あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

所沢航空記念公園のロウバイがかなり見ごろに(埼玉)

2020-01-31 16:43:44 | 所沢だより
 2020年1月31日(金)

 つい最近新年になったと思ったらもう1か月経過してしまい、後半のアップができませ
んでした。

 昨日、一昨日と4月並みの暖かさだった首都圏ですが、今日は晴天ながら北寄りの風が
冷たい1日となりました。

 市内ウオーキングで所沢航空記念公園に行き、ロウバイ園に回ったら、限られた木でし
たがかなり花が見ごろになっていました。






    

         



 見ごろになっている木は、主に西側、日本庭園寄りのエリアが多いよう。






    

    









         





         

 東側はまだつぼみの木が多いので、2月に入ってもしばらくは花が楽しめそう。




 ロウバイ園の前に入った日本庭園の一角にある、彩翔邸の前の紅梅と白梅は、まだ咲き
始めでした。
    

        



    



 このあとは、いつものように所沢駅方面に向かいました。

 




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御茶ノ水から上野へ、神田明神や旧岩崎邸庭園など巡る(東京)

2020-01-19 21:27:21 | 江戸・東京を歩く
 2020年1月14日(火)

 1月2日の七福神めぐりの際に品切れで入手できなかった「ウオーキングダイアリー
2020」を求めるため、文京区湯島1丁目にある日本ウオーキング協会に行くことにした。

 東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅に11時25分頃下車した。東へ少し進んで北への階
段を上がると、湯島聖堂があるので南側の入徳門から入って参拝する。

 湯島聖堂は、5代将軍綱吉が儒学の振興を図るため、元禄3(1690)年に聖堂を創
建したのが始まり。寛政9(1797)年に幕府直轄学校として「昌平坂学問所」を開設
した。

 明治維新により聖堂・学問所は新政府の所管となり、当初は大学校・大学と改称されな
がら存置されたが、明治4(1871)年にこれを廃して文部省が置かれることとなり、
林羅山以来240年の歴史を閉じている。

 大正11(1922)年に国の史跡に指定されたが、翌年の関東大震災で入徳門と水屋
を残してすべてを焼失した。昭和10(1935)年に寛政時代の旧制を模して、鉄筋コ
ンクリート造りで再建したのが現在の湯島聖堂だという。


 階段を上がって回廊になっている杏壇門(きょうだんもん)を入ると、正面の建物が孔
子を祭る大成殿(たいせいでん)である。

 以前来た時には東西の回廊で展示があったが、今日は何も無く閑散としていて、参拝者
も少ない。

 参拝を終えて杏壇門の右(西)側を見たら、「宥座之器(ゆうざのき)」というのが目
に入る。
         
 宥座之器とは、「座右において戒めとする器(うつわ)」という意味で、「虚なればす
なわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆る」器のこととか。つまり、
空の時は傾き、ほどよく水を入れると正しく水平を保ち、水をいっぱい入れるとひっくり
返る器のこと。

 孔子はこの器を見て弟子たちに、「満ちて覆らない者はいない」と教訓したよう。この
宥座の器は、人生においてすべてのことにおいて、無理をすることや満ち足りることを戒
め、謙譲の徳の大切なことを教えていたという。

 杏壇門の外には、合格祈願を祈る絵馬がたくさん奉納されていた。


 道路側の西門から出て北側の交差点で国道17号・中山道に入り、南東に少しで神田明
神前を過ぎ、すぐ先の日本ウオーキング協会でウオーキングダイアリーを求めた。

 この後、周辺を少し回ることにして、まずはそばの神田明神へ。鳥居の左手にある天野
屋では、名物の甘酒を味わう人がいっぱい。


 参道側のショウウィンドウには、古い電気機関車の模型などが展示されていた。


 神田明神で親しまれる神田神社は江戸の総鎮守。東京都心108町会の総氏神様で、東
京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場、魚市場の人からもあつく崇敬さ
れているとか。

 創建は天平2(730)年、江戸東京で最も歴史ある神社の一つで、家康が幕府を開い
て江戸城を拡張した時、江戸城から表鬼門にあたる現在地に遷座したようだ。

 それ以降、幕府から庶民にいたるまで多くの人の崇敬を集め、明治になってからは皇居・
東京の守護神として明治天皇も参拝されたという。


 総ヒノキ造りの随神門を入ると、正面に国指定重要文化財で日本初の本格的な鉄骨鉄筋
コンクリート・総漆塗りの御社殿がある。


 左手の近代的ビルは、一昨年12月にオープンした文化交流館。


 1階には、御札や御守りの授与所、いろいろなお土産の販売所、飲食が楽しめるカフェ
などがあった。



 文化交流館の前には大きな大黒天が祭られていて、新年用に設けられた茅の輪をくぐり
お参りできる。御社殿側には、これも新年のものらしいハート型のおみくじの結び場が。


 御社殿の横や背後には幾つもの摂社が祭られていたるので、左手(西)から裏手(北)
へと回ってみることにした。


 最初は魚河岸水神社↑で、その先に小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社↓、江戸神社と続
いている。


 江戸神社


 さらに進むと浦安稲荷神社の先に金刀比羅神社と三宿稲荷神社が並び、↓末広稲荷神社、
八幡神社や富士神社など7社を合祀した合祀殿などが祭られている。


 金刀比羅神社の背後辺りに、千代田区保存樹のイチョウが立つていた。
     

 北側に下る階段の近くには、小唄塚と小唄作詞塚がある。江戸小唄の中には当神社の神
田祭が随所に取り入れられていることもあり、昭和の小唄作曲に大きな足跡を残した吉田
草紙庵(本名:吉田金太郎)をこの地に顕彰するなどにより建立されたという。
     

 その、北に下る裏参道の鳥居をくぐって神田明神を後にした。


 北側の蔵前橋通りを東へ、妻恋坂交差点で左折して北に延びる昭平橋通りを少し進み、
三組坂下から三組坂上へと坂道を上がる。

 右折して北へ、突き当たりが湯島天満宮や湯島天神として知られる湯島神社である。

 正面の表鳥居は寛文7(1667)年の建立で、都指定文化財。下脚部に唐獅子頭部の
装飾が施されていて、鳥居としては特異なもののよう。
    

 雄略天皇の勅命で御宇2(458)年創建と伝えられる古社。正平10(1355)年
には菅公(菅原道真)の遺徳を慕い、福岡・大宰府の天満宮から勧請(かんじょう)した。

 文明10(1478)年に太田道灌が再建し、家康が江戸城に入ると篤く崇敬し、湯島
郷のうち5石を朱印地として寄進したという。


 今日は閉店している参道両側の露店の間を進み、本殿に参拝する。


 ここも合格祈願の絵馬が何か所もあり、何れも幾重にも重なった数知れぬ絵馬が奉納さ
れていた。


 境内南西側には古木の並ぶ梅林があるが、まだつぼみのまま。


    

 その一角に、旧鍛冶橋の欄干を台にしたという日時計がある。御大典記念に奉納された
と記してあり、昭和の御大典かと思われる。
         


 本殿左手から背後に回ると、重そうなおみくじ納所があり、本殿の背後、北側の回廊に
は笹塚稲荷↓と戸隠神社が祭られていた。


 その横から急階段の夫婦坂を下って湯島天満宮を去る。


 ちなみに、湯島天満宮では1月25日(土)に「うそ替え神事」がある。知らず知らず
のうちについてしまった嘘を、天神さまの誠(まこと)の心に替えていただき、前年の災
厄や凶事などを嘘にして今年は吉となることを祈って行われるのだという。
         

 東側の天神下交差点から北へ、不忍池の南側になる池之端1交差点から池に沿って北西
に少し進み、折り返すように回り込み、国指定重要文化財である旧岩崎邸庭園に行く。

 昨日の成人の日(月)の翌日なので、休館かとも思いながら行ったが、休館は年末始の
4日間(12/29~1/1)みで、あとはいつも開館しているよう。

 今日これまでに回った湯島聖堂、神田明神、湯島天神には何度か訪ねているが、ここ旧
岩崎邸庭園は初めてである。

 南東側にある正門を入り、北西側へと緩やかな斜面を上がると券売所のそばに推定樹齢
400年、幹周7.4mという大イチョウが目に入る。
        
 江戸時代、この地は越後高田藩 榊原家の屋敷だったようで、当時からこの地にあった
と推定されているようだ。

 受付で入園料を払い、チケットを受け取り正面の洋館に向かう(大人400円、65歳
以上200円)。

 旧岩崎邸庭園は、岩崎弥太郎の長男で三菱第3代社長の久弥の本邸として造られたもの。
往時は約1万5千坪の敷地に20棟もの建物が並んでいたとか。現在の敷地は1/3とな
り、現存する建物も洋館、和館大広間と撞球室(どうきゅうしつ)のみとか。

 洋館は、ジョサイア・コンドルの設計により明治29(1896)<年に完成したとのこ
と。17世紀の英国ジャコビアン様式の見事な装飾が随所に見られ、イギリス・ルネサン
ス様式やイスラム風のモティーフなどが取り入れられているという。


 1階正面玄関から入り、ホールを抜けて大食堂、客室、婦人客室、サンルーム、書斎、
などを順次観覧する。









 サンルームからは、広々とした芝生広場や外縁の木々などが一望できる。




     

 
 2階に上がると、ホール、集会室、2つの客室、婦人客室などがあった。
     





 天井の装飾


 2階のベランダからも、庭園が見下ろせる。



 次に、南西側に廊下で連絡している和室に入り、広間などを見た。




 そのあと和館から庭園に出て、それぞれの建物や庭木などを眺める。




 最後に撞球室(ビリヤード場)前に回り、外から内部を観覧した。

 撞球室は、明治30(1897)年以降に完成したと言われ、設計は洋館と同じジョサ
イア・コンドルによる木造建築。


 校倉造りの壁、刻み入りの柱、軒の深い大屋根など、アメリカの木造ゴシック様式の流
れを汲むデザインとか。

 コンドルは「スイス・コテージ」と呼んだようで、玉突き場天井のトラス構造↑などに
スイスの山小屋のような特徴が見られるようだ。


 建物と庭園の一巡を終え、13時57分に旧岩崎邸庭園を出た。今日の観覧はこのくら
いとして、この後は上野駅に向かうことにした。

 近くに、昭和前半期の建築家かと思われる木造民家が残っていた。


 東に向かい、池之端仲町商店街を抜ける。


 国道437号・中央通りに出て北へ進み、京成上野駅前を通過して、上野公園に向かう
と2頭のパンダの飾り物があった。



 上野公園に入って右手の階段を上がり、久しぶりに西郷隆盛像を見る。
     

 その背後に大きな墓が見えたのでそばに行くと、江戸末期の慶応4(1868)年にこ
こ上野山内で大村益二郎率いる新政府軍・東征軍と戦って敗れた、彰義隊の墓だった。


 その先からは東方に東京スカイツリー(634m)が望まれた。
   


 咲き出したスイセンの横を進んで、JR上野駅公園口に14時23分に着いた。


(天気 晴一時曇、距離 5㎞、地図 なし、歩行地 文京区、千代田区、台東区、歩数
 9,000)



 今日は地図も用意せずに出かけ、思いつきで近くの見どころと思われるところを訪ねた
のだが、回り道になったりした。

 帰宅後に道路地図や入手した資料などを見たら、湯島天神の近くには今年のNHK大河
ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの春日局の菩提寺である鱗祥院(りんしょういん)があり、
さらに今日のコースの西側、文京区湯島や東京大学を中心にした弥生(やよい)辺りには
幾つもの寺院や博物館、美術館などもあり、改めて計画をたてて巡ってみたい。






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成人の日に川越スタンプラリーへ(埼玉)

2020-01-15 21:30:14 | ウオーキング
2020年1月13日(祝・月)

 新成人を祝うかのような快晴となった令和最初の成人の日は、最近入手したリーフレッ
ト「川越スタンプラリー かわごえん」に参加することにした。
     
 このスタンプラリーは1月4日(土)から3月1日(日)まで実施され、川越市内6カ
所のパワースポットや史跡・旧跡を巡るもの。すべてのスタンプを集めるとオリジナル商
品がもらえる(なくなり次第終了)という。


 西武新宿線の終点、本川越駅に10時22分に着いた。構内にある本川越駅観光案内所
で、スタンプラリー用の小冊子「かわごえんスタンプラリー」と「時薫るまち 川越散策
マップ」をもらう。
         
 6か所をどのような順序で回るかは自由なので、冊子と地図を見ながら回るルートを大
まかに決め、10時35分に本川越駅東口をスタートした。

     リーフレット裏面の地図のうち、必要部分のみを示す。
    


 北に延びる中央通りは久しぶりだが、拡幅されて電線も地中化されていた。行き過ぎた
連雀町(れんじゃくちょう)交差点まで進んで西へ、次の交差点で南へと迂回して中央小
の南西角をさらに右折して西へ向かう。


 カトリック川越教会があり、入口右手のコンクリート製の岩の中に聖母マリア像が祭ら
れていた。
     


 古い建物が目に入る通りを川越市駅入口交差点や六軒町交差点など右折を重ね、六軒町
会館の横を入ると、児童公園の奥に最初のスタンプ地の「六塚(むつづか)稲荷神社」が
ある。

 このポイントは分かりにくい場所とのことで、観光案内所で案内チラシももらったのだ
が、よく見なかったためにウロウロすることになった。

 六塚稲荷神社は、川越の町にあった6つの塚を1か所にしてお稲荷様を祭ったようで、
川越城が築城された長禄元(1457)年にはすでに鎮座していたらしい。

 拝殿は小ぶりで、南側は先ほど立ち寄ったカトリック教会。その教会を背に、「川越町
駅の碑」が立っている。

 碑には、現在の東武東上線川越市駅を建てた時に、六軒町の人たちが合わせて5千坪も
の土地を寄付したことが記されているようだが、碑文は判読し難い。

 その前に「水準点」表示もあり、地形図では20.0m水準点だが、水準点らしいのは
見つからない。

 公園の南西側には、10月の川越祭りに出る三番叟(さんばんそう)の山車蔵(だしぐ
ら)もあった。


 六軒町交差点に戻り北へ、二つ目の交差点を右折し少し戻って東進し、二つ目のスポッ
ト、「連馨寺(れんけいじ)」に南側から入る。

 連馨寺は、室町時代に創建された歴史ある浄土宗の寺。徳川家とも深い関わりがあり、
葵(あおい)のご紋をつけることが許された数少ない寺院のひとつだという。

     
 本堂前に真っ赤な「おびんづる様」が祭られている。自分の身体の悪いところと同じ場
所をなでると直してくれる優しい仏様とか。その横には、にこやかな和顔地蔵尊も並んで
いた。
          

     
 川越七福神の福禄寿神の寺でもあり、境内には子育水子地蔵菩薩も祭られ、焼だんごや
太麺焼きそばの店もある。


 東側の中央通りに出て北へ、仲町交差点の先は、埼玉県内で唯一の国の伝統的建造物群
保存地区。電線は地中化され、どっしりとした土蔵造りの建物が両側に続いていて、多く
の観光客で賑わう。




 ただ、市の中心部を南北に貫く主要道のため、車の交通量が多いので注意が必要だ。



 仲町交差点周辺を少しだけ眺め、交差点から東の通りへ。

 こちらも古い洋館や土蔵造りの建物が続き、その土蔵造りのひとつが観光案内所になっ
ていた。




 観光案内所


 次の細い通りを北に少し進むと、三つ目のポイント、「旧山崎家別邸」が東側にあった。

 仲町交差点の角に蔵造りの店舗がある、川越を代表する老舗和菓子屋「亀屋」の5代目
当主・嘉七氏の隠居所だった別邸。昨年9月末には国の重要文化財に指定されている。

 母屋と外周路は公開されているので、スタンプ押印前に管理棟で入場料(100円)を
払って観覧する。



 南に延びる外周路から庭園を少しだけ眺めて母屋に入り、洋室や和室など幾つかの部屋
を回って立派な建物や調度品などを眺めた。












 同じ通りを北へ、近くの民家にプラネタリウムが併設されている。



 T字路に達して左折すると再び観光客が増え、成人式を終えた新成人らしい姿も。


 その一角に川越のシンボル、時の鐘がある。 
     
 寛永年間(1624~44)、川越藩主、酒井忠勝により建てられたと伝えられている
よう。現在の鐘楼は、明治26(1893)年の川越大火の翌年の再建。環境庁の「残し
たい日本の音風景百選」に選定されている。


 時の鐘のやぐらを入った突き当たりには、小さい社殿の薬師神社が祭られ、その前で獅
子舞が演じられていたが、人だかりで見ることはできなかった。


 西側の中央通りに回り、蔵造りの建物が続き観光客で賑わう通りを北進する。







 途中の小江戸横丁と呼ぶ建物内にも立ち寄ってみた。


 伝統的建造物群保存地区の北限近くには川越まつり会館がある。10月の川越まつりに
曳(ひ)かれる山車を展示しているが、観覧は省く。


 まつり会館の北側辺り、道路を挟んで東に延びる細い通り、しあわせ稲荷小路(こうじ)
へ。右手に大きなクスノキがあり、その下に稲荷神社は祭られていた。



 左側にある寿司店「幸すし」↑のもので、お参りした人に幸せが続出したため、「しあ
わせ稲荷」と呼ばれるようになったという。


 東北東に少しで市役所前交差点に出た。市役所の南西側、交差点際に「川越城大手門跡」
の標石が立ち、そばに、狩り姿の「太田道灌公像」がある。
     

     
 川越は古代からこの地方の文化の中心地だったが、太田道灌は長禄元(1457)年に
川越城を築き、さらに江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、「川越は江戸の母」
と呼ばれたという。


 市役所西側を走る県道51号を裁判所前公交差点まで進んで東進し、4つ目のポイント、
「川越氷川神社」に入る。

 およそ1500年前の古墳時代に創建されたと伝えられる古社で、川越の総鎮守。「縁
結びの神様」として多くの人に崇敬され、仕事や人間関係などさまざまな「良縁」も結ん
でもらえるという。


 境内はたくさんの参拝者で賑わい、赤鯛(たい)を釣り運勢を占う「一年安鯛(あんた
い)みくじ」や、流れに人形(ひとがた)の小舟を流す「人形流し」をする人も。

 高さ15m、木製では国内随一の大きさという大鳥居から出た。


 氷川神社前交差点から南進して郭町(くるわちょう)交差点へ。少し東に向かい、博物
館前交差点を南に入る。


 川越城本丸御殿↑の東側が、5つ目のスタンプのある「三芳野(みよしの)神社である。


 三芳野神社は「お城の神様」として庶民の信仰も篤(あつ)かったが、江戸時代には普
段は立ち入れなかったとか。城内に入り参拝できたのは年一度の大祭の時か、七五三の祝
いの時だけだったよう。

     
 そんな庶民の気持ちから、わらべ唄「通りゃんせ」が生まれ、境内西側に「わらべ唄発
祥の所」碑が立ち、そばにスタンプ台がある。

     
 境内は、クスの古木やケヤキの高木が目につく。「とおりゃんせ」に歌われた参道を南
に抜けて神社を後にした。


 住宅地や上下水道局庁舎横などを南南西に進んで喜多院(きたいん)交差点を横断して、
だるま市で有名な喜多院に入る。

 「川越大師」として親しまれる寺院。3代将軍家光が、江戸城から家光公誕生の間や春
日局(かすがのつぼね)化粧の間などを移築しており、徳川家とゆかりが深く、多くの建
物が国の重要文化財に指定されている。


 広い境内には露店が並び、参拝者も多い。慈恵堂前で手を合わせ、東南側の鐘楼門から
出た。


 南側、近くの中院(なかいん)にも立ち寄る。

 中院は、天長7(830)年に慈覚大師が創建。永仁4(1296)年に北院(現喜多院)、
南院とともに再興されたとか。寛永10(1633)年に仙波東照宮建造の際に当地へ移
転したという。


 境内北側の道を入って本堂に参拝し、南側の道を折り返すと、島崎藤村が記した「不染」
という記念碑があり、背後の建物には「不染亭」の表示がある。

 藤村の義母、加藤みきはここで生まれて上京後、再び戻りここで没したようで、みきは
茶道の師匠で「不染」と号したとのこと。それにちなんだ記念碑らしい。


 中院の南側を西進して川越工高の南西で県道51号を横断し、南東側にある最後、6つ
目のスタンプ地である「川越八幡宮」へ。


 創建からおよそ千年になる古社だという。拝殿は東向きで、右手には葉書の木として知
られるタラヨウが葉を広げ、その前に「厄割桃(やくわりもも)」と呼ぶ厄落としの祈願
所がある。
     


 拝殿左手に並ぶのが民部(たみぶ)稲荷神社。「相撲稲荷」とも言われ、「足腰の健康」
に御神徳があるようなので、八幡宮とともに参拝した。
     
 その前に、「縁結びイチョウ」が立っている。明仁上皇が生まれた昭和8(1933)
年、男イチョウと女イチョウを植樹したが、いつしかその2本は寄り添い、1本に結ばれ
たことに由来するよう。

 これで6か所すべてのスタンプを押し終え、14時過ぎに西側参道から神社を後にする。

 西側の八幡通りを北に少し、一番町通りを抜けてクレアモールと呼ぶ川越で一番の繁華
街に出た。


 角にあった三ツ矢堂製麺というつけ麺の店に入り、遅い昼食をする。注文したのは「と
ろろ山菜つけめん」で、おいしくいただく。
    


 通りを挟んだ紀伊國屋(きのくにや)書店や北側の西雲寺(さいうんじ)に少しの時間
立ち寄った。


 本川越駅には15時02分に戻った。


 観光案内所でアンケートに記入してスタンプ帳を提示し、↓オリジナル商品の手鏡をも
らう。これは表面で、ふたを開けると鏡面がある。
         

 15時17分発の西武新宿線上り急行電車で帰途につく。

 最初の六塚稲荷神社と3番目の旧山崎家別邸、そして最後の川越八幡宮以外は何度か
訪れたところだが、新しい発見もあり、いつ来ても川越は魅力ある町歩きができる。

(天気 快晴、距離 8㎞、地図 「時薫るまち 川越散策マップ」、歩行地 川越市、
 歩数 15,600)
 
 




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元旦から新たに開場された所沢七福神めぐりへ(埼玉・所沢)

2020-01-07 17:27:32 | 七福神めぐり
 2020年1月4日(土)

 令和初の正月元旦から所沢に初めて開場した、所沢七福神めぐりに出かけた。

 リーフレットのコースは、西武池袋線・新宿線の所沢駅から西武狭山線の下山口駅へと
東から西へ向かっているが、私は最寄りの西武池袋線西所沢駅からとして、10時20分
にスタートした。


 駅東側の踏切を渡り、線路の南側沿いを東進する。変電所手前で台地下に下り、釣り堀
を過ぎると最初の弁財天の寺・永源寺(えいげんじ)である。

 弁財天は境内の西側手前、道路斜向かいの池の弁天堂に祭られていた。


 永源寺の弁在天は室町末期の作とされ、お参りすることにより悪星退散、招福開運、金
運財運、芸術芸能の御利益があるという。


 立派な山門があるが、開放的な境内には山門横からも入れる。


 正面の本堂前に、七福神の御朱印入りの木箱があり、さい銭箱に300円を入れて御朱
印をいただいた。

 曹洞宗永源寺は、応永年間(1394~1428)に武蔵国守護代の大石信重が創建し、
天文年間に北条氏照により中興されたとか。天正19(1591)年、徳川家康から寺領
三十石を賜ったという。

     
 南東に進んでT字路の北の「じゅうにん坂」交差点を右折し、桜並木の柳瀬川左岸沿い
の車道を行く。
     

 JAいるま野吾妻支店前を通過して間もなく、豊川稲荷神社の鳥居前へ。手前の山門を
入ると、大黒天の長久寺(ちょうきゅうじ)である。


 長久寺は、元弘元(1331)年に玖阿弥陀仏により開山された所沢唯一の時宗の寺院。
本尊は阿弥陀三尊で、領主中根氏の崇敬が厚く、以来念仏道場として現在に至っていると
いう。
 
     
 真新しい大黒天は山門を入り右手に祭られていた。御朱印はそばのケース内にあり、朱
印代を大黒天前のさい銭箱に入れて朱印をいただくようになっている。


 正面に本堂があり、その右手前には時宗宗祖一遍上人(いっぺんしょうにん)像が立つ。
背後には特大のツツジが、上人を囲むように枝を広げていた。


 境内には所沢市保存樹木のカシ、イチョウ、サクラなどがある。
 

 境内東側に祭られた豊川稲荷は明治44(1911)年に愛知県の豊川稲荷から分霊さ
れたよう。

 さらに東へ、久米境交差点を横断し、細い坂道で所沢街道・県道4号線に上がり西武新
宿線の上を秋津橋で越える。

 少し先、「渕上山持明院入口」の標識に従い右折した突き当たりが、恵比寿天の持明院
(じみょういん)である。


 持明院は、平安時代の元慶2(878)年に権大僧都寂寛の創建と伝えられているとか。
柳瀬川の深い渕の上にあるので、山号を渕上山(えんじょうざん)の山号としているよう。

 本尊は不動明王で「秋津のお不動様」として親しまれ、民話「カッパの詫び状文」でも
知られているという。

 本堂は堂々としたコンクリート造り。ま新しいえびす尊は本堂右手で本堂に背を向け、
にこやかに釣り竿を持っていた。御朱印は無人の庫裡(くり)前に用意されている。


 本堂左手に新しい三界萬霊塔と明和5(1768)年造立の宝篋印塔(ほうきょういん
とう)が並び、背後には奥武蔵の山並みが望まる。
     

 境内南側はびっしりと竹林に覆われていた。入口に近い境内南東側に、市の保護樹木の
イチョウと比較的新しい二宮金次郎像が目につく。
     

 何組かの参拝者が境内東側に沿った細道を戻っていたので、その道から私も戻ることに
した。裏門から住宅地の中を左右折して、手押し信号際に出た。

 西武新宿線の上を越えて久米境交差点まで戻り、南に延びる交通量の多い車道へ。柳瀬
川の二瀬橋を渡って東村山市に入り、信号のあるT字路を西に向かう。



 柳瀬川の支流、北川の左岸沿いの遊歩道を進み、「ふれあい」と呼ぶ母子像のある小公
園の先から北に回り込む。
     

     東村山市のマンホールふた
    

     
 東京・埼玉の都県境に設けられた都立八国山緑地への林間の散策路に上がる。南側が東
村山市、北側が所沢市である。

     
 少し上がると、北側に所沢の中心街に立つ高層ビル群、東側には東村山市の住宅などが
望まれる。



 葉を落とした広葉樹林の間を少しで将軍塚がある。


 狭山丘陵の東端に位置するこの山は、かつて駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、上野、下
野、信濃の8カ国の山々が望めたことから八国山(はちこくやま)と呼ばれ、この付近を
鎌倉街道が通っていた。

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)
が、近くの小手指ヶ原(こてさしがはら)で幕府軍と対戦した際、この地に一時逗留して
塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられているという。

     
 地形図上に標高88.9m三角点の表示があるので探したら、塚の東側に三等三角点が
見つかった。


 少し先には、「狭山丘陵いきものふれあいの里」の案内図が、左手には「将軍塚」の標
柱が立っている。


 間もなく北側に、戸建て住宅の並ぶ松が丘一丁目の住宅群への舗装路があったので入り、
中心部を北に抜ける。


 北端付近を西進すると、丘陵を背にした大字久米(くめ)にある4つ目の七福神、福禄
寿神の佛眼寺(ぶつげんじ)である。

 佛眼寺は、延暦21(802)年に法印法師が開基したと伝えられ、元亀年間(1570
~3)頃に中興開山された真言宗豊山派の寺院。明治維新までは北側の鳩峰八幡宮の別当
を務め、現在も神仏習合の名残が残されているとか。


 南側の石段を上がると正面の本堂の右手に新しい福禄寿が、その横には、金色の大きな
一願観音が並んでいる。
     

     

 御朱印は本堂前の箱にあり、朱印代のお布施はさい銭箱に入れるようになっていた。

     
 その前面右手(東側)には十三重塔が立ち、その周囲を虚空蔵菩薩、大日如来、阿弥陀
如来、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王などの鋳造仏が取り囲んでいる。


 東側の木組みの門を出て北へ、坂を上がって携帯電話のアンテナが並ぶ先で山ろくを西
に入り、東向きに祭られた久米水天宮へ。

 北側にある鳩峰(はとみね)八幡神社の摂社で、祭神は安徳天皇。安産・繁栄の神とし
て近在に知られ、明日、1月5日の大祭には多くの参拝者で賑わい、だるま市も開催され
るよう。

 拝殿に参拝したら、10数個の小さいだるまが並んでいた。


 北側林間を上がり、広い森に囲まれた鳩峰八幡神社にも参拝する。


 鳩峰八幡神社は、延喜21(921)年に京都の石清水(いわしみず)八幡神社を分祀
(ぶんし)して勧請(かんじょう)したと伝わるとか。
 

 元弘3(333)年に新田義貞が鎌倉討伐の折には戦勝を祈願したと伝えられ、境内に
は参拝の時に兜(かぶと)をかけた「兜掛けの松」や、鎧(よろい)を置いたところに祭
られた「鎧稲荷」の祠(ほこら)の旧跡がある。


 境内から西へ続く林間の遊歩道をさらに進み、狭山丘陵の自然環境を保全するナショナ
ルトラスト運動「トトロのふるさと基金」で買い取った「トトロの森2号地」を過ぎる。
その前後には「鳩峰公園」と呼ぶ広葉樹林が続く。



 送電線が交差する鉄塔の先に市の浄水場があり、その横を右左折して林を出ると、西北
に秩父の大持山、子持山や武甲山、外秩父の堂平山や笠山などが、北に小手指駅周辺の住
宅群などが望まれる。


 西北に下った車道の西側が、5つ目の七福神、寿老人の光蔵寺(こうぞうじ)である。

 真言宗光蔵寺の創建時期は不明のようだが、本尊阿弥陀如来の台座には「弘法大師御作、
慶長元(1596)年4月再興」などと記されているという。


 山門を入った正面に東向きの本堂が構え立ち、新しい寿老人は山門を入りすぐ右手に立
っていた。
     

 その右手には、日頃のストレス発散の相手をしてくれるという「聞くぞう地蔵尊」が右
耳を傾けて待っていた。
                    

 北に延びる車道を進み、手押し信号のところで左に入って北西へと斜面を上がり、次の
寺の本堂東側が見えたが入れない。住宅地を右左折して北側の車道に出てさらに南西から
東へと回り込み、布袋尊の本覚院(ほんかくいん)に入る。


 本堂の手前右手には鉄柵に囲まれた弁天池があり、奥の弁天島に弁天様を祭る小さな祠
がある。南向きに建つ本堂の周囲に植栽は無く、大変開放的な境内。


 真言宗豊山派の本覚院は、南北朝時代の庚暦2(1380)年に創建され、弘治元
(1555)年に中興されたという。

 新しい布袋尊は本堂前右手に立ち、朱印代は横のさいせん箱に納めるようになっていた。
     

 最後の海蔵寺へは、リーフレットでは南南東の荒幡富士を経由するようになっているが、
すっかり太陽が陰り薄寒くなってきたので、西に向かって最短ルートを進むことにした。

 
 市立第二幼稚園横を入ってすぐ先で右折して西へ、その先は新興住宅地の中の右左折す
る道を選んで西進する。下山口駅からの車道に入って少しで、7番目の七福神、毘沙門天
の海蔵寺(かいぞうじ)へ。

 山門は無く、ここも開放的な境内。本堂は最近の再建のようで真新しい。

 海蔵寺は、近くの山口城主一族の岩岡民部小輔道岩入道により、小手指原の戦いや南北
朝の動乱で討ち死にした將士を弔うため、文明5(1469)年に創建されたとか。江戸
時代には、当山13世住職が大和国(奈良)大本山長谷寺の住職の座に就いたという。

     
 ここも新しい毘沙門天は、本堂左手前に槍を持って立っていた。御朱印は本堂右手、無
人の庫裡に入り、志納料300円を納めていただくようになっている。


 本堂手前東側にはニシキゴイの泳ぐ庭園があり、本堂左手にはお砂踏みで回れる様に配
置された六地蔵菩薩が祭られていた。



 無事所沢七福神めぐりを終え、近くの下山口駅に向かう。先ほど合流したT字路を過ぎ、
柳瀬川の橋を渡る手前に桜淵延命地蔵堂があったのでお参りする。


 西武狭山線唯一の中間駅、下山口駅には14時34分に着いた。


(天気 晴、距離 10㎞、地図 所沢・所沢七福神めぐり地図、歩行地 所沢市、東村
 山市(少し)、歩数 18,800)


【参考】新しい所沢七福神めぐりの中で、ほかの七福神と異なるのは、

 ☆御朱印をいただくのは無人で、七福神のそばの箱や本堂前などに用意されているので、
予め300円ずつ用意しておかないと釣り銭をもらえぬことになる。

 ☆御朱印は色紙に押してもらうのではなく、印刷された寺ごとの色紙(横10.5㎜、
縦14.8㎜)なので、7枚合わせると一般的な大きさの七福神の色紙には貼りきれない。

 いただいてきた御朱印を順次並べる。






         

 また、2種類あるリーフレットに記されたコース地図は概略図なので、これだけで巡拝
するのは難しい。別に地形図(2万5千分の1所沢)や、市で発行している「ところざわ
ウオーキングナビの①西エリアと②中央エリア」などが必要かと思われる。
(これは私のようなガラケー人種に限られることで、スマホをお持ちの方は地図ナビゲー
 ションで容易に任意の場所を調べられるのかもしれないが・・・)

 ほかに、最初の寺、弁在天の永源寺の東、じゅうにん坂交差点から恵比寿天の持明院へ
と、持明院から柳瀬川の橋を過ぎる辺りまでの市道や県道は、車の交通量がかなりあるが
歩道が無くて細い側道だけなので、車には十分注意する必要がある。

 




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令和最初の正月 所沢神明社に初参り(埼玉・所沢)

2020-01-04 09:44:06 | 所沢だより
 2020年1月3日(金)

 穏やかな快晴に恵まれた今日の市内ウオーキングは、所沢神明社に初参りすることにし
ました。

 所沢神明社は、市街地の中心部である元町の旧市役所背後の段丘上に祭られています。

 当社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐(110(紀元770)年)の
折り、この地に立ち寄り天照大神をお祭りし、勝利を祈願して見事平定を授受したと伝え
られている古社です。
     

 正面の鳥居を上がると、右手の少しの平地に祭られた社殿前に露店が出ていました。



 次の階段の中ほどまで参拝客が並んでいたので、そのあとについて並びます。

 境内中断左手の露店


 右手でおみくじを分けてもらう人も少し並んでいます。


 私も拝殿に参拝する人たちの列について並び、15分ほどで参拝できました。




 拝殿の左手前では例年同様に、地元所沢で明治3(1870)年の創業以来、熊手・し
め縄などの縁起物・正月用品・祭り関係製品その他縁起物の製作をしている面亀(めんか
め)の出店が、たくさんのだるまや熊手などを並べていました。










     


 拝殿の前の2つの狛犬にも、面亀さんが奉納したらしいだるまが。


         

    


 こちらは、たくさん奉納されたおみくじと絵馬


     

 拝殿横ともう1か所ある御守り頒布所も、御守りや御札を求める人が並んでいます。私
もその後に並んで、いつもの交通安全御守りを分けていただきました。


 昨年は消費税が8%から10%へと2%アップしましたが、交通安全の御守りは昨年よ
り40%アップとなっていました。


 東側の神楽殿前や鳥居の周辺にも、幾つかの出店が。


 東側鳥居から所沢神明社を後にして、新所沢駅方面に向かいました。
     

 




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コメント (4)
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江戸・東京七福神めぐりで港七福神へ(東京・港区)

2020-01-03 15:31:04 | 七福神めぐり
 2020年1月2日(木)

 新春2日は毎年恒例、NPO法人東京都ウオーキング協会主催の「第18回江戸・東京
七福神めぐり」の港七福神に参加した。私は、このコースは2013年、2018年に続
いて3度目になる。


 集合場所は、JR山手線・京浜東北線の浜松町駅北口から1分の旧芝浜離宮恩賜公園児
童公園。JR線路を挟んで西側には貿易センタービルがそびえ立つ。
     


 9時30分過ぎから出発式をして、9時49分にスタートした。


 浜松町駅北口を西に抜けて、芝大門交差点へ。


 北側に変わったビル群を望む浄土宗大本山の増上寺山門前を左折する。



 すぐ近くの旧台徳院霊廟惣門をくぐって階段を上がり、広々とした港区立芝公園を西に
抜ける。



 増上寺の背後間近に、東京タワーが一望である。



 公園背後の林間を少し下り、芝公園4丁目にある最初の七福神・弁在天の宝珠院へ。

 寺には、寄せ木造りで高さ2m、貞享2(1685)年造立で港区指定文化財の閻魔大
王が祭られているよう。 

 一昨年にはなかったように思われる新しい本堂ができていたが、閻魔大王も弁財天もど
こに祭られているのかは、どんどん先頭が進むので分からなかった。


 東京タワーの西側を進み、2番目は麻布台2丁目にある恵比寿神の熊野神社に入る。境
内は狭くて境内という感じほとんど無い。
     
 熊野神社の縁起は、元禄16(1703)年のの火事で記録が焼失して分からないとか。
島崎藤村が飯倉に住んでいた頃、この付近はよい散歩道で、藤村の好きな場所のひとつだ
ったという。

 飯倉交差点から西北西へ延びる通り、ロシア大使館前の先、斜向かいにあったレンガ造
りの麻布郵便局の大きな建物は取り壊されたようで、広い空き地になっていた。


 その先、外務省外交史料館↑前を通過して飯倉片町交差点から北へ。首都高の谷町IC
もある六本木2丁目交差点まで進む。



 三つ目の七福神、布袋尊の久国神社はすぐ北側にある。道路際に立つ「久國神社」の石
碑の文字は東郷平八郎元帥によるもの。
     


 久国神社は太田道灌が勧請(かんじょう)したと伝えられており、道灌が寄進した鎌倉
時代の名工・久国作の名刀が所蔵されているという(非公開)。

     
 南西の野蒜六本木通りの北側に平行する細道などを進んで、桧町公園に入りトイレ休憩
となる。

 公園は植栽が多く、池のそばには和風建築の休憩舎などもある。



 超高層ビルの林立する六本木ミッドタウン↑横を通過し、六本木7丁目の福禄寿を祭る
天祖神社に参拝した。手前のビル横のモミジが、まだ彩りを残している。
     

     
 創建当時(1368)は飯倉城山にあったのが、江戸初期に江戸市街整備によりこの地
に移ったよう。


 南下して六本木六丁目交差点で六本木通りを横断して、さらに南下し六本木ヒルズ横や
安倍首相夫妻が大晦日から元旦、さらに2日も宿泊したと報じられている、高級ホテル・
グランドハイアット東京↓の横を過ぎる。
     

 5つめの七福神は西麻布3丁目にある寿老人の櫻田神社へ。
     
 治承4(1180)年に源頼朝の命で霞ヶ関に創建され、家康入府後の寛永元(162
4)年に現在地に遷宮されたという。


 さらに南下して、塀に中国の美しい風景写真が並ぶ中国大使館前を過ぎる。



 有栖川宮記念公園北側の交差点を左折して東へ、レンガ造りの愛育病院↑やアルゼンチ
ン大使館↓前を進む。


 仙台坂上交差点を北にすぐ、元麻布1丁目にあるのが6つ目、毘沙門天の氷川神社。拝
殿は朱塗りである。

 氷川神社は、太田道灌が現在地より300mほど北の一本松付近に勧請し、万治年間
(1658~61)にここに移転したとか。麻布郷の総鎮守で、江戸氷川7社の一つであ
ったといわれているよう。

 元麻布2丁目の静かなマンション街を進むと、下側が絞られた高層マンションが間近に
望まれる。
     

 緩やかに右カーブし終えた辺りの元麻布1丁目に、7番目で大黒天の大法寺がある。

 開山は慶長2(1597)年で江戸時代は赤門寺と呼ばれ、甲子(きのえね)の祭日に
は縁日が開かれていたという。

 ここはかなり参拝者が多く、拝殿前では甘酒のお接待をしていたのでいただいた。

 東側の交差点際、少しの空き地が今日のゴール地点で、ここで散会となる。


     
 麻布十番商店街を北に突き当たったところに8つ目の七福神、七福神としては珍しい宝
船の巡拝所である十番稲荷神社があり、急階段を上がって参拝する。

     
 七福神の全部が乗った大きな宝船は、階段下の鳥居左手に祭られていた。



 鳥居の右手には親子のかえるも祭られている。


     
 その右手のビル1階が、都営地下鉄大江戸線麻布十番駅の入口。幾つもの階段やエスカ
レーターでかなり地下深くにある、大江戸線の出札口前に12時22分に着いた。


 150人以上かと思われる団体歩行なので、各々の七福神をゆっくり参拝することはで
きず、七福神がどこに祭られているのかも分からず、ただ一巡したというだけで少し物足
りない七福神めぐりだった。改めて一人でじっくり巡拝するのがよいかもしれない。

 新宿駅経由光が丘行駅行きに乗り、乗り換えの練馬駅構内の店で昼食をして、西武池袋
線下り電車に乗る。

(天気 晴後曇、距離(認定)10㎞、地図 江戸・東京七福神めぐり 港七福神用地図、
 歩行地 港区、歩数 13,400)


 蛇足ながら、12月30日にトルコ・イスタンブール経由でレバノンのベイルートに逃
走した日産自動車の元会長、カルロス・ゴーン被告の邸宅は、「西に六本木ヒルズ、東に
は東京タワーを望む小高い丘の東京屈指の邸宅街にある」と報じられているので、ちょう
ど今日回ったコースに囲まれたところなので、どうやら麻布辺りかと思われる。





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令和初の元日 所沢航空記念公園のロウバイほころぶ(埼玉・所沢)

2020-01-01 16:50:32 | 所沢だより
 2020年1月1日(水)

 新しい年の初めにあたり、本年が皆様にとってよい年となりますようお祈り申し上げま
す。あわせて、災害や争いのない年となりますよう祈っております。

 遅ればせながら、昨年はたくさんの方に当ブログをご覧いただき、ありがとうございま
した。今年もよろしくお願いいたします

 さて、令和初の元旦を迎え、昨日・大晦日の10mを越える冷たい強風も収まり、当地
は快晴に恵まれました。

 そこで市内の初歩きは、たこ上げでもしてるのではないかと思い、いつもの所沢航空記
念公園に向かいました。

 所沢航空発祥記念館前の広場には、予想通りたこ上げをする子どもが何組か見られまし
たが風が弱いので期待したほど舞い上がっていないので、撮るのはあきらめました。


 南側のロウバイ園に入った見たら、100本以上あるロウバイのうちのほんの数本だけ
がチラホラと開花していたので、咲いているのを眺めながら一巡しました。
    

         

             




 
 この程度のわずかな花ですが、春の先駆けを感じる新春の彩りです。

 所沢駅や西所沢駅前を通過して自宅近くまで戻ったら、いつも葉のついたまま咲き出す
Mさんの家のロウバイも、例年同様に葉の間から花を見せていました。
    

 航空記念公園のロウバイ園の様子は、また見ごろになった頃に紹介したいと考えており
ます。






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