あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

「夫婦で歩き描いたヨーロッパ縦断4000km」発刊

2006-05-30 23:07:17 | ウオーキング
 日本でカントリーウオークを最初に提唱し、自ら実践を続け、さらに青少年に
歩く旅の指導を続けてきた、「やまさん」こと、カントリーウオーカーの山浦正昭
さんと、パートナー(やまさんは「奥さん」とは言わない)の山浦敬子さんが、19
93年から2002年までの毎年夏、デンマークの最北端からフランスのニース
までの、ヨーロッパ縦断400kmを歩いた旅をまとめた本が、出版されました。

 タイトルは「夫婦で歩き描いたヨーロッパ縦断4000km」、46判246頁、
新評論発行、税込み価格1890円です。


 その行程をざっと紹介すると、
93年7/26~8/17<デンマーク>スカーエン~フレンスブルグ 600km
94年7/31~8/18<ドイツ>フレンスブルグ~リューネブルグ 400km
95年7/24~8/15<ドイツ>リューネブルグ~デトモルト   500km
96年7/25~8/14<ドイツ>デトモルト~コブレンツ     400km
97年7/23~8/ 7<ドイツ>コブレンツ~カールスルーエ   400km
98年7/24~8/21<ドイツ>カールスルーエ~コンスタンツ  410km
99年7/21~8/ 6<スイス>コンスタンツ~インターラーケン 315km
00年7/24~8/ 6<スイス>インターラーケン~ジュネーブ  300km
01年7/21~8/ 7<フランス>ジュネーブ~グルノーブル   330km
02年7/21~8/15<フランス>グルノーブル~ニース     470km
 となっています。

 発行元の「新評論」のPR誌最新号に、やまさんは以下のように(前部略)
記しています。
 
『私たち夫婦は10年かけて、デンマーク~フランスのヨーロッパ徒歩縦断歩行
を敢行した。私は49歳、パートナーの敬子さんは42歳のときで、まだまだ
「ウオーキング」という言葉が今ほど市民権を得ていないころで、海外旅行と
いえばイコール非日常的な日々を送ることであった(つまりリッチに)。

 そんな当時に、大きなリュックを背負って、キャンプやユースホステルを利用
してヨーロッパを歩きの旅をする私たちはきっと「変わり者」という単語でくく
られていたのだろう。
 
 しかし、ひとたびヨーロッパへ出向いて歩き出せば、私たちはごく普通の
カップルだった。重いザックを背負って、悪天候の日も、険しい山道も、自分の
足で歩き通した体験によって、どんな険しい道のりでも「恐れず、逃げず、退か
ない」という精神が体内にしみ込んだようにも思う。

 働き盛りの年代を高度経済成長期に通過した人たちが、これからどんどんと
高齢者になっていく。年金の問題、介護の問題など、今後予想される社会環境
は決してバラ色とはいえない。

 そんなかかでより有意義な人生を送りつづけるための一つの方法として
「歩く旅」を取り入れてみてはいかがだろうか。

 高齢者に限ったことではない。これから人生を歩んでゆくのに、今までのよう
にコストとエネルギーの浪費をするような方法ではすぐにエンストを起こして
しまう。
 
 これからは、もっと地に足つけて、自分のことは自分で行う「セルフライフ」を
心がけなければならない。

 夫婦である以上、目標は同じだが、互いを束縛しないで、それぞれが自立して
自分の道を確実に進んでいく。そんな生活感を「歩く旅」から感じ取っていただけ
れば幸いである。』


 ウオーカーの皆さん、第2の人生をどう歩むべきか考えている方、さらに若い
方にも読んでもらったらと、お勧めします。

 ちなみに、発行所の「新評論」をご存じない方もおられるかと思いますが、同じ
山浦正昭さんの『歩く道はぼくたちの学校だあ』(1890円)や、細谷昌子さんの
『熊野古道』(3360円)と『四国へんろ記』(3150円)、さらに、皇太子殿下が
45歳の誕生日に朗読された詩「子ども」を収録した『あなた自身の社会』
(スウェーデンの中学教科書)なども出版しています。




                            
 

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サンショウの実と若葉を採る

2006-05-29 22:31:22 | Weblog
 
 庭のサンショウの実がほどよい大きさになったので、今日の午後、連れ合いと
収穫しました。若芽も一緒に摘み採り、佃煮になります。


 月末締めの原稿作成に追われ、ブログへの投稿は間に合いません。明日中に
原稿を発送したいのですが、うまくまとまるかどうか…。
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カントリーウオーク大利根町(埼玉)

2006-05-28 23:48:25 | カントリーウオーク
 朝、家を出るときは雷雨で、駅に行くまでに靴の中もちょっと濡れてしまい
ましたが、次第に天候は回復しました。

 本日は、カントリーウオークグループの5月例会で、埼玉県東北部の大利根
町を中心に歩きましたので、その概要を報告します。


06年5月28日(日)
 いつもより少な目の13人が、JR宇都宮線(東北線)・東武日光線栗橋駅
西口をスタートする。メンバーは平常は男女ほぼ半数なのだが、今日は133
回目の例会で初めてという、女性はKさん1人だけの変則メンバーとなった。

 まだ雲は厚いが雨は小降り。3グループに分かれ10時8分に駅を出た。

 わがグループは、東武鉄道の線路沿いに北に向かい、カーブ点で線路を越え
て旗井の星福寺に寄る。境内の樹木はクスノキのみ、門前の道路を隔てたとこ
ろに、りっぱなお地蔵様があった。


 旗井の住宅地を抜けると、北側一面に15cm前後に伸びた早苗田の田んぼ
が広がる。

 田んぼの真ん中にあった野菊公園を西に抜け、アスターホールという町の集会
施設へ。03年10月例会で来たときには、大利根町出身で日本の近代音楽の
基礎を作った下総皖一(しもうさかんいち)の作曲した童謡などにちなむ展示が
あったような気がするのだが、そのようなものは残っていなかった。

 田んぼの間を東に、東武鉄道の線路際まで進み、北から東へと少しずつ向き
を変える。水の入った田んぼに、7羽のシラサギが休んでいた。

 東武鉄道の線路が利根川鉄橋にかかる地点の北側、利根川右岸堤防際まで
進む。12.1mの三角点があるはずだが見つからない。そばの家のご主人が
出てきたので聞いたら、そのお宅の庭の隅に鉄のふた付きあった。


 昨日からの雨で水がいっぱいの、用水沿いに新川通を進む。集落の北側の
法輪寺には、高さ3m近い宝篋印塔(ほうきょういんとう)があった。

 寺の北側から利根川右岸堤防に上がる。3年前歩いたときには、昭和22年
(1947)9月のカスリーン台風で決壊した跡に作られた「カスリーン公園」で
昼食をしたのだが、その辺りは幅100mくらいにもなるスーパー堤防の造成
工事中で、公園は跡形もなくなっていた。


 左に広々とした田んぼ、右に河川敷の樹木越しに利根川の流れを見ながら
1.5kmほど進む。河川敷からは、ヒバリ、キジ、ヨシキリ、カッコウ、ウグイス
などの鳴き声が聞こえる。雨はほぼ上がった。


 弥兵衛集落に下ると、12時を告げる下総皖一の曲「かくれんぼ」が、近くの
スピーカーから流れてきた。

 ホテイアオイのある池の横から「道の駅おおとね」に入り、屋根のある休憩所
で昼食をした。遅れてきたIさんとSさんも着き、女性は3人に増えた。


 道の駅の中心には、近くの砂原出身の下総皖一の立像がある。「たなばた
さま」「花火」「野菊」「ほたる」などが下総の作曲として知られているが、ほか
に、合唱曲、協奏曲など2千曲とも3千曲とも言われる作曲をしており、東京
芸大の音楽部長などもつとめ、音楽理論家としても知られた人物である。

 道の駅のメインは「農業創生センター」、建物の前には草花の鉢植えなどが
並び、建物の中では、地元を中心にした農産物やそれらの加工品などをたく
さん販売していた。



記念撮影をして、13時10分に道の駅を出る。午後は全員一緒の歩きで、
道の駅のそばを流れる新元和川用水路沿いの道に入った。

 草の道には、ムラサキツメクサやツバナがたくさん咲いている。穂の伸びた
小麦畑もあるが、昨日の風雨にやられたのか、倒れた麦が多い。

 細間から道目へと、さらに集落の間を流れる用水沿いに進む。オタマジャクシ
がいっぱいの田んぼと、全くいない田んぼがあるが、なぜだろう。

 北平野で、用水は向きを変えて南に向かう。水がいっぱいの流れの上部に、
カワニナがいっぱい張り付いている。今日は不参加だが、ホタルを飼育して
いるAさんに見せてあげたい。

 北下新井の集落に入り、大利根町役場や中学の横を抜け、大利根運動公園
に入り、体育館の前で休憩する。Mさんがコーヒーを沸かして下さり、道の駅
で買ってきた大福餅もごちそうになる。

 さらに南に進むと、新しい町立図書館ノイエがある。ノイエとはドイツ語で
「新しい家」のこととか。建物は茶室のような和風の作りで、屋根に明かりとり
のガラスも張られている。こんな図書館でゆっくり読書をしてみたいものだ。


 500mほど先から東に向かい、区画整理で道路を新設中のエリアを抜け、
稲荷木落と呼ぶ用水路の北側に回る。青空が広がり天気は回復した。

 増えてきた住宅地の間を進んで、16時18分にゴールの栗橋駅に着いた。

(距離 17km、地図(1/2万5千) 栗橋、古河、歩行地 埼玉県栗橋町、
大利根町)

 
 
 

 
  

 

 



 

 
 

  
 

 
 

 

 
 
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第7次中山道ウオーク(下諏訪~塩尻)

2006-05-26 23:36:12 | 中山道を歩く
 午前中久しぶりに、ささやかな家庭菜園の草取りをしました。あちこちの
ウオーキングに出かけ、1か月近く放っておいたので、草がずいぶん伸びて
いました。収穫したのは赤カブです。

 本日は、中山道ウオーク最終日のレポートです。


06年5月19日(金)(下諏訪~塩尻)

 中山道ウオーク前半の最終日は雨、出発前に、太いしめ縄の吊された諏訪
大社秋宮に参拝し、7時45分にスタートした。


 中心街を西に向かい、二つ目の川、十四瀬川の小さい橋を渡って岡谷市に
入る。間もなく右手に大きな本堂の平福寺が見えてきた。境内に入って参拝。
本堂前のツツジ、ボタンなどが雨に濡れてしっとりとした彩りを見せる。


 国道を斜めに横切った先、長池の民家は生垣に囲まれていて、街道らしい
雰囲気をよくを残している。


 塩尻市街の西端まで進む。塩尻峠への上り口にある今井家は、旧御小休本陣
で、皇女和宮が御降嫁の際や、明治天皇がご巡幸の時にも休まれたと記されて
いた。母屋などは国の有形文化財になっている。

 近くには、「右しもすは 左しほしり峠」と記された中山道の道しるべが立って
いた。


 上信越自動車道岡谷インターの東側から塩尻峠への上りが始まる。ふり返る
と諏訪湖は、雨に煙っていた。

 上り口の斜面中腹に石船観音があり、下のツツジが花盛り。斜面から冷水が
流れ落ちている。コップもあったの飲み、でのどを潤した。


 かなりの傾斜が続き、ゆっくりと上ったが大汗をかいた。9時54分に塩尻峠
に着く。北側の展望台に上がってみたが、八ヶ岳連峰や南アルプス、富士山
などは雲に隠されて見えない。気温も低く寒いのでそうそうに下りた。


 峠が岡谷市と塩尻市の市境、新緑に包まれた峠を下り、散在する東山集落を
抜ける。

 上信越自動車道みどり湖パーキングエリアに入り、休憩した。その先、柿沢
集落には、信州独特の屋根、本棟造りの家が現れた。


 塩尻宿に入り、大旅籠だったという小野家住宅前や本陣跡を通過、いったん
国道から旧道に回ると、杉木立に囲まれた阿礼神社がある。先を急ぎ寄らずに
通過した。

 近くには、堀ノ内の名主をつとめた豪農、堀内家住宅がある。18世紀後半
ころの建築と見られ、本棟造りのなかでは大型上質の家として、民家の一頂点
としての価値が高いという。


 大門の市街地を進んで、12時12分にJR中央線塩尻駅に着いた。


当初の計画では、さらに進んで、次の洗馬(せば)宿までの予定であったが、
無人駅で中央線の便も少ないため、変更したもの。

 日本橋から全行程歩きとおした18人?は11日目、私は5日目のゴールで
ある。 第7次中山道ウオーク前半の、参加者は延べ416名、日本橋からの
総距離は281kmとの発表があった。

 隊長のユキちゃん、コースリーダーの伊藤さん、会計担当のえっちゃん、
連絡・点呼担当のオッパーさんほか、お世話になった皆さんと別れ、13時6分
発普通電車で帰途についた。

〈追記〉途中の5月16日夜、歩きの知人Sさんからの依頼で、ロングウオー
クにおける側道歩道などについてのアンケートをお願いしたところ、ゴール
までに9割を超える方から回答をいただきました。回答者の皆さんには、この
場を借りて改めて御礼申し上げます。


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第7次中山道ウオーク(和田~下諏訪)

2006-05-25 21:30:48 | 中山道を歩く
 昨日の雷雨が去り、1日快晴でさわやかな五月晴れとなりました。わが家の
周辺でもカッコウが鳴き始めました。毎年、5月15日~25日ころ鳴き出し、
梅雨が空ける頃には聞こえなくなります。

 引き続き中山道4日目のレポートです。


06年5月18日(木) 和田~下諏訪
 昨日の雨は上がった。宿の駐車場から、北に湯ノ丸山などの山並みが見える。
今日も国民宿舎のマイクロバスで、和田宿脇本宿そばの広場に送ってもらい、
8時30分にスタートした。


 江戸より五十里の表示のある和田一里塚跡で国道と交差し、和田川左岸沿い
に出たが、500mほどで国道に合した。牛宿跡付近にあった杉野屋ドライブイン
で最初の休憩。駐車場の隅に太いグミの木が花を見せていた。

 和田宿のはずれにも、かやぶきのバス停があった。


 人家が途切れ、与田川沿いの谷間を少しずつ上る。芽吹き始めたカラマツ林
を上がり、唐沢一里塚に出た。林の中なので塚がよく残されている。


 国道に戻ると、「只今の気温14度」の表示。男女倉口に着き「歴史の道中山
道」の石碑を囲んで記念撮影し、山道に入る。


 路傍に、こけの着いた古い石仏が並んでいた。三十三体観音と呼び、かつて
この山中にあった熊野権現社の前に並んでいたものを、昭和48年(1973)に
ここに安置したという。峠の難所を行き来する人馬の無事を祈って祭ったもの
らしい。


 標高1100mを越え、広葉樹はまだ芽吹き始め。ウグイスやホトトギスの
鳴くカラマツの樹林を上がる。ところどころにヤマザクラも咲いていた。

 次第に傾斜が強まり汗が増える。国道に出たら、かやぶきの休みどころが
あった。接待茶屋跡で、そばにきれいな湧水が流れ出ている。

 下諏訪から車で来たというご夫婦が、炊飯やお茶に使う1か月分だと、たく
さんのポリタンクやペットボトルに汲んでいた。

 山道に戻ると、古い石畳がしばらく続く。土の道より補修は少なくて済む
だろうが、歩きやすい道とはいえない。

 ウグイスやホトトギス、カッコウなどが鳴く広原一里塚を過ぎ、国道沿いの
東餅屋立場(たてば)跡に11時15分に着く。立場とは、人馬の休息所のこと
である。

 かつては5軒の茶屋があり、名物の餅を売っていたという。難渋する旅人の
救助にもあたり、幕末には大名休息のための茶屋本陣も置かれ、峠の要衝
だったよう。

 今は通過する人も車も少ないのか、「名物 力餅」の看板の出たドライブイン
は廃業していた。国民宿舎からの弁当が届いたので、少し早めだがここで昼食
とする。


 腹ごしらえをして、いよいよ和田峠に向かう。ヘヤピンカーブの続く旧道を
何度かショートカットして上がる。芝草の道は歩きやすく、カラマツ林でさえ
ずるウグイスの美声が、上りの疲れを和らげてくれる。


 傾斜が緩やかだったので案ずるより楽に、中山道の最高点・標高1531m
の和田古峠に着いた。ガスで遠望は聞かない。気温が低く、休むと寒いので、
記念撮影をしてそうそうに下りにかかる。

 下り道は石が多くて傾斜もきつい。滑らぬように注意しながら慎重に足を
運ぶ。20分余りで林道に出ると傾斜も緩み、歩きやすくなった。

 西餅屋立場跡で国道に出る。ここも、江戸時代は茶屋本陣など4軒の茶屋が
あったようだが、その面影は見られない。

 国道を横断して南に平行する樹林へ。江戸より53里の西餅屋一里塚を通過、
1㎞足らずで国道に合した。国道に出ていた気温表示は13℃を示す。

 砥川右岸沿いに下って行くと史跡・浪人塚がある。元治元年(1864)11月
20日、水戸藩士1000余人が勤王の志をとげようと和田峠を越えてきたが、
高島(諏訪)、松本藩が防いだ激戦地で、討ち死にした浪士を葬る塚があり、
桜が植えられている。


 国道をくぐって焼却施設の横を通過、再び国道に合する。薄日が出て、淡い
新緑が優しい彩りを見せる。

 地蔵さんが盗まれたという地蔵堂を過ぎ、ほぼ坂を下りきったファミリーレス
トランと日帰りの湯・六峰温泉の併設地で小休止する。

 町屋敷集落の家並みを抜ける旧道を進んで、木落坂に出た。がけの上に、
綱の付いたモミの大木が置いてある。

 ここは、諏訪大社7年に1度の大祭の最高の見せ場。100m余りある45度
近い急傾斜地に、またがった若者を乗せた御柱を一気に落とす豪壮なシーンが
見られる場所。木落しは、春宮・秋宮の御柱8本を3日にわたって行うという。

 「明治33年(1900)、諏訪電気発祥の地」と記された落合発電所横を通過、
さらに下って行くと木の間から諏訪湖が見えてきた。

 下諏訪の町並みが近づき、その北端にある諏訪大社春宮に入る。太い杉木立
に囲まれた境内の中心に、二重楼門造りと呼ぶ珍しい造りの幣拝殿があり、
社殿には見事な彫刻が施されていた。

 境内には、太く長い御柱が2本立ち、上部が分かれた「結びの杉」と呼ぶ縁結
びの杉や、2本の大ケヤキなどが目を引いた。

 流れを越え、近くにある万治の石仏に回る。万治3年(1660)、諏訪大社
春宮の石鳥居を作ろうと、この石にノミを入れたが、石から血が流れ出たので
石工が恐れをなし、鳥居は別の石材で作り、阿弥陀如来をまつったという。
1度見たら忘れられない独特の風貌の石仏だ。


 町並みを1㎞ほど南東に進み、諏訪大社秋宮のそばにある今日の宿、山王閣
に16時36分に着いた。
(天気 曇り、距離 26km、歩行地 長和町(旧和田村)、下諏訪町)

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第7次中山道ウオーク(塩名田~和田)

2006-05-24 21:38:19 | 中山道を歩く
 今日も午後、首都圏は激しい雷雨に見舞われました。交通機関などの影響を
受けた方もおられるのではないでしょうか…。

 中山道ウオーク塩名田宿から和田宿までの報告です。


06年5月17日(水) 塩名田~和田


 宿泊した国民宿舎もちづき荘付近は、ヤマツツジが花盛り。南側の山かげ
から雪の残る蓼科山の山頂付近が少しだけ望まれる。

 国民宿舎を7時30分にマイクロバスで出る。昨日のゴール、塩名田宿の佐久
市公民館浅科地区館まで送ってもらい、8時1分に38名がスタートした。

 千曲川の中津橋際に、船つなぎ石の説明板があった。千曲川は荒れ川で、
2~3年に1回は橋が流されたという。そこで明治6年(1873)に船橋会社が
つくられ、9艘の舟をつないでその上に板をかけて橋とした。船つなぎ石は、
その舟をつなぎ止めたもので、明治25年に木橋が架けられるまで使われた
という。


 御馬寄(みまよせ)集落を抜けると田園地帯となり、早苗田の向こうにも浅間
山が大きく姿を見せてくれた。

 八幡宿の東端にあった八幡神社で最初の休憩。鳥居の先に境内を覆うように
大ケヤキがそびえ、その奥に2階建ての随神門が立つ。門の周囲には見事な
彫刻が施されている。

 本殿の周囲も精巧な透かし彫りの木彫で飾られており、建立当時は鮮やか
だったろうと想像される塗色もわずかに残っていた。


 建物自体は小さいが、菊の紋章のある旧本殿の高良社は、延徳3年(1491)
の建立で、室町時代の特長をよく残すことから国重文である。


 八幡宿の外れからも浅間山がよく見える。ライラックはこの周辺にあちこち
で咲いていた。


 八幡宿を抜け、布施川を渡って百沢集落へ。狭い街道沿いに古い家並みが
並んでいた。上り坂となり、広葉樹の新緑に覆われた瓜生坂一里塚を通過し、
瓜生坂の上で休憩した。


 急坂を下って橋を渡り、望月宿に入る。連子格子の古い家並みが幾つか残っ
ている。現代風の家を含め民家には、笹屋、大和屋、井桁屋など、それぞれに
屋号が下がっていた。

 望月の家並みを抜けて国道を横断、青木坂を越えて茂田井に向かって下る。
狭い道の両側は、白壁土蔵造りなどの古い家並みが続いている。


 中で目立つ建物が、2つの造り酒屋、武重本家酒造と大澤酒造。大澤酒造に
入り、民俗資料館と書かれた建物で、清酒や濁り酒、甘酒などを試飲させて
もらう。

 邸内には、信州の絵や書などを展示する建物もあり、それらも見学もした。

 次の芦田宿を抜ける辺りで、中山道を反対方向に進む一人のウオーカーと
行き違い、激励を交わす。

 国道を斜めに交差すると、笠取峠へのゆるい上りとなり、県の天然記念物に
なっている松並木が続いている。

 笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の
村人とともに植樹したもので、歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿にも描か
れている中山道の名所の一つである。

 長い歳月の間、風害に痛み枯れ、大正13年(1924)に229本あったが、平成
5年現在は110本に減っているという。

 松並木の終わり近くにある休憩所で昼食とし、宿から届いたおにぎりやトマト
などをいただく。周辺の斜面にはヤマツツジがたくさん咲いていた。トイレは
かやぶき屋根である。

 昼食の終わるころから雨が本降りになった。雨具を着けて笠取峠に向かって
出発する。

 笠取峠一里塚付近が標高876m、間もなく峠に着く。峠の西南一帯は学者村
と呼ばれる別荘地になっている。

 峠からは国道142号沿いに下るのだが、3年前には無かった「中山道原道」の
表示があり、ヘヤピンカーブの続く国道をショートカットする草の道を下った。

 ほぼ下りきったところに松尾神社がある。赤松の前に、諏訪大社の御柱と同様
な柱が2本立ち、りっぱなしめ縄がかかっていた。


 長久保宿に入ってすぐ、「一福処濱屋」の看板がかかったりっぱな民家に入る。
長久保宿歴史資料館で、ピカピカに磨かれた板の間にいろりがあり、土間には
農具などが並んでいた。セルフでお茶も飲めるようになっており、トイレを借り
て小休止した。

 家並みの中心で90度左折して南東に向かい、依田川沿いの田園地帯に出る。
中山道は国道を進むのだが、車を避けて東側の民家のすそ行く旧道を1.5km
ほど進んだ。

 手前から来た大門川と依田川が合流する落合橋を渡り、青原交差点にあった
東屋で休憩する。


  与田川右岸に平行する国道に入って下和田の集落に沿って進む。上深山口
バス停には、かやぶきの待合所があった。

 両側に迫る山の斜面は、淡い新緑がいっぱいで、雨に濡れた風情が昔と変わ
らぬ中山道らしいたたずまいを見せてくれる。

 古い石碑の並ぶ三千僧接待所や、童子と獅子舞の掘られた珍しい道祖神の
前を通過、杉木立下にかやぶきの本殿のある若宮八幡社の三差路から右手の
旧道に入る。


 和田宿の入口にある八幡神社も、社殿の屋根はかやぶき。

 宿の中心にある十字路際に石起き屋根のりっぱな和田宿本陣が残っている。
そばの脇本陣前に作られた休憩所が今日のゴール。15時49分に着いた。


 今夜の宿も国民宿舎もちづき荘。迎えのマイクロバスで2泊目の宿に向かった。
(天気 曇り後雨、距離 28km、歩行地 佐久市(旧浅科村、望月町)、
立科村、長和町(旧和田村))

 
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第7次中山道ウオーク(軽井沢~塩名田)

2006-05-23 21:35:08 | 中山道を歩く
 今日は、中山道ウオークに参加して2日目の模様です。

06年5月16日(火) 軽井沢~塩名田
 宿泊したホテルのバスで軽井沢銀座のロータリーまで送ってもらい、39人が
8時7分にスタートした。天気は曇り空である。


 和田さんのゼッケン、今日は軽井沢にちなんだメッセージに付け替えられて
いた。



 別荘地を西北に進み、国道との合流点にあったセブンイレブンで昼食を仕入
れる。500mほどは国道18号を行く。まだヤマザクラが咲いている。国道と、
しなの鉄道の南側に回ると、前山の離山から離れてきたので、浅間山が見えて
きた。

 中軽井沢駅の東側で再び線路の北に回って国道に入り、中軽井沢駅で休憩
する。

 われわれとは逆に、塩尻を出発して中山道を6泊7日で歩き、19日に浅草寺
にゴール予定という菅笠、白衣に西国巡礼の輪袈裟(わげさ)をかけた遍路姿の
10数人と行き違い、お互いの行程の安全を祈って分かれる。中軽井沢は沓掛
宿だが、その面影は感じられなかった。

 借宿の遠近宮という珍しい名前の神社で小休止、国道に戻ると「只今の気温
12℃」と表示されていた。やはりかなり涼しい感じだ。

 江戸から39里という追分け一里塚には、梨の大木と芭蕉句碑があった。


 すぐ先にある浅間神社で休憩。本殿は室町時代初期の様相を残す流造という
珍しい造りで、町内最古の建築物だという。広い境内には、追分節発祥の地碑
や、「ふきとばす石も浅間の野分かな」という芭蕉句碑などがある。

 さらに500mほどで中山道と北国街道との分岐点、分去れ(わかされ)。道標
や常夜灯が立っている。

 国道18号に分かれて左に入る。満開の八重桜が数本並ぶ小公園があった
ので、桜を背に記念撮影する。


御代田(みよた)駅の近くに残る御代田一里塚には、しだれ桜の巨木があり、
花どきにはさぞ見事だったろうと思われる枝振りを見せていた。


 御代田駅の東側で信濃鉄道の線路をくぐる。すぐ先にあった竜神の森公園に
11時40分に着き昼食。雨がぱらついてきたので竜神の館と呼ぶ建物の下に
腰を下ろす。しかし雨は本降りにはならなかった。12時24分に出発する。


 比較的車の少ない車道を南西に進む。小田井宿本陣跡の安川家住宅など、
中山道の面影をしのばせる家もわずかに残っている。


 上信越自動車道佐久ICがに近づく頃から、リンゴ畑が増えてきた。ちょうど
白い花が見頃である。

 上信越道は堀割になっている上を橋で通過したので、気づかなかった人も
多い。交通量が増え、沿道にも首都圏郊外と同様な大型店舗が並んでいる。

 左側にあった住吉神社の境内に、根元にこぶがたくさん付いた太いケヤキ
が若葉を広げていた。根元は10人抱えくらいもあろうか。しかし樹齢などは
記されてなかった。


 ほどなく佐久市の中心、岩村田宿の市街地に入る。南北に走る国道141号
にはアーケードもある。その中ほどを東に少し入って、中央公園で休憩し休止。
清田さんのリードでストレッチ体操をして疲れをとる。

 北側には浅間山も再び姿を見せ、近くで、今年初めてのカッコウの鳴き声を
聞いた。

 小さい川の先で、畑の土を十数人の人が発掘していた。聞くと、平安時代の
水田跡だが、土器などは見つかっていないとのことだった。


 水の入った水田が増え、すでに田植えの済んだところもある。湯の丸高原や
八ヶ岳などが水田に影を映し、昔ながらの中山道の雰囲気が感じられる気持ち
よいところだ。


 塩名田宿の手前、下塚原集落の駒形神社に寄り休憩。赤松の多い境内、覆屋
で保護されている本殿は、文明18年(1486)の建立と伝えられている
とか。石段横には、男女を象徴する石が鎮座していた。


 塩名田宿に入り、佐久市公民館浅科地区館に15時35分に着いた。待機して
いた宿のマイクロバス2台に分乗して、40分ほどで国民宿舎もちづき荘に入る。

(天気 曇り、距離 29km、歩行地 長野県軽井沢町、佐久市)
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第7次中山道ウオーク(松井田~軽井沢)

2006-05-22 22:12:44 | 中山道を歩く
 毎年、中山道を歩いているグループに、私は4年目から参加していますが、
今年は7回目です。
 
 4月9日に東京・日本橋をスタートし、前半のゴール長野県塩尻市の洗馬宿
を目指して11日間の予定で歩きました。 私は、7日目の5月15日から19日
まで参加しました。

06年5月15日(月) 松井田~軽井沢
 7日目の今日は、群馬県松井田町の西松井田から、碓氷(うすい)峠を越えて
長野県軽井沢町に向かう。私はこの日からの5日間の区間参加。無人のJR
信越線西松井田駅に降り、北側を抜ける中山道にて皆さんに合流し、8時33分
に出発した。
 
 信越線の線路際に進むと、左手に妙義山のごつごつした岩峰が近づく。山
ろくはやわらかな新緑に包まれ気持ちよい展望、間近にウグイスが鳴く。桐の
花も見ごろである。


 五料交差点で国道18号を横切り、上信越自動車道の下をくぐる。信越線の
踏切を北に抜けると、夜泣き地蔵が妙義山を背に立ち、そばに茶釜石がある。
ここを通った蜀山人が、石をたたいて珍しい音色がしたので、狂歌を造ったと
いう。

 通過した碓氷神社の先に、「百合若大臣の足跡石」というのがあった。百合
若大臣が足で踏みつぶしたので、石の上がへこんだという。たしかに石はへこ
んでいるが、本当だとしたらすごい怪力の持ち主だ。

 行く手の山間に、残雪とわずかに噴煙が認められる浅間山が見えた。


 峠の釜飯でおなじみの横川駅前で休憩。排水溝のふたに、昭和38年(1963)
で廃止した旧信越線アプト式鉄道に使われたラックレールが転用されていた。


 ここで、宮城県の和田さんが加わる。和田さんのゼッケンにはいつも感心
させられるメッセージが記されているが、今日はこんなメッセージだ(下部)。

 赤い糸でたんねんに縫ったメインのゼッケンは、今回の隊長・「ユキちゃん」
こと札幌の稲垣さんが、40人を超える参加者一人ひとりに、名入りでつくって
事前に送ってくれたもの。ユキちゃんありがとうございました。

 碓氷関所跡には、復元された関所の門がある。碓氷関所は、元和年間(1615
~23)に開かれ、「入り鉄砲に出女」の取締りをした中山道の要所。明治2年
(1869)に廃止されたという。

 近くに、明治18年(1885)から1年半で開通した碓氷アプト式鉄道の難工事
で犠牲になった、500名にのぼる犠牲者の鎮魂碑が立っていた。

 中山道は、碓氷川を渡って坂本宿に入るのだが、今回は旧信越線の廃線跡を
活用した遊歩道を行くことになった。

 複線のうちの上り線に、線路を残したまま透水性舗装が施され、歩きやすい。
架線もそのまま残っていた。


 上信越自動車道の下を過ぎると赤レンガ造りの旧丸山変電所がある。碓氷峠
の急勾配を上がる電気機関車に必要な電力を供給したところで、建物は国重文
になっている。


 2kmほどで遊歩道が終わり、左手に上がると新しい「碓氷峠の森公園」。
日帰り温泉施設や芝生広場、池などがある。池のそばのシャクナゲが真っ赤な
花を見せていた。


 中山道でもある国道18号が坂本宿を抜け、峠に向かってΩ形にカーブして
上がる地点に出て、いよいよ碓氷峠への山道の入口に着く。

 ここでまた3~4人待っていて合流、総勢40人となる。碓氷小屋と呼ぶ
東屋と、中部北陸自然歩道「上州路碓氷峠のみち」の案内板がある。

 杉木立の下を上り道が続く。ゆっくりと上って行くと次第に広葉樹が増え、
落ち葉がいっぱいの歩きやすい道となる。

 柱状節理の細長い岩が露出する場所を過ぎ、東南の展望が開かれた場所に
出た。眼下の、ほぼ直線に伸びる坂本宿の家並みや、妙義山がよく見える。


 刎石(はねいし)山の稜線上となり、弘法の井戸や羽根石立場跡を過ぎる。
淡い緑の新緑に覆われた稜線上の平坦地となり、歩みも軽くなる。


 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで北陸・信州軍を防御しよう
とした松井田城主が稜線の両側をきら細く切ったという「掘り切り」で昼食を
する。


 この辺りは、やわらかな若葉の新緑に満ちあふれ、気持ちよい彩りである。


「座頭転がし」を過ぎた辺りに、古い自動車が放置されていた。碓氷峠の方から
来たものらしいが、狭い斜面をどのように運転してきたのだろうか。近くには
「熊出没注意」の標識が立っていた。

 午前中は青空だったが次第に雲が広がる。緩やかな上り道は、やがて車も通
れそうな幅広となった。

 皇女和宮が京から江戸へ降嫁したときに通過した和宮道を右に分け、子持山
にかかる。せせらぎの流れる笹沢人馬施行所跡を通過、芽吹き始めたばかりの
カラマツが増えてきた。

 14時21分、今日の最高点、碓氷峠の熊野神社に着く。神社は群馬県と長野
県との県境。標高1100mを越えるこの辺りは、まだ芽吹き始めたばかり。

 南側の見晴台に上がったが、曇って妙義山などの山々はちょっと霞んでいる。
休んでいると寒いので、来た人だけで記念撮影してそうそうに展望台を離れた。


軽井沢に向かっての下り道は、葉が出たばかりで明るい落ち葉道。しかし、
いきなり急斜面なので、滑らぬように慎重に木につかまりながら下る。その先
には倒木や崩壊か所もあり、距離は短いながら緊張して下る。

 峠から遊歩道との合流点近くで、西川さんが待っていた。バーナード・ショウ
の胸像付近には野猿が姿を見せる。

 旅館つるやの前で、帰宅する川島さんと渡部さんを見送る。軽井沢銀座の
ロータリーまでフリー歩行となり、15時45分前後に着く。そばの店でアイス
クリームを食べたりして、16時10分に来たマイクロバスで、中軽井沢のホテル
に向かった。

(距離 22km、歩行地 群馬県安中市(旧松井田町)、長野県軽井沢町)

  
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第4回飯能新緑ツーデーマーチ2日目

2006-05-21 23:08:24 | ウオーキング
 さわやかな快晴となった今日は、埼玉県西部の「飯能(はんのう)ツーデー
マーチ」2日目に参加しました。

 中央会場は、JR八高線、西武吾野線の東飯能駅に近い、飯能市役所です。
私の参加した20kmコースは、8時半過ぎにスタートしました。

 スタートから約2.8kmにある最初の接待所では、飲物とあめの接待が
あり、中山囃子連のお囃子もしていました。


 すぐ近くにある西武電車の武蔵丘車両基地横の坂を上がり、山道に入ります。


 今日のコースの最高峰、多峰主山(とうのすやま・270m)に上がると、
新緑の向こうに、奥秩父の山並みが遠望できます。



 南側は飯能市の市街地を見下ろせますが、ちょっと霞んでいました。

 入間川沿いに下り、7.3km地点にあるチェックポイントでは、お茶や
梅干し、タクワンなどのサービスがあり、そばも売っていたので腹ごしらえ
しました(200円)。私の後、4~5人で売り切れです。



 入間川に分かれ、南側の峠に向かっての上りとなりましたが、途中にある
自由の森学園高の生徒が、中国民謡を見せてくれていました。


 峠を下り、苅生(かろう)の昼食会場で、強い日差しを咲け、桜の若木の
下で昼食をしました。

 赤根峠に上がり、しばらくは杉やヒノキの下の涼しい尾根歩きです。

 下畑で東京都青梅市との都県境にある成木川沿いに出て、東に進みます。
午後の日差しが強くなり風もなくなり、この辺りが1番暑さが応えました。


 岩淵から成木川を渡り、美杉台の住宅団地や運動公園などを抜けました。

 子どもたちでにぎやかな入間川(いるまがわ)の飯能川原を見下ろす橋を
渡って、市街地の中心を抜け、14時48分に中央会場にゴールしました。

 昨日は、猛烈な暑さと午後、雷雨に見舞われたようですが、今日は湿度が
少なく、後半を除いては、さわやかな風にも恵まれ、緑豊かな林間のウオー
クを楽しむことができました。

 

 
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カントリーウオーク高山村(2)

2006-05-21 21:55:53 | カントリーウオーク
 群馬県高山村のカントリーウオーク2日目のレポートです。

06年5月14日(日)
カントリーウオーク高山村(役場~JR吾妻線中之条駅)

 2日目の朝は、昨日の冷たい雨が上がり次第に青空が広がる。昨日は見えな
かった小野子山(1208m)が、宿の眼前に立ちはだかるように山容を見せていた。

 朝食前、宿の東に広がるゴルフ場内の林間を散策。北の山並みの奥に、残雪の
谷川連峰が望まれた。


 小野子山を背に記念撮影後、宿の車で高山村役場まで送ってもらい、8時57分
にスタートする。


 かやぶき民家のところで国道145号を斜めに横切り、溝口の旧道へ。名久田
川右岸の高台なので、小野子山山ろくの色とりどりの新緑の展望がよい。

 相対するかやぶきの民家や、廃屋のかやぶき民家などの間を抜けて国道に入る。
しばらく進むと、正面に雪の残る浅間山の穏やかな山容が見えてきた。


 1時間歩き、水の入った田んぼのそばで休憩。近くで作業していた奥さんの、
年期の入った背負い籠は、まだ現役である。

 山すそに、映画「阿弥陀堂だより」に出てきたような小さなお堂があった。
泉照寺跡で、残っているのはやはり阿弥陀堂だった。
 
 
 関田集落を北西に上がり、赤松や杉林を抜けると山間の棚田に出た。水の入っ
た田では耕耘機が入って田植えの準備が進んでいる。

 穏やかな風景を眺めながらコーヒータイム。カントリーウオークならではの、
ゆったりとした時間と空間。そばの林ではフデリンドウが花を開いていた。


 尻高集落には、かやぶきの民家が2つ残っていた。写真とは別の家は廃屋
で、崩れ落ちそうな屋根から木が伸びていた。
 
 小屋集落の先の高台からは、西南西の山並みの奥に再び浅間山が望まれた。

 熊野集落の山すそにある泉龍寺に11時35分に着く。阿弥陀堂のあった泉照
寺を、文禄元年(1593)移転し、6年後に泉龍寺として開山したという。

 徳川3代将軍家光公から30石の御朱印を賜り、現本堂は定享5年(1688)の
落慶とか。広い境内は、ツツジ、八重桜、ショカサイ、ハナモモ、ナノハナなどが
花盛り。

 本堂背後に、県天然記念物で樹齢800年、目通り6.3m、樹高29.5mという
みごとなコウヤマキの巨木(上の写真)がある。ほかに、本堂前には樹齢250年
の盆栽松、鐘楼のそばには、樹齢200年、樹高25mの大イチョウなどもあり、
思いがけずのりっぱなお寺だった。

 強い日差しを避けていちょうの木陰や鐘楼堂に腰を下ろす。小野子山や境内の
花々、さわやかな青空と周囲に満ちあふれる新緑などを眺めながらの、ぜいたく
な昼食である。12時22分に寺を出た。


 散在する民家の間を抜けて、さらに西南の高台に上がると、小野子山と眼下の
熊野集落の気持ちよい展望が広がる。




 国道に戻って高山村から中之条町に入る。中之条側に朱塗りの小さい観音堂が
立っていた。大塚観世音堂で、草創は弘仁年中(810~)といわれ、吾妻三十三
観音札所のうち最古の霊場とされているという。

 国道には「只今の気温19℃」の表示が出ていた。

 沢尻から矢場、栃瀬、長石へと再び国道北側の旧道をたどる。矢場集落の先、
赤坂川と名久田川との合流点に、八幡城址の説明板があった。そばの段丘上に
大永年間(1521~8)に築城されたと記されていた。

 集落の中ほどに、ツツジや紫モクレン、白フジ、ホウチャクソウ、ツリイトソウ
などに彩られた高橋景作生家があった。

 高橋景作は、寛政11年(1799)この地で名主の長子として生まれ、医学を学び、
高野長英の塾頭をつとめた人。牢舎の火災で脱獄した高野長英を、生家に近い
文殊院にかくまったという。

 七日市で国道の南に回る。庭先に花いぱいの民家があった。戻ってきた奥さん
が、「オキナグサの種を持って行きなさい」と声をかけてくれので、実の着いた穂
から種を分けてもらう。

 国道145号と名久田川が接近したところにある吾妻神社で最後の休憩。現在
の社殿は文政4年(1821)の造営という。社殿は精巧な木彫で彩られ、境内は
うっそうたる杉や、イチョウ、モミジなどの緑に覆われている。

 神社の横から国道に戻って中之条の町並みに入る。ゴールのJR吾妻線中之条
駅には15時22分に着いた。15時47分発高崎行き電車にて帰途につく。

(距離 13km、地図(1/2.5万) 上野中山、中之条、群馬原町、歩行地 群馬県
高山村、中之条町)

 
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