あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

水彩スケッチの画展と与野公園周辺の寺社を巡る(埼玉)

2014-10-30 20:41:56 | ウオーキング
 2014年10月29日(水)

 朝は冷え込んだが快晴に恵まれた今日、さいたま市中央区で開催されている、カントリ
ーウオークの仲間Tさんと、もう一人Kさんとの水彩スケッチ二人展を見ようと出かけた。


 会場の最寄り駅は、JR埼京線の与野本町駅。12時15分に駅を出て、東側のJR京
浜東北線与野駅に通じる通りを、さいたま市中央消防署や与野郵便局前を通過する。


 その先にあった交番の次の角を入ると、氷川神社がある。

 氷川神社の創建時期ははっきりしないようだが、江戸時代の「新編武藏風土記稿」に記
され、旧社殿の改築時の棟札(むねふだ)に明和7年(1770)と記されており、それ
以前からあることは確からしい。

 水彩スケッチ二人展の会場は、そばの緑に囲まれた軽食・喫茶の「墨流亭」。
      

 お店の壁面に、2人合わせて12枚の水彩の風景スケッチが展示されていた。


    

 画展を見終わった後、店のコーヒーを味わい、周辺の社寺や与野公園も巡ることにした。


 下落合五丁目の北端の道路を西進して、JR埼京線と東北・上越新幹線の高架下にあっ
たラーメン店で昼食をした。



 高架下を抜け、すぐ先の鴻沼川右岸沿いの細い遊歩道を北進して落合橋まで進む。落合
橋近くからは東側に、さいたま新都心の高層ビルが間近に眺められる。


 落合橋で川を離れて与野八幡小前を西進し、最初の寺、本町東五丁目の長伝寺へ。本堂
はコンクリート造りで西向きなので、西側から入る。


 墓地には、寛保3年(1743)に本町に生まれて江戸で儒学を学び、郷里に戻って近
在の子弟教育を行い、天明の大飢饉では私財をなげうって窮民救済にあたり、後生に「与
野聖人」とうたわれたという西沢嚝野(にしざわこうや)の墓がある。
        

 県道165号の西に回り、本町西四丁目の正園寺の山門をくぐる。



 改築して新しい本堂の右手前には、さいたま市の天然記念物で、樹高約4m、枝張り
5mを越える大きなドウダンツツジが色づいていた。
    

 県道の東に戻った本町五丁目の住宅地には、たくさん実をつけてピラカンサが。
        

 南側の本町西三丁目にはひとつ神社があったが、柵があり入れない。さらに南の通りか
ら再度県道の西に進むと、与野高の正門前に出る。門の横に、最近参加した大会名などを
記した幕がたくさん並んでいた。


 高校の南側にあるのが御嶽神社、石段上に小さい社殿が祭られている。
   
 与野は江戸時代から木曽御嶽講の盛んな地域だったようだが、江戸時代の文政4年
(1821)に幕府は御嶽講に禁圧を加えたとか。その後解禁になり、与野の名主・井原
平八が造った社とも、あるいは明治初年の創建ともいわれているようだ。
 
 社殿に参拝して、木曽御嶽山の噴火が沈静すよう祈る。

 御嶽神社の手前の社務所の建物には、与野七福神の弁財天が祭られていた。

 弁天堂は、南側に広がる与野公園北側の弁天池にある。

 社務所前の空き地には、「御神(みかみ)の大井戸」と呼ぶ新しいつるべ井戸が出来て
いた。

 昔この地に、祈りと修行のための井戸があり、お神酒造りにも使われたようだが、いつ
の間にか無くなり、その名残の地に今年再建したと「御嶽社」の名で記されていた。


 その南側、豊富な樹林に覆われた一帯が与野公園で、色づく葉も見られる。
  

 弁天池の中心には、噴水が設けられていた。


 公園の西側、首都高の高架に接してバラ園がある。



 先週だったか、NHK総合TVの首都園ニュースでは見頃と報道されていたので、期待
して来たが、もう盛りは過ぎていた。


     バラ園のそばに立つモニュメント
    

 公園の東側高みにある天祖神社は、かつて神明社と称し、文政年間(1818~30)
の「与野町並絵図」には、両側に家屋が並ぶ鎌倉街道から西に入った田畑の中にあったと
書かれていたようで、明治8年(1875)にに与野町の町社になったのを機に、天祖神
社と改めたという。

 天祖神社には、与野七福神の寿老人が祭られていた。

 与野公園の東側は、広い境内にりっぱな堂塔の見える円乗院。寺の塀に沿って南側を少
し進むと、「喜多山」というせんべい店があった。

 「久助の日」の旗が出ていて、特売日のようなので入ってみたら、美味しそうなせんべ
いがたくさん並んでいる。
    
     私は、目的の久助せんべいだけ求め、店を出た。

 その通りの先、県道165号に面して「いちごいちえ」という居酒屋があり、南側の壁
面にはこんなものが描かれていた。




 円乗院は、その横の県道側の仁王門から入れる。入ろうとしたら、「境内撮影禁止」の
表示が出ている。


 せっかく入っても、りっぱな建物などが撮れないのではと思い、入るのは止めて仁王門
の手前から、正面の本堂と門を入って右手にある多宝塔を撮り、先に向かうことにした。  
     

 円乗院の前、与野本町駅方面への道路と県道との三差路際にあった、壁面に独特なデザ
インを施した建物。

 
 その横を駅方向に少し進み、本町東二丁目から本町東一丁目の中心部へ南下し、さらに
タツミ通りを横断して鈴谷(ずすや)八丁目へ。

 与野西中の南東端には鈴谷天神社が祭られていた。

 
 参道には、稲垣田龍の碑がある。

 稲垣田龍は、この地、鈴谷に生まれて幼少から武道を志し、剣術棒術柔術に励み、31
歳のときにその奥義を極め、一刀流兵法目録を伝授されたとか。

 さらに江戸で西洋流天文学を学び、数多くの貴重な天文暦学天体図などを書き残し、文
武両道に優れた高潔な人物として郷土の誇りとなり、文久元年(1861)に72歳で没
した人という。

 近くにある鈴谷大堂は、墓地の中にポツンとお堂だけがあり、何年か前の正月、与野七
福神巡りで来たときの記憶が蘇る。

 お堂には、与野七福神の毘沙門天が祭られている。

 かやのき通りを鈴谷七丁目から鈴谷四丁目に入り、今日の最後、妙行寺へ。創建年代は
不明だが、境内の正元2年(1260)の板碑などから鎌倉中期と推定されるという。 

 新しく堂々たる本堂の右手には、これも再建新しい庫裡かと思われる建物がある。


 本堂の裏手に回ると、県指定文化財で幹回り3.5m、高さ約7m、樹齢600年余り
と推定されるモッコクの古木が1本だけ立っていた。
     

 道路を挟んで南側には、やはり新しい金比羅天堂がある。


 そばに樹齢約1,000年と推定され、樹高21.5m、目通り周囲7.28m「新・
日本名木百選」にも選定されているという、「与野の大かや」と呼ぶカヤの巨木が立って
いた。
     

 応永年間(1394~1427)には、すでに関東随一の巨木として知られていたよう
で、「榧木金比羅(かやのきこんぴら)」と呼ばれ、古くから信仰の対象でもあったとの
こと。国指定天然記念物である。
     
 今日の最後に、思いがけずの素晴らしい巨木を見ることができた。

 さらに南下して国道463号を越え、JR埼京線南与野駅に16時19分に着いた。


 (天気 快晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市中央区、
  歩数 14,700)





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甲府盆地のブドウと桃の里をカントリーウオーク(その2)(山梨)

2014-10-28 21:57:04 | カントリーウオーク
 2014年10月26日(日)

 今朝も好天である。斜面になっている宿の庭の上部にあるニシキギがよい彩り。
   

 玄関前で記念撮影をして、8時15分に「季節のお宿ひみね」を後にした。


     
 国道137号を少し上がり、「戸倉遊歩道」の標識を左に下って金川の橋を渡り、対岸
の戸倉集落の戸蔵神社に上がる。
     

        
 社殿は杉木立に囲まれ、傍らに養蚕ゆかりの「蠶影山」碑や、ほこらに祭られた道祖神
がある。
            

 境内から見える南側の山並み上部は、紅葉の彩りが進んでいた。


 国道に戻り、宿のすぐ先から国道の右に平行する旧道に入ると、近年延長されたリニア
実験線の線路が行く手の谷間を横切っている。

 だが、線路はドームに覆われ、列車が通過しても見えそうにない。

 新上宿集落の入口付近に、宿の名と同じ檜峰(ひみね)神社の鳥居だけが立ち、集落の
中ほどには洗宇神社↓が祭られていた。
     

 近くには、この道が奈良・平安初期頃賑わった官道、御坂路(みさかじ)であることの
説明板がある。リニア新幹線の高架橋は、すぐ先のカーブ点の上を通過している。
     

 坂野集落を抜けて道場集落へ。老人ホームと隣接した称願寺に裏手から入り、どっしり
した本堂の前で小休止する。

 称願寺は、正応5年(1292)に黒駒領主讃岐守信基の帰依により真教上人が開創し
た、県下で最古の時宗の寺とか。国重要文化財の木造他真教上人座像をはじめ、市文化財
も多いという。

 境内には「称願寺のサクラ」と呼ぶ、樹齢400~500年と推定されるヤマザクラ系
の園芸種、ゴシンザクラ(御信桜)の古木がある。

 花と葉が同時に開き、独特の花の形や色あいなど、県下でも珍しい桜のようだ。

 何の祈願か分からぬが、西側の木の枝から枝に、見たことのない形の小片が幾つか下が
っていた。
    


 さらに旧道を緩やかに下る。駒留集落の八幡宮↑のそばに、この道が御坂峠を越えて河
口湖、山中湖、御殿場へと続く鎌倉街道御坂路であることを記した掲示板がある。

 若宮集落を通過し、国道がバイパスと分流する若宮交差点際にあったディリーヤマザキ
で、残り少ない品数から昼食を調達する。

 国道を横断して山側に回り、少し斜面を上がったが、予定した八反田方向でなく南に向
かっていた。次の十字路で気付き、右折し西に向かう。だが、この辺りは甲府盆地東部を
見下ろす絶好のビューポイントだった。


 杉木立に囲まれた小さい神社周辺で、拾いものの展望を楽しむ。


 少し先で、完成していた地形図上は「建設中」の道路に入る。500m余りで旧道に戻
り、南側の通用門から「桃源郷公園」に入った。

 中央部の高台にモニュメントが立ち、眼下の甲府盆地の桃の郷や周辺を囲む山並みなど、
三百六十度の大展望地である。だが今日の南アルプス上部は雲に隠され、昨日の勝沼ぶど
う郷駅からのような展望は得られなかった。

 自販機のアイスクリームを求めてのどを潤したりして30分近く休憩し、11時12分
に公園を出た。


 葉の色づくブドウ畑の間を西進して尾山集落へ。集落の中ほどにあった古民家を活用し
た「パモニルパフ」と呼ぶ美容院の道路際に、手作りのツリーハウスがあった。
     
 美容院の宣伝用に造ったとのこと。美容院では午後、ライブが行われるようで、楽器を
積んだ車が到着していた。


 次の蕎麦塚集落の光国寺に、11時38分に入る。北側道路側に鐘楼門があり、大きな
本堂も北向き。


 梵鐘の下がる鐘楼門の2階天井には、龍が描かれていた。


 西側の墓地には、大きな観音像と、それより小さいお地蔵さんが立っている。


 ご住職に断り、鐘楼門脇の建物の縁側を借りて昼食にする。


 12時近くなったらご住職が鐘楼に上がり、正午を告げる鐘を12回突かれた。
   
 毎日実施していて、ご住職がお出かけの際は、誰か残って代わりを務めるという。周辺
のブドウ畑で作業している方にも分かる、よい時の鐘と感心した。

 12時30分に光国寺を出て、集落の中ほどから南進する。


 無住らしい宝林院↑前を通過して、ビニールハウスとブドウや桃の果樹畑の中を進んで
二つの流れを渡り、西進して小山城跡に行く。

 浅川扇状地北端の小丘を利用して構築された武田時代の城で、宝徳2年(1450)に
穴山伊豆守が居住し、幾多の変遷を経て南部氏に守られていたが、天文17年(1548)
に武田晴信の為罪により廃城になったとのこと。

 天正10年(1582)の甲斐国騒乱時には、御坂城の北条勢に対峙(たいじ)して徳
川家康が鳥居彦右衛門に城を修復させ、騎馬130、雑兵600人で守らせたと伝えられ
るという。


 周囲のよく残された土塁にはソメイヨシノが植えられ、土塁に囲まれた中心の郭(くる
わ)部は整地されていたが、ロープが張られて入れない。


 東側の虎口部から北に回ると、眼下のモモ畑や石和の市街地方面の展望が広がる。


 八千蔵集落の西側を回って二宮集落に入り、美和神社で休憩する。

 美和神社は、景行天皇の御代、日本武尊により大和の大三輪神社を勧請したという甲斐
国内の古社。

 一条天皇の時代に甲斐国二之宮となり、毎年、一宮の浅間神社などとともに甲斐国水防
の祭りを執り行っていたようだ。

 国指定重要文化財の木造大物主神立像ほか、県文化財や市文化財など文化財を多く所蔵
し、古来から伝わる太々神楽(だいだいかぐら)は県の無形文化財に指定されているとい
う。

 バスに間に合わせるために、ここからは先を急ぐ。中央自動車道下を北に抜け、国衙
(こくが)集落を北西に回り、今日のゴール予定地、県立博物館構内に入る。


 館内で聞いたバス停に14時18分に着き、14時20分発のバスにかろうじて間にあ
った。

 8分遅れで来た甲府駅行きバスに乗り、石和温泉駅には行かないというので石和温泉駅
入口バス停で降り、予定外の800m余りをさらに駅に向かって歩く。

    
 途中に鮮やかな紅葉も見られたが、ゆっくり眺める時間もなく進み、14時50分に
JR石和温泉駅に着いた。急ぎ階段を上がり、5分後の高尾行き上り電車に何とか乗るこ
とができた。

(天気 晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 石和、歩行地 笛吹市、歩数
 24,600、累積標高差 上り約120m、下り約450m)




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甲府盆地のブドウと桃の里をカントリーウオーク(その1)(山梨)

2014-10-27 23:31:55 | カントリーウオーク
 埼玉のカントリーウオークグループの、「特別例会」と称する1泊のカントリーウオー
ク、この秋は甲府盆地の東側、ブドウ畑とモモ畑の間を歩こうと、10月25日~26日
に実施された。集合はJR中央本線の勝沼ぶどう郷駅である。
 
 2014年10月25日(土)

 勝沼ぶどう郷の駅前からは、色づくブドウ畑の向こうに、甲府盆地を囲む奥秩父や南ア
ルプス北部、御坂山塊などの山並みが望まれる。




 2本の電車で到着した13人は10時50分に出発した。

 線路沿いの遊歩道を北へ、桜並木の下に、昭和43年(1968)の複線化までスイッ
チバック方式だった当時の、旧勝沼駅ホームが残されていた。


    
 北西に下って「勝沼ぶどうの丘」の台地の北側を回る。周辺のぶどう畑にはブドウの実
の残るところもあり、葉は良い色に色づく。
    
 積み残した粒の残るブドウ畑もあり、いただいて口に入れると熟しているので甘い。

 車道を赤坂バス停横で横断し、小佐手集落に入る。ハンカチくらいの白布を外で洗う家
があった。
    
 ブドウの実に被せたあったビニール片で、きれいにして再利用するのだという。

 かやぶき屋根をトタンで覆った民家が2軒並び、周辺の民家の庭先には熟したザクロが
あちこちに実る。その一軒のご主人が出ていたので声をかけたら、幾つか採ってくれた。
    
 子どもの頃食べたのは少し甘酸っぱかったように思うが、よく熟したこのザクロは、ず
っと甘いように感じられた。

 ブドウ畑の傍らに、丸い石を並べた甲州独特の道祖神が祭られていて、この後も交差点
際や神社など何か所も見られた。
    


 集落の中ほどにあった伏木神社で小休止する。鳥居の横に「伏木神社の七本スギ」と呼
ぶ背の高いスギのご神木が立っている。7本あったものの1本のようだ。
     

    
 さらに進むとカリンの実る家も目につき、ブドウ畑の中には、かなりの古木もある。


        
 集落西端の三差路際に「蠶影山」と刻まれた大きな石碑があり、そばの民家は養蚕農家
のような屋根。

 南側の家の方に聞くと、やはり以前は養蚕をしていたという。現在のこの周辺は、全部
がブドウ畑に変わっていた。

 次の小集落、横落の周辺もブドウ畑が続き、よい彩りの実がたわわのブドウ畑もある。
    

 国道411号を子安橋北詰交差点で横断し、そばのディリーストアで弁当の無い人は調
達をする。


 子安橋の南から田草川左岸沿いの道を少し進み、ブドウ畑の間を南下して、等々力集落
の万福寺に12時42分に入る。


 甲斐国百八番霊場第16番札所で、境内西南の六角堂↑や山門は新しく、大本堂はコン
クリート造り。本堂前の石段周辺で昼食をした。


     
 山門のそばには「山梨の巨樹・名木100選」のエノキの古木が太い幹と大きな枝振り
を見せ、東側には大イチョウが枝を広げる。

    
 山門際に「馬蹄石」と呼ぶ大石が置かれ、そばに寛政年間(1789~1801)頃建
立したとされ、「野晒(のざらし)紀行」の際に甲斐で呼んだという「行駒の麦に慰むや
どりかな」の芭蕉句碑がある。
    
 県内で3番目に古い句碑ということもあり、文字は判読しにくい。

 13時30分、参道を南に出て、十字路を折り返すように西北に向かう。そばに「一古
園」と呼ぶぶどう園があり、観光バスが来て賑わっている。

 その先にも幾つかのぶどう園があった。

 綿塚集落の東端に、集落の産土神(うすすながみ)の大石神社がある。本殿下の巨石が
ご神体で、万福寺にあった馬蹄石とともに、この地の黒駒伝説と深い関わりがあるという。

 拝殿は天保2年(1831)の建立とされているようだ。

 綿塚集落の中心には、前面が柱だけの開放的な飯縄神社があった。


     
 傍らのクヌギの大木の枝振りは、ほかでは見られぬ見事なもの。ほかの集落にもあった
が、この集落にも実の色づいた柿の木が多い。

 集落を西に抜けて石橋川沿いに出て、左岸の農道を進む。


 サクランボ畑もあり、ブドウ畑に代わって桃畑が増える。気温が上がり汗ばんでくる。
遮るものがなく、北側の山並みなどの展望がよい。


 川沿いを2㎞ほど進んだ重川橋近くに、川を背にして「蠶神」などの古い石碑が並んで
いた。
        

 県道222号の重川橋を渡り、橋の手前で合流した重川右岸を少しで、大野集落に入る。

        
 集落の中ほどに丸い石ひとつだけの道祖神が祭られ、集落を西に抜けて釜無川の桑戸橋
近くまで進むと、御坂山塊の上に富士山の上部だけが姿を現した。



 橋を渡ったところで記念撮影をする。橋が市境で、甲州市から笛吹市に入る。


 桑戸集落の中ほどの仏念寺に、明治35年(1902)にこの地に生まれ、瀬戸内海の
長島愛生園で救ライ活動に生涯を捧げた小川正子の墓と歌碑があると記されていたが、法
事中だったので寄らずに通過する。


 隣接する一行寺の本堂左手前には、「一行寺のカヤ」と呼ぶ樹高15m、目通り3.3m
のカヤの古木があり、毎年秋には県下最大の大きな実をつけるという。
     
 町の天然記念物になっていて、後から境内に入ったメンバーは、帰ってきたご住職から
説明を受けた。

 ここまで来れば今日のゴールは近い。少し陽の傾いた15時35分に、勝沼ぶどう郷駅
から四つ目、無人の春日居町駅に着いた。


 駅の南側に、10年くらい前からという足湯があった。

 下り電車まで30分以上ある。KさんとNさん、それに私は足湯に浸かり、わずかに顔
を見せる富士山を眺めながら足の疲れをとる。


 16時8分発下り電車に乗り、次の駅石和温泉駅で降りた。この駅前にも足湯がある。


 迎えに来た宿のマイクロバスに乗り、県道を30分ほど南東へ。16時40分に笛吹市
下黒駒の「季節のお宿ひみね」に入った。
    

 リピーターの多い評判の民宿のようで、この日も私たち13名のほかに、ゲートボール
グループなど5組21名の宿泊者の予約表が玄関に掲示されていた。

 18時半からの夕食は、ほかの宿泊者ともに大広間で。ヤマメの唐揚げ、馬刺しや鍋物、
茶碗蒸しなど盛りだくさんで、みな美味しい。デザートには、地元特産のブドウが添えら
れていた。
    

 食後に玄関横の掲示を見たら、私も参加予定だったが風邪で来られなかった、2009
年4月にやまさんほか3人が「国際ウオーキングトレイル実踏」の際に宿泊したお礼に、
やまさんから送られた、当日歩いたコース地図と写真が貼ってあるのに気付く。


        

 宿のご主人と奥様に話すと大変喜ばれ、ほかにも宿泊者からの色紙や写真などがたくさ
ん貼ってあり、この宿の人気の一端が知れる。

(参加 13人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 塩山、歩行地 甲州
 市、笛吹市、歩数 18,000、累積標高差 上り約20m、下り約210m)




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新潟県中越地震で全村避難した旧山古志村のこと(新潟)

2014-10-23 11:41:57 | Weblog
 2014年10月23日(木)

 今日は、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震から、ちょうど10年の節
目の日です。

 10年前の今日、地震が発生した日に私は、グループの皆さんと中山道ウオーク中で、
私は1部の区間しか参加しませんでしたが、多くの皆さんは京都を出発して20日近く歩
き続け、東京・日本橋へゴールする前日のことでした。

 この日は、中山道を埼玉県の桶川市から蕨市までの23㎞を歩き、JR蕨駅から川口駅
まで電車で移動して、川口市内のスペイン料理店で、明日の日本橋ゴールを前にしての前
祝いの祝宴中でした。

 宴たけなわの17時56分に地震が発生し、川口市でもかなりの揺れを感じて、これは
大きな地震だと分かり、被害はどうなのか気になりました。

 帰宅して、新潟県中部を震源とする大地震と知り、特に震度6強という当時の山古志村
(現在の長岡市山古志)のことが心配になりました。

 というのも、地震発生より4年前の2000年9月4日から5日にかけて、山古志村を
訪ねてカントリーウオークをしたことがあったからです。

 その時に撮った山古志の棚田の写真3枚です。

 2000年9月4日(月)、当時の山古志村種苧原(たねすはら)集落から風口峠を経
て虫亀集落に向かう途中、閑散とした旧道からの棚田と越後三山方面の眺め。


 9月5日(火)朝、虫亀集落から2㎞余りの棚田のビューポイント、金倉山中腹から虫
亀集落へ戻る途中、中間のカーブ点辺りから。


     同じ場所から。
    
 
 金倉山の写真は見つかりませんが、そのビューポイントを教えてもらったのは、前日宿
泊した虫亀の民宿三太夫の経営者、長島久子さんからでした。

 長島さんは、前夜の夕食の際、私がカメラを持っているのを見て、山古志の四季を撮っ
た写真集を見せて下さり、明日の朝早くこのビューポイントに行ってみなさいと教えて下
さったのでした。

 さらに、ご自身が関わっておられ、村民が協力して16年かけて手堀で開通させた中山
トンネルのことをまとめたワークショップの資料↓もいただき、ほかに、この体験民宿の
こと、山古志の棚田やニシキゴイのこと、村の活性化施策など、色々な話を伺いました。
      
 
 ちなみに長島さんの夫は、当時、新村長に就任されて間もない長島忠美さんで、新潟県
中越地震の際には、隣接の長岡市などへ全村民避難を決断され、現在は衆議院議員で、9
月からは復興副大臣に就任されています。

 新潟県中越地震の直後、震度6強の揺れで大きな被害を受けた山古志村でお世話になっ
た長島さんのことが気になり、3日後にささやかな支援の食品をお送りしました。

 あれ以来10年が経過して、この10月20日(月)に、「つなごう山古志の心」とい
う4ページのパンフレットが届きました。
      

 
 見開きの中には、山古志の地図に食事どころ、直売所、宿や商店などが紹介されていて、
その連絡先なども記載されています(読みにくいと思いますがイメージだけでも)。
          

 山古志は、棚田と錦鯉(ニシキゴイ)と闘牛の里として知られていますが、「牛の角突
き」と呼ぶ震災10周年記念の闘牛も10月19日(日)に実施されたようです。
      
 私は、2000年9月に行ったときには虫亀の闘牛場ものぞいて見ましたが、地図を見
ると同じ場所のようです。

 10月21日(火)の朝日新聞東京本社版夕刊に、このパンフレットのことが掲載され、
新潟県中越地震の際に支援してくれた全国の約1万人にパンフレットを届けたと書かれて
いるので、私もその支援者の一人として送っていただいたようです。
      

 パンフレットを見て、また昨夜のNHK総合TVの「クローズアップ現代」では、地震
後の復興状況や新しい取り組み、住民が震災前の約半数に止まり過疎化が進んでいること
などを知り、今年は無理かもしれませんが来春にでももう1度山古志を訪ね、震災の被害
状況と復興の様子、そして美しい棚田の景観や錦鯉にも再会し、力を貸すことはできなく
ても心の支援だけでもしたいと考えているところです。

 なお、16年かけて村民が手堀りで貫通させた延長約900mの中山トンネルのことは、
2003年に橋本信一監督により「掘るまいか 手堀り中山隧道の記録」として映画化さ
れ、私も東京・中野の映画館で鑑賞しています。

 中山トンネルと同様に、手堀りで村民が掘ったトンネルは、ほかにも桂谷集落に延長約
550mの桂谷トンネルがあり、2000年9月5日に周辺をカントリーウオークした際
に、歩行者専用になっていたこのトンネルを往復しました。



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続カタツムリ歩行のあと、別所沼公園から西浦和駅へ(埼玉)

2014-10-21 15:15:14 | カタツムリ歩行
 2014年10月19日(日)午後

 「続カタツムリ歩行」の例会の散会後、帰りは周辺の社寺を回ってJR武蔵野線の西浦
和駅に向かうことにして、13時30分に別所沼公園を後にした。

 公園の西北端にある別所沼会館の横から公園を出て、公園の北側を真っ直ぐに伸びる裏
門通りを西進して鴻沼川を渡る。


 JR武蔵野線と東北・上越新幹線の高架下を抜けて西堀八丁目に入り、松やクス、カシ、
スギなどの豊富な樹林に囲まれ、鳥の声が賑やかな西堀氷川神社に入る。
     

 鎌倉時代、畠山重忠がこの地を領したときに真鳥山(まとりやま)城を築き、家臣の真
鳥日向守を代官としてこの居館に居住させたとのこと。神社は当地西堀の鎮守として、応
永年間(1394~1428)に武蔵一宮の氷川神社を勧請したとされるという。


 慶安元年(1648)には社領10石の朱印を附され、現在の本殿は江戸中期から後期
に建造され、市指定文化財に選定されている。

 拝殿前の天水桶には、精巧な龍が浮き彫りされていた。
 

 すぐ西側、台地下の寺院を目指して北側から一つ隣の道路に回り、背後の墓地から万福
寺へ。


 墓地は広いが境内は狭くて樹木もわずか。門の両側、別々の棟に2体の仁王像が立って
いた。
        


 氷川神社の南側、西堀二丁目の医王寺はどっしりしたコンクリート造り。鐘楼には、さ
いたま市文化財で江戸中期の宝暦14年(1764)に造立の銅鐘が下がる。
        
 市内の梵鐘(ぼんしょう)では、太平洋戦争時の供出を免れたただ一つのものだという。



 東側石段上の収蔵庫には、県指定文化財で平安時代末期の制作と推定される木像大日如
来座像が収蔵されているが、見ることはできない。

 収蔵庫の周囲には、移設したらしい古い石仏がたくさん並んでいた。

 医王寺の南には、墓地に囲まれてコンクリート造りで足立第三番札所という上宮薬師堂
がある。


 近くの民家の塀際に、見慣れぬ花が咲いていた。


 別所沼の南からJR埼京線中浦和駅の北を抜けてきた通りを横断し、鴻沼川を渡って関
一丁目の東福寺へ。

 墓地の北西側高みに本堂があるが、ご住職の住まいと一体化しているのか建物周辺は生
活感あふれたものが並び、屋根を見ないと寺らしさが感じられない。


 堂内には、市指定文化財で市内でも数少ない平安時代後期の地方仏師の制作とみられる、
木造如来形座像(ぎょうざぞう)が祭られているという。

 墓地には、やはり市文化財で正和4年(1315)銘のの阿弥陀三尊種子板石塔婆(あ
みださんぞんしゅじいたいしとうば)の説明板が立っている。

  
 そばに似たような板石塔婆↑があったが、よく見ると説明板の写真とは少し違っていた。

 すぐ西側には、鴻沼川を背にして神明神社が祭られている。背後の桜などの樹木に覆わ
れた盛土は、直径33m、高さ4.5mの規模の「神明神社古墳」と呼ぶ円墳だという。


 さらに、直前に訪ねた東福寺は、明治4年(1871)に廃寺になって荒廃した本堂跡
に、後年現在地にあった民家を移築してお堂とし、昭和46年(1971)に檀家の人達
により再建されたものと記され、神明神社も以前は東福寺の守護神として祭られたことが
推測されるとも記されていた。


 神社の背後にある小さな遊園地の方に回ると、円墳であることがより良く確認できた。

 鴻沼川左岸沿いの遊歩道を進んで田島四丁目の公園に入る。

 ソメイヨシノの多い園内には児童遊具があり、南側は「うんどう遊園」と名付けられ
ていて、体力維持・改善を図るための施設が幾つか設けられていた。


 公園の西側一帯は、カシ、スギ、ケヤキ、松などの豊富な樹木に囲まれた氷川神社で、
ここも鳥の声が賑やか。

 創立年代は不詳のようだが、徳川家光から7石の朱印を賜り、以後歴代将軍から引き続
き朱印を受けており、近隣7か村の鎮守として「新編武藏風土記稿(しんぺんむさしふど
きこう)」にも記載されているという。

     
 長い参道を南に抜けて県道40号に出る。そばの交差点際に火の見やぐらが残り、交差
点の名も「田島火の見下」になっていた。
     

 県道の少し先にあった覚了坊は、7月の続カタツムリ歩行で立ち寄ったところ。広い墓
地の東側にコンクリート造りのお堂だけのシンプルな境内である。


 県道の次のT字路を南に入り、JR武蔵野線の線路際まで進み、近くの薬王院へ。

 ここも7月例会で最初に訪ねたところ。


 薬師堂↑に市文化財の鰐口が下がり、本堂前に新しい十三仏の石像が並んでいる。
   

 寺から西浦和駅はすぐ近い。15時24分に着き、1分後に来た府中本町行き電車で帰
途につく。


 午後歩いたところも、この半世紀くらいの間に開けた住宅地と思われるが、社寺を巡っ
てみると古くからの歴史の残っていることが知れる。 

(天気 晴、距離 4㎞。地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市南区、中央区、
 桜区、歩数 9.100)




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続カタツムリ歩行 JR武蔵野線・埼京線 武蔵浦和駅(埼玉)

2014-10-20 15:57:37 | カタツムリ歩行
 2014年10月19日(日)

 JR武蔵野線沿線とその周辺を歩く「続カタツムリ歩行」の第18回例会に参加した。
集合はJR武蔵野線と埼京線の武蔵浦和駅。快晴の駅前を10時9分にスタートした。

 武蔵野線のガードをくぐって東側に出て、国道17号に入る。すぐ北側の交差点を右折、
東進して斜面中腹にあった医王寺に入る。


 手前の薬師堂↑下に大イチョウが立ち、傍らに唱歌「ふるさと」の歌碑があった。
      


 東側の石段を下ったところに本堂↑や鐘楼門↓、仏足石などがあり、石段際には一部欠
けた双体道祖神が祭られていた。
    

        

 本堂前には、さいたま市文化財で鎌倉時代後期の延慶2年(1309)銘の板石塔婆が
立つ。
        
 現在の像高は2.4mだが上部と下部が欠けていて、完成時は4m近くあったと推定さ
れるという。


 鐘楼門を出た南側の通りには、「ワンワン美容室TO-Y」と呼ぶ犬猫の美容や宿泊預
かりをする店があり、店の前には販売する犬猫用の衣服を入れた段ボールが並んでいた。
    

    

 近くの交差点を横断して、南側のうっそうとした森の斜面を上がって睦神社境内に入る。

 社殿は西向きで、ほかに三峰、稲荷、諏訪など4つの摂社が並び、境内はソメイヨシノ、
カシ、ケヤキなどの高木に囲まれていた。

 北側の通りに戻った交差点の西側には、今日の天気のような「いい天気」と呼ぶケーキ
屋さんがあり、店内をのぞくと美味しそうなケーキが並んでいたが、時間がないので入る
のは止めて次に向かう。


 往路を少しだけ戻って北に入り、白幡沼の歩道を西に進む。
  
 池を背にして2体の青面金剛像が並び、その一つは宝永年間(1704~11)の造立
である。池の西南端から西側の遊歩道に回る。




 カワセミの観察用かと思われる池の真ん中にある止まれ木にハトが止まり、傍らのスイ
レンが1つだけ咲き残っていた。
    

 遊歩道を北に抜けて岸町小前の通りを左折する。国道17号を横断して別所二丁目の住
宅地を進み、JR武蔵野線近くで武蔵浦和駅から延びている遊歩道「花と緑の散歩道」に
入る。
    
 両側には色づき始めた桜並木が続き、その下にはアジサイも植えられ、ところどころに
ベンチも設けられている。

 県道40号を歩道橋で越えて別所沼公園に入る。別所沼の周囲は、まだ緑のままのメタ
セコイアに囲まれている。


 池の西側を弁財天のお堂のそばまで進むと、弁天島の入口でウナギを形どった「浦和う
なこちゃん」像が迎えてくれた。
    
 11時55分に着き、西側のベンチ周辺で昼食にする。





 食事を終えて記念撮影とミーティングをして、13時近くに散会した。今回も、この歩
きの仕掛け人、やまさんは参加されなかった。連続3回の不参加は初めてのことではない
だろうか…。

(天気 快晴、距離 3㎞、地図(1/2.5万) 浦和、歩行地 さいたま市南区、
 歩数 4,400)

 散会後は、JR埼京線の西側の社寺を回ってJR西浦和駅まで歩いた。その経過は次回
投稿する。




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関東山の辺の道⑬ 佐野から足利まで(栃木)

2014-10-19 22:42:17 | 関東山の辺の道
 2014年10月17日(金)

 私のオリジナルウオーク、関東平野の外縁を反時計回りに歩きつなぐ「関東山の辺の道」
の13回目を1年1か月ぶりに実施した。スタートはJR両毛線と東武佐野線の佐野駅。
南口を9時13分に出発する。


 線路に平行する昇栄通りを少しで、交差する殿町通りへ。嘉永6年(1853)には、
佐野領主だった井伊直弼(いいなおすけ)が通ったという。

 万町交差点で県道67号・例幣使(れいへいし)街道に入る。通りには、江戸後期から
明治時代に建てられた見世蔵造りの商家が幾つか残る。




 さらに二つ南の通りに回り、観音寺へ。

 佐野七福神の大黒天の寺なので石造大黒天像が祭られ、その先のお堂に、寛文9年
(1669)に天明の3人の鋳物師による合作という、像高3.13mの銅造阿弥陀如来
座像が祭られていた。
        

 道路の斜向かいにある佐野市観光物産会館に入り、パンフレットを入手し草餅を求める。


 南側の広い敷地一帯は、佐野厄除け大師で知られる惣宗寺である。

 重厚な山門を入ると、新しいお堂に金ぴかな金銅大梵鐘が下がる。
        
 厄除元三慈恵大師の1千年を記念して建立され、直径1.15m、重量約2トンあり、
日本一大きな金の梵鐘だという。

 正面には、地元佐野市小中(こなか)町生まれで足尾銅山鉱毒被害を明治天皇に直訴す
るなど、人権の尊重と自然保護のために尽力した田中正造の墓がある。
        


 近くには朱塗りの鐘楼があり、右手正面に厄除元三大師を祭る大本堂↑や、新書院、佐
野東照宮↓など、きらびやかな建物が並ぶ。



 東照宮の唐門横から境内を出て、西に向かう。そばの交差点際には涅槃寺(ねはんじ)
があり、東側交差点近くに、天和2年(1682)に江戸、白金の松秀寺から勧請したと
いう、日限(ひぎり)地蔵尊が小さいお堂に祭られていた。
        
 日限とは、日を決めて願いをかければ必ずその日までに願いがかなうという、ありがた
いお地蔵さんだという。


 秋山川の天明大橋を渡る。国道7号との交差点を右折して北へ、平行する流れの西側に
迂回して佐野市郷土博物館に行く。

     田中正造像

 直訴状や遺品など、田中正造ゆかりの資料が展示されているというが、たくさんの小学
生が入館したばかりなのと、撮影には面倒な手続きがいるとのこと、さらにこの先の時間
も考え、ざっと見ただけで退館した(入場無料)。

 西中の東から北側の通り回る。この通りも例幣使街道で、路上にその看板が下がる。隣
接する煙草苗育布工場のところでJR両毛線の踏切を渡り、広々とした田園地帯を北進す
る。

 刈り入れ前の水田もかなり残り、その北側に緩やかな山並みが望まれ、その一つの山頂
付近に「大小」の文字が見える。この山の名は、午後、その近くまで行って地図を見て分
かった。


 しばらく北進する途中には、コンバインで収穫中の田んぼもあった。吹きさらしで西風
が強く感じられる。

 水田地帯の北端まで進んで県道237号に入ると、田中正造の生地、小中町。すぐ先の
T字路を北に少しで、田中家の累代墓所で田中正造の菩提寺という浄蓮寺がある。

 本堂背後の墓地を回ったが、田中家の墓地は確認できなかった。


 県道に戻り、交差点の少し先が県指定史跡の田中正造旧宅。県道に面して表門と2階建
ての隠居所が、奥に母屋↓や土蔵があり、毎週火木土日曜日に公開しているというが、こ
の日は公開日でないので外観を見るに止める。


 県道を挟んで南側には「義人田中正造翁生誕の地」の標識が立ち、小公園のような敷地
の奥に屋根付きの大きな墓があり、田中正造とカツ夫人が合祀(ごうし)されていた。
    

 すぐ先の交差点際に背の高いイチョウがそびえ、傍らに「小堀鞆音画伯生家跡」の大き
な碑が立つ。
     
 小堀鞆音(こぼりともと)は、文久4年(1864)この地生まれの日本画家。初めは
狩野派を学び、のち歴史人物画から大和絵に進み、私塾で国学や漢学も学んだとか。東京
美術学校助教授や文展審査員となり、歴史画を得意とし、安田靫彦、前田青邨らに影響を
与え、勤王家としても知られたという。


 すぐ先の旗川の旗川橋を渡ると、佐野市から足利市に入る。右岸沿いに少し進んで工場
の南から西側の田園地帯に出る。


    
 東根集落に入り、素朴な地蔵堂や3棟分が連接した長い土蔵のある民家横などを通過し
て、医王寺に入る。

 天慶5年(942)の建立で、幾多の変遷を経て元禄元年(1688)に、越後の秀継
和尚が本堂と薬師堂を再建したという。

        
 敷地は広いが樹木は少なく、開放的な境内。明和元年(1764)の建立で高さ4.2
mの宝塔↑があり、小さいお堂には十九夜塔が祭られている。石の上に祭られた「派祖専
誉僧正」像を覆う木陰で昼食にしたが、休んでいると西からの風が冷たく感じられた。


 隣接する西根集落を抜けて出流(いづる)川を渡る。路傍に「県重要文化財木造勝観世
音菩薩立像」碑があり、そばの観音山山裾の斜面に青屋根が見えたので、その石段を上が
ってみる。


 山門の両側に、保存状態の惜しまれる足利市文化財の木像金剛力士像が祭られ、さらに
石段を上がると、やはり市重文の稲岡観音堂があった。文書や正面の額などから江戸時代
前半の建築と考えられるとか。堂内は暗くて、観世音菩薩立像は確認できない。

 すぐ先の右カーブする山裾の路傍に、いずれも足利氏文化財の石造勢至菩薩供養塔と石
造廻国供養塔が祭られ、勢至菩薩供養塔↓は、寛政8年(1769)の建立と記されてい
るという。
        

 斜面を少し上がると、観行寺(かんぎょうじ)跡に小さいお堂があり、その上部には
「西場の百観音」と呼ぶ、前列に西国三十三番、中列に坂東三十三番、後列に秩父三十四
番の石仏が整然と並んでいた。


 造立は寛政2年(1790)~10年で、保存状態も良く、当時の民衆の厚い信仰を物
語る貴重なものとして、足利市民俗文化財となっている。
    

 百観音からは、刈り入れ前の田んぼの展望が広がる。
 


 観音山の南麓に延びる西場町の集落沿いを西進する。その西に続く大小山(318.6
m)が近づき、「大小」の文字もよく読めるようになった。


 山裾に続く小坂集落を半円状に回り、田園地帯を真っ直ぐ伸びてきた道路と合した山裾
に、三社神社のどっしりした社殿があった。

 拝殿の天井には足利市重要文化財で、百歌仙図と花鳥図の112枚が描かれた天井絵が
あるというが、拝殿前面の狭い格子からのぞいてみても暗くて分からない。

 描いたのは幕末から明治に佐野や足利東部で活躍した絵師、藤英悦で、先ほど通過した
小中に生家跡碑のあった小堀鞆音の父という。

 街路樹と広い歩道のある通りを横断し、JR両毛線富田駅の北に広がる駒場町の住宅地
を西に抜けて、県道67号に入る。

 北斜面上の広いエリアに、肥前鍋島藩の陶磁器を多数所蔵するという栗田美術館がある
が、時間が気になるので寄らず。県道の北側の旧道を入って迫間町へ。


 小集落の中ほどの高台に、熊野神社↑と東善院が並んでいた。熊野神社にはソメイヨシ
ノが数本あり、東善院の本堂前にはミカンが色づき、そばの地蔵尊にそのミカンが供えら
れている。石段の横には阿弥陀堂もあった。


 中心を真っ直ぐに県道が貫く大久保町↑の西側山際にあった、日光鹿島神社に寄り小休
止する。

 拝殿の文字は、連合艦隊司令長官や侍従長、太平洋戦争終戦時の首相をなどを努めた、
鈴木貫太郎の海軍中将時代の書である。
    

 この本殿の天井にも、江戸末期の嘉永2年(1849)、佐野の絵師、田村定衛門安貞
が描いたという、花鳥を中心とした77枚の天井絵があるようだが、やはり暗くて認識で
きない。本殿の右手前には、モミの高木が目につく。
    


 県道を少しで毛野小の横から旧道で八椚町を西に抜け、さらに山裾の旧道を進む。標高
112.3mの山を背にして天満宮↑があり、県道に接近した山川町の山裾には白鬚神社
が祭られていた。


 名草川の左岸に突き当たり県道に戻る。日没が近づいて太陽が低くなり、向かい風が冷
たい。

 足利の市街地に入った助戸一丁目に、足利厄除大師、龍泉寺の大きな看板が目についた
ので寄る。

 境内を南側に回ると、コンクリード造りの大本堂や宝形(ほうぎよう)造りの観音堂な
どがあり、観音堂のそばには堂々たるクスノキの古木が高く枝を広げていた。東側にはり
っぱな幼稚園も併設されている。
    

 寺は足利坂東三番札所、ぼけ封じ関東二十四番札所などで知られているようで、参詣人
も多そう。佐野の厄除け大師は知っていたが、隣の足利にも厄除け大師があったとは知ら
なかった。

 駅に近い伊勢町一丁目に入ると、県道の電線は地中化されて見通しが良い。

      
 点灯されたガス灯スタイルの電灯には、足利学校の飾り付けも施されていた。
      

 クラシックスタイルのJR両毛線足利駅前を通過する。


 線路を横断する地下道際に、電気機関車EF60123号が保存展示されていた。駅前
や公園などにSLの展示は多いが、近年まで走っていた電気機関車の展示は珍しい。



 地下道を南に抜けて渡良瀬川沿いを進み、中橋を渡って今日のゴール、東武伊勢崎線の
足利駅に16時30分に着いた。


(天気 快晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 佐野、足利南部、歩行地 佐野市
 足利市、歩数 36,700) 




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嵐山町郊外の杉山城跡を中心にカントリーウオーク(埼玉)

2014-10-13 22:08:53 | カントリーウオーク
 2014年10月12日(日)

 カントリーウオークグループの第217回例会に参加した。集合は東武東上線の武蔵嵐
山(むさしらんざん)駅、4組に分かれて10時12分に北口をスタートする。

 == 旧鎌倉街道沿いに杉山城跡へ ==

 
 線路沿いにむさし台二丁目を進み、旧鎌倉街道上道(かみつみち)の県道296号が東
上線と交差するところでガードをくぐり、線路の南側沿いへ。

        
 左に消防署の見える通りを横断し、次の小さいガード下を再び北に抜けて県道296号
を横切る。保食神社↑の小さな社殿前を過ぎ、刈り入れ後の田んぼを眺めながら進み、県
道際の観音堂↓に行き、最初の小休止とする。


 観音堂をのぞくと、がらんどうな堂内に小さな観音様が祭られ、正面に「比企西国札所
廿八番」の木札があり、県道際には古いお地蔵さんが立っていた。
        

 県道を少しで左へ、志賀(しか)集落を北進する。畑に色鮮やかなケイトウが咲き残り、
民家の庭には狂い咲きのツツジがたくさん花を見せる。納屋の壁面にゴマ殻が干してあり、
あちこちで柿の実が色づく。
    


 白い花が見頃のソバ畑の横を上がって行くと、民家の向こうにこれから行く杉山城跡の
こんもりした森が望まれる。



 正面に見えた宝城寺の本堂を目指して石段を上がると、塀際に、古い本堂に上がってい
たらしい大きな鬼瓦が飾られていた。
    


 本堂の前で水分補給をしていたら、本堂からご住職の奥様が顔を出され、ゴーヤー茶の
ペットボトルを全員に下さる。思いがけぬお接待に感謝し、改めて参拝する。


 再度県道を横断し、セイタカアワダチソウの咲き乱れる草道や田んぼのあぜ道を進み、
市野川(いちのかわ)の橋を渡って杉山城跡の丘陵下に出る。


    
 漬け物石くらいの石を道路際に並べた民家やダリア咲く畑の横などを通過し、杉山城の
南東側に迂回して高台にある積善寺に上がる。

 近くにはヒャクニチソウなどが咲き、眼下に柿の色づく民家や志賀の家並みが望まれる。


 寺は、西暦600年代に役小角(えんのおづぬ)の創建と伝えられ、その後の戦火受難
などを経て、伯耆(ほうき)国(鳥取県)大山寺の祐源和尚が回国修行の折、1573年
に当寺に留まり、中興の祖となったという。


 境内南東側道路際に首のない「苦悲(くび)なし地蔵」が祭られ、傍らにその由来が記
されていた。
        

 その横から、寺の背後に広がる国指定史跡の杉山城跡に向かって上がる。

 「出郭(でくるわ)」と呼ぶコスモスなどの咲く草地から入り、大手口などを経て、
12時05分に最高所にあり城の中心だった「本郭(ほんくるわ)」の広場に出た。


 展望の開けた東側の里山などを眺めながら昼食にした。


 本郭の北端には小さい社殿が祭られ、その横に「史跡 杉山城阯」碑や「国指定史跡 
杉山城跡」の説明板などがある。


 杉山城は、室町から戦国時代の築城(15世紀後半~16世紀初頭)と推定される典型
的な山城で、総面積は約7.6㏊とか。急峻な丘陵を巧みに利用して10余りの郭を理想
的に配置しており、まさに自然の要害と呼ぶにふさわしく、県内でも屈指の名城と評価さ
れているという。

 城の立地や当時の社会情勢から判断して、松山城(東松山市)と鉢形城(寄居町)をつ
なぐ軍事上の重要拠点の一つと考えられ、松山城主上田氏の家臣、杉山主水(もんど)の
居城と伝えられているという。

    
 昼食を終え、城跡案内図に従い大手口から馬出郭、第三の郭、今に残る井戸跡↑、北二
の郭、北三の郭など城の主要部を一巡りし、複雑に入り組んだ土塁や堀により構成される
城構えに当時の高度な築城技術をしのび、あわせてその保存状態の良いことも確認した。

 

 == 粕川沿いから鬼鎮神社へ ==

 ミーティングを終えて記念撮影をして、13時25分に本郭を後にする。


    
 積善寺南東の五差路から、折り返すように東北へ。路傍のコスモスやキバナコスモス、
ヒャクニチソウなどがきれいな彩りを見せ、柿の実もあちこちで色づいている。



 粕川の橋を渡って左岸沿いを少しで、刈り入れ前の田んぼの横を進む。


        
 小さい双体道祖神像の横を抜けてコスモスの咲き乱れる広野集落に入った。

    
 少し迂回して、たくさん並ぶ庚申塔の板碑横から杉林の参道を上がると、八宮(やみや)
神社の社殿があった。


        
 下の県道69号に戻り、少し先で粕川を渡って川の西側の車道に回る。二十二夜塔の地
蔵堂↑の前を過ぎ、再び粕川右岸沿いに東進して太郎丸集落へ。



 県道の南側に、りっぱな門構えのT家と重厚な長屋門の家が並び、どちらの庭にも趣あ
る植栽が見える。県道を渡って淡州神社に入り、小休止した。


 さらに東進して小さい峠を越え、T字路に出て南に向かう。粕川を合流した市野川の橋
を渡り、川島集落の鬼鎭(きぢん)神社に行く。

 畠山重忠が寿永元年(1182)に、菅谷館(すがややかた)の鬼門除けの守護神とし
て鎌倉街道沿いに建立したもので、節分祭や勝負の神として知られている。
    

 節分祭では「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する日本でもここだけの鬼の祭で、境内
は大変な賑わいを見せるという。拝殿前には、大小幾つもの鬼の鉄棒が奉納されていた。
        

 住宅地や工場の横などを抜けて、スタートした武蔵嵐山駅に15時44分にゴールした。

 大型で強い台風19号の接近が心配されたが歩みが遅く、この日は気温も22度前後と
絶好のウオーキング日和となり、比企(ひき)丘陵の静かな里道歩きを楽しんだ。

(参加 17人、天気 曇後晴、距離 11㎞、地図(1/2.万) 武蔵小川、歩行地
 嵐山町、歩数 22,200)




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1964の東京オリンピック開会式から50年

2014-10-11 18:08:12 | アーカイブ
 2014年10月11日(土)

 昨日、10月10日は昭和39年(1964)の東京オリンピック開会式からちょうど
50年の記念すべき日で、メディアでは50年前のことが種々報道されていました。

 私も当日は、東京国立競技場でのオリンピック開会式を見ることができました。

 開会式の入場券は往復はがきで申し込むことになっていて、私も家族5人の名前で申し
込んだところ、幸運にその1枚が当選して入場することができたのです。

         開会式の公式プログラム表紙
        

 当日撮った写真が5枚残っていましたので、ご覧いただくこととします。

 最初は選手入場に先立つブラスバンドの入場。


 私の席は、バックスタンド中段のやや第2コーナー寄りでした。次々に各国の選手が入
場してきます。


 最後は、開催国の日本選手団の入場。


 メインスタンド前に並ぶ選手の列。全選手の入場を終えた頃かもしれません。


 1か月前の9月10日に69歳で亡くなられた最終ランナー、坂井義則さんが聖火台に
点火した後の燃える聖火。右後ろにふり返って撮ったものです。


 当日のことを記録した短い日誌を読み直してみたら、以下のように書いてありました。


 10月10日(土) 快晴 朝15℃ 夜 23℃

 オリンピック開会式の日、前日までの雨上がり、うそのように雲一つない快晴。2時間
年休で正午ごろ国立競技場に入る。緑の芝生に赤のアンツーカー、14時ギリシヤを先頭
に94ヶ国入場行進。赤青黄茶さまざまの服装で大小選手団の美しい色の行進。白と赤の
日本選手団が最後に入り、開会宣言などののち聖火入場は坂井義則君。小野選手の宣誓な
ど2時間にわたる音と光の華麗なパレードを終わる。世界を一つに結んで若さあふれる集
い、忘れられぬひとときだった。

 その後、10月18日に同じ国立競技場で行われた陸上競技を観覧しました。この日は
あいにく冷たい雨の日でした。当日のプログラム表紙。
        

 大会期間中発売された東京都交通局の記念乗車券(都電用)も残っていました。 
   

 以下は、大会後に刊行されたアサヒグラフと毎日グラフの表紙。


    

        

    

 さて、6年後の2度目の東京オリンピックも観戦することができるでしょうか……

 (一部10月13日に追記)




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JRの駅からハイキングで鉄道発祥の地 横浜を歩く(神奈川)(続き)

2014-10-10 16:09:21 | JR東日本駅からハイキング
 2014年10月8日(水) 〈続き〉

 JR根岸線に平行する流れにかかる吉田橋は、明治2年(1869)に英国人土木技師
ブラントンにより架け替えられた日本最初のトラスト鉄橋で、「鉄(かね)の橋」と呼ば
れて市民に親しまれたとか。現在の橋の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したという。


 橋の西側から「イセザキモール」と呼ぶ賑やかな通りとなり、歩行者天国の通りの両側
には活気ある商店や飲食店などが続く。


 その一角にあった魚貝・海鮮料理店の磯丸水産で昼食をした。


 伊勢佐木町3丁目交差点を右折し、長者橋際から桜並木が続く大岡川左岸沿いに進む。



 二つ目の黄金橋を渡って西へ、結構急な斜面を上がって東小の横を通過し、野毛山公園
に入る。

 公園は、かつて生糸貿易で材を築いた豪商・原善三郎と茂木惣兵衛の屋敷跡。関東大震
災の復興事業として1926年に日本庭園、洋式庭園などが造られ、2010年の再整備
により現在の公園になったという。

 台地上にあり、展望台に上がると、みなとみらい地区を初め横浜の中心部が一望できる。


 展望台の先には、1964年の東京オリンピック大会に、横浜市がサッカー、バレーボ
ール、バスケットボール会場となったことを記念したモニュメントがある。
        


 現在は無料開放しているという野毛山動物園前を右へ少し下り、公園の北側のエリアに
入る。植栽豊富な一隅に、佐久間象山碑があるが、碑文は判読しにくい。
        

 遊歩道を半円状に回った先の斜面には、昭和7年(1932)にラジオ聴取契約者100
万人を越えた記念に、全国に建てた一つという「ラジオ塔」があった。
        

 近くには、かつてこの地に住み、この公園からの情景など数々の句を詠んだという中村
汀女の句碑もあり、「蕗(ふき)のたう おもひ おもひの 夕汽笛」と刻まれていた。
    

 公園の北東端に下ったところに公園の沿革が記されていて、関東大震災の復興事業、第
二次大戦中の陸軍の使用から戦後一時米軍に接収されたこと、その後貿易博覧会場、第4
回国体会場、野毛山遊園地など多彩な役割を担ったことが詳細に記述されていた。

 野毛坂交差点から北進して。次の高台にある伊勢山皇大神宮へ。もとはこの後行く掃部
山(かもんやま)公園にあった大神宮を、明治3年(1870)に神奈川県知事の告諭で
この地に移し、横浜の総鎮守と定めたとのこと。

 ひっそりした境内、拝殿では家族連れの参拝者が、おはらいを受けていた。

        
 社殿の右手、双体道祖神の立つ横の階段を北に下り、県立青少年センターの北側を緩や
かに上がると、横浜能楽堂の前に出た。


 2階から能楽堂が見られるようなので入り、白木造りの舞台や客席などを一望した。




 能楽堂に続く一帯の緑陰が掃部山公園。江戸時代は「不動山」と呼ばれ、明治に入り鉄
道建設の拠点となり、来日した外国人技師の官舎が設けられて「鉄道山」と呼ばれたとか。

 「掃部山」に変わったのは明治17年(1884)で、旧彦根藩士雄志が、元藩主の井
伊直弼(いいなおすけ)の記念碑建設のため購入して公園とし、大正3年(1914)に
井伊家から横浜市に寄贈されたという。

    
 公園上部中央に井伊直弼像が立ち、近くに井伊家寄贈の水泉もある。


 公園の東側から紅葉坂を下り、桜木町駅北側で線路をくぐって東に抜ける。横浜ランド
マークタワーのそばから、平行する広い通り「みなとみらい大通り」に入る。


 1㎞余り進んで、とちのき通り西交差点を左折し、横浜三井ビル2階にある今日最後の
ポイント、「原鉄道模型博物館」に入館する(入館料1,000円、駅ハイ割引900円)。

 鉄道発祥の地横浜に2年前の2012年7月に開館したもので、原信太郎が製作・所蔵
している世界一といわれる膨大な鉄道模型や鉄道コレクションを公開している。
    

 まずは特別企画の「ありがとう!SHINKANSEN展」のコーナー。東海道新幹線
開業当時の時刻表や運転士マニュアル、貴重なNo1番の切符40枚や当時の写真などが展
示されている。
        


 ほかに「原信太郎と鉄道史」のパネルや、原氏所蔵及び自作の日本、ヨーロッパ、アメ
リカなどのおびただしい鉄道模型が展示され、歴史的に貴重な車両も数多い。
        

    

 奥の一番大きな「いちばんテツモパーク」と呼ぶ部屋には、1番ゲージの蒸気機関車、
電気機関車や電車、市街電車などたくさんの車両と、市街地や駅、郊外などの巨大なレイ
アウトがあり、朝から夜へと移り変わる照明の中で次々に列車が運転され、鉄道ファンに
はたまらない空間である。










 ほかに、かつての横浜駅周辺を再現した「横浜ジオラマ」や実物の鉄道プレートやコン
トローラーなどもあり、40分ほど観覧した。


 隣の日産自動車ビルの横から「はまみらいウオーク」と呼ぶ遊歩道↑で帷子川(かたび
らがわ)を渡り、スカイビルの横から地下道に入る。ゴールの横浜駅には16時20分に
着いた。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 JR東日本駅からハイキング地図、歩行地 横浜市中
 区、西区、歩数 21,900)




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