あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

関東山の辺の道⑭ 足利から太田・三枚橋駅まで(栃木・群馬)【続き】

2015-04-25 13:16:55 | 関東山の辺の道
 2015年4月22日(水) 〈続き〉

 足利市の中心部を東西に抜ける県道67号・中央通りの通六丁目にも、古い商家がわず
かに残っていた。


 市街地が終わる通七丁目の、山すそに見えた三宝院に寄る。


 豪壮な本堂の前に、花をいっぱい付けたモミジが新緑の彩り。


 墓地には、佐野唐沢城主藤原秀郷の子孫、足利五郎藤原行国の墓があるようだが、探す
のは止めて先に向かう。

 近くの常念寺は、コンクリート造りの本堂が台地の斜面にたち、傍らに幼稚園がある。

 足利七福神の毘沙門天が祭られていて、何年か前の正月に、七福神めぐりで参拝したこ
とを思い出す。

 創建は平安末期の康治2年(1143)と伝えられ、時宗の宗祖一遍上人(いっぺんし
ょうにん)が遊行中に荒廃した寺の再建に尽力したとか。境内には一遍上人像が立ってい
た。
        

 その先は、県道の南に平行する車の少ない旧道を進む。JR両毛線と交差するところは
いったん県道で越え、再び旧道に戻り、近くの大手神社に寄る。

 祭神は、天岩戸(あまのいわと)開きの神話で知られる天手力男命(あまのたじからお
のみこと)。こぢんまりした開放的な境内で、社殿両側のケヤキのほかに木は少ない。

 人間の手の神様として尊敬され、手を病む人や手の上達を願う者の祈願神のようで、手
の型を描いた絵馬がたくさん奉納されていた。
    

 南側に、渡良瀬川左岸河川敷にあったらしい足利競馬場の広い敷地が残り、その一角に
できた足利赤十字病院の大きな建物が見える。

 さらに旧道を進んで、町田集落の八雲神社の横を過ぎる。


 集落の西で県道に出て、北関東自動車道の下を抜けて南側の鹿島町に入り、12時17
分に鹿島神社に着いた。


 境内南側の木立の下は児童遊園地になっている。そばの、円筒状のコンクリート塊がた
くさん集められたところで昼食とした。


 12時45分に神社を後にして、集落の中を南東に進んで渡良瀬川に架かる鹿島橋際に
出る。


 橋の近くの通りのハナミズキも満開の彩り。左岸堤防には、自転車も通れる歩道が設け
られていた。

 川の中ほどが栃木県と群馬県との県境。2006年4月24日、茨城県桜川市から栃木
県二宮町(現在は真岡市)に入ったが、毎年1日ずつしか、途中2年抜けた年もあり、
10年がかりでようやく栃木県を通過することができた。


 右岸、太田市側の斜面林は淡い新緑が広がり、上流に霞むのは赤城山だろうか…。




 堤防にはナノハナが咲き競う。



 橋際にあるそば処を横に見て、只上(ただかり)町で北関東自動車道の下を抜けて県道
65号を出て、静かな旧道に回る。



 広い麦畑の横を通過して、浄水場の先で国道50号を歩道橋で越える。


 その先、富若町には熊野神社があったので参拝した。


 社殿左手の盛土の上に、文久元年(1861)銘の小さな祠(ほこら)が祭られていた。

 集落の南端付近に、養蚕農家だったのだろうか、門構えの大きな民家が目に付く。


 小さい流れのところで、変則十字路を南西に真っ直ぐ伸びる道路に入る。物流センター
の前を過ぎると、行く手右手に金山城があったという金山(239m)が望まれる。


 国道122号を横断して東部消防署の横を過ぎ、山すその旧道を南西に進む。追分交差
点で国道407号に接し、さらに旧道を進んで熊野町に入り、無量庵に寄る。


 ちょうど東武伊勢崎線太田駅の北1㎞ほどのところだが、周辺は閑静なたたずまい。墓
地のそばのフジが、たくさん花を見せていた。


 台地下の旧道を群馬大の北側まで進む。南に突き出た台地の階段を上がると嵩山神社だ
が、石段の途中に「社殿焼失の為参拝出来ません」の立て札。さらに少し上がったが、階
段最上部にロープが張ってあったので上がるのは止めた。

    
 神社敷地の西側下部へ回ると、ツツジが色鮮やかに咲く。すぐ先でV字状に折り返して
北に伸びる道は、静かな住宅街を抜けている。


 300mほどで左折して、金山町を西進する。次の十路際に、山田屋という和菓子店が
あった。

 名物という焼きまんじゅうをひとつ注文し、温かいお茶とともにいただく。焼麩(やき
ふ)に醤油だれをつけたような感じで、フワフワした独特の味わいだった。
    

 太田といえば「吞龍(どんりゆう)さん」という名は、子どもの頃から知っていた。店
の人に聞いたら、この先寄る予定だった地図上の大光院だという。道理で、地図で市街地
や周辺を見ても、吞龍の字が見当たらなかったのだ。

 八瀬川沿いに出て住宅街を北に真っ直ぐ進むと、広い境内の大光院に突き当たる。

 「吞龍様」の名で親しまれる大光院は、慶長18年(1613)徳川家康がその祖とし
た新田義重を追善するために創建したとのこと。大光院は義重の法号だという。寺領は
300石で、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所「関東十八壇林」の一寺。

 初代住職に迎えられたのが江戸・芝増上寺の吞龍上人。吞龍は庶民教育に心をくだき、
生活困窮者の子供を弟子の名目で養育し、その高徳により「子育て龍」として信仰を今に
集めているという。


 吉祥門と呼ぶ山門を入ると正面に大本堂があり、その間に吞龍上人お手植えと伝わる、
樹齢約700年の「臥龍松(がりゆうまつ)」と呼ぶクロマツの老松が、昇天する前の巨
龍のように枝を低く広げている。


 左手には朱塗り鉄筋コンクリート造りの開山堂が、本堂に近い大きな堂于を見せる。堂
内には、吞龍上人自作の尊像が安置されているという。


    

 5月5日の花祭りを控え、境内には長いテントが幾つもつくられていた。当日の境内は
大賑わいになるのだろうが、今日は参拝者もまばらで閑散としている。

 寺を出て八瀬川左岸沿いに500m近く進み、田園地帯を真っ直ぐに貫く車道を北進す
る。

 途中にはもう穂の出た小麦畑もあり、東側山すそには三枚橋病院の大きな病棟が望まれ
る。


 長手町まで進んで左折し、東武桐生線の無人駅、三枚橋駅に16時8分に着いた。


 16時36分発東小泉行き上り電車で帰路につき、3時間15分ほどかけて20時近く
に帰宅した。

(天気 晴、距離 17㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、足利北部、上野境、
 歩行地 栃木県足利市、群馬県太田市、歩数 31,400)





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関東山の辺の道⑭ 足利から太田・三枚橋駅まで(栃木・群馬)

2015-04-24 18:27:05 | 関東山の辺の道
 2015年4月22日(水)

 関東平野の周辺部を反時計回りに歩き続ける私のオリジナルウオーク、「関東山の辺の
道」の14回目を、昨年10月以来半年ぶりに実施した。

 スタートは、前回にゴールした東武伊勢崎線の足利市駅。9時38分に出発する。



 駅北口から北側を流れる渡良瀬川の中橋を渡る。


 県道67号・中央通りには見頃になったアメリカハナミズキの並木が続く。



 通一丁目の角に、「足利まちなか遊学館」があったので入館した。足利は古くから「織
物のまち」として栄えてきた。

    
 展示コーナーには、結城紬(ゆうきつむぎ)を織る足踏織機、組紐をつくる組物機械↑
や、百年前の物というタペストリー↓など、織物ゆかりの品が展示されていた。
        

 その横を北に少しで、日本最古の学校で国指定史跡の「足利学校跡」へ(参観料420
円)。


 足利学校の創建は諸説があるようだが、歴史が明らかになるのは室町時代に上杉憲実
(うえすぎのりざね)が、現在国宝になっている書籍を寄進し、学長制度を設けるなどし
て学校を再興したころからとか。

 天文18年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより、「日本国中最も大にして、
最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、学徒3000といわれるほどになったという。

      
 入徳門を入って受付を済ませ、よく手入れされた松の間を進んで学校門↑を入ると、広
い構内に幾つもの建物が目に入る。


 イチョウやケヤキなどの新緑がみずみずしく、モミジもよい彩り。
    

    


 正面の孔子廟(こうびびよう)↑から南庭園↓、方丈(ほうじよう)、庫裡(くり)、
木小屋、東側裏手の土蔵や北庭園、さらに西北端の歴代学長の墓、収蔵庫などを一巡して
観覧した。


 こちらは方丈



 学校門を出て、そばの麦とろの店↑の横を西へ、足利織物や吊し飾りの下がる店の前を
通過して次の角を北に進む。


    


 右手には満開のヤエザクラ、フゲンゾウ(普賢象)や、茂右衛門蔵と呼ぶ安政5年
(1858)創建の土蔵↓があり、その先にも2階建ての土蔵と大きな古民家が残る。
      

 左手小さな空き地には、「征夷大将軍足利尊氏公像」が立っていた。
      

 その通りの突き当たりが、室町幕府を興した足利氏の居館跡で国史跡、市民からは「大
日さま」と呼ばれ親しまれている鑁阿寺(ばんなじ)である。


 平安後期、源氏の祖、八幡太郎義家の子の義国、その子足利義康(足利氏の祖)の2代
にわたり堀と土塁を築いて邸宅とし、尊氏から7代前の足利吉兼(よしかね)が鎌倉時代
初期の1190年代に、邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を設立したとのこと。


 約4万㎡あるという敷地の四方には堀と土塁を巡らし、東西南北にある橋を渡らないと
入れない。

 太鼓橋を渡り、永禄7年(1564)足利幕府13代将軍足利義輝の再建という仁王門
を入る。堀には大きなコイが泳いでいた。


 広い境内はケヤキやクスノキ、モミジなどの新緑にあふれ、本堂前のシダレザクラが咲
き残る。


       

 国宝の本堂は、正安元年(1299)の再建。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、
多宝塔、御霊殿などの七堂伽藍(しいどうがらん)を備え、東国の密教の代表的な寺とい
う。広い境内を一周して、それら堂塔を巡る。


      

 本堂前には、樹高31.8m、目通り8.3m、樹齢550年前後と推定され、縁結び
のご神木ともいわれる栃木県天然記念物のイチョウの巨木がそびえ立つ。
      


 校倉(あぜくら)の周辺でツツジが花開き、ヤエザクラも満開間近。
    


 西北にある2本のクスノキが大きく枝を広げ、モミジは、赤い小さな花をたくさん見せ
ていた。
    


 鑁阿寺を出て、北仲通を西進する。通の両側には、古い民家や商店、公衆浴場など、昭
和を感じさせる建物が残っていた。



 台地の中腹にある織姫(おりひめ)神社の下に来たが、足利学校と鑁阿寺の観覧に時間
をかけたので、神社に上がるのは止め、南側の中央通りに回る。通りのそばの織姫交番は
神社のようなつくり。


      
 そばの八雲神社の鳥居際には、高さ25m、目通り3.45mというイチョウの高木が
あり、境内の2本のケヤキも大きく背を伸ばして立つ。
      

 ---------------------------------------

 まだスタートして間もない距離ですが、写真枚数の関係でこの先は次項に続きとします。




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関東山の辺の道⑬ 佐野から足利まで(栃木)

2014-10-19 22:42:17 | 関東山の辺の道
 2014年10月17日(金)

 私のオリジナルウオーク、関東平野の外縁を反時計回りに歩きつなぐ「関東山の辺の道」
の13回目を1年1か月ぶりに実施した。スタートはJR両毛線と東武佐野線の佐野駅。
南口を9時13分に出発する。


 線路に平行する昇栄通りを少しで、交差する殿町通りへ。嘉永6年(1853)には、
佐野領主だった井伊直弼(いいなおすけ)が通ったという。

 万町交差点で県道67号・例幣使(れいへいし)街道に入る。通りには、江戸後期から
明治時代に建てられた見世蔵造りの商家が幾つか残る。




 さらに二つ南の通りに回り、観音寺へ。

 佐野七福神の大黒天の寺なので石造大黒天像が祭られ、その先のお堂に、寛文9年
(1669)に天明の3人の鋳物師による合作という、像高3.13mの銅造阿弥陀如来
座像が祭られていた。
        

 道路の斜向かいにある佐野市観光物産会館に入り、パンフレットを入手し草餅を求める。


 南側の広い敷地一帯は、佐野厄除け大師で知られる惣宗寺である。

 重厚な山門を入ると、新しいお堂に金ぴかな金銅大梵鐘が下がる。
        
 厄除元三慈恵大師の1千年を記念して建立され、直径1.15m、重量約2トンあり、
日本一大きな金の梵鐘だという。

 正面には、地元佐野市小中(こなか)町生まれで足尾銅山鉱毒被害を明治天皇に直訴す
るなど、人権の尊重と自然保護のために尽力した田中正造の墓がある。
        


 近くには朱塗りの鐘楼があり、右手正面に厄除元三大師を祭る大本堂↑や、新書院、佐
野東照宮↓など、きらびやかな建物が並ぶ。



 東照宮の唐門横から境内を出て、西に向かう。そばの交差点際には涅槃寺(ねはんじ)
があり、東側交差点近くに、天和2年(1682)に江戸、白金の松秀寺から勧請したと
いう、日限(ひぎり)地蔵尊が小さいお堂に祭られていた。
        
 日限とは、日を決めて願いをかければ必ずその日までに願いがかなうという、ありがた
いお地蔵さんだという。


 秋山川の天明大橋を渡る。国道7号との交差点を右折して北へ、平行する流れの西側に
迂回して佐野市郷土博物館に行く。

     田中正造像

 直訴状や遺品など、田中正造ゆかりの資料が展示されているというが、たくさんの小学
生が入館したばかりなのと、撮影には面倒な手続きがいるとのこと、さらにこの先の時間
も考え、ざっと見ただけで退館した(入場無料)。

 西中の東から北側の通り回る。この通りも例幣使街道で、路上にその看板が下がる。隣
接する煙草苗育布工場のところでJR両毛線の踏切を渡り、広々とした田園地帯を北進す
る。

 刈り入れ前の水田もかなり残り、その北側に緩やかな山並みが望まれ、その一つの山頂
付近に「大小」の文字が見える。この山の名は、午後、その近くまで行って地図を見て分
かった。


 しばらく北進する途中には、コンバインで収穫中の田んぼもあった。吹きさらしで西風
が強く感じられる。

 水田地帯の北端まで進んで県道237号に入ると、田中正造の生地、小中町。すぐ先の
T字路を北に少しで、田中家の累代墓所で田中正造の菩提寺という浄蓮寺がある。

 本堂背後の墓地を回ったが、田中家の墓地は確認できなかった。


 県道に戻り、交差点の少し先が県指定史跡の田中正造旧宅。県道に面して表門と2階建
ての隠居所が、奥に母屋↓や土蔵があり、毎週火木土日曜日に公開しているというが、こ
の日は公開日でないので外観を見るに止める。


 県道を挟んで南側には「義人田中正造翁生誕の地」の標識が立ち、小公園のような敷地
の奥に屋根付きの大きな墓があり、田中正造とカツ夫人が合祀(ごうし)されていた。
    

 すぐ先の交差点際に背の高いイチョウがそびえ、傍らに「小堀鞆音画伯生家跡」の大き
な碑が立つ。
     
 小堀鞆音(こぼりともと)は、文久4年(1864)この地生まれの日本画家。初めは
狩野派を学び、のち歴史人物画から大和絵に進み、私塾で国学や漢学も学んだとか。東京
美術学校助教授や文展審査員となり、歴史画を得意とし、安田靫彦、前田青邨らに影響を
与え、勤王家としても知られたという。


 すぐ先の旗川の旗川橋を渡ると、佐野市から足利市に入る。右岸沿いに少し進んで工場
の南から西側の田園地帯に出る。


    
 東根集落に入り、素朴な地蔵堂や3棟分が連接した長い土蔵のある民家横などを通過し
て、医王寺に入る。

 天慶5年(942)の建立で、幾多の変遷を経て元禄元年(1688)に、越後の秀継
和尚が本堂と薬師堂を再建したという。

        
 敷地は広いが樹木は少なく、開放的な境内。明和元年(1764)の建立で高さ4.2
mの宝塔↑があり、小さいお堂には十九夜塔が祭られている。石の上に祭られた「派祖専
誉僧正」像を覆う木陰で昼食にしたが、休んでいると西からの風が冷たく感じられた。


 隣接する西根集落を抜けて出流(いづる)川を渡る。路傍に「県重要文化財木造勝観世
音菩薩立像」碑があり、そばの観音山山裾の斜面に青屋根が見えたので、その石段を上が
ってみる。


 山門の両側に、保存状態の惜しまれる足利市文化財の木像金剛力士像が祭られ、さらに
石段を上がると、やはり市重文の稲岡観音堂があった。文書や正面の額などから江戸時代
前半の建築と考えられるとか。堂内は暗くて、観世音菩薩立像は確認できない。

 すぐ先の右カーブする山裾の路傍に、いずれも足利氏文化財の石造勢至菩薩供養塔と石
造廻国供養塔が祭られ、勢至菩薩供養塔↓は、寛政8年(1769)の建立と記されてい
るという。
        

 斜面を少し上がると、観行寺(かんぎょうじ)跡に小さいお堂があり、その上部には
「西場の百観音」と呼ぶ、前列に西国三十三番、中列に坂東三十三番、後列に秩父三十四
番の石仏が整然と並んでいた。


 造立は寛政2年(1790)~10年で、保存状態も良く、当時の民衆の厚い信仰を物
語る貴重なものとして、足利市民俗文化財となっている。
    

 百観音からは、刈り入れ前の田んぼの展望が広がる。
 


 観音山の南麓に延びる西場町の集落沿いを西進する。その西に続く大小山(318.6
m)が近づき、「大小」の文字もよく読めるようになった。


 山裾に続く小坂集落を半円状に回り、田園地帯を真っ直ぐ伸びてきた道路と合した山裾
に、三社神社のどっしりした社殿があった。

 拝殿の天井には足利市重要文化財で、百歌仙図と花鳥図の112枚が描かれた天井絵が
あるというが、拝殿前面の狭い格子からのぞいてみても暗くて分からない。

 描いたのは幕末から明治に佐野や足利東部で活躍した絵師、藤英悦で、先ほど通過した
小中に生家跡碑のあった小堀鞆音の父という。

 街路樹と広い歩道のある通りを横断し、JR両毛線富田駅の北に広がる駒場町の住宅地
を西に抜けて、県道67号に入る。

 北斜面上の広いエリアに、肥前鍋島藩の陶磁器を多数所蔵するという栗田美術館がある
が、時間が気になるので寄らず。県道の北側の旧道を入って迫間町へ。


 小集落の中ほどの高台に、熊野神社↑と東善院が並んでいた。熊野神社にはソメイヨシ
ノが数本あり、東善院の本堂前にはミカンが色づき、そばの地蔵尊にそのミカンが供えら
れている。石段の横には阿弥陀堂もあった。


 中心を真っ直ぐに県道が貫く大久保町↑の西側山際にあった、日光鹿島神社に寄り小休
止する。

 拝殿の文字は、連合艦隊司令長官や侍従長、太平洋戦争終戦時の首相をなどを努めた、
鈴木貫太郎の海軍中将時代の書である。
    

 この本殿の天井にも、江戸末期の嘉永2年(1849)、佐野の絵師、田村定衛門安貞
が描いたという、花鳥を中心とした77枚の天井絵があるようだが、やはり暗くて認識で
きない。本殿の右手前には、モミの高木が目につく。
    


 県道を少しで毛野小の横から旧道で八椚町を西に抜け、さらに山裾の旧道を進む。標高
112.3mの山を背にして天満宮↑があり、県道に接近した山川町の山裾には白鬚神社
が祭られていた。


 名草川の左岸に突き当たり県道に戻る。日没が近づいて太陽が低くなり、向かい風が冷
たい。

 足利の市街地に入った助戸一丁目に、足利厄除大師、龍泉寺の大きな看板が目についた
ので寄る。

 境内を南側に回ると、コンクリード造りの大本堂や宝形(ほうぎよう)造りの観音堂な
どがあり、観音堂のそばには堂々たるクスノキの古木が高く枝を広げていた。東側にはり
っぱな幼稚園も併設されている。
    

 寺は足利坂東三番札所、ぼけ封じ関東二十四番札所などで知られているようで、参詣人
も多そう。佐野の厄除け大師は知っていたが、隣の足利にも厄除け大師があったとは知ら
なかった。

 駅に近い伊勢町一丁目に入ると、県道の電線は地中化されて見通しが良い。

      
 点灯されたガス灯スタイルの電灯には、足利学校の飾り付けも施されていた。
      

 クラシックスタイルのJR両毛線足利駅前を通過する。


 線路を横断する地下道際に、電気機関車EF60123号が保存展示されていた。駅前
や公園などにSLの展示は多いが、近年まで走っていた電気機関車の展示は珍しい。



 地下道を南に抜けて渡良瀬川沿いを進み、中橋を渡って今日のゴール、東武伊勢崎線の
足利駅に16時30分に着いた。


(天気 快晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 佐野、足利南部、歩行地 佐野市
 足利市、歩数 36,700) 




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関東山の辺の道⑫ 栃木から佐野へ(栃木)〈後半〉

2013-10-01 15:42:29 | 関東山の辺の道
 2013年9月28日(土)〈続き〉

 西山田集落の中ほどにある、栃木市大平歴史民俗資料館と大平郷土資料館に入った。大
中寺とここは2年前の6月、「やまさん」こと山浦正昭さんと関東百駅巡礼歩行で訪ねた
ところ。


 歴史民俗資料館↑で、原始・古代から近世までの大平町の出土品や農具・民具、歴史資
料、2階の浮世絵版画室などを眺め(撮影は禁止)、隣の↓郷土資料館・白石家戸長屋敷
に回る。



 江戸時代の大庄屋の風格を残す長屋門を入ると、大きなかやぶき屋根の母屋をはじめ、
新蔵、収納蔵、東蔵、味噌蔵、裏の蔵などの蔵造りや、離れ、雪隠など12の建物が残っ
ている。




 離れ↓




 この時代の屋敷で、このように多くの建物が揃って残っているところは少ないのではな
いだろうか…。



 ひととおり建物を巡り館を出て、歴史民俗資料館前の休憩所で、入館者サービスのコー
ヒーをいただく。やまさんと来たときは新蔵が喫茶になっていて、真空管アンプの素晴ら
しい音楽を聴きながらいただいたのだが、昨年からここに移ったとのことだった。


 集落を抜けた西側のカーブ点にある、「山田かかしの里」↑と呼ぶ農産物直売所に寄る。
直売コーナーはそうスペースはないが、車の人が結構立ち寄っていた。



 南側に接する「いこいの広場」↑を抜けて、片岡集落を南進する。この辺りまでブドウ
畑や直売場があるが、こちらは早生種が多いのか、ぶどう園の営業を終えていた。



 JR両毛線が再び近づき、黄金田が広がりコスモスの咲く集落を西へ、白岩から鷲巣集
落に回ると、前方に土を採取して切れ込みの鋭い山並みが迫ってきた。


 このあたりも黄金田が残り、収穫中の田んぼもある(左手背後は筑波山)。


 その切れ込みの方向に向かって専用の土の車道に入る。ジグザグ坂を上がって行くと東
側の展望が開ける。


 さらに上がり、岩船山(172.7m)山頂の北側山上に広がる高勝寺の山門横に出た。


 岩船山高勝寺(いわふねさんこうしょうじ)は、宝亀2(771)の開山。関東の高野
山日本三地蔵の第一の霊場といわれているとか。

 岩船山は山全体が船の形をしていて、子どもの霊を供養するところで、本尊は子育て地
蔵として知られ、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれているという。


 本堂は思ったほど大きくはなく、左手斜面の何体かの地蔵尊の回りに、たくさんの卒塔
婆(そとうば)が奉納されていた。


 境内には朱塗りの鐘楼、血の池と呼ぶ地蔵尊を祭った小さな池、享保9年(1724)
の造立という青銅の大仏、山門とともに県文化財に指定された三重塔などが目に付いた。


 南に下る長い長い石段の上部からは、南から西方へ岩舟町の中心部や、カタクリの群落
で知られるみかも山(三毳山)方面の展望が広がる。


 急石段の横には、ヒガンバナの群落が花を競っていた。


 南麓の岩舟駅に近い山の越集落に下ったら16時近い。まだ先はかなりあるので、夕暮
れが心配になってきた。

 JR両毛線の北側を西進し、北側山麓の神社に向かって田園地帯を進む。東方に、土を
採取して裸になった岩船山西面が望まれる。


 杉木立の中に祭られた八幡宮には入らず、鳥居の横から左側の林間を抜けて県道282
号に出た。県道は、信号のある交差点から西へ田園地帯を貫き、車の交通量はあるが広い
歩道がある。


 北側の緩やかな山並みや南側の独立峰、みかも山、黄金田や花の咲くソバ畑などを眺め
ながら先を急ぐ。送電線の下で県道は北に折れ、その先歩道は消えたが交通量は減った。


                   みかも山(三毳山)



 三杉川の東川橋を渡り古江集落に入ると、古江公民館を併設した読みにくい文字の神社
がある。


 背後の本殿には彩色の木彫が彫られていて、東側のそれはこの種の彫刻では見たことの
ないデザイン。奉納者の名を刻んだ石碑から、時平神社と分かる。


 夕日に照らされた岩船山や、山麓北側に大きなクリーンセンターらしい建物の広がるみ
かも山などを眺めながら進む。岩舟町古江集落を抜けて佐野市関川町へ。進むにつれ、ク
リーンセンターに接して幾つかの工場らしい建物が続いているのも分かる。


 東北自動車道の下を通過して県道237号に入ったところに、朱塗り色あせた薬師堂が
あり、「史跡 米山古墳」の石標も立っていた。

 お堂の横に『「真田父子犬伏(いぬぶし)の別れ」の地』の説明板があり、慶長5年
(1600)、関ヶ原決戦の前、徳川家康について会津の上杉家討伐に向かった真田昌幸
父子がこの地に着いたとき、石田三成から豊臣に味方するよう密書が届き、この薬師堂で
父子3人が話し合い、どちらが勝っても真田家が残るよう、分かれて戦うことを決断した
という。


 県道はこの先、西にまっすぐ延びている。日暮れが近いのと予定の電車に乗れるよう、
疲れた足どりを速める。暗くなって地図も見えなくなり、ミニライトで確認して武道館の
通りを進み、17時58分に佐野駅にゴールした。急ぎ階段を下り、1分後に発車の東武
佐野線の上り電車に乗る。

(天気 快晴後晴、距離 25㎞、地図(1/2.5万) 栃木、下野藤岡、佐野、歩行
 地 栃木市、岩舟町、佐野市、歩数 44,700、累積標高差 上り 約380m、
 下り 約400m)




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関東山の辺の道⑫ 栃木から佐野へ(栃木)〈前半〉

2013-09-30 17:49:14 | 関東山の辺の道
 2013年9月28日(土)

 好天で爽やとかの予報なので、昨年5月以来の私のオリジナルウオーク、関東平野の外
縁を反時計回りに歩く「関東山の辺の道」の、第12回目を実施した。

 スタートは、栃木市市街の中心部を北西に抜けた栃木市運動公園入口バス停。栃木駅8
時45分発ふれあいバス寺尾線出鶴(いづる)観音行きに乗り、9時2分に着いた。

 県道をまたぐ野中歩道橋のそばから西へ少し、赤津川の手前の関口金属横の交差点を南
に向かう。西方に大平山(おおひらさん)が望まれ、刈り取り後の田んぼでもみ殻を焼く。




 その先のビニールハウスには、栃木の特産イチゴの苗が育っていた。


 前方に小さな独立峰の錦着山(きんちゃくさん)が近づき、山上に独特の塔が見える。


 県道75号を越えて真っ直ぐ進む道はなく、県道を東に少しで県道309号へ右折し、
南側から錦着山に上がる。


 山頂には、戊辰・西南(ぼしん・せいなん)両役における戦死者を祭る護国神社があり、
その左手に標高80.5mの三等三角点がある。一帯は錦着山公園になっていて、栃木市
街をはじめ、やや霞む筑波山や眼下の家並みなどの展望がよい。


 下から見えた塔は時計塔のようだがいま時計は無く、そばに、旧海軍軍人ゆかりの栃木
市海友会の石碑が二つ並んでいた。



 薗部町三丁目の住宅地を南下し、自然堤防にキバナコスモスの咲く赤津川の高橋を渡る。
対岸の薗部町四丁目の路傍にも、たくさんのコスモスが咲き競う。


 廃業したらしいSIIと呼ぶ工場跡地前の山すそを進むと、「関東ふれあいの道」の石
標が立っていた。近くの栃木農業高の正門前にもふれあいの道の道標がある。


 大平山(おおひらさん)神社へ向かう車道のそばに、山門、鐘楼、大本堂ともに新しい
日蓮正宗の信行寺があり、本堂前にサルスベリの古木が、参道には梅の古木が並んでいた。



 車道を横断して南へ、栃木市斎場や野球場の横を抜けると田園地帯となり、黄金田の向
こうに霞む筑波山が望見できる。


 JR両毛線の線路が近づき、下皆川の上坪集落に入った。

 堂々たる本堂の光盛寺↑の隣は、この辺りで唯一の造り酒屋、大平酒造。明治初期の創
業で、清酒国龍は越後杜氏(えちごとうじ)の伝統技法により仕込んだもの。


 特別純米酒や辛口の本醸造酒、20年以上貯蔵した秘蔵の古酒などを販売している。



 家並み続きの中坪集落の長楽寺↑は、平屋で民家風のつくり。境内は、若いシダレザク
ラ数本など庭木が豊富。小さいお堂に金剛菩薩など、古い石仏が並んでいた。


 下坪の小集落から大平山麓の林間の土道に入ると、「大平山登山口」の標柱が立ち、山
へ向かう石段が伸びている。傍らに東山道のハイキングコース案内板も立っていた。


 大平山から晃石山(てるいしさん)の南麓を走る下都賀広域農道を横断して、中山
(143m)の北側を回る関東ふれあいの道の土の道に入る。ブルーベリー畑を過ぎると
林間となり、日射しが遮られひんやりと涼しく気持ちよい。



 広域農道に出て、二つの潅漑用水池の間を池上集落へ。


 「みそ」と書かれた蔵の横を通過して真っ直ぐ進むと、大平山山麓の大中寺(だいちゅ
うじ)。11時57分に着いた。


 老杉の並ぶ参道、ゆるやかな石段の両側にアジサイが続く。山門を入り、大中寺の七不
思議の一つ、正面の油坂は上がれず、右手から回って大本堂に参拝。拝殿屋根下には、精
巧な木彫が施されていた。


 大中寺は延徳元年(1489)に再興され、小山家、越後の上杉家に守られ、のち徳川
幕府からは曹洞宗天下大僧録(てんかだいそうろく)という高い位を与えられた。上田秋
成の「雨月物語」の七不思議の伝説でも知られているという。


 本堂の東側に、七不思議の一つの大杉が立ち、そばにこれも七不思議の一つ、かやぶき
屋根の不開の雪隠(あかずのせっちん)が残されていた。



 本堂の下、木造地蔵菩薩半跏像を祭る地蔵堂のそばのベンチで昼食にした。


 12時39分に境内を出て、集落の中ほどから西側の道に回り、弁天島のある池の横で
広域農道に出る。少しだけ回った旧道に、かやぶき屋根にトタンを被せた民家が残る。


 この辺りから先、西山田の集落周辺はブドウ畑が広がり、広域農道の両側には個人のぶ
どう園が続いている。


 大平山と晃石山の間のパラグライダースタート地から飛んだパラグライダーが、ゆっく
りと下りてきた。


 幾つかのぶどう園には、車で来た人達がブドウ狩りしたり、出店で買い物する人が見える。


 (続く)




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関東山辺の道⑪ 鹿沼駅から新栃木駅へ(栃木)

2012-05-07 22:34:35 | 関東山の辺の道
 2012年5月5日(土)

 2009年9月27日以来中断していた、関東平野の縁をぐるっと回る私のオリジナル
歩行、「関東山の辺の道」の11回目を久々に実施した。

 スタートはJR日光線の鹿沼駅、宇都宮駅発2両編成の電車は、連休後半の日光へ向か
う行楽客で結構混雑していた。9時26分に鹿沼駅に下車する。


 駅前から真っ直ぐに延びる通りを黒川まで緩やかに下る。手前の西武子川や黒川の府中
橋からは、少し雪の残る男体山が望まれる。


 駅前からの国道293号と北からの352号の二つの国道が合する市役所前交差点手前
の細道を南に入ると、三つの屋台蔵(やたいぐら)が合体した変わった建物が目につく
「屋台のまち中央公園」があった。

 その建物、彫刻屋台展示館内には、精巧な木彫やきらびやかな飾り付けをした3台の屋
台が展示されている。


 同じような彫刻屋台は市内に30台以上あり、10月6日・7日には今宮神社の祭礼
「鹿沼ぶっつけ秋祭り」の屋台行事として賑わうようだ。

 園内北側には掬翆園(きくすいえん)と呼ぶ日本庭園があり、明治末期から大正初期に
かけて造営され、鹿沼の三名園の一つとされたところ。園内には、全国から集めたという
石や灯ろう、二つの建物や神社などがあり、モミジなどの新緑がみずみずしい。


 芭蕉が、奥の細道紀行で鹿沼に1泊したとき読んだという句碑も立っていた。

 公園入口右手の和風建物は観光物産館で、物産品の展示販売や軽飲食コーナー、観光案
内コーナーなどがある。


 物産館の方が、東方に3分ほどの清林寺(せいりんじ)で今日は花祭りが開かれていて、
ボタンが見頃なので寄って見たらと言われたので回る。

 清林寺は約7百年前の開山で、その後室町時代に清林という尼僧により再建されたとの
こと。

 境内では市長も来て花祭りの開会式を開催中で、やはり尼僧のご住職が、ユーモラスな
ご挨拶をされていた。その前を失礼して本堂に参拝する。

 本堂前庭のボタンは見頃になってはいたが、気温が上がったためか、しおれ気味なのが
ちょっと残念だった。

 国道293号と352号になっている例幣使街道に出て南へ。石橋交差点の先の薬王寺
に、花盛りの白フジが見えたので立ち寄る。境内にはソメイヨシノの古木が数本、新緑の
枝を広げている。


 東武日光線の新鹿沼駅前交差点を通過、すぐ先の鳥居跡町自治会館にはこの町の彫刻屋
台蔵があり、そのイラストが描かれていた。


 次の交差点を右折して新鹿沼駅南側の踏切と小藪川(こやぶがわ)の薮木橋を渡り、右
岸沿いの車道に入る。しばらくは川向こうに東武日光線が平行していて、ときどき特急ス
ペーシアなどの電車が通過する。



 西側は田んぼが続き、水の入った田、レンゲの咲く田、田植えの住んだ田んぼなどが続
き、その向こうの丘陵や、山麓の民家の新緑が淡い彩りを見せている。


 樅山(もみやま)駅の近くで、日光線は左カーブして流れから分かれる。小薮橋のとこ
ろで県道15号を横断し、二つ先の橋を渡って川を離れた。


 田んぼの間を進むと近くでキジの声がして、あぜに姿を見せる。


 塩山町の集落を抜けて東武日光線の踏切が近づき、東方に筑波山が姿を見せる。この歩
きでは何年か前、筑波山の山麓をぐるっと回ったことを思い出した。

 再び田園地帯に入ると、上空で賑やかにヒバリがさえずる。黒牛がたくさん休む牛舎の
横を通過し、塩山町を南南東へと進む。


 穂が出たビール麦畑が増え、古い十六夜塔や馬頭観音の並ぶ三差路を入って東南に進み、
太い切り株の立つ丸清銘木店のところで日光例幣使街道に戻る。

 南に少しで改築して新しい本堂の成就院に12時半に入り、本堂背後の濡れ縁を借りて
昼食とする。


 本堂前にシダレザクラのような枝ぶりの古木がある。栃木県天然記念物で「とちぎ銘木
百選」にも選定されているシダレアカシデで、推定樹齢は80年という。


 30分ほどで寺を出て、近くの楡木(にれぎ)町交差点を渡る。西側の西押原公民館に
は隣の宇都宮市出身の児童文学者である千葉省三記念館があるが、休館日だった。

 楡木駅寄りの次の細い通りに入って西北に向かう。再び東武日光線の西側に出て、西側
の山すそを流れる小藪川の左岸へ。流れのそばにぽつんと「そば亭瀬左右衛門」の建物が
あり、駐車場に車が数台並んでいた。


 草付きの左岸堤防を進んで東北自動車道の橋下を通過する。火の見やぐらの残る消防団
建物のところから西に回り、東北自動車道の東側側道に入った。

 午後になって気温が上がるが、さわやかな向かい風がやや強まり、あまり暑さは感じな
い。間もなく思川(おもいがわ)にかかる本城橋を渡る。


 橋からは、北に男体山や右に続く日光連山が、東に筑波山がやや霞んで望まれる。


 東北道の橋の下には車で来た人たちが、バーベキューをしたり、昨日までの雨で水量の
増えている流れの近くで遊んでいるのが見える。

 川が市境で、鹿沼市から合併して広がった栃木市(旧西方町)へ。すぐ先の十字路を右
折して東北道下を西に抜け、西方総合公園「西方ふれあいパーク」に入る。

 駐車場の近くに管理棟があり、近くのバーベキュー広場では、何組ものグループがバー
ベキューを楽しんでいる。


 小倉池と錦池の間を進み、ツツジが咲き出した「花の滝」と呼ぶ斜面下を上がる。


 斜面上部にはソメイヨシノの並木が続き、林間広場の横を通過して右カーブし、中央広
場へ。東側の展望が広がり、霞む筑波山が展望できる。


 野球場や第二駐車場の横を抜けると下り坂となり、噴水広場を通過して公園の南に出た。

 隣接している井露寺の開放的な境内には、シダレザクラのそばに新しい「すこやか観音」
が立ち、墓地南側の新緑の眺望が良い。


 東北道下を横断する車道を東に回り、東北道に沿った東側の旧道を進む。小さなカーブ
点に、サツキの畑があった。

 中宿集落を過ぎると田園地帯となり、強い向かい風が暑さを和らげてくれる。畑に囲ま
れた寺があるが、用水があって入れない。

 峰集落のビニールハウスは、栃木名産のイチゴを栽培するところが多く、白い花を見せ
ている。東から近づいた国道293号が、東北自動車道を抜けるところに出た。

 信号のない国道を横断してさらに南進する。麦畑が増え、小麦もあるがビール麦が多く、
ほぼ穂が出そろい、風に従い柔らかにゆれ動いている。

 富張集落のちょっとした台地にあった三宮神社に上がり、参拝後拝殿の階段を借りて小
休止した。


 右から近づく赤津川の中の内橋を渡ると、右手に大きなシダレザクラが2本目につく。
長福寺のシダレザクラで、樹齢は約200年と約70年とのこと。広がる枝振りから花の
みごとさが想像できる。

 開放的な境内にはほかに、色とりどりのツツジやボタン、間もなく咲きそうなシャクヤ
クなどがたくさん植えられていて、季節の移ろいに従い次々に花が楽しめそう。


 シダレザクラの下には、クリンソウが咲いていた。


 麦畑の間を進み、中之内集落の先で東北自動車道の東側側道に近づき、大橋集落で西側
側道に回る。

 東北道と北関東自動車道との接点、栃木都賀ジャンクションの1㎞ほど手前の側道沿い
に、「つがの里公園」があった。

 西方総合公園ほど広くはないが東京ドーム5個分あり、同様に緑があふれている。第6
駐車場から入り、ファミリーパークを右に見てふるさとセンターと呼ぶ和風の大きな建物
のところに上がる。

 ふるさとセンターと呼ぶ建物内には、研修室や特産品の販売コーナー、手打ちうどんな
どの味わえる農村レストランがある。


 そばの円墳のような盛り土の上に、つがの里のシンボルというヤマザクラが立つている。
樹高12m、枝幅14m、樹齢は約170年の古木で、花どきに来てみたい。

 いまはツツジの時期で、シダレザクラの周辺でたくさんのツツジが花を競う。開花した
フジ棚の横から池のそばまで下り、東南端の第1駐車場のそばから公園を出た。


 さらに東北道西側の側道を進み、栃木都賀ジャンクション横で赤津川の御殿之下橋を渡
る。日が傾き、麦畑や田植え前の田んぼの向こうに栃木市郊外の山並みが近づく。


 片蓋集落の近くで東北道下を東に抜け、野中町に入って県道32号の野中歩道橋のある
交差点に出た。時刻は17時55分、ここを今回のゴール地点とする。

 さらにトチの街路樹の続く県道を2㎞余り急ぎ、18時29分に東武日光線の新栃木駅
に着き、4分後発車の上り始発電車に乗る。

【コースタイム】鹿沼駅9・30ー屋台のまち中央公園9・55~10・13ー清林寺10・18~23
 ー飯島橋(樅山駅近く)11・23ー塩山町の消防団建物11・58ー成就院(昼食)12・30~
 13・00ー本庄橋南詰14・07ー西方総合公園14・12~30ー国道293号横断15・24ー三宮神社
 15・39~44ー長福寺15・52~16・05ーつがの里公園16・30~17・00ー野中歩道橋17・55
 ー新栃木駅18・29

(天気 快晴後晴、距離 28㎞、地図(1/2.5万) 宇都宮西部、鹿沼、下野大柿、
 壬生、栃木、歩行地 鹿沼市、栃木市(旧西方町、都賀町を含む)、歩数 48,400) 



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関東山の辺の道⑩【宇都宮・上戸祭町~鹿沼駅】〈続き〉

2009-10-06 20:47:13 | 関東山の辺の道
 2009年9月27日(日) (続き)


 景観公園に戻り、奇岩群を前にして↑ベンチで昼食後、南側にある大谷寺(お
おやじ)に行く。坂東三十三観音霊場の第19番札所で、大谷観音とも呼ばれ
ている。

 朱塗りの仁王門を入ると、大岩石に抱え込まれるように本堂があり、堂内に入
ると、弘法大師が刻んだと伝わる大谷石に彫られた大きな千手観音がある。

 それが大谷観音で、横の回廊沿いにも、大きな釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀
三尊像の真崖仏(まがいぶつ)が刻まれていた。

 境内には、赤いお堂の弁天堂が祭られ、それを囲む池の周辺は松やモミジな
ど、植栽が豊富な庭園になっている。


 大谷寺の南側の採掘場跡は大谷公園。大谷石の採石場に、世界平和を祈念
して身の丈26.93m平和観音が刻まれ、昭和31年(1956)に公園になった
という。


 公園の中央には、カエルの後ろ姿に見える「親子がえる」があり、観音像の
背後は展望台になっていた。下は展望台からの眺め。


 「天狗の投石」と呼ぶ岩ノ下から公園を抜けて、姿川沿いを南に向かう。周辺
には、大谷石造りのりっぱな土蔵造りが幾つか見られた。


 街路樹の、栃木県の木、トチノキの葉の一部が色づき、秋の近いことが感じ
られる。


 Y字路の大谷交差点を東に少し、北側の路地を入ると、やはりりっぱな大谷
石の土蔵と、かやぶき屋根の残る旧家があった。


 大谷交差点に戻って西へ向かう。すぐ先の小さな交差点際で、大谷石造りの
建物が目に入った。

 国登録文化財の旧大谷公会堂で、大正末期から昭和初期にかけて旧城山
村在郷軍人分会の主唱により建築され、村議会、芝居や演劇、映画などの会
場として多目的に使われたという。


 公会堂横の旧道を入り、荒針集落へ。オミナエシやコスモスがきれいな彩り
を見せる。集落の西方高台からは、南側の黄金田や家並みの展望が開けてき
た。


 城山中の南を回って田園地帯を進み、赤川の常盤橋を渡って鹿沼市に入る。

 すぐ先、下組集落の等持院へ。山門を入ると修行大師像が立つ。本堂前に
はりっぱな桜が枝を広げ、整えられた庭の一角にサフランが咲いていた。


 刈り入れの済んだ田園地帯の北に、日光連山の前山らしい山塊が望まれる。


 寺の前を通る国道293号を少し進み、車を避けて栃窪集落の北側を回る。
良く育ったウドに、地味な花がいっぱい開いている。近くのソバ畑も一面の花
盛り。

 再び国道に出て、次の三差路を入って栃窪溜と呼ぶ桜に囲まれた池のほと
りへ。


 北岸は民営の錦鯉(にしきごい)公園になっていて、池畔に錦鯉資料館が
ある。

 館内には、幾つもの生け簀(す)があり、彩りの違う錦鯉がたくさん泳いでい
た。壁面には鯉の品評会で獲得したトロフィーがたくさん並んでいる。併設の
食堂で、ところてんを注文して休憩した。

 栃窪溜の西半分は、幾つもの区画に区分けされた釣り堀になっていて、池
の水をかくはんする水車がたくさん回転していた。ゴルフ練習場の横を抜けて
国道に戻る。

 仁神堂(にかみどう)町を通過してJR日光線の線路を越え、昔ながらの駅舎
のままのJR鹿沼駅に、16時14分に着いた。

 [参考タイム]JR宇都宮駅9・30=(バス)=長岡街道入口BS9・50ー
 細谷小10・07ー東北自動車道下10・35ー越路岩先11・20ー大谷資料館
 11・45~12・10ー景観公園(昼食)12・17~37ー大谷観音12・42~13・08
 ー大谷公園13・10~25ー旧大谷公会堂13・50ー常盤橋14・22ー等持院
 14・31~38ー錦鯉公園15・09~34ー菊沢東小15・51ーJR鹿沼駅16・14


 (天気 曇、距離 17㎞、地図 宇都宮西部、鹿沼、歩行地 宇都宮市、
 鹿沼市、歩数 31,200)
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関東山の辺の道⑩【宇都宮・上戸祭町~鹿沼駅】

2009-10-05 22:55:32 | 関東山の辺の道
 2009年9月27日(日)
 
 私のオリジナルウオーク、関東平野の山すそを歩きつなぐ「関東山の辺の道」
歩きは、昨年9月上旬以来中断していた。JR大人の休日倶楽部の会員限定、
千円のホリディパス利用最終日、久しぶりに関東山の辺の道歩きに出かけた。



 6時42分に自宅を出て、武蔵浦和、大宮など経て宇都宮駅へ。9時30分発
のバスに乗り、前回のゴール、長岡街道入口バス停に9時47分に着いた。

 近くの上戸祭町交差点↑が今回のスタート、西に向かい、警察学校そばを右
折し、北北西に進路を取る。

 区画整理された若草の住宅地を抜けて広い車道を横断、細谷小横を過ぎる
と、ソバが花盛り。


 東北自動車道の鹿沼27号トンネルをくぐると家並みは途切れ、緩やかな丘
陵に畑や田んぼが広がる。田んぼの多くは収穫が済んでいるが、刈り入れ中
の田もある。


 細い流れの立岩大橋を渡り立岩集落へ。三差路際にあった朱塗りの小さい
社に、延命地蔵などの石仏が祭られている。


 近くのM石材店には、この先行く大谷(おおや)の特産、大谷石(おおやいし)
がたくさん積んであった。


 すぐ近くから道が広がり、「立岩街道」の表示がある。立岩バス停は宇都宮
からのバス終点で、折り返し場が設けられていた。

 さらにすすんだ紅葉橋から、姿川の右岸沿いの遊歩道を少し戻るように入る
と、大谷石の奇岩群が現れた。


 左カーブの曲がり角にそそり立つ大岩は越路岩と呼ばれていて、やはり大谷
石の巨岩だ。




 紅葉橋に戻り、先に進む両側にも奇岩が幾つもあり、もう少しすると紅葉の彩
りもよさそう。


 高さ30mくらいもありそうな奇岩の並ぶ一帯は景観公園、「大岩の奇岩群
御止山(おとめやま)」と呼ぶ国名勝に指定されている。


 公園の北側三差路を入って大谷資料館へ。駐車場の上に、採掘してスパッ
と切れた大谷石の巨岩が目を引く。



 資料館↑に入り、大谷石の採掘に使われた工具などの展示を見た後、地下
の採掘場へ下りて行く。


 ヒンヤリとした巨大な構内は、地下60mまで続いているという。垂直の壁面
に採掘の跡が残り、今日の温度は13℃という最下部は、想像以上に広くて高
い採掘跡の空間が、迷路のように広がる。

 この大谷石地下採掘場は、大正8年(1919)~昭和61年(1986)にかけて
採掘が行われ、残柱を残しながら約2万㎡の広さを掘り進み、石材およそ1千
万本を切り出したと記されていた。


 資料館のそばにある売店には、大谷石で作ったカエルの置物、石灯ろう、茶
わん、行灯(あんどん)などがたくさん並んでいる。        (続く)


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関東山の辺の道⑨【仁井田~上戸祭町】(栃木)〈続き〉

2008-09-28 13:09:35 | 関東山の辺の道
 2008年9月10日(水)〈続き〉




 根小屋集落の西で田園から離れ、台地上の台岡本に上がっ
た。岡本北小やNTT河内電話交換センタを過ぎ、県道157号
に入る。

 県道73号と交差し、余坪台ニュータウン際まで進むと、右手
の森の中に「ふれあい通り」と呼ぶ遊歩道があった。少し迂回
するが、緑陰を歩けそうなのでこの道を進むことにした。

 傍らは芝生地などのある公園。ベンチにいた男性に公園の
名を聞いたが知らないという。

 その代わり、「緑道は岡本駅から高崎製紙への引き込み線
の廃線跡だ」と教えてくれた。地形図を見直したら、なるほど
線路跡らしいルートが前後に残っている。

 暑さから解放された木陰の緑道は、500m余りで終わる。
椎ヶ坂第二の新興住宅地や高崎製紙の南側を進み、宇都宮
河内清掃工場の前で県道157号に戻った。

 散在する大塚の住宅地を過ぎると再び田園地帯。

 コンバインで刈り入れをしている田んぼもある。


 畑中で東北新幹線の高架下を抜け、山すそを流れる山田川
の新山田橋を渡る。


 陽の差さぬ林間を北山霊園に向かって上がって行った。

 車止めがあり、舗装の途切れた道をさらにしばらく進んだが、
霊園が無い。道が細くなりどうも間違えたようだ。林間のすき
間から南側を見下ろしたら、目指す霊園が見えた。

 ちょっと斜面がきついが、関東百駅での幾つかの経験を思い
出し、木につかまりながら霊園のそばまで下った。

 ところが最後は、砕石を組み合わせた土留めが2mくらい
ある。飛び降りるのは危険なので、土留めの途中にある排水
用のパイプを足場にして、なんとか霊園に下りた。

 山の斜面を何段かに整地した広い霊園だが、管理事務所や
トイレなどは見あたらない。地形図で見当をつけていた遊水地
のそばから谷間を下り、赤ずきんをしたお地蔵さんの横で西側
の旧道に出た。


 静かな宮下集落や谷地田の間を進み、清流がくねって流れる
田川の田川橋を渡る。


 次の斜面を上がって行くと、豊郷台の広いニュータウンがある。

 小公園に東屋(あずまや)があったので入って休憩。東側は、
東北新幹線の高架や住宅、黄金色の広がる田園などの展望が
よい。


 緑が多く、ゆったりした豊郷台の戸建て住宅の間を緩やかに
上がる。T字路際に「かましん」というスーパーがあったので寄り、
アイスを買ってのどを潤し、汗を鎮める。

 さらに緩やかに上がって「うつのみや文化の森」に入った。総
面積は約26ha、既存林や緑の広場と呼ぶ広い芝生地の間を抜
ける散策路があり、最高地に近い北西端近くに宇都宮美術館が
ある。

 市制百周年の1997年に開館したとか。閉館時刻が近いが入
館し、ルネ・マグリットやシャガール、マティス、日本の近代絵画
などの作品を、短い時間で鑑賞した。


 美術館から南へ、広葉樹の多い散策路を回って、調整池のほ
とりに出る。谷地沿いに南に下ると、休耕田にキバナコスモスが
一面、花を開いていた。


 刈り入れ中の田んぼの横を下り、国道119号際へ。南斜面の
山すそに、露出した凝灰岩をくり抜いた横穴が幾つもある。

 栃木県史跡・長岡百穴古墳で、7世紀前半のものと推定され、
現在52基あるという。それぞれの横穴には、凝灰岩をくり抜い
た石仏が祭られていた。


 日が西に傾き、涼しくなってきた。中心にある百穴観音堂に参
拝し、最後の道のりを急ぐ。並行する国道は夕方のラッシュ時で、
交通量が多い。赤坂集落を抜ける旧道も、バイパスとして通り抜
ける車が結構あり、わずらわしい。

 長岡町交差点で国道を横断して釜川を渡り、上戸祭町交差点
に17時45分に着いた。今回はここまでとし、そばの長岡街道
入口バス停から宇都宮駅に向かった。

【参考スタイム】JR仁井田駅9・48ー県営圃場整備完成記念碑
10・28ー高根沢町町民広場・歴史民俗資料館10・46~11・16ー
JR東北本線跨線橋11・55ー新鬼怒川橋東詰12・16ー根川横の
小公園(昼食)12・45~13・15ー廃線跡の遊歩道13・40ー宇都宮
河内清掃工場14・05ー東北新幹線横断14・26ー北山霊園14・52
ー豊郷台の小公園(東屋)15・24~30ーかましん(スーパー)15・40
~55ー宇都宮美術館16・20~40ー長岡百穴17・12~19ー上戸
祭町交差点17・45ー長岡街道入口バス停17・47~52=<関東
バス>=JR宇都宮駅18・15頃

(天気 晴、距離 25㎞、地図(1/2.5万)宝積寺、大谷、宇都宮
 西部、歩行地 栃木県高根沢町、宇都宮市、歩数 42,500)
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関東山の辺の道⑨【仁井田~上戸祭町】(栃木)

2008-09-27 23:36:43 | 関東山の辺の道
 暑さ寒さも彼岸まで。9月も最後の週末となり、すっかり涼し
くなりました。

 月末締め切りの原稿作りなどに追われ、2週間以上経過して
しまいましたが、9月10日のウオーキングレポートです。

==========================

 2008年9月10日(水)



 夏の「青春18きっぷ」の使用期限の日、残り1枚を使い、1
年5ヶ月ぶりに、私のオリジナルウオーク、関東平野の周辺を
巡る「関東山の辺の道」歩きに行く。

 自宅を6時34分に出て、大宮、宇都宮経由、JR烏山線の
仁井田駅に9時44分に着いた。


 無人の駅を出て、商店が散在する南側の通を西へ向かう。


 郵便局前から細道を南に入る。交通量の多い県道10号を越
え、南側を並行する田園地帯に出た。

 広々とした黄金田が広がり、向かい風がさわやか。

 畑の隅に、かぼちゃのようなものが捨ててある。畑にいた奥
さんに聞くと、長雨で干せず、出荷できなくなったカンピョウだ
という。栃木県は、日本一のカンピョウの生産地である。


 自然堤防の五行川を横断、流れに、今年生まれのカルガモ
のひなが数羽が泳いでいた。


 すぐ先の交差点に、県営圃場(ほじょう)高根沢地区の完成
記念碑ができていた。

 横5m、縦2.5mくらいもある特大の記念碑である。

 杉林に囲まれた西下集落の一角に、大きなかやぶき屋根の
民家が見える。


 次の原集落には、広々とした芝生に覆われた高根沢町の町
民広場があり、ナイター設備も設けられていた。


 隣に、新しくてりっぱな瓦屋根の長屋門や、大きな平屋の
民家、蔵造りの建物が見えた。


 高根沢町歴史民俗資料館で、蔵造りの展示館に入館する。


 町内に約250か所もあるという、旧石器から平安時代に至る
遺跡から発掘された土器、町の特産品、小学校の古い教材、
江戸時代からこの地にある宇津救命丸本舗の歴史などが展示
されていた。


 本屋と呼ぶ中心の大きな民家風の建物には いろりがあり、
天井はガッチリした丸木で組まれ、3室×2室がふすまで隔
てられた大きな平屋となっている。


 屋外には、復元された縄文時代の竪穴住居があり、長屋門
の片側は収蔵展示室になっていて、古い農具がたくさん並ん
でいた。

 石橋交差点で再び県道10号と交差し、県道101号に入る。
宝積寺(ほうしゃくじ)の家並みが増え、天神坂交差点の先か
ら、少し坂を上がる旧道へバイパスする。このあたりは、1月
19日の関東百駅「宝積寺」で歩いたところ。

 JR東北線の線路際に出て、堀割を走る線路上を渡る。宝積
寺下集落付近の林に、「勝善神」と刻まれた石碑がある。

 ほかでは見たことがないが、この先の集落にもあったから、
栃木県独特の古くからの信仰なのだろうか…。

 ネットで見ると、仏教系で言う馬頭観世音のことを神道系で
言う呼び方のようで、日光街道や奥州街道など、栃木県内に
多いように思われる。

 そういえば、この日歩いた約25㎞のコース中に、寺院は一
つも無かった。こんなに長くお寺のない道を歩いたのは、初め
てかもしれない。

 宝積寺交差点近くで国道四号に合し、鬼怒川の新鬼怒川橋
を渡る。この橋は東京方面行きで、線路側には仙台方向への
鬼怒川橋がかかっている。

 鬼怒川橋のたもとは、関東百駅の時、下流の岡本頭首工横
から右岸沿いに来たが道が無くなり、垂直に近いがけをよじ登
ったことを思い出す。

 下流に、その岡本頭首工〈下〉や、鮎を食べさせてくれるらし
い大屋根の店を見下ろしならが橋を渡り、宇都宮市に入った。


 好天で残暑が厳しいが日陰が無く、橋の先も黄金田の田園
地帯。木陰のある昼食地がないかと気にしながら進むと、下
坪集落の先で、根川という小さい流れの横に小公園があった。

 藤棚の陰にイスもあるので、これ幸いと昼食にする。(続く)

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