あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

四国歩き旅の絵を見に 市川・国府台から京成中山へ(千葉)

2013-12-24 09:40:39 | 写真展・スケッチ展(個人・グループ)観覧
 2013年12月22日(日)

 冬至の日、案内はがきをいただいた「放浪のお絵描きおじさん」の作品展の鑑賞に、市
川市に行くことにした。
    

 最寄り駅は京成本線の市川真間駅だが、周辺の寺社も回ってみることにして、一つ手前
の国府台(こうのだい)駅に10時40分に下りた。

 江戸川に接する水戸街道・県道1号に出て、近くの春日神社へ。社殿前に山車蔵(だし
ぐら)があり、境内のイチョウは葉が少しだけ残る。


 そばの民家は、昭和の日本建築の姿を留めた貴重な建物だ。


 すぐ先を東に入ると安国院で、境内の冬桜が見ごろ。本堂前で大黒天がにこやかに迎え
てくれた。


 国道14号・千葉街道の手前の三差路を左折して東へ。道路の両側に寺が相対し、北側
の玄授院は堂々たる本堂。


 南側の龍泉院は小さめの本堂で、門際に穏やかなお姿のお地蔵さんが立つていた。
        

 線路際を進んで踏切を渡り、市川真間駅の北口へ。細い路地を東北に進み、国府台女子
学院前の通りに出た。北に少しの「サロン・ド・グランパ」に相田みつをギャラリーと展
示コーナーなどがあり、今日の目的の「第4回 百田稔作品展」もここで開催している。


 百田さんも居られ、今回は10月初めから1か月ほど歩いて描かれた、四国の高松から
出発して徳島、高知を経て松山までのスケッチを鑑賞する。
    

 私が四国遍路で巡った寺院や道中の風景などのほか、行きたいと思いながら先を急いで
行けなかったところ、知らなかった場所など、葉書大の作品がたくさん展示されていた。

 以前歩かれた東海道や山陰、能登、九州などのスケッチもファイルになっているので、
幾つか拝見し、百田さんの話も伺う。

 その場での感動を忘れぬため、スケッチはすべて現場でされるとのこと。今回の旅では
台風に2度遭遇し、11年間のお絵描き旅の中でも初めて、まる1日宿に逗留したという。
高知県内を5日間同宿した延岡の遍路さんが、この作品展にお出でになったとも言われた。

 ほかに、東かがわ市の手袋資料館で描いた作品が手袋工業組合の来年のカレンダーに使
われ、12月16日(月)にはNHK総合TVの「ひるブラ」で取り上げられたとのこと
や、昨年の東北の旅では五所川原市で猛烈な風に見舞われて立ち往生したことなど、貴重
な体験や数々の出会いのあった旅の模様をたくさん伺った。

 ちなみに百田さんは、私も参加した中山道歩きのメンバーのひとりである大阪のKさん
とは旧知で、東海道を歩かれた2004年4月に、中山道と分岐する草津で、Kさんと出
会ったことが東海道の画集に記されていた。

    
 作品を見たり話を伺ったりして1時余り経過し経過し、ご一緒に写真を撮らせていただ
き、12時半過ぎに会場を後にする。

 国府台女子学院小の横から細道を南東へ、京成電車の踏切を越えた両側に、クロマツの
古木が続く。
    

 古い街道かと思い、通りがかりの女性に聞いたら、以前この辺りは海辺だったとのこと。
千葉街道に近い新田神社境内にも、クロマツが何本か立っていた。
    

 千葉街道に出て、次の三差路を東北に入る。菅野(すがの)駅の手前の諏訪神社周辺は、
平田特別緑地保存地区。かつての海辺地の黒松林の様相を残しているので、保存地区に指
定したことが記されていた。

 諏訪神社は、信濃の諏訪大社の末社なので、平成18年の諏訪大社式年遷宮に習い、御
柱(おんばしら)奉上の神事を行ったとか。社殿前に2本の御柱が立っていた。

 東京外環自動車道の大規模な工事が進捗中の、菅野駅の東側踏切を渡る。この通りにも
クロマツがかなり残っている。菅野一丁目の浄言寺(じょうごんじ)本堂はコンクリート
造り。墓地のそばに、大きな大慈悲観世音菩薩像が立っていた。
        

 近くの白幡天神社は、治承4年(1180)源頼朝が安房国に旗上げの際、この地に白
旗を掲げたことから名付けられたとか。拝殿の社額は勝海舟の揮毫(きごう)という。


 あまり大木は無いが広い境内には樹木が多く、社殿横には市保存樹木で樹高10mとい
うムクノキが立つ。
    

 道路際には、この近くに移り住み神社のことも小説に描いた、幸田露伴の「文学の碑」
がある。


 県道51号の西側にある不動院は、平成19年再建という新しい大本堂が目をひく。西
側の大師堂は、小さいが端正な造りだ。


 交通量の多い県道に出て南下して不二女子校の北側を回り、山門横に樹齢約200年と
いう大クスが立っ葛飾八幡宮境内に入る。
      

 創建は平安の寛平年間(889~98)、宇多天皇の勅願により下総国総鎮守として鎮
座したとか。平将門、源頼朝、太田道灌などゆかりの社で、徳川家康からは朱印地五十二
石を寄進されたという。


 社殿右後方には、国天然記念物で「千本公孫樹」と呼ぶ呼ぶ樹高22m、根回り10.2
m、江戸名所図会にも記されている大イチョウが立っていた。
     

 境内は広大で、ほかにも県指定文化財の元享の銅鐘、朱塗りの随神門、「源頼朝公駒ど
めの石」、市川市で梨栽培を最初に始めた「川上翁遺徳碑」、「八幡音頭」と「市川小唄」
の歌碑などが目についた。神社を囲む八幡神社の森は、国指定保安林である。

 京成電車の踏切を渡り、国道14号・千葉街道に出て市役所↓前を東進する。


 14時を過ぎたが昼食場所が見つからない。八幡一丁目の東昌寺には、大きな自然石の
手水鉢があった。
    

 桜並木の下に沼田元知事の「治水とやすらぎ」と刻まれた石碑のある、真間川を渡る。
左岸横の空き地には、明治時代に欧米の体操を広め、ヨーロッパの留学先では滝廉太郎や
巌谷小波などと交流のあったという「坪井玄道(つぼいげんどう)生誕の地」の説明板が
立っていた。

 鬼越(おにごえ)駅への三差路際にあったコンビニでおにぎりを求め、近くの常開寺に
入り、本堂左手のお堂↓の階段を借りて遅い昼食に。


 その前にサルスベリの古木が立ち、その由来を木の板に記した「百日紅」という歌碑があった。

 近くの高石神社へ。社殿前に2本のイチョウが、背後にはケヤキの古木があるが、開放
的な境内である。


 東側の広い車道に下り、踏切の北から東北に延びる高石神地区の古くからの住宅地の細
道へ。

 近代的な白亜の本堂の泰福寺の先から、台地に向かって上がって行くと中山安房神社が
あった。江戸名所図会には「安房須明神社」と記され、現在地に建立されたのは大正4年
(1915)という。


 少し東進して、京成中山駅から北に伸びる参道に合したところに、思いがけず堂々たる
仁王門が立っていた。中山法華経寺である。


 寺は、日蓮聖人が文応元年(1260)に創立した日蓮宗大本山の寺院。日蓮聖人が松
葉ヶ谷の焼打に遭われた折、大信者だった富木常忍(日常聖人)と中山の領主、太田乗明
が当地に聖人をおつれし、聖人自ら釈迦牟尼佛を安置して開堂入佛の式を挙げたのが法華
経寺のはじまりとか。

 その後、文永元年(1264)には、日蓮聖人が眉間に傷を追う危急の際、鬼子母神の
救護により一命が救われ、中山に避難された折、養生のかたわら鬼子母神像を彫り開眼し
たという。

     
 桜並木の長い参道を進むと、広大な境内の正面に国重要文化財の五重塔がそびえ立つ。
本阿弥光室により元和8年(1622)に建立したもの。

 左手の大きなお堂は日蓮聖人を祭る祖師堂。やはり国重文で、江戸中期の延宝6年
(1678)に上棟されたとか。

 屋根を二つ並べたような比翼入母屋造りが特徴で、ほかには岡山県の吉備津神社本殿だ
けという。


 さらに法華堂、四足門、刹堂、荒行堂、鐘楼など幾つもの堂塔が広い境内に並び立つ。
このような大寺院が市川にあるとは知らなかった。

 五重塔の近くには露座の大仏が、東側にはコンクリート造りの鬼子母神を祭る建物があ
り、道路を隔ててはイチョウの古木も立っていた。
      

 日が傾いてきた。土産店の並ぶ参道を仁王門まで戻り、さらに真っ直ぐ南に延びる通り
を駅に向かう。


 総門の近くにあった「いちかわ街案内所」の立て札の下がる清華園は、和風の建物と日
本庭園がある市の施設で、観光客に開放している。かなり時間が経過したので寄らずに通
過し、15時45分に無人の京成中山駅に着いた。

(天気 晴後快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 船橋、歩行地 市川市、歩数
 16,800)

 なお、「放浪のお絵描きおじさん」が、毎日その日のスケッチをアップしたブログは、
こちらをご覧下さい。
 



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やまさんから「関東百駅巡礼歩行」の巡礼地図が届く

2013-12-19 16:42:23 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年12月19日(木)

 きのう、「やまさん」こと山浦正昭さんから、「関東百駅巡礼地図」が届きました。
   

 2004年2月から開始して、この12月14日(土)に全100駅を巡り終えて満願
(完了)となった、「関東百駅巡礼歩行」の全100駅の行程を、やまさんが丹念に記録
した100枚の地図です。

 最多参加(76回)の私だけへのご褒美ともいえるもので、大変嬉しくいただきました。
以下に、節目の1番、25番、50番、75番、100番の地図を紹介します。

 現地を歩いて、しっかりとメモをとらなければ出来ない貴重な記録で、やまさんならで
はの作品です。

 第1番 総武流山電鉄(現在は流鉄に改称)流山駅 2004年2月14日(土)
   

 第25番 秩父鉄道 三峰口駅(私は不参加) 2006年⑸月13日(火)
   

 第50番 JR内房線 那古船形駅 2008年12月13日(土)
   

 第75番 東武伊勢崎線 境町駅(私は不参加) 2011年6月11日(土)
   

 第100番 京成金町線 柴又駅 2013年12月14日(土)
   

 いただいた100枚の地図を眺めてみると、それぞれの場所で見つけたもの、出会った
人、思いがけぬハプニングなど、色々な事が思い出されます。

 そしてこの巡礼歩行に参加したお陰で、いままで知らなかった多くの方々と知り合いに
なり、一緒に何度も歩くことが出来、大きな財産となりました。これも、やまさんの人脈
の広さと、参加された方がさらに友人、知人も同行されたので、輪が広がったのです。

 大変ユニークな旅を企画していただき、さらにこのような記録をいただいたやまさんに
は、感謝のほかありません。

 以下には、最終回の100回目にやまさんからもらった、全100回の一覧表と概念図
も紹介します。朱塗りは私の参加した駅、水色はもらった地図で別途歩いた駅です。
   

   

 参加されたことのある方には、その日のことを幾分なりとも思い出していただければ幸
いです。

 ちなみに、私の参加した駅のうち、初期を除くほとんどは、当ブログのカテゴリー「関
東百駅巡礼歩行」からご覧いただけます。




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関東百駅巡礼歩行 第100番 京成金町線 柴又駅(東京)

2013-12-16 19:08:27 | 関東百駅巡礼歩行
 2013年12月14日(土)

 「やまさん」こと山浦正昭さんが、10年前の2004年2月から始めた「関東百駅巡
礼歩行」は、毎年関東1都6県の10駅ずつを歩き続けて、ついに満願の100番目を迎
えた。

 最後の集合駅は、やまさんの地元、京成金町線の柴又駅。初回以来10年ぶり参加の横
浜のKさんなど、久しぶりのメンバーも集まり、総勢21人となる。

 駅前に居られた、そっくり寅さんにも入ってもらって記念撮影をして、11時にスター
トする。

 駅前広場の片隅に「おりつ地蔵尊」が祭られていた。昭和初期、この町で肉親のために
生命を絶たれた律子という女性に同情して、近所の人々が建立したという。
        

 線路沿いの通りを南に進んで踏切を越える。そばのコインランドリーに、鉛筆で描いた
著名人の似顔絵がたくさん貼ってあった。


 次の踏切を渡って東進する。手打ちそば「上総家」は、美味しいことで知られた店。私
も以前この周辺を歩いたときに、やまさんなどと入ったことがある。


 桜道中の東を回り、江戸から佐倉に通じる佐倉街道「さくらみち」へ。愛称は「親水さ
くらかいどう」。標石のところで、やまさんが明治時代のこの辺りの地図を見せてくれた
が、当時はほとんどが田んぼだった。通りにはソメイヨシノの並木が続いている。
     

 この通りを300mほど進んだ交差点際にも「似顔絵コインランドリー」があり、やは
り壁面や天井全面に同じ筆跡の似顔絵が並ぶ。

 コインランドリーの主、菅野さんが描いたもので、紹介の新聞記事も貼付されていた。

 次の交差点を右折し、北総鉄道の高架の手前にある鎌倉公園に11時35分に入り、昼
食となる。公園のソメイヨシノは、すっかり葉を落としていた。


 昼食を終え、参加したグループごとに自己紹介を行い、やまさんからは百駅を終えた後
の歩き方についてのアドバイスなどがあり、12時25分に出発する。


 北総鉄道の高架下を南に抜け、同じ鎌倉公園の一角にある鎌倉野草園に入ろうとしたが、
冬期は日曜・祝日のみの開園だった。

 野草園の東側の通りを南東に進む。京成本線の線路際に小さなお堂が二つ並び、大きな
石灯ろうも立っている。

 右のお堂には「鼎(かなえ)地蔵」と呼ぶ大きなお地蔵さんと青面金剛立像が祭られて
いる。この辺りは鼎橋跡、青面金剛像は道標になっていて、「橋向左矢切渡しみち」と記
されている。左のお堂は、南葛八十八ヶ所の第六番大師堂だった。

 ちなみに南葛八十八ヶ所霊場は、大正時代に旧南葛飾郡内を対象として整備された霊場
だという。

 お堂の前を東進して次の信号のある交差点を右折する。京成本線の線路のすぐ手前の交
差点際にも小さい「にがおえコインランドリー」があり、ここの壁面は女性の似顔絵が多
かった。
    

 東進して都道307号・柴又街道に出て、通りの東側にある大珠院に入る。境内は狭い
が植栽は豊富。
    
モミジがきれいに咲き残り、その下などにご住職が作陶したという小さい羅漢像が並んで
いる。
    

 寺は、南葛八十八ヶ所霊場の第十三番と第七十八番札所とか。ご住職と奥様が顔を見せ
て下さり、当寺の史跡案内とミニ地蔵のストラップをいただく。墓地は道路の北側にあり、
七十八番の小さなお堂は墓地の奥に祭られていた。

 墓地の東側から北に伸びる道路へ。すぐ左手の民家に大きな夏ミカンがたわわに実り、
エノキの古木が大きく枝を広げている。

 Tさんの家で、エノキは葛飾区保存樹木に選定されていた。

        
 クロガネモチがたくさん実を付けた鎌倉小の校門前を左折して、鎌倉八幡神社へ。

    
 当社は、相模鎌倉郡の人、源右衛門が当地開発に際し、寛永年間(1624~44)に
鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたと伝えられ、江戸時代には旧鎌倉新田村の鎮守となって
いたとか。境内のイチョウの古木はすっかり葉を落としていた。

 西側の柴又街道を次の信号まで進み、鎌倉四丁目に戻って北へ。江戸川区北小岩八丁目
を少しだけ抜けて「親水さくらかいどう」に出た。東進して北側の柴又五丁目に回り、り
っぱな仁王門をくぐって医王寺に入る。


 医王寺は、応永14年(1407)に将軍足利義満が、下総国一円に赤目病と呼ぶ奇病
が発生しているのを聞き、京都仁和寺の観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、ここに建
立したもので、以後、眼病を守る仏として信仰を集めているという。

        
 柴又七福神の恵比寿天の寺でもあり、本堂前の大理石の祠(ほこら)には、南葛八十八
ヶ所霊場第五十七番札所の石仏が祭られていた。

 北総鉄道の高架下を新柴又駅際まで行き、北に抜けて近くの宝生院に向かう。宝生院の
手前、南側に接する広い墓地は、柴又帝釈天、題経寺のもの。墓地には、柴又駅前にあっ
た「おりつ地蔵尊」の「おりつの墓」がある。
        

 その横には「鑿(のみ)塚」と刻まれた大きな石碑があるが、由緒は分からない。
        

 入口近くには、「浅間山噴火川流(かわながれ)溺死者供養碑」が立っている。天明3
年(1783)の浅間山大爆発により、上流の吾妻川から当地に流れ着いた利根川、江戸
川流域の溺死者を供養したものとか。
        
 史上まれに見る大災害の一端がうかがえる貴重なもので、区指定文化財になっている。

 墓地の北に接する宝生院は、柴又七福神の大黒天の寺で、南葛八十八ヶ所霊場の第五十
番札所。境内のイチョウとモミジがよい彩りを残している。


 宝生院の東側は東柴又小、北側の校舎入口のガラス戸に、低学年児童が書いたらしいク
レヨン書きの「げんかん」の表示がある。

        
 南側の校門には、木彫りでこのような表示があり、木彫りの表示のある小学校はここだ
けだろうと、やまさんは言う。

 北総鉄道高架下を少し東進し、北側の柴又地区センター横を通り、江戸川右岸堤防に上
がる。眼下の堤外河川敷は少年野球用の第二運動場である。


 すぐ下流では、対岸の松戸市側から動き始めた、矢切の渡しの渡し舟が望まれる。


 堤防上を寅さん記念館のそばまで進んで今日の歩きは解散となり、矢切の渡しを渡りた
い人と、山本亭から帝釈天方面に向かいたい人とに分かれる。

 私は、やまさんなど約半数の皆さんと葛飾区山本亭↓に入る。


 山本亭は、地元でカメラ部品製造をしていた山本工場の創立者、山本栄之助の自宅。関
東大震災後ここに住み、昭和63年(1998)に葛飾区が取得し、5年後から一般公開
しているという。

    
 伝統的な書院造りと洋風建築を合した和洋折衷の建物に、純和風の庭園がよく調和して
いる。
    

 建物に入って部屋を一巡後、皆さんとその一室で喫茶のひとときを過ごし、やまさんが
持参の関東百駅の写真集や自作されたレポート地図を見せてもらい、10年間の歩みをふ
り返る。ゆっくりと過ごして15時18分に山本亭を出た。


 南東側から柴又帝釈天・題教寺に入り、関東百駅満願に感謝して参拝し、豪華な山門を
出る。



 参詣客などで賑わう門前の土産店をのぞいたり、草団子を求めたりして日の傾きかけた
商店街を進んで、15時35分に柴又駅にゴールした。

(参加 21人、天気 快晴、距離 6㎞、地図 葛飾区道路地図、歩行地 葛飾区、江
 戸川区、歩数 10,200)

 10年間百駅中、私が参加したのは4分の3の76回、でも参加者中では最多だった。
参加の都度押印した「関東百駅巡礼カード」がよい記念になる。 





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つくばみらい市の東部をカントリーウオーク(茨城)

2013-12-09 20:46:38 | カントリーウオーク
 2013年12月8日(日)

 カントリーウオークグループの第209回例会に参加する。


 集合地は、つくばエクスプレスのみらい平駅。参加者15人は4組に分かれて、10時
7分にスタートした。

 == 板橋不動尊から歴史公園へ ==

 
 駅周辺は区画整理されているが、少しの商店と高層住宅などのほかは空き地や建設中の
住宅が多く、数年後はかなり変貌すると思われる。

 新興住宅地の向こうに、筑波山が望まれた。

 区画整理地から調整池の横を通過して東南に下り、愛宕集落の中心にある愛宕神社へ。


 関ヶ原の合戦後に武士から農民に伝えられ、ここ愛宕神社の例祭で奉納される「小針松
下流綱火(つなび)」は、国の重要無形文化財に指定されているという。


 神社の南から東南の西山集落に向かう。ニンジンやネギなどの畑を過ぎ、谷地田の先の
「近代造園さくらい」の道路際に、こんな供養塔が立っていた。

 動物の供養塔は見るが、こういうのは初めてだ。

 西山集落には3つの社寺が近接している。最初の鹿島神社は祭礼のようで、社殿や境内
に氏子が集まっていた。
    


 すぐ先の板橋八坂神社↑からは、隣接する不動院の大きな本堂が目につく。八坂神社境
内を抜けて不動院の門前に回る。


 不動院願成寺(がんじょうじ)は、大同年間(806~10)開創という歴史を持つ加
持祈祷(かじきとう)の道場。慶安元年(1648)には、徳川家光から朱印地十五石を
賜ったとか。

 本尊不動明王は国指定文化財で、「板橋のお不動さん」として親しまれ、求子安産、子
どもの成長安全に特に霊験あらたかと信仰されているという。
        

 元禄13年(1700)建立という楼門を入ると、境内では安永4年(1775)建立
の三重塔辺りを中心に、毎月第2日曜に開催という骨董市が開かれ、多くの人達が訪れて
いた。
    

 正面の大本堂は元文2年(1737)の建立で、密教建築の代表的様式らしい。


 拝所には大きな提灯が下がり、内陣には多数の人が参詣する様子などを描いた額が幾つ
か奉納されていた。

 本堂、楼門、三重塔ともに県指定文化財である。

 境内後部には、どこのものか分からぬが、八十八か所の石仏が並んでいた。


 東側の変則四差路から東南に下る細道へ。近くの畑の小さな木に、たくさんのユズが実
っていた。
    

        
 点在する住宅地を進んで鎌田集落の三差路に出て、南側の小さな鹿島神社の森に入る。
標高23.9m三角点は、金網に囲まれてしっかりと保存されていた。
    


 三差路際から、東に真っ直ぐ延びる細道へ。近年ふき替えたらしいかやぶきの家の前を
通過して山林に入り、取手国際ゴルフ倶楽部の手前の10数戸の住宅地に回る。

 少しの田んぼと細い畑の横を進めば昼食地の歴史公園へ行けるとみたが、住宅地の南側
は荒れ地で行き止まり。取手国際の南側を、南東に貫く車道に回る。
        

 ゴルフ場を抜けて標高20m水準点表示のところから林間を西進し、12時30分に古
い建物の並ぶ歴史公園に着く。物見やぐらの下で先着の皆さんは昼食をしていた。
        


 
 == 野堀から大和田の野道を行く ==

 ここは地形図上では「歴史公園」だが、現在は「ワープステーション江戸」と呼ばれ、
江戸城や堀、武家屋敷、大店、時代劇用オープンセットなどが設けられたロケ施設で、N
HKの大河ドラマなど時代劇の撮影に使用されているという。


 入場は有料だが時間が無いので入らず、無料の歴史館や管理棟の展示物などを観覧する。


 歴史館には、最初に寄った愛宕神社の網火の説明や、この地出身で樺太の測量をした間
宮林蔵の紹介などがあり、管理棟の展示室では「大河ドラマ50年の歩み」をはじめ、古い
衣装や大砲などが展示されていた。今年の大河ドラマ「八重の桜」の台本もあった。
    

 建物を背に記念撮影をして、13時15分に出発する。


        
 わがグループが迂回してきた東側林間の道を進み、ゴルフ場の手前から北に入り、平和
台住宅の横から野堀の集落へと向かう。

 県道46号を横断して大きな倉庫の横を進むと、正面に長い生け垣やりっぱな屋敷林に
囲まれた広い民家が目につく。


 その横を通過して林に突き当たり、東に向かったが地図上の道よりかなり東南東方向に
回り込んだ。大和田への道を探して少し行き戻りして目的の道に出て、大和田集落へ東側
から上がる。

 地図上の寺は無く、近くの長屋門のある民家前の通りを西進する。かなり朽ちてきたか
やぶきの平屋前を通って、集落の西に抜けた。


        
 杉木立の林間を進んで畑の開けた一角に出ると、林側に「B29墜落平和の碑」が立っ
ていた。
        
 東京大空襲のあった1945年3月10日、この地にB29が墜落して9人が墜落死し、
生存していた3人中、重傷者以外の2人が消防隊員から憲兵隊に引き渡されたことなどが
記されていた。

 林間を抜けると、谷地田の北側に狸穴集落が望まれる。


 谷地田の南側を西進して、狸穴集落から西に延びる車道に上がる。


 伊奈東の県道19号との交差点際のファミリーマートで小休止し、さらに延長上の旧道
を西進する。日が傾き冷えてきた。

 広々とした畑の間を途中から右折して、茨城ゴルフ倶楽部の西端付近まで進み、ゴール
のみらい平駅には16時18分に戻った。

(参加 15人、天気 晴、距離 17㎞、地図(1/2.5万) 藤代、歩行地 つくば
 みらい市、歩数 30,200)




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善福寺川沿いを荻窪から中野まで歩く(東京)

2013-12-07 21:36:10 | 江戸・東京を歩く
 2013年12月6日(金)

 11月中旬並みの暖かさになったこの日、東京・杉並区の北西端、善福寺池を水源とし
て区内を東南へ流れる、善福寺川沿いのウオーキングに出かけた。

 JR中央線の荻窪駅南口を10時5分にスタートする。東南に進んで荻窪四郵便局前を
通過し、荻窪三丁目にある区立「角川(かどかわ)庭園・幻戯山房(げんぎさんぼう)~
すぎなみ詩歌(しいか)館~」へ。

 俳人で角川書店の創設者、故角川源義氏の旧宅である。緩やかな台地の中腹に広い庭園
を持ち、幻戯山房と呼ぶ建物↑は国の登録有形文化財である。

    
 建物に入り、そのまま残る源義氏の書斎を拝見する。落ち着いたたたずまいの日本庭園
では、ススキやクヌギなどが武蔵野の雰囲気を残していた。


 蛇足だが、角川現義氏の句碑を、11月23日に歩いた三浦半島の先端、城ヶ島で見た
ことを思い出した。

 南側の「大谷戸さくら緑地」に出て、枯れ枝となったソメイヨシノの間を少し進むと善
福寺川左岸の遊歩道に入る。

 善福寺川緑地の始まる中通橋の先から、流れは半円形にカーブし、その内側(左岸)で
は、台風や集中豪雨による水害から守るための調整池の工事が進捗中である。



 カーブの終わった西田橋で右岸に回る。流れに沿ってソメイヨシノの並木が続くが、葉
はほとんど落ちていた。流れにはオナガガモがたくさん泳いでいる。
    

        
 色づいたカエデの横を過ぎ、対岸に大きく枝を伸ばしたケヤキなどを見ながら進む。


 天王橋の先からは、右に大きくV字状にカーブする。イチョウの黄葉や色鮮やかなモミ
ジの下などを通過し、五日市街道を横断して再び左岸へ。
    



 川の流量は増え、緑地にはケヤキなど広葉樹の彩りが残る。


 白山前橋の先の流域は和田堀公園となり、間もなく自然のままの中の島のある和田堀池
のほとりへ。もうすぐ散りそうなモミジが、彩りを残していた。


 洪水時の調整池となる低く掘り下げた野球場の横から、流れは90度左カーブして北に
向かう、すぐ先の大宮橋を渡って右岸を少し、大宮一丁目にある杉並区立郷土博物館に寄
ることにした。


 館の入口は、旧井口家住宅の長屋門。宮前五丁目から移設したもので、文化・文政年間
(1804~29)頃の建築と推定されているという。

 敷地は、もと嵯峨公勝(さがきんかつ)侯爵の邸宅とのこと。公勝の孫娘浩(ひろ)は
満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟薄傑(ふけつ)にここから嫁いだようで、当時をしのぶ、た
だひとつの庭石↓だけが残されていた。
    

 コンクリート造りの館内に入り、常設展示室で原始・古代から近現代までの展示を観覧
する。


 さらに特別展示室での「甲州道中へのいざない」へ。甲州街道は10年近く前に歩いた
ことがあり、江戸五街道中の位置づけ、江戸の庶民の旅や参詣模様、案内書など、興味深
く観覧した。


 本館の北には区内の古民家、旧篠崎家住宅が移築されていて、内部にも入れる。
    

 前庭のケヤキの高木が黄葉の彩りを残していた。
     

    
 本館前には、庚申塔や馬頭観音供養塔、五輪塔など、江戸期の民間信仰の石塔が並んで
いた。ゆっくりと巡り、50分ほどかけて観覧した。

 館の前の通りを北にすぐで、東側を真っ直ぐ北北東に延びる荒玉(あらたま)水道道路
に回る。
        
 出たところの家に十月桜が咲き、すぐ先の和田堀公園では、こんな木の実がたくさん付
いていた。センダンだろうか…。
    

 ちなみに「荒玉水道」とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を世田谷区砧か
ら中野区野方と板橋区大谷口に送水するために使用された地下水道管のこと。現在も砧か
ら杉並区梅里までの荒玉水道沿いに都道428号「荒玉水道道路」が走り、今日はその北
端付近を歩くことにしたのである。

 荒玉水道道路の直線部が終わった東側は、日蓮宗本山の妙法寺。「やくよけ大師」とも
呼ばれ、江戸時代から霊験あらたかなことで多くの信仰を集め、その繁栄ぶりは文政6年
(1823)刊行の「武蔵名勝図絵」に、「浅草観音に並べり」と記されていたという。


 どっしりとした仁王門を入ると、正面に大きな祖師堂(そしどう)があり、堂内には
「やくよけ祖師像が」祭られている。


 この祖師堂は、先ほど入館した杉並区立郷土資料館の記念スタンプのデザインにも使わ
れており、区内でも顕著な建物であることが知れる。

 境内は広大で、大きく伸びた木々の間に幾つもの堂塔が並び立つ。

 本堂は祖師堂の右手奥にあり、落ち着いたたたずまいを見せ、近くには日朝堂(にっち
ょうどう)↓や三十三夜堂、浄行堂(じょうぎょうどう)が並ぶ。


 本堂の西側には、近くに住みこの寺を愛した作家・有吉佐和子の碑もある。
      

 葉を落とした広葉樹の下には、五重石塔や2基の千部講中石塔が立っていた。
      

 祖師堂の右手にある鉄門は、わが国近代建築学会の恩師、コンドル氏の設計で明治11
年(1877)に完成したもの。国の重要文化財に指定されているという。
    

 門前の通りを東へ、広い境内の東側を走る細い通りを北に向かう。俳人・長谷川かな夫
妻の句碑と墓があるという福相寺前を通過して、環状七号線に出る。

 少し戻って信号を渡り、斜めの通りを進んで「蚕糸の森公園」の南西端へ。

 紅葉の残る公園の南側を東進して中野区内に入り、青梅街道近くの本町六丁目にある
「散歩かふぇ ちゃらぽこ」に入る。
    

     

 日本初の「歩くこと」をテーマにしたこのカフェのことは、姫路の「出がらし紋次郎」
こと、Kさんに教えてもらったもの。

 14時に入ったのでまずは遅くなった昼食に、おすすめメニューのひとつ、「ひき肉と
トマトときのこのカレー・セット」を注文する。

 店では、週末を中心に散歩会や街道歩き、歴史講座などのイベントを手がけており、最
近は東海道を歩く企画を続けていて、東海道や大山街道などの地図や図書を販売していた。
    

 店内にはウオーキングや旅、歴史などの図書が豊富で、自由に読んだり情報交換や交流
の場として利用されているようだ。

    
 食事をしながら店主のKさんにそれらの話を伺い、食後は奥の部屋に並ぶ図書や写真な
どもゆっくり拝見した。
    
 1時間近く滞在して店を後にする。


 イチョウ並木の黄葉した青梅街道を横断して細い通りを北上し、15時15分にJR中
央線の中野駅に着いた。

(天気 晴後快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 杉並区、中野
 区、歩数 18,600)

 杉並区立郷土資料館でもらった「杉並区史跡散歩地図」には、1万2千分の1の大判地
図に3㎞から7㎞前後の14コースが紹介されていて、それらを組み合わせたコース取り
も出来そう。この地図を参考にして、杉並区内の史跡めぐりをしてみたい。

 なお、最近リニューアルされた「散歩かふぇちゃらぽこ」のホームページはこちらから。




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川上哲治さんなどのサインが見つかる

2013-12-02 18:47:10 | アーカイブ
 2013年12月2日(月)

 つい先日、30年以上も開けたことの無かった古い紳士靴の空き箱に、中学校卒業
から結婚前後までの古い手紙が入っていたのを見つけました。とって置いても、もう
あの世へ行ってしまった人からの手紙が多いので、シュレッダーで処分を始めました。

 ところがその中に「大日本雄辯會講談社 懸賞部」からの薄い封書があり、中を見る
と昭和26年(1951)に、当時のプロ野球選手に往復はがきを出してもらったサ
インが5枚入っていました。

 その頃私は中学生で、自分でプレイするのはへたくそでしたが、野球を見たりラジ
オで聞いたするのは大好きで、当時の人気雑誌「少年クラブ」や「野球少年」、今年
83歳で亡くなった従兄弟が購読していた「野球界」や「ベースボールマガジン」、
「ホームラン」といった雑誌を愛読していたのです。

 当時はまだテレビ放送も開始前で、ラジオだけが埼玉県中部の田舎村に住んでいた
少年たちの外部からの娯楽といってもよく、年に1~2度隣町の映画館に行ったかど
うかというような生活でした。

 その頃多分、少年クラブかほかの野球雑誌に掲載されていた選手の住所を知り、往
復はがきでサインをもらったのを保管していたのでした。

         
 最初の1枚は、今年10月28日に93歳で亡くなられ、今日「お別れの会」が行
われたという、川上哲治(てつはる)さんからのものです。

 川上哲治さんは「打撃の神様」と呼ばれ、戦時中から戦後のプロ野球界の大スター
であり、監督としても読売ジャイアンツの黄金時代を築き、プロ野球選手の代表とも
いえる方であることは、多くの皆さんがご存じのとおりです。

 主な記録として、選手時代は1938年から1958年までの19年(1943~
45は兵役)間で通算安打2351、通算打率3割1分3厘などの成績を残し、首位
打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、MVP3回などのタイトルや
表彰に輝きました。

 ほかに、シーズン打率3割以上12回(歴代3位タイ)、打率ベストテン入り15
回(歴代3位)、8年連続打率3割以上(歴代2位タイ)などのほか、史上初として
は、1イニング2本塁打や逆転サヨナラ本塁打、通算2000本安打を達成されてい
ます。

 監督としても、通算14年で優勝11回は歴代最多、うち9年連続優勝・日本一も
プロ野球史上唯一の記録です。

 このサインをもらった1951年は、通算打率3割7分7厘の高率で首位打者とな
り、シーズン打率歴代8位の記録となっています。

 
 川上さんが長くなりましたが、ほかの4枚のサインの主についても少しずつ紹介し
ます。

         
 平山菊二さんは、1937年から1949年まで戦役を挟んで巨人軍で活躍した外
野手で、川上哲治、千葉茂さんらと巨人軍の第一期黄金時代を作り上げました。

 戦後は、外野フェンスに入る本塁打性の打球をジャンプして捕球したことから「塀
際(へいぎわ)の魔術師」と呼ばれました。

 晩年は太陽ホエールズ、太陽松竹ロビンスで1953年まで活躍されました。

 主な記録としては、15人目の通算1000試合出場をしており、通算安打912
本、通算打率は2割5分5厘です。

 サインにはお礼の言葉が記されていますが、この年、平山選手は春先に足の故障で
欠場していたので、そのお見舞い文を往信に書いたことへの返信ですが、記録を見る
と、この年(1951年)は大洋ホエールズで3試合の出場にとどまっています。

         
 次は藤本英雄さん、1942年に巨人軍に入り、1947年のみ中日に移籍しまし
たが翌年から巨人に戻り、1955年まで通算13年間活躍した大投手です。

 主な記録は、1943年に34勝11敗で完投39回、完封19回、勝率7割5分
6厘、奪三振253、防御率0.73などのリーグ記録を樹立し、通算勝率6割9分
7厘と通算防御率1.09は日本プロ野球記録になっています。

 主なタイトルは、最高勝率3回、最優秀防御率3回、最多三振奪取2回などに輝き、
1950年6月には史上初の完全試合を達成しました。

 ほかに1950年に投手としてシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立し、1976
年に野球殿堂入りしています。サインしてもらった1951年は15勝7敗でした。

         
 こちらは坪内道典さん、川上選手より2年早い1936年に大東京軍の結成に参加
し、監督兼任選手などで戦前の試合出場はわずかでしたが、戦後は1951年までゴ
ールドスターや中日の外野手として活躍されました。

 通算出場1417試合、通算安打1472本、通算打率2割6分2厘、通算盗塁数
344などの記録を持ち、盗塁王に2回なり、1946年には選手兼任監督ながら
25試合連続安打を達成し、最初の通算1000試合出場選手でもあります。

 このサインをもらった1951年で引退していますが、その年は2塁打26、死球
14がリーグ最高でした。1992年に野球殿堂入りしています。

         
 最後は大島信雄さん、岐阜商業高校や慶応義塾大学、大塚産業のエースとして活躍
後、1950年に29歳で松竹ロビンスに入団し、前述の藤本英雄投手を押さえてセ
リーグの最優秀防御率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に
も貢献されました。

 選手としては1955年までの通算6年でしたが、引退後はラジオやテレビの解説
者として活躍されました。サインをもらった入団2年目の1951年は15勝13敗
でした。
 
 さて最後に、少年クラブの懸賞で当選したのが、「日本最強チーム絵はがき」です。
   

   

   

 3枚あったはずが2枚しか残っていないので、絵はがきの帯封に記されている外野
手も思い出していただけたらと思います。
   

 でももう62年も前のことであり、この頃のプロ野球選手をご存じなのは70歳台
後半以上の方だけかもしれませんね…。

 ちなみに1951年は、日本が第二次世界大戦の講和条約を調印(9月)、第1回
NHK紅白歌合戦開始(1月)、マッカーサー元帥がトルーマン大統領と対立して連
合国軍最高司令官を解任される(4月)、国鉄桜木町電車火災事故(4月)、民間放
送ラジオ局が開局(9月)などの年でした。

 なお、この頃のはがきの値段は2円(往復はがきで4円)です。




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