あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

クロアチアとスロベニアの旅行記⑦ ドブロヴニク空港からワルシャワで乗り継ぎ成田国際空港へ

2019-01-30 17:42:17 | クロアチア・スロベニア旅行
 2018年10月19日(金)~20日(土)
 == クロアチアのドブロヴニク空港からワルシャワで乗り継ぎ成田国際空港へ ==

 連泊した、スロベニア西南端のドブロヴニク郊外にあるムリニ村のホテル、シェラトン
ドブロヴニク リビェラで7時に起床した。今朝も晴天だが、もう今日は帰国の日である。


 7時30分過ぎからホテルのレストランで、豊富なメニューが揃ったバイキング料理の
朝食をする。今朝も食事後、1階に下りてプールの周辺を散策した。




 9時30分にホテルを出て、バスはドブロヴニク旧市街とは反対の東へ約10㎞のドブ
ロヴニク空港に向かう。ドブロヴニク空港には9時50分に着いた。



 乗り継ぎのポーランド・ワルシャワ空港行きのLO564便は12時05分発の予定。チェ
ックイン手続きをして売店の横などを通過し、搭乗する7番搭乗口付近に行き待機する。






 ワルシャワ空港行きのLO564便の機種は中型のEnbrer195型機(112人乗り)である。

 搭乗ゲートはなく、11時45分頃、飛行機のそばまで歩いて移動して搭乗した。



 出発予定の12時05分より少し遅れて12時14分に離陸した。


     
 離陸直後の機内からは、眼下にアドリア海や迂回後の空港などが見下ろせる。


    

 機内にはかなりの空席がある。


 中継地のワルシャワ空港には、到着予定の14時06分より早い13時52分に着いた。


 乗り継ぎ時間が1時間05分しかなかったので心配されたが、ワルシャワ空港発成田空
港行きLO79便は1時間以上遅延すると分かり安心する。


    
 結局、15時10分発成田空港行きは大幅に遅れて、16時44分にワルシャワ空港を
離陸した。機種は往路と同じBowing787型Dream Linerで、成田までのフライト時間は9時
間50分、距離は9,060㎞という。




    
 飛行機は東北東に進んでロシア西部に入り、モスクワの北方から広大なシベリア大陸北
部を東へとしばらく進む。
    

    

    

    
 シベリア東部のノボシビリスクやイルクーツクの北方を通過して南東、南南東へと方向
を変えて日本海に出る。
    

    
 その間、機内では主に音楽を聴きながらフライト画面を見たりして過ごすが、ほとんど
眠ることができなかったので時間の経過がもどかしく、長い時間を過ごす。

 食事は、17時50分頃にチキン料理の夕食が、翌20日0時45分(日本時間7時
45分)頃に日本麺風の朝食が出た。

    
 新潟市上空を通過して、成田空港には予定時刻の8時40分より50分遅れの9時30
分に着陸した。成田空港の気温は16℃のよう。

 第1ターミナルで入国審査を受け、預けたスーツケースを受け取り、11時25分発
所沢駅東口行きバスに乗る。


 バスは順調に首都高などの高速道路を走り、予定の14時より30分以上早い13時
26分に所沢駅東口に着く。東口の「グランエミオ所沢」で多少買い物をして、14時
20分に無事帰宅した。

(天気 ドブロヴニク 快晴、ワルシャワ 曇、成田 曇、歩数(成田空港まで)
 3,700)    





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クロアチアとスロベニアの旅行記⑥ 世界遺産ドブロヴニクをフリータイム観光後 連泊のムリニへ(後半)

2019-01-29 18:43:44 | クロアチア・スロベニア旅行
2018年10月18日(木) 
 == クロアチアの世界遺産ドブロヴニクを
                 フリータイム観光後 連泊のムリニへ(続き) ==


 ドブロヴニク旧市街を囲む城壁を一周して東北側入口近くを下り、昨夜は暗くなってか
ら通った旧市街中心の通り、プラッツア通りに入り、改めて旧市街の内部を観光すること
にする。


 まずは、プラッツア通りの東端のルジャ広場に面した聖ヴラホ教会へ。
     
 聖ヴラホはドブロヴニクの守護聖人で、聖ヴラホ教会はかつてはロマネスク様式の教会
が立っていたが地震で損傷し、1715年にバロック様式で再建されたとのこと。

     
 中に入ってきらびやかな祭壇や装飾品、絵画やステンドグラス、聖職者の彫刻などを拝
観した。
     

          

     





     



         
 12時に聖ヴラホ教会を出て、一本北側の細い通りに回る。この通りにはレストランが
多いので昼食をすることにしたが、手持ちのクロアチア通貨クーナの残金が少ないので、
クレジットカードが利用できる店を探して西端近くまで往復する。南北に延びる幾つもの
通りも狭く、急階段が延びている。
          

     
 東側まで戻り、12時30分に「KONOBA SCIABECCO」というシーフードレストラン
に入り、アドリア海で獲れたお勧めのシーフード料理で13時25分まで昼食にした。
     


 午後も、旧市街内の観光をすることにしてプラッツア通りに戻り、沿道の店舗やその商
品、建物などを眺めながら西へと進む。






  
 多種多様な商品が多く、どの店を見ても飽きが来ない。




         

     
 西側出口のピレ(Pila)門に近いフランシスコ(Franjevački)会修道院に入り、14時
13分まで7分ほどだが拝観した。

 フランシスコ会修道院は、かつては城壁の外にあったが、外敵から守るために14世紀に
この地に移され、現在の建物は1667年の大地震後に再建されたという。
     

          

     

          

     

     
 プラッツア通りの西端にある城壁の入口からは、城壁への急階段が伸びている。西端の
ピレ門からいったん城外に出て、近くのバスやタクシーの乗降場周辺を回る。




     
 樹木に囲まれた小公園があり、南側から海を見下ろすとたくさんの魚の泳ぐのが見下ろ
せた。


 ロヴリイェナツ要塞の入口付近まで行って引き返す。
  
  


                 
 ピレ門を入って再び旧市街に戻り、オノフリオの大噴水↑の横から西側城壁沿いをとの
塀の横を南へ少しで東に回ると、ドブロヴニク旧市街などのスケッチを販売するおじさん
がいたので、はがき代のスケッチを求める。


     
 プラッツア通りのひとつ南に平行する細い通りを東進し、中ほどにあるセルビア正教会
に15時05分に入り、祭壇やステンドガラスなど10分ほど内部を拝観した。
     
  
     
 ドブロヴニクにはセルビア教徒が古くから住んでいたが、ラグーサ共和国時代には旧市
街内に正教会を建てるのが禁じられていたため、建てられたのはラグーサ共和国滅亡後の
1877年になってからという。


     



     
 さらに東へ進んで東端に近い青空広場へ。広場の中央には銅像があった。


 東側には旧総督邸が残されている。この街がラグーサ共和国という独立国だった頃の歴
代総督が住んだ家で、住宅のほかに評議会や裁判所なども置かれた行政の中心的な機関だ
ったようで、現在はラグーサ共和国の歴史を伝える博物館になっているという。

 青空広場の南側に大聖堂があった。聖母被昇天大聖堂とも呼ばれる大聖堂は、1667
年の震災後にバロック様式により再建されたよう。
     
   
 15時29分に入り、ドーム天井や多くの祭壇、絵画、ステンドグラスやパイプオルガ
ンなどを10分ほどで拝観した。

     

          

     

          

     

 主祭壇の奥に飾られているのが、イタリアの有名画家ティツィアーノが16世紀に描い
た「聖母被昇天」である。
     

 「MARIN DRŽIĆ(1508-1567)」と記された人物の坐像を見ながら青空広場を北に抜ける。
マリン・ドルジッチは、ルネサンス期における最も優れたクロアチア人の劇作家・散文作
家と見なされているらしい。
     

     

 ルジャ広場から北東に緩斜面を上がり、16時06分に入った北東側入口から城壁を後
にした。
     


 旧港を見下ろしながらバス通りまで上がり、16時13分にバス停に着いた。かなりの
人で混雑するバス停でしばらく待ち、16時42分に来た⑩番のバスに乗り東方のムリニ
村にある連泊するホテルに向かう。

 16時55分に最寄りのバス停「Srebreno」で下りた。今日の夕食は各々自由なので、
ホテル近くの大きなスーパー「KONOBA」に入り、夕食用のパンやトマト、ハムとチーズ、
ジュースや缶ビールなどを購入する。

 
 帰路の周辺は夕焼けに染まってきた。


 連泊するホテルシェラトン ドブロヴニク リビェラの部屋には17時57分に帰着した。
間もなく日没となり、西の空は美しいあかね空になる。


 最後の一日は好天に恵まれ、「アドリア海の真珠」と呼ばれるドブロヴニク観光を十分
に楽しむことができた。              (天気 快晴、歩数 15,500)







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クロアチアとスロベニアの旅行記⑥ 世界遺産ドブロヴニクをフリータイム観光後 連泊のムリニへ(前半)

2019-01-27 22:29:59 | クロアチア・スロベニア旅行
 2018年10月18日(木) 
 == クロアチアの世界遺産ドブロヴニクを
                     フリータイム観光後 連泊のムリニへ ==

 クロアチア最南東部にある世界遺産ドブロヴニクの郊外、ムリニ村のホテル、シェラト
ン ドブロヴニク リビェラで6時30分に起床した。

 7時10分からホテル2階のレストランで朝食をした。朝食後、ホテル1階の外に出て
プールや周囲の海や建物などを眺める。




 今日は終日自由行動の日で、オプショナルツアーとして東側近くのモンテネグロの古都
で世界遺産のコトル(Kotor)観光と、チリビ(Ćilipi)村での夕食付フォークロアーディ
ナーショーも計画されていたが、どちらも希望者が少なく実施しないことになり、全員フ
リータイムで各々ドブロヴニク観光を楽しむことにする。

  

 希望者はドブロヴニク市内までホテルからバスで送ってもらえることになっていて、全
員がホテル9時発のバスに乗り、9時07分にドブロヴニク旧市街を見下ろす見晴らしの
よい辺りで下車する。


 昨日は夕方だったので、スルジ山頂の展望台からの展望も逆光でいまひとつだったが、
今朝は順光の朝日を浴びたドブロヴニク旧市街とその周辺の景観が絶景である。







 しばし旧市街の展望を楽しんでから、その旧市街に向かって住宅地の間の急斜面を階段
などで下る。

    
 途中、たくさんの花が咲き競う民家やレモンの実る横などを通過する。
      


 独特の形の松の木のあるバス通りまで下り、バス停で帰りのホテル方面へのバスの時刻
を確認する。

     
 さらに下り、城壁に囲まれた旧市街の東北側入口から10時08分に城内に入った。入
場料は大人150KN(クーナ・約2,700円)である。
         

 城壁の上は一周できるようになっていて、長さ約2㎞を反時計回りで1周約1~1.5
時間ぐらいで回れるというので回ることにした。ただ城壁上は山側が高めで海側が低く、
途中にも結構アップダウンがある。


 まずは北端まで進んで、左折して西へと向かうと、昨夜中心街のプラッツア通で見たフ
ランチェスコ会修道院や、城壁の最高地点の西北端に立つミンチェタ(Minčeta)要塞な
どが望まれる。





 南側眼下には赤レンガの建物が建ち並び、その中に幾つかの教会のドームなどが見下ろ
せる。北側背後には、昨日夕方上がったスルジ山の斜面が間近である。



 西北端付近まで進むと、.南に向かう城塞上の下り道にたくさんの観光客が見下ろせる。

 その向こうの岸壁上のロヴリイェナツ要塞↑も近づき、西北端の↓ミンチェタ要塞で左折
して南へと下って行く。
     
 西北端のミンチェタ要塞は1319年に建造され、15世紀にフィレンツェの建築家バ
ルトロメロにより再建されたという。


 南東側眼下の家並みなど、旧市街を見ながら南へと城壁上を進む。
     

      


 眼下の円筒形の建物は、夕べも見た旧市街中心部のプラッツア通りの西端、ピレ門出口
付近にあるオノフリオの大噴水。だんだんと観光客が増えてきているのも分かる。
     

 城壁の外、ピレ門から西側に延びる通りの家並みなども一望である。
   


 階段を下ってさらに南へと進むと、右手眼下にロヴリイェナツ要塞の手前に入り込んだ
湾が近づく。
     


 北側のスルジ山方面の建物など再び振り返り眺める。間近の湾付近には観光船が見えた。


 1991年のユーゴスラビア連合軍による攻撃で破壊されたのだろうか、崩れた石垣や
建物の壁面なども見下ろせる。



 南西端まで進み、西側のロヴリイェナツ要塞↑やそばの湾、沖に向かう観光船などを眺
める。
     

 今歩いてきた、北側からの城壁周辺も振り返り見た。 
     


 城壁は南西端から左に折れて、こんどは海沿いを東へと向かう。  


 少し進むと休憩所があり、その辺りからは海に浮かぶたくさんのボートが見下ろせる。




 
 海側の岸壁の斜面やわずかな平地に設けられた休憩施設らしいものが見えた。
     


 東側のロクルム(Lokrum)島も近くなる。南東側まで回り込むと古い砲台が残っていた。







 南東側、海洋博物館のところからは、旧港を見下ろしながら西へ少しで90度折れて旧
港沿いを北に進む。

 港には大小さまざまな船やヨット、観光船など様々な船が見える。


     
 東向きに構えた砲台もあり、ルジャ広場東北側入口まで戻り、11時43分に一週を終
えて城壁から下りた。
        

     

                                    (続く)





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所沢航空記念公園のロウバイが見頃に(埼玉)

2019-01-26 16:33:59 | 所沢だより
 2019年1月26日(土)

 今日は、市内ウオーキングで所沢航空記念公園に入り、中央部の放送塔の南西側にある
ロウバイ園に寄ると、ロウバイがほぼ見ごろになっていました。






 ロウバイには2種あるようで、その説明板が園内に3か所だったかあります。


    

 このロウバイ園には100本くらいのロウバイががあり、大半の花が開花していました。


         

     


  


    



         

              

     

 東側の放送塔下のロータリー横から入って西側に回ります。




    





     

 西北側入口にある看板


 ロウバイ園の西側が日本庭園なので、こちらにも入ってみると、茶処「彩翔邸(さいし
ょうてい)」前の紅梅がかなり開花しています。


         

 白梅の方はまだチラホラ


    

 池の北側から西側に回ると、アセビがもう少しで咲き出しそう。


    

 西側の門から日本庭園を出て、市立図書館の裏手から航空記念公園を後にしました。
 



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クロアチアとスロベニアの旅⑤ クロアチアの世界遺産スプリットとドブロヴニク観光後ムリニへ(後半)

2019-01-25 10:39:16 | クロアチア・スロベニア旅行
 2018年10月17日(水) 
 == クロアチアの世界遺産スプリットとドブロヴニク観光後ムリニへ(続き) ==


 世界遺産スプリットの観光を終えて市街地を出ると、背後には石灰岩がむき出した白っ
ぽい山並みが広がる。好天で気温が上がり、沿道の温度計は13時に23.3℃を示す。







 13時35分にトイレ休憩のためサービスエリアに入り、13時50分に出発した。サ
ービスエリアの周辺でも、荒々しい石灰岩らしい岩塊が見られた。14時07分の道路際
の温度計は25℃を示す。





 緩やかなアップダウンをくり返すハイウェイを進み、高台からマンダリン畑を見下ろせ
るという場所でバスを止めてくれて、14時40分から10分間眼下の広大な畑を展望す
る。






    
 そこには観光客用の売店もあり、マンダリンやジャムなどを販売していた。
       

 間もなく、東側の内陸国ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia Herzegovina)の10㎞足ら
ずが海岸に面してクロアチアを分断する国境の町、ネウム(Nwm)に15時に入って3分
で検問所を通過した。


 15時07分から40分まで、近くのスーパーとホテルのあるところでトイレ休憩と買
い物を兼ねた休憩に。ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアより物価が安いので、買い
物には好都合のところとか。

 スーパーでチョコレートなどの土産物を求めた。店からは、入り組んだ海岸線の展望も
良い。



 再びクロアチア領に入って東南へ、ストン(Ston)の町に入る入江の最奥部にはカキ養
殖用のいかだらしいのが望まれる。


 さらに進んで吊り橋を渡ってドブロヴニク(Dubrovnik)の町並みに入り、16時47分
にバスを下りた。

 ドブロヴニクはクロアチアの最南東部にあり、北緯42度38分で北海道千歳市と同緯
度である。人口は旧市街が約4千人、市全体では約43,000人で、『アドリア海の真珠』
と称えられており、クロアチア観光のハイライトともいえるところ。

 ドブロヴニクの誕生は7世紀頃で、スラブ人の襲撃から逃れてきたラテン人が岩場だっ
た小島に住みついたのが始まりのよう。12世紀になると海が埋め立てられて対岸の町と
合併した。13世紀には交易で町は発展し、1358年にハンガリー王国から独立してラ
グーサ共和国が成立している。

 中世には、アマルフィ、ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアなどとともに5大海運共和国に
数えられ、15~16世紀に黄金時代を迎える。しかし1667年の大地震で壊滅的なダ
メージを負って徐々に衰退し、1806年にナポレオンに降伏して450年の歴史に幕を
下ろしたという。

 時代を経て、1991年のユーゴスラビア連邦軍の攻撃でも大きな被害を受けたが、現
在ではどこが修復されたか分からないほどに修復され、1979年に世界文化遺産に登録
されたが、1991~98年の内戦では危機遺産に加えられていたこともあるという。

     
 少し歩いてロープウェイ乗り場に行き、ロープウェイで町の背後の標高412mにある
スルジ(Srd)山頂の展望台まで上がり、世界遺産のドブロヴニク旧市街を上から展望する
ことにした。
          
 ロープウェイは約30人乗りで10分間隔で運行しているが、結構観光客があり少し待
たされ、17時20分頃展望台駅に着いた。

     
 山頂には大きな十字架があり、その周辺から眼下に、城壁に囲まれたオレンジ色の屋根
の旧市街や旧港、周辺の町並み、沖合の小島、ロクルム(Lokrum)島などが見下ろせるが、
日没が近づき半逆光で少し見にくいのが残念だ。
     










 さらに、東南方向には国境を越えたモンテネグロの岬が、北方にはボスニア・ヘルツェ
ゴビナの山並みなども望まれた。




     
 それらを眺めているうちに日没が近づき、18時07分に真っ赤な入り日が西の海に沈
んだ。

 18時10分にロープウェイ乗り場付近に集合してロープウェイに乗り、18時20分
頃に下に戻った。

 このあと、日没後の世界遺産ドブロヴニク旧市街の観光に回ることになり、南に下って
旧市街の東側の旧港の北側に出た。

 南側の岸壁に沿ってともる灯りを眺めてから、門をくぐって城壁内に入る。
     

 城壁に沿って緩やかに南西へと下り、東西に約200m続くメインの通り、プラッツァ
(Piaca)通りの東端のルジャ(Luža)広場に出た。

 すっかり日は落ちているがかなりの人出である。この通りはかつては水路で、通りの南
側(左手)だけが本来の旧市街だったという。


 南側の聖ヴラホ(Vlaha)教会の上部はライトで明るい。通りの両側の店など眺めながら
進む。


 西端には、ドーム状のオノフリオ(Onofrijeva)の大噴水がある。1438年に造られた
もので、16面もの蛇口からおいしい天然水が味わえるようだ。


     
 南側に平行する細い通りを東進してルジャ広場に戻り、スポンザ(Sponza)宮殿や聖ヴ
ラホ教会などをもう一度眺め、入ってきた城門から出た。




     

 東側の旧港からは、港に停泊された船や背後の町並みの灯り、ロープウェイのスルジ山
頂駅などが望まれる。



 19時15分頃港のそばの「POKLISAR」というピザレストランに入り、タコのサラダ、
シーフードピサ、プリンの夕食を味わう。



 20時15分に食事を終え、もう一度プラッツア通りを進んで西側のピレ(Pile)門を
出た。南西側湾の向こうの断崖に立つロヴリイェナツ(Lovrijenac)要塞が照明に浮かぶ。
     

 近くの駐車場からバスに乗り20時40分に出発し、ドブロヴニク旧市街とドブロヴニ
ク空港との間、南東約10㎞のムリニに向かう。


 斜面に転々と点る灯りもやがて途絶え、アップダウンしてムリニ村に入り、21時10
分頃、連泊する最後のホテル、シェラトン ドブロヴニク リビェラ(Sheraton Dubrovnik
Riviera)に着いた。


                     (天気 快晴一時晴 歩数 13,500)




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クロアチアとスロベニアの旅⑤ クロアチアの世界遺産スプリットとドブロヴニク観光後ムリニへ(前半)

2019-01-23 17:34:48 | クロアチア・スロベニア旅行
 2018年10月17日(水) 
 == クロアチアの世界遺産スプリットと
               ドブロヴニク観光後ムリニへ ==

 今朝は晴天で青空が広がる。ススプリット郊外のホテル カタリーナ ドゥーゴポリェに
て6時30分に起床し、7時10分からホテルのレストランで朝食を済ませる。9時出発
予定だったが、全員早くバスに乗ったので8時56分にホテルを後にした。


  
 今日午前中は、ホテルから近い世界遺産スプリット(Split)の観光である。スプリット
は人口約35万人、アドリア海沿岸のダルマチア地方では最大の港町で、古代ローマ皇帝
ディオクレディアヌス(245?~316?年)の宮殿がそのまま旧市街になったという
珍しい起源を持つ町で、1979年に世界遺産に登録されている。

 宮殿だったスプリットに人々が住むようになったのは、ローマ帝国が滅亡して異民族が
大挙してこの地に入り込んだ7世紀のよう。

 頑強な城壁に囲まれた宮殿内に避難してきた人々は、宮殿の基礎部分はそのままにして
その上に建物を増築する形で町を築いて住みつき、いつしか宮殿自体がひとつの町へと変
貌した。その後はここが宮殿跡と知らずに多くの人が生活し、第二次世界大戦で連合軍の
爆撃を受け、ディオクレディアヌス宮殿の地下部分が露出して発見されたという。


 9時20分に、スプリット中心部南東側のフェリー乗り場近くに着いた。バスを下りて
ヤシの並木の続く「プロムナード」と呼ぶ海岸通りから港の周辺を眺める。


 その後、近くにあったディオクレディアヌス(Dioklecijanova palača)宮殿の模型で説明
を受ける。

 旧市街にあたる宮殿の広さは南北215m、東西180mあり、周囲は厚さ2m、高さ
20mの巨大な城壁に囲まれていて、東西南北に4つの門があり、それぞれ「銀の門」
「鉄の門」「青銅の門」「金の門」(東西南北順)と呼んでいたという。

     
 城壁に囲まれた宮殿の、南側中央部の「青銅の門」から城内に入った。


 右手に八角形の大聖堂と高さ60mの鐘楼があり、大聖堂は8世紀に現在の形に改築さ
れたとか。また、鐘楼には上ることができて、頂上からは素晴らしい展望が楽しめるという。
     


 その先を回って中央部にあるかつての宮殿の中庭だったペリスティル(Peristil)広場へ。
周辺にはコリント式と呼ぶ円筒形の柱が並ぶ。
     

         
 ペリスティル広場の突き当たり、4本柱のところは皇帝の私邸の玄関だったところで、
その真ん中を抜けるとドーム天井がポッカリと抜けた広場がある。
     


 私邸の前庭にあたり、このスペースはドームでよく音が反響するため、クラッパの合唱
が行われていた。
    
 クラッパとは、ダルマチア地方に伝わる、無形文化遺産にも登録されている伝統的な男
性アカペラ合唱グループのこと。演奏後CDを購入したら、一緒に記念写真撮影に応じて
くれた。
    

 西北側の洗礼室前に回ると、ディオクレディアヌス帝がエジプト遠征の際に持ち帰った
スフィンクスの像がある。
    

     
 その横から細い通りを北に抜けて、西側の鉄の門から場外に出た。
     


 その先はナロドニ広場だが、先に進まずに城内に戻り、細道を北から東へと進む。
     

     
 北側の金の門から出ると、巨大なグルグール・ニンスキ(Gurgura Ninskog)像が立っ
ていた。
         
 「クロアチアのロダン」とも言われるイヴァン・メシュトロヴィッチの作品とか。グル
グール・ニンスキ司教は10世紀の人で、それまでラテン語のみで行われていたミサにク
ロアチア語を導入し、スラブ言語の保護に貢献したとされるクロアチアの英雄のひとりだ
という。

 金色の「左足の親指に触れると幸運が訪れると」言われていて、スプリットを訪れる必
ず人々が訪れる名所のよう。多くの人に触れられたので、左足の親指だけがピカピカに光
っている。


 再び城内に戻り、ペリスティル広場周辺のチョコレート店やネクタイ店などの説明を受
ける。




     
 西側の鉄の門を出てナロドニ広場へ↓。旧市庁舎付近で10時50分からフリータイム
となり、12時30分にフェリーの切符売り場付近に集合することとなった。


 まずは、ナロドニ広場から西進して魚市場へ。建物の中の市場は、そろそろ営業を終え
ようとしている感じ。



 その横のテント下の店の方が活気があり、アドリア海の新鮮な魚介類が並び、地元の奥
様方などたくさんの人が買い物に訪れていた。



 市場は、1843年に宮殿内からここに移転してきたという。

     
 その先の長い建物の中ほどから門を入ると、コの字型の美しいルネッサンス様式の建物
に囲まれた共和国広場と呼ばれるところ。ここはヴェネツィアの聖マルコ広場をイメージ
して作られたようで、右手(西側)↓はホテルとして使われているという。



 開かれた南側に抜けて広場を振り返り↑、噴水のある広場へ出た。


     
 右手に教会があり、前方から西側は海に面してヤシの並木の続くプロムナードで、人出
も多い。



 近くの岸壁にはたくさんのヨットが係留され、その向こうには大きなフェリーらしい船
も見える。




     
 そろそろ昼食の時間だが、レストランに入る時間は無さそう。共和国広場の↑東側の通
りを進んで鉄の門から中に入り、パン店で昼食用のパンを購入する。


    

 鉄の門を出て南側の、ブラチェ・ラディッチ(Braća Radić)広場にはマルコ・マルリッ
チ像があった。
     
 マルコ・マルリッチ(Marko Márulić)(1450-1524)はクロアチアの古典作家
で、代表作『ユディタ』(en:Judita)はスプリットで書かれ、1521年に出版されてお
り、スプリットは最初のクロアチア文学の近代作品が生み出されたのだという。


 近くのプロムナードに回り、気温が上がっているのでヤシの木陰のベンチを探して11
時30分近くから、パンと飲み物で昼食とする。


 昼食を終え、南側の青銅の門からペリスティル広場↓を経て東側の銀の門を出て南に回り、
たくさんの露店が並ぶ青空市場へ。
     
  

 野菜や果物、花から衣類や日用雑貨などを扱い、地元の人や観光客で賑わう。





 それらを見ながら集合地のフェリー切符売り場付近に戻った。



 予定通りの12時30分にバスは出発して、南東へ約227㎞の最後の観光地ドブロヴ
ニク(Dubrovnik)に向かう。〈続く〉





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クロアチアとスロベニアの旅④ プリトヴィツェ湖群とシベニク観光後ドゥーゴポリェへ(後半)

2019-01-21 10:14:31 | クロアチア・スロベニア旅行
 第4日 2018年10月16日(火) 
 == クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園とシベニク観光後
                         ドゥーゴポリエへ〈続き〉 ==

 プリトヴィツェ湖群国立公園内の観光を終え、バスは南へと向かう。正午近くに昼食を
する「Vila Velebita」と呼ぶ小レストラン(BISTRO)に着き、屋外のテーブルでサラダと
ピーマンの肉詰めの食事をする。

 店の入口では、等身大かと思われる木彫りの熊が迎えてくれた。


 13時にレストランを出た。しばらくは緩やかな丘陵と草原の広がるところを進み、陸
軍の演習場らしい横も通過する。


 周辺の山並みは石灰岩だろうか白い岩肌が目立つようになり、高度も上がる。



 広い湖の横を過ぎ、14時50分から15時30分までレストラン「KRKA」やカフェ、
売店などあるサービスエリアで休憩した。今日は気温が上がって晴天なので暑さを感じる。
沿道の温度表示は23~24℃台になってきた。



 サービスエリアからは、ヨットの並ぶ港や背後の家並み、近くのコンクリート橋などが
眺められる。


    
 敷地内には紅葉した葉に熟した実のたくさんついた木があり、近くには古い馬車のよう
なものが放置されていて、実が熟し始めたオリーブの木もあった。


    

 サービスエリアを出て間もなく、15時45分にアドリア海に面した小さな街シベニク
(Šibenik)の、港のそばのバスターミナル付近の駐車場に着いた。


 シベニクはダルマチア地方の中央部にあり、クルカ川(全長73㎞)がアドリア海に流
れ込む河口に開けた歴史の古い町で、人口は約35,000人とか。天然の良港を持つこと
からアドリア海の要塞として、また内陸部とアドリア海を結ぶ海上交通の要として発展し
てきたという。

 シベニクが初めて文献に登場するのは、11世紀の中世クロアチア王国のウラジミール
4世の時代で、アドリア海東岸で最も古い町のよう。その後、ハンガリーの支配を経て、
15世紀初頭から400年間ヴェネツィア共和国に支配されたが、1649年のペスト蔓
延で町の人口は4分の1にまで激減したようだ。

 ヴェネツィア共和国が滅亡するとハプスブルク帝国の支配下となり、第1次世界大戦後
はユーゴスラビア王国の一部に、第2次世界大戦中はイタリアファシスト政権とナチスに
占領され、戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となり、1990年にクロア
チア共和国として独立を果たしているという。


 まずは、バスターミナルの西端付近から北西側斜面に立つ旧市街の町並みなどを眺める。


 北側の小公園に上がると独特の姿の銅像がある。
    
 台座には「PETAR KRESIMIR Ⅳ 1058-1074」と記されているので、11世紀のクロア
チア国王ウラジミール4世のよう。

 城壁の一部かと思われる横を進んで西北に広がる旧市街に入る。車の通れそうにない石
畳の細い通りを西北に進み、広場に出た。
     

 さらに進んで時計塔のある教会の前に行く。聖イヴァン教会(Sv.Ivana)で、15世紀
に建てられたゴシック・ルネッサンス建築の教会。
     
 鐘楼にはシベニクで最初の大きな機械時計があり、階段の手すりには建築家ニコラ・フ
ィレンティナッツによるというライオンの彫刻が施されていた。
     


 古い町並みが続き、その一角に犬の水飲み場というのがあった。細い通りをさらに進ん
で、独特の鐘楼に四つの鐘が目につく聖バルバラ(Sv.Barbare)教会前に出た。
      
 15世紀に建てられたゴシック様式の教会で、二つの鐘楼はバロック様式のよう。


 西北に少しで、北側に市庁舎のあるレプブリカ(Repblike)広場へ。9つのアーチが連
なる市庁舎は、ヴェネティア支配時代の建築という。


 南側は、シベニクのシンボルともいえる世界遺産の聖ヤコブ(SV.jakova)大聖堂である。

 大聖堂の建築には1431年から1535年までの100年以上を要し、途中何度も建
築責任者が変わっているとか。

 レンガや木材など一切使わずに石材だけで建築されていて、石造建築の教会としては世
界最大だという。

     
 外観で特徴的なのは、周囲に施された71人もの人間の頭部で、建築当時の市民の有力
者をモデルにしたといわれているようだ。北側の入口は「ライオンのドア」と呼ばれ、ア
ダムとイブやライオンの像があった。
     

 ここで16時30分から17時40分までフリータイムとなったので、まずは目の前の
大聖堂を拝観することにする。
     
   
     
 中に入って幾つかの祭壇や半円形の天井とドーム、精巧な彫刻の数々、宗教画、洗礼台
などを10分ほどで観覧した。
         

     

         

     

         

     


 通ってきた道筋を中心に戻ることにして、沿道の店をのぞいたりしながら進む。



 気温が上がり喉が渇いたが、ちょうどアイスクリームを販売していたので買ってその店
で味わう。


     
 さらに細道の両側に並ぶ店をウィンドショッピングしながら進む。
    

         


 市役所前を通過して、最初の公園を経てバスターミナル近くの岸壁まで戻る。



 岸壁沿いを少し回り、日が傾いて逆光に照らされた海や、近くの船なやヨット、対岸の
標識灯、海岸沿いの建物などを眺めた。
     



     



    




 バスに乗り17時45分に出発して、10分ほどで夕食のレストラン 「ANTIN GUST」
に着いた。早めの夕食のメニューは、サラダ、イカのグリル、チョコレートケーキだった。



 夕食を終えたこるには外はすっかり暗くなる。18時55分にレストランを後にして、
約67㎞東南東の今夜の宿泊地ドゥーゴポリェに向かう。

 明日訪ねるスプリットの街の北東側にあるドゥーゴポリェのホテル、カタリーナドゥー
ゴポリェ(Katarina Dugopolje)には19時46分に到着した。

  
                    (天気 曇一時雨後晴、歩数 14,900)





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湘南ひらつか七福神巡り(神奈川・平塚)

2019-01-19 17:21:24 | 七福神めぐり
 2019年1月14日(祝・月) 

 毎年、新春2日に七福神巡りをしていたが、今年は用事で行けなかった。そこで好天の
予報の今日、「湘南ひらつか七福神めぐり」に出かけることにした。

 自宅から2間10分、途中横浜駅での乗り換え1回で9時47分にJR東海道線平塚駅
に着く。


 駅構内に観光協会がないか探したが見つからず、駅の改札で聞いて少し離れた市民セン
ターにあると分かる。10時ちょうどに平塚駅北口を出た。

 駅前から西に延びる紅谷(べにや)パールロード商店街を少し進み、北側の広い通りに
回ったら市民センターの看板が見えた。

 その建物の手前に、「東海道五十三次 平塚宿の江戸見附跡」の説明板とわずかな石垣
が残っていた。この通りは旧東海道のよう。

 平塚宿の見附は2か所あり、江戸側の入口が江戸見附で、京側にあるのを上方(かみが
た)見附と呼んだとか。平塚宿はこの間の東西約1.5㎞に、江戸時代を通して200軒
を超える町並みが続いたという。

 そばの市民センターに入るが、今日は休館日。守衛さんに聞くと観光協会は閉鎖したと
のこと。七福神めぐりのマップがないかと話したら、「湘南ひらつか観光マップ」がある
というのでもらった。

 用意してきた簡単な七福神めぐりの地図と見比べ、西南西側近くの平塚1丁目にある妙
安寺に向かう。

 同じ通りの少し先に、枝を広げたクスノキなどの立つ緑地があり、「平塚小学校蹟の樟
樹」の説明板立っていた。

 それによれば「ここは、明治13(1880)年に崇善館を移設して平塚小学校とした
旧地で、明治28(1895)年に校庭の一隅にクスノキの種をまき、その種子を明治
27~28年の日清戦争講話記念に県知事が県下各学校へ配布した」ことなどが記されて
いた。

 背後には、その崇善館らしい和洋折衷風の建物↑がある。

 県道61号を跨道橋で超えて南西側の通りに回り、最初の七福神、大黒天の妙安寺(み
ょうあんじ)へ。

 創建は1624年頃で、徳川家康の側室の養珠院お万の方の奥女中だった妙安尼が開基
とか。身延山久遠寺(くおんじ)の末寺で、平塚鬼子母神として親しまれているという。

 北向の本堂で、石柱の門を入ると境内で作業中のご住職が声をかけて下さる。庫裡(く
り)で七福神の色紙に最初のご朱印をいただき、本堂内に祭られた大黒天も案内してもら
う。
         

 本堂の左手前にも、新しい大黒天像が祭られていた。
  

 東海道に戻ってすぐ、神奈川銀行の前に、「平塚宿本陣旧跡碑」があった。この本陣の
主は代々加藤七郎兵衛を名乗り、14代将軍家茂は2回休憩し、明治元(1868)年と
翌2年には明治天皇が東京行幸と遷都に際して小休止したという。

 次の交差点から細道に入るとすぐ、なまこ壁の消防団第1分団の建物があり、その前に
は「平塚宿問屋場跡」の説明板が立っていた。


 その横を北に進み、「平塚の塚緑地」と呼ぶ小公園に寄る。

 北側にクロマツが立ち、その下に平塚の地名の起こりのことを記した「平塚の塚」の由
来が記されていた。


 道路を挟んで西中町公園があり、その西側が毘沙門天を祭る春日神社である。

 春日神社は、1191年頃、源頼朝が馬入川(ばにゅうがわ)の橋供養のために建立し、
旧東海道平塚宿の鎮守社として信仰を集めたとか。源頼朝夫人、北条政子の安産祈願でも
知られているようだ。


 拝殿には精巧な木彫が施され、境内には春日稲荷神社や春日天満宮などの末社がある。
七福神の毘沙門天は拝殿左手の毘沙門堂とその前に祭られていた。
         

 境内には、カワラケに息を吹きかけて投げ割って厄をはらうという厄割石というのもあ
る。
     

 南側の空き地では間もなくどんど焼きをするようで、正月の松飾りやしめ縄などが積み
上げられていた。


 左手から背後の国道1号線に出た。緩やかな右カーブの後、葉の落ちたケヤキの街路樹
の続く歩道を東に向かう。


 検察庁交差点の先に光圓寺があったので立ち寄る。本堂は横長の独特な造り。


 本堂前に「手向の塔」と呼ぶ大きな石塔が建っている。平塚市の戦没者供養塔のよう。
         

 西北からの道と合した八幡宮交差点の北側は、3つ目の七福神、弁財天を祭る平塚八幡
宮である。

 石鳥居をくぐり、大きな弁天池の横へ。弁天池への入口に琵琶を弾く弁天立像があった。
         


 二の鳥居を入った正面が拝殿で、境内にはほかに若宮社、神明社など7つの社があり、
正月には開運七社詣でをする市民が多いよう。


 平塚八幡宮は、380年頃に起きた大地震の被害を受けた民の平穏と地鎭を願い、第
15代応神天皇を祭る社として建立されたとか。

 歴代天皇や源頼朝、徳川家康など武家の崇敬も厚く、武運や勝負、安産や子育ての神、
さらに震災や厄災からの守り神としても崇敬されているという。


 境内西側では年に一度のどんど焼きをしていて、門松や注連(しめ)飾りなどが燃やさ
れ、どんな由緒かその火に竹竿に吊した五色の団子のようなものをかざしていた。

 広い境内にはほかに、ご神木のイチョウ、全国の神社の絵馬を展示↓したパネル、多種
の縁起物を販売する店などが目についた。


     
 神社を出て、東南側の宮の前交差点を跨道橋で横断する。少し先の吉野家に12時35
分に入り、30分足らずで昼食をした。

 さらに東へ、近くの松原小入口交差点で緩やかに右カーブする国道1号を離れ、直進す
る車道へ。国道129号を横断して、相模(馬入)川右岸に接した「馬入ふれあい公園」
に立ち寄る。


 西側には、サッカー場と大屋根の市立体育館「ひらつかサンライフアリーナ」がある。


 馬入川右岸堤防に上がり眼下の運動場やモーターボート係留施設、対岸の茅ヶ崎市の建
物、下流に架かる国道1号線の馬入橋など眺める。


 堤防上には「馬入の渡し跡」碑が立ち、「江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけるこ
とを禁止し、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)では「渡し船」、酒匂川(さかわがわ)
では「徒歩渡し」などで渡っていた」ことなどが記されていた。


 碑の周辺からは北に、丹沢山塊やその東に立つ日本三百名山で関東百名山の大山(おお
やま)(1252m)が望まれる。



 公園の南側入口に戻り、そばのホテルサンライフガーデンの教会↑横を進み、近くにあ
る次の七福神、布袋尊の連光寺(れんこうじ)へ。


 本堂は近代的なコンクリート造り。その前に、屋根まで届きそうな大きなサボテンが目
につく。


         
 にこやかな布袋尊は左手お堂に祭られ、その横には七福神の乗る石像の新しい宝船もあ
る。


 南側の馬入交差点で馬入橋に延びる国道1号線を横断し、南側の細道を橋際に進むと、
「陸軍架橋記念碑」が立っていた。
         
 大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊した馬入橋の架橋工事のため、豊
橋と京都の陸軍工兵大隊が派遣されて10月3日に完成し、馬入側を担当した第十六大隊
(京都)の事績を称えたものと記されていた。


 細道を南に回り、JR東海道本線の2本の鉄橋下の草道を東に抜けて右岸堤防上に上が
る。

 東海道本線の鉄橋や対岸の茅ヶ崎市側の林などを眺めながら進むと、西側に平塚競輪場
が見えた。

 堤防を下り、そばにいた警備員に聞くと、今日は和歌山競輪場外レースを開催中で、無
料開放しているので入ったらと勧められた。


 それではと入口を入り、スタンドに上がってほんの数分だけレースを観戦する。スタン
ドはがら空きで観客は数えるほど。





 ほぼ毎年、20数年続けていて今日で37回目の私の七福神めぐりの途中で、競輪場に
入ったのは初めてのことだった。

 南側の札場町(ふだばちょう)に入り、港公園の横を進んで御宇気神社に寄る。社殿は
小さく境内もわずかだが、豊富な緑陰に覆われている。


     
 社殿前の平塚市保存樹木のタブノキの古木に、この社の歴史が偲ばれた。

 その先の乗蓮寺にも立ち寄る。山門の両側に、わらじを下げた独特の姿の石像が並び立
っていた。




 南東すぐ先が、5番目の七福神、寿老神を祭る長楽寺(ちょうらくじ)。

 大きな本堂は幅広い階段上にあり、その右横に大山が望まれる。七福神の寿老尊は、左
手のお堂の前に立つ。


         


 境内右手に、神奈川県指定有形文化財「長楽寺の庚申塔」(下の写真の左端)がある。
紀年銘はないが、県内にある同様の四臂青面金剛(よんぴしょうめんこんごう)と二猿
(ににえん)の石塔が承応2(1653)年~明暦4(1656)年建立のことから、同
時期のものと考えられるよう。

 その右手には江戸期のものらしい数基の石塔が並び、左手には「大震災焼死者供養塔」
が立っていた。

 寺の南側から北西に延びる県道607号を進む。国道129号を超える歩道橋上からは、
正面に大山や丹沢の山並みが望まれる。


 すぐ先近くに次の七福神、恵比寿神の平塚三嶋神社がある。創建は1千年以上前で、平
安時代にはすでに漁業者の信仰を集めていたとか。江戸時代に盛んだった「大山詣で」で
は、海路から訪れる人々の道中の安全祈願所として参拝されていたという。

 一の鳥居を入ると、クロマツの立ち並ぶ参道の先に平塚市保存樹木のクスノキが立つ。



 二の鳥居を入り正面の拝殿に参拝する。拝殿には鶴などの精巧な木彫が施され、恵比寿
神は拝殿左手に釣り竿を持って微笑んでいた。


         

              

 境内には、厄除け開運や流行病など種々の病気を癒やす疫(やく)神社↓や、伊弉諾
(いざなぎ)神社などが祭られている。


 最後の七福神、福禄寿の善性寺(ぜんしょうじ)は、県道を挟んだ西側のはずだが見つ
からず、少し探して北西側にあった。

 善性寺は1661年頃日栄上人が創建し、当初は三浦郡横須賀にあったが1942年に
当地に移転したとか。別名「湯吞寺」と呼ばれ、別棟に国内外の著名作家による湯吞みや
茶器などが拝観できるという。

         
 新しい福禄寿は、本堂右手ににこやかに立ち、本堂の扉を開いてみたら、堂内にも祭ら
れていた。


    
 本堂の扉には、寺院では珍しいステンドグラスが数枚はめ込まれている。庫裡で最後の
御朱印をいただき、15時19分に寺を後にする。


 同じ通りをさらに北西へ、最後に左カーブして「人魚の像」のある平塚駅南口広場に入
り、15時32分にJR平塚駅にゴールした。
     



 ちなみに、七福神めぐりの色紙は500円、朱印代は1か所300円である。


 今日歩いたエリアは、平塚駅を中心に東西3㎞、南北2㎞足らずの範囲にあり、平坦な
市街地で道路が広くて主要道には幅広い歩道もあり、気温も10℃前後で風も弱く、歩き
やすい七福神めぐりだった。

(天気 快晴、距離 10㎞、地図「湘南ひらつか観光マップ」、「湘南ひらつか七福神
めぐり」リーフレットの地図、歩行地 平塚市、歩数 21,300)


 なお、「湘南ひらつか七福神めぐり」の公式サイトはこちらを。
 





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クロアチアとスロベニアの旅④ プリトヴィツェ湖群とシベニク観光後ドゥーゴポリェへ(前半)

2019-01-15 18:06:05 | クロアチア・スロベニア旅行
 第4日 2018年10月16日(火) 
 == クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園とシベニク観光後
                            ドゥーゴポリエへ ==

 クロアチアの中央部内陸のプリトヴィツェ湖(Plitvika jezera)群国立公園内にあるホテ
ル イェゼロにて6時30分に起床した。7時10分頃ホテルのレストランに行き8時近く
まで朝食をする。

  

 8時50分にホテルを出発して、世界遺産プリトヴィツェ湖群(Plitvička jezera)国立公
園内を約2㎞、標高差約60m、歩行時間約2時間の軽いハイキングに出かける。
     

 プリトヴィツェ湖群国立公園は、クロアチアで最古かつ最大の国立公園。80%が森林
で覆われ、大小16の湖と92の滝がエメラルドグリーンの幻想的な景観を作り出してお
り、1979年に世界遺産に登録されている。

 16の湖は、山間から流れ出て来る水が標高639m~503mまでをおよそ8㎞にわ
たって南北方向に流れる中で形成され、上湖群と下湖群があり、湖群は約2㎞にわたって
広がり、最大の滝は下流のプリトヴィツェ川に流れ込んでできたヴェリキ滝と呼ぶ国内最
大の大滝で、湖群の最下流にある湖からコラナ川へ流れ出すという。

 今日のハイキングは、それの中の下湖群の観光である。


 9時過ぎに、下湖群最下流部南側のチケット売り場前に着く。すでにたくさんの観光客
で賑わい、ポチポチと雨が落ちてきて傘を差す人もいる。


 「入口1」と呼ぶ最下流北東側の入口から入り、湖群に向かって少し下がると落差の大
きな滝など3つの滝と湖などが紅葉を始めて木々の間に望まれる。


     
さらに下った展望台からは、右手に落差78mで国内最大のヴェリキ滝が間近に眺められ、
正面の遊歩道の下に3筋の垂直に落ちる滝が、左手に幾筋かに別れた滝が一望である。




     
 流れに向かってジグザクの遊歩道を下って行くと左手上流側の湖や三つの滝の滝壺など
も見えてきた。


     

         

 対岸の垂直な斜面には、張り付くように紅葉の木々が色づく。
  


 最下部の次の「カルジェロヴァツ(KALUDEROVAC)」湖と呼ぶ標高508m、広さ
2㏊の滝の湖面際に下り、下流側の木道を渡って対岸に向かう。最下段のノボコヴィッア・
ブロッド(NOVAKOVIĆA BROD)湖(標高504m、0.3㏊)沿いを進む。湖には幾
つもの魚が見られた。


     

 上から見えた真ん中と左手の滝の下にある展望台に着き、間近に落下する滝を眺めたり
記念撮影などする。
     


 少し戻って往路の反対側、カルジェロヴァツ湖の西岸の遊歩道に向かう。


 湖岸に沿った木道を進むと、こちらにも魚影が見られる。南端近くまで進んだところに
は、次の湖からの落差の少ない滝が現れた。


    
 三つ目の滝はガヴァノヴァツ(GAVANOVAC)湖で、標高514m、面積0.9㏊と
記されていた。湖にはマスらしい魚が見える。


     
 遊歩道は対岸へと進み、幾つもの落差の少ない滝の横を通過する。


         


 次の湖はミラノヴァッツ(MILANOVAC)湖で、標高524m、面積3㏊。対岸に垂直
の断崖が望まれる。


     

         







     

     
  
    
 さらに先には、この公園に寄付をしたオペラ歌手の名前を記したプレートが岸壁に埋め
込まれていた。

 東岸を南端付近まで進み、落差10mのミラノヴァチュキ(MILANOVAČKI)滝の横を
上がる。
     


 その上は下湖群最大のコズイヤク(KOZJAK)湖で、北端から湖畔を離れて西岸を高み
に上がって行くと、木々の切れ目から湖の一部が望まれた。



 500m前途進んで10時36分に、「P3」と名付けられた船着き場近くの広場に着
いた。

 ここには土産物店やカフェなど幾つもの建物、休憩用テーブルや椅子などあり、観光客
も多い。ここで11時までフリータイムとなる。





 11時に集合して船着き場に行き、遊覧船に乗り11時03分に船は出た。



 広い湖の周囲を囲む山並みや木々など眺めながら船は南東へと進み、11時23分頃
「P1」と呼ぶ船着き場に着いた。










     

         


 林間を歩いて公園入口「ST2」を11時36分に出て、近くで待機していたバスに乗
り、4分ほどでホテル イェゼロに戻る。





 すぐにもう一度バスに乗り、11時44分にホテルを出発して、南へ約187㎞のアド
リア海沿いの都市シベニクに向かう。〈続く〉






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クロアチアとスロベニアの旅③ リュブリャーナとポストイナ観光後プリトヴィッツェへ(後半)

2019-01-10 22:11:53 | クロアチア・スロベニア旅行
  第3日 2018年10月15日(月) 
== スロベニアの首都リュブリャーナとポストイナ鍾乳洞の
               観光後クロアチアのプリトヴィッツェへ〈続き〉 ==

 10時25分にバスはスロベニアの首都リュブリャーナ出発し、南西に約48㎞のポス
トイナに向かう。

 



 車中では雨になり、この後の天候が心配されたが11時過ぎには止み、11時10分に
ポストイナ(Postojnska)に着いた。


 ここでは、ポストイナ鍾乳洞の観光である。ポストイナ鍾乳洞は全長約27㎞、最深部
は地下115mになり、ヨーロッパ最大規模を誇る鍾乳洞のよう。

 鍾乳洞は、10万年ほど前からピウカ川の水を吸収した石灰岩が少しずつ削られて形成
されたとのことで、鍾乳石が1㎜成長するのに10~30年かかるといわれている。

 スロベニア有数の観光地として、世界各地から年間30~50万人の観光客が訪れると
いう。


 11時15分頃チケット売り場前で一旦解散し、11時50分に鍾乳洞入口の広場に集
合となる。


 土産店をのぞいたりしながら進んで階段を上がり、たくさんの国の国旗の立ち並ぶ入口
付近へ。




         
 周辺にはいろいろな草花が植えられていて花を競い、川を挟んで両側の色づく樹木など
も一望できる。
    




 時間までに集合して、斜面に開かれた入口から洞内に入り、12時発の長い編成の観光
用トロッコに乗る。

 トロッコは2㎞ほどを5~6分で走行するが、屋根のない車輌がカーブの多い線路を岸
壁すれすれに進むので、スリル満点だ。

 洞内の気温は年間を通して10℃前後のようなので寒さも感じるが、車中からも多彩な
彩りや形の鍾乳石群が眺められた。

 トロッコを下りて、約1.7㎞という周遊路を各々のペースで決められた時間までに1周
することになる。


 受付で借りた音声ガイド(日本語)を、数字で表示された見どころで聞きながら進むと、
様々な色の鍾乳石が上から、石筍(せきじゅん)が下からと年代に応じて成長している。




     


 形も様々で進むにつれてその変幻自在で規模の大きさに驚かされる。
     

         

     



     




 広い空間や狭いところ、アップダウンもかなりあり15分余り進むと橋を渡る。
     







     
 さらに進んで少しずつ回り込んで往路の橋を下から眺め、13時頃一週を終えると洞内
に売店があった。
         






 売店には鍾乳洞ゆかりの土産物が並び、著名な来訪者や古い写真なども展示されている。




    


 13時10分頃のトロッコに乗って入口に戻り、20分後にバス乗り場に戻るよう案内
されたので、13時20分過ぎに入口を出てバス乗り場に戻る。





 13時40分にバスは出発して近くの昼食地に向かい、13時47分に「Erasmus」とい
うレストランに入り、スープとローストビーフの昼食をした。





 昼食を終えてバスは14時45分に出発して、国境を越えて南東へ約206㎞のクロア
チアのプリトヴィッツェ湖群国立公園の宿泊するホテルに向かう。
 国境までは高速道路に入らず、カーブの多い山間や鉄道線路も見られる一般道路を行く。

 15時37分にスロベニア側国境ゲートに着き、10分ほどで通過したがクロアチア側
ゲーとでは少し待たされ、30分余りの16時16分に通過した。





 そのあとは首都ザグレブ方向への高速道路を進み、17時33分から55分までサービス
エリアに入ってトイレ休憩をする。売店には「Marché」の看板が出ていた。



 日没となって周辺は次第に暗くなり、18時32分に高速道路を出た。宿泊する、プリ
トヴィッツェ湖群(Plitvika jezera)国立公園内にあるホテル イェゼロ(Jezero)には19時
37分に着いた。


 部屋に入って少しの時間休み、20時20分頃から21時頃までホテルのレストランで
遅い夕食をした。

 高速道路の温度標示は、国境通過後間もなくの16時25分は16℃だったが、日没後
の18時09分には10℃まで下がっていた。 (天気 曇一時雨、歩数 12,400)




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コメント (2)
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