あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

英国・コッツウォルズとロンドンのパブ①

2006-08-31 23:38:25 | 英国いろいろ
 「英国いろいろ」今日は、コッツウォルズのパブを紹介します。

 パブとは、「パブリックハウス」の略で、イギリス庶民の憩いの場で、
公衆にアルコール性飲料を提供することを容認された場所です。

 19世紀の工業化以前は、イン(inn)などとも呼ばれ、単なる酒場
だけでなく、ホテル、レストラン、駅舎、公会堂などの機能もあわせ
持っていたようです。

 現在も田舎では、ホテルやレストランを兼営しているパブもあります。

 パブは、2万5千分の1地図上にもコーヒーカップのマークで表示
されていて、コッツウォルド・ウェイでも、午後の寄り道が楽しみでした。


 最初は、コッツウォルド・ウェイ昨年のゴールで今年のスタート地、
ペインズウィックの宿、THE FALCOM INNです。

 この宿も、パブ、レストラン、喫茶を兼営していました。

 カウンターの上に並んでいるビールの銘柄を見て注文し、その場で
現金を支払います。

 注文の単位は、1パイント(Pint)(560mlのグラス)か、その半分
のハーフパイントです。

 私は、ほとんどハーフパイントを注文しましたが、値段は、£1.30
~£1.50くらいでした(£1.00(1ポンド)は220円前後)。



 次は、コッツウォルド・ウェイ初日のゴール、小集落バードリップの宿です。

 この宿、THA ROYAL GEORGEも、バー(パブ)とレストランの兼営でした。

 今回の宿では、設備も調度も1番でしたが、パブも同様でした。



 コッツウォルド・ウェイ2日目は、朝、雷雨の中のスタートでしたが、
途中で天気が回復し、丘陵上からのすばらしい展望も得られました。


 午後通過した、Water Worksの国道A40号沿いにあったので寄った
のが、THE WARTERSIDEというパブです。


 私たちが着いた時に、ウオーカー3~4人が休憩を終えて出発し、
私たちが出る時には、入れ違いに2組のペアウオーカーが来て、
いずれもこの外のテーブルで休みました。


 コッツウォルド・ウェイの最終日、4日目のゴールに近い町、ブロード
ウェイでは、ゆっくり町の観覧をしましたが、そのひととき、SさんとIさん
はパブの屋外で一杯です。

                               (続く)



 

 


 

 
 
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英国・コッツウォルズとロンドンの教会

2006-08-30 22:47:46 | 英国いろいろ
 今日は曇りときどき雨でしたが、外歩きをすると、湿度が高くて
蒸し暑い1日でした。

 でも夜になると、何日か前から秋の虫の鳴き声が聞こえるよう
になり、秋がすぐそこまで来ていることを感じます。

 「英国いろいろ」、今日は教会の建物を紹介します。いずれも
100年以上前の建築ではないかと思われる、歴史を感じる建築
のものばかりです。


 2006年7月4日~11日
 =コッツウォルズとロンドンの教会=
 
 タイトルとは逆ですが、最初は朝の散歩で見たロンドン市内、
ケンジントン地区の教会です。


 次は、「コッツウォルド・ウェイ」後半のスタート地、ペインズ
ウィックの教会、構内に99本のイチイが植え込まれています。

 フリータイムの日に訪ねた都市・チェルトナムでは、幾つもの
教会を見ましたが、そのうちの3つです。

 これは、コッツウォルズで私が初めてかやぶきの家を見た、
チェルトナム市街の東北端、Prestburyにあった教会です。

 以下の2つは、市街地の中心街です。



 コッツウォルド・ウェイ3日目のゴール、スタントンの教会です。


 これもフリータイムで訪ねたウィンチコムの教会、ここで一番
大きいのはセントピーター教会ですが、前に紹介しましたので、
その近くにあった小さめの教会です。


 4泊したクリーブヒルから西に下ったWoodmancoteへ、最後の
朝かやぶきの家を訪ねた時にあった教会です。


 コッツウォルド・ウェイのゴール間近の町、ブロードウェイの
入口にあった大きな教会。


 ゴールのチッピングカムデンでは、このセントジェームス教会が
有名です。

 フリータイムの日に訪ねたので、その項で紹介しましたが、これは
庭の方から見た写真です。


 チッピングカムデンにゴールした翌日、フリータイムで訪ねた、
花とかやぶきの家をたくさん見たEbringtonの集落にあった教会。


 同じ日の午後通過した、戸数50戸くらいの小集落、Paxfordの
教会。そばに第1次大戦の戦没者供養塔が立っていました。

 教会の多くは長い尖塔があるので、遠くからも目につきます。
丘陵から町へ下って行く時にはよい目印になり、町の中でも、
場所や方角が分からなくなったとき、教会の尖塔が見えると、
どの方向に行ったらよいか、よく分かるのです。



  



 
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東京都美術館の「ペルシャ文明展」へ

2006-08-29 23:15:09 | Weblog
 6日ぶりに青空が広がり、首都圏も残暑の1日になりました。
先週に引き続き、昼頃、東京・品川の歯科医に行き、前歯の治療を
受けてきました。

 午後は、上野公園に行こうと、JR品川駅の改札を入ったら、
コンコースの一角に、こんな郵便ポストがありました。

 品川駅に乗降しておられる方、ご存じでしたか。

 上野公園での目的は、東京都美術館で開催中の「ペルシャ文明展」
の観覧です。

 意外に空いていて、間近に展示品を見ることが出来ました。

 なかでも、ポスターになっている「有翼ライオンの黄金のリュトン」
など、きらめくばかりの金銀の製品は、当時の王朝の強大な勢力の
一端を垣間見ることが出来ます。

 ほかに、こぶ牛形土器、黄金の短剣、円形切子碗、くさび形文字の
刻まれた銀製の碑文、剣、銀貨など、ペルシャ文明の至宝の数々を
1時間半くらいかけて鑑賞しました。

 ペルシャ文明展は、10月1日まで開催中です。詳細は、以下の
ウェブサイトをご覧下さい。
  http://www.asahi.com/persia/

 同じ東京都美術館内では、幾つもの美術展を開催中でしたが、その
一つ、「第33回全国日曜画家大展覧会」というのが、無料だったので、
入ってみました。

 日曜画家といっても皆さん上手な作品ばかり、撮影禁止でないようで、
写真を撮っている人がいたので、私も何点か撮りました。その1部を
ご覧いただきましょう。







 美術館を出て、噴水広場の南から上野駅に向かいます。



 広場の東側で、大道芸人が子どもを相手に、トランプや皿回しの芸
を披露していました。


 東京都美術館の入口でも、のこぎり音楽を引く芸人が、途中にも
笛吹の芸人がおり、上野公園は、大道芸人の格好の発表会場のよう
でした。


 上野公園の森は、アブラゼミやミンミンゼミの鳴き声が賑やかでした。
 




 
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さいたま市「浦和くらしの民家園」

2006-08-28 23:42:32 | Weblog
 昨日、見沼通船堀の閘門開閉実演を見た後、見沼代用水東縁へ
出て北に進み、さらに国道463号沿いに回り、「浦和くらしの民家園」
へも寄ってきました。

 ここも以前、2~3回行ったことがあるのですが、7月に行った英国・
コッツウォルズで、何か所も「かやぶきの家」を見てきたので、ここに
あるかやぶきの家も、もう1度見てこようと思い出したのです。

 国道側の入口を入ると、左手には国の登録有形文化財「旧浦和市
農業協同組合三室(みむろ)支所倉庫」があります。

 もとは、栃木県小山市のかんぴょう問屋の倉庫だったものを、昭和
31年(1951)に移築し、政府指定米穀倉庫として使用されていた
ものです。

 大谷石土蔵づくり、トラス小屋組寄せ棟の瓦葺き屋根です。建築
年代は大正8年(1919)です。

 移築された昭和30年代は、この辺り一帯は見沼田んぼが広がって
いたでしょうから、その田んぼから収穫された米が、たくさん倉庫に
収蔵されたことでしょう。

 倉庫のあった三室は、見沼田んぼの西側の地名で、現在は、カン
トリーウオークの仲間6人がお住まいです。

 倉庫の西側にあるかやぶき平屋の建物は、旧高野家住宅です。

 中山道沿いの岸町にあったもので、現存する中山道浦和宿の商家
では最も古いものとのこと。建築は江戸末期の安政年間(1854~
60)のようです。

 入口には、「高野煎餅」ののれんが掛かり、中に入ると、売っていた
煎餅(せんべい)入れのガラスビンが並んでいました。


 この建物に並んでいる瓦葺き白壁の建物は、旧綿貫家住宅です。

 綿貫家は、肥料と荒物を扱う商家で、建築は江戸末期から明治初期
と推定されているとか。
 
 明治21年(1888)の浦和宿の大火にも焼け残った貴重な建物です。

 円形の緑地を挟んで南側には、旧蓮見家住宅と旧中島家穀櫃(こく
びつ)、旧武笠家長屋門が一つの屋敷の中に配置されています。


 旧蓮見家住宅は、寄せ棟平屋のかやぶき農家です。

 広間型三間取りとよぶ、この地方の典型的な古民家の特徴を持つ
家とのことで、江戸時代中期の建築と考えられ、現存する市内最古の
民家のようです。


 旧中島家穀櫃は、農協倉庫と同じ三室の中島家のもので、寄せ棟
かやぶきの小建築ですが、通気性のよい穀物の保存に適したつくりに
なっているようです。

 屋敷の南側は、旧武笠家長屋門、同じ三室の武笠家から寄贈を受け
たかやぶきの長屋門です。


 武笠家では、正規にこの門を開くのは、冠婚葬祭の特別の日に限られ、
普段は別にあった通用門を使用していたようです。


 長屋門には、大八車や、背負い篭、とうみなどの農具が保管されて
いました。


 長屋門の庭側に立てかけてあった竹馬に、子どもが挑戦していました。

 私も小さい頃は、竹馬に乗ってカツブシカキ(乗ったまま竹を交差させ
て鰹節を削る時のような音を出す)も出来たので、乗ってみようかと思っ
たのですが、落ちて足をくじいてはと思い、止めておきました。

 これら屋敷の西にあるのが、旧野口家住宅。市内大谷口にあったもの
で、野口家は、旧大谷口村の安楽寺の住職をつとめた家とのこと。

 この建物は庫裡(くり)として使用されていたそうですが、同寺は、明治
初年に廃寺となり、その後は同家の母屋として使用されたようです。

 建築は、安政5年(1858)の墨書が確認され、この時期かそれ以前の
建立と考えられているようです。

 いろりにある自在カギや、太い梁の天井などが、歴史を感じさせて
くれます。


 それにしても、英国・コッツウォルズで見てきた、家の回りを花や
ツタで飾り、切り込みを入れたかやぶき屋根の民家を思いだすと、
お国がらとはいえ、ずいぶん質素に感じられました。






 

 
 

 

 

 

 
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さいたま市・見沼通船堀の閘門開閉実演

2006-08-27 23:49:06 | Weblog
 さいたま市の東部に残る広大な緑地の縁を、「見沼代用水」(み
ぬまだいようすい)という人工の農業用水路が2本流れています。

 江戸中期の享保13年(1728)に出来たもので、2本の用水路に
囲まれた約1,200haの「見沼田んぼ」や下流の田んぼをうろおし
ました。

 東西2本の見沼代用水が狭まる地点に、享保16年(1731)には
見沼通船堀(つうせんぼり)が設けられました。

 見沼田んぼの中央を流れ、見沼田んぼの余剰の水を排水した芝川
と、2本の見沼代用水路を東西に結ぶ約1kmの運河です。

 芝川を中心にして、東側が約390m、西側が約650mです。

 通船堀は、見沼代用水周辺の村々と江戸とを船で結ぶためのもの
ですが、芝川は排水路なので低く、見沼代用水は農業用水路のため
高い台地の縁を流れており、3mの水位差がありました。

 その水位差を克服して船を行き来するために、通船堀には2つずつ
の関(閘門(こうもん))が設けられました。

 この関で水位を調節しながら船を上下させて、芝川と見沼代用水を
結び、荒川(隅田川)から芝川、見沼通船堀経由、見沼代用水路への
舟運が可能となり、江戸と見沼代用水路周辺の村々との流通が活発
になったのです。

 関(閘門)を使って船を通す形態の運河を、「閘門式運河」と呼び、
世界的に有名で規模の非常に大きいのが1914年建造の「パナマ
運河」です。

 日本では、江戸時代から見沼通船堀と似たような運河が建築され
始め、京都の高瀬川、出雲市の来原岩桶、岡山市の倉安川吉井水門、
茨城県東茨城町の勘十郎堀などが造られたようです。

 前置きが長くなりましたが、見沼通船堀には、最近復元された関が
東に2つと西に1つあり、東側の関で今日、閘門開閉の実演が行われ
ました。

 場所は、JR武蔵野線東浦和駅から東に1.2kmほどのところです。

 午前10時と午後1時からの2回実施され、私は午後1時からの実演
を見に行きましたので、その様子を報告します。


関は木造です。上流側の2の関から下流の1の関方面を見たものです。
2の関と1の関との距離は約90mです。


 2つの関の中間から見た1の関(下流側)です。普段はもう少し水量
が少ないのですが、あらかじめ関をとめるための「角落板」(かくおとし
いた)が2枚入っているようです。


 同じ状態での2の関です。手前にある舟は、当時のものの1/2の大き
さとのことでした。


 2人で何枚目かの角落板を入れているところです。水圧で自然に
関に抑えられるように操作しています。


 当時の1/2に復元された舟、帆柱も立っていますが、帆は張って
ありません。真ん中に乗っているのは米俵です。


 下流側の1の関、だいぶ水位が上がったのがお分かりでしょうか。


 さらに水位が上がっています。そろそろ終わりのようです。


 上流の2の関もかなり水位が上がってきました。舟は帆柱を外して、
櫓(ろ)でこぐ状態にしてあります。


 角落板が全部入りました。ここまでで50分あまりかかっています。


 これで舟も2の関を通過して上流に進めそうです。関を通過する
ときは、20人ほどの人が舟を引っ張り上げたようです。


 舟が2の関を通過した後、1の関の角落板を順次外します。その際、
下流の芝川に向かい、大きな流れが起きます。


 この写真で、1の関の水位の上がり具合がお分かりかと思います。


 2の関(上流)側の土手(右)にも、水位の上がり具合が残っています。

 今年2月14日には、皇太子殿下ご夫妻もここへ来られ、閘門開閉の
実演をご覧になっておられます。

 8月3日のブログで紹介したように、英国・オックスフォードのテムズ河
にあった閘門を7月12日に見てきたこともあり、今回の実演は大変興味
深く見ました。なお、見沼通船堀は、国指定史跡になっています。

  


 

 


 

  



 
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塩の道・千国街道を歩く(小滝~糸魚川②)

2006-08-26 22:05:13 | 塩の道を歩く
 北からの乾いた高気圧と南の湿った暑い高気圧の境目に入り、首都
圏は最高気温が30℃まで上がらず、幾分しのぎやすい日となりました。

 暑くてさぼっていた貸し農園に行き(といっても、わが家の東側)、草
むしりと、今年初のモロヘイヤを少しと、熟れすぎて赤くなったシシトウ
ガラシを収穫しました。

 塩の道レポートは最終コース、いよいよ日本海海岸を目指します。


 2005年9月1日(木)
 =塩の道・千国街道 小滝~糸魚川(日本海海岸)続き=

 林道は、滝から流れ下る虫川の右岸に沿って下って行く。

 公園からすぐ、菅沼から来た道と合するところに、三界萬霊供養塔と
記された古い石仏があった。


 森屋敷橋で虫川の左岸に回ると、ビニールパイプから冷水が流れ出
ていてコップもある。

 背後からの暑い太陽でのどが渇いていたので、一気に2、3杯飲み
干した。

 虫川の清流沿い、にぎやかなミンミンゼミの鳴き声を聞きながら進み、
虫川に入る。


 田んぼのそばに「史跡 虫川関所跡」の標柱があった。

 塩の道が賑わった当時は要所だったのだろうか、今はその面影を
想像できない数戸だけの静かな集落だ。

 すぐ先の虫川白山社に参拝し、杉木立の下で昼食にした。


 さらに虫川沿いに下る。次第に流れより高みとなり、大谷内集落へ。

 谷間から抜けた東側は黄金色の田んぼが広がる。大谷内と次の中谷
内集落に、塩などを運ぶ牛をつないだ牛つなぎ石が残っていた。



 中谷内の西側山すそにある霊源寺に回って参拝、杉木立下の石段の
横に、江戸時代の石仏群が並んでいた。


 午後の日差しが強まり暑くてたまらぬので、珍しくあった商店でアイス
クリームを買い、近くの八幡社の木陰で食べる。


 集落を出て田園地帯になる。振り返ると、雨飾山や海谷山塊などの
重畳たる山並みがよく見えた。


 梶屋橋付近からは、東側の姫川駅周辺に、生コンか砂利の工場らし
いのが4~5社見える。

 杉林の山すそを回って頭山集落に入る。車がやっと通れる道がくね
くねと住宅の間を抜けている。もとの車道に戻って岩木集落へ。

 舗装路が尽きたところから真っ直ぐに上がって広葉樹林下の山道
に入る。

 北陸自動車道の岩木トンネル上を通過、樹間から姫川にかかるJR
や国道の橋が見えた。


 歩く人が少ないのか、雲の巣が多く、倒木もある。目印の黄色い
ビニールひもを頼りに、分かりにくい山道をたどり、姫川第七発電所
構内の建物の後に下った。

 碍子と送電線の並ぶ横から水力発電機のある建物の東に出る。
 
 背後の山腹から3本の送水管が下っているが、かなりの太さである。
桜の下で小休止して正門を出た。

 姫川左岸を北に向かう車道は、ダンプの通過が多い。

 JR北陸本線の線路手前で左折して西へ、山すその諏訪神社に参拝
し、間もなく塩の道完歩の御礼を申し上げる。


 北陸本線と国道8号下を抜け、クロマツと芝生の須沢臨海公園に入る。
さらに車道を越え、15時34分ついに日本海に到達、塩の道・西コース
のゴールである。

 4年がかり、延べ7日半ほどでの完歩、夏の草道は分かりにくいとこ
ろもあったが、江戸時代の塩の道の面影はあちこちに残っており、
歩きがいのあるコースだった。

 公園で小休止してから宿に向かう。姫川橋を渡り、船の並ぶ糸魚川
港の南を回り、国道8号を横切り、16時30分、昨日と同じビジネス
ホテルに着く。

 この日、近くの上越市の最高気温は33℃、距離よりも暑さが厳しい
一日だった。

(天気 快晴、距離 22km(海岸まで19km)、地図(1/2.5万) 小滝、
糸魚川、歩行地 糸魚川市、)




 
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塩の道・千国街道を歩く(小滝~糸魚川①)

2006-08-25 22:15:37 | 塩の道を歩く
 2005年9月1日(水)
 =塩の道・千国街道 小滝~糸魚川(日本海海岸)=

 全夜宿泊したビジネスホテルを出て、駅前通りのコンビニで弁当を
買い、糸魚川駅8時20分発南小谷行きに乗る。


 8時41分、小滝駅に下車、小滝郵便局先の三差路までは昨日の道
を戻る。

 電柱に、「注意 熊が出ます」という表示が出ていてビックリ。
 
 でもまだ暑い今は大丈夫だろうと勝手に考える。

 前川の三差路で「不動滝 明星山」の表示のある上り道へ。最初の
カーブから、その明星山の垂直な岩肌をむき出した東面がよく見える。

 きのう南側から見た凸型と違い、横長の山容なので、同じ山とは
思えない。

 スタートから暑いが、岡集落に向かう上り坂で、早くも大汗をかき、
首に巻いたタオルがたちまち濡れる。

 岡集落の尽きる辺りに明星山登山口がある。集落の先から林に入っ
たが、まもなく東側はススキの原に変わる。どうやら田んぼが休耕田
に変わったようだ。



 携帯電話のアンテナ塔横を過ぎると、行く手の峠がよく見える。

 民有林道岡倉谷線を緩やかに下り、やがて峠への上りとなる。周りは
杉などの林だが、道路は木陰がなく、太陽が背から照って暑い。


 かすかに寛政年間(1789~1801)と読める朝霧地蔵や、朝霧大橋
を過ぎ、2つ目のカーブの辺りから、道標に従い左手の若杉の山道に
入る。

 東に、海谷(うみだに)山塊の山が見えてきた。


 道はしっかりついていて、数分だが林道をショートカットした。

 林道に戻ってすぐに菅沼峠、標高は約470m。林道を横断する山道
を右に100mほどで、杉林を少し下ると、謙信・信玄像がある。

 石の座像で江戸時代のものらしいが、年代は記されていなかった。

 ゲンノショウコやノギクの咲く草道を下って行くと右手に棚田が現れ、
十字路に出た。直進すれば菅沼のはずなので進んだが、小さい沢の
右岸をだんだん東に回り込み、集落に出ない。

 おかしいと思い、十字路に戻って左に進む。数戸の民家が終わり、
杉林に入る。500mほど進んで車道に出た。

 すぐ先のヘヤピンカーブに「ふるさと林道 岡・倉谷線」の案内図が
ある。手持ちの地図と見比べ、西に迂回してしまったと分かった。

 ヘヤピンカーブを下って東に、菅沼の北で合する道に向かう。十分
足らずで鳥居が見え、ログハウスと広い駐車場があり、不動滝の案内
板が立っていた。


 西側一帯が芝生と桜、キャンプ場、池などのある自然公園になって
いる。


 その奥に、断崖から細く流れ落ちる糸滝と、落差70mで3段に曲折し
水量豊富な不動滝の2つが流れ落ちている。


 少し回り道はしたが、思いがけずりっぱな滝を見ることが出来た。(続く)

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塩の道・千国街道を歩く(北小谷~小滝②)

2006-08-24 22:13:02 | 塩の道を歩く
 昨日のレポートの続きです。


 2005年8月31日(火)
 =塩の道・千国街道 北小谷~小滝(続き)=

 旧国道を下りはじめると、北側の水平な稜線の向こうに、明星山
(みょうじやま)の凸型のピークが、少しだけ見えた。


 さらにヘヤピンカーブにかかると、眼下に姫川の流れと平岩駅周辺が
よく見える。ヘヤピンの下りは7段ほど続く。


 途中、ボッカトチノキと呼ぶ糸魚川市天然記念物の大きなトチノキが
葉を広げていた。

 カーブの終わる辺りに白馬温泉の建物があり、その手前に昭和47年
(1972)建立という露座の白馬大仏があった。

 当時はにぎわっただろうが、現在は国道が変わり、訪れる人も少ない
ようで、大仏さんもなんとなく淋しそうに見えた。

 大糸線の線路際に下り、「姫川渓谷いで湯の広場」という小公園や、
ホテル国富の横を通過、平岩洞門を抜けて平岩駅に着いた。

 時刻は12時近い。駅の待合室は照明も無くうす暗いので、駅前広場
にシートを敷き宿の弁当を広げる。

 海苔を巻いた大きなむすび2個と焼き魚や煮物などのおかずが付き、
十分なボリューム、おいしくいただいた。


 10数戸並ぶ駅前の家並みや電気化学大所発電所前を通過、国道を
横切り姫川と別れ、廃校になっていた山之坊小横を上がる。


 須合・山之坊方面への道標に従い山道にとりつく。やはり草が伸びて
いるが、道はしっかりしている。

 水場の表示を過ぎ、杉落ち葉のたっぷり積もった道を上がる。気温が
上がって汗が増える。

 左の斜面に垂直に切り立つ大岩・仏岩を過ぎ、さらに上がると林が
途切れ、行く手に民家が見えてきた。

 ススキの穂とワラビの伸びた間を進んで須合集落に上がる。集落の
外れで、ヘアピンカーブ先端の舗装路に出た。

 車道を進むと東側の展望が開け、日本百名山の雨飾山(1963m)が
よく見える。

 私が登ったのは1966年6月だったから、久しぶりの対面だ。

 車道を進んで山之坊集落へ。標高500~550m付近に点在する山上
集落、豪雪地帯なので、建物に雪囲いの板を入れる設備も出来ている。

 道を聞いた民家の親父さんの話では、冬の積雪は3~4mになるという。

 その家の横から車道にショートカットする草の道へ。ここもかなり草が
伸びている。

 地図上では500m足らずに見えたが、もっと歩いた感じで山之坊から
続く車道に出た。アジサイがまだ咲き残っている。

 大汗をかいた体に、峠からの向かい風がさわやかになぜてくれる。

 今回の最高地、標高667mの大峰峠に着いた。小屋に2体の地蔵さん
が祭られている。

 大きいのは天保13年(1842)、新しくて小さいのは平成8年のもの。

 そばの碑文によれば、「平成7年7月、姫川の大洪水で国道148号や
大糸線が流失、急きょ代替道としてこの県道大峰線を開通、西塩道の
大網地蔵尊を移設、開通記念に親子地蔵(小さい方)も建立…」と記され
ており、ここでも姫川災害の大きかったことが知れた。


 碑文の背後には、ビニール管から豊富に冷水が流れ出ている。のどが
渇いていたので、コップに2、3杯、一気に飲み干した。

 少し下り始めたところに「大峰峠 標高651m」の標柱があり、その先
から車道をショートカットする草道に入る。


 杉林を下り、大雨でえぐれたところを通過、右カーブ点では、明星山の
凸型の山容が中腹あたりまで見えた。

 流れを横切り、水の流れる道を下って車道に戻った。

 入りコン沢を左下に見下ろしながらの下りとなり、北風がさわやかに
汗をなでてくれる。


 夏中地蔵の辺りから色づいた棚田が現れ、ほどなく夏中集落である。

 男女共同作業所の角を左に、集落の家並みの間の細道をくねくねと
抜けて車道に戻った。


 こんどは右の道に入り、旧小滝村役場と記された夏中会館の前から
棚田の見える草の道を緩やかに下り、東峰集落に出た。

 車道が横切っていて「小滝関所跡」の標柱が立つている。そばの
「自然公園道」の標柱横から細い流れの左岸沿いの草道に入る。

 前半は、やはり草が伸びていて分かりにくい。「塩の道」とガードレール
に記された橋を通過して、間もなく車道に戻った。

 入りコン沢の昭和橋横を通過、小滝川の前川橋を渡り、前川集落へ。
小滝郵便局に寄り、東京・小金井市のMさんに便りをしたため、風景印
を押印してもらい投函する。

 小滝側に沿って進む。雨が少ないのか流れはわずか。


 国道の大正橋の南側で国道に合流し、黒部川電力姫川第6発電所の
先にある今日のゴール、無人の小滝駅に16時15分に着いた。


 16時45分発大糸線下りディーゼル車で終点の糸魚川に17時9分着、
十分あまりで今日の宿、ホテルルートイン糸魚川に入る。

(天気 曇り後晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 雨飾山、越後平岩、小滝、
歩行地 長野県小谷村、新潟県糸魚川市)
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塩の道・千国街道を歩く(北小谷~小滝①)

2006-08-23 22:37:22 | 塩の道を歩く
 昨日に続く塩の道・千国街道のレポートです。以下は昨年8月末に
出かけたものです。

 
 2005年8月31日(火)
 =塩の道・千国街道 北小谷~小滝= 
 残暑が納まらないが8月も月末になったので、4年がかりの塩の道・
千国街道の最終コース、北小谷~糸魚川の歩きに出かけた。
 
 今回のコースは、JR大糸線北小谷からだが、適当な宿がないので、
一つ手前の南小谷駅に近い、民宿に前日に来て泊まった。

 5時50分起床。曇っているが谷間から稜線にかけ、山ははっきり
見えるので雨の心配は少なそう。

 朝食後、お願いしておいた弁当を受取り、駅に向かう。半袖では
少し冷える感じで、気温は15℃前後だろうか。

 7時55分発ワンマン1両のジーゼル車に乗り、2つ先、無人の北小谷
駅に8時7分に着いた。

 ここからの塩の道は2ルートある。人気があり道も整備されていると
思われるのは、東側の大網峠を越えて山口に下るコースだが、宿の
関係などから今回は、西ルートの天神道を通って大峰峠越えのコース
を行くことにした。

 姫川を小谷橋で渡り、道の駅おたりまでは昨年歩いたところ。水曜
の今日、道の駅は休業日だった。


 早朝なので車の少ない国道148号を500m足らず、島温泉の横から
「塩の道天神道」の道標に従い、草の道に上がる。

 夕べの雨で濡れた草がかなり伸びていて、靴もズボンの下部もたち
まち湿る。まだ赤くなく、小さな白花のミズヒキがたくさん咲いている。

 橋の流された小さい流れを横断し、杉木立の下を進むと、「唐沢の
石仏」の表示があり、文政年間(1818~30)のこけむした石仏が
数基並んでいた。

 舗装した林道を横切り、樹林下をトラバースしながら進み、塩沢の
砂防ダム下を橋で越える。


 秋の虫の音を聞きながら行くと、東側の展望が開け、姫川対岸の斜面
に李平(すももだいら)方面の集落が見えた。


 国道の塩坂トンネル上を緩やかに上り、峠になっている城ノ越に着く。
松の木の根元に文化年間(1804~18)の石仏が2体あり、茶店が
あったことも記されていた。


 木の樋から清水が流れ落ちていたので、汗をかいていて乾いたのど
を潤した。
 
 未舗装だが1車線ほどの道から右下に下る道標があり、草の伸びた
分かりにくい細道に入る。

 太陽が直接当たるところは草が伸びているが、少し先で樹間に入っ
たら道もはっきりしてきた。


 ブナも茂る林を通過し、姫川の流れを見下ろしたりして、右が低い
斜面をトラバースして行くと、3体の石仏が並ぶ「砂山の石仏」がある。
文政9~10年建立のものである。


 急流が流れ落ちる前沢に出て、三段続く砂防用堰堤(えんてい)の間に
かかる橋を渡る。

 少し下の大きな砂防用堰堤の横を国道に下った。国道は塩坂トンネル
を抜けたところ、すぐ先で国道の東側棚田の横を下って湯原の集落を
過ぎる。

 姫川左岸、河川敷の道を進むと大規模な砂利の堆積場がある。川沿い
を進んだが、上に上がる気配がないので戻り、堆積場の左横を進んだら、
20基前後の石仏が並んでいた。

 猫鼻石仏群と呼ばれ、文政9年(1826)、天保10年(1839)、
文久2年(1861)などの年号が刻まれた庚申塔や二十三夜塔など
である。

 塩の道は、石仏群の手前から林に入り、ジグザグに上がって旧国道
に出る。

 雪崩除けのために道路を覆う国界洞門に入り、左にカーブして500m
前後進む。


 洞門を出ると信越国境、蒲原川にかかる国界橋を渡って長野県小谷村
から新潟県糸魚川市に入った。


 橋の上流は滝で、かなりの流量で流れ落ちている。

 旧国道はその先、Y字路を左に進むのだが、道路崩壊で通行禁止、
Y字路を右にヘヤピン状に下り、国道の国界橋際に出た。

 橋の北側の平坦地に、新しい慰霊碑がある。碑文には「平成7年7月
の豪雨により、ここ蒲原沢でも大規模な土石流が発生、前年完成した新
国界橋が流出した。

 その復興と地域の安全のため、砂防ダム等の建設と新国界橋の復旧
工事中、平成8年12月6日、再び大規模な土石流が発生し、工事中の
14名の尊い人命が失われた。

 慰霊碑はこの14柱の御霊に哀悼の誠を捧げる…」と記されていた。


 すぐ下流の姫川左岸は、高さ100m以上も緑がはがされ、土砂が
むき出し。当時の崩壊のすさまじさがしのばれた。

 すぐ先、大所トンネルの手前で国道の右に下り、合宿所風の一軒家の
手前の道標に従い、沢の左岸沿いの山道をジグザグに上る。

 ここも日の当たるところは草が伸びていて、ちょっと分かりにくい。
電線が道路を横断しているところで旧国道に戻った。

 民宿アルプスの看板の出た建物がある。すぐ先が葛葉峠で、標高は
約450mである。

 今は通過車もないが、国道時代の峠の休み所だったらしい3棟の廃屋
が残っていた。                       (続く)
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塩の道・千国街道を歩く(栂池~北小谷②)

2006-08-22 23:04:10 | 塩の道を歩く
 昨日の続き、一昨年7月のレポートです。


 2004年7月20日(火)
 =塩の道・千国街道 栂池~北小谷(続き)=

 小谷村役場のある雨中(うちゅう)集落に入る。

 役場の前に小谷郷土館と小谷名産館が並んでいる。かやぶきの小谷郷
土館は、明治中期以降、長く役場として使われた建物だという。

 館内には、小谷から出土した化石、石器、縄文時代の出土品、おたり
杜氏(とうじ)の資料、暮らしの道具、山や里の暮らし、自然などを紹介
していた。

 特に興味を引かれたのは、平成6年に発見されたという恐竜足跡の
化石だった。隣の名産館は定休日で入館できなかった。

 郵便局前から国道に分かれ、平行する西側斜面へ。オオバコなどに
覆われた草の道である。

 花盛りの和平集落を抜け、さらに山すそをトラバースして虫尾集落
に入る。かやぶき屋根をトタンで覆った民家が数戸目についた。

 三差路にある虫尾阿弥陀堂に寄る。小さいが趣ある建物。ここにも
庚申塔など10数体の古い石仏が並んでいた。


 そばにあった説明板に従って集落上の棚田まで上がったが、どうも
道が違うようだ。

 阿弥陀堂に戻ってよく見たら、お堂の左側に、草の道へ下る道標が
あった。よく確かめずに、20分ほど無駄な時間を費やしてしまった。

 草道を下って杉林を抜け、アサノセメントの工場横で下里瀬(くだり
せ)の旧道へ。

 中小谷簡易郵便局前からたんぼ道に入り、青いとんがり屋根のある
建物の横から車坂にかかる。

 杉林の中のジグザクの上りが続き、大汗が出る。上り切ってから西に
向きを変え、弘化4年(1847)銘の「南無阿弥陀仏」碑の先から下りと
なる。

 途中で弁当が買えなかったが、前日の昼食用に用意したパンがあっ
たので、送電線下の草の土手に腰を下ろし、棚田や深い山並みを眺め
ながら軽い昼食にした。

 近くには発電所の送水管があり、中土(なかつち)駅近くの発電所に
向けて下っていた。

 急斜面をトラバースして池原下集落へ。ここもかやぶきにトタンを
覆った家が目に入る。


 次の池原集落に立つ「千国街道」碑に、「春の野の 越後の方に
道続く」という句が彫られていた。


 二つの集落は棚田や深い姫川の谷を見下ろす高台にあり、昔ながら
の農村のたたずまいをよく残している。


 集落のはずれから上り道となり、車道を2度横切る。天気がすっかり
安定して青空が広がり、大汗が出る。


 しかし、石坂集落に向かう棚田の間の下り道になると風がさわやか
に吹き、汗も引いた。


 ウグイスの鳴く気持ちよい道を進む。浦川を見下ろす好展望地に
幸田文文学碑が立っていた。明治44年(1911)、稗田山(ひえだやま)
の崩落による受難者の鎮魂を祈願したもの。

 幸田は昭和52年(1977)にこの地を訪ねて取材し、雑誌「婦人の友」
に寄稿、のち紀行文「崩れ」を発刊したという。

 アーチ橋の浦川橋を渡り、標識に従い浦川左岸に向かって下る。沢音
と向かい風が心地よい。


 「塩の道・千国街道」道標に、「トチの実を栗鼠(りす)と競いて塩の道」
の句が記されていた。


 正面に見えた稗田山崩落監視塔と風車の下を通過する。


 少し上がった好展望地に、塩の道千国街道と稗田山の崩壊について
の説明板があり、崩壊時に土石流で流れてきたという大石が並んでいた。


 その先から舗装路となり、姫川や東の山並みを眺めながら進んで
来馬(くるま)集落に入る。

 鎌倉時代の青銅鏡があるという来馬諏訪社を抜け、姫川を見下ろす
高台の常法寺に参詣する。

 本堂には県宝の阿弥陀如来及両脇侍立像が、姫川を背にした境内
には古い石仏が並んでいた。


 姫川左岸沿いに進み、村営の来馬温泉下を回って小谷橋の西側に
出る。

 橋を渡れば北小谷駅だが、上り電車まで1時間ほどある。左折して、
国道を挟んで咲くネムの花を見ながら少し進み、道の駅小谷に寄る。

 特産品や地酒の販売、レストランや軽食コーナー、天然温泉「深山の
湯」などがある。

 汗を流したいが温泉に入るには時間が足りない。牛乳や冷水を飲ん
で汗を鎮め、夕食用の弁当を買って駅に向かった。

 旧道の小谷橋を渡り、無人の北小谷駅に着いた。帰途は、きょうから
使える青春18きっぷの1枚目を利用し、8時間近くかけて帰宅した。

(天気 晴、距離 18km、地図(1/2.5万) 塩島 雨中 雨飾山)
 
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