あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

秋の特別拝観と紅葉の奈良・京都へ(①奈良・興福寺周辺)

2021-12-05 18:28:16 | 奈良を歩く
 2021年11月16日(火)

 自宅を7時28分頃出て、JR東京駅に9時10分頃着いた。朝食をせずに来たので構
内の駅弁専門店で朝食用の弁当を購入する(連れ合いとの2人分)。


 東京駅9時33分発 東海道新幹線下り、ひかり637号の自由席に乗る。座席はかなり
空席があった。

 昨年はコロナ渦で遠距離への旅行はしてないので、ジパング倶楽部の割引切符を利用す
るのは1年何か月ぶりになるのだろうか・・

 静岡県内を通過中の10時22分頃、右手車窓からの富士山。


 京都駅に12時12分に着き、近鉄奈良線のホームに回り、12時27分発近鉄奈良行
き急行電車に乗る。


      近鉄奈良駅には13時13分に着いた。
     

 今日の宿泊先である駅に近いビジネスホテルに行き、チェックインを済ませて荷物を預
ける。


 近くのパン店のフードコーナーで遅い昼食を済ませ、奈良県庁前から南側の奈良公園に
入る。公園の広葉樹はかなり色づいていた。





 一帯は興福寺境内で、北参道を少し南進すると右手に平成30(2018)年10月に
再建された中金堂(ちゅうこんどう)が見えてきた。

 興福寺には何度か来ているが、再建された中金堂を見るのはもちろん初めて。

 中金堂の背後は仮講堂のよう。


     
 今回の目的のひとつは、中金堂の南東側に立つ国宝 五重塔特別公開の拝観である。
     
 拝観券(1000円)を求めて急階段を初層まで上がり、心柱の四方に安置されていた
「塔本四方仏」と呼ぶ薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来像を拝観した。

 興福寺五重塔の上棟は応永33(1426)年とか。4体の仏像は、塔が再建されて間
もない享徳年中(1452~55)から寛正3(1462)年にかけて造られたことが分
かっているという。

 特別拝観エリアは撮影禁止なので、拝観受付でもらった折り込みのリーフレットから。

          
      東方の薬師如来像
          
          
           南方の釈迦如来坐像
     
      北方の弥勒如来坐像
     
           
           西方の阿弥陀如来坐像
          

 なお、五重塔は来年から、明治33(1900)年以来120年ぶりの大規模修理に入
り、修理期間は約10年とも予想されており、文字通り「令和の大修理」になるという。


 五重塔前から、蘇った中金堂↑と北側の東金堂↓(とうこんどう)。

 この東金堂と国宝館も観覧できるので共通券を求め、まずは東金堂へ(共通券900円)。
     
 本堂にあたる中金堂の東側にあることから東金堂と呼ばれ、現在の建物は応永22
(1415)年の再建で国宝という。

 堂内には薬師如来像(国重要文化財)を中心に、十二神将立像が並び、その両横を持国
天、多聞天、増長天、広目天の四天王立像が配置されている。ここも堂内は撮影禁止なの
で、もらった5つ折りのリーフレットから。

     東金堂の本尊で、中央に鎮座する重要文化財の銅造薬師如来像
     

      本尊の左右にはいずれも国宝の維摩居士(ゆいまこじ)座像と文殊菩薩座像が
         

           その両横は重要文化財の銅造月光菩薩像(左)と日光菩薩座像(右)
          
     
 国宝の木造十二神将立像を3体ずつ、本尊薬師如来を挟んで左右に各6体ずつ立つ。








      これらの仏像を守るように4隅に立つ国宝木造四天王像
     

 堂内いっぱいに配置されていたこれら国宝や重要文化財の仏像群は壮観で、いずれも丹
精な彫刻の技と表情などの迫力に圧倒された。

 ちなみに、鎌倉時代の十二神将12体すべてが残っているのは貴重なところのよう。

 この後は北側の国宝館へ。

 館内には、国宝八部衆立像の阿修羅像や、興福寺の歴史を伝える仏像や典籍、古文書、
絵画、工芸品などを展示している(撮影禁止)。

 15時40分頃観覧を終え、南側の猿沢池の方向に向かう。中金堂の南側の回廊跡には
基壇と礎石の一部が残されていた。


 西南側には納経所や一言観音堂があり、その向こうに南円堂が望まれる。ちなみに南円
堂は西国三十三所霊場第9番札所で、以前参拝したときに御朱印をいただいている。



 回廊跡から階段を下ると、西側斜面のカエデがよい彩り。


     
 少し東進したところに「植桜松楓之碑(しょくおうふうのひ)」が立ち、傍らにその説
明パネルがある。
          


 その横から幅広い52段の石段を下って猿沢池の東北側へ。そばにある吉田屋旅館は、
修学旅行で泊まった宿。もう60数年も前のことだが、名前は覚えていて、宿の前で撮っ
た記念写真も残っていた。



 16時近くなり、陽が傾き猿沢池に影を映す。
     

          


 池の東南側には、真っ赤なちょうちんが幾つも飾られている。何のためだろう・・・


      その辺りから望む南円堂周辺。
     

     
      その東側には、何本かの木々が彩りを競う。

  
 池の南西側に回ってベンチで小休止して、池越しの五重塔を眺める。五重塔を背後に記
念写真を撮るのが、多くの修学旅行生の定番だったことを思い出す。



 60数年前の修学旅行時の同じ位置の風景↑と記念撮影↓
     
 
 来年から五重塔の大修理に入ると、しばらくはこの風景も見られなくなりそうだ。

      もう一度南円堂周辺も眺めた。
     

 ベンチで菓子を食べていたら、私にもちょうだいと鹿が近寄ってきた。


 かなり陽が傾いてきたので、16時20分過ぎに猿沢池の西北端辺りから池を離れた。


 JR奈良駅方面に向かう通りの入口際に、采女(うねめ)神社があった。境内は柵に囲
まれて入れず、社殿も小さめ。
     

 道路際の説明パネル。



 その先両側には、土産物店やカフェなどが並んでいる。


     




 少し進むと、高札場が復元されていて、その下に奈良市道路元標がある。いずれも当初
は約20m西方に設置されていたが、2010年5月の平安遷都1300年を記念して移
設したという。
     

 その先南側に、アーケードに覆われた商店街「餅飯殿(もちいどの)センター街」があ
るったので入ってみた。
     
 奈良で最も古い商店街のひとつのようで、その由来を記したパネルもある。
          

     
      間口が狭く奥行きのある商店が建ち並び、ユニークな店も多い。

 人通りの少なくなった辺りで引き返した。

 少し先、奈良駅寄りの十字路際には南都銀行本店がある。この建物は大正15(1926)
年4月、奈良郵便電信局跡地に旧六十八銀行の奈良支店として竣工されたものとか。

 外壁に岡山産の花崗岩と褐色の煉瓦を使用した鉄筋コンクリート造3階(一部4階)地
下1階の建物。奈良唯一のギリシア様式建築で県内では貴重な洋風近代建築として、平成
9(1997)年に国の登録有形文化財になったという。

 その横を北に向かうアーケードの細い通りは「東向(ひがしむき)商店街」。
     
 ここもかなり賑わっていて、近鉄奈良駅方面に向かっているので進むことにする。


     


 17時過ぎで、わが家のいつもの夕食時刻には早いが、「うどん麦の蔵」という店が気
になり、行き戻って入り「鴨汁つけ麺」を注文して軽い夕食とした。



 「東向商店街」の北端を出た横が近鉄奈良駅の東側(改札口やプラットホームは地下1
階)で、近くに行基菩薩立像がある。
     


 近鉄奈良駅ビル

 近くのコンビニで夕食の補食など飲食物を購入し、18時頃、宿泊するビジネスホテル
に入る。



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明日香・キトラ古墳と橿原考古学研究所附属博物館などへ(奈良)

2015-06-07 17:42:02 | 奈良を歩く
 2015年5月28日(木)

 今日も好天、連泊した奈良・新大宮駅前のビジネスホテルを8時に出る。近鉄奈良線の
新大宮駅8時8分発に乗り、昨日と同様大和西大寺駅と橿原神宮前駅で乗り換え、飛鳥
(あすか)駅に9時4分に着いた。

 今日の前半は飛鳥駅の東南方の檜隈寺跡(ひのくまじあと)とキトラ古墳めぐりの予定
で、9時10分に出発した。


 駅前の交差点で国道169号を渡り、東に少しで南に延びる飛鳥周遊歩道に入る。


 車の通行を気にせずに済むので、周辺の風景を眺めながら安心して進める。飛鳥の田植
えは6月に入ってからのようで、昨日と同様周辺の田んぼにもまだ水が入っていない。



 御園集落の東部を経て、東側の家並みや山並みを見ながら台地にある檜隈集落へ。



 落ち着いたたたずまいを見せる瓦(かわら)屋根の民家の間を進み、集落を南に抜ける
と「明日香村近隣公園」が見えてきた。

 まだ完成して間もないようだが、広い敷地に多目的グランドや休憩施設などが望まれる。

 最初の目的地、檜隈寺跡は集落を抜けて南東にすぐ、於美阿志(おみあし)神社の境内
にある。




 檜隈は、応神天皇の時代に百済(くだら)から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住
したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神としているとか。「日本書紀」の天
武天皇朱鳥元年の条に、「檜隈寺」の寺名が記されているという。

 於美阿志神社の社殿左手の草地には講堂の塔石が並んでいて、寺跡からは7世紀末の瓦
が出土しているらしい。

              
 社殿右側の塔跡には上層の一部を欠いた十三重塔石が残り、国の重要文化財に指定され
ている。


 講堂跡からは北東の展望が開け、すぐ下に復元された3棟の竪穴住居が並んでいる。一
帯は公園として整備するようで、北側には新しい建物を建設中だった。


 東北方の田んぼの向こうに、緑濃い森が望まれる。肉眼では認識しにくいが、デジカメ
のズームを利かせてみたら、どうやら文武天皇陵のよう。


 神社を出てさらに東南へ。東側から広い車道が近づく辺りに、昨日も幾つか見たような
小さな石仏が祭られていて、この地の信仰の深さがしのばれる。
        

 大根田バス停付近でその広い車道に入り、キトラ古墳に向かう。東側に大根田集落が、
行く手には整備されたピークが見える。


 キトラ古墳かと近づくと囲いがしてあり、キトラ古墳周辺地区の公園の整備中の立て札
が立つ。工事担当者に聞いたら、古墳はこの先だという。道路の反対側も広く工事が進め
られていて、かなり大規模な公園ができそう。


 緩やかに下る道路が右カーブする辺りで、左に入る道がある。一帯も工事中だが、キト
ラ古墳の矢印が続くので回ってみた。


 建物の工事現場の先の斜面上部がキトラ古墳のようだが、工事中なので道路から眺める
しかなく、土がむき出しで古墳らしさが感じられない。


 国特別史跡のキトラ古墳は、高松塚古墳や昨日訪ねたマルコ山古墳と同様、飛鳥時代の
7世紀後半の終末期古墳とのこと。

 古墳は、南東から北西への尾根の南斜面を平らに削って墳丘が築かれ、墳丘の直径は下
段13.8m、上段9.4m、高さ3.3mの2段築成の円墳という。

 昭和58年(1983)、ファイバースコープにより石槨(せっかく)内に壁画が描か
れていることが分かり、高松塚古墳に続く壁画古墳として話題になった。

 平成16年(2004)には、石槨内の発掘調査で漆喰木棺(しっくいもっかん)の破
片、太刀金具、ガラス玉などが発見されたとか。その後壁画の劣化が急速に進み、現在は
はぎ取られて保存修理中である。

 広い車道に戻り、右にカーブして西に向いた明日香村と高取町との町村境で、南への道
に回り、阿部山集落から延びてきた用水沿いの道路を西進する。

 700m程で、国道169号の手前を平行する旧道、土佐街道と交差した。



 両側に屋根の低い家並みが続き、交差点際には古くからの漢方薬専門の薬局があった。


 ちなみに「土佐街道」は、大和王朝時代に土佐の国から移り住んできた人が多くいたこ
とから名付けられたのだという。

 車の少ないその街道を進めばよかったが、直進して国道に出る。こちらはかなりの交通
量で、そのうえ車道がない。次の信号まで注意して北進して、壺阪山(つぼさかやま)駅
前の交差点へ。

        
 交差点際に、高取町で作った「土佐街道かいわい散歩道」の絵地図があるが、実際の道
路と地図の方向が逆で分かりにくい。カラーながら担当者の意識が疑われ、全く不親切な
絵地図だ。

 交差点を西にすぐ、突き当たりが飛鳥の隣の壺阪山駅。10時58分に着いた。



 クラシックな喫茶があるが駅前は閑散としていて、西国三十三番第6番札所で「壺坂霊
験記」でも知られる壺阪寺への玄関口とは思えぬ閑静な駅。駅には高取町の観光パンフレ
ットなども置いてない。駅前の観光地図を見ると、高取町はくすりの町でもあるらしい。

(天気 晴、距離 3.3㎞、地図(1/2.5万) 畝傍山、歩行地 明日香村、高取
 町)


 11時23分発上り電車に乗り、橿原神宮前駅で乗り継ぎ、次の畝傍御陵前(うねびご
りようまえ)駅に11時35分に下りた。


 今日後半は、近くにある橿原考古学研修所附属博物館の観覧である。

 駅舎のある西口を出て、閑静な住宅地を西南に進む。住宅の間から西に、大和三山のひ
とつ畝傍山が望まれる。



 5分ほどで博物館に着いた。建物の右手の植栽の下に、橿原考古学研究所で発掘された
近隣の遺跡の石造物や復元品などが、幾つか展示されていた。


 そのひとつが、昨日最初に訪ねた束明神(つかみょうじん)古墳の復元石槨。


 ほかに、斑鳩町(いかるがちよう)竜田(たつた)御坊山の↑横口式石槨、桜井市穴師
(あなし)の組合式石棺、桜井市高家(たいえい)の横穴式石室などがあった。
    

        
 それらをひととおり見てから博物館に入る。


 この博物館は、橿原考古学研究所が1938年以来行ってきた発掘調査の出土資料を中
心に展示しており、研究所の調査・研究活動と一体となっていて、学芸活動として展示公
開しているという。(入館料 一般400円、特別展開催中の現在は800円)

 エントランスホールには、斑鳩町藤ノ木古墳から出土した金銅製屨(こんどうせいくつ)
の復元品などが展示されていた。
    

 6月14日まで「継体大王とヤマト」と呼ぶ特別展を開催中なので、最初にそれを見る。
      
 継体大王は、「日本書紀」に大伴氏(おおともし)、物部氏(もののべし)、巨勢氏
(こせし)などヤマトの豪族たちが集まり、越前(「古事記」では近江)から新しく迎え
た天皇として記されているとか。

 特別展示室には、継体の陵とされる大阪・高槻の今城塚(いましろづか)古墳や、大阪、
福井、滋賀、愛知、奈良など各府県の継体大王関連の古墳のこと、埴輪や土器、飾り物な
ど出土品、考古資料などが展示されていた(特別展示は撮影禁止)。

 次に、3室に分かれた一般展示室を回る。第1展示室は旧石器から縄文、弥生時代、第
2展示室は古墳時代と飛鳥前期、第3展示室には飛鳥後期から奈良、平安、鎌倉・室町時
代の、出土品や資料、年表、写真などが展示されている。

 以下にそれらの展示の幾つかを紹介する。


 こんな大きな埴輪もある。






 エントランスホールに金ピカの復元品があった、藤ノ木古墳から出土した本ものの金銅
製屨はこれ。
    

 家型陶棺(奥)と石棺(手前)


    平城宮内の主要寺院の瓦     
    

 特別展と一般展示室とを合わせて1時間半ほど観覧して、館を出たのは13時20分を
過ぎていた。

 博物館のある駅の西側には食堂などは無さそう。駅に戻って地下道を東に抜けて、国道
24号に出た。南に少しで、レストラン「和食さと」が見つかったので入り、今日も遅い
昼食をした。   
    
  注文した「日替わり麺 彩五色うどん」(680円)とリンゴジュース(162円) 


 14時40分過ぎにレストランを出て畝傍御陵駅に戻る。15時8発近鉄京都線京都行
き急行で、京都駅に16時23分に着く。

 JR京都駅の新幹線改札構内で土産物や弁当などの買い物などをして、16時56分発
上りひかり476号に乗り、東京駅に向かった。

 今回の3日間は、春日大社の特別拝観と明日香周辺の古墳めぐりが中心だったが、未知
の古墳を訪ねて各々の歴史やゆかりの人物を知り、橿原考古学研究所附属博物館の観覧も、
当時の歴史への興味をいっそうかき立ててくれた。


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明日香村西部の古墳めぐり(奈良)

2015-06-05 22:54:29 | 奈良を歩く
 2015年5月27日(水)

 近鉄奈良線の新大宮駅発8時29分発の電車に乗る予定で、駅前のビジネスホテルを出
た。ところがホームに入って忘れ物に気付き、急ぎ宿に往復したので10分ほど後の電車
になる。

 次の大和西大寺駅と橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)駅で乗り換え、吉野線の飛鳥
(あすか)駅に10時03分に着いた。


 明日香村(あすかむら)へ来たのは2000年5月以来だから15年ぶり。今日は古墳
めぐりの予定である。

 明日香の古墳というと、近鉄線の東側にある高松塚古墳や石舞台古墳、キトラ古墳など
が知られているが、今日巡るのは明日香観光の人がほとんど回らない線路の西側の古墳で
ある。10時7分に出発した。

 駅前のレンタサイクル店には、このような貸し自動車も用意されている。


 駅の東側、線路と国道169号の間を流れる檜前川沿いに遊歩道があったので、その道
を南進して二つ目の踏切を渡る。
      

 線路の西側を少しで、次の踏切のところで合した車道に入った。この道は地形図上は鎖
線の徒歩道だが、車道になっていて、南側は高台にある高取国際高、北側は田んぼに沿っ
て西南に向かっている。
                              
 田んぼを隔てて北側には真弓集落が望まれ、その東端付近には、この後訪ねる予定のマ
ルコ山古墳らしい芝生の斜面が見える。          マルコ山古墳↓?


 こちら側は明日香村の南に接する高取町(たかとりちよう)。少しずつ高度を上げて踏
切から1㎞ほどで佐田集落へ。集落の入口付近に、自然石の石仏が祭られていた。
        

 集落に入ると虫籠窓(むしこまど)の民家↓も見られ、家並みのほとんどが大和らしい
風情の瓦(かわら)屋根の家。集落の中にも庚申塔を祭る小さな祠(ほこら)があった。


 集落の中心付近で5方向からの道が合している。地図上では南への道に岡宮天皇陵が記
されているので行ったが、分からない。


 交差点に戻って北西への狭い道を上がり、束明神(つかみょうじん)古墳を探すと、門
の閉ざされた円浄寺↓の先に石段が延びていた。



 上がってみたら杉などの木立に覆われた春日神社。


 石段の上部右手の盛土が束明神古墳。説明板が無ければ、これが古墳とは分からない。

 後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳とみられ、橿原考古学研究所
などが発掘調査をした結果、直径約60mの範囲で造成され、中央部に墳丘があり、終末
期古墳としては大規模なもので、7世紀後半から末頃のものと考えられるとか。

 埋葬者は、天武天皇と持統天皇との間に生まれた、草壁皇子の墓である可能性が大きい
といわれているという。

 翌日観覧に訪れた橿原考古学研究所附属博物館の構内に、この古墳の復元石榔(せっか
く)があった。
 

 春日神社の来歴などはなく、境内には神武天皇と明治天皇の遙拝所の石柱が立っていた。


 大和棟の並ぶ集落を北に向かう。家並みの切れ目から、先ほど上がってきた高取国際高
方面の展望が広がる。


 集落を出た辺りにも、自然石の石仏が祭られていた。


 振り返り見る佐田集落の眺め。


 集落の外れから、地図上では徒歩道がマルコ山古墳のある真弓集落に延びていて、1㎞
ほどで行けるはず。だが、送電線の下を通過して高取町と明日香村の町村境を過ぎたら、
草付きの道は梅やかんきつ畑付近で消え、アシなどの茂る湿地帯となり通過できない。 

 少し戻って、地図上にない新しい道を東に回る。次の山すその農道を進んだが、やはり
がけ地の畑に突き当たり行けない。

 見下ろすと、高取町と明日香村との境界の田んぼの間には潅漑用水路が流れ、渡れそう
にない。

 結局、高取国際高のがけ下の道を踏切際まで戻り、真弓集落へは東から延びる道を回る
ことにする。


 線路の近く、民家の背後の森に神社があったので上がる。式内社(しきないしや)だと
いう櫛玉命(くしたまのみこと)神社で、小さいが由緒ありそうな社殿が石垣の上に祭ら
れていた。


 ちなみに式内社とは、延長5年(927)にまとめられた延喜式神明帳(えんぎしきじ
んみょうちよう)に記された、当時の「官社」のことで、2861社の名が記載されてい
るという。

 神社から400mほど進んだ集落入口付近の南面の斜面に、国史跡のマルコ山古墳があ
った。

 7世紀後半の終末期古墳で、対角辺24m、見かけの高さ約5.3mの二段構成の六角
墳と考えられているとか。

 石室からは漆喰木棺(しっくいもっかん)や金銅製(こんどうせい)六花形(ろっかが
た)飾金具、太刀金具などが出土され、被葬者は皇族クラスの人物が考えられるという。


 古墳を訪れる人も多いのか、ここにはトイレも設けられていた。墳丘の中腹に上がると、
東南方向の集落や山並みの展望がよい。


 12時半に近いので、北東側の飛鳥駅に近い越(こし)集落にあるはずの農家レストラ
ンを探すことにした。

 線路近くまで戻って北へ進む。突き当たりのT字路に、庚申塔と古い石仏が幾つか並び
立つ。



 右折すると大きな樽があり、すぐ先の「おやじ工房」と呼ぶ建物とその背後に、タヌキ
の焼き物がたくさん並んでいた。




 この辺りも越集落のよう。線路際で広い道路に合して西進し、つぎのT字路を北東に入
る。細い十字路の先の高台に、許世都比古命(こせつひこのみこと)神社があった。

 社殿は、先ほどの櫛玉命神社と同様に石垣の上に祭られている。

 やはり『大和国高市郡 許世都比古命神社』と記された式内社のようだが、創建時期は
不明という。

 目指す農家レストラン「ことだま」はこの辺りのはずだが、見当たらない。運良くそば
の家の奥様が出てこられた。聞くと、なんと昨年11月で廃業しているとのこと、駅のそ
ばの喫茶で昼食が出来ることも教えてくれた。

 ちなみに、このレストランのことは、昨年5月に広島県福山市の万葉集時代からの潮待
ちの港、鞆の浦(とものうら)を訪ねたときに入った「景観茶坊」の主、Tさんに教えて
もらったもの。持参したネットの情報コピーは、まだ営業していた頃だったようだ。

 なお、許世都比古命神社の南側にあった喫茶「cafe ひそひそ」は、「ことだま」の後を
利用して今年4月に開店したばかりだということが、帰宅後調べて分かった。

 昼食のため飛鳥駅方向に向かうことにして、集落の中の旧道を南東に緩やかに下る。
      
 4基の石仏が並び立つ近くの曲がり角に、りっぱな石の道標が立っていた。
        
 安政5年(1858)の建立で、「左おかてら(岡寺)とふのみね(多武峰)、右ごせ
(御所)こんかうさん(金剛山)」などと読め、この道が古い街道だったことが知れる。

 線路に近い北側の民家の間に、思いがけず国史跡岩屋山古墳の南面が見えた。
      
 岩屋山古墳は7世紀のもので、一辺約54m、高さ約12mの方墳(ほうふん)と推定
され、墳丘の西側は民家の敷地になっていて現在は失われている。


 石段を上がると、2人の絵描きさんが古墳を描いていて、その先に横穴式石室があった。


 南面に開口する石室は、大きな切石を用いて構築されていて、全長約16.7m、玄室
は長さ約4.72m、幅約2.7mあり、入ってみると、当時の高度で緻密な技術に驚か
される。


 りっぱな祠に祭られた三界萬霊塔の前の踏切を渡り、ふり返ってもう一度岩屋山古墳を
眺めた。線路沿いを飛鳥駅前に戻り、東側を走る国道169号の信号を渡る。


 すぐ先にあった大和棟造りの「珈琲の館 御園」に13時40分に入り、サンドイッチ
と冷たい飲み物を注文して遅い昼食をした。
    

 14時25分に店を出て、飛鳥駅前から往路の踏切を戻り、線路の西側を右に回り込む。


    
 畑の隅にケムリノキが咲き、近くのアストロメリアも鮮やかな彩り。
        

 先ほど上がった許世都比古命神社の南側の道路を西進して、特養老人ホームあすか荘の
西側に下る。

 田んぼの向こうの森が、次に目指す牽牛子塚(けんごしづか)古墳のようで、横に4~
5台の車が止まっている。


 田んぼの間を回って少し上がると、やはり国史跡の牽牛子塚古墳で、明日香村教育委員
会の担当者と協力者が修復作業をしている。

 牽牛子塚古墳は、万葉集によく読まれた真弓丘陵の一角にあり、対辺の長さ約22m、
墳丘の高さは約4.5mで、7世紀の天皇の墓に特徴的な三段構成の八角形墳の可能性が
強いとのこと。

 2010年9月の明日香村教育委員会の発表で、被葬者が斉明天皇であることが極めて
有力になり、新聞やTVで大きく報道されている。

 墓室は、巨大な凝灰岩(ぎょうかいがん)をくり抜いた横口式石榔(せきろう)で、中
央部に間仕切り部のある2室の構造である。


 作業している人の許可を得て、墳丘上を回ってみる。南側の墓室には大きなシートがか
けられていたが、前面の石段を下ると2室に分かれた墓室を見ることができた。


 翌日観覧した柏原考古学研究所附属博物館に展示されていた、出土品の一部。


 もとの道を許世都比古命神社の南の十字路まで戻り、南側の広い車道を西に緩やかに上
がる。


 「あすか峠の朝市」と呼ぶ直売所↑への道を入り、道標に従い林間を西への山道を下る。


 竹林を出ると田んぼの南に、木々に覆われた真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳が見
えてきた。

 真弓鑵子塚古墳は、直径約40m、高さ8m上の二段築成の円墳で、南側に開口するド
ーム状の石室があり、全長17.8m、玄室長6.5m、幅4.3m、高さ4.3mとか。
須恵器、馬具、装身具などが出土していて、築造年代は6世紀中~後半で、被葬者は渡来
系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)が推定されているという。



 もとの道を戻り、飛鳥駅には15時55分に着いた。今日回ったのは南北1.5㎞、東
西1㎞ほどのエリア。だが、各々の古墳が谷で隔てられていて東西の往復が多く、5つの
古墳を回っただけで6時間近くを経過した。30℃前後の暑さと何度もの斜面への上り下
りで、結構疲れを感じる。

 ホームに急ぎ、3分後の近鉄吉野線上り電車に乗る。橿原神宮前駅で橿原線に乗り換え、
大和西大寺駅に16時37分に着いた。

 駅構内の2階部分は、JR東日本の「駅ナカ」のようにたくさんの店舗があり、乗り換
え客の買い物で賑わっている。


 北側の展望所に出ると、ひんぱんに出入りする電車を真上から眺めることも出来る。


 店の一つで夕食用に吉野鮨の弁当を求め、次の新大宮駅で下車し、17時頃連泊のビジ
ネスホテルに戻った。

(天気 晴、距離 10㎞、地図 (1/2.5万)畝傍山、橿原考古学研 附属博物館
 リーフレット裏面の地図ほか、歩行地 明日香村、高取町、歩数 20,100)





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奈良・春日大社本殿の特別拝観と2つの日本庭園めぐり

2015-06-03 12:51:46 | 奈良を歩く
 2015年5月26日(火)

 5時44分に自宅を出て、東京駅7時33分発東海道新幹線ひかり503号に乗る。京
都駅に10時11分に着き、10時34分発JR奈良線快速にて奈良駅には11時18分
に着いた。


 隣接する旧駅舎内の奈良市観光案内所に入り、観光パンフレットや展覧会のリーフレッ
トなどを幾つか入手した。

 観光案内所に待機していた奈良市観光協会マスコットキャラクターの「しかまろくん」。
    


 歩道が広くなった三条通に入ると、30℃を超えるという予報通り日射しが暑い。小西
さくら商店街を近鉄奈良駅に向かい、正午を過ぎたので駅近くのビルの「うどん亭」でま
ずは昼食とする。
    

 12時55分頃店を出た。近鉄奈良駅構内のコインロッカーに荷物を入れ、登大路を東
大寺大仏殿の方向に向かう。興福寺境内付近からは歩道が松並木の下になり、暑さからは
幾分開放された。
      

 でも、5月でもこの暑さではシカもたまらぬようで、木陰で休んでいるシカないのかも
しれない。
    

 周辺には「鹿の飛び出し注意」の標識も幾つか見たが、山間地ならともかく、県庁近く
では奈良シカないのではなかろうか…。
        

 県庁東交差点を右折して国道169号沿いの芝生園地を進み、春日大社の一の鳥居から
参道に入る。こちらも、アカマツなどの木々が日射しを遮ってくれる。


 緑の車両が止まっていて、そばに小学生がたくさんいた。近づくと、傷ついたシカが用
水溝に倒れていて、それをNPOのシカの救急隊が来て担架で車に収容したところ。これ
も、奈良ナラではのことといえよう。



 近くに和洋折衷の独特の建物が見えた。国重要文化財の旧奈良県物産陳列所で、明治35
年(1902)の竣工とか。明治中期を代表する近代和風建築として高く評価され、現在
は奈良国立博物館の仏教美術研究センターとして活用されているという。



 参道は緩やかに上がり、両側には奉納された大きな石灯ろうが並ぶ。


 参道の東側の飛火野(とびひの)では、近くの中学生だろうか、伸び伸びと運動をして
いた。



 修学旅行生の多い二の鳥居をくぐって石段を左に上がり、第60次式年造替(しきねん
ぞうたい)記念で特別公開中の、春日大社本殿を拝観することにする。


     特別公開のリーフレット
    
 春日大社の式年造替は20年に一度で、普段は入ることの出来ない国宝の本殿を間近に
拝観できる。今回の特別公開は4月1日から6月30日まで(リーフレットでは5月31
日までだが、その後延長された)。
        

 ちなみに式年造替とは、社殿を全部作り替える伊勢神宮の式年遷宮とは異なり、本殿の
神々を仮殿に遷座後、本殿の傷んだところを修理したり、色を塗り替えたり、檜皮葺(ひ
わだぶき)の屋根を葺(ふ)き直したりなどの大修理を行うことだという。

 混雑していて並んで待つようならあきらめようかとも思ったが、暗に反して拝観者は少
なく、すぐに入ることができた。


 朱塗りの南門を上がった弊殿(へいでん)↑の先は撮影禁止で、本殿を撮ることは出来
ない。




 樹齢1,000年を超えるといわれる傍らのご神木の大杉も、根元しか撮れなかった。
      

 左手(西側)の回廊から入り、日本の代表的な神社建築様式のひとつ、春日造りの典型
で、4棟が横一列に並ぶ朱塗りの本殿を、裏手から表側へと間近に拝観した。

 また、社殿の間の御間塀とよぶ塀に描かれた獅子や神馬の絵や、今回初公開という本殿
に祭られている「磐座(いわくら)」と呼ぶ神秘の石、明治維新以来閉ざされていたとい
う後殿(うしろどの)なども拝観できた。(拝観料 1,000円・特別記念品↓付)
       

 拝観を終え、いったん南門を出て回廊の西側に入り、一番奥の内侍門から西に下りる。


 そばの酒殿(さかどの)↑と柱昌殿(けいしょうでん)↓の間を進み、駐車場の横を通
過する。


 さらに春日大社神苑を緩やかに下り、奈良県新公会堂横を過ぎる。その先は「鴟尾(し
び)の庭」と呼ぶ池を巡らす日本庭園があり、北に東大寺大仏殿の屋根が望まれる。



 広い芝生地となり、背後に若草山も見えてきた。大仏殿交差点から北に伸びる道路沿い
には土産物店や飲食店などが並び、修学旅行生や観光客で賑わう。


 この先の登大路は樹木が少なく正面からの西日が暑い。すぐ先の奥村記念館は無料休憩
所になっていたので入館した。

 ここは、総合建設会社の奥村組が、創業百年を記念して2007年に開館した施設。1
階は観光インフォメーションセンターとショールームで、奥村組の歴史や技術紹介の展示
があり、無料の飲み物をいただき、休憩コーナーで休ませてもらった。

 次の三差路の先に氷室(ひむろ)神社がある。橋を渡った正面、表門の右手にシダレザ
クラの古木が立つが、枝に癌腫(がんしゆ)と呼ぶ悪性の腫瘍があり、樹木医の指導で樹
勢回復中で、花咲寄進(はなさかきしん)お願いの張紙があった。


 県文化財の表門を入ると、舞楽を上演する舞殿(拝殿)で、その奥には文久3年
(1863)造替という独特の社殿形式の本殿↓が祭られ、やはり県文化財である。


 季節外れの暑さに応え、舞殿の左右からは冷風を吹き出すミストがあり、暑さを和らげ
てくれる。神社でこのような施設を見たのは初めてのことだった。


 舞殿の正面下に、ドイツの造船所で建造された清国(しんこく)海軍の戦艦「鎭遠」の
主砲の30.5サンチ(㎝)砲弾が置いてある。
        
 鎭遠は日清戦争では帝国海軍の脅威だったが、後日座礁して帝国陸軍軍艦として使用さ
れたという。

 さらに西へ、県庁東交差点の手前の細い三差路を右折して土塀の間を進み、突き当たり
を右折するとすぐ先に、吉城園(よしきえん)と依水園(いすいえん)の二つの日本庭園
が公開されている。


 まずは右側の吉城園に入る。万葉集にも読まれた吉城川に隣接して明治・大正時代につ
くられた庭園で、奈良県が取得して平成元年(1989)に開園したという。

                        旧正法院家住宅(奈良県文化財)


 敷地面積約8,900㎡あり、園内は池の庭、苔(こけ)の庭、茶花の庭からなっている。
池の庭は江戸時代からの地形の起伏や曲線を巧みに取り入れ、建物と一体になるように作
られているようだ。



 順路に従い変化ある園路を15分ほどで一巡し、緑豊富な日本庭園の景観を楽しんだ。

                 茶  室

(入園料 大人250円、外国人、65歳以上、中学生以下無料)

 16時となり、北に隣接する日本庭園、依水園へ。

 依水園は、江戸時代前期に作られ周囲から隔絶された前園と、周りの景色も借景として
取り入れ明治時代に作られた後園からなり、昭和50年(1975)に国の名勝に指定さ
れている。

 面積は11,000㎡あり、正門を入った前園左手には、寧楽(ねいらく)美術館↓が併
設されている。



 最初に前園にあるかやぶき屋根の三秀亭↓横から池の周辺を回り、対岸の↑茶席清秀庵
の方に進む。





 その先は、より大きな池の背後に春日山や若草山、東大寺南大門などが望まれ、開かれ
た後園のエリア。池の右手から水車小屋を経て、池の北岸を戻った。

                 氷 心 亭   


                 水 車 小 屋






                   三 秀 亭    

 最後に寧楽美術館↑に入り、依水園を買い受けた実業家・中村準策が収集したという、
古代中国の青銅器や拓本、古鏡、高麗・朝鮮王朝時代の陶磁器、日本の茶道具や古瓦など
の展示を観覧した。(館内は撮影禁止)
    
    美術館の前のクスノキが、気持ちよい若葉の彩りを見せる。

 観覧を終えたら閉館時刻の17時、正門は閉じていて、横の小さい門を開けて園を出た。
(入園料 一般900円)

 県庁構内を通過して近鉄奈良駅に戻り、預けた荷物を持って電車に乗る。次の新大宮駅
で下りて、奈良では定宿としている近くのビジネスホテルに入った。

(天気 晴、距離 7㎞、地図 (2万5千分の1)奈良、奈良公園ウオークマップほか、
 歩行地 奈良市)





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奈良・山の辺の道を歩く ③櫟本から帯解まで

2013-05-02 22:51:01 | 奈良を歩く
 2013年4月18日(木)

 山の辺の道は、昨日の最後の石上神宮からさらに北上して奈良市に入り、弘仁寺(こう
にんじ)から正暦寺(しょうりゃくじ)、白毫寺(びゃくごうじ)などを経て、奈良公園
を抜けて近鉄奈良駅まで続くのだが、今日は帰宅の時間を考え、その中の弘仁寺と正暦寺
を中心に巡るコースを歩くことにした。

 奈良駅から前日と同じ電車に乗り、昨日のゴールの天理駅よりひとつ手前、無人で昭和
年代前半の雰囲気を残す櫟本(いちのもと)駅に8時44分に着いた。


 8時55分に出発して、東側の櫟本町の家並みへ。駅前通りの民家に、セイヨウサクラ
ソウがたくさん飾られていた。



 周囲を大和棟(やまとむね)の民家に囲まれた狭い境内の高良神社に行く。社殿もこぢ
んまりしている。


 天理櫟本郵便局前を南へ。高瀬川沿いの通りの角に「右なら 左たつたみち」の古い道
標が立っていた。

 左岸沿いの車道を東進して南北に走る国道169号を越え、和爾下(わにした)神社の
赤鳥居をくぐる。境内の車道際に、「神武天皇遙拝所」の石柱が立っていた。

 左折したカシなどの常緑広葉樹林下に和爾下神社古墳の説明板があり、「全長120m
の前方後円墳で四世紀末から五世紀初頭のものと推定され、周辺は古代大和政権の一翼を
担った和爾氏の本拠地と推定され、周辺の東大寺古墳群は、和爾氏の奥津城と考えられる」
と記されていた。


 その先を右折して石段を上がり、和爾下神社に参拝する。神社は、神護景雲3(769)
年に和爾下神社古墳の上に治道社として祭り、明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに
当たると考証され、和爾下神社と定めたという。

 桃山時代の様式を備えた切妻造り檜皮葺の本殿は、国の重要文化財に指定されている。

 参道を東に抜け、新しい住宅地を北東に上がり、公園として整備された国史跡の赤土山
(あかつちやま)古墳に行く。


 古墳時代前期後半に造られた前方後円墳。墳丘は上下二段構成で、後円部東側に「造り
出し」と呼ぶ儀式の場があり、家型埴輪(いえがたはにわ)が出土したという。

 その造り出し部には、家型埴輪などのレプリカが並んでいた。

 墳丘に上がると、東にシャープの総合開発センターの研究施設や社宅など幾つもの建物
が、南から西には大和平野の民家や工場などの展望が広がる。



 墳丘上を西側の入口まで戻る。計画では北西の和爾町を抜けて弘仁寺に行くつもりだっ
たが、シャープ総合開発センターの東にある白川溜池への道標があったので、それに従う
ことにした。

 経営再建中で相当人員削減をしたと見え、空室のままの社宅が続くシャープの構内の道
を南に抜けて、こちらもがら空きの駐車場の間を通り、高架の国道25号・名阪国道に沿
った側道に回る。

 名阪国道を越える高架の車道の先で、北への細道に入る。シャープ総合開発センターの
東側、釣り堀になっている池沿いに進んで東側台地に上がり、少し戻って白川溜池の南端
付近に回った。この先は山の辺の道である。

 眼前に広々とした水面の展望が広がり、対岸のやわらかな新緑の山並みが気持ちよい。

 白川溜池(白川ダム)は、農業用だったアースダムの堤体をかさ上げした治水ダムで、
農業用水の貯水容量や取水機能を損わずに洪水調節のための治水容量を確保し、高瀬川・
楢川流域の洪水調節を行うという。

 池の西側を中ほどまで進んで遊歩道に下り、取水塔近くまで進んでさらに下って小さい
流れを渡り、小規模な古墳公園に入った。

 かつて、この南には和爾小倉谷(わにおくらだに)古墳群と呼ぶ7基の古墳があったが、
1991年に白川ダム建設に伴い、この地に1号墳から3号墳までを移築復元したという。

 2号墳、3号墳には横穴式石室があった。


 ダムの北側、台地上の広い車道を東進する。八重桜の並木に沿って300m余り進むと、
北側の山すそに並ぶ虚空蔵町(こくぞうちょう)の家並みが見下ろせる。


 奈良市内に入り、突き当たりのT字路を左折し、大和青垣国定公園や東海自然歩道の標
柱の立つ次のT字路も左折して、折り返すように虚空蔵町の旧道へ。


 水の入る前の棚田に沿って進み、りっぱなツツジの咲く民家の前を北に上がる。


 次のT字路を左折すると弘仁寺である。志納金を山門にある箱に入れて境内に入った。


 山を背にした静かなたたずまい。境内に八重桜やツツジ、フジ、ムラサキモクレン、ア
セビなどが花を競い、たくさんのモミジなどの新緑がみずみずしい。


 弘仁寺の創建は、嵯峨天皇が夢枕に出た地を探して建立したという説と、弘法大師が虚
空蔵山に流星が落ちるのを見て開基したという二つの説があるようだ。現在の建物は、戦
国時代に兵火で焼失したのを、江戸時代の1629年に再興したのだという。


 境内の中心に重厚な本堂↑があり、奥には運慶作といわれる大日如来像や、役行者(え
んのぎょうじや)像、不動明王像などを祭る明星堂↓があり、本堂の南下には庫裡(くり)
と思われる長い建物が並ぶ。本堂に上がり、本尊の虚空蔵菩薩を拝観した。


 境内を巡るうちに正午になったので、西側入口付近のモミジの下の石に腰を下ろして昼
食にした。

 山門を出て石段を下る。弘法大師が自ら刻んで奥の院の本尊としたという、不動明王の
石仏を祭る小さい不動堂が祭られ、傍らに「阿伽水の井戸」と呼ぶ湧水の水源があるが、
現在の湧水はわずかのようだった。


 さらに下って小さい流れを渡り、高樋町の集落を北西に進む。JAの先、時計塔のある
三差路を右折して、菩提仙川(ぼだいせんがわ)を挟んだ南面の新緑などを眺めながら東
北に向かって緩やかに上がって行く。


 700mほどのところに「ハナキレ地蔵」と呼ぶ、鎌倉時代の作で等身大の地蔵や、
「南無阿弥陀仏」と刻まれた慶長12(1607)銘の六字名号碑などを祭る地蔵堂があ
った。気温が上がって午後の日差しが暑く感じる。


 さらに同じくらい進むと「大本山正暦寺」の石碑が立ち、そばに「泣き笑い地蔵」と呼
ぶ2体のお地蔵さんが並んでいた。


 その先は正曆寺境内、しばらくはりっぱなカエデの木々が続き、その数は千本を超える
とか。秋には「錦の里」とも呼ばれる紅葉の名所のようで、その彩りがしのばれる。


 帰路となる円照寺方面への山道の上がり口に周辺の案内図があり、近くには「日本清酒
発祥之地」碑が立っていた。


 境内を流れる菩提仙川の清流を使って醸造された「菩提仙酒」は、至極上酒だったこと
が、室町中期、京都・相国寺(しょうこくじ)鹿苑(ろくおん)院内の蔭涼軒主(おんり
ようけんしゅ)の記した公用日記、「蔭涼軒日録」に記されているという。

 正暦寺は正暦3(992)年、一条天皇の勅命で創建、創建当初は坊舎86を数え、勅
願寺としての壮麗さを誇っていたようだが、現在は本堂、福寿院などわずかな伽藍を残す
のみとなっている。

 今日から、秘仏薬師如来椅像(いぞう)と客殿・福寿院に続く瑠璃殿の公開が始まって
いた。福寿院に上がり、周囲の木々を借景にした見事な庭園を眺める。




 さらに瑠璃殿と薬師如来椅像も拝観した。


 川を挟んで少し奥の高台にある本堂前の広場では、薬師会式の最後の火渡りが行われて
いるという。回ってみたらすでに火は燃え尽きていて、ほぼ火の消えた炭火の上を、寺の
僧や参拝の方々が裸足で次々に渡っていた。


 1時間前後滞在し、案内図のところから西方への山道へ。少し上がって小さい峠を越え、
10分足らずで土道から細い車道となる。


 しばらくは杉などの針葉樹林下を進み、やがて南面が開けて谷地田沿いに出た。

 「五つ塚古墳群」の説明板があり、山すそに5つの古墳が並んでいると記されていたが、
どこが古墳かは地形を見ても認識できない。


 その先に潅漑用のため池があり、池の南面に赤鳥居の立つ中の島が見える。池畔の道路
沿いには、山の辺の道の案内図と木製の万葉歌碑が立っていた。

 道路北側の赤鳥居が円照寺への道。木の段を上がって竹林などの林間を進むと、ひっそ
りとした大師堂が現れた。


 そばのT字路を右折してすぐ先に円照寺の山門がある。


 円照寺は、京都・修学院から移された門跡寺院とか。拝観は出来ないので門から正面の
建物などをのぞくだけだが、建物への参道はきれいに掃き清められていた。


 西への参道を少しで、東海自然歩道の標識に従い北側の山道へ。ヒノキなどの林間を西
へ回り込んで行くと地蔵堂があり、回りにもたくさんの石仏が並ぶ。


 竹林を抜けると「山の辺の道」の標柱が立ち、北に向きを変える。


 溜池の向こうに八島町の集落が広がり、池の横を進んで北側の崇道天皇八嶋陵に行く。
どこの天皇陵にも説明はないが、ここも宮内庁の注意書3条だけである。


 山の辺の道に分かれ、西側の車道に出て円照寺参道の入口まで進む。田んぼの中を西へ
真っ直ぐに伸びる農道に入り、北に若草山などの山並みなどを眺め、国道169号を横断
する。


 小学校の南側を回り、帯解(おびとけ)駅近くの住宅街に入る。16時6分の奈良駅行
き電車を目指して急いだが、2、3分ほど足りず、間に合いそうにない。

 文徳天皇妃がここの地蔵尊に祈願されて清和天皇をご安産して寺号を賜ったとされ、安
産・子育ての霊験あらたかな寺として信仰を集める帯解寺に寄り、参拝する。


 駅周辺の大和棟の並ぶ通りを回ったり、駅近くの店でアイスを食べたりして少しの時間
を費やし、16時半にJR帯解駅に着いた。


 16時52分発奈良行きに乗って奈良で奈良線に乗り継ぎ、京都駅発18時29分のひ
かり532号で東京駅に向かった。

(天気 快晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 大和郡山、歩行地 天理市、奈良市、
 歩数 26,300、累積標高差 上り・下り各380m) 




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奈良・山の辺の道を歩く ②巻向から天理へ(その2)

2013-04-30 22:53:52 | 奈良を歩く
 2013年4月17日(水) (続き)

 昼食を終えて北へ。正面に念仏寺の大屋根が迫る。



 近づくと、門前で「お墓参りの心得」を下げた大きな童僧の石像が迎えてくれる。境内
は広くはないが植栽はよく手入れされ、紅葉のようなモミジの若葉や八重桜が映える。


 東に回り、念仏寺の墓地や柿畑の間を進む。東側一帯は前方後円墳の灯籠山古墳のよう
だが、墓地と柿畑なのでそうとは見えない。





 次の小集落の五社神社のある十字路を東から南に回り込み、中山大塚古墳の北東にある
西殿塚古墳へ。

 全長234mの前方後円墳で、第26代継体天皇の皇后・手白香(てしらか)皇女の衾
田(ふすまだ)陵とされるが、実際はもっと前の3世紀後半の造営とみられるという。

 五社神社の十字路に戻り、次の萱生(かよう)町の集落に入った。古墳時代後期の前方
後円墳、西山塚古墳の東側を通過する。


 その古墳の環濠の一部利用して環濠(かんごう)集落があり、家並みが水に影を映す。

 環濠集落は大和の戦国乱世が生んだ自衛の集落で、用水を兼ねた濠の内部に竹やぶを植
え込んだというが、現在残っている環濠も家並みもわずかである。

 萱生町集落の北端の交差点際から、北西間近に前方後円墳、波多子塚古墳の後円部が見
える。四世紀前半の築造と考えられるようだが農地になっていて、石垣が階段状に設けら
れていた。


 その先に萱生町の大きな看板があり、「大和平野を一望できるスポット 特産物は刀根
早生柿とみかん」と記されていた。確かにこの辺りの標高は100m前後で、今日は霞ん
ではいるが大和平野の展望が広がる。


 近くに「みちふく」という休み処がある、この日は休業日のようで、くさりが張られて
いた。


 東側に広がる柿畑や新緑の山並みなどを眺め、木のイスとベンチのある休憩所前を通過
し、ナノハナの咲く竹ノ内町の集落へ。


 新しいトイレと休憩施設があったので、ベンチでひと休みする。


 ここにも集落を囲む環濠があったようだが、いまはほんの一部だけが残り、そうと知ら
ねば気づかずに通過してしまいそう。


 次の乙木(おとぎ)集落南端に「せんぎりや」という無人販売の店があり、地元産の米
や野菜、果物などを販売している。おいしそうなかき餅があったのでひとつ求めた。



 家並みの間の細い通りへ。集落の中心、十字路際のお宅のベニバナトキワマンサクが満
開だった。


 集落を抜けると、大きなクスノキなど繁る夜都伎(やとぎ)神社の森が見えてきた。

 昔から奈良春日神社と縁深く、明治維新まではハスのお供えを献供し、春日神社からは
社殿と鳥居を下げられるのが例だったと伝えられているという。


 拝殿は珍しいわらぶきだが、かなり傷んでいる。本殿は春日造りの社殿が大小4つ並ん
でいた。


 神社の西を回って行くと、北に東乗鞍古墳が見えてきた。古墳の東を進んでT字路に合
し、東側山麓の園原町の小集落に入る。


 山麓を北へ緩やかに上がって天理観光農園の建物↑に入り、「峠の茶屋」と呼ぶ休み処
で休憩して、絞りたての生ジュースを味わう。


 庭にはベニバナトキワマンサクが数本満開。この花は近くの民家にも何か所かで咲いて
いた。建物の横にはシロヤマブキも花を見せている。


 少ない家並みが途切れ、石畳を少し上がって峠となり、柿畑の間を下る。ため池のそば
に「永久寺跡」の説明板が立っていた。


 寺は永久年間(1133~7)に建立され、これから訪ねる石上(いそのかみ)神宮の
神宮寺として盛時には大伽藍(だいがらん)が並んでいたが、明治の廃仏毀釈(はいぶつ
きしゃく)で廃寺となり、いまは池を残すだけという。

 当時の絵図も並んでいたが、広い境内に多くの堂塔が並ぶ様子は、池と山林だけの現在
地では全く想像できない。


 南北朝時代、後醍醐天皇が吉野遷幸の時に立ち寄った地とされる「萱野御所跡」碑もあ
り、池の北端には、当時永久寺を訪ねた芭蕉の句碑が立っていた。


 国道25号天理トンネルの西側で国道の下をくぐり、静かなたたずまいの池の横を進み、
うっそうたる石上神宮境内の森に入る。

 鏡池の角で西からの参道に合し、神の使いとされる鶏の遊ぶ参道を上がる。



 国重文の楼門を入って、国宝、檜皮葺(ひわだぶき)屋根の拝殿に参拝する。


 石上神宮は日本最古の神社で、神武天皇が即位した時に宮中に祭られ、崇神天皇7年に
ここへ移されたという。


 楼門横の回廊には、奉納された清酒の樽が並び、南北朝時代の応安2(1369)年銘
の松製の鎧櫃(よろいびつ)や古い自衛消防ポンプも置かれ、寺跡でも見た「内山永久寺
之図」も掲示されていた。

 楼門を出て南側高みには、国宝で廃寺となった永久寺から移設した出雲建雄神社の拝殿
↓や、天神社、摂社拝殿などが並び、その一角から拝殿後ろの本殿屋根も望まれる。


 山の辺の道はこの先北へ、奈良市内まで続くが、多くの人が歩くのは、昨日から歩いた
桜井駅からここ石上神宮までである。

 昨日は多くの神社を訪ね今日はたくさんの古墳を巡り、いにしえの奈良の歴史を再認識
し、新緑あふれる山並みや、春の花を眺めながらの静かな里道歩きを楽しむことが出来た。

 道標や説明板も多く休憩所やトイレも適度にあり、車を気にせずに歩ける、ほかでは得
られぬ道筋だった。沿道には数多くの無人販売所もあり、ゴミも無く、歩く人のマナーの
良さも感じられた。

 欲を言えば、途中の波多子塚古墳の説明板のところで会った、東大阪市の元消防署職員
の方が言われた、30年前とはすっかり変わってしまったと嘆いていた当時の、この地方
特有の民家の並ぶ里道を歩いてみたいことだった。


 参道を下って車道に出て、北進して国道25号に入ると、天理教本部周辺の大きな建物
群が見えてきた。布留川の橋の先で、西に直進して天理駅に向かう道に入る。



 明日の天理教教祖祭を控え、全国各地の教会のはっぴを着た信者が行き来し、たくさん
ののぼりやちょうちんの並ぶ天理教本部前を通過する。



 長いアーケードの続く天理本通に入り、参拝者用の土産物店などをのぞきながら進み、
17時25分にJR桜井線の天理駅に着いた。




(天気 曇後晴、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 桜井、大和郡山、歩行地 桜井市、
 天理市、歩数 23,900、累積標高差 上り 約260m、下り 約270m)




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奈良・山の辺の道を歩く ②巻向から天理へ(その1)

2013-04-29 22:40:47 | 奈良を歩く
 2013年4月17日(水)

 前夜は奈良市内のビジネスホテルに泊まり、昨日のゴールのJR桜井線の巻向(まきむ
く)駅に、8時57分に下りた。駅は無人でホームは東側だけ。9時1分に駅を出る。


 国道169号を少し進んで、相撲神社口バス停のある交差点を東に向かう。すぐ先に、
昨日は急いでいて気づかなかったが「垂仁天皇纏向(まきむく)珠城宮(たまきぐう)跡」
碑が立っていた。


 近くの巻野内集落の東端付近には、国指定史跡の珠城山(たまきやま)古墳群がある。
古墳時代後期の古墳で、1号墳から3号墳まで、三つの古墳が東から西へと並んでいる。

 西端の3号墳に上がり、墳丘上を2号墳の方に進む。



 東に三輪山や山麓の穴師集落方面が、南西には纏向遺蹟中の箸墓(はしはか)古墳↑、
北にはこれから向かう景行天皇陵↓が望まれる。


 さらに1号墳に回ると、南面に横穴式石室が残っていた。


 古墳の東、小さな池の横から昨日の延長になる山の辺の道に入り、田んぼの間を北に向
かう。


 田のあぜに、見たことのないピンクの小さい花が咲いていた。


 振り返って、いま通ってきた珠城山古墳を眺める。


 黒いテント掛けの無人スタンド前を過ぎ、桜井市から天理市に入り、景行天皇陵とされ
る渋谷向山(しぶやむかいやま)古墳の後円部東端へ。

 古墳時代前期に築造されたものでは国内最大の古墳とか。全長約300mの前方後円墳
で、この周辺では1番大きく、奈良県下でも2番目という。でも、そばに行くとそのスケ
ールは感じられない。


 北側の景行天皇陵ろ号陪塚のそばを通過し、渋谷町の集落に入る。公民館や卑弥呼庵
(ひみこあん)と呼ぶ民家を開放した茶どころ、甘夏などの無人販売所前を過ぎる。

 大和瓦の大きな民家を見下ろし、小さい流れに向かって車坂を下る。その大きな民家の
横には、黄門竹のつえを100円で売っていた。



 渋谷町に続く山田集落を北に出ると、行く手に崇神(すじん)天皇陵↑が、北西に黒塚
古墳↓が見えてきた。


 休憩所の横を通過して、崇神天皇陵とする前方後円墳、行燈山(あんどんやま)古墳の
後円部東側に着いた。

 全長242mあり、このあたりの柳本古墳群では、先ほどの渋谷山古墳(景行天皇陵)
に次ぐ大きさという。古墳周辺でサンコウチョウがしきりに鳴く。

 山の辺の道を挟んで東には、全長155mの双方中円墳と呼ばれる珍しい墳形の櫛山
(くしやま)古墳がある。その間を行燈山古墳の北へ回り込むと、路傍のクヌギが花を見
せる。



 環濠の中に桜の古木が花を広げ、西には天神山古墳も現れた。


 次の北別所集落の西端にある大きな休憩施設、天理市トレイルセンターへ。構内の八重
桜が見頃で水琴窟(すいきんくつ)もあり、周辺に広がる柳本古墳群の説明パネルが立つ。



 建物内では山の辺の道の情報が得られ、卑弥呼の鏡で知られる三角縁神獣鏡や土器、食
物の種で描いた絵文字などが展示され、無料で飲める湯茶のサーバーもあり、ゆっくりと
休憩や昼食ができる。


 20分ほど休んで北に出て、山門をくぐって東側の山すそにある長岳寺に入る。天長元
(824)年に淳和天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられ、盛時には48坊、
宗徒300余名を数えたという。


 国重文で日本最古の鐘楼門を入ると、放生池を囲む境内はみずみずしい新緑が広がり、
八重桜やモミジが彩りを添える。


 小さい石の祠に祭られた四国八十八ヶ所を巡ることも出来る。まずは境内を一巡して、
それらを眺めた。



 鐘堂から大師堂↑などを経て本堂↓に上がり、国重文で玉眼を最初に使ったことで名高
い阿弥陀三尊を拝観する。





 さらに鐘楼門そばの旧地蔵院の庫裡(くり)と、庫裡に続く地蔵堂内部を拝観し、ふす
ま絵や松などを配した庭園を眺める。50分近く境内を巡り寺を出た。


 トレイルセンター北の上長岡集落を抜けた辺りからは、東に新緑の山並みが広がる。中
山町集落の向こうに、中山大塚古墳が見えてきた。



 大和瓦の家並みの並ぶ中山町を北に抜け、眺めの良い休憩テラスと柿本人麿歌碑や、柿
畑の間を通過し、中山大塚古墳↑の西側台地に上がった。




 南に面して中山観音堂があり、そばの広場に「最古の御社 大和(おおやまと)神社御
旅所」の標柱が立つ。


 東側に広がる新緑の彩りが気持ちよい。


 広場の北には歯定(はさだ)神社の簡素な社殿がある。正午を過ぎたので、神社の横の
ベンチで昼食にした。


(続く)




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奈良・山の辺の道を歩く ①桜井から巻向まで

2013-04-27 22:47:05 | 奈良を歩く
 2013年4月16日(火)

 かねてから歩きたいと思っていた、大和平野の三輪山から北へ連なる山すそを縫うよう
に伸びる上古の道、「山の辺の道」を歩きに出かけた。

 東京駅発7時33分発東海道新幹線ひかり503号に乗る。京都、奈良で乗り継ぎ、正
午過ぎにJR桜井線の桜井駅に着く。


 駅北口に近い、「いにしえ茶屋」と呼ぶ店で三輪そーめんの昼食をして、12時43分
に出発した。

 川沿いを東へ、JR奈良線の線路を越えて桜井高校前まで進み、左折して北へ向かう。
三輪素麺(そうめん)を製造する巽製粉の工場前を通過し、大和川沿いに出た。


 三輪山の淡い新緑の彩りが気持ちよい。


 東進して二つ目の馬井手橋際に、海石榴市(つばいち)の説明板があり、「七世紀の頃、
山の辺の道をはじめ幾つかの古道が交わるこの周辺に大規模な市があり、平安時代には伊
勢詣でや長谷寺詣での宿場町として有名になった」と記されていた。

 車の通れぬ馬手井橋を渡ると、大きな「仏教伝来之地」碑が立つ。


 この地は難波津(大阪)から大和川をさかのぼってくる舟運の終着地で、日本書紀にも
記された百済(くだら)からの仏教伝来使節が上陸したと伝えられているという。


 対岸にそのイメージを描いたタイル絵があり、橋の上流右岸には馬の飾り物が数個並ん
でいた。



 大和瓦の家並みの続く金屋集落へ。左カーブ点の所を右に入ると海石榴市観音堂があり、
石造りの小さい観音様が祭られ、境内にもたくさんの石仏が並んでいる。


 小さい流れ沿いの住宅地を緩やかに上がる。家並みの途絶えた辺りの小さいコンクリー
ト造りの収蔵庫に、「金屋の石仏」と呼ぶ2体の石仏が祭られている。


 高さは2.14mで、釈迦如来像と弥勒菩薩像が浮き彫りにされ、平安時代後期の造立と
考えられるという。


 「やきもののうめだ」と呼ぶ陶芸の窯元の先、Y字路際に「第十代崇神天皇磯城瑞籬宮
(すじんてんのうしきのみずがきのみや)趾」の大きな標識があり、そばの日向神社↓境
内に、その石柱が立っていた。


 竹林を進んで右に回り込み、石段を上がって平等寺(びょうどうじ)に入る。


 581年に聖徳太子が建立し、徳川時代には修験道の霊地として、大峰山に向かう修験
者が境内の不動の滝で修行したとか。


 境内には鴟尾(しび)を載せた本堂を中心に、不動堂、二重塔の釈迦堂、鐘楼、山門な
ど多くの堂塔が立ち並び、聖徳太子立像や十六羅漢の石造などもある。


 平安時代の延喜式神明帳(えんぎしきしんめいちょう)に記され、神社では珍しい北向
きの小さな社殿の神坐日向(みわにますひむかい)神社↑横を過ぎ、大和国一ノ宮の大神
(おおみわ)神社に入る。


 「三輪明神」とも呼び、背後の三輪山をご神体としており、国重要文化財で檜皮葺(ひ
わだぶき)の壮大な社殿の奥に三つの鳥居が立ち、本殿はない。

 酒屋の軒先に下がる杉玉は三輪山の杉で造られるので、全国の酒造家の信仰が厚いとい
う。

 平成9年竣工の祈祷殿には大きな杉玉が吊され、境内には、巳の神杉(みのかみすぎ)
と呼ぶご神木の大杉が立つ。



 平成21年に整備したという新しい参道「くすり道」を進むと、大神神社の摂社で薬の
神として信仰される磐座(いわくら)神社がある。神様が鎮まる岩が祭られていて社殿は
無く、原始の神道の姿を伝えているのだという。


 さらに林間を進んで鎮女池(しずめいけ)のほとりに出る。中の島には、大神神社の末
社で海や水の守護神である市杵島姫(いちきしまひめ)神社が祭られ、池にはたくさんの
コイが泳いでいた。


 その奥には、三輪の神様の荒魂(あらたま)を祭り、病気平癒の神として信仰される狭
井(さい)神社があり、2日後の鎮花祭を控え、拝殿の前にはビニールテントが張られて
いた。


 拝殿の右手手前に三輪山への登拝口があり、社務所に申し込むと山頂まで往復して登拝
出来る。


 また、社殿の左奥には、三輪山から湧き出る霊験あらたかな「くすり水」として知られ
る薬井戸があり、多くの参詣者が霊水をいただいていた。


 狭井神社までで大神神社の広い境内は終わる。市杵島姫神社まで戻り、東海自然歩道の
案内図の横から北に向かう。


 梅や柿の畑などの間を下り、万葉集の歌碑前を過ぎる。


 民家の横のT字路を左に入ると、「神武天皇聖蹟狭井河之上顕彰碑」と刻まれた大きな
碑が立っているが説明板はない。


 T字路際に「花もり」と呼ぶヘルシーな野菜膳などの食事どころがあり、そばに大神神
社の末社の一つ、貴船神社の小さな社殿もあった。



 少し先、右手高みに池の堤防があったので上がってみたら、上にもう一つ池があり、そ
の間に八大靇王大神神社が祭られていた。



 池の下のレンゲの咲く田んぼの横や、新しい石だたみの林間を進んで、玄賓庵(げんぴ
あん)と呼ぶ静かなたたずまいの寺へ。


 平安時代、三輪山の桧原谷に玄賓僧都が隠棲(いんせい)した庵(いおり)を、明治の
神仏分離でここに移したとのこと。謡曲「三輪」の舞台として知られているという。


 玄賓僧都が修行したという小さな流れの滝を過ぎ、杉林の林間を抜けて桧原(ひばら)
神社境内に入る。神社は、林の中に三つの鳥居が立つているが社殿は無く、三輪山山中の
岩座をご神体としているとか。

 左手には、桧原神社と同様に大神神社の摂社の一つで、第十代崇神天皇の皇女を祭る、
豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の小さい社殿があった。

 境内からは、午後の逆光に霞む大和盆地や二上山(にじょうさん)が望まれる。


 西に下る道路際に地元の野菜などを販売する無人小屋があったので、ふきの佃煮を求め
る。この先の山の辺の道沿いにも、幾つも同様の無人販売施設があった。



 行く手の穴師集落の家並みや、背後の新緑を眺めながら三輪山の西麓を右に回り込み、
八重桜咲く穴師集落でヘヤピン状に折り返す。


 幾つかある万葉歌碑や無人スタンドを見ながら集落を進む。


 小さい坂の上がり口にあった無人スタンドで、大福もちを求める。とてもやわらかで、
疲れてきた足取りに元気を与えてくれる。坂を上がると「みかん発祥の地」の立て札が
あった。

 果樹園の売店の手前、東海自然歩道の道標のあるT字路から、果樹園の間を緩やかに東
に上がる。北側に上がってきた道路と合する広葉樹林の中に、相撲(すもう)神社の小さ
な社殿が祭られていた。


 「国技発祥の地」の説明板があり、「第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰(のみのすくね)
と当麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天皇の前で相撲を取ったこの地に、昭和37
(1962)年10月、日本相撲協会の時津風理事長、大鵬、柏戸の2横綱や5大関など
全力士が訪れ、境内の土俵↓で手数入りが奉納された」ことなどが記されていた。


 同メンバーが同じ日に顕彰大祭を行ったという大兵主(だいひょうず)神社は、すぐ先
の山ふところある。第10代崇神天皇の頃に創建と伝わる古社で、拝殿の奥に三つ屋根の
本殿を構え、生産と平和の神、芸能の神、スポーツの神が祭られているという。



 穴師集落の北端付近から、「歴史街道山の辺の道」の標識の埋め込まれた道を、西に向
かって緩やかに下り、「穴師かむなびの郷」と呼ぶ山の辺の道キーステーションの建物や
「景行天皇纏向(まきむく)日代宮跡」標石などの横を通過する。


 北には、明日向かう景行天皇陵の大きな前方後円墳が望まれた。


 山の辺の道を右に分け、珠城山(たまきやま)古墳の南側を進んで国道169号に入る。
18時5分にJR桜井線の巻向(まきむく)駅に着いた。

(天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 桜井、歩行地 桜井市、歩数 17,900、
 累積標高差 上り・下り 各約220m)




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奈良・平城宮跡東院庭園から法華寺へ

2010-05-16 22:33:26 | 奈良を歩く
 2010年4月21日(水)(続き)

 平城宮跡めぐりの最後は、東南の位置にある東院庭園(とういんていえん)に
入りました。


 平城宮には、ほかの日本古代都城の宮殿地区には例のない、東の張り出し部
を持つのが特徴のようです。

 この南半分は、皇太子の宮殿があった場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ば
れていて、その南東端にあった庭園を復元したものです。

 この庭園は中心に池をめぐらし、2つの建物がありました。







 池の周囲を時計回りで一周して、東院庭園を出ました。

 庭園の塀に沿って東北に進み、奈良市法華寺町にある法華寺に行きました。

 法華寺は、光明皇后の願により創られた日本総国分尼寺です。

 この山門を入って、法華寺を拝観しました。


 本堂に向かうところの、八重桜が満開でした。


 法華寺本堂。内陣では、本尊の十一面観音や、木造梵天、帝釈天、横笛座像
など、多くの仏像が拝観できます。



 境内に立つ幾つかの建物。


 国の史跡 名勝になっている庭園も拝観しました。庭園の面積は五百坪ほどあり、
への字形の土橋を境に、手前は広い池になっています。




 庭園を出て、さらに境内の建物などを見て回りました。これは「からふろ」と
呼ぶ浴室。光明皇后が、薬草を煎じてその蒸気で、多くの難病者を救済され
たところのようで、国重要文化財です。


 光月亭と呼ぶ建物は、奈良県月ヶ瀬村の民家を移築したもので、18世紀の
建設と推定され、県文化財です。


 境内東側には、植物園のような一角があり、そこに咲いていた「五月梅」と
呼ぶ木の花です。


 法華寺の拝観を終えて南東に進み、佐保川を渡って近鉄奈良線の新大宮駅
に15時半過ぎに着き、今回の5日間の京都・奈良をめぐる歩き旅を終え、京都
経由で帰途につきました。

 (天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 奈良、歩行地 奈良市)
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奈良・唐招提寺から平城宮跡へ

2010-05-15 23:24:52 | 奈良を歩く
 2010年4月21日(水)

 昨年秋に10年がかりの解体修理を終えた、唐招提寺金堂を拝観しようと、近鉄
橿原線の西の京駅に降りました。

 線路の東側を北へ、10分足らずで唐招提寺の玄関、南大門を入ります。正面に
堂々と立つのが、平成の大修理を終えた金堂、わが国現存最大の天平建築です。


 金堂の東北に2棟の校倉(あぜくら)造りの建物が残っています。経蔵と宝蔵、
これは経蔵だったと思います。


 新緑に覆われた広い境内の東北部にあるのが、聖武天皇の招請に答えて唐か
ら来日してこの寺を開山した鑑真和上(がんじんわじょう)の御廟(墓)です。

 鑑真和上は、この寺で天平宝字7年(763)、76歳にて世を去りました。
 
 御廟前に、和上の故郷・揚州から贈られた瓊花(けいか)が植えられ、例年なら
可憐な白い花を咲かせるころなのですが、今年は春先の天候不順で、まだ開花
前でした。   


 御廟の南にある新宝蔵に入り、国宝である金堂の鴟尾(しび)や、重要文化財の
仏像など17点ほかを拝観し、唐招提寺を後にしました。

 寺の東南端で、南北に流れる秋篠川を渡り、左岸沿いの自転車道を北に向かい
ます。


 1.5㎞ほど進んで川を離れ、近鉄奈良線の踏切を渡り、東側一帯に広大な草
地が広がる、平城宮跡に入りました。

 まず、北東にある平城宮跡資料館に入ろうとしたれ、「平城宮遷都1300年祭」
(4月24日~11月7日)のオープンを3日後に控え、休館中でした。

 それではと、南側中央部に完成している朱雀門に向かいます。平城宮跡の南
側を、近鉄奈良線が走っています。


 朱雀門のすぐ北に、新しい踏切が完成していたのですが、1300年祭までは使
えないのか閉鎖されていて、東側の既存の踏切を回って朱雀門に行きました。

 平城宮の入口にあたる、南側から見た朱雀門。

 この左手には、平城京歴史館があるのですが、これも閉鎖中、館の外に、平城
遷都1300年祭を機に復元した、遣唐使船が展示されていました。

 全長約30m、マスト高約15mで、当時のものを原寸大に復元したようですが、
このような小さな船で唐まで航海するのは、さぞかし大変だったろうと想像され
ます。

 渡った近鉄線の踏切の南側は兵部省跡。兵部省は奈良時代の官庁のひとつ
で、兵士、兵器、軍事施設の管理や、武官の人事などを担当した部署です。礎
石などが復元されていました。


 平城宮の中央部に戻ると、3日後から運行を開始する「ハートフルトラム」と呼ぶ
観覧者運搬用の電気自動車が、試運転を始めたところでした。

 
 ハーフトラムの運行ルートの北側が、1300年祭の目玉施設ともいえる、完成
したばかりの第一次大極殿。この日はまだ、そばに行くことはできませんでした。

 手前のテントは、オープンセレモニーのための施設のようです。

 第一次大極殿の東側は、第二次大極殿があったところ。その南側にある第二次
朝堂院跡。


 第二次朝堂院跡に上がると、西にアンテナ塔の林立する生駒山が望まれます。


 そして東には、大仏殿や若草山などが見えています。


 広い草地のあちこちに、1300年祭に向けた、飾り物が見られました。


 復元された第一次大極殿の南側に、一部復元された第一次朝堂院の建物と
塀が見られます。


 このあと、平城宮跡の東南にある、東院庭園に向かいました。 (続く)
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