〈その2〉=歴史民俗資料館周辺の社寺や公園など=
今日の目的は「中野区立歴史民俗資料館」で開催中の企画展「おひなさま展」の観覧で、
その模様は前回紹介したが、その前後に回った社寺や公園について今回紹介する。
西武新宿線上り電車で10時34分に沼袋駅で下車して、歴史民俗資料館に向かう前、
北口から線路の地下化工事中の線路沿いを東進し、近くの「沼袋氷川神社」に向かう。

200mほどで「沼袋氷川神社」の大鳥居前へ。

鳥居を入ると、右手の斜面にアセビが咲く。

石段を上がり二の鳥居をくぐり、正面の拝殿に参拝した。

沼袋氷川神社(正式には「中野沼袋氷川神社」)は、正平元(1346)年に武蔵国一
の宮の大宮(現さいたま市)の氷川神社から分霊されたと伝えられているよう。

拝殿の左手前に神楽殿があり、その手前の二の鳥居を入って左手に、「道灌杉跡」の跡
と、その説明パネルが立っている。


二の鳥居下まで戻り、平成21(2009)年に開設したという、西側に並ぶ「中野
七福神」にも参拝した。


神楽殿の近くには、参拝記念の撮影用らしい大きな絵馬が2つ並んでいる。

近くにある「日露戦役祈念碑」の文字は、「元帥侯爵 山県有朋書」と刻まれていた。


境内西側には「三本願い松」松があり、その奥には摂社の天王社と稲荷神社が。

東側、神楽殿の左手には大きなクスノキも。

拝殿の右手にある授与所には、たくさんのお守りや神札、絵馬などがあり、その中から
「三本願い松 健康御守」を分けていただいた。

隣接する社務所ではおみくじを頒布していて、このようなおみくじも。


境内を一巡したので、西側の裏参道鳥居から沼袋氷川神社を後にした。

なお、この鳥居は2011年の東日本大震災で倒壊後、翌2012年に再建したよう。
すぐ北側のT字路を左折して西へ少し進み、「禅定院」の山門前へ。

左手に、古い本堂にあったらしい大きな鬼瓦が保存されていた。

山門を入った右手には古い六地蔵が並んでいる。

正面の本堂は、最近改築されたようで真新しい。

禅定院(ぜんじょういん)は真言宗豊山派の寺で、1362(貞治元)年の開山とか。
上沼袋村の旧家 伊藤家の菩提寺だったので「伊藤寺」とも呼ばれ、伊東氏は鎌倉幕府
北条氏の家臣で北条氏滅亡の際に当地に落ち延び、一族の菩提を弔うために創建したよう。
境内には、推定樹齢600年で区内で一番大きいイチョウの大木がある。


本堂前の河津桜だろうか、見頃を少し過ぎた感じながら咲き残る。


本堂に参拝し、少し空いていた正面から本尊の不詳明王やその周辺を撮らせてもらう。


境内の石灯籠際でアセビが花盛り。


境内西側のかなりのエリアは牡丹園になっていて、花芽が膨らむ。


南西側、塀際のツバキにはたくさんの花が残る。

この寺にも西門があったので、西門を抜けて「禅定院」を出た。

西側の道路を北に少しで、「百観音・明治寺」の山門を入る。

山門を入った右手一帯は、「中野区立百観音公園」になっていた。

本堂は境内西側に東向きに立っている。

明治寺は、 明治45(1912)年に明治天皇の病気平癒を祈り観音菩薩石像を建立
されたのが始まりで、その後、一大観音霊場を築きたいと呼びかけ、多くの賛同者により
大正5(1916)年までに百観音が整ったよう。
百観音とは、西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所の合わせて100の札
所の仏像の写しを祭ったたもの。
これら全てを参拝すると、百観音札所のすべてをお参りするに等しいご利益が授かるこ
とになるといわれ、関東大震災や第二次世界大戦の戦災を受けたが観音像の建立はその後
も続き、現在は180体あまりの観音像が境内に建立されているという。

正面の扉を開けて参拝した。


境内東側から北側一帯にわたり、芝生や樹木などの間に観音立像が祭られていたので、
柵を開けて入り、敷石伝いに回ることにした。






北側のヒカンザクラは咲き出して間もない感じ。


北側中央部ではサンシュユが見頃。

西北側のソメイヨシノはまだ枯れ枝のまま。


一巡し終えたので、境内北西側の山門を抜けると右手の道路際には多宝塔が。

左手には、玉井稲荷社が祭られている。

その横から北側の道路に出て左折、すぐ先から北東に延びる住宅地の間の細い車道へ。

民家の一角ではボケが。

都道440号・新青梅街道に出た。

近くの信号のある交差点で北側の歩道に回り、近くの「中野区立歴史民俗資料館」の観
覧については前回紹介の通り。
12時30分過ぎに歴史民俗資料館を出て西側の道路を北へ、突き当たりのT字路を右
折してすぐ先、変形五差路際へ。


その東北側の狭い一角は「お経塚」で、元文3(1738)年建立の地蔵菩薩石像と、
安永6(1777)年建立の馬頭観世音菩薩石像(左の小さい方)が並んでいた。


お経塚の横から通りを北へ、正面に中層の大きな集合住宅を見ながら進む。


途中の民家の前に咲くボケと鉢花群。

道路の突き当たりが、江古田3丁目の「江古田(えごた)氷川神社」(正式名称は「氷
川神社」のみ)で、「江古田おひかわさま」として親しまれているよう。

10段の石段を上がり正面の拝殿に参拝する。

右手には、中野区指定有形文化財の神楽殿が。

当社の創建は寛正元(1460)年で、江古田村の鎮守だったよう。現在の神楽殿は弘
化4年(1847)の建築で、昭和7(1932)年までは本殿として使われたとか。
毎年10月の例祭で奉納される三匹獅子舞は「江古田の獅子舞」として知られ、東京都
の無形民俗文化財に指定されているという。
区立歴史民俗資料館と同様に、この地の名主だった山崎家ゆかりのものがあるよう。
その南側には山車蔵も。

保存されているのは、都の無形民俗文化財「江古田獅子舞」のもののよう。
境内にはケヤキなどの樹木も目につく。

西側の大ケヤキの周辺には、幾つかの摂社が並んでいる。

それらの横に立つ「日露戦役記念碑」は、「東京衛戍総督 陸軍大将 子爵 川村景明書」
と刻まれていた。

ちなみに東京衛戍(えいじゅ)総督部は、明治37(1904)~大正9(1920)
年に東京に置かれた、天皇直属の陸軍の組織だったよう。
正面鳥居から出て、西側の「合同住宅前」交差点から北に延びる道路へ。

周辺には「プライムメゾン江古田の森」と呼ぶ大規模な中層住宅群が並ぶ。
13時30分を過ぎた。周辺に昼食場所はなさそうなので、住宅群のひとつの1階に
あった「ファミリーマート中野江古田の森店」で弁当を求めた。

突き当たりのT字路を左折して西へ、沿道の数本の桜は葉が出始めていたがまだ見頃。

その左手から北側一帯に広がる「江古田の森公園」の西南端付近に入る。

奥には高木の木々が林立し、その下を緩やかなカーブを描いた園路が続いている。

少し東側に回り込み、老人介護施設のある大きな中層ビルの近くのベンチで昼食に。
新型コロナで中断し、そのまま2年前に解散したカントリーウオークグループの例会が
無くなり、コンビニ弁当での昼食は5年ぶりくらいになるだろうか・・・

その間にコンビニ弁当も多彩になったようで、買ってきた盛岡風冷麺はおいしかった。
昼食後、木々の下の園路を東北方へと金網の張られた塀沿いに進む。


南へとカーブした園路沿いには、災害時に備えて設けられた↑非常用トイレが10数
個続き、近くの地下にある震災対策用応急給水施設の給水槽についてのパネルと、機材
倉庫があった。


さらに東北側へ金網沿いの園路を進むと、アセビとハナモモが咲く。


江古田の森公園の歴史や案内図などのパネルの近くから、公園を出た。


南側の道路を東へ、妙正寺川の橋に向かって下る。
妙正寺川の江古田憩い橋から見下ろした上流側。この冬の降水量は極めて少ないので、
流れはコンクリート張りの中央部にわずかに見えるのみ。


そばの交差点を左折し、江古田通りを北へ向かい、江原二丁目交差点で都道8号・目
白通りに出て、下を走る都営大江戸線の新江古田駅に14時30分頃着いた。


14時38分発 光が丘行き電車に乗り、次の練馬駅で西武池袋線へ。
14時48分発の小手指(こてさし)行下り電車に乗り換え、15時45分頃帰宅した。


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