あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

赤城山南麓を2日間カントリーウオーク(群馬)第2日

2013-10-30 19:19:36 | カントリーウオーク
 2013年10月27日(日)

 == 群馬県畜産試験場から大胡駅まで下る ==

 
 台風27号が過ぎ去り、朝は雲ひとつ無い快晴である。8時20分に前橋さくらホテル
を出発し、中央前橋駅の先のコンビニ・セブンイレブンで昼食や飲み物などを仕入れる。

 駅前に戻り、9時5分発富士見温泉行き関越交通バスに乗り、9時30分に畜産試験場
入口バス停で下りた。赤城山腹のこの辺りの標高はおよそ360mである。

 上がって来た県道4号・赤城道路と、東西に走る国道353号線との交差する周辺が群
馬県畜産試験場。今日は「第24回酪農畜産フェスティバル」の2日目で、すでに多くの
人が車などで訪れている。私たちも、少しの時間だけ会場をのぞいてみることにした。


 露店の並ぶ間を進み、草の広場の周辺に幾つものテントの並ぶ会場に入ると、無料配布
のゆで卵や牛乳の試飲コーナーなどに長い列が出来ている。


 乳製品やはちみつ、卵などの直売もしていた。県内の牧場などから出店のテントもある。
9時50分に会場を出て、今日のウオーキングの開始である。

 国道を東へ、隣接する県家畜衛生研究所前を過ぎ、皆沢の散在する集落を抜ける。国道
が半円状にカーブする辺りにパンジー畑があり、色とりどりの花が咲き競う。


 カーブの終わる辺りからは南側の展望が開け、前橋市街からその向こうの山並みまでの
大展望が得られるが、やや霞んでいる。


 北側には、秋色に色づき始めた赤城山の西側山塊が望まれた。


 この辺りの国道は「メロディライン」と呼ばれ、時速40㎞前後で車が通過すると、唱
歌「チューリップ」のメロディが聞こえる。

 開拓地らしい金丸町付近にリンゴや野菜の直売所があり、台風で落下した傷リンゴを安
価で販売している。まだ歩き始めで重いのに、何人かが買い求めた。


 南側の広いエリアは嶺(みね)公園。広葉樹中心の山林は昭和58年度(1983)に
整備された前橋市の保健保安林で、その中に何か所か墓地が造られている。

 公園に入って園路を東南に回り、駐車場付近で小休止した。


 車道を挟んで東側の墓地の園路を回り、水道タンクの東側に出る。


 北に赤城山西部の山塊↑が、西方には榛名山↓が、昨日よりはっきりと望まれる。



 南北に走る細い林に沿って北上し、道の駅「さんぽ道」で休憩とする。店内では近隣の
農産物やその加工品、鉢花、花木などを販売していて、車で来た人で賑わう。


 道路の東側は「大胡(おおご)ぐりーんふらわー牧場」。国道際の広場中央に、旧大胡
町のシンボルとしてふるさと創生事業で建設した、高さ22mの風車塔にモーターで回る
オランダ風の風車があるが、運転は休止していた。


 風車の前で記念撮影をして、展望塔やホルスタイン牛の遊ぶ牧場の東側に付けられた遊
歩道を下る。


 階段を下るとウッディなバンガローもあり、下に棚田が見下ろせる。


 コナラの大木のそばからほぼ等高線沿いに右に回って少し上がり、道の駅横から下る車
道に出た。車道を横切り真っ直ぐに南下する車道は車も通らず、緩やかな起伏の牧草地な
ど、のどかな展望が広がり気持ちよい。


 宮窪集落の北端にある八柱神社で小休止した。



 寺沢川沿いの谷地田の辺りで県道101号に入り、東進して次の新井集落北部の交差点
で県道に分かれ、南南東に下る旧道へ。


 旧道の入り際、小さいお堂の前に、初めて見るものなど、江戸時代の10数基の石仏が
並ぶ。近くには、珍しい「豚魂碑」も立っていた。


 新井集落の中に、城壁のような大きな石垣に囲まれた建物が見えるが、建設関係の業種
のものだろうか…。


 その近くで、標高260m付近を流れる群馬用水の暗渠部を横切る。


 ちなみに群馬用水は、農業用水を主目的に昭和38年(1963)に着工し、昭和44
年に幹線水路が完成したとか。取水源は利根川西岸で、渋川市内で利根川サイホン水道橋
を経て前橋市から桐生市の早川貯水池までの約33㎞に及び、標高140~500mにあ
る耕地を潅漑し、一部は水道水としても利用しているという。


 さらに下って大胡総合運動公園に入る。野球場とサッカー場の間のベンチ付近に12時
48分に着き、昼食にする。


 ゆっくり食事をして、13時40分に出発する。野球場の南から東側の車道に出て南に
向かう。公園の南端より少し先で左折して東へ。


 色づく赤城山を眺めながら進んだが、地図上の道沿いにある池が現れない。どうやら少
し手前から東へ向かう新道が出来たようだ。

 南に下る車道に合してその道を緩やかに下る。次のY字路際に墓地があり、現在地を確
認できた。

 殿町集落にあった金蔵院に入り、山門付近で小休止する。本堂はコンクリート造り。


 山門近くに古い六地蔵が並び、傍らに梵字(ぼんじ)を書き並べた石灯ろうがある。境
内中央部には、モミジの古木が枝を伸ばしていた。


 ソメイヨシノの続く参道を出て次の十字路を右折する。すぐ先の標識に従い南に入って
長善寺へ。

 長善寺は、大胡城主大胡太郎藤原重俊が北方の白草に開山し、のちに現在地に寺域を移
し、その後、豊臣秀頼から真筆の豊国山の山号を賜ったという。

 松やツツジなど、よく整えられた植栽の多い境内、可愛らしいお地蔵さんが大小2組並
んでいる。


 北側の車道に戻る手前の畑に、パパイヤが3本、実を付けていた。


 交差点の東南は養林寺。南に回って境内に入り、本堂の扉を開けてご本尊に参拝してい
たらご住職が来られ、寺の沿革などを記した資料を人数分下さった。


 養林寺は、長善寺の開基でもある大胡太郎が草庵を建てて念仏修行道場としたのが始ま
り。のち2万石の大胡城主になった牧野康成が、草庵の旧跡を牧野家の菩提寺として養林
寺を創建したという。

 明治6年(1873)には「太田の吞龍様(どんりゆうさま)」で知られる太田市の大
光院から吞龍上人の分身を迎え、以後近郷近在からの信仰厚く、節分会(せつぶんえ)に
は参詣者で賑わうという。

 墓地の奥には、前橋市指定史跡になっている牧野家の墓地があり、牧野康成ほか妻、父
子など7基の墓石が並んでいた。


 境内の、ツタの絡まる高さ20mのクスノキは前橋市保存樹木。境内ではほかに、横に
長く枝を伸ばした老松↓も目に付いた。


 東に200mほどの車道北側にある大胡神社にも詣でる。

 急階段を上がった境内はうっそうとした木々に覆われ、拝殿前には前橋市天然記念物で
樹高25mのムクロジの巨樹が立っていた。


 東側の荒砥川沿いに走る県道16号に入り、東側からのトンネルを抜けて前橋市指定史
跡の大胡城跡に上がる。


 大胡城は、南北に走る丘陵上にある平山城で、南北670m、東西最大310mの規模、
枡形門、水の手門虎口、空堀、土塁などがよく残っているとのこと。

 天正18年(1590)、徳川家康が関東入部により牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、
康成、忠成二代の居城となったが、牧野氏が越後に転封後は前橋藩領となり、酒井氏の城
代が置かれたが、酒井氏が寛延2年(1749)姫路に転封し、廃城になったという。

 東側に回ると、北に赤城山東麓が、東に荒砥川沿いを見下ろし、南に大胡の町並みが一
望できる。


 北東端には、「慰霊の塔」や第二次大戦後のカスリン台風の大災害のことを記した記念
碑などがある。


 城跡を出て駅に向かう。細い旧道を回って県道16号に入り、シャッターの下りた店舗
の多い中心街を進み、15時50分に上毛電鉄の大胡駅に着いた。


 駅北側の小公園にも、道の駅と同型の小さい風車が置かれていた。


 16時5分発下り電車で赤城駅まで行き、東武桐生線経由で帰途につく。

(天気 晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 渋川、鼻毛石、大胡、歩行地 前橋市、
 累積標高差 上り約130m、下り約340m、歩数 24,900)




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赤城山南麓を2日間カントリーウオーク(群馬) 第1日

2013-10-29 13:31:24 | カントリーウオーク
 カントリーウオークグループの、「特別例会」と呼ぶ1泊2日のカントリーウオーク
で、赤城山の南麓、上毛電鉄沿いを歩いた。台風27号の接近が心配されたが、伊豆諸
島の東を通過して交通機関に支障はなく、予定通り実行することができた。

 
 2013年10月26(土)

 == 大間々から上毛電鉄沿いを西へ ==

 
 10時30分に東武佐野線の終点、赤城駅に集合する。風は無いが台風の雨が残って
いるので雨具を付け、10時47分に出発した。


 旧大間々町(おおまままち)中心街に通じる県道を北へ、すぐ先のT字路を左折して
細道を西に向かう。低い雲が次第に上がり、天神集落まで進むと、赤城山の一部が姿を
現した。


 県道73号に出て少し旧道を回り、ぼけ封じ観音のあるという龍真寺に入る。ねじれ
た黒松が、独特の幹を斜めに伸ばしている。本堂は簡素な造りである。


 ボタン寺としても知られているようで、境内には2500株のボタンがあるとか。い
まは季節外れで葉も落ち始めていた。


 その一隅に小さいお地蔵さんが雨に濡れ、近くにぼけ封じ観音が立つ。ぼけないよう
にお祈りして寺を出た。


 谷地田を横断して次の鏑木集落に入る。民家の屋敷林に、「鏑木のアラカシ」と呼ぶ
アラカシの古木があり、数本の幹から大きく枝を広げていた。


 その先、北側の高台にかやぶきのお堂が見えたので回ってみる。善昌寺の峯薬師堂で
そばの柿が、たわわに実を付けていた。


 善昌寺本堂は、さらに山すそを少し入ったところ。大同元年(806)の開基とされ
る古寺である。


 本堂の背後に回ると、覆屋の下に鎌倉時代の素朴な五輪塔が並ぶ。中央の大きいのは、
新田義貞の首塚と伝えられているという。


 傍らに「阿閼井明皇水(あかいみようこうすい)」と記された窪みがあるが、水は涸れ
ていた。


 十三塚集落を西に抜ける頃には、赤城山にかかる雲も少しずつ上がり次第に姿を広げ
てきた。標高223m標高点の西側、視界の開けた辺りからは、西に榛名山↓の独特な
山容が望まれる。


 雨はほぼ止んだが下は濡れているので、竹上集落を南下して12時42分に無人の新
里(にいさと)駅に入り、昼食の場とさせてもらう。

 駅構内には、役目を終えたらしい採石運搬用貨車が留置されていた。


 ここで今日の歩きは終える2人といったん分かれるので、駅前で記念撮影をして13
時20分に駅を後にする。


 新里中央小の南側の道に入り、再び西に向かう。元町集落を西北に抜け、西八幡宮に
背後から入る。周囲に民家は無く、社殿は杉に囲まれた静かな環境にある。


 境内から西に出ると、赤城山がはっきりと望まれるようになった。

 落花生を収穫中の畑の横を回って行くと、畑の中を貫く広い道が出来ている。南側の
森が山上城址で、その北側に前橋市粕川歴史民俗資料館が見える。


 手前の広いエリアは造成中で、記念公園でも造るのだろうか…。

 道路の北に目を転じると、広々とした畑の向こうに赤城山の山並みが一望できる。


 越後では見かける風景だが、関東では珍しい4段掛けの稲架(はさ)が二つ、畑の中
にあった。その先の水田で収穫した稲を運んできたものと思われる。



 近くの溜池の北側にあった中公園で、しばし休憩する。


 そばの鷺川の寺後橋を渡ると田園地帯となり、刈り入れ前の黄金色の田んぼが広がり、
ネギや大豆の畑も多い。


 粕川の手前の十字路際に、「曲田石造物群」の標柱が立ち、古い庚申塔やお地蔵さん
などが集められていた。



 川を渡り、宅廻集落の西南端の県道102号交差点際には、延享4年(1749)建
立で前橋市重要文化財の、高さ185㎝、馬頭観世音としては珍しい三面六臂(さんめ
んろっぴ)の姿の石像が立っていた。


 近接して立つ、笠かぶり地蔵尊も延享4年の造立とか。いずれも安山岩製で、この地
方に多い高遠石工の作と推察されるという。


 青空が広がってきたが西風が強まり、向かい風が少し冷たい。農家の点在する新屋
(あらや)の集落に入ると、風で波立つため池があり、その向こうに背の高い4基のサ
イロの並ぶ小泉牧場が見える。


 川東集落の近くを南西に回りこむ。周辺は牧草地が多く、牧草用トウモロコシの若葉
が、強まる風に揺れ動く。


 大前田町の東側で標識に従い南側の農道を進み、次の標識を右折すると、周辺には家
も無いひっそりした林の中に、前橋市指定史跡の大前田英五郎の墓がある。



 国定忠治と並ぶ上州の侠客として知られる大前田英五郎は、寛政5年(1793)に、
ここ旧大前田村に生まれ、父や兄の血筋を受けて博徒(ばくと)の大親分になり、地元
上州や関東、東海、甲州など全国に224か所の縄張りを持っていたとされるという。


 赤城連峰を望む牧草地の間を南下して、無人で片側ホームだけの上毛電鉄北原駅に
15時38分に着いた。

 15時45分発上り電車で終点の中央前橋駅まで行き、近くの今日の宿、前橋さくら
ホテルに入る。

(参加 14人、天気 雨後晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 大間々、鼻毛石、
 大胡、(桐生)、歩行地 桐生市、前橋市、歩数 22,000)




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所沢市役所市民ホールで所沢市連合菊花展(埼玉)

2013-10-28 18:49:49 | 所沢だより
 2013年10月28日(月)

 一昨日と昨日は、群馬県・赤城山麓へカントリーウオークに出かけましたが、そのレ
ポートは明日以降とし、今日の市内ウオーキングで所沢市役所に回ったら開催していた、
「第51回所沢市連合菊花展」の模様を報告します。




 所沢市役所1階の市民ホールには、市内の菊愛好家が手塩にかけて育てた鉢植えの菊
が、たくさん並んでいました。


 埼玉県知事賞、所沢市市長賞、所沢市教育長賞ほか、優秀作品には賞が贈られます。




 こちらは細花の菊、繊細できれいな彩りです。
 





 小さめながら懸崖の菊も。でも花の盛りはこれから。


 背丈の低い菊の作品も、結構並んでいました。








 対照的な花の形、何という種類なのか私には分かりません。




 盆栽仕立ての花も何点かありました。




 2階への回り階段から見下ろすと…。




 入賞者に送られるカップも並んでいます。


 この催しは、毎年秋恒例の「第59回所沢市文化展」の一環として開催されたもので、
会期は明日、10月29日(火)までのようです。




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飯能の歴史散歩ウオーキングへ(埼玉)

2013-10-25 21:58:28 | ウオーキング
 2013年10月24日(木)

 台風27号の影響で雨が気がかりだったが、所沢・山里探訪会主催の「第8回とことこ
漫歩」と呼ぶウオーキングに参加した。今日の目的は「飯能(はんのう)の歴史散歩」で
ある。


 西武池袋線の飯能駅に10時に集合したのはおよそ30人。山里探訪会の代表、飯野さ
んからコース説明があり、10時10分に出発した。

 駅北口から真っ直ぐに伸びる繁華街を北へ、国道299号線に入って西武鉄道の踏切を
渡る。国道299号バイパスとの交差点際に、二つの大きな看板があった。


 北側の中山集落一帯は、武蔵七党のひとつ丹党(たんとう)出身の中山氏ゆかりの地で、
飯能発祥の地でもあるという。

 バイパスの北を東西に走る、秩父往還・吾野(あがの)道に入って東へ。近くには、千
木(ちぎ)の上がった歴史ありそうな民家も残っていた。


 次の角を北に入り、まずは加治神社へ。加治神社は中山氏の創建で、明治2年(1869)
に聖天社が改称されたと考えられるとか。明治40年(1907)に村内各社を合祀(ご
うし)して、中山の総鎮守社としたという。


 カシの続く参道の両側に、高さ1.75mの石灯ろうが並ぶ。もとは近くの智観寺境内の
丹生明神にあったが、合祀の際に社殿とともに移されたようで、寛永19年(1639)
の造立らしい。


 本殿の西側斜面には、江戸時代の書家だった本橋氏の大きな筆塚↓と記念碑が並び、境
内南側には、中山集落の山車蔵(だしぐら)がある。


 山際の道を西へ、「彩の国みどりの基金」を活用して再生した林の前を通過する。その
先、少し下った住宅地の一角に、「県史跡・中山家範館跡(いえのりやかたあと)」の説
明板が立ち、館の土塁がわずかに残っていた。


 中山氏は、武蔵七党・丹党の加治氏の出身。この地中山に居を構えた後、中山氏を名乗
り、当初は上杉氏に属していたとか。川越夜戦で上杉氏が敗れた後、中山家範は北条氏照
の重臣になり、北条氏が豊臣軍の攻撃を受けた際には、小田原の支城、八王子城を死守し
たという。

 近くを流れる丹荘堀を渡り、本堂の背後にある智観寺の墓地へ。本堂に近いエリア一帯
は中山氏の墓域で、築山の上に高さ3mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立つ初代中
山信吉の墓を中心に、47基の墓がある。


 智観寺は、元慶年間(877~885)に中山氏の祖、丹治武信が創建したと伝えられ、
その後火災や慶応4年(1868)の飯能戦争で焼失したが、明治9年(1876)に再
建された。


 中山信吉は徳川家康に取り立てられて側近として重きを置かれ、また水戸藩の付家老
(つけがろう)となり常陸松岡藩2万5千石の領地を持ち、以後中山家は代々、水戸藩の
付家老として活躍したという。


 ご住職から、中山氏のことを中心に飯能戦争や戦後の困窮期にいたるまで、寺の歴史を
詳しく分かりやすく、時にユーモアも交えてたっぷり伺う。

 3日後の10月27日(日)には境内の宝物館が公開され、県文化財などの貴重な資料
を拝観することが出来るという。

 山門を出て、秩父往還・吾野道を西進する。国道299号バイパスを横切り、西武池袋
線のガードをくぐって飯能一小の北側へ。

 そばの公園に、「ナンジャモンジャ」と呼ぶ大樹が立っている。ナンジャモンジャは、
モクセイ科のヒトツバタゴを呼ぶことが多いが、この木はクスノキ科のカゴノキとのこと。


 通りの北側には、飯能特産の木材を豊富に使った、新しい市立図書館が出来ていた。



 市民会館の北側にある中央公園に12時7分に入る。園内に世界で一つという鉄腕アト
ム像があり、1983年の落成式には手塚治虫氏も来て除幕したことが記されていた。


ここで昼食となり、ポチポチ雨が落ちてきたので、屋根のあるベンチやフジ棚の下などで
弁当を広げた。

 昼食を終え、交差点を挟んで公園の北西側にある能仁寺の山門を入る。能仁寺は、文亀
年間(1501~4)に扇谷上杉氏の重臣、中山家勝が創建したとされ、その子家範が父
の菩提をともらうため大寺として興隆に導いたという。


 天正19年(1591)には徳川家康から五石の朱印地を与えられ、五代綱吉のときに
五十石に加増されたとか。それに力を尽くしたのが、家勝から4代後の中山直張の子で、
黒田家の養子になった直重、後の直邦という。

 本堂の左手から背後の斜面を上がった墓地に、↓自然石に刻まれた中山家範の墓を挟み、
上に父家勝、下に子の照守3代の墓があり、周囲にも中山家の墓が並んでいた。


 能仁寺は、幕府の大政奉還に反対して結成した彰義隊と分かれて結成した振武軍(しん
ぶぐん)の本陣が置かれ、慶応4年(1868)5月の飯能戦争の最後の戦場になったと
ころ。開山堂の前には、そのことを記した「振武軍の碑」が立っていた。


 よく手入れされた木々の広がる境内にはモミジの古木が多く、晩秋にはその彩りが見事
だという。


 中央公園に戻り、市民会館の南側にある飯能郷土館に向かう。西側道路際には、若山牧
水が大正9年(1920)に飯能を訪れたときに読んだ、「しらしらと 流れて遠き杉山
の 峡のあさ瀬に 河鹿鳴くなり」の歌碑がある。



 飯能郷土館に入り、学芸員の方から飯能の地形や歴史、産業などの説明を聞く。さらに
飯能焼↓、幕末の飯能戦争のことなどもうかがい、その後、少しの時間自由観覧する。


 企画展示室では、特別展「飯能方面湖水の如し」というテーマで、明治43年(1910)
8月の水害模様や、飯能市域の災害記録、関東大震災の模様などが展示されていた。


 観覧を終わり館を出ると、中央公園の北側に天覧山が望まれる。


 市民会館の東に回り、諏訪八幡神社へ。創立は永正13年(1516)で、安永年間
(1772~80)に火災で焼失したが、その後再建されたという。



 境内には、古くは羅漢山(現在の天覧山)山頂にあったのを元禄年間(1688~1704)
にこの地に移したという小さめの社殿の丹生神社↑があり、夫婦円満で知られる、杉を抱
えたご神木の丹生樹(たんしようじゆ)と呼ぶカシの古木が立っている。


 地元の俳人吉良蘇月の「稲架取れて 野に幻想の 獅子の笛」と刻まれた句碑もある。

 杉などの繁る林間の谷間を回った東側の観音寺に行く。弘法大師の草創と伝えられる寺
で、江戸時代には高麗郡三十三か所霊場十番札所として庶民の信仰を集めたとか。本堂に
は、西国、坂東、秩父観音霊場の本尊写しを合わせた百観音が安置されているという。

 境内にある二つの手水鉢のうち小さい方は、「筏衆連中、嘉永2年(1849)」と刻
まれた珍しいもの。


 鐘楼のような覆屋には、白象の像が立っていた。新しい庫裡のそばには、水原秋桜子の
「むさし野の 空真青なる 落葉かな」の歌碑がある。


 東側のT字路に出て、車返しの坂と呼ぶ入間川左岸沿いを上流に進む。


 飯能西中の校庭前を過ぎ、民家の間を入ったところに小さい赤鳥居が立つている。

 本郷大六天神社で、小さい社の背後にシラカシの古木が立ち、その幹に取り込まれるよ
うに2基の板石塔婆が並ぶ。

 阿弥陀三尊のほかに銘も年号もないが、鎌倉時代のものとされ、畠山重忠の墓と伝えら
れているようだ。

 ここで今日巡る行程は終わり、駅に向かう。南側の車道に出ると、臼や木鉢、麺板、水
車など木製品の店があった。


 小雨模様で、上流の山の霞む岩根橋を渡る。眼下の木々の一部には紅葉が始まっていた。


 東進して下流の割岩橋を渡る予定だっが工事中で通行止め。上流、飯能河原にかかる冠
水橋から朱塗りの割岩橋を眺め、左岸に戻る。




 車道に上がって真っ直ぐに東進して、14時52分に飯能駅にゴールした。

(天気 曇後小雨、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 飯能、歩行地 飯能市、歩数
 13,300)




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続カタツムリ歩行 西武池袋線 清瀬駅(東京)

2013-10-20 18:33:16 | カタツムリ歩行
 2013年10月20日(日)

 一日中雨の予報だったが、「続カタツムリ歩行」の第8回例会に出かけた。集合地は西
武池袋線の清瀬駅。

 雨具を付けたメンバーと10時15分頃、駅北口をスタートした。

 駅前ロータリーには、きれいに飾り付けた花の盛り鉢が幾つか置かれている。


 東側のビルのウィンドウに、粉をこねるときに使う寄せ木造りの鉢が並んでいた。


 東方からから少し迂回して、今日は「きよせ市民祭り」を開催中という、駅前から北に
伸びるけやき通りに回る。

 その名の通り、ケヤキ並木の続く通りにはテントが並び、雨でも結構市民が訪れていた。

 駅に近いテントでは、地元産の農産物を安価で販売している。


 ちなみに、きよせ市民祭りは今年で34回目、このけやき通りでは12回目という。


 最初の交差点付近では、開会式の挨拶が続いていた。


 「清瀬の雑木林を残そう」という活動をしているライオンズクラブのテントをのぞく。


 募金に協力すると、手造りのカブトムシや竹とんぼ、カタツムリなどの中からひとつも
らえるという。ささやかな募金をして、今日の歩きのグループにふさわしいカタツムリを
いただいた。



 志木街道との交差点でけやき祭りのテントは終わったので、右折して志木街道に入る。

 小さい駐車場に、スバル360など、かなり年代物の中古自動車が並んでいた。


 この街道沿いには、けやき通りより古木のケヤキ並木が続いている。



 沿道の両側には江戸時代から住み続けていると思われる農家が多く、土蔵のある家が幾
つもあり、りっぱな門構えの家も見られる。



 民家の庭先では、カリンが色づき始めていた。


 街道の北側にあった、広い境内に緑の豊富な日枝神社に入る。


 境内西側に、御嶽講の講中でつくったと思われる小山があり、上に小さいお社が設けら
れていた。


 正面奥には二つのりっぱな社殿が並び、こちらは左側の社殿。



 境内には、少し早いが七五三詣での家族連れがたくさん訪れ、テントで待っていた。


 申し込んだ時間が来ると呼び出しがあり、それらの家族は右手の社殿に入っていた。

 こちらが本殿で、石段には宝暦9年(1759)と刻まれていて、その頃の建立と推定
されているという。

 本殿の南側の小さい建屋に「三猿の石灯籠」と呼ぶ、「見ざる」「聞かざる」「物言わ
ざる」の三猿が刻まれた2基の石灯籠があり、ひとつは寛文4年(1664)、もう一つ
は宝永7年(1710)の造立と刻まれているようだ。


 その横には境内から集められたのか、より大きな石灯籠も並んでいた。


 すぐ先、街道の南側に地蔵堂があり、高さ2m以上もある大きなお地蔵さんが祭られ、
「子育て安産守護地蔵尊」ののぼりが並ぶ。


 その横を入ると、木々は少ないがりっぱは本堂の全龍寺である。

 全龍寺は、武蔵野三十三観音霊場の第六番札所。私は、以前ご開帳の年などに訪れたこ
とがある。


 本堂前には新しい仁王像が建ち、駐車場近くには、十六羅漢像が並んでいた。


 その先で志木街道に分かれ、白菜やサトイモなどの畑の間を南進する。


 清瀬駅方面に通じる広い通りの都道40号・志木街道バイパスに出て、東側の交差点を
回って気象衛星センター前を通過する。


 西側に隣接するゴールの神山公園に11時40分に着いた。雨は止まないなので公園の
北側にある清瀬市児童センター(ころぽっくる)に入り、1階のテーブルと椅子を借りて
昼食をさせてもらった。

 児童センターには、雨にもかかわらず多くの児童が家族とともに来て利用しており、か
なり有効に活用されていることがうかがい知れる。

 食事を終えて記念撮影をして、いつもより早めの12時半過ぎには解散となる。志木街
道バイパス経由で清瀬駅に戻り、13時4分発下り電車に乗り、13時半には帰宅した。

 雨だったので解散後の寄り道、回り道もしなかったので、いつも早く帰宅できるカタツ
ムリ歩行でも、こんなに早い帰宅は初めてのことだった。

(天気 雨、距離 4.5㎞(ゴールから清瀬駅までを含む)、地図(1/2.5万) 志木)




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谷中、根津神社、上野公園を巡る(東京)

2013-10-19 21:55:46 | 江戸・東京を歩く
 2013年10月18日(金)

 最近解散した地図愛好者グループのNさんと、谷中(やなか)周辺の街歩きをすること
にした。JR日暮里駅に集合し、10時30分に北口をスタートする。

 まずは駅を出て西へ、谷中銀座への通りのすぐ北の、本行寺の山門を入る。

 木々の多い境内に、小林一茶の↓「陽炎や道灌どのの物見塚」句碑、種田山頭火の句碑、
太田道灌の物見塚の碑などがある。


 西隣は谷中七福神大黒天の教王寺(きょうおうじ)。

 明暦元年(1655)の建立で、慶応4年(1868)の上野戦争のとき、敗走した彰
義隊士をかくまったため新政府群の攻撃を受け、山門にはその時の銃弾の痕が残っていた。


 十字路を挟んで西側の延命院は、四代将軍徳川家綱の乳母、三沢局(みさわのつぼね)
により慶安元年(1648)の開創。


 天保7年(1836)の「江戸名所図会」にも描かれた推定樹齢600年、東京都天然
記念物のシイの古木が立っている。


 
 少し先の「夕やけだんだん」と呼ぶ坂を下ると、谷中銀座商店街。

 約170mにわたる狭い通りの両側には惣菜、菓子、パン、肉、菓子など60前後の店
が続いている。

 商店街の入口、「茶遊亭」と呼ぶ銘茶と菓子の店頭に積み上げたこれは、玄米シューク
リーム。Nさんがひとつ買おうとしたが、まだ開店準備中だった。


 飴(あめ)屋さんの壁面には、近辺の古い社寺などの切り絵が並ぶ。



 通りは観光客などで結構賑わっている。ここには著名人も数多く訪れるようで、かりん
とうの店の看板や肉屋さんに並ぶサインに、その人気の一端が知れる。


 T字路に出て「よみせ通り」を南へ、千駄木駅近くで東に入ると、突き当たりが岡倉天
心記念公園。

 日本美術院を設立した明治時代の美術界の指導者、岡倉天心の旧居跡を公園にしたもの
で、六角堂には天心像が祭られていた。


 公園の南側の路地を入り、突き当たりを右折した上り道は蛍坂(ほたるさか)と呼ばれ、
江戸時代はホタルの名所だったとか。いま左手は、墓地のがけを保持する無粋なコンクリ
ート擁壁(ようへき)が続いている。

 坂を上がり左折すると、台東区のまちなみ賞に選ばれ江戸時代の面影を残す、観音寺の
長い築地塀(ついじべい)が残っていた。

 観音寺は、慶長16年(1611)の創建という。

 すぐ先の十字路を右折して南に向かう。そばの長安寺の墓地には、岡倉天心や米人フェ
ノロサなどの日本画復興運動に加わったという明治初期の日本画家、狩野芳崖(かのうほ
うがい)の墓がある。


 鎌倉時代の板碑3基と室町時代の板碑1基があることも門前に記されていたが、見つか
らなかった。

 通りの両側は寺院が続く。その一角に、江戸時代建造の3階建て土蔵造りの質屋を活用
した「すぺーす小倉屋」と呼ぶギャラリーがある。


 入館すると、近年亡くなったこの家のおばあちゃんが、写真やメモ無しで思い出して描
いたという、大正や昭和年代の近辺の風景の絵が展示されていた。


 寺町の終わる上野桜木交差点際には、谷中六丁目から移設した旧吉田屋酒店の建物を活
用した下町風俗資料館付設展示場がある。

 建物は、明治43年(1910)に新築し、昭和61年(1986)まで使われたもの
とか。開け放たれた内部に、吉田屋酒店で使われた道具やポスターなどが展示されていた。


 正午を過ぎたので、この辺で昼食とする。交差点の西側にあるカヤバ珈琲店のランチが
お勧めとのことで、外で少し並んで待つ。

 ランチメニューは4種類で、すべて900円。2階の和室に上がり、コーヒー付きのハ
ヤシライスを美味しくいただいた。

 来た道を谷中霊園入り口まで戻り、ぎんなん通りの南側の細い通りを西に進む。

 突き当たる辺りには、昭和をしのばせる古い木造民家の並ぶ一角が残っていた。



 T字路を南下する途中の長久院の本堂前には、脇侍(わきじ)を従えた石像の閻魔(え
んま)像がある。

 六十六部聖の光誉円心(こうよえんしん)という人物が、享保11年(1726)に造
立したもの。

 都内に現存する六十六部聖造立の石仏は地蔵菩薩像が圧倒的に多く、円魔王像は極めて
まれだという。

 次のT字路を西へ、「繪処」という看板の下がる建物があった。

 自由に観覧できるというので入ると、芸大で学んだというアメリカ人の日本画屏風絵師、
アラン・ウェスト氏の屏風絵などが並ぶ画廊で、大小たくさんの絵を、5000円から
450万円までの値で販売していた。

 すぐ先のY字路際に、みかどパン店という古くからの店があり、二つの道路に挟まれた
狭いところに、谷中のシンボルとして知られる、枝をたくさん伸ばしたヒマラヤスギの古
木が立っている。

 パン店の初代店主が植木鉢で育てた木で、台東区の保護樹木に指定されていて、映画や
ドラマ、小説、雑誌などに数多く紹介されたようだが、昨年3月にこの地が売却され、伐
られる可能性があるとのこと。谷中地区の町会などが木を守る活動を続けているようだ。

 南西に少し進むと、三浦坂と呼ばれる急坂がある。


 坂を下らず北西に向かう辺りは、勝山藩(現在の岡山県)の下屋敷跡。その一角に都心
とは思えぬ緑豊富なお屋敷があり、「大名時計博物館」の古い看板が掛かっていたので観
覧することにした。

 この地に住んでいた陶芸家の上口愚朗氏が収集した江戸時代の大名時計をはじめ、外国
製時計、掛時計、櫓時計、印籠時計、香盤時計など初めて見る貴重な時計がたくさん展示
されていた。中には、東京都有形文化財に指定されたものもある(入館料300円、展示
品の撮影は禁止)。


 ひとつ西側の通りに回り、やや広いあかじ坂を下って、東京メトロ千代田線が地下を走
る不忍(しのばず)通りを横断して、根津神社へ。

 翌日、10月19日(土)と20日(日)には「第15回根津・千駄木下町まつり」が
開催されるようで、境内には露店が多数並ぶが、今日は閉ざされていて営業はしていない。

 根津神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)の創建と伝えられ、五代将軍徳川綱吉が、
この地で誕生した六代将軍家宣(いえのぶ)の産土神(うぶすながみ)として宝永3年
(1706)に千駄木にあった社を移し、権現造りの社殿を造営したという。


 露店の間を進んで朱塗りの山門をくぐり拝殿に参拝し、境内の神楽殿などを眺め、小休
止した。


 不忍通りに戻って南東に進み、東京メトロ根津駅南側付近で左に入る。


 池之端児童遊園地は、かつて都電池之端七軒町停留場跡。そこに都電7500形の
7506号車が保存展示されていた。


 上野公園に向かって東進する。公園の台地西側下に森鴎外旧居跡の説明板があり、現在
は「天然森鴎外温泉」のビルになっていた。


 台地下を少し南に回り、大鳥居をくぐって石段を上がり、徳川家康と吉宗、慶喜の三代
将軍を祭る東照宮に参拝する。

 藤堂高虎が家康の遺言により、高虎の敷地であるここに寛永4年(1627)に本宮を
造営したが、将軍家光はその建物に満足できず、慶安4年(1651)現在の社殿を造営
替えしたとのこと。

 近年、大修理が続いていたがほぼ完成したようで、周囲の壁面付近だけが白幕に覆われ
ていた。そばの五重塔も初重の屋根のみ、覆いが被されている。


 境内の一角には、昭和20年(1945)8月に広島に投下された原爆で炎上した伯父
の家の火を故郷に持ち帰り灯し続けたという、福岡県の山本達雄さんの火と、長崎の原爆
瓦からとった火と合わせて点火し続けている「広島・長崎の火」のモニュメントがある。


 公園の真ん中を東に抜けて、JR上野公園の公園口に15時34分にゴールした。

 Nさんと私が各々用意した幾つかのガイドブックから拾った、この近辺のルートは10
近くあり、今日回ったのはその中のほんの一部。谷中銀座のユニークな店、寺町のたくさ
んの寺や幾つものミニ博物館など、まだ回ってみたいところは数多くある。また機会を作
って歩いてみたい。

(天気 晴後曇、距離 5.4㎞、地図(1/2.5万) 東京首部ほか、歩行地 荒川区、
 台東区、文京区、歩数 11,700)




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奥武蔵の山懐、毛呂山町周辺をカントリーウオーク(埼玉)

2013-10-15 18:25:20 | カントリーウオーク

 前回アップした「ところざわ祭り」と日にちが前後しますが、その1日前のウオーキン
グレポートです。

========================================

 2013年10月12日(土)

 東京では、気象庁が記録を取り始めて以来最も遅い真夏日となったこの日、カントリー
ウオークグループの第207回例会に参加した。県内でもところにより30℃を超す暑さ
という予報である。

 集合は西武池袋線の武蔵横手駅。10時3分にスタートした。


 == 林間を北向地蔵から鎌北湖へ ==

 
 県道299号を少し戻り、「五常の滝」の標識に従い北への細い林道へ。山下集落を抜
ける辺りに、スダチやユズなどの無人販売かごが置かれていた。


 集落を抜ける頃から杉を主とする針葉樹林下になり、五条の滝からの流れの右岸沿いを
緩やかに上がって行く。日射しが遮られて暑さが和らぎ、せせらぎの瀬音が気持ちよい。


 杉の木に巻き付けられた滝への標識に従い、車道から左岸への土の道へ。すぐに一本橋
があるが腐りかけているので、横の石を飛んで対岸に回る。


 5分足らずで五常の滝の直下に着いた。垂直に近い岩の斜面から滝が落下している。水
量はそう多くはないが落差は12mあり、結構見栄えがする。


 右岸の斜面に小さいお堂があり、五常の滝不動尊が祭られている。その横から林道に戻
った。


 すぐ先のY字路から左の土山集落への道に入るのだが、ここで小休止する。途中で追い
抜いた、ノルディックウオークのグループが着いたので出発した。

 さらに杉やヒノキの林間を進む。これは何の実だろうか…。幾つか見つかった。


 集落の上部からは斜度が緩んで右に回り込み、車道や奥武蔵自然歩道が横切る峠に着く。


 北向地蔵堂があり標高は377m、武蔵横手駅から約260m上がってきたことになる。

 地蔵堂には3体のお地蔵さんが祭られ、その横に「佛心」と書かれた小さい鐘が下がっ
ている。

 天明6年(1786)に流行した悪疫を防ごうと、野州(栃木県)岩舟地蔵尊から分身
を譲り受け、北の岩舟地蔵に向いて立っているので北向地蔵の名で親しまれているという。

 地蔵堂の横で小休止し、鎌北湖への下り道へ。こちらも針葉樹に覆われ、傾斜も緩くて
歩きやすい。


 上空に送電線が近づいた辺りで、樹林が切れて東側の展望が開けるが、暑さでやや霞ん
でいる。舗装した林道を横切り、さらに杉などの樹林下を進み、12時20分に鎌北湖の
東南岸に下った。



 湖面には大きなヘラブナらしい群落が回遊するのが見られ、湖岸の大きなクサギがいっ
ぱい実を付けている。


 湖畔のあちこちにはかなりの釣り人が糸を垂れ、時々大きなのを釣り上げる。


 湖に少し突き出た、モミジと歌碑のそばに腰を下ろして昼食にした。





 == 秋色の里道を新しき村へ ==


 湖岸の東側、犬魂碑↓が祭られ隣に釣具店の建物のある広場でミーティングをして、
13時3分に出発する。


 ちなみに鎌北湖は、昭和10年(1935)に完成したかんがい用の溜池で、当時は山
根溜池と呼ばれ、有効水面積3.8㏊、計画貯水量は30万立方mという。

 このことを記した説明板の横から鎌北湖東岸の堰堤(えんてい)を下ると、「一級河川
大谷木川起点」碑が立っていた。


 眼下の流れをのぞくと、こちらにもヘラブナらしい姿が見える。


 大谷木川沿いも杉を主とした樹林下で、斜度もわずかでせせらぎを聞きながら快適に進
める。


 字も読めないこけ生した石碑が並ぶ一角を過ぎると、林を抜けて田園地帯に出た。

 谷地田に、まだはさ掛けが残り、近くの畑の柿が色づいている。


 脱穀のためにはさから稲束を外している田んぼもあり、わずかな大谷木の民家がその向
こうに望まれ、ニッポンの秋を感じるのどかな農村風景が広がる。


 だが今日は、気温が上がって30℃近いだろうか…。この暑さだけが残念なところだ。


 炭焼き釜や色づき始めたユズの木、アケビの実る畑などの横を進む。


 柿畑の中にたくさんコスモスが咲いていた。ここでもう一度記念撮影をする。



 間もなく毛呂山町(もろやままち)総合運動公園に着き、暑さを避けてフジ棚に覆われ
た東屋で休憩する。


 5年前の例会で記念撮影をしたゴジラ像の頭を撫で、公園を離れた。


 サッカー練習中のグランドを南から見下ろし、奥武蔵の山並みをふり返りながら公園の
東に出た。


 近くに、いまが見頃なコスモス畑が何か所かあり、それらの間にはソバ畑の白い花も望
まれる。


 車道を離れて南側の旧道や林間の細道を抜け、県道30号を横断して葛貫集落へ。造成
工事中の横から県道バイパス下を抜けて、JR八高線(はちこうせん)の踏切を越える。

 すぐ先が、昭和14年(1939)に武者小路実篤と同志が理想郷を目指して宮崎県か
ら移転してきた、「新しき村」である。


 近年は村内生活者が減り、あわせて高齢化が進んで農業収入の低迷もあり、村の運営は
厳しくなっているようで、人気(ひとけ)も無く活気が感じられない。


 村の中ほどにある売店では、ここで生産された卵や米、シイタケ、干しナスなどをわず
かながら販売していた。


 日射しを避けてそばの東屋で休憩する。隣は新しき村美術館だが、入館者は見られない。

 村の東側の林を抜けて、まだ黄金色の稲穂が広がる谷地田に出た。刈り入れ中の田んぼ
もある。


 戸建て住宅の並ぶ北側の毛呂山団地に上がり、武蔵野霊園の東を回り、ゴールの東武越
生(おごせ)線の武州長瀬駅に15時25分に着いた。

 帰路の途中、16時近い東武東上線川越市駅の気温は30℃に近かった。

(参加 11人、天気 快晴後晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 飯能、越生、
 歩行地 日高市、毛呂山町、坂戸市、累積標高差 上り約410m、下り約460m、
 歩数 21,700)




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快晴に恵まれた「ところざわ祭り」

2013-10-13 22:09:58 | 所沢だより
 2013年10月13日(日)

 絶好のシーズンなので、ウオーキングに出かけることが多くて、見る機会の少なかった
「ところざわ祭り」ですが、今年は予定がなかったので、久しぶりに出かけました。



 幾つかのパレードのトップは、鼓笛隊やバトン、武者行列など。パレードのゴール地点、
所沢駅前に着いたのはもう終わりの時間に近く、すでに多くが到着していて、幾つも見る
ことが出来ませんでした。




 こちらは、最後尾の滝の城鉄砲隊。

 滝の城は、市の東部にある古城の名前です。

 いつもは入れぬ駅前の車道も、今日は車を遮断して歩行者が自由に通れます。


 スーパーダイエーの前には、祭りの主役の1台、御幸町の山車が。


 ダイエー前のファルマン通りから銀座通りに進むと、所沢音頭を踊るグループが幾つか
通過しました。こちらは市役所のメンバー。




 太鼓のグループの熱演。


 通りの南側には、たくさんの露店が並んでいます。


 本町の山車。


 露店の先にはフリーマーケットも。


 14時過ぎには、所沢銀座サンバカーニバルが始まり、幾つものグループが次々にやっ
てきましたが、激しい動きでなかなか良いシャッターが切れません。






 寿町の山車。


 高層マンション前の舞台では、所沢の伝統芸能「重松流(じゅうまりゅう)祭りばやし」
の演奏中。




 祭りのメイン、16時からの山車10基の引き回しが近づき、ダイエー前には近くの町
内の山車が集結を始めました。




 もう一度銀座通りに向かいます。


 こちらの高層マンション前の広場では、太鼓のグループの熱演が始まりました。




 人出も増え、賑わう露店。


 以前、市役所があった元町コミュニティセンター付近には、西側の町内の山車が集結を
始めています。

 所沢市の有形文化財になっている有楽町の山車。





 そばの元町交差点付近に、6台の山車が集まりました。








 16時になり、集まった山車は1基ずつ、ダイエー方面に移動を始めました。



 
 このあと、近接した2基の山車がお囃子を競う、「ひっかわせ」と呼ぶ競演が見もので
すが、それは次の機会として、私は家路につきました。




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台風24号が過ぎてあかね雲に(埼玉・所沢)

2013-10-09 18:27:03 | 所沢だより
 2013年10月9日(水)

 台風24号が日本海を東北に進んだため、今日はわが家周辺も1日中、東からの風が強
く吹き荒れました。

 夕方になって幾分風も治まり、西の空は夕焼けのあかね雲が広がりました。




 気がついたのが遅かったので、広い場所に行く時間が無く、あわてて自宅2階のベラン
ダに上がって撮ったものです。


 なんだか奇怪な雲の塊。




 幾重にも流れる雲の層。




 時刻は17時30分頃でした。






 今日はまだ蒸し暑かったのですが、すっかり日没時間が早くなり、秋は駆け足でやって
きそうです。
 




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所沢航空記念公園にも秋の気配が(埼玉)

2013-10-07 16:59:40 | 所沢だより
 2013年10月7日(月)

 今日は日中、25℃以上に気温が上がり、ウオーキングをしているとかなりの汗でした
が、市内の木々は、少しずつ秋の彩りに変わっています。

 午前中の市内ウオーキングで、所沢航空記念公園に回りました。久しぶりに東側の入口
から入ると、そばの大きなキンモクセイが、枝いっぱいに花を見せていました。


 でも、あのキンモクセイの香りはあまり感じられません。香りの盛りは過ぎたのでしょ
うか。


 緩やかな坂を下って池のそばまで行くと、対岸の木々はわずかに、彩りを変えつつあり
ます。




 その木の下には、10数羽のカルガモがゆっくりと泳いでいました。春に生まれた小ガ
モも成長して、仲間入りしているかもしれません。


 公園の南側、子ども達の遊園地の周辺には何本かのアメリカハナミズキがあり、木々に
より少しずつ彩りを変えてきていました。




 わずかな数ながら実もついています。




 近くのモッコクには、たくさんの実が。


 公園の南側を走る国道463号線の歩道にも、何本かのアメリカハナミズキがあり、こ
ちらも花盛りでした。







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