あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

中欧5か国8日間の旅⑤ ブラスチラバ観光後 列車でブダペストへ(前半)

2016-06-29 22:18:49 | 中欧5か国旅行
 第5日 2016年6月1日(水)
 
 == スロバキアのブラチスラバ観光後ハンガリーのブダペストへ ==

 連泊したチェコ首都のホテル、デュオプラハで5時30分に起床、6時30分から朝食
をして、7時30分にバスはホテルを出た。

     
 今日は、今回の旅で最長の移動日。午前中はプラハから南東に約337㎞のスロバキア
の首都ブラスチラバに行き、観光後、さらに東南東に約200㎞の最後の宿泊地であるハ
ンガリーの首都ブダペストまでの予定である。


 朝のラッシュで混雑するプラハ市街地を抜けて、木々の多い高速道を進む。




 道路工事中のために一時渋滞した所を過ぎ、9時50分から10時10分までガソリン
スタンド兼店舗の店でトイレ休憩する。



 10時52分頃、チェコ南東部の主要都市らしいブルノ(Brno)で、南に延びる国道2
号線に入る。緩やかな丘陵地帯に広がる町並みや草原地帯、大豆や麦畑などの広がる沿道
をさらに進む。


 11時30分にチェコとスロバキアとの国境に着き、次のトイレ休憩。ドライバーさん
は、何らかの手続きでかなりの時間をとる。国境の検問所は廃止されていて、ガランとし
ていた。



 11時49分に出発してスロバキア国内に入り、遠望の利く草原地帯を南下する。豊富
な水量を見せるドナウ(Dunaj)川を越えて、首都ブラスチラバ(Bratislava)市街に入った。
 


 ドナウ川沿いを少し進み、12時35分にブラスチラバ城↓下の新しい吊り橋、SNP
橋のそばで下車する。道路際の気温表示は28度で、暑さを感じる。



 ちなみに、SNP橋は車道の下に歩道があり、歩いて渡ることも出来るとか。南側の主
塔は展望塔にもなっていて、プラスチラバでは最高の地上95mの建築物で、展望台から
は市街全景が眺められるという。

 スロバキアの首都ブラスチラバは、ドナウ川の両岸に広がりオーストリア・ハンガリー
国境に接し、ウィーンまでは60㎞程の距離。近郊には農地も多くブドウ栽培が盛んで、
ワインの産地としても名高いとか。人口は約41万人という。

 なお、スロバキアの面積は、北海道の5分の3ほどの4万9千㎢余り、人口は約540
万人余りのよう。

 ブラスチラバは、9世紀頃から長くハンガリー王国の一部で、1541年に当時のハン
ガリー王国の首都ブダがオスマン帝国に攻め落とされ、王位がハンガリー貴族からハプス
ブルク家に継がれるようになった。

 のち首都がここに移され、1563~1830年の間は当地の聖マルティン大聖堂でハ
ンガリー王11人の戴冠式が行われ、マリア・テレジアもその一人。マリア・テレジアは
ブラスチラバ城に好んで居住し、町は18世紀頃大きく発展したという。

 だが私はこのツアーに参加するまで、スロバキアの首都がブラスチラバという名の都市
であることは全く知らなかった。

 スロバキアがチェコスロバキアから分離独立してスロバキア共和国になったのは
1993年1月で、EUに加盟したのは2004年5月だという。


 SNS橋際から北に向かうと、その聖マルティン大聖堂が見えてきた。14世紀初頭に
建てられ、ブラスチラバで最古の教会である。

           
 近くの広場には鉄製の前衛的な彫刻があり、細い通りを抜けた緑地には「BERNOLAK
1762-1813」と記された胸像がある。
     

        
 ANTON BERNOLAKというスロバキアの言語学者でカトリック聖職者でもあり、最初の
スロバキアの標準言語を作った人らしい。

 さらに少し進んで昼食をするレストランに入り、12時45分から13時35分まで魚
料理の昼食を味わう。


 昼食後、若い男性ガイド、マイケルさんの案内で旧市街を回る。カフェテラスの並ぶ通
りを進むと、「モーツアルト」のプレートの掛かった建物がある。

         
 6歳のモーツアルトがこの家の前で演奏したことがあることから「モーツアルトの家」
と呼ばれいるとか。建物は近年までオーストリア大使館だったようだが、現在は移転した
のかオーストリア国旗は掲揚されてなかった。

     
 すぐ近くにはフランツ・リストが幼少の頃過ごしたという建物があり、やはり銅板のプ
レートが掲示されていた。
    

     
 正面に見えるミハエル門に向かって進む。門といっても塔の方が目に付く建物は、旧市
街の城壁に幾つか設けられていた門のうちでただ一つ残る門で、16世紀に現在のような
ルネサンス様式に改築されたらしい。塔の部分は現在、武器博物館になっているという。



 ミハエル門の近くまで進んで右折して、旧市街の中心のフラヴネー(Hlavné)広場に
出た。

 広場の東北側、塔のある建物は旧市庁舎で、現在は市歴史博物館になっているようだ。

     
 広場の中央部には大きな噴水があり、3階建ての建物はフランス大使館だろうか…。


 東側の4階建ての建物には日本大使館があり、日本国旗が掲揚されていた。


 13時55分から14時20分までフリータイムになったので、広場周辺を回る。ブラ
スチラバの町中には、ユニークな像や看板など、ストリートアートが多いのが魅力の一つ
とか。椅子にもたれかかるこの像もその一つ。
    




 広場の片隅には観光用のミニバスが待機していた。建物を囲む中庭が見えたので入って
みた。何の建物か分からないが、小学生くらいの子どもたちが催しを終えたところだった。



 広場の北側には、観光客目当てのテント張りの露店が並んでいる。小さな飾りや民芸品、
絵皿、人形などなどカラフルで、見て回るだけで楽しい。
  

       

     
 東側の日本大使館の建物前にも衛兵のような彫刻がある。大使館の1階のウィンドウに
は、日本語のポスターも掲示されていた。
               

         
 さらに回ると町並みをデザインした椅子や、騎士の彫刻なども見られた。
       

 14時20分に集合して、東南へのリバールスカ・ブラーナ(Rybärsja Bräna)通りに向
かう。Panskä通りとの交差点際には、「下水道の掃除人」と呼ぶブラスチラバで最も人気
のオブジェがある。
    

                 

 西南に真っ直ぐ延びる、フヴィエズドラヴォヴォ(Hviezdoslavovo)広場に出た。通りの
東北端辺りに、スロヴァキア国立劇場(オペラ座)がある。

 ウィーンの建築家の設計により1886年に建設された劇場で、フランツ・リストはこ
の劇場で15回オペラを指揮したという。

 午後は気温が上がり暑いが、この長く延びる公園には広葉樹の街路樹が続くので、その
緑陰を進む。

 ここにも幾つかの彫刻があり、中心部にはこの公園の名のもとになったスロバキアの詩
人 Országh Hviezdoslavの座像がある。
         



         
 アメリカ大使館前を通過した辺りには、動物を抱く少女の像とクリスチャン・アンデル
セン(Christian Andersen)の立像があった。
      

          
 アンデルセンはブラスチラバを訪問したことがあるようで、像にはアンデルセン物語の
主人公も掘られていた。

     
 フヴィエズドラヴォヴォ広場の西南端まで進むと、三位一体像↑が立っている。像は、
伝染病ペスト終息の記念碑らしい。(続く)




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中欧5か国8日間の旅④ プラハ歴史地区とドイツ・ドレスデン観光(後半)

2016-06-24 17:40:01 | 中欧5か国旅行
 2016年5月31日(火)午後

 == プラハ歴史地区とドイツ・ドレスデンの観光(後半) ==

 昼食を終えて12時20分にバスに乗り、チェコの首都プラハからドイツ中東部の都市
ドレスデン(Dresden)に向かう。ドレスデンは、プラハからは北北西に約150㎞ほど
になるよう。

 実はこの日の午後は、Aプランとしてドレスデン観光を、Bプランとしてプラハ市内の
町歩きを楽しむ自由行動という、2つのプランが選べるようになっていたのだが、27名
全員がドレスデン観光のAプランを選んだ。


 プラハ郊外に出ると麦畑などの平坦地がしばらく続く。


 やがて低いながら緩やかな山並みが見えてきた。


 13時40分から14時近くまで、ドレスデンへ60㎞余りのところにあった店でトイ
レ休憩の時間をとる。


 国境近くになると高速道路が無くなり、山間の集落を抜けたり幾つかの峠越をする辺り
は道路が狭まり、カーブの多い道が続く。

 再び直線の多い高速道路となり、チェコ・ドイツ国境も分からぬうちに通過して、ドレ
スデン市内に入った頃には雨模様になった。


 14時50分にドレスデンの旧市街、エルベ川にかかるアウクストゥス(Augustus)橋
近くでバスを下りた。雨は止んでいたが雷鳴が聞こえ、今にも降り出しそうな雲行きだ。


 ドレスデンは、エルベ川沿いに栄えたザクセン王国の古都で、アウグスト大王の時代に
は全盛期を迎え、華やかな宮廷文化が繰り広げられた歴史的な街。

 第二次世界大戦末期の1945年2月には、連合軍の爆撃で街そのものが徹底的に破壊
されたが、東西ドイツ統合後に再建が進んで往時の姿に修復されており、現在はザクセン
州の州都で、人口約52万人という。

 橋の南側のテアーター広場で、ガイドの日本人女性(お名前はメモ漏れ)と落ち合い、
案内してもらう。


 テアーター広場は、ゼンパーオーパー(Semperoper)(ザクセン州立歌劇場)、カトリッ
ク宮廷教会、ツヴィンガー宮殿↓(Zwinger)などに囲まれていて、中心にザクセン王の大
きな騎馬像がある。


     

 それら周辺を見回しているうちに、ガイドさんから第二次世界大戦で破壊されたときの
様子を、写真で説明してくれる。


 広場の西北は、毎日のようにオペラやバレエ、コンサートが上演されるというゼンパー
オーパーだが、現在は修理中のよう。



 東側のドレスデン王宮↑の方に向かう。右手のバロック様式の建物↓はカトリック宮廷教
会。正式名称は三位一体大聖堂と言い、ザクセン州最大の教会のよう。


 エルベ川沿いに回って、ブリュールのテラスと呼ぶ高みから川を眺める。石造のアウク
ストウス橋は、エルベ川に架かる最古の橋とか。



 対岸は新市街である。現在は水位が低いが、何年か前の大雨では増水して沿岸に被害も
出たらしい。東側の長い橋はカローラ橋。


     
 川沿いを少し東進すると、建物の間からドレスデン美術大の↑ガラスドーム(通称「レ
モン絞り器」)や、ブラウエン教会↓、ドレスデン王宮などの塔が望まれる。


        


 1764年設立でドレスデン最古の大学、ドレスデン美術大学↑の手前を右折して、川
を離れた。


 狭い通りのミュンツガッセ通りを南進し、ブラウエン教会(聖母教会)の前へ。

     
 ドレスデンのシンボルともいえる教会で、1726年から17年かけて建てられたが、
第二次大戦の空襲で倒壊して廃墟になり半世紀近く放置され、1994年から再建が始ま
り2005年に昔の姿に蘇ったとのこと。

 再建作業では、がれきの山から石材を拾い出し、その位置から使われていた場所を割り
出して再建に使われたが、使用できない石材も多く、かなりの部分は新しい石材が使われ
たようで、気の遠くなるような作業により現在の姿に蘇ったという。黒っぽい石材が空襲
を受けて焼けたもの。
     

 少し先から見たブラウエン教会。


 ドレスデン王宮に向かうと、クリーム色の建物が目に付く。タッシェンベルクパレス
ケンピスキーと呼ぶホテル。

 ザクセン王が王妃のために建てたタッシェンベルク宮殿を再建したもので、アメリカの
オバマ大統領やロシアのプーチン大統領も宿泊しているという。


 王宮のそばのノイマルクト広場には、ドイツ生まれの宗教改革の創始者、マルティン・
ルター(Martin Luther、1483~1546)の立像がある。
     

 空が暗くなり、心配していた雨が落ちてきて雷鳴も増えてきた。ガイドさんは雷が嫌い
のようで、雷鳴を気にしながらもガイドを続けてくれる。

 広場を横切り、ドレスデン交通博物館の横を通過する。

 建物はザクセン王の居城だったレジデンツ城の一部で、厩舎や馬車置き場として16世
紀末に建てられたとか。
     
 博物館は東ドイツ時代の1956年に開設され、地元ザクセン州や東ドイツゆかりの鉄
道車両などを保存展示しているという。


 すぐ先、ドレスデン王宮のひとつ、シュタルホーフと呼ぶ建物の外壁に、高さ8m、全
長102mにわたり、約2万3千枚ものマイセン磁器タイルを使って、歴代35人の国王
らの行進する姿が、左から右へと年代順に描かれている。


 中ほどにあるアウグスト2世は、ザクセン選帝国の首都ドレスデンを文化的中心地に変
え、ヨーロッパ中から芸術家や音楽家を宮廷に招聘し、バロック様式の宮殿を建設したと
のこと。隣は息子のアウグスト3世である。
     

 ドレスデン王宮は第二次世界大戦で破壊されつくされたが、この壁だけは破壊を免れた
とのこと。陶磁器の作品としては世界最大級のようで、絵の下には歴代の王の名と年代が
記されていた。


 出発したテアーター広場付近に戻り、カトリック宮廷教会やドレスデン王宮の横を通過
して、西側のツヴィンガー宮殿に入った。


 アウグスト1世の時代の1732年に建造された豪華な宮殿で、18世紀のバロック建
築の最高傑作といわれているとか。やはり第二次世界大戦で崩壊したが、1992年に修
復されたという。



 宮殿内には、アルテマイスター絵画館、武器博物館、数学物理サロン、陶磁器コレクシ
ョンの4つの美術館と博物館があるという。





 宮殿を囲む広い中庭には4つの噴水があり、緑の芝生は雨に濡れてしっとりとした彩り
を見せる。中庭を横断して反対側に抜けて宮殿を出た。



 ドレスデン王宮やカトリック宮廷教会の近くを通過してバスの駐車場に戻る。

 バスは、16時12分にプラハに向かって出発した。

 同じ道を戻る途中も雨は止まない。17時45分から18時までマクドナルドの店でト
イレ休憩をする。



 峠越えになる頃には雨は上がった。晴れていたプラハ市内に戻り、ヴルタヴァ川沿いの
街並みを眺めながら進む。









 バスを下り、旧市街に近いレストランに19時15分に入り夕食をする。


 19時55分にレストランを出てバスに乗り、連泊のホテル デュオプラハには20時
30分過ぎに戻る。                       (歩数 23,000)




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中欧5か国8日間の旅④ プラハ歴史地区とドイツ・ドレスデン観光(前半)

2016-06-21 12:08:42 | 中欧5か国旅行
 第4日 2016年5月31日(火) 

 == プラハ歴史地区とドイツ・ドレスデンの観光 ==

    

 チェコの首都プラハのホテル デュオプラハにて5時40分に起床した。2階の部屋から
外を見ると雨模様である。

 6時30分からホテルのレストランで朝食をして、7時45分にホテルからバスは出発
する。午前中は、世界遺産プラハ歴史地区の観光である。

 バスに乗り込み、今日のプラハ観光のガイドをしてくれるのは、ベテラン男性ガイドの
Tさん。長くプラハにお住まいのようで、まずは自らの生い立ちを漫談調で話し始め、チ
ェコやプラハのこと、両側に次々に見えてくる建物の説明など、笑いを誘いながら説明が
続く。

 ちなみに、チェコ共和国は面積約7万8千8百㎢余りで日本の5分の1弱、人口は約
1,050万人余り、EUに加盟しているが通過は独自のコルナで、1コルナは約5円と
みればよいよう。

 首都プラハは、ヨーロッパ最大の中世都市で人口は約124万人、プラハ歴史地区は
1992年に世界遺産に登録されている。

 建築の町とも呼ばれ、10世紀後半からのロマネスク様式をはじめ、ゴシック様式、ル
ネッサンス様式、バロック様式、さらに20世初頭のアールーボー様式から現代建築まで、
数百年を隔てた建築物が隣り合いながら調和した独特の景観を見せているという。


 スメタナの交響詩「わが祖国」で知られる、雨に濡れるヴルタヴァ(モルダウ)川沿い
を進む。

 8時15分頃、昨日夕食に向かうために下りた王宮庭園近くでバスを下りたら、雨はほ
ぼ上がり傘は要らなくなった。正門からのぞき見た王宮庭園。


 昨日も最初に通過した、プラハ城の北門から入る。



 第2の中庭から門をくぐり、第3の中庭に入って聖ヴィート教会(大聖堂)の前へ。


 圧倒されるような大ゴシック建築の大聖堂は、14世紀にカレル4世により現在の建物
への改築が始まったが1420年にいったん中断され、現在の姿に完成したのは1929
年とのこと。
     
 全長は124m、幅60mで、天井の高さ33m、一番高い南塔は96.5m、西側の
2塔は82mあるという。

 第2の中庭に戻り、9時15分までフリータイムとなり、希望者は添乗員のKさんが案
内してくれるというので皆さんが後を追う。聖ヴィート教会の南側は、16世紀までの歴
代の王宮として使われたところ。

 現在は大統領府として使われていて、チェコ国旗が入口上部に掲揚されていた。

 第3の中庭の東側に回ると、赤レンガの美しい聖イージー教会がある。
     
 920年の創建で、現在の姿は火災後の1142年に再建されたもの。城内最古の教会
だという。


 その横から、緩やかに下る細い通りのイージー通りを少しだけ進み、北側の黄金の小路
に回り、聖ヴィート教会の東側部分の建物を眺める。
     



     
 最後に聖ヴィート教会に入り、高いドームや、19世紀末から20世紀初頭にかけて造
られたという見事なステンドグラスの数々、祭壇などを一巡して眺めた。
   

         



 入口から見て左側3つ目のステンドグラスは、チェコ出身でアールヌーボーを代表する
画家として知られるアルフォンス・ムハ(ミュシャ)の作品というが、祭壇側に柵があり
正面から撮ることはできなかった。
     
        
           ミュシャの作品の一部分。  
          

 プラハ城西側の正門を抜けて、昨日夕方市街地の展望を楽しんだフラチャニ広場に9時
15分に集合し、東に向かって「新登城道」と呼ぶ長い階段を下る。
     

 途中の壁面にはアルフォンス・ミュシャの胸像が掲げられていた。
     

     
 さらに細い通りを抜けて、プラハ城南麓の繁華街らしいマラー・ストラナ広場に出た。
トラムが走り、そばに聖ミクラーシュ教会が望まれる。



 教会は18世紀半ばに造られたもので、プラハ・バロック建築の頂点に立つといわれ、
1787年にはこの教会のオルガンでモーツアルトが演奏しているという。


 東に延びるモステッカー通りへ。クラシックカーの止まる横を通過し、東端でマラー・ス
トラナ橋塔のアーチをくぐる。
     

         

 すぐ先に、ヴルタヴァ川の細い分流、チュエルトフカ川の橋があり、振り返るとマラー・
ストラナ橋塔がどっしりと構え立つ。
     
 左の低い方は12世紀の古い橋の一部で16世紀に改築され、高いゴシックの塔は
1410年に建設されたとか。

     
 川の上流側にはかっぱの像があるとのこと。肉眼では見えなかったが、ズームアップで
撮ったこれがそうらしい。
        

 ヴルタヴァ川のカレル橋の西岸に出た。川向こうの旧市街にはたくさんの塔が並び立つ。

 カレル橋はプラハ最古の石橋で、カレル4世時代の14世紀後半~15世紀初めにかけ
てゴシック様式で建造されたもの。
     
 全長約520m、幅約10mあり、両側の欄干には30体の聖人像が立っている。


 ゆったりと流れるヴルタヴァ川や両側の建物群、聖人像などを眺めながら、橋を旧市街
に向かって進む。


     
 左(下流)側中央部の8つ目、聖ヤン・ネポムッキー像は1863年の制作で橋上最古
の像とのこと。
        
 下のレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ、観光客が次々に触れていたので、私も
そのすきを見て触れて幸運を祈る。



 その先3つ目、上流側にあるのは聖フランシスコ・ザビエル像。ザビエルが布教した東
洋の人達が、楯に乗った聖人をかついでいる。
     

 対岸は旧市街で、橋のすぐ上流の突き出した一角にスメタナ博物館がある。

 市街給水塔の管理棟として建てられ、1936年に博物館となり、チェコの大作曲家ス
メタナの自筆楽譜や日記、書簡、贈答品などが公開されているという。

 橋を渡り終えて旧市街橋塔をくぐって旧市街に入る。ゴシック建築の旧市街橋塔は14
世紀末に建設されたもの。
     

 橋塔をくぐって旧市街に入り、様々な建築や賑やかな通りを眺めながらカレル通りを進
む。
     

 少し先で左折してクリム・ガラス宮殿前に出た。玄関をバロック建築の彫刻が囲んでい
る。18世紀初頭にハプスブルク大使のために建てられたもので、現在はプラハ市の資料
館になっているようだ。
     

 さらに細い通りを抜けて、旧市街広場に出た。東にディーン教会の2本の塔がひときわ
目に付く。
     


 広場は大変な人出で賑わっている。西側には旧市庁舎があり、塔の下部には二つの文字
盤を持つ天文時計がはめ込まれていて、9時~23時の間、毎時ちょうどになると仕掛け
が動き出すとのこと。
     

        

 上の時計は、地球を中心に回る太陽と月など天体の動きを示し、年月日と時間を示しな
がら1年かけて1周し、「プラネタリウム」と呼ばれているらしい。


 下の時計は、黄道と12宮、それに農村の四季の作業を描いた暦で、1日ひと目盛り動
き、「カレンダリウム」と呼ぶようだ。


 広場に面した、モーゼル(Moser)と呼ぶガラス工芸店に入り、店員の説明を聞いた後
フリータイムとなり、精巧で美しいボヘミアンガラスの品々を各々眺めたり、買い求めた
りする。
    


 私は特に買うものもないので広場に出て、周辺を少し巡ってみた。様々な建築様式の建
物が並び、どれが何様式か分からないがどの方向を見ても見飽きない。


 広場の西北側にある聖ミクラーシュ教会は18世紀の建造とか。
     

 広場の北東側にはヤンスキー宮殿がある。優雅なロココ様式の建物は、ゴルツ伯爵の依
頼で1755~65年に建てられたという。



 広場の北側、ヤンスキー宮殿の近くにはヤン・フス像がある。ヤン・フス(Jan Hus)は、
15世紀のチェコにおける宗教改革の先駆者。本職はカレル大学の総長だったが、民衆に
分かりやすい説法で幅広い支持を得ていたという。

 フスの像は、没後500年の1915年に造られ、周囲を囲むのはフス派の戦士や国家
再生の意味を込めた母の像らしい。

 11時の天文時計が動く時刻が近づいたので、集合場所のモーゼルの店の近くに戻る。
動きを見ようと、時計塔の周りは大変な人だかりなっていた。


 11時になると鐘が鳴り仕掛けが動き出したが、動いている場所を目で追っているうち
に終わってしまった。
     
 動いたのは約40秒程度だというので、すべての動きを確認できなかったようだが、
1410年に造られたという天文時計の仕組みの精巧さには感心した。

 旧市街広場を後にしてツェレトナー通りを東進すると、正面に火薬塔が見えてきた。
     
 15世紀後半に建設された高さ65m、ゴシック建築の塔で、17世紀半ばに町がロシ
ア軍に包囲されたときに火薬庫として使われ、1886年に改築してから「火薬塔」と呼
ばるようになったという。

 11時10分頃、近くのレストランに入り、早めの昼食をした。12時05分頃にレス
トランを出て火薬塔の下を進み、共和国広場へ。

 ここも観光客などで賑わい、露店もたくさん並んでいる。


 広場の西側はアールヌーボー様式の市民会館で、コンサートホールや展示会場、レスト
ランなどのある文化施設とか。

 毎年恒例の国際音楽祭「プラハの春」はこのホールで開催され、スメタナ作曲「わが祖
国」の全曲演奏で幕を開けるという。

 旧市街の東に出て、少し離れたバスの駐車地まで歩いてバスに乗る。午後の観光地、ド
イツ中東部のドレスデンに向かうため、12時20分にバスは出発した。(続く)





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続カタツムリ歩行でJR武蔵野線 三郷駅南部周辺を歩く(埼玉)

2016-06-20 11:10:34 | カタツムリ歩行
 2016年6月19日(日)

 JR武蔵野線沿線を中心に歩いている、「続カタツムリ歩行」の第35回例会に参加し
た。集合は、JR武蔵野線の三郷駅。武蔵野線の埼玉県内の駅では最東端にあり、すぐ東
を江戸川が流れ、対岸は千葉県流山市である。

 近くにお住まいのIさんも参加されたので、一緒に10時01分にスタートした。

 南口から線路沿いに西へ、早稲田小の北側で線路の跨道橋下を抜けて北側の早稲田二丁
目に入る。白壁が新しい日本家屋に「アトリエ風の詩」の看板が掛かる。市の広報などに
も絵が掲載されている地元画家のアトリエらしい。


 その先のマンションの小さな遊び場に、こんな動物が。


 周辺は戸建て住宅地が多いが、近くの高応寺には緑がいっぱい。門前に2種の赤い花が
咲いていた。


         

 高応寺は400年ほど前に建てられ、多くの学者が活躍してきた由緒ある日蓮宗の学門
寺で、ここにあった寺子屋から、近くの早稲田小や前問小へと続いていったという。

 ご住職の酒井菜法(さかいなほう)さんは、がん患者とその家族など、様々な悩みを抱
える地域の方々とお茶を飲みながら語りあう活動をされているようで、毎日新聞などに紹
介された記事のコピーが拝殿前に置かれていた。


 境内の中心、緑に覆われた池にコイが泳ぎ、西側の新しい墓地には、自然葬の為のエリ
アもある。


 県道21号・三郷松伏線を南へ、JR武蔵野線の南に出て、県道29号との交差点の東
にある香取神社へ。社殿は小さいが、壁面を塗り直したのか新しい感じ。


 境内には、お地蔵さんなど10体を越える石像が並び、大広戸公民館が併設されていた。



 県道21号の西側にある桜の古木の多い公園を抜けて、大場川の左岸沿いに出る。対岸
の小さな森に神社があるようで、鳥居が見える。
       


 満々と水をたたえた流れを見ながら進み、次の橋を渡って右岸に回る。早稲田橋に近い
旧道の三差路際に大きな記念碑が立っていた。
     
 昭和10年(1935)3月建立の「二郷半領治水碑」で、事業功労者名には当時の飯
沼県知事など県幹部などの名もあり、県の大規模事業として二郷半領(にごうはんりょう)
の治水事業が行われたことが伺える。

 ちなみに、江戸川と中川に挟まれた三郷市・吉川市の地域を古くは「二郷半領」と呼び、
早場米(はやばまい)の産地だったが、中川低地に位置していたのでたびたび水害に悩ま
された。そのため、戦前・戦後を通じて幾多の灌漑(かんがい)排水事業を行った結果、
良質な穀倉地帯になったという。

 南側、近くの墓地に小さい社が祭られていたので回ってみた。

 阿弥陀堂で、社殿には「早稲田太子講」の木札が掛かり、墓地の隅には7体のお地蔵さ
んを祭る小さい祠(ほこら)もある。真ん中のお地蔵さんは、貞享2年(1685)造立
と刻まれていた。
       

 一帯は茂田井(もたい)集落で、その中心に熊野神社がある。

 創建は、二郷半領の新田開発がかなり進展した万治年間(1592~6)のようで、
『風土記稿』には「熊野社 小名中組の鎮守にして、第六天稲荷の二座を相殿とす」と記
されているという。


 鳥居の近くに日露戦争頃のものだろうか砲弾が二つ立ち、南側は農地で、枝豆畑の向こ
うにビニールハウスが並んでいた。
        

 西北側近くには、小さな社殿の稲荷神社が祭られているが、由緒などは分からない。

 ただ、隣のりっぱな民家と地続きのような感じもあり、その家で氏神として祭ったのか
もしれない。

 神社の前を西進して三郷市第二配水場の南側に回り、更に西進する。道路のマンホール
や排水タンク、南側の三郷北浄水場の建物などには、三郷市のマスコットキャラクターの
「かいちゃん」と「つぶちゃん」が描かれている。
    
 市の鳥・カイツブリをモチーフにしてデザインしたらしい。


 配水場の植え込みにカイヅカイブキがあり、実が付いていた。
  

 地図上、第二配水場の西北西、笹塚バス停近くの三差路際に、同じ2・7mの三角点と
水準点マークがあるので行ってみた。
    
 水準点はマンホールに覆われ、ふたに日本地図が描かれていて分かったが、三角点は見
つからなかった。

 11時40分になったのでゴールに向かうことにして、つくばEXPの三郷中央駅に向
かって延びる広い市道を南進する。



 緑濃くなった水田の向こう、番匠免(ばんしょうめん)運動公園沿いの用水沿いに広葉
樹の長い帯が続く。

 幸房(こうぼう)小の西北端で市道に分かれ、小学校の北側沿いを東進する。戸建て住
宅の間に、田んぼがまだかなり残っていた。



 大場川沿いに走る県道21号に出ると、川向こうにゴールの富足(とみたる)神社の木
々が近づく。神社には12時ちょうどに入った。

 富足神社は、明治43年(1910)3月、早稲田村岩野木と同村幸房の各社を合祀し
て成立したと伝えられるとか。社名は、幸房の福富神社の「富」と岩野木の面足(おもた
る)神社の「足」を組み合わせて富足神社としたようだ。


 拝殿の西側には、水神宮や庚申塔、青面金剛など10数基の石塔や石祠が並んでいる。

        
 江戸後期の1800年代のものが多いが、石祠の左の「申田彦大神」と刻まれた石塔は、
江戸前期の寛文9年(1669)造立のよう。

     
 境内西北端に、市の保存樹木ムクノキが高く枝を広げている。境内東側には水田が広が
り、その向こうに江戸川堤防が望まれる。


  
 手洗い場と社殿右手の水道の蛇口の造りは、他では見られぬもの。
       

 食事を終え記念撮影後のミーティングでは、事務局のDYさんから、上旬に訪れた南フ
ランスの村に7泊して周辺を巡り、出会った人達との交流や、標高1,911mの山に登っ
たことなどが紹介され、13時15分頃散会となる。



 帰路は、東側の江戸川右岸堤防沿いに駅に向かうことにする。近くの水田にサギが立っ
ていた。ダリアの咲く畑もある。



 江戸川堤防に上がると、すぐ下流につくばEXPの鉄橋が望まれ、河川敷には幾つかの
野球グランドが続く。



 大場川が江戸川に流入するところには、大場川上流樋管(ひかん)があった。



 長い管橋は、東京ガスのガス導管専用橋。JR武蔵野線の鉄橋近くには「ふるさと風の
ひろば」と呼ぶサイクリストの休憩所があり、トイレも設けられていた。


 そばの河川敷は「三郷緊急用船着場」。大地震で破損した河川施設や被災した市街地を
復旧するための資機材を運び込んだり、救援物資を運ぶ際の船着場のよう。


 13時43分にJR三郷駅に戻り、13時56分発武蔵野線上り電車で帰路につく。

 ホームのすぐ東側は、江戸川に架かる橋である。

(天気 晴後曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 流山、歩行地 三郷市、歩数
 12,700)




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所沢メンネルコール第30回記念演奏会へ(埼玉)

2016-06-18 22:06:08 | Weblog
 2016年6月18日(土)

 今日は全国的に気温が上がり、埼玉県鳩山町と群馬県館林市では35℃を超える猛暑日
になったとか。わが所沢市のAmedas(アメダス)観測地点でも、13時30分には
31.6℃の最高気温を観測したようです。

 その最高気温を観測した13時30分から開始された、男声合唱団・所沢メンネルコー
ルの第30回記念演奏会に出かけました。

 入場券は、合唱団のメンバーで、最後の勤めの頃の職場が一緒だったIさんからいただ
きました。

 会場は、西武新宿線航空公園駅から10分ほどの、所沢文化センター ミューズの1番
大きなアークホールです。


 演奏中は撮影禁止なので、開演前に撮った会場風景。


 会場でもらった演奏会のプログラム表紙


         今日の演奏曲目は以下の通りでした。
        

 演奏の様子が撮れないので、プログラムに掲載されていた写真で代用します。


 演奏の第1ステージ LISTZ Requiem(フランツ・リストの「レクイエム」)
では、ダークスーツ姿でしたが、第2ステージの「昭和浪漫」以降は、上の写真と同じス
タイルで熱唱されました。

 メンバーの人数は、私が数えたら53人くらいだったと思われます。

 指揮者とピアノ、パイプオルガンの伴奏をされた方、そして所沢市民吹奏楽団の4名が
賛助出演されました。これもプログラムに掲載のもの。
             

 30年前の創立時から参加されているのは4人とか、平均年齢69歳ともいわれました
が、例年通り見事なハーモニーで演奏され、満員の観客も記念演奏を堪能しました。

 アンコール曲「昴」などで、15時50分頃、演奏会は幕を閉じました。

 アークホールの2階席から入口ホールに向かって下る観客。


 ホール入り口を出た辺りでは、演奏者と知り合いの方々との交歓が行われ、しばらくの
間賑わっていました。

 私もIさんにお礼とお祝いを申し上げ、ミュースを後にしました。




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北本から鴻巣へ 元荒川沿いの水田地帯を歩く(埼玉)

2016-06-16 17:27:38 | カントリーウオーク
 2016年6月12日(日)

 埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第234回例会に参加した。
集合地はJR高崎線の北本(きたもと)駅、参加者21人は5組に分かれて10時07分
に北本駅東口をスタートした。
 
 == 北本総合公園から上谷総合公園へ ==

 
 東に少し進み、宗教団体「解脱会(げだつかい)御霊地」の看板に近い県道164号・
中山道の最初の信号を渡ると、すぐ先に天神社がある。

 天神社は、寛文2年(1662)頃、当時の元宿村(もとじゅくむら)の領地安全と領
民の無病息災・五穀豊穣をを祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祭ったのが始
まりと伝えられているという。


 参道に咲くのはアジサイとクチナシのよう。
    

 境内では、夏まつりの練習中なのか、子どもたちがそろって笛を吹いていた。



 南東に接した多聞寺は堂々たる本堂。境内には県の天然記念物に選定されているムクロ
ジの古木があるが、落雷にあったのか幹の上部は欠落していた。
     
 でも、県天然記念物に指定された昭和16年(1941)には、幹回り3.6m、根回
り7.6m、樹高27m、枝張り14.5mあり、樹齢は約200年と推定されたようだ。

 天神社の背後に出て、北本二丁目から四丁目へと駅から延びる東中央通りを進む。

    
 国道17号を横断し、次の交差点を左折して宮内六丁目に回り、少し迂回してナデシコ
や変わったネギ坊主などの見える畑の間を抜ける。収穫期となった小麦畑もあった。
        



 東中央通りを斜めに横断して東側の古市場二丁目に入ると、ユリやアジサイなどの咲く
畑がある。



 朝日一丁目の集落や水田の間を抜けて北本総合公園に入り、池の西側の芝生地で休憩し
た。





 緑豊富な公園内を西進して、ショウブの咲き出した東屋(あずまや)の横や、子どもた
ちが水に入って遊ぶせせらぎのそばを通過し、公園の北に出た。



 水をたたえた早苗田の広々とした水田地帯となり、前方に上越・北陸新幹線の高架が連
なる。


 野新田の北側から新幹線の高架下を抜け、上谷(かみや)総合公園に入った。

 6基の照明灯が目につく野球場「フラワースタジアム」の三塁側スタンド近くの昼食地
に、12時08に着く。暑さを避けて、桜の木陰の芝生にシートを広げて昼食をした。

 
 == 元荒川周辺の早苗田の中を ==

 ミーティング後、記念撮影をして13時15分に上谷総合公園を出て、北側の笠原集落
に向かう。


 県道177号を横断したところに、享和3年(1803)造立の青面金剛(しょうめん
こんごう)像と元禄17年(1704)造立の上部が欠けた地蔵尊が並んでいた。
       


 笠原集落の中心部に東光寺があり、鴻巣市保存樹木である2本の大イチョウが目につく。


 西側の墓地際に新しい観音像が立ち、周囲を四国八十八か所、坂東三十三観音、秩父三
十四観音の各霊場名と御詠歌、そして奉納者名を刻んだ石柱が囲んでいた。
         


 南北に走る県道38号を挟み、西側には久伊豆(ひさいず)神社が祭られていたの入り、
ヒサカキの咲く拝殿周辺で小休止した。
    

 久伊豆神社は、「日本書紀」や「吾妻鏡」にも記された、平安末期から中世にかけてこ
の地笠原を本拠として南・北埼玉郡に勢力をふるった野与党に属する、「笠原」を苗字と
する武士団の共通の祖神のひとつだったと推察されるとのこと。

 南に接する沼向集落の北側から、西北に延びる西浦用水路沿いの農道をしばらく進む。
集落の民家の裏手に、チシャノキかと思われる小さな白い花が咲いていた。
    

 用水路の両側は広々とした田園地帯。植えて間もない早苗田が一望で、中には機械で植
え付け中の水田もある。


 それら田んぼのひとつに、真ん中に松が1本だけ立ち下に石の祠(ほこら)が祭られて
いた。



 若木のサクラの続く用水路沿いの農道を1㎞余り進む。電柱の並ぶ農道を左折して郷地
(ごうじ)地区の南西部にある竹林公園に入り、小休止して水分補給する。



 北側に接した安福寺にも回って参拝する。

       
 本堂前の地蔵堂には子育地蔵尊↑が祭られ、門前のお堂には地蔵尊と安政2年(1855)
造立の青面金剛像が並ぶ。竹林公園寄りには、大株のアジサイが花を見せていた。

 竹林公園の北側から上越・北陸新幹線の高架沿いの道に入り、元荒川の橋を渡る。


 次の三差路を左折して県道308号を横断し、ひばり野一丁目の戸建て住宅地を通過す
る。

 ゴールの鴻巣市民文化センター「くれあこうのす」際の、鴻巣市役所前バス停に15時
07分に着いた。そばの公園に、C11 322号SLが保存展示されている。


 大半のメンバーは鴻巣駅まで歩くとのことで駅に向かい、残る数人は15時15分発東
松山駅行きバスで鴻巣駅に向かった。

(参加 21人、天気 晴後曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 鴻巣、歩行地
 北本市、鴻巣市、歩数 19,600)




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東村山・北山公園のハナショウブが見頃(東京)

2016-06-15 11:36:52 | ウオーキング
 2016年6月14日(火)

 東村山市・北山公園のハナショウブが見頃と聞いたので、市内ウオーキングを兼ねて出
かけた。

 北山公園は、わが家からはほぼ南南東4㎞余りのところ、映画「となりのトトロ」の舞
台の参考になった東京・埼玉都県境を走る狭山丘陵の八国山緑地の南側にある。

 その八国山緑地を越えて西武鉄道西武園線の踏切を渡り、線路と北山小の間を抜けて、
西端から北山公園に入った。


 公園では、週末の6月19日(日)まで「第28回東村山菖蒲まつり」を開催中で、平
日にもかかわらずかなりの人出賑わっていた。


 北山公園菖蒲園は面積約6,300㎡あり、300種、8,000株(約10万本)とい
われるハナショウブは、ほぼ見ごろである。
     

         



    

        

    

 菖蒲園の中心部に向かって、たくさんの花を眺めながら少しずつ移動する。

    



         

     

      



        

    







     

      見慣れぬ花弁の花もある。
     

 菖蒲園の北側、西武線の線路際にはアジサイが植えてあり、2年前に来た時よりかなり
増えたように思われた。


    







 アジサイの南側辺りが菖蒲園で一番花の多いところ。どの花も見ごろである。












    

 一番大きな休憩舎


 アジサイの咲くエリアの近くにある展望台に上がり一望する。






 展望台から下りて、中心部の東屋(あずまや)の周辺へ。






 東屋に近い小さい池には、スイレンが咲き出していた。




    

 濃い黄色の花はここだけ。


 少し離れて、やや薄めの黄色い花が固まって咲く。




 大きな休憩舎近くには露店も並ぶ。


 一番来訪者の多い東南側の入口付近には東村山市の本部があり、花の管理費の募金を呼
びかけていたので私も募金し、ショウブの絵はがき2枚をもらう。


 北東端の池の北岸ではカンゾウらしい花が咲き出していた。


       


 東端まで回って一巡したので、12時過ぎに別のルートでの帰路についた。


 なお、東村山菖蒲まつりについては、こちらのサイトをご参照ください。




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当ブログは6月14日午前 メンテナンスのため閲覧できません

2016-06-13 22:36:40 | Weblog
 == お知らせ ==

 2016年6月14日(火)の0時~12時の予定にて、当gooブログはメンテナンス
を実施するとのことで、以下のような機能が停止となり、閲覧やコメントの投稿も出来
なくなりますので、ご了承ください。

 ブログ記事・フォトチャンネルの投稿(メール投稿含む)

 ブログ・フォトチャンネルの閲覧、

 ブログ新規開設、

 コメント・トラックバックの送受信など、ブログに関するすべての機能、


 したがって、午前中は当ブログの閲覧もなさらず、午後になってからご覧いただくよ
う、よろしくお願いいたします。
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中欧5か国8日間の旅③ チェコのチェスキークルムロフからプラハへ(後半)

2016-06-13 22:35:20 | 中欧5か国旅行
 2016年5月30日(月)〈続き〉

 チェスキークルムロフの広場に面したレストランで昼食後、13時頃から13時45分
までのフリータイムとなり、回っていなかった通りに入り、商店のウィンドウや色とりど
りの建物などを眺めながら一巡して広場に戻った。
     







     
 往路とは違う城の大きなアーチの下の橋を渡って、バスの駐車場に戻る。14時45分
にバスは出発して、北方約180㎞の行程を今日の宿泊地であるチェコの首都プラハに向
かう。









 麦畑や平地林、そして点在する集落など起伏の少ない平原地帯を進み、16時~16時
33分、途中のマクドナルドの店舗でトイレ休憩をする。

 ヨーロッパでは公園など公共の場所でもトイレは有料のところが多いが、マクドナルド
の店はほとんどが無料のよう。

 7日間の移動すべてでお世話になったデラックスバス。



 その後は、緩やかながら幾分か起伏ある地帯が増え、好天に浮かぶ雲など緑と青空の広
がる気持ちよい風景を眺めながら進む。



 ナノハナ畑も見られる。




 車線が増えてプラハ市内に入り、チェスキークロムロフよりかなり川幅を広げたヴルダ
ヴァ川を渡ったが、17時30分を過ぎて夕方のラッシュ時刻となり、鉄道線路のたくさ
ん並ぶ辺りから渋滞となり、20分余りはノロノロと停止を繰り返す。




 渋滞区間を通過後、長いトンネルを抜けて市街地に入り、17時57分にプラハ城の近
くでバスを下りた。明日も観光するようだが、夕食のレストランへの近道のようなのでプ
ラハ城内を抜けて行くという。

 プラハ城は、市街地の中心部を流れるヴルタヴァ川の西側にあり、旧市街は川を挟んで
東側に相対している。
    
    
 ニセアカシアの咲く王宮庭園前を進み、北門をくぐってプラハ城内へ。



 東側に大きな尖塔の聖ヴィート大聖堂を見ながら第2の中庭に入ると、コール噴水と呼
ぶ大きな噴水が、南側には聖十字架礼拝堂あった。


      


 西側の第1の中庭を抜けて正門を出て、フラチャニ広場から城をふり返る。




 さらに少し進んで、18時10分に夕食をするレストランに入り、魚料理の夕食を済ま
す。


 19時10分にレストランを出てフラチャニ広場に戻り、東側眼下に広がるプラハ旧市
街の町並みや、その先の丘陵まではるかに広がる展望を楽しんだ。








 遠くの丘陵上に見えるのは、TVタワーらしい。


 往路を戻ってプラハ城の北側でバスに乗り、19時30分にバスはプラハ市内のホテル
に向かう。今日明日連泊のホテル デュオプラハ(Duo Praha)には20時15分に入った。



 20時30分を過ぎてもまだ外は明るい。ホテル8階の部屋からは、南側の集合住宅な
どが一望できる。ようやく日没になったは21時近くだった。  (歩数 10,300)




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中欧5か国8日間の旅③ チェコのチェスキークルムロフからプラハへ(前半)

2016-06-13 15:14:19 | 中欧5か国旅行
 第3日 2016年5月30日(月) 晴

 == チェスキークルムロフからプラハへ(チェコ) ==

 今日は、オーストリアの首都ウィーンから西北西に約204㎞ほどバスで進んで、チェ
コの古都で世界遺産に登録されているチェスキークルムロフ(Cesky Krumlov)を観光後、
さらにバスで北に約180㎞走ってチェコの首都プラハ(Praha)までの予定である。


 5時33分に起床、6時25分から朝食をして、バスは7時58分にウィーンのホテル
アメディアを出発した。
    


 ウィーン市街地を抜けて郊外に出ると、広々とした牧草地や麦畑などの風景が広がる。


 1時間近く走った辺りには、風力発電の風車が見られた。





 しばらくは西進して、リンツ(LINZ)まで10㎞ほどのLANDZEITと呼ぶレストランや
ホテルを兼ねた店舗で、9時51分~10時12分にトイレ休憩をする。





 間もなく、ドナウ川かと思われる広い川を渡って北進し、11時13分に国境を越えて
オーストリアからチェコに入った。国境に掲げられたチェコ国旗とEUの旗。
    



 さらに緑豊富な沿道を進み、11時50分頃、チェスキークルムロフの観光用駐車場で
下りた。

 チェスキークロムロフは、ヴルタヴァ(Vltava)川が大きく湾曲する場所にある町。
13世紀に南ボヘミアの貴族ヴィートコフ家の分家により城が築かれたのが町の始まりで、
14世紀初頭にはロジュンベルク家が支配して町は華々しく発展し、16世紀にはルネッ
サンス都市としての姿がほぼ出来上がり、繁栄は頂点となったという。

 その後、エッゲンベルク家からシュヴァルツェンベルク家へと支配が変わるうちに近代
化から取り残され、そのお陰で最も繁栄した時代の風景が現代に残ったようで、1992
年に世界遺産に登録されている。

    
 駐車場から城に向かう道路沿いは緑豊富で、ハマユウなどの花が咲いていた。
        

      
 まずはチェスキークロムロフ城へ。城は13世紀にヴィートコフ家の分家、領主クルモ
ロフの居城として創建され、以後、各時代の所有者により増築が重ねられ、それぞれの時
代の建築様式が見事に調和した巨大な複合建築となったよう。ボヘミア地方ではプラハ城
に次ぐ規模の城塞とのこと。


 門を入ると、眼下に大きく蛇行するヴルタヴァ川とその向こうに広がるルネッサンス時
代のままの町並が一望である。








 町並みの展望を楽しんだ後、英語によるガイドの説明を添乗員のKさんの通訳により聞
きながら、渡り廊下でつながる城内や5つの中庭などを一巡した。
         


  




      

 城の一番東側にある塔は、最初はゴシック様式で建てられたが1580~90年に現在
のルネッサンス様式に改修されたとのこと。


 塔に近い「第2の中庭」を囲む建物には、いつの時代のものか分からぬ大砲が並ぶ。
     

     
 塔の近くで城を出てヴルダヴァ川の橋を渡る。




 円形に迂回して流れる川に囲まれた旧市街に入り、細い通りを進んで中心部にあるスヴ
ォルノスティ広場(Nam Svornosti)に出た。橋から振り返り見る城の一部。


    

        


 異なる形の屋根が並ぶ3階建ての建物がビッシリと石畳の広場を囲み、たくさんの観光
客で賑わう。




      
 緩やかな坂を上がって東側の展望スポットに出ると、チェスキークルムロフ城や町並み
が、最初の城からの眺めとは違う視点で眺められる。








 展望スポットの場所は下図の赤丸のところ。


 広場には、日本でもみられるベニバナトチノキが咲いていた。
   


 スヴォルノスティ広場に戻り、13時過ぎから13時45分まで広場に面したレストラ
ンで昼食をして、14時30分までフリータイムとなる。(続く)





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