あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

2023新春 所沢七福神巡り(後半)(埼玉・所沢)

2023-01-20 21:47:05 | 七福神めぐり
 2023年1月8日(日) 〈後半・5番 光蔵寺~7番 海蔵寺〉

 所沢七福神巡りの前半から1日おいて今日、後半を巡ることにした。

 自宅を9時28分に出た。西武池袋線・狭山線の西所沢駅西側で狭山線の踏切を渡り、
南南東へ住宅地を進む。

 池袋線の東側踏切から南西へと延びる県道55号・所沢武蔵村山立川線を越えて、台地
下へと県道横の細道を下る。


 第4番永源寺の西側、釣り堀を埋め立てた造成地横を進み、永源寺バス停際から南西に
少しで県道4号・東京所沢線バイパスを山王橋(西)を横断した。


      あとは一昨日のルートを逆に進んで、鳩宮八幡の東側鳥居を入る。
     

          
 所沢市保存樹林に指定されているヒノキ科樹林などの間を上がり、鳩峯八幡宮の拝殿に
参拝する。


 鳩峰八幡神社は、延喜21(921)年に山城国(京都)の石清水八幡宮を分祀して鎮
座したと伝わる古社。元弘3(1333)年5月に新田義貞が鎌倉討伐の折、一昨日通過
した八国山の将軍塚に陣を置き、当社に参拝して戦勝を祈願したと伝わるとか。

 拝殿背後の本殿は埼玉県指定文化財で、県内に数少ない室町時代以前の古社建造物のよ
うだが、覆屋の中なので見られない。

                     
 拝殿の左手前に「新田義貞兜掛松史跡」碑があり、その横には枯れて何代目かに植え替
えられた細い松が立っていた。
     

 豊富な樹林に覆われた境内の南側には、摂社の久米水天宮が祭られている。

 
 毎年1月5日には早朝から日没まで初水天宮が開催され、当日は大小さまざまなだるま
が並ぶ「はだるま市」が開かれ、祈願成就を願う多くの参拝客がだるまを求めるという。


 拝殿の濡れ縁には色とりどりのだるまが並び、奉納されたたくさんの折り鶴が下がる。
     

 
 拝殿前の休憩舎には、古い絵馬が幾つか掲額されていた。


     
 鳩峯八幡宮と久米水天宮の間の樹林帯の遊歩道を、西南西へ延びる所沢市の保存樹林に
なっている稜線を進む。一帯の樹林は、所沢市の鳩峯公園となっている。


 近くには、いくつかの保存活動団体の立札が。


     

 さらに進むと「トトロの森2号地」がある。



  前方に所沢市の浄水場のタンクが現れ、その横を下って行くと、次の光蔵寺の大屋根が
見えてきた。


 北に見える高層ビルは、西武池袋線小手指駅北口のもの。


 下りきり南北に走る市道を渡れば、第5番寿老人の光蔵寺の山門前に。


 光蔵寺は、上組と下組に分かれていた荒幡地区の下組の寺とされ、創建年代は不詳だが、
石碑の年代を見ると鎌倉時代から続く寺らしい。


      本堂の右手前には弘法大師像が。
     

      手前の、山門を入ってすぐ右手に寿老人が祭られている。
     

 寿老人の右手には「聞くそう地蔵尊」があり、うれしいことや愚痴など何でも聞いてく
れるようで、日頃のストレス発散に話してみるのがよさそう。


 境内右手、北側から南西へと回り込んで少し行き過ぎ、北に向かって荒幡小の東側方面
へと上がると、斜面の花畑にたくさんの花キャベツやパンジーが並ぶ。


 荒幡小の東北端から北へと斜面を下り、西から南西へと寺の周囲を回り込み、西側、山
門のない開放的な境内に入って、第6番布袋尊の本覚院へ。


 創建は室町時代で、一時荒れ果てたが平成12(2000)年に本堂が新築再建された
とか。先ほどの光蔵寺と対をなすというか、荒幡上組の寺とされているよう。

      布袋尊は、本堂右手前でに微笑んで立っている。
     

     
      境内には、観音像や露座の六地蔵などがある。


 西側入口際には弁天池があり、小さなお堂に弁天様は祭られているようだ。


 その横から南に延びる間道を進み、荒幡公民館の先から上り坂となる。

 左手に広々とした芝生地が現れ、階段もあるので上がって行く。



 稜線沿いの遊歩道からは来たことのある「ドレミの丘公園」で、北側の北野や小手指方
面の住宅地の展望が開けている。


 西方には、少し霞んではいるが秩父の武甲山も望まれた。



 稜線上の遊歩道を北西へ。南側眼下は荒幡小で、東方には先ほど北側を通過した水道タ
ンクが。


     
   この辺りも、ブナ科樹木が主体の市の保存樹林になっている。西側斜面には茶畑も。





 少し先、突き当たりが荒幡富士で、山麓には浅間神社が祭られているので参拝する。


 荒幡富士は、浅間神社の南側に明治17(1884)年から15年かけて、当時の荒幡
村の住民たちが作った人工の小富士で、各地にある富士塚の中では最大級のもの。

 

 北側から、つづら折りの登山道を標高差約10mほど上がると、山頂には小さな祠が祭
られている。



 山頂からは狭山丘陵をはじめ、丹沢から奥多摩、秩父連山などが一望できるが、今日は
かなり霞んでいて、遠望は利きにくい。

 
 北側には、小手指方面の高層ビルやマンションなどが望まれた。


 北側山麓、登山口横には、この絶景を称えた文人、大町桂月の撰文による荒幡富士築山
碑が立っている。
     

 この辺り一帯、コナラやアカマツを主体とする林は所沢市の荒幡富士特別緑地保全地区
で、「荒幡富士市民の森」とも呼ばれている。北西側からもう一度、荒幡富士を眺める。



 市民の森の一角、すぐ北側を少し下がると「埼玉県狭山丘陵いきものふれあいの里セン
ター」があり、平坦な建物の屋上は自生した草に覆われている。



 ここも何度か来ているが今回も入館して、狭山丘陵に生息するいきものなどの展示を一
巡して観覧した。


     

     
 荒幡富士から西に延びる稜線沿いの遊歩道をさらに少し進み、西広場から北に向かって
下る。
          

 荒幡の住宅地を北に進んで神明橋際から西進して次の橋を渡り、すぐのT字路から西南
西に進んで第7番、毘沙門天の海蔵寺へ。

 海蔵寺は、鎌倉時代の小手指ヶ原の戦いや、南北朝時代の動乱で戦死した武士を弔らう
ため、室町時代にそばの山口城主の一族が建立した寺で、江戸時代には出世寺として人気
があったよう。
 
 本堂や庫裡などは、近年に再建したようで新しい。


          
      毘沙門天は、本堂左手前に立ち、左手近くには弘法大師像も。
     

 庫裡の前の、流れに囲まれた庭木などもよく整えられている。


 ここで七福神巡りを終えた。最寄り駅、西武狭山線の下山口駅に向かって来た道を戻り、
されに少し進む。柳瀬川の橋際に桜淵延命地蔵堂があったので参拝する。


     
 
 お堂の傍らのスイセンが、見ごろになっていた。



 13時12分に下山口駅に着き、13時21分発上り西所沢駅行電車に乗る。


     

 (天気 快晴、距離 9㎞、地図 「所沢七福神めぐり 八国山・荒幡富士コース」地図、
  歩数 16,000) 



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2023年新春 所沢七福神巡り(前半)(埼玉・所沢)

2023-01-13 21:46:23 | 七福神めぐり
 2023年1月6日(金) 〈前半・1番 持明院~4番 永源寺〉

 消防出初め式とモリタクのB宝館の観覧レポートが先になったが、その前後に訪れた所
沢七福神巡り、今日はその前半の1番~4番のみを巡ることにした。

 所沢七福神は、令和初(2019年)の正月元旦から所沢に初めて開場した新しい七福
神。私は翌2020年1月4日(土)に初めて回っており、今回は2度目になる。

 今回は、所沢市まちづくり観光協会が作成した「所沢七福神めぐり 八国山・荒幡富士
コース」(令和4年3月発行)という四つ折りリーフレットのコースに準拠して回ること
にした。

 スタートは西武池袋線・新宿線の所沢駅東口から。11時09分にスタートした。



 東村山方面に向かう市道を南東へ、西武バス車庫前を進んで、北秋津交差点から南下す
る細道に入ると狭山茶の茶畑が現れる。近くには、この茶畑の持ち主かと思われる製茶園
があった。


     
 その先のT字路際の民家前に小さい地蔵堂があり、横にはこの家の方が回ったらしい西
国、板東、秩父あわせての百番拝禮塔が4基並んでいた。 


 その先を左右折して県道4号・所沢街道を越えて、所沢七福神第1番、恵比寿神の持明
院(じみょういん)へ。

 創建は平安時代と伝えられ、寺には、その昔、悪さを重ねていた南側眼下の柳瀬川に住
むかっぱが、和尚様に説教されて「詫び証文」を書いたという伝説が残っているとか。


 山門はないが、東側から入ったところに六地蔵を祭る地蔵堂と、最近のものらしい二宮
尊徳像がある。
     

 
      恵比寿神は、本堂手前に東向で祭られている。
     
 
 ちなみに所沢七福神では、御朱印は寺の方に依頼するのではなく、無人の本堂前か七福
神前の箱などに用意されていて、必要な巡拝者は300円を納めてそこからいただくよう
になっている。

 デザインは当初から同じで、所沢のマスコットキャラクタートコろんが描かれたもの。
今回はいただくのは省くことにして参拝のみとする。


 持明院は真言宗豊山派の寺で、創建は平安時代と伝えられるよう。本堂はコンクリート
製のどっしりとした構え。


 左手には宝形屋根の曼荼羅堂や、新しい三界萬霊塔、大きな五輪塔などがある。


 その背後、西武新宿線の線路の向こうには、格納庫に飛行機も見える国際航空専門学校
の校舎が見下ろせる。
 
 
 境内の南側、眼下に柳瀬川が流れる上部は竹林に覆われていた。



 参拝を終えて所沢街道まで戻り、左折して所沢中心街方面に向かい、西武新宿線を陸橋
で越える。
     
 
 渡り終えてすぐに細道を下り、久米橋交差点を横断して西へ、歩道のない狭い車道を車
を気にしながら進んで、勢揃橋北(せいぞろいばしきた)交差点を通過した。

 その先にある日本料理店名は、所沢の名の起こりとされる「野老(ところ)」。野老と
はヤマノイモ科の多年草で、かつての所沢には野老が多く自生していたらしい。


 次の三差路の北側が、第2番、大黒天の長久寺である。

 長久寺は、鎌倉時代の開山で所沢で唯一の時宗の寺。春には境内のサクラが、そして秋
には本堂横のドウダンツツジがきれいだという。


 境内には幾つもの建物があり、その配置図もある。掲示板の張り紙によれば、今日は大
黒天の初縁日のよう。

      山門前に立つ子育地蔵
     

 山門の両側には、青銅の仁王像が構え立つ。


      山門を入ると、大黒天が右手に祭られていた。
     

     
      相対して、薬師如来堂↓や六地蔵堂がある。


 大黒天に詣でた後、正面の本堂にも参拝した。


 秋の彩りが良いという大きなドウダンツツジは、時宗の開祖、一遍上人像の背後に。


     
 境内には、所沢市保存樹木に指定されているカシ↑やイチョウ、ソメイヨシノ↓がある。
 
 
 境内南東側には神仏混交の名残か、豊川稲荷も祭られていた。

 最後に豊川稲荷にも参拝して長久寺を後にした。


 日本料理店野老の前を勢揃い橋北交差点まで戻り、その勢揃橋に向かう。交差点際の畑
の柿の木には、たくさんの実が残る。



 勢揃橋はすぐ先で、いまは何の変哲も無い橋だが、ここは鎌倉時代末期に、幕府を倒そ
うとして新田義貞が、合戦の前に勢揃いしたところだという。下を流れるのは柳瀬川。
     
 
 その先T字路、松が丘東交差点際には、南西側の狭山丘陵東端麓に広がる松が丘の住宅
地の集中豪雨時の排水をためる調整池があり、そのかなりの部分は「フロートソーラー所
沢」と呼ぶソーラーパネルに覆われている。

 
 池の西側には、西方の大六天交差点から延びる県道4号・東京所沢線バイパスの延長工
事の工事中の道路が延びていた。



 ゆったりとして敷地に植栽も豊富な住宅地の南側が狭山丘陵の東端で、その稜線上の遊
歩道が東京都と埼玉県との都県境である。

 都県境の南側は都立八国山(はちこくやま)緑地で、西武西武園線の西武園駅近くまで、
2㎞近く延びている。
 

     
 その都県境の遊歩道を木の階段で少し上がると、北方に所沢中心市街地のマンション群
などが望まれる。


 八国山緑地の多くを占めるナラやクヌギなどの樹林は、いまは枯れ枝で下は落ち葉がい
っぱい。
     

 ちなみに八国山とは、かつてここからは、駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、上野、下野、
信濃の八カ国が望めたことから名付けられたとか。
     

 少し進むと、稜線の北側の盛り上がった小山に 「将軍塚」碑が立っている。


 新田義貞が鎌倉討伐の際に陣を構えたと伝わるところで、手前の歩道際には「元弘青石
塔婆行在所跡」碑もある。
     

 将軍塚のの説明パネイルも立っているが、字がかすれていて読みにくい。

 歩きやすい狭山丘陵の稜線上の土の道を進む。右手、北側一帯の樹林は、所沢市が管理
する八国山緑地。


 さらに進んて三差路に道標や都立八国山緑地の地図パネルが立つ場所へ。南側の伐採さ
れた広場にはトイレがあり、西武新宿線東村山駅前の高層ビルなどが望まれる。


 そこから南南西に下る遊歩道沿いは、立木が少なく開放的な空間が広がる。

 だが少し進んでこの道ではないとき気づいて引き返し、さらに稜線上を進む。


 次のT字路で、道標に従い木の段などのある歩道を北に向かって下り、松が丘の戸建て
住宅地に入る。


 広い道路に出て東へ少し進んで松が丘中央公園↑の横を北へ。次の広い道路の信号で横
断して少し東に回り込むと、第3番、福禄寿の佛眼寺の簡素な門前へ。



 この門前にも六地蔵堂がある。正面を上がった本堂の両横には、左手に慈母観音と弘法
大師像が、右手には金色の一願観音が立ち、福禄寿尊はそばに祭られている。


          

 佛眼寺は平安時代初期の開山と伝えられ、明治維新までは寺の北側台地上の鳩峰八幡神
社の別当(神社を管理するために置かれた寺)を務めていたとか。

      本堂の東南側には、十三仏像を囲むように十三重塔も立っている。
     


 参拝を終えて東門から出て、北側の丘陵に向かって上がる。


 携帯電話のアンテナ塔の並ぶ交差点の西北側一帯が鳩峰八幡の森だが、今日は参拝を省
いてさらに北へ。

 右手の富士幼稚園の広い園庭は、豊富な樹木に囲まれている。


 その横から下って久米の住宅地を北西に進み、県道4号・東京所沢線バイパスの山王橋
(西)交差点を横断し、その先で山王橋で柳瀬川を渡って北東に進む。


 その先、T字路の突き当たりが第4番・弁財天の永源寺である。


 永源寺は、室町時代の応永年間の創建で天文年間に復興され、その後、徳川家康からは
30石の領地を授けられたという。

     
 右横からも入れるが、山門を入ると右手に小土建て地蔵堂があり、その横には、庚申様
で知られる青面金剛明王堂も。
          


 正面に構える本堂の左手前に、枯れ枝に実のたくさん付いたムクロジが目につく。


 ムクロジの実は、かつてお正月に遊んだ羽子板で突く羽の黒い球に用いられた。

 所沢七福神の弁財天は、山門を出て南西側の弁天池に祭られている。


 今日の七福神巡りはここまで。リーフレットの地図に従い、北西の台地上にある西武
池袋線の西所沢駅に向かう。

 弁天池のすぐ先にあった釣り堀池は埋め立てられて造成中。



 その先から台地に上がり、西武池袋線の線路に平行する茶畑など沿いに西へ、駅東側
の踏切を渡り、ゴールの西所沢駅には14時10分に着いた。


 (天気 晴、距離 ㎞、地図 「所沢七福神めぐり 八国山・荒幡富士コース」地図、
  歩行地 所沢市、歩数 13,600)


 この後、昼食前だったので近くの中華料理店「蟹谷」でワンタン麵を注文して昼食と
し、スーパー西友で買い物後、自宅に向かう。




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元旦から新たに開場された所沢七福神めぐりへ(埼玉・所沢)

2020-01-07 17:27:32 | 七福神めぐり
 2020年1月4日(土)

 令和初の正月元旦から所沢に初めて開場した、所沢七福神めぐりに出かけた。

 リーフレットのコースは、西武池袋線・新宿線の所沢駅から西武狭山線の下山口駅へと
東から西へ向かっているが、私は最寄りの西武池袋線西所沢駅からとして、10時20分
にスタートした。


 駅東側の踏切を渡り、線路の南側沿いを東進する。変電所手前で台地下に下り、釣り堀
を過ぎると最初の弁財天の寺・永源寺(えいげんじ)である。

 弁財天は境内の西側手前、道路斜向かいの池の弁天堂に祭られていた。


 永源寺の弁在天は室町末期の作とされ、お参りすることにより悪星退散、招福開運、金
運財運、芸術芸能の御利益があるという。


 立派な山門があるが、開放的な境内には山門横からも入れる。


 正面の本堂前に、七福神の御朱印入りの木箱があり、さい銭箱に300円を入れて御朱
印をいただいた。

 曹洞宗永源寺は、応永年間(1394~1428)に武蔵国守護代の大石信重が創建し、
天文年間に北条氏照により中興されたとか。天正19(1591)年、徳川家康から寺領
三十石を賜ったという。

     
 南東に進んでT字路の北の「じゅうにん坂」交差点を右折し、桜並木の柳瀬川左岸沿い
の車道を行く。
     

 JAいるま野吾妻支店前を通過して間もなく、豊川稲荷神社の鳥居前へ。手前の山門を
入ると、大黒天の長久寺(ちょうきゅうじ)である。


 長久寺は、元弘元(1331)年に玖阿弥陀仏により開山された所沢唯一の時宗の寺院。
本尊は阿弥陀三尊で、領主中根氏の崇敬が厚く、以来念仏道場として現在に至っていると
いう。
 
     
 真新しい大黒天は山門を入り右手に祭られていた。御朱印はそばのケース内にあり、朱
印代を大黒天前のさい銭箱に入れて朱印をいただくようになっている。


 正面に本堂があり、その右手前には時宗宗祖一遍上人(いっぺんしょうにん)像が立つ。
背後には特大のツツジが、上人を囲むように枝を広げていた。


 境内には所沢市保存樹木のカシ、イチョウ、サクラなどがある。
 

 境内東側に祭られた豊川稲荷は明治44(1911)年に愛知県の豊川稲荷から分霊さ
れたよう。

 さらに東へ、久米境交差点を横断し、細い坂道で所沢街道・県道4号線に上がり西武新
宿線の上を秋津橋で越える。

 少し先、「渕上山持明院入口」の標識に従い右折した突き当たりが、恵比寿天の持明院
(じみょういん)である。


 持明院は、平安時代の元慶2(878)年に権大僧都寂寛の創建と伝えられているとか。
柳瀬川の深い渕の上にあるので、山号を渕上山(えんじょうざん)の山号としているよう。

 本尊は不動明王で「秋津のお不動様」として親しまれ、民話「カッパの詫び状文」でも
知られているという。

 本堂は堂々としたコンクリート造り。ま新しいえびす尊は本堂右手で本堂に背を向け、
にこやかに釣り竿を持っていた。御朱印は無人の庫裡(くり)前に用意されている。


 本堂左手に新しい三界萬霊塔と明和5(1768)年造立の宝篋印塔(ほうきょういん
とう)が並び、背後には奥武蔵の山並みが望まる。
     

 境内南側はびっしりと竹林に覆われていた。入口に近い境内南東側に、市の保護樹木の
イチョウと比較的新しい二宮金次郎像が目につく。
     

 何組かの参拝者が境内東側に沿った細道を戻っていたので、その道から私も戻ることに
した。裏門から住宅地の中を左右折して、手押し信号際に出た。

 西武新宿線の上を越えて久米境交差点まで戻り、南に延びる交通量の多い車道へ。柳瀬
川の二瀬橋を渡って東村山市に入り、信号のあるT字路を西に向かう。



 柳瀬川の支流、北川の左岸沿いの遊歩道を進み、「ふれあい」と呼ぶ母子像のある小公
園の先から北に回り込む。
     

     東村山市のマンホールふた
    

     
 東京・埼玉の都県境に設けられた都立八国山緑地への林間の散策路に上がる。南側が東
村山市、北側が所沢市である。

     
 少し上がると、北側に所沢の中心街に立つ高層ビル群、東側には東村山市の住宅などが
望まれる。



 葉を落とした広葉樹林の間を少しで将軍塚がある。


 狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、上野、下
野、信濃の8カ国の山々が望めたことから八国山(はちこくやま)と呼ばれ、この付近を
鎌倉街道が通っていた。

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)
が、近くの小手指ヶ原(こてさしがはら)で幕府軍と対戦した際、この地に一時逗留して
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられているという。

     
 地形図上に標高88.9m三角点の表示があるので探したら、塚の東側に三等三角点が
見つかった。


 少し先には、「狭山丘陵いきものふれあいの里」の案内図が、左手には「将軍塚」の標
柱が立っている。


 間もなく北側に、戸建て住宅の並ぶ松が丘一丁目の住宅群への舗装路があったので入り、
中心部を北に抜ける。


 北端付近を西進すると、丘陵を背にした大字久米(くめ)にある4つ目の七福神、福禄
寿神の佛眼寺(ぶつげんじ)である。

 佛眼寺は、延暦21(802)年に法印法師が開基したと伝えられ、元亀年間(1570
~3)頃に中興開山された真言宗豊山派の寺院。明治維新までは北側の鳩峰八幡宮の別当
を務め、現在も神仏習合の名残が残されているとか。


 南側の石段を上がると正面の本堂の右手に新しい福禄寿が、その横には、金色の大きな
一願観音が並んでいる。
     

     

 御朱印は本堂前の箱にあり、朱印代のお布施はさい銭箱に入れるようになっていた。

     
 その前面右手(東側)には十三重塔が立ち、その周囲を虚空蔵菩薩、大日如来、阿弥陀
如来、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王などの鋳造仏が取り囲んでいる。


 東側の木組みの門を出て北へ、坂を上がって携帯電話のアンテナが並ぶ先で山ろくを西
に入り、東向きに祭られた久米水天宮へ。

 北側にある鳩峰(はとみね)八幡神社の摂社で、祭神は安徳天皇。安産・繁栄の神とし
て近在に知られ、明日、1月5日の大祭には多くの参拝者で賑わい、だるま市も開催され
るよう。

 拝殿に参拝したら、10数個の小さいだるまが並んでいた。


 北側林間を上がり、広い森に囲まれた鳩峰八幡神社にも参拝する。


 鳩峰八幡神社は、延喜21(921)年に京都の石清水(いわしみず)八幡神社を分祀
(ぶんし)して勧請(かんじょう)したと伝わるとか。
 

 元弘3(333)年に新田義貞が鎌倉討伐の折には戦勝を祈願したと伝えられ、境内に
は参拝の時に兜(かぶと)をかけた「兜掛けの松」や、鎧(よろい)を置いたところに祭
られた「鎧稲荷」の祠(ほこら)の旧跡がある。


 境内から西へ続く林間の遊歩道をさらに進み、狭山丘陵の自然環境を保全するナショナ
ルトラスト運動「トトロのふるさと基金」で買い取った「トトロの森2号地」を過ぎる。
その前後には「鳩峰公園」と呼ぶ広葉樹林が続く。



 送電線が交差する鉄塔の先に市の浄水場があり、その横を右左折して林を出ると、西北
に秩父の大持山、子持山や武甲山、外秩父の堂平山や笠山などが、北に小手指駅周辺の住
宅群などが望まれる。


 西北に下った車道の西側が、5つ目の七福神、寿老人の光蔵寺(こうぞうじ)である。

 真言宗光蔵寺の創建時期は不明のようだが、本尊阿弥陀如来の台座には「弘法大師御作、
慶長元(1596)年4月再興」などと記されているという。


 山門を入った正面に東向きの本堂が構え立ち、新しい寿老人は山門を入りすぐ右手に立
っていた。
     

 その右手には、日頃のストレス発散の相手をしてくれるという「聞くぞう地蔵尊」が右
耳を傾けて待っていた。
                    

 北に延びる車道を進み、手押し信号のところで左に入って北西へと斜面を上がり、次の
寺の本堂東側が見えたが入れない。住宅地を右左折して北側の車道に出てさらに南西から
東へと回り込み、布袋尊の本覚院(ほんかくいん)に入る。


 本堂の手前右手には鉄柵に囲まれた弁天池があり、奥の弁天島に弁天様を祭る小さな祠
がある。南向きに建つ本堂の周囲に植栽は無く、大変開放的な境内。


 真言宗豊山派の本覚院は、南北朝時代の庚暦2(1380)年に創建され、弘治元
(1555)年に中興されたという。

 新しい布袋尊は本堂前右手に立ち、朱印代は横のさいせん箱に納めるようになっていた。
     

 最後の海蔵寺へは、リーフレットでは南南東の荒幡富士を経由するようになっているが、
すっかり太陽が陰り薄寒くなってきたので、西に向かって最短ルートを進むことにした。

 
 市立第二幼稚園横を入ってすぐ先で右折して西へ、その先は新興住宅地の中の右左折す
る道を選んで西進する。下山口駅からの車道に入って少しで、7番目の七福神、毘沙門天
の海蔵寺(かいぞうじ)へ。

 山門は無く、ここも開放的な境内。本堂は最近の再建のようで真新しい。

 海蔵寺は、近くの山口城主一族の岩岡民部小輔道岩入道により、小手指原の戦いや南北
朝の動乱で討ち死にした將士を弔うため、文明5(1469)年に創建されたとか。江戸
時代には、当山13世住職が大和国(奈良)大本山長谷寺の住職の座に就いたという。

     
 ここも新しい毘沙門天は、本堂左手前に槍を持って立っていた。御朱印は本堂右手、無
人の庫裡に入り、志納料300円を納めていただくようになっている。


 本堂手前東側にはニシキゴイの泳ぐ庭園があり、本堂左手にはお砂踏みで回れる様に配
置された六地蔵菩薩が祭られていた。



 無事所沢七福神めぐりを終え、近くの下山口駅に向かう。先ほど合流したT字路を過ぎ、
柳瀬川の橋を渡る手前に桜淵延命地蔵堂があったのでお参りする。


 西武狭山線唯一の中間駅、下山口駅には14時34分に着いた。


(天気 晴、距離 10㎞、地図 所沢・所沢七福神めぐり地図、歩行地 所沢市、東村
 山市(少し)、歩数 18,800)


【参考】新しい所沢七福神めぐりの中で、ほかの七福神と異なるのは、

 ☆御朱印をいただくのは無人で、七福神のそばの箱や本堂前などに用意されているので、
予め300円ずつ用意しておかないと釣り銭をもらえぬことになる。

 ☆御朱印は色紙に押してもらうのではなく、印刷された寺ごとの色紙(横10.5㎜、
縦14.8㎜)なので、7枚合わせると一般的な大きさの七福神の色紙には貼りきれない。

 いただいてきた御朱印を順次並べる。






         

 また、2種類あるリーフレットに記されたコース地図は概略図なので、これだけで巡拝
するのは難しい。別に地形図(2万5千分の1所沢)や、市で発行している「ところざわ
ウオーキングナビの①西エリアと②中央エリア」などが必要かと思われる。
(これは私のようなガラケー人種に限られることで、スマホをお持ちの方は地図ナビゲー
 ションで容易に任意の場所を調べられるのかもしれないが・・・)

 ほかに、最初の寺、弁在天の永源寺の東、じゅうにん坂交差点から恵比寿天の持明院へ
と、持明院から柳瀬川の橋を過ぎる辺りまでの市道や県道は、車の交通量がかなりあるが
歩道が無くて細い側道だけなので、車には十分注意する必要がある。

 




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江戸・東京七福神めぐりで港七福神へ(東京・港区)

2020-01-03 15:31:04 | 七福神めぐり
 2020年1月2日(木)

 新春2日は毎年恒例、NPO法人東京都ウオーキング協会主催の「第18回江戸・東京
七福神めぐり」の港七福神に参加した。私は、このコースは2013年、2018年に続
いて3度目になる。


 集合場所は、JR山手線・京浜東北線の浜松町駅北口から1分の旧芝浜離宮恩賜公園児
童公園。JR線路を挟んで西側には貿易センタービルがそびえ立つ。
     


 9時30分過ぎから出発式をして、9時49分にスタートした。


 浜松町駅北口を西に抜けて、芝大門交差点へ。


 北側に変わったビル群を望む浄土宗大本山の増上寺山門前を左折する。



 すぐ近くの旧台徳院霊廟惣門をくぐって階段を上がり、広々とした港区立芝公園を西に
抜ける。



 増上寺の背後間近に、東京タワーが一望である。



 公園背後の林間を少し下り、芝公園4丁目にある最初の七福神・弁在天の宝珠院へ。

 寺には、寄せ木造りで高さ2m、貞享2(1685)年造立で港区指定文化財の閻魔大
王が祭られているよう。 

 一昨年にはなかったように思われる新しい本堂ができていたが、閻魔大王も弁財天もど
こに祭られているのかは、どんどん先頭が進むので分からなかった。


 東京タワーの西側を進み、2番目は麻布台2丁目にある恵比寿神の熊野神社に入る。境
内は狭くて境内という感じほとんど無い。
     
 熊野神社の縁起は、元禄16(1703)年のの火事で記録が焼失して分からないとか。
島崎藤村が飯倉に住んでいた頃、この付近はよい散歩道で、藤村の好きな場所のひとつだ
ったという。

 飯倉交差点から西北西へ延びる通り、ロシア大使館前の先、斜向かいにあったレンガ造
りの麻布郵便局の大きな建物は取り壊されたようで、広い空き地になっていた。


 その先、外務省外交史料館↑前を通過して飯倉片町交差点から北へ。首都高の谷町IC
もある六本木2丁目交差点まで進む。



 三つ目の七福神、布袋尊の久国神社はすぐ北側にある。道路際に立つ「久國神社」の石
碑の文字は東郷平八郎元帥によるもの。
     


 久国神社は太田道灌が勧請(かんじょう)したと伝えられており、道灌が寄進した鎌倉
時代の名工・久国作の名刀が所蔵されているという(非公開)。

     
 南西の野蒜六本木通りの北側に平行する細道などを進んで、桧町公園に入りトイレ休憩
となる。

 公園は植栽が多く、池のそばには和風建築の休憩舎などもある。



 超高層ビルの林立する六本木ミッドタウン↑横を通過し、六本木7丁目の福禄寿を祭る
天祖神社に参拝した。手前のビル横のモミジが、まだ彩りを残している。
     

     
 創建当時(1368)は飯倉城山にあったのが、江戸初期に江戸市街整備によりこの地
に移ったよう。


 南下して六本木六丁目交差点で六本木通りを横断して、さらに南下し六本木ヒルズ横や
安倍首相夫妻が大晦日から元旦、さらに2日も宿泊したと報じられている、高級ホテル・
グランドハイアット東京↓の横を過ぎる。
     

 5つめの七福神は西麻布3丁目にある寿老人の櫻田神社へ。
     
 治承4(1180)年に源頼朝の命で霞ヶ関に創建され、家康入府後の寛永元(162
4)年に現在地に遷宮されたという。


 さらに南下して、塀に中国の美しい風景写真が並ぶ中国大使館前を過ぎる。



 有栖川宮記念公園北側の交差点を左折して東へ、レンガ造りの愛育病院↑やアルゼンチ
ン大使館↓前を進む。


 仙台坂上交差点を北にすぐ、元麻布1丁目にあるのが6つ目、毘沙門天の氷川神社。拝
殿は朱塗りである。

 氷川神社は、太田道灌が現在地より300mほど北の一本松付近に勧請し、万治年間
(1658~61)にここに移転したとか。麻布郷の総鎮守で、江戸氷川7社の一つであ
ったといわれているよう。

 元麻布2丁目の静かなマンション街を進むと、下側が絞られた高層マンションが間近に
望まれる。
     

 緩やかに右カーブし終えた辺りの元麻布1丁目に、7番目で大黒天の大法寺がある。

 開山は慶長2(1597)年で江戸時代は赤門寺と呼ばれ、甲子(きのえね)の祭日に
は縁日が開かれていたという。

 ここはかなり参拝者が多く、拝殿前では甘酒のお接待をしていたのでいただいた。

 東側の交差点際、少しの空き地が今日のゴール地点で、ここで散会となる。


     
 麻布十番商店街を北に突き当たったところに8つ目の七福神、七福神としては珍しい宝
船の巡拝所である十番稲荷神社があり、急階段を上がって参拝する。

     
 七福神の全部が乗った大きな宝船は、階段下の鳥居左手に祭られていた。



 鳥居の右手には親子のかえるも祭られている。


     
 その右手のビル1階が、都営地下鉄大江戸線麻布十番駅の入口。幾つもの階段やエスカ
レーターでかなり地下深くにある、大江戸線の出札口前に12時22分に着いた。


 150人以上かと思われる団体歩行なので、各々の七福神をゆっくり参拝することはで
きず、七福神がどこに祭られているのかも分からず、ただ一巡したというだけで少し物足
りない七福神めぐりだった。改めて一人でじっくり巡拝するのがよいかもしれない。

 新宿駅経由光が丘行駅行きに乗り、乗り換えの練馬駅構内の店で昼食をして、西武池袋
線下り電車に乗る。

(天気 晴後曇、距離(認定)10㎞、地図 江戸・東京七福神めぐり 港七福神用地図、
 歩行地 港区、歩数 13,400)


 蛇足ながら、12月30日にトルコ・イスタンブール経由でレバノンのベイルートに逃
走した日産自動車の元会長、カルロス・ゴーン被告の邸宅は、「西に六本木ヒルズ、東に
は東京タワーを望む小高い丘の東京屈指の邸宅街にある」と報じられているので、ちょう
ど今日回ったコースに囲まれたところなので、どうやら麻布辺りかと思われる。





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令和初の正月から「所沢七福神めぐり」が開場(埼玉・所沢)

2019-12-20 22:17:46 | 七福神めぐり
 2019年12月20日(金)

 年号が平成から令和に代わって最初の年も残り11日となり、何かとご多忙の方も多い
かと思います。

 新年というと、七福神めぐりを計画されている方もおられるのではないでしょうか。そ
こで、首都圏で七福神めぐりをしてみたい方に新しい七福神めぐりの情報です。

 令和2(2020)年元旦から、「所沢七福神めぐり」のコースが開場されますので、
簡単ですが紹介します。



     

 この七福神めぐりは、狭山丘陵周辺にある所沢市内の7つの寺院を巡るもので、所澤郷
土博物館の平塚宗臣(そうじん)館長が、所沢の豊かな自然、歴史を物語る史跡・名所・
寺院を地域振興に役立てたいと5年前から練っていた構想とのこと。

 令和の改元を機に、平塚さんが指揮を執って7つの寺院の住職と檀家が一丸となり準備
されたようです。

 また、7つの寺の選抜条件としては、歴史のある寺で駅から徒歩圏内の立地、車の往来
が多くない道路であること。途中には狭山丘陵の八国山、将軍塚、鳩峰八幡社、荒幡富士、
所沢市民の森などがあり、子どももでも飽きの来ないハイキングコースになっているとか。

 各々の寺には、所沢のマスコットキャラクター「トコろん」入りのご朱印(300円)
が用意されています。

 ただし、オリジナルの御朱印帳や朱印色紙は用意されていないようなので、自分で用意
して行く必要がありそうです。詳しくはこちらのサイトをご覧下さい。 

     

 最寄り駅は、西武池袋線・新宿線の所沢駅、池袋線西所沢駅、狭山線の下山口駅、西武
園線の西武園駅で、全行程はゆっくり歩いて約4時間、車では1時間半程度で回れそう。

 マップは、所沢市内の町づくりセンターや所沢駅、市内元町の野老澤町造商店(ところ
ざわまちぞうしょうてん・通称まちぞう)などに置いてあります。



 この地図では、実際歩くにはわかりにくいかと思いますので、2万5千分の1地形図
「所沢」や、市役所や町づくりセンター、まちぞうなどにある「ところざわウオーキング
ナビ」の西エリア、中央エリア↓などを併用するとよいかと思います。

     

 ただし、ウオーキングナビには、恵比寿天の持明院、寿老人の光蔵寺、布袋尊の本覚院
は掲載されていませんので、グーグルマップなどで検索する必要があります。

 7つの寺院の住所は以下の通りです。

 1.恵比寿天 時明院(じみょういん)  所沢市北秋津85

 2.大黒天  長久寺(ちょうきゅうじ) 所沢市久米411
 
 3.福禄寿  佛願寺(ぶつげんじ)   所沢市久米2445

 4.弁財天  永源寺(えいげんじ)   所沢市久米1342

 5.寿老人  光蔵寺(こうぞうじ)   所沢市荒幡499

 6.布袋尊  本覚院(ほんかくいん)  所沢市荒幡653

 7.毘沙門天 海蔵寺(かいぞうじ)   所沢市山口2725

 問い合わせ先は 主催 所沢七福神「八国山、荒幡富士コース」霊場会
                  事務局 04-2922-2965 平塚さん

         協力 一般社団法人 所沢市まちづくり観光協会
                      080-4473-1056

 私も、新年になったらさっそく巡拝して報告したいと考えています。
 




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湘南ひらつか七福神巡り(神奈川・平塚)

2019-01-19 17:21:24 | 七福神めぐり
 2019年1月14日(祝・月) 

 毎年、新春2日に七福神巡りをしていたが、今年は用事で行けなかった。そこで好天の
予報の今日、「湘南ひらつか七福神めぐり」に出かけることにした。

 自宅から2間10分、途中横浜駅での乗り換え1回で9時47分にJR東海道線平塚駅
に着く。


 駅構内に観光協会がないか探したが見つからず、駅の改札で聞いて少し離れた市民セン
ターにあると分かる。10時ちょうどに平塚駅北口を出た。

 駅前から西に延びる紅谷(べにや)パールロード商店街を少し進み、北側の広い通りに
回ったら市民センターの看板が見えた。

 その建物の手前に、「東海道五十三次 平塚宿の江戸見附跡」の説明板とわずかな石垣
が残っていた。この通りは旧東海道のよう。

 平塚宿の見附は2か所あり、江戸側の入口が江戸見附で、京側にあるのを上方(かみが
た)見附と呼んだとか。平塚宿はこの間の東西約1.5㎞に、江戸時代を通して200軒
を超える町並みが続いたという。

 そばの市民センターに入るが、今日は休館日。守衛さんに聞くと観光協会は閉鎖したと
のこと。七福神めぐりのマップがないかと話したら、「湘南ひらつか観光マップ」がある
というのでもらった。

 用意してきた簡単な七福神めぐりの地図と見比べ、西南西側近くの平塚1丁目にある妙
安寺に向かう。

 同じ通りの少し先に、枝を広げたクスノキなどの立つ緑地があり、「平塚小学校蹟の樟
樹」の説明板立っていた。

 それによれば「ここは、明治13(1880)年に崇善館を移設して平塚小学校とした
旧地で、明治28(1895)年に校庭の一隅にクスノキの種をまき、その種子を明治
27~28年の日清戦争講話記念に県知事が県下各学校へ配布した」ことなどが記されて
いた。

 背後には、その崇善館らしい和洋折衷風の建物↑がある。

 県道61号を跨道橋で超えて南西側の通りに回り、最初の七福神、大黒天の妙安寺(み
ょうあんじ)へ。

 創建は1624年頃で、徳川家康の側室の養珠院お万の方の奥女中だった妙安尼が開基
とか。身延山久遠寺(くおんじ)の末寺で、平塚鬼子母神として親しまれているという。

 北向の本堂で、石柱の門を入ると境内で作業中のご住職が声をかけて下さる。庫裡(く
り)で七福神の色紙に最初のご朱印をいただき、本堂内に祭られた大黒天も案内してもら
う。
         

 本堂の左手前にも、新しい大黒天像が祭られていた。
  

 東海道に戻ってすぐ、神奈川銀行の前に、「平塚宿本陣旧跡碑」があった。この本陣の
主は代々加藤七郎兵衛を名乗り、14代将軍家茂は2回休憩し、明治元(1868)年と
翌2年には明治天皇が東京行幸と遷都に際して小休止したという。

 次の交差点から細道に入るとすぐ、なまこ壁の消防団第1分団の建物があり、その前に
は「平塚宿問屋場跡」の説明板が立っていた。


 その横を北に進み、「平塚の塚緑地」と呼ぶ小公園に寄る。

 北側にクロマツが立ち、その下に平塚の地名の起こりのことを記した「平塚の塚」の由
来が記されていた。


 道路を挟んで西中町公園があり、その西側が毘沙門天を祭る春日神社である。

 春日神社は、1191年頃、源頼朝が馬入川(ばにゅうがわ)の橋供養のために建立し、
旧東海道平塚宿の鎮守社として信仰を集めたとか。源頼朝夫人、北条政子の安産祈願でも
知られているようだ。


 拝殿には精巧な木彫が施され、境内には春日稲荷神社や春日天満宮などの末社がある。
七福神の毘沙門天は拝殿左手の毘沙門堂とその前に祭られていた。
         

 境内には、カワラケに息を吹きかけて投げ割って厄をはらうという厄割石というのもあ
る。
     

 南側の空き地では間もなくどんど焼きをするようで、正月の松飾りやしめ縄などが積み
上げられていた。


 左手から背後の国道1号線に出た。緩やかな右カーブの後、葉の落ちたケヤキの街路樹
の続く歩道を東に向かう。


 検察庁交差点の先に光圓寺があったので立ち寄る。本堂は横長の独特な造り。


 本堂前に「手向の塔」と呼ぶ大きな石塔が建っている。平塚市の戦没者供養塔のよう。
         

 西北からの道と合した八幡宮交差点の北側は、3つ目の七福神、弁財天を祭る平塚八幡
宮である。

 石鳥居をくぐり、大きな弁天池の横へ。弁天池への入口に琵琶を弾く弁天立像があった。
         


 二の鳥居を入った正面が拝殿で、境内にはほかに若宮社、神明社など7つの社があり、
正月には開運七社詣でをする市民が多いよう。


 平塚八幡宮は、380年頃に起きた大地震の被害を受けた民の平穏と地鎭を願い、第
15代応神天皇を祭る社として建立されたとか。

 歴代天皇や源頼朝、徳川家康など武家の崇敬も厚く、武運や勝負、安産や子育ての神、
さらに震災や厄災からの守り神としても崇敬されているという。


 境内西側では年に一度のどんど焼きをしていて、門松や注連(しめ)飾りなどが燃やさ
れ、どんな由緒かその火に竹竿に吊した五色の団子のようなものをかざしていた。

 広い境内にはほかに、ご神木のイチョウ、全国の神社の絵馬を展示↓したパネル、多種
の縁起物を販売する店などが目についた。


     
 神社を出て、東南側の宮の前交差点を跨道橋で横断する。少し先の吉野家に12時35
分に入り、30分足らずで昼食をした。

 さらに東へ、近くの松原小入口交差点で緩やかに右カーブする国道1号を離れ、直進す
る車道へ。国道129号を横断して、相模(馬入)川右岸に接した「馬入ふれあい公園」
に立ち寄る。


 西側には、サッカー場と大屋根の市立体育館「ひらつかサンライフアリーナ」がある。


 馬入川右岸堤防に上がり眼下の運動場やモーターボート係留施設、対岸の茅ヶ崎市の建
物、下流に架かる国道1号線の馬入橋など眺める。


 堤防上には「馬入の渡し跡」碑が立ち、「江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけるこ
とを禁止し、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)では「渡し船」、酒匂川(さかわがわ)
では「徒歩渡し」などで渡っていた」ことなどが記されていた。


 碑の周辺からは北に、丹沢山塊やその東に立つ日本三百名山で関東百名山の大山(おお
やま)(1252m)が望まれる。



 公園の南側入口に戻り、そばのホテルサンライフガーデンの教会↑横を進み、近くにあ
る次の七福神、布袋尊の連光寺(れんこうじ)へ。


 本堂は近代的なコンクリート造り。その前に、屋根まで届きそうな大きなサボテンが目
につく。


         
 にこやかな布袋尊は左手お堂に祭られ、その横には七福神の乗る石像の新しい宝船もあ
る。


 南側の馬入交差点で馬入橋に延びる国道1号線を横断し、南側の細道を橋際に進むと、
「陸軍架橋記念碑」が立っていた。
         
 大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊した馬入橋の架橋工事のため、豊
橋と京都の陸軍工兵大隊が派遣されて10月3日に完成し、馬入側を担当した第十六大隊
(京都)の事績を称えたものと記されていた。


 細道を南に回り、JR東海道本線の2本の鉄橋下の草道を東に抜けて右岸堤防上に上が
る。

 東海道本線の鉄橋や対岸の茅ヶ崎市側の林などを眺めながら進むと、西側に平塚競輪場
が見えた。

 堤防を下り、そばにいた警備員に聞くと、今日は和歌山競輪場外レースを開催中で、無
料開放しているので入ったらと勧められた。


 それではと入口を入り、スタンドに上がってほんの数分だけレースを観戦する。スタン
ドはがら空きで観客は数えるほど。





 ほぼ毎年、20数年続けていて今日で37回目の私の七福神めぐりの途中で、競輪場に
入ったのは初めてのことだった。

 南側の札場町(ふだばちょう)に入り、港公園の横を進んで御宇気神社に寄る。社殿は
小さく境内もわずかだが、豊富な緑陰に覆われている。


     
 社殿前の平塚市保存樹木のタブノキの古木に、この社の歴史が偲ばれた。

 その先の乗蓮寺にも立ち寄る。山門の両側に、わらじを下げた独特の姿の石像が並び立
っていた。




 南東すぐ先が、5番目の七福神、寿老神を祭る長楽寺(ちょうらくじ)。

 大きな本堂は幅広い階段上にあり、その右横に大山が望まれる。七福神の寿老尊は、左
手のお堂の前に立つ。


         


 境内右手に、神奈川県指定有形文化財「長楽寺の庚申塔」(下の写真の左端)がある。
紀年銘はないが、県内にある同様の四臂青面金剛(よんぴしょうめんこんごう)と二猿
(ににえん)の石塔が承応2(1653)年~明暦4(1656)年建立のことから、同
時期のものと考えられるよう。

 その右手には江戸期のものらしい数基の石塔が並び、左手には「大震災焼死者供養塔」
が立っていた。

 寺の南側から北西に延びる県道607号を進む。国道129号を超える歩道橋上からは、
正面に大山や丹沢の山並みが望まれる。


 すぐ先近くに次の七福神、恵比寿神の平塚三嶋神社がある。創建は1千年以上前で、平
安時代にはすでに漁業者の信仰を集めていたとか。江戸時代に盛んだった「大山詣で」で
は、海路から訪れる人々の道中の安全祈願所として参拝されていたという。

 一の鳥居を入ると、クロマツの立ち並ぶ参道の先に平塚市保存樹木のクスノキが立つ。



 二の鳥居を入り正面の拝殿に参拝する。拝殿には鶴などの精巧な木彫が施され、恵比寿
神は拝殿左手に釣り竿を持って微笑んでいた。


         

              

 境内には、厄除け開運や流行病など種々の病気を癒やす疫(やく)神社↓や、伊弉諾
(いざなぎ)神社などが祭られている。


 最後の七福神、福禄寿の善性寺(ぜんしょうじ)は、県道を挟んだ西側のはずだが見つ
からず、少し探して北西側にあった。

 善性寺は1661年頃日栄上人が創建し、当初は三浦郡横須賀にあったが1942年に
当地に移転したとか。別名「湯吞寺」と呼ばれ、別棟に国内外の著名作家による湯吞みや
茶器などが拝観できるという。

         
 新しい福禄寿は、本堂右手ににこやかに立ち、本堂の扉を開いてみたら、堂内にも祭ら
れていた。


    
 本堂の扉には、寺院では珍しいステンドグラスが数枚はめ込まれている。庫裡で最後の
御朱印をいただき、15時19分に寺を後にする。


 同じ通りをさらに北西へ、最後に左カーブして「人魚の像」のある平塚駅南口広場に入
り、15時32分にJR平塚駅にゴールした。
     



 ちなみに、七福神めぐりの色紙は500円、朱印代は1か所300円である。


 今日歩いたエリアは、平塚駅を中心に東西3㎞、南北2㎞足らずの範囲にあり、平坦な
市街地で道路が広くて主要道には幅広い歩道もあり、気温も10℃前後で風も弱く、歩き
やすい七福神めぐりだった。

(天気 快晴、距離 10㎞、地図「湘南ひらつか観光マップ」、「湘南ひらつか七福神
めぐり」リーフレットの地図、歩行地 平塚市、歩数 21,300)


 なお、「湘南ひらつか七福神めぐり」の公式サイトはこちらを。
 





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新撰組のふるさと 日野七福神めぐり(東京)

2018-01-08 21:15:10 | 七福神めぐり
 2018年1月4日(木)

 以前参加していた「関東百駅巡礼歩行」の常連メンバーだった宇都宮のNさんから、日野
七福神めぐりのお誘いがあったので、出かけることにした。

 スタート地は京王線の平山城址公園駅、9時半前に着いて宇都宮などからの皆さんを待
ち、全員揃った9時57分に出発する。


 駅の近くにあった日野市のマンホールは、市の鳥であるカワセミのデザイン。
    

 南側を走る北野街道に出て東に少し、七福神ののぼりの立つ細い通りを多摩丘陵の山す
そへと上がり、布袋尊の宗印寺の山門を入る。


 宗印寺の開創は慶長4(1599)年の頃とされるとか。 


 布袋尊は、本堂右手のお堂に祭られていた。


 その横には、鎌倉初期の東国武士で一ノ谷の合戦に名をはせた、平山末重(ひらやます
えしげ)の墓があり、都の旧跡に指定されている。 
        

 高台にある境内からは北方の展望が開け、JR中央線豊田駅周辺と思われる建物などが
望まれる。


 北野街道を東に向かい、次の信号のある交差点を左折して北へ、多摩川の支流、浅川の
平山橋からは奥多摩の山に下部を隠された富士山が望まれた。


 橋の欄干にも、市の鳥カワセミがデザインされている。


 こちらは下流側の展望、眼下の流れには大きなコイが何匹も泳ぐのが見られた。


 平山橋を渡り終えて緩やかな坂を上がり、最近開通したらしい都道159号・豊田高幡
線を1㎞ほど東進し、ひとつ北側の流れ沿いの道に回る。

 豊田小の先を左折して北に入り、突き当たりの大黒天の善生寺へ。 


 本堂


        本堂前に並ぶ七福神
       



 大黒天を祭る大黒堂


 大黒堂の横には、七福神めぐりの人のためのテントがあり、飲み物や土産物などを販売
していたので、暖かい甘酒(100円)でのどを潤した。


 本堂の右手背後には、高さ約4.8mという露座の釈迦大仏が祭られている。


 善生寺を後にして南へ、近くの夏ミカンだろうか、たくさんの実をつけていた。 


 都道159号を東進して500m余り、川辺堀之内にある延命寺に南側から回り込む。


       山門を入って右手のロウバイが花を見せ始めていた。  
       

 延命寺の開基時期は不明だが、南北朝時代の創始とも新田義貞の鎌倉攻めで落武者となっ
た内藤一族が帰農し、戦死者や先祖をとともらうために堂宇を建立したとも伝えられるとか。
本尊は延命地蔵菩薩だという。
 

 七福神の寿老尊は、山門を入って真っ直ぐのお堂に祭られていた。 


       

 境内に接した南側には日枝神社があり、日野市指定天然記念物で樹齢300年というり
っぱなムクノキが目についた(社殿の向こう側)。
     

 神社の東側から浅川左岸堤防に回り、下流(東)に見える高幡橋に向かう。


 振り返ると、先ほどより雲は増えたが再び富士山が望まれた。


 高幡橋からの下流の眺め。


 渡り終えてすぐに左折して都道41号・稲城日野線に入り、右カーブすると高幡山金剛
寺の仁王門(国重要文化財)の前に出る。


 高幡山金剛寺は古来から関東三不動のひとつに挙げられ、高幡不動尊として親しまれて
いるところ。

 約1,150年前の平安初期に、慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により当地を東関鎮護
の霊場と定め、不動明王を安置したのが始まりという。

 仁王門を入った正面にあるのが不動堂で、やはり国の重要文化財。境内は参拝客で混雑
していたが、とりわけこの辺りが一番ごったがえしていて迷子になりそう。


 皆さんは近くの開運そば店で昼食をするというのでいったんここで分かれ、私は境内の
無料憩所に入り、地階の広い休憩室のいすに腰を下ろして弁当を広げた。

 休憩室の奥には金色の釈迦三尊像が祭られていたので、食事を終えてから参拝した。


 不動堂の左手には五重塔が立ち、不動堂背後の奥殿の裏手に回って講堂にある朱印所で、
七福神の四つ目になる弁財天の御朱印を先にいただいた。
       

          
 五重塔の手前には、地元出身の新選組副長、土方歳三(ひじかたとしぞう)像があり、
その前を進んだ中の島の弁天堂に弁財天が祭られている。


 仁王門の左手の総門から高幡不動を出て、参拝客の多い参道を高幡不動駅前まで進む。

 そば店前も通過したが、いつ頃皆さん食事が済むか分からぬので、この後は一人で残り
の七福神めぐりをすることにして、次の真照寺まではひと駅電車に乗って時間の短縮を計
ることにする。

 高幡不動駅13時35分発京王線上り普通電車に乗り、次の百草園(もぐさえん)駅で
降りた。
     

 駅前の都道41号・稲城日野線を東に少し、交番の先で七福神ののぼりに従い右折して
緩やかに上れば、恵比寿天の真照寺門前に着く。山門は元禄15(1702)年の建立の
よう。


 真照寺の創建は長和年間(1012~16)頃といわれ、開基の弘意僧都は長元9
(1036)年3月入寂と記録されているという。


 山門を入った正面が本堂で、恵比寿天は手前右手の新しいお堂に祭られていた。


 本堂の左手には観音堂がある。


 参拝を終えた頃にNさんから電話があったので、午後は一人で回ることにしたことの了
解を得る。

 百草園駅まで戻り、駅の左側の踏切を渡って落川集落の家並みを北西に進み、落川の百
草橋を渡る。


 北側にあった広い邸宅のK邸の門前には、石像や正月飾りなどが目につく。


 さらに住宅地を北西に進んで浅川の右岸堤防に上がると、行く手の新井橋やその上を走
る多摩モノレールなどが望まれる。


 新井橋からの下流の眺め。


 上流側の中層住宅の向こうには、奥多摩の山の目印、大岳山辺周辺の山並みが望まれる。

                    大岳山


 橋を渡って東部会館の横を東に向かう。近くの住宅地に薪をたくさん積んだ作業場のよ
うなところがあった。


 日野高校のグランド北側で、北に折れれば福禄寿の石田寺(せきでんじ)である。



 福禄寿は、本堂前の小さいお堂で迎えてくれた。


         

 境内には、市の天然記念物で樹齢400年というカヤの古木が豊富な枝を広げて立って
いる。
     


 カヤの木と福禄寿堂の間には十一面観音堂が祭られ、背後の墓地には当地出身の新選組
副長、土方歳三の墓がある。
         
 この地、石田(いしだ)地区には土方姓が多いようで、目についた墓石のほとんどが土
方家だった。

 門前から水再生センターに沿って北西へ、国道20号バイパスに出て左折してスーパー
いなげやの西端でモノレールの走る都道503号の交差点を渡る。

 交差点の途中で向こうから来たIさんなどとすれ違い、急ぎ御礼を交わして分かれた。

 すぐ北側のモノレール万願寺駅横から西に400mほど進めば、最後の七福神、毘沙門
天の安養寺に突き当たる。


 安養寺は高幡不動・金剛寺の末寺とか。本堂は元禄時代(1688~1704)初期の
田村氏の書院の一部を使って建立されたよう。


 本堂の右手の庫裡(くり)(客殿)は、さらに古い約400年前に建立されたと推定さ
れているという。


 本堂前に、延命地蔵が立っていたので延命をお願いし手を合わせた。


 藤原時代の造立という毘沙門天像や、都の重宝に指定されている本尊・阿弥陀如来像、
鎌倉時代の大日如来像などは、山門に近いコンクリート製のお堂に祭られていたが、撮
影は遠慮した。


 これで全ての七福神をめぐり終えた。手前にあった八幡神社にも参拝する。開放的な境
内にはすっかり葉を落としたイチョウの古木が立っていた。
     


 往路を戻って15時33分に多摩モノレールの万願寺駅に着き、15時41分発上北台
行きに乗る。

(天気 快晴後晴、距離 10㎞、地図 2万5千分の1・武蔵府中、日野七福神めぐり
 地図、歩行地 日野市、歩数 23,100)

 いただいた日野七福神の御朱印色紙(色紙300円、朱印 各寺300円)
   



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江戸・東京七福神めぐりで港七福神へ(東京)

2018-01-02 22:42:37 | 七福神めぐり
 2018年1月2日(火)

 毎年、新春2日に実施している、NPO東京都ウオーキング協会の第16回江戸・東京
七福神めぐりに出かけた。

 以前は7コースあったのだが昨年からは3コースとなり、今年は港七福神と浅草名所七
福神、山手七福神で、その一つの港七福神に参加した。

 集合地は、JR山手線の浜松町駅北口から1分の旧芝離宮恩賜庭園児童公園である。

 公園からは、浜松町駅付近を通過する東海道新幹線がよく見える。

     
 その向こうには、完成当時は日本最初の高層ビル・霞が関ビルに次ぐ高さだった貿易セ
ンタービル↑や、文化放送のビル↓などが望まれた。
          


 9時30分から出発式があり、役員挨拶やコース説明、準備体操などをして、9時40
分にスタートした。



 
 JRの高架下を抜けて大門通を西へ向かうと、行く手に東京タワーが望まれる。
     


 増上寺の大門に突き当たって左折し、区立芝公園にある徳川家の旧台徳院霊廟総門前へ。



 
 総門を入って緩やかな階段を上がり、広い芝生地を西に抜ける。

 

 少しの樹林を下ると池があり、その向こうが最初の七福神、弁財天の宝珠院(ほうじゅ
いん)である。

 
 少し開かれた本堂の前面扉の間から、ご本尊の阿弥陀如来像が拝顔できた。
       

 東京タワーの背後に回って桜田通りを北北西に少しで、恵比寿神を祭る飯倉熊野神社へ。

 

 島崎藤村が飯倉付近に住んでいた頃は、大変気持ちよい散歩道で、藤村の好きな場所の
ひとつだったとか。

 その先の飯倉交差源を左折して外苑東通りを西へ、ロシア大使館の北側を通過するとク
ラシックな建物の麻布郵便局が目に入る。



 飯倉片町交差点↑を右折して北へ、首都高都心環状線に沿って谷町ジャンクション下↓ま
で進む。


 ジャンクション付近で六本木通に回り、少し北側の3番目、布袋尊を祭る久国(ひさく
に)神社に上がる。



 久国神社は、寛正6(1465)年に太田道灌が江戸城鎮護のために勧請(かんじょう)
したと伝えられているようだ。

       正面拝殿の額は、勝海舟の筆によるものとされているという。
         

 六本木通の西側、裏道を回って桧町公園に入り、10時50分から11時10分まで、
トイレ休憩となった。



 公園入口付近には植栽が多く、その向こうにはフジ棚やハトの休む池がある。








 池の向こうの高層ビルは、東京ミッドタウンのビル




 休憩を終えて外苑東通りに向かう通りにあったとらふぐの店。
     

 ミッドタウンの近くで外苑東通りを横断する。


 すぐ先を東に入って福禄寿の天祖神社に行く。 
    

 社殿は神明造りである。


 西に進んで国立新美術館↓前で左折し、政策研究大学院大学前を通過する。


 六本木通りを横断した南側には、寿老人の櫻田神社がある。


 櫻田神社は、治承4(1180)年に源頼朝の命により現在の霞ヶ関に創建されたとか。
その後、徳川家康入府後の寛永元(1624)年に現在地に移ったという。


      寿老人は、本殿右手の福寿稲荷社に祭られていた。
     

 南進して中国大使館前を過ぎ、仙台坂上を通過して元麻布一丁目にある毘沙門天の氷川
神社へ。


      大黒坂近くからは、下部を絞った変形のビルが目についた。
     

          その大黒坂を下って右にカーブして最後の大宝寺に向かう。
         

 最後は、元麻布一丁目にある大黒天の大法寺である。
          
 大法寺は、慶長2(1597)に日利(にちり)上人が開いたとか。江戸時代には赤門
寺と呼ばれ、宗派を問わず願いごとをする人が集う祈願寺だったという。

 東に少し進んだ交差点際が今回のゴール、12時06分に着き自然解散となる。


 麻布十番駅に向かって少しだけ北進する。


 麻布十番駅の入り口横には、十番稲荷神社があり、コース地図の最後のポイントになっ
ているので参拝する。




 十番稲荷神社は港七福神の宝船の巡拝所で、宝船の石像や火の災難から守るというカエ
ルの石像が階段下の両横にまつられていた。
     

         

         

 十番稲荷神社の参拝も終え、12時15分に東京メトロ南北線の麻布十番駅に入り、帰
路についた。
     

 (天気 快晴、距離 10㎞、地図 港七福神(大黒天・弁財天コース)コース地図、
  歩行地 港区、歩数 12,900)




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武蔵五日市七福神巡り(東京)

2017-01-19 18:48:23 | 七福神めぐり
 2017年1月18日(水)

 続いていた寒波が幾分緩み、最高気温は10℃くらいと予想されたので、武蔵五日市七
福神巡りに出かけた。

 五日市は東京の奥座敷に位置し、古くは山と平地を結ぶ商業地として栄え、現在は秋川
渓谷の玄関口として多くの観光客で賑わっている。歴史と自然に彩られたこの街に、平成
22年(2010)の新春から誕生したのが「武蔵五日市七福神」である。

 JR五日市線の終点、武蔵五日市駅に9時39分に着いた。


 改札前のコンビニで弁当を求め、駅に接した五日市観光案内所に行くが、水曜日は休み
でドアは閉じている。9時45分に駅を出た。


 町中にあるマンホールのデザインは、旧五日市町時代のものと、あきる野市になってか
らの2醜類がある。
    

               

 駅前のT字路から東に延びる都道7号・五日市街道を少しで、舘谷の家並みを抜ける旧
道に入り、最初の七福神、弁財天の正光寺(しょうこうじ)へ。

 正光寺は秋川流域で唯一の時宗の寺院で、嘉元3年(1305)の開創と伝えられてい
るとか。どっしりした本堂は平成14年(2007)の再建という。

    
 琵琶を弾く弁財天像は、方形屋根のお堂に祭られていた。
  

 北側の五日市街道を横断し、すぐに三内橋で秋川の支流を渡る。秋川左岸沿いを少しで、
大悲願寺への道標に従い左の細道を上がる。

 JR五日市線の踏切近くからふり返ると、正光寺周辺や背後の山並みなどの展望が一望
できる。

 踏切を越えれば大黑天の大悲願寺(だいひがんじ)は近い。山門の前に、白梅がチラホ
ラと咲き出していた。


 大悲願寺は、建久2年(1191)に源頼朝の命を受けた平山季重(すえしげ)が建立
したとのこと。15世僧正秀雄(しゆうゆう)は伊達政宗の末弟で、その縁で訪れた政宗
が境内に咲く白萩に心を引かれ、後日所望した書簡が残っているという。

 多摩新四国八十八ヶ所第59番札所で、東国花の寺百ヶ寺第11番寺院でもある。


 山門を入った正面の「無畏閣(むいかく)」と呼ぶ観音堂にには、国重要文化財の阿弥
陀三尊像が安置されているとか。正面欄間の彫刻も見事なもの。
    


 書院造りの本堂は右手にあり、元禄8年(1695)の建築で都の有形文化財。歴史を
感じられる大黑天は、本堂右手の玄関の中に祭られていた。
        

 玄関前の縁台には、乾燥中の切り餅が並んでいる。


 うっそうとした杉木立などに囲まれた広い境内には、四国霊場八十八か所のご本尊の石
像が巡拝できる、新しいお砂踏み霊場が設けられていた。
        

 ちなみに、私はこの大悲願寺には以前に2度ほど来たことがあり、第二次大戦末期には
新宿中村屋の創業者である相馬愛藏(そうまあいぞう)と国光(こっこう)夫妻が疎開し
ていたことを、臼井吉見の大河小説「安曇野」で読んだことも思い出す。

 山門前を南へ、JR五日市線の先で急石段を下り、五日市街道の旧道に出て駅に向かう。

     
 近くの民家のナンテンとキンカンが鮮やかな彩り。三内橋の手前で右折して五日市線に
平行する旧道へ。ロウバイの咲く民家もある。
           

 北からの都道3号に合して五日市駅前に戻り、五日市の中心街を抜ける都道33号・桧
原(ひのはら)街道を西進する。

 「五日市ひろば」と呼ぶ小公園の道路際に「五日市の市神様(いちがみさま)」の説明
板があり、五日市の市のことが記され、傍らに大きな自然石が祭られていた。
    

 すぐ先の「寿美屋」と呼ぶそば店の横のお堂が、恵比寿天の下町(しもちょう)地蔵堂。

 そばに「子育地蔵尊」の説明板があり、地蔵尊は五日市下町女人27人により元禄12
年(1699)に造立されたとのこと。傍らにそのことが刻まれた台石らしい自然石があ
る。
       
 お堂内には、その子育地蔵ともう一つの地蔵さんが見えたが、恵比寿天は確認できなか
った。


 五日市郵便局の先のT字路に阿伎留(あきる)神社への道標があったので、立ち寄るこ
とにした。細い通りを南進し、左カーブする地点の南側一帯が阿伎留神社の深い森になっ
ていた。

 阿伎留神社は、延長5年(927)の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちよう)に
記された、武蔵国多摩8座の筆頭に挙げられた「式内社」と呼ぶ古社。鎌倉時代以降は源
頼朝、足利尊氏、後北条氏から神領が寄進され、徳川家康からは御朱印10石を寄せられ、
以後代々の将軍からの朱印状12通が残っているという。

 現在の拝殿、本殿は明治21年(1888)の完成、大鳥居を入って正面の神楽殿↓も
立派な造り。


 御輿蔵(みこしぐら)には、きらびやかな神輿(みこし)が10基近く並んでいた。
    

 森に囲まれた境内には幾つもの摂社が点在しているが、大鳥居近くのこの「占方神社」
の名は私にとっては初めてのよう。
        
       
 桧原街道に向けて戻り、すぐ手前に平行する細道を西進、少し下がってさらに進んで福
禄寿を祭る玉林寺(ぎょくりんじ)へ。

 玉林寺は定和3年(1347)の開山、本堂は弘化5年(1847)の建立で、内陣に
は草木花鳥や龍を描いた48枚の天井絵があるという。


 山門前に新しい仁王像が立ち、境内はよく整えられた植栽が多くて気持ちよい。



 中央部には石庭もあり、福禄寿は新しいお堂に祭られていた
     

               

 先ほどの下町地蔵堂と、次の番場地蔵堂の朱印所もここになっている。3つの御朱印を
頂き、番場地蔵堂への道も教えていただいた。

 西側の小さい山門を出て、広い墓地の間の斜面を北に向かって上がる。墓地の右手斜面
上部には大きな新しい石像が見えるが、何の像かは分からない。
     


 墓地の上部、白壁の間の門を出た上の新しい小さなお堂が番場地蔵堂で、毘沙門天が祭
られていた。
        

 玉林寺境内に戻り、東側の山門を出て西へ、スイセンの咲く秋川左岸沿いに少しで佳月
橋際に出た。石積みの場所があったのでここで昼食とし、弁当を広げる。
        


 12時42分に食事を終え、佳月橋を渡って小和田集落の西端に入った。上の写真は橋
からの上流側、下は下流側の眺め。


 南に高い斜面に向かって少し上がり、「秋川渓谷リバーティオ」の看板に従い西に向か
う。家並みが終わって間もなく、杉木立の中に木造のコテージの並ぶ秋川渓谷リバーティ
オがあった。


 その先は舗装が切れて細い山道となり、薄暗い杉並木の下を進んで行くと秋川右岸から
次第に離れて高みに上がって行く。
     

 道がこの先続くか不安になりながらも進むと下りとなり、「この先工事中で通行止」の
看板もあった。

 ダメなら戻ろうと下ったら、「かたらいの路 秋川丘陵コース」の案内図があり、すぐ
先の橋で秋川支流を渡れるようになっていてひと安心。
     

 その先にももう一つ橋があり、いずれも鉄製の欄干の塗り替えを終えたばかり。これが
工事中だったと分かる。


 すぐ先の斜面を上がると、桧原街道にかかる沢戸橋の西に出た。街道は90度右カーブ
して本郷集落を直進し、右手に「喜正」と記された造り酒屋が目に入る。


 その先のT字路を左へ、次のT字路を左折して戸倉小際に出た。


 その北側から「寺坂」と呼ぶ急坂を上がり、水道タンクのある都水道局戸倉給水所前を
進み、布袋尊を祭る光源寺(こうげんじ)の山門前に着いた。傍らに「都史跡 戸倉城跡」
の説明板が2つ並んでいる。


 光源寺は、室町幕府の初代将軍、足利尊氏が開基という禅寺。尊氏が擁立した後光厳天
皇がまだ親王のとき、南朝方に追われて5年ほど隠れ住んだ旧跡といわれているという。


 にこやかで大きな布袋像は、山門を入った左手に露座で祭られていた。本堂は正面にあ
り、山を背にした境内は閑静なたたずまい。

 山門を出て東側の斜面には、都指定天然記念物「光厳寺のヤマザクラ」が4本立つ。

 一番南のサクラは、幹周5.33m、枝張り東西25m、南北18mで、樹齢は400
年以上と推定される巨樹。地元では「光厳寺の大桜」と呼ばれ親しまれているという。
  

 ほかの3株は手前の招魂碑近くに立ち、いずれも幹周2m以上の古木である。

 光厳寺からの下り道、東方の谷間に五日市の家並みや、遠くにはビルも望まれる。


 西戸倉集落を北に下り桧原街道を横断、坂下集落を抜けて閑静な秋川左岸の旧道に回ろ
うとしたが、家並みが途切れた先を下るも橋が無い。桧原街道に戻り、街道を進むことに
した。

 どうやら坂下集落のY字路で橋とは違う道に入ったようだ。でも、桧原街道も川側に歩
道があり、車の交通量も少ないので煩わしさは感じない。

 1㎞足らずで十里木(じゅうりぎ)交差点に出た。桧原街道を左に分けて都道201号
へ。すぐ先の十里木駐車場際に、武蔵五日市七福神のたすきを掛けた大きな石像が立って
いた。
       


 秋川が大きく90度カーブする近くで落合橋を渡り、秋川の支流、養沢川の左岸沿いに
ある落合集落へ。日本酒の直売や料理を味わえるやまざき酒舗前を通過する。


         
 間もなく、養沢川↑の広い河原に最後の徳雲院(とくうんいん)が見えてきた。都道か
ら階段を下り、すっかり陽が陰って寒々しいが開放的な境内に入る。


 徳雲院は、戦国時代に先ほどの光厳寺の21世、雲英台東堂和尚の開山とされるが、昭
和9年(1934)以前は無住のときが長かったという。

 境内は梅が多いが、まだ枯れ枝のまま。本堂横の庫裡(くり)で最後の寿老人の御朱印
をいただき、記念にとタオルも下さった。

 本堂内には肝心の寿老人が見えないので聞くと、階段近くにあるという。庫裡の外の温
度計は3℃だった。


 梅の木の多い東側に回り、階段を背にした小さいお堂に祭られた新しい寿老人に参拝し、
15時ちょうどに七福神巡りを終える。
       

    
 墓地のミツマタがたくさん花を見せ、モクレンらしいつぼみもかなりふくらんでいる。

 往路を十里木交差点まで戻り、桧原街道側にある十里木バス停に行くも、次のバスは
15時39分までない。

 さらに1.5㎞余り戻って本郷集落の戸倉バス停に15時32分に着き、今日のゴール
とした。

 9分後に来た西東京バスに乗り、JR五日市駅には15時50分に着いた。

 最高気温は10℃近くかと思われるが、風も無く日中の日差しは暖かに感じ、ほかに七
福神巡りの人に会うこともなく、山里の集落と五日市の町中をめぐる静かな七福神巡りだ
った。

(天気 快晴後晴 距離 12㎞、地図(1/2.5万) 五日市、歩行地 あきる野市、
 歩数 25,700、累積標高差 約690m)


 いただいた記念色紙。色紙代は300円、御朱印は1か所200円ずつで、1月末日ま
では各寺院で押印してもらえる。
  






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2017年新春初歩きは隅田川七福神巡りへ(東京)

2017-01-03 13:01:21 | 七福神めぐり
 2017年1月2日(月)
 
 新春2日は、毎年参加しているNPO東京都ウオーキング協会の「第15回江戸東京七
福神めぐり」に出かけた。

 昨年までは7コースあったが今年は3コースのみに、その中の隅田川七福神に参加する
ことにした。集合は東武スカイツリーラインや東京メトロ銀座線、都営浅草線の浅草駅に
近い、隅田公園内の水上バス乗り場近くの広場。
     
 隅田川右岸にあるので、隅田川の流れや浅草駅に入る東武の特急スペーシア、東京スカ
イツリーなどが望まれる。


 9時半近くから出発式が行われ、挨拶とコース説明の後に準備体操をして、9時37分
にスタートした。



 隅田公園を北に抜けて隅田川の言問橋(ことといばし)を渡り、左岸近くの道を少しで
最初の三囲(みめぐり)神社に入る。



 三井寺の僧・源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠(ほこら)を再建時、出土した
神像の回りを白狐が現れて3回巡り消え去ったのが「みめぐり」の名の起こりとか。

 祭られている七福神の大黒神と恵比寿神は、越後屋(現在の三越)に祭られていたもの
という。


 広い境内には石碑などが多く、京都・太秦(うずまさ)の木島(このしま)神社に原形
があるという、珍しい三角石鳥居などが見られた。


 北北東に少し、隅田川の桜橋近くには布袋尊の弘福寺(こうふくじ)がある。

 黄檗宗(おうばくしゅう)の寺なので、山門や本堂は中国風の独特の造り。


 境内右手にある咳(せき)の爺婆尊像は、寛永年間(1624~44)に風外和尚が修
行中に両親を偲(しの)んで刻んだもので、屋外の石像だから風邪にも強かろうと風除け
の信仰を集めたとか。現在は石造のお堂に祭られている。
     


 北に接するのが弁財天の長命寺。3代将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛をこの寺の井戸水
で薬を飲んで快癒したことから「長命水」の名をいただき、寺号も長命寺としたという。
弁財天は、開帳されて本堂内に祭られていた。
     

 都道461号・墨堤(ぼくてい)通りを進んで東側の旧道に回り、向島百花園(むこう
じまひゃっかえん)の門を入る。


 福禄寿尊は左手奥の小さな社殿に祭られているが、込んでいて尊像は拝観できない。
     

 隅田川七福神は、文化元年(1804)にここ百花園に集まった、江戸の町民文化を代
表する文化人たちの発案で始まったとのこと。

 福禄寿尊は、開祖の佐原鞠塢(さはらきくう)が、百花園の草花にちなみ本草の神とし
て愛蔵し信仰していたものという。


 普段公開されている園路は閉ざされていて、今日は巡ることは出来ないので、門の近く
の木々や咲き出した紅梅などを眺めるに留める。


         

 西北間近には、寿老神の白鬚(しらひげ)神社が祭られている。祭神の猿田彦命は道案
内の守り神ということから、お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれたようだ。

 参拝客が多く、ここも寿老神を拝顔することは出来なかった。

 白髭橋から延びる都道306号を横断して、隅田二丁目の岐雲園(きうんえん)跡の公
園でトイレ休憩となる。

 岐雲園は、幕末に目付や外国奉行として外交に尽くした岩瀬忠震が、河水を引いた汐入
の池のある別荘風の家を構えの跡とのこと。将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にし
て免ぜられ、ここで隠遁生活を送り風雅な生活を楽しんだという。いまその面影は全く見
られない。


 さらに都道461号・墨堤通りの東に平行する細道を北進する。途中の正福寺の一角に、
首塚地蔵尊ののぼりの立つ地蔵堂があり、たくさんのお地蔵さんが祭られていた。


 荒川右岸の堤防際を走る東武スカイツリーラインの線路が近づき、最後の七福神、毘沙
門天を祭る多聞寺(たもんじ)はすぐ近くにある。

 かやぶきの山門前から大変な人が並び、山門をくぐるのも順番待ちしている。山門は明
和9年(1772)の建立、墨田区最古の建造物として区の登録有形文化財である。

 何とか山門を入ったが、本堂までさらに参拝の列が続いている。山門を入った辺りで拝
礼して参拝に変えた。

 ここで七福神は巡り終えたが、隅田川左岸沿いを隅田公園まで戻るフルコースを選ぶか、
ここで終えるかが選択できる。私は、この後はフリーで歩きたいので歩き終えることとし
て、11時半近くに多聞寺を後にした。


 ほぼ同じ道を500mほど戻り、隅田二郵便局前を通過して墨堤通りへ。長く連なる中
層住宅に沿って少しで、隅田川左岸沿いに延びる東白髭公園に入り、近くの隅田川神社に
参拝する。



 境内には水神社など摂社もあり、白梅が早くも咲き出していた。
    

 そばの案内板によれば、荒川下流の鐘ヶ淵を越えて大きく曲がったこの地は、隅田川の
落ち口(終点)で、かつてはうっそうとした森が広がり、「水神の森」とも「浮洲(うき
す)の森」とも呼ばれ親しまれていたという。

      
 正面に逆光の東京スカイツリーを見ながら公園の南端まで進み、白髭橋から延びる都道
306号を横断する。
     

     
 墨堤通りを南下して少し先で西に入り、隅田川左岸沿いを走る首都高6号線の下の遊歩
道を進む。
     



 桜橋近くで東に回り、先ほど参拝した長命寺の北側の道路に出た。

 短い遊歩道沿いにジュウガツザクラ↑とフユザクラ↓が咲き、野口雨情がここに来遊した
時に詠んだ「都鳥さへ夜長のころは 水に歌書く夢も見る」の詩碑がある。
    
     

 そばに、古くからの名物「長命寺の桜もち」の店があるので入り、6個入りの桜もちを
購入する。
   

       


 西側、首都高の高架下部壁面には、広重が描いたこの辺りの風景のタイル画が埋め込ま
れていた。
    


 その横を隅田川左岸に出て、X型の歩道橋、桜橋を渡り右岸に回る。


 橋の中央部2か所に、平山郁夫画伯が描いた「双鶴飛天の図」の石刻があった。


     
 右岸沿いの隅田公園を、対岸の東京スカイツリーを間近に見ながらさらに南下する。


 言問橋下を南に抜けたところで公園を離れ、浅草寺に寄ることにして都道319号を西
に向かう。

 途中の中華店で昼食をして、馬道交差点の先で北側背後から浅草寺境内に入った。正月
2日とあり、多くの参拝客で境内はごった返している。



 本堂への参拝には、南側の仲見世通りをかなりの時間をかけて並ばねばならない。今日
はあきらめ、東側の二尊仏↓などの石仏や、弁天堂に参拝するに留めた。


 弁天堂の本尊は白髪なので「老女弁財天」と呼ばれ、関東三弁天(湘南・江ノ島、千葉
県柏市の布施弁天と合わせ)のひとつとか。


 鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)5代将軍綱吉公改鋳(かいちゅう)の江戸時代の
「時の鐘」で、芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」で知られた鐘という。


     
 仲見世通りに劣らず混雑する新仲見世通りを抜けて、東京メトロ銀座線の浅草駅に13
時43分に着き、今日の私のゴールとする。



(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 台東区、墨田区、
 歩数 16,000)





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コメント (4)
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