あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

京都・伏見の社寺を巡る(上)

2008-04-13 23:44:11 | 京都を歩く
 2008年4月1日(火)



 京都の社寺巡りの最終日は、京都市の東南部、伏見周辺
を回ることにした。JR奈良線のJR藤森(ふじのもり)駅を9時
35分にスタートする。

 東に1㎞近く進み、携帯電話のアンテナ塔の先の斜面を上
がって、古御香宮(ふるごこう)とも呼ぶ御香宮社に行く。

 文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見築城にあたり、城内の
鬼門除けの神として伏見九郷にあった御香宮をこの地に遷宮
して、社領300石を寄進したという。

 秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、現在の本殿は
その後に建てられたものとか。

 秀吉がここに神社を祭ったのは、隣接する「桓武天皇陵
参考地」を保護する必要とも伝えられているようで、南側
にはそれと思われる林が残っていた。

 車道に戻り、さらに南東に進み、八科峠の交差点際を東
に入って仏国寺へ。

 延宝6年(1678)、中国福清の人で隠元(いんげん)禅師
の招きで来日した、高泉(こうせん)和尚が復興した寺。


 墓地にある高泉和尚銅碑は、正徳元年(1711)に鋳造の
青銅碑で、撰文は高泉和尚の教えを受けた近衛家(いえ
ひろ)によるものという。

 墓地には、江戸初期の代表的作庭家で伏見奉行でもあった
小堀遠州の墓もあるというが見つからず、韓国姓の新しい墓
がたくさん並んでいたのが目についた。

 八科峠に戻ると、民家の傍らに道しるべの標石と、逢坂山
車石という石碑が並んでいた。


 峠の交差点を西に入る。すぐ先の左側一体は伏見北堀公園。
伏見城の北堀跡を自然公園に整備したものらしい。

 堀跡には小さい流れがあり、両側は桜やハクモクレンなど
が咲き競い、散歩やウオーキングの人たちが次々にやって
来た。

  堀跡を隔てた南側にあった高台に上がったら、思いがけ
ず大きな城が見える。
 
 地図で確かめたら何と伏見桃山城。野球のグランドの先に
回って城のそばへ行く。

 周辺のソメイヨシノが見ごろ。城は大きいのと小さいのが
並んでいる。しかし石垣は自然石の感じがせず、砕石して
形を整えたようで最近のものらしい。

 帰宅後調べたら、1964年に伏見城の花畑跡にできた遊園
地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉として建設されたが、
経営母体の近鉄のリストラで閉園、京都市が無償譲渡を受け、
一体を伏見桃山城運動公園として、最近整備したようだ。

 五重六階の大天守と三重四層の小天守、楼門などは史実
には直接関係ないと知り、ちょっと拍子抜け。公園内に、城
の説明が何もなかったことも納得した。

 雲行きが怪しくなりちょっと冷えてきたが、城を一周して
伏見北堀公園の西端に回り、北側の車道に出た。


 藤森小や森林総合研究所の北側を下り、JR奈良線の西を回
って海宝寺に入る。

 海宝寺とその周辺一帯は、仙台藩伊達政宗の伏見上屋敷が
あったところとか。正宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの
屋敷地を与えられ、一時は千人以上も住んでいたという。


 本堂横に正宗手植えという桃山時代の名木、モッコクがある。
手前は枯れたのか布で覆っているが、奥は枝を大きく伸ばし
ていた。

 境内の庭園もよく整えられている。

 国道が90度カーブしている近くには、栄春寺があった。
永禄11年(1568)、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として
開創したという。

 現本堂は天保10年(1839)の改築で、本尊は徳川家康
の家臣・酒井重勝が寄進したものという。

 この庭園も、よく手入れされていた。
 

 京阪電鉄墨染駅の横を通過し、水量豊富な琵琶湖疎水を
渡って桜の名所、墨染寺に向かう。

       
                                 (続く)

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