藤野ヒロ子さんは、もと透明水彩画をされていた
が、現在は絵皿に植物などを描く工芸作家として活動されているとか。

 絵皿の焼成はどうされているのか伺うと、最近は断熱性能のよいファイバー材があるの
で大がかりな焼釜は必要なく、60㎝角くらいの釜の周囲をファイバーで覆えば室内でも
焼けるようで、藤野さんもこの上の階の自宅にそのような焼釜を設置して、電気炉で焼成
しているという。

 会場の壁面には、藤野さんが制作された美しい絵皿がたくさん並んでいた。
    



 藤野さんは、近くの東武アーバンパークライン岩槻駅に近いWATSU西館の3階で開
催している、さいたま市岩槻区の「第7回人形の里 区民総合文化芸術祭」のプロ作家の
展示にも出展されているとのこと。

 
 会食終了後は皆で会場に行き、藤野さんの作品↑を始め多くのプロ芸術家の油絵、水彩画、
人形、書、藤工芸など多彩な作品の数々を観覧する。


    

         



     



        

    



     
 さらに、岩槻駅東口駅前にある、人形のまち岩槻の代表的な人形店ともいえる東玉(と
うぎょく)総本店の4階で開催中の、「変わり雛(びな)」の展示も観ることにした。

      
 人形の東玉では、毎年その年に起こった印象深い出来事を全国から一般公募し、それら
をモチーフにした人形を製作、発表しており、まもなく平成の終わる今回は平成時代30
年分の変わり雛を一挙公開することになったよう。


 会場では、30年分の変わり雛を年代順に、各々の年の上位3点ずつ展示している。





 それらを観覧しながら、ああ、この年はこんな人が話題になったのだったかと、忘れて
いたことも多かった。
     














 あわせて、隣接するたくさんの武者人形などの展示も一巡して眺める。




         


 帰路は、東武アーバンパークライン岩槻駅↑から15時45分発大宮行急行電車に乗る。





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武蔵浦和駅の南側から道満グリーンパーク周辺を歩く(埼玉)

2018-12-11 09:40:16 | カントリーウオーク
 2018年12月9日(日)

 埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、第259回忘年例会に参加した。

 集合はJR武蔵野線・埼京線の武蔵浦和駅。参加者13人は全員一緒に10時10分に
出発した。

 昼食地で忘年の宴をすることにして、まずは駅の南西側にあるスーパーマルエツに入り、
各々飲み物やおつまみなどを購入する。

 南進し、ロッテ浦和工場や沼影小、ロッテ球場横を進む。


 各種競技大会出場や優勝の幕の並ぶ内谷(うちや)中の角を右折して西へ、突き当たり
の県道79号朝霞蕨線を南に少しで、内谷五丁目の普門寺に入る。

 足立板東観音霊場第15番札所のようだが、境内は狭く本堂も小ぶりで植栽も少ない。


 本堂右手に古い地蔵菩薩像などの石像が6基並び、その中の地蔵像には延宝5(1676)
年↘と安永5(1776)年、念仏供養塔には延享元(1744)年と刻まれていた。
         

 すぐ先、県道が南東へカーブした東側、戸田市に入りすぐの美女木(びじょぎ)一丁目
には安養寺があった。ここも本堂は小ぶりで植栽も少なめだ。


         
 新しい地蔵堂には、美女木村講中が享保16(1731)年に奉納したお地蔵さんが祭
られ、そばのスイセンが咲き出していた。

 美女木郵便局前を進み、首都高埼玉大宮線に近い妙厳寺に行く。

 開基は明応2(1493)年といわれ、江戸時代には寺領6石の御朱印を下付されてい
たとか。


 境内には、戸田市有形文化財の十六羅漢が風通し良い建物に並ぶ。本堂内には戸田市指
定絵画の妙厳寺涅槃図があるようだが、法事中だったので確認は省いた。


 境内には何色かのキクが花盛りで、イチジクやサクランボなどの果樹もある。
         

 山門際には享保19(1731)年造立の傘を被った地蔵像が祭られていた。
         

    
 道路を挟んで東側の美女木公園で小休止する。ドウダンツツジが紅葉し、ソメイヨシノ
はほぼ落葉している。


道路側にはキクが飾られた庚申塔が祭られていた。



 少し戻って西へ、国道17号新大宮バイパスの上を首都高が走る間をこ道橋で渡り、美
谷本小の南東にある徳祥寺(とくしょうじ)へ。

 江戸時代初期の開山と伝えられ、本尊聖観世音菩薩は「三宝谷の観音様」として知られ、
足立板東観音霊場の第16番札所である。

 本堂左手壁面には、文政5(1822)年に奉納され、戸田市指定文化財の「千手観音
供養図絵馬」が掲げられていた。
    


 境内には、宝暦11(1761)年造立↓の地蔵菩薩像などたくさんの石仏が並び集めら
れている。
         

 古くからあるらしい農業機械店前を通過して、近くの美女木八幡神社に東側の石鳥居か
ら入る。
     

 社殿東側の広葉樹林下は市指定天然記念物うばゆりの自生地のようで、柵があって入れ
ない。


 美女木八幡神社の創建は鎌倉時代と伝えられる古社。文治5(1189)年に源頼朝が
奥州下向時に当地に立ち寄った際、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したた伝えられているとか。

 社宝の銅鐘は、市内唯一の国の重要美術品で県文化財に指定されていて、現在は郷土博
物館に展示されているようだ。

     
 境内西側の大イチョウの黄葉が見頃で、境内にはケヤキの高木も何本か目についた。



 南側の山門から出て、両側に葉の落ちたソメイヨシノの並ぶ荒川左岸排水路の道満(ど
うまん)橋を渡る。

 カラスムギが一面に伸びた荒川左岸堤防に上がると、眼下にヤクルト総合グランドが目
に入る。


 その向こう、道満グリーンパークの木々の上には秩父の武甲山や外秩父の堂平山や笠山、
奥武蔵の山並みなどが広がる。     堂平山      笠 山 



 北北東を眺めると、首都高埼玉大宮線の上にさいたま新都心の高層ビル街が望まれた。
堤防上を少し進むと、かなり雲を被ってはいるが富士山も姿を見せてくれた。



 南に見える幸魂(さきたま)大橋に向かって進み、少し手前で堤外(彩湖(さいこ)側)
に下る。


 彩湖・道満グリーンパークの南側、バーベキュー広場に入り、12時35分に広場の隅の
クヌギの木のそばに着いた。

 シートを広げて買ってきた飲み物とつまみなどを広げ、それを囲んで輪になり、忘年昼
食地とする。

 NAさんの音頭で乾杯し、この1年の歩きなどを振り返りゆっくりと歓談のひとときを
楽しむ。

 歩いていた午前中はほとんど陽が差さなかったが、宴を始めた頃から雲が切れて日差し
が届き、温かみも感じられるようになった。


 ほろ酔い気分となり、記念撮影とミーティングをして、14時30分に出発した。


 メタセコイヤやクヌギなどが色づき、落ち葉がいっぱいの園内を北へ。


 観賞池の東側に出て池の真ん中に架かる木橋で横断する。






 国内の絶滅危惧種「トダスゲ」の増殖地横を過ぎて観賞池の北に進み、たくさんのパン
ジー咲く花壇の横を南から東に回った。





 平成元(1989)年と記された「道満グリーンパーク竣工記念碑」の東側から公園を
出た。荒川左岸堤防に上がり、再び公園や西方の山並みなどを振り返る。




 美女木七丁目と八丁目の間の車道を進んで荒川左岸排水路の番匠免橋を渡り、ゴールの
彩湖・グリーンパーク入口バス停に14時53分に着いた。
         

 ここで解散して、バスで帰途につく人、もう少し歩いて西浦和駅に向かう人など三方に
分かれる。私など6人は最短距離で西浦和駅に向かい、後半は国道17号新大宮バイパス
の東側を進み、15時35分にJR武蔵野線の西浦和駅に着いた。


 この日のさいたま市の最高気温は10.1℃、3週前の暖かな11月例会より10℃下
がり、真冬並みの気温だった。 

(参加 13人、天気 曇後晴、距離 6㎞(西浦和駅まで通算8㎞)、地図(1/2.5万)
 浦和、赤羽、歩行地 さいたま市南区、戸田市、歩数 11,900(通算16,000))





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熊谷市南郊、知恵の文珠寺や大沼公園周辺を歩く(埼玉)

2018-11-26 16:30:50 | カントリーウオーク
 2018年11月17日(土)

 立冬から10日過ぎたが暖かな今日は、カントリーウオークグループの第258回例会
に参加した。

 JR高崎線熊谷駅に集合して10時10分発東松山駅行きバスに乗る。国道407号の
荒川大橋を渡り、下恩田バス停に10時37分に着いた。

 東松山駅からのバスで逆行して先着した私も皆さんと合流する。

 == 畑や栗林などの間を文珠寺へ ==


 東側の小さい流れ沿いを北西に少し進み、地蔵堂の横で国道を横断して西に向かう。地
蔵堂には、宝永6(1709)年造立のお地蔵さんが祭られていた。
     


 台地に向かう坂道からは北に、熊谷市中心街方面が望まれる。台地上は畑が広がり、そ
のひとつに遅咲きのヒマワリが咲いていた。


 何か分からぬが、小さな黒い実が円形についた作物の畑もある。
   

 畑の畦(あぜ)には狂い咲きか、もうホトケノザがあちこちに咲く。キャベツ畑の横を
過ぎて楊井(やぎい)集落に入ると、たくさん枝を伸ばしたエノキの古木が立っていた。
     
 
周辺の民家には、ユズなど柑橘の実が色づいている。


 南北に走る県道173号ときがわ熊谷線に突き当たり、その前後は林間を南から南東へ
と折り返す。楊井集落を南北に貫く道を南へ、
     

 民家の横にたくさんのサザンカが咲いていた。



 近くの畑では家族揃って大根などを収穫中。沿道にはキクの花があちこちで見られる。


 500m近く南進して西へ、まだ葉の残る栗畑の農道を南西に抜けて茅原集落の車道へ。



 西に少しで県道173号線をこ道橋で越え、野原(のはら)集落に入ると種々の色のキ
クが咲き競う。
     



 すぐ先に昼食地の五台山文珠寺(もんじゅじ)があり、11時58分に着いた。

 江戸中期の建築とされ熊谷市指定文化財の山門を入ると2階建ての鐘楼門があり、その
下を抜けた正面が本堂である。




 ここ野原の文殊寺は、京都の切戸(天橋立)文殊、山形の亀岡文殊と並ぶ「日本三体文
殊菩薩」のひとつで、「野原の文殊さま」や智恵の文殊寺で知られている。

 「三人寄れば文殊の智恵」のことわざ通り、文殊菩薩は智恵をつかさどる仏さまで、昔
から学業成就の願いを求めて県内外から多くの人々が訪れるという。


 本堂前にウサギが支える大理石のベンチがあり、本堂にはたくさんの千羽鶴が下がる。


 本堂前には合格祈願の絵馬が、たくさん奉納されていた。


 気温が上がり暑さを感じるので、南側の木陰で昼食とする。

    
 境内には、可愛らしい洗心童子像やウサギを抱えたお地蔵さん、「大誓願」額のかかる
お堂に奉納されたたくさんのミニこけしなどが目につく。
              




      
                
 ほかに、今年2月に地元熊谷にて98歳で亡くなった金子兜太(かねことうた)の句碑、
聖徳太子の塔、背後の林には地蔵菩薩半跏像、文化13(1816)年建立の芭蕉句碑と
芭蕉翁塚などがあった。
         

             



                      


 記念撮影をして、12時58分に午後のコースに向かう。

 == 和田川沿いなどを大沼公園へ ==

       
 アカマツなどの茂る境内林を西に抜けて立正大の南側に出て、南南西へと畑の間を進む。
「大久保農園」の看板の南側の畑では、おばあちゃんが大型耕運機で種まきをしていた。



 門前集落の西側で南に向かい、熊谷市と滑川町の市町境の和田川を渡る。



 南に平行する小さい流れ沿いを少し進むと、乗馬学校の建物と馬場があったが、馬は1
頭も見ることはできない。


 馬場際の日陰で小休止した。そばの大きな民家、K邸には干し柿がたくさん吊してある。


 再び和田川の北に戻り、突き当たりの八幡神社境内の日陰でもう一度休憩して水分補給
する。

 野原神社の創立年代は不明だが、寛永20(1643)年に社殿を造営し、宝暦11
(1761)年には領主の命で本殿の工事をした記録があるようだ。

 神社の背後から西方にかけて「野原古墳群」と呼ぶ古墳群があり、昭和初年には30余
基を数えたが、現在は20数基とか。だが一見してもそれらは確認できない。ここから出
土した「踊るはにわ」は、国立博物館が所蔵するという。

 神社前の田んぼから西方に、特徴的な凸型のピークなどの山並みが望まれる。

        赤久綱山        東御荷鉾山 

 秩父の武甲山(ぶこうさん)周辺かと思われたが、帰宅後にフリーソフト「カシミール
3D」で確認したら、西上州、神流川(かんながわ)沿いの東御荷鉾山(ひがしみかぼや
ま)(1246m)から赤久綱山(あかぐなやま)(1522m)にかけての山並みだった。


 ひこばえの伸びた田んぼに沿って400m余り進み、北西に延びる山林と田んぼの間の
静かな里道へ。



 その田の水源となるため池の横からゴルフ練習場沿いに進む。新しいソーラパネルがた
くさん並ぶ南側を過ぎると、ラジコンカーの専用コースがあり、急カーブと起伏の多いコ
ースを巧みに操縦するグループがいた。

 しばし眺めて戻り、南側の新田集落沿いを西進する。北側の屋敷林を背にして住宅があ
り、南側は畑になっていて、住宅に向けて私道がくしの歯のように並ぶ。



 県南・三芳町や所沢市など三富新田(さんとめしんでん)のミニ版のような屋敷配置に
なっていた。


 その西端から、キクや皇帝ダリアなど咲く民家の横を北に少しで大沼公園の東端に出た。


    
 北側に回って民家にきれいなキクの咲く先から中の島を渡り、弁天堂に参拝する。
     

 お堂の傍らに、県指定文化財「嘉禄三年銘板石塔婆」の復元品があった。嘉禄3(1227)
年の板石塔婆(いたいしとうば)は日本最古のものという。
         


 沼の西端から林間を北西に抜けて県道7号熊谷小川秩父線に出る。折り返すように東進
して、旧江南町(こうなんまち)の中心部の大沼公園バス停に15時ちょうどにゴールし、
15時19分発熊谷駅行きバスに乗る。

 休憩時には木陰を選んだこの日の暖かさ、熊谷の最高気温は20.3℃度だった。

(参加 12人、天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 三ヶ尻、熊谷、歩行地
 熊谷市、滑川町、歩数 17,100)





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