あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

ポーランドとバルト3国の旅④ ビリュニスとカウナス観光後 リガへ(その2)

2015-07-31 17:46:27 | バルト3国とポーランド旅行
 2015年7月14日(火) 続き(午後)

 == ビリニュスとカウナスの観光後 ラトビアのリガへ(その2) ==  

 リトアニアの首都ビリニュスの市内で午前の観光と昼食を終えてバスに戻り、12時
33分に出発した。ネリス川の北側から西に延びる高速道路A1号線に入り、西方約
103㎞の都市カウナスを目指す。

 町外れに出ると北方にテレビ塔が望まれる。

 テレビ塔の高さは、東京タワーに近い約326.5mで、165mの位置に展望台とレ
ストランがあるとか。この付近は、1991年の「血の日曜日」事件の際に、最も多くの
犠牲者を出したところだという。


 その先の台地上には、原子力発電所かと思われる独特の建造物が見えた。


 しばらく郊外を走り、ビリニュスに次ぐリトアニア第2の都市、カウナス(Kaunas)の
市街に入る。カウナスの人口は約45万人、ソ連併合以前の22年間、ポーランドに占領
されたビリニュスに変わりリトアニアの臨時首都だったという。


 中心街からは少し外れた東部の住宅街に回り、旧日本領事館だった杉原記念館に14時
過ぎに着いた。建物は、少し大きめの住宅といった感じ。
      

 最初に映写室に入り、杉原千畝(すぎはらちうね)の生涯についての映像を見る。

 杉原千畝は岐阜県八百津町に生まれ、早稲田大学在学中に外務省留学生試験に合格し、
中華民国ハルビンでロシア語を学んだ。ハルビンの日本領事館、フィンランドのヘルシン
キ日本公使館勤務などを経て、1939年(昭和14年)に、ここカウナスの日本領事館
領事代理となり、その直後に第2次世界大戦が始まった。

 翌1940年7月から8月にかけて杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドな
ど欧州各地から逃れてきた、主にユダヤ系難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に
反して日本を通過するための大量のビザ(通過査証)を発給し続け、6,000人にのぼる
といわれる避難民を救済した。

 第2次大戦終結後、杉原一家はソ連軍に拘束され、1947年2月にようやく帰国し、
その年に外務省を退職している。その後は、幾つかの貿易会社に勤めるなどして、モスク
ワなど再び海外生活を送ったことなどが紹介された。

    
 このあと公開されている幾つかの部屋を巡り、当時の写真や執務室の様子などから、第
2次世界大戦中の緊迫した状況における杉原の英断や仕事ぶりを推察した。


   

      

               

 杉原記念館周辺の住宅にはリンゴの木が多く、実が大きくなっていた。



 西方眼下には聖ミカエル教会らしい建物の周辺などが望まれる。


 狭い路地まで入って近くに駐車してくれていたバスに戻り、14時50分に出発する。
この辺りは高級住宅街のようで、近くにはアメリカのプロバスケットボールチームで活躍
したという選手の自宅↓もあった。


 今日の行程はまだ先が長い。「十字架の丘」を経て国境を越えてバルト3国2番目のラ
トビアに入り、首都リガまで約260㎞の道のりである。


 カウナス郊外に出て川を渡り、高速道路A1号線に入って西北に向かう。



 小麦畑や牧草地などの間を進み、16時10分にガソリンスタンドでトイレ休憩に。や
はり売店があり、周辺には麦畑が広がる。16時40分に出発した。



 国道A9号線からA12号線を経て、北部リトアニアの中心都市シャウレイ(Siauliai)
を通過する。下は沿道で見えた風車。


 さらに12㎞ほど北東に進んだところにある「十字架の丘」の駐車場に17時28分に
着いた。

 インフォメーションセンター棟と土産店のある建物の間のゲートをくぐり、広々とした
草地を進むと、小さい丘とその周囲に大小数えきれぬほどの十字架が林立している。



 「十字架の国」とも呼ばれるリトアニアの象徴的な聖地のようだが、墓地ではないので
死体は埋められていないという。


 最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑者や流刑者のために建てら
れたらしい。

 それ以後、十字架の丘は抑圧された民族、宗教の象徴として扱われ、ソ連時代はこの丘
は禁城とされ、KGBと軍は何度も十字架をなぎ倒したり焼き払ったりしたが、人々は夜
陰に紛れて新しい十字架を立て続けたとか。
      
 近年は十字架建立がますます盛んになり、アメリカやオーストラリアなどからも、移民
の人々が運んできた十字架を残しているという。中には日本人らしいものも幾つか見られ
た。       

 


 丘のピークから反対側に見える建物↑は、この丘とは関係ないらしい。その右手には、
こんな建物も見えたが、ほかに周辺に建物は見あたらなかった。



 18時18分に出発して国道A12号線を北北東に進み、18時53分に国境を通過し
てリトアニアからラトビアに入る。

 片側1車線ながら、真っ直ぐ延びる国道A8号線を順調に進む。沿道にはアカマツやカ
ラマツに似た林が続いている。


 幅広いダウガヴァ(Daugava)川の橋を渡ると高いテレビタワーが望まれ、ラトビアの
首都リガ(Riga)の市街地に入る。


 20時3分、旧市街の西端近い「ブラックヘッドの会館」と呼ぶ建物近くでバスを下り
た。

 右側がその建物で、15世紀に建てられたものが1941年にドイツ軍の空襲で破壊さ
れたのを、リガの創設800周年を記念して1999年にほぼ完全に再建されたという。


 その前から旧市街中心部のリーブ広場を抜けて、「猫の家」と呼ぶ屋根上に2つの猫の
上がる建物の横を通過する。
      



 近くにあるレストランに20時11分頃入り、ゆっくりと時間をかけての夕食をした。
21時45分にレストランを出て、ようやくたそがれてきた旧市街を戻る。

 この時間になってもリーブ広場などはまだ多くの人で賑わっている。

 ちなみに、リガは北緯57度以北にあり、日本付近の緯度ではサハリン北端よりさらに
北になる。


 夕日で映えるブラックヘッドの会館まで戻り、21時57分にバスは今日宿泊するホテ
ルに向かう。
    

 そばのアクメン(Akmens)橋を渡ると、北側の斜張橋、ヴァンシュ(Vansu)橋の向
こうにちょうど夕日が沈むところ。

 晴天と良いタイミングに恵まれ、素晴らしい落日を見ることができた。

 橋を渡り間もなくの今日の宿、ベルビュー パーク ホテル リガ(Bellevue Park Hotel
Riga)には、22時過ぎに着き、長かった1日の観光を終えた。 (歩数 10,300)



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バルト3国とポーランドの旅④ ビリニュスとカウナス観光後 リガへ(その1)

2015-07-29 22:45:16 | バルト3国とポーランド旅行
 第4日 7月14日(火) 曇後晴

 == ビリニュスとカウナスの観光後 ラトビアのリガへ(その1) ==

 リトアニアの首都ビリニュスのホテルにて6時18分に起床した。ホテルの部屋から外
を見ると曇天である。


 7時過ぎから朝食をして、8時30分にロビーに集合する。

 4日目の行程は、午前中に世界遺産ビリニュス歴史地区の観光をして、約103㎞を移
動してカウナスの旧日本領事館だった杉原記念館の観光後、十字架の丘を経て約260㎞
の移動で、バルト3国2つ目の国、ラトビアの首都リガまで行く予定である。

     

 ビリニュスはバルト3国の首都ではただひとつ内陸部にあり、ドイツ商人の影響無しに
建設されたので、この後行くリガやタリンのような天をつくゴシック教会の塔は見られず、
やわらかな線のカトリック教会が多いとか。人口は約50万人という。

 バスでビリニュス歴史地区に向かう前に、ホテルのすぐそばにある杉原千畝(すぎはら
ちうね)の記念碑を見に行く。

 杉原千畝は第二次大戦中の駐リトアニア共和国領事館代理で、身辺に迫る戦争の危機の
中で、亡命ユダヤ人約6,000名に対して、1か月にわたり査証を発給し続け、彼らの
命を救ったことはご存じの方も多いと思う。
      
 この記念碑は、杉原の出身校である早稲田大学が、世界に誇る杉原氏の功績を称えて
2001年10月に建立したもの。 下は、杉原が発給した査証のコピー。
    

 傍らの桜の木は、リトアニアとの学術交流による友好関係がさらに深まることを祈念し
て植えたものという。


 近くには、1945年8月6日に広島に投下された原子爆弾で被爆した、市内電車の敷
石もあった。
          

 ホテルに戻ってバスに乗り、8時48分に出発した。ネリス川を渡って南側のビリニュ
ス歴史地区に向かう。

 市街地には、久しぶりに見たダブルポール集電方式のトロリーバスが走っている。


 まずは歴史地区の前に、東側の新市街に回る。8時57分頃バスを下り、ネリス川の南
岸にある聖ペテロ&パウロ教会に入る。
      

      

 バロック調の建物は1668年から7年間かけて造られたが、内装にはその後30年余
りの年月をかけているとか。


 それは、2,000以上もあるという内部のいたるところに施された漆喰(しっくい)の
様々な彫刻群のためという。
      

          

      
 制作には、イタリアから招かれた彫刻家などがあたり、地元の職人数百人もアシスタン
トとして加わったようで、彫刻のテーマの多くは聖書や神話から選んでいて、リトアニア
の戦史をあらわしたものもあるという。
      

     

        

           

 バスに戻り、9時15分頃に出発して新市街から旧市街に入り、15分足らずの大聖堂
近くでバスを下りた。


 大聖堂はヴィリュニスのシンボルともいわれる教会で、現在のクラシック様式の建物は
18世紀の大改築によるものとか。


 そばにある鐘楼は高さ53mあり、基礎の部分には13世紀の城壁の塔が使われている
という。
      

 大聖堂前の広場に、「人間の鎖(くさり)」の記念という足形が残されていた。
    

 人間の鎖とは、1989年8月23日にソビエト連邦の統治下にあったバルト3国で、
独立運動の一環として行われたデモ活動のこと。

 約200万人の人が参加して手をつなぎ、バルト3国を結んで約600㎞以上にわたる
人間の鎖を形成し、国際社会に独立を訴えるために行われ、ここがその長い鎖の南端だっ
たという。
    
 今日午前中のガイド、バージニアさんが、その時の写真を見せてくれた。


 東に接する王宮↑は、代々のリトアニア大公が住んだ宮殿。2002年から再建が始ま
り、2013年に博物館として公開されているという。


 その先は、トチなどの広葉樹に覆われた公園。樹間から、東北側の高台にありビリニュ
スの街並みが一望できるというゲディミナス(Gedimino)塔が望まれる。
      


 公園にあった公衆トイレ(有料)で用を済まし、南に延びるピリエス(Pilies)通りから
東へのミコロ(Sv.Mykolo)通↑りに回り、通りの末端近くにあったるアンバー・ミュージ
アム・ギャラリー(Amber Museum Gallery)に入る。

 様々な琥珀(こはく)を集めた博物館でもあり、琥珀の直売もしているところ。

    
 琥珀採掘の歴史や採掘用具、世界中の琥珀産地の紹介などの展示と、様々な琥珀や加工
品を直売するウィンドウなどを眺めながら一巡した。
    
 
         

      
 通りの東側に見える聖ミカエル教会の方向に進み、その横を回ってその先の赤レンガ造
りの聖アンナ教会に入る。


      
 15世紀末に建築された後期ゴシック様式の教会で、建設には33種類もの異なった形
のレンガが使われ、フランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作とされ、ナポレオン
が「フランスに持ち帰りたい」と言ったとか。
            

      
 ビリニュスでは珍しいゴシック様式の教会という。白壁に囲まれた堂内には、精巧な木
彫を施した祭壇などが幾つも並んでいた。
    

       

          


 15分ほど観覧して教会の前でバスを待つが、なかなかやって来ない。ドライバーさん
との間で何か行き違いがあったようで、周辺の建物などを眺めたりして25分ほど待ち、
バスに乗る。


      
      近くに見えた教会2つ。


      
 バスは旧市街の南端付近まで進み、「夜明けの門」↑と呼ぶ城門の近くで下りた。夜明
けの門は、9つあった城門のうちで現在残るただひとつの門という。
          

        
 門を入ってふり返ると、2階部分が小さい礼拝所になっていて、普段はそばまで上がれ
るようだが、ちょうどミサが行われていて上がれず、下から眺めるだけ。
      

       

 祭壇の中心ある聖母のイコンは、奇跡を起こす力があると信じられているとか。祈る人
の間からイコンの上部だけが望まれた。
           

 夜明けの門の外に戻り、ビリニュス市内での半日の短い観光を終え、近くからバスに乗
る。


 15分足らずのところでバスを下り、近くのレストランに入って昼食をした。(続く)





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バルト3国とポーランドの旅③ ワルシャワからトラカイ城経由ビリニュスへ

2015-07-26 22:10:35 | バルト3国とポーランド旅行
 第3日 2015年7月13日(月) 曇後晴

 == ワルシャワからトラカイ城経由 リトアニアのビリニュスへ ==

 今日は、ポーランドの首都ワルシャワからバルト3国最初の国リトアニアの首都、ビリ
ニュスまで、今回の旅で最長の450㎞余りをバスで行く。行程が長いので、ホテル出発
は7時15分の予定。450㎞というと、JR東海道線では東京~彦根くらいの距離にな
る。
      

 5時半前に起床、6時30分から急ぎ朝食をしてバスに乗り、7時19分に連泊のワル
シャワのホテルを後にした。今朝は曇天で気温は17℃とのこと。


 車中、添乗員のUさんから、ポーランドについての説明がある。ポーランドはコウノト
リが多く、世界の1/4が生息しているとか。この後通過した車中から、国境を越えたリ
トアニヤやラトビアなどでも、電柱の上にある巣と鳥の姿を何度も見ることができた。

 ポーランドはヨーロッパの中心にあるので「ヨーロッパのハート」と呼ばれ、国土の
90%が標高300m以下で、最高峰も499mという。降水量は少なく、高緯度なので
農産物の収穫量も少ないとのこと。ブドウの栽培もわずかなので、ワインは製造してない
という。

 でも、ライ麦やジャガイモの生産量は世界上位、豚とチーズは7位とのこと。最長の川
は昨日午後見たヴィスワ(Wisla)川で、南から北に流れてバルト海に入っていることなど
の話があった。



 市街地を抜けると広々とした展望が続き、キツネ色に色づいた麦畑が増える。東北に向
かうR8号線を進み、8時38分に最初のトイレ休憩のためガソリンスタンドに寄る。


 店舗も併設されていて、飲物や食料品、カー用品などを販売している。
 

 トイレは有料で、ポーランド通貨1ズロチ(約35円)。ポーランド通貨を使えるのも
あとわずかなので、ここで買い物をしてズロチ紙幣を消費する人も多い。

 この旅の全行程の移動でお世話になったバス。



 9時12分に出発する。間もなくR627号線に入り、さらにR677号線、R61号
線など広大な麦畑やトウモロコシ畑、牧草地などの間を進む。





 11時40分に、ポーランドの東北部、リトアニアやベラルーシ国境に近いアウグスト
フ(Augustow)の町中にあるレストラン↓に入り昼食をした。


 レストラン入口から見た近くの町並み。


 12時40分に出発して国境に向かう。昼食後の沿道はアカマツやヒノキ、スギに似た
針葉樹の森が続く。標識があったどうかか気づかずのうちに13時50分に国境を通過し
てリトアニアに入った。リトアニアなどバルト3国はポーランド時間より1時間早いので、
時刻を14時50分に修正した。


 国境を越えて間もなくの建物。インフォメーションセンターのよう。

 リトアニアも平坦地が多く、最高峰でも標高297mとのこと。最長の川はネムナス
(Nemunas)川で延長937㎞、国鳥はコウノトリだという。バルト3国には松が多く、
松が長い年月の間に化石化して出来た琥珀(こはく)の特産地のよう。



 15時38分にガソリンスタンドに着きトイレ休憩に。

 バルト3国のトイレ事情は厳しいようで、ここは男女共用で1つだけ。やはり売店があ
り、飲み物や食べ物を求めることが出来る。バルト3国での通貨はいずれもユーロである。
16時13分に出発した。



 R32号線からR112号線に入り、首都ビリニュス(Vilnius)の西方にあるトラカイ
(Trakai)に17時25分に着いた。


 バスを下りると、静かな湖の向こうの島に赤レンガ造りのトラカイ城が見える。木の橋
を渡り城内に入った。
      

 トラカイ城は、14世紀後半にドイツ騎士団からの侵略を防ぎ、あるいは催事などを行
うために、リトアニアの君主ケストゥティス公と息子ヴィタウタス大公により建設された
とのこと。ヴィタウタス大公の死後、住居として内部に装飾が施され、諸外国の特使など
も招かれるようになり、その後、夏の王室として機能したり、牢獄として使用されたこと
もあるという。

 17世紀のモスクワ公国との戦争で城は破壊されて廃墟となったが、20世紀になり復
元をはじめ、1987年にはほぼ15世紀当時の姿を取り戻したという。現在、城は城壁
や本丸とともに博物館となっている。



 現地ガイドの案内で博物館内の主な部屋を回って説明を聞いた後フリータイムとなり、
博物館内の幾つかの部屋を回り、展示物や調度品などを観覧した。
    

    歴代の王のレリーフ
    
   
    



      



      古いパイプはこのほかにもたくさん展示されていた。
      







 幾つかの部屋を一巡して城を出る。
 


  湖畔の建物などを眺め、土産店をのぞいたりしてバスに戻る。


    

 


 バスは18時30分に出発し、東方約27㎞にあるリトアニアの首都ビリニュスに向か
う。


 ビリニュスの市街地に入って19時15分にバスを下り、近くのレストランに入り、
20時10分まで夕食をした。





 バスに戻って市街地を進み、旧市街の北西側、ネリス(Neris)川の北岸に立つラディ
ソン ブル リエトゥーヴァ(Radison Blue Lietuva)ホテル↓に20時24分に着いた。
      


 ホテルの部屋からの、ネリス川沿いの眺め。



 ひと休み後、まだ営業しているという隣接のビルの1階にあるスーパーMAXIMAに行き、
飲料水などを求める。


    

                              (歩数 7,300)



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バルト3国とポーランドの旅② ワルシャワ市内とショパン生家へ(2)

2015-07-24 21:34:44 | バルト3国とポーランド旅行
 第2日 7月12日(日)午後

 == ワルシャワ市内とショパン生家のあるジェラゾバボーラ観光 ==

 ワルシャワの西方約56㎞にあるソハチェフ(Sochaczew)の町はずれ、ジェロゾバ
ボーラのレストランで昼食を終え、13時過ぎにショパン生家のある公園に入った。


 公園は、もとスカルベク男爵の屋敷があった場所で、ショパンの両親は男爵に仕えてい
た当時、ここに居住していたらしい。公園の面積は約1万㎡あるという。

 公園専属のガイドさんの説明を聞きながら、フレデリック・F・ショパン(Fryderyk
Franciszek Chopin)が1810年に生まれた建物↓に入り、そう広くない幾つかの部屋
を説明を聞きながら一巡した。

 建物内部は、最近リニューアル公開されたようで、この春までは内部には入れなかった
ようだ。

 建物は現在博物館になっていて、ショパンの生まれた部屋やショパンの出生証明書、両
親の結婚届、ショパンが書いた楽譜の複製などゆかりの品や、家具などが展示されている。
    

 今日は日曜日、夏期の5月から9月の日曜日には、11時と15時からショパン作品の
演奏会があり、園内で演奏を聴くことが出来るという。
    
    演奏会で使われるピアノ。演奏は建物の外で聴くことになる。

 建物のそばにあったショパン像。
 

 演奏会までは時間があるので、建物を出て園内主要部を案内してもらう。緩やかな斜面
を下ると池があり、池のほとりにヤナギの古木が立っていた。ショパン誕生の頃からあっ
たものらしい。
      


 広々とした園内には伸び伸びと枝を広げた高木が多く、その間に芝生地があり様々な花
が咲き競い。気持ちよい景観が広がっている。


     

         

     




 川のほとりを進んで入口付近に戻り、15時50分までフリータイムとなった。


 入口横にある建物に入ってミュージアムショップを少しだけのぞき、再度園内を回って
みることにした。


     

 近くの露店で名物というアイスクリームを求め、そばのベンチで小休止してからショパ
ン生家の周辺に行く。




 池のほとりから川沿いに行き、橋を渡って対岸に回ったりするうち、ピアノ演奏の15
時が近くなったので、生家のそばに戻った。






 ピアノのある部屋に近いベンチは、すでにたくさんの人で埋まっている。


 少し下がったベンチで20分ほど演奏を聴き、あとはゆっくりと園内一帯に流れる演奏
を聴きながら入口を出て、バスの駐車場に行く。




 15時50分にバスは出発して、ホテルのあるワルシャワ市内に向かう。


 広々とした麦畑やジャガイモ畑などの多い往路とは別の道を進んでワルシャワ市街に入
り、17時に旧市街の入口付近でバスを下りた。





 旧市街広場まで行き、夕食会場のレストランに向かう18時までフリータイムとなる。

旧市街広場は、午前中より人出が増えて賑わっている。


 路地を東側に抜けると展望台になっていて、眼下の緑の多いヴィスワ(Wisla)川や対
岸の双塔の教会、東南方のワルシャワ国立競技場などが望まれる。
      



 展望台の鉄柵には、何か願いごとでもしたのだろうか、たくさんの鍵が付けられていた。
    

 別の路地に入ると路傍に大きな鐘が置かれていて、こちらも願いごとをするのかその前
を回る親子がいる。
        

 旧市街広場の近くには、ドイツ軍により破壊された当時のワルシャワ市街の写真を10
数点展示した小さい塔が立っていた。
        

      
 ワルシャワ最古の教会という洗礼者ヨハネ大教会大聖堂↑などの前を通り、インフォメ
ーションセンター前に戻る。
      

 広場には、ワルシャワ旧市街が1980年にユネスコ世界遺産に登録されたことを記念
するプレートが埋め込まれていた。
    

 18時に全員集まり、近くのレストランに入って19時10分まで夕食をする。


 近くからバスに乗り、連泊のノボテル ワルシャワ セントラムホテルには19時30分
に戻った。                         (歩数 15,700)




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バルト3国とポーランドの旅② ワルシャワ市内とショパン生家へ(1)

2015-07-22 22:31:09 | バルト3国とポーランド旅行
 第2日 7月12日(日)

 == ワルシャワ市内とショパン生家のあるジェラゾバボーラ観光 ==

      

 ワルシャワのノボテル ワルシャワ セントラムホテルにて6時45分に起床、7時から
朝食をして9時5分にバスでホテルを出発する。ドライバーは、最後まで通してのアル
トゥル アザさん、ガイドは昨夕お会いしたアリシャさん。朝の気温は13℃だが、日中
は24~25℃になる予報という。

 午前中は、世界遺産ワルシャワ歴史地区の観光で、ワジェンキ(Lazienkowski)公園か
ら旧市街広場、そしてキューリー夫人生家を巡る予定である。

 ちなみに、ワルシャワの人口は約170万人、今日は日曜でもあるが、ポーランドは夏
休みに入っているので市内の人口は少なく、交通量も少ないという。ワルシャワはピアノ
の詩人ショパンの生まれた町。第2次世界大戦ではドイツ軍に徹底的に破壊されたが、戦
後になって以前と全く同じ姿に復元されたとのこと。


 バスは市の中心街のホテルを出て南東に向かい、10分後の9時15分にワジェンキ公
園に着いた。


 ワジェンキ公園は、ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられているとか。公園
は、ポーランド最後の王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanislaw August
Poniatowski)の夏の離宮として1766年から30年かけて造営されたという。


 公園の中央に池があり、そのほとりには1926年建立というショパンの像があり、周
辺のたくさんのバラが見頃だった。
        



 池を囲むようにボダイジュやトチなどの木々が伸び伸びと育ち、南側の木の下には同時
代の音楽家でピアノの魔術師と呼ばれたリスト(FerencList)(1811~86)の胸像もあった。
        


 25分ほどで公園を出て市街地を北西へ、ワルシャワ市街の中心部に戻って新世界通り
でバスを下りた。



 北北西への通りを聖十字架教会に向かうと、ポーランド科学アカデミーの前に、15世
紀のポーランド出身の天文学者で地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を初
めて唱えた、ミコワイ・コペルニクス(Mikolaj Kopernik)(1473~1543)の像がある。


        

      
 すぐ先が聖十字架教会↑。教会に入ると白壁に囲まれた正面の祭壇には金銀の装飾が施
され、堂内は荘厳な雰囲気に包まれている。
      

        
 手前の石柱の中に、ショパンの心臓が埋め込まれていた。第2次大戦中に教会はドイツ
軍に破壊され、心臓も持ち出されてしまったが、戦後すぐの1945年10月に返還され
たという。
        

 なお、この教会での日曜日のミサは、ポーランド国内にラジオ放送されるとか。

 通りを北進して隣接するワルシャワ大学前を通過する。北側に接するヴィジトキ
(Wizytek)教会↓は、ワルシャワ大に中・高等学校が併設されていた頃、ショパンがア
ルバイトで日曜のミサのオルガニストとをしていたという。
      


 新世界通りから延びるクラクフ郊外通りに入る辺りから旧市街となる。


 大統領官邸前には、馬に乗ったポーランドの英雄ユーゼフ・ボニャトフスキ
(J.Poniatowskiego)像が目につく。
      


 近くの広場には、ポーランドのロマン派詩人アダム・ミツキヴィッチ(Adam Mickiewicza)
像が立っていた。
      


 400m余りで王宮広場に入る。東北側にある赤レンガ造りの旧王宮↓は、王の住居の
ほかに国会や大統領執務室としても使われ、さらに士官学校や国立劇場だったこともある
という。



 赤レンガの城塞門を入って旧市街広場に行く。


 ビッシリと接した4~5階建ての建物の前にカフェテラスが並び、多くの人で賑わう。


 広場の中心には勇ましい姿の人魚像が置かれていた。
 
 ちなみに、ワルシャワ市の紋章は人魚をデザインしたものという。




 北西側の門を抜けて200mほど進むと、女性で最初のノーベル賞受賞者キューリー夫
人(1867~1934)の生家の建物↓が残り、現在はキューリー夫人博物館になっている。

 壁面には、キューリー夫人が発見したラジウムとポロニュウムの化学記号などが描かれ
ていた。
       


 少し戻りドウガ(Dtuga)通りを南西へ。


 そうとは見えない近代的な造りの最高裁の前の広場に、ワルシャワ蜂起記念碑がある。

 1944年8月1日、ナチス・ドイツの支配に対してワルシャワ市民が立ち上がった記
念碑で、激しい戦闘により町は壊滅的な打撃を受け、ソ連軍の援軍も受けられず孤立して
約20万人もの死者を出したという。「ワルシャワ蜂起」を記念して45周年にあたる
1989年に造られたとのこと。

 11時11分に近くの通りからバスに乗り、ショパンの生まれた西方約56㎞のジェロ
ゾバボーラ(Zelazowa Wola)に向かう。



 市街地を抜けると両側にはボダイジュの並木が続いている。12時13分にショパンの
生家のある公園入口付近に着き、そばのレストランで昼食をする。      (続く)





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バルト3国とポーランドの旅① 成田からヘルシンキ経由ワルシャワへ

2015-07-20 22:14:43 | バルト3国とポーランド旅行
 10日余りお休みしたのは、7月11日(土)から18日(土)まで、JTBの旅物語
「美しきバルト3国とポーランド8日間」というツアーに参加したためです。以下、日程
に従いその行程を順次紹介しますが、途中にほかの話題を挟むかもしれません。

 =======================================

 第1日 2015年7月11日(土)

 == 成田国際空港からヘルシンキ経由でワルシャワへ ==

 自宅を5時41分に出て、池袋、日暮里を経由して京成電車の空港第2ビル駅に8時2
分に着き、第2ターミナル3階南ウィングのJTB「旅物語」受付カウンターで受付を済
ませる。今回の添乗員はUHさん、参加者は22人である。

 今回の主要行程は以下の地図の通り。



 11時00分発フィンランド航空ヘルシンキ行きAY074便のエアバスA340-
300機は、11時10分に成田空港を離陸した。
    
 ヘルシンキまでの距離は7,849㎞、飛行予定時間は約10時間20分である。

    
 飛行機は西北に向かい、新潟上空を通過して北上しシベリアに入って西へ、ハバロフス
ク、ピリュイスク、モスクワの北方などを通過して、フィンランドのヘルシンキ空港に予
定より30分早い14時55分に着いた。ちなみにフィンランド時間(夏時間)は日本よ
り6時間遅い。


 乗り換えのワルシャワへの便は18時40分発なので、18時集合までフリータイムと
なり、空港内の店をのぞいたり買い物をしたりして時間を過ごす。


 18時に16番ゲート前に集合して同じフィンランド航空のワルシャワ行きAY743
便に乗る。

 ヘルシンキ便は座席が横に2-4-2席だったが、ワルシャワ便は通路を挟んで両側2席
ずつ。小さめのエアバスA320機かA319機のよう。ヘルシンキ便ではエンジンが両
翼に2個ずつだったがこちらは1個だけ。予定より2分遅い18時42にヘルシンキ空港
を離陸した。
    
 飛行機は、明後日以降通過するエストニア、ラトビア、リトアニア3国の上空を逆行す
るように南南西に向かい、1時間20分でポーランドの首都、ワルシャワ・ショパン空港
に19時02分に到着した。ワルシャワ時間(夏時間)はヘルシンキ時間より1時間遅く、
日本時間よりは7時間遅い。気温は21℃とのこと。


 出迎えのバスに乗り、明日のガイドのアリシャさんの説明を聞きながら市内中心街に入
った。


 ワルシャワ中央駅に近く、ロシア時代に建てられたという尖塔のある高いビル、文化科
学宮殿と広場を挟んで相対する、ノボテル ワルシャワ セントラム(NOVOTEL
WARSZAWA CENTRM7)ホテルに20時頃着いた。


 ホテルの部屋から見える文化科学宮殿↓や向かいのホテル。

 37階建てで塔の高さは234mという。

 

 ヘルシンキ便機内で多少仮眠したとはいえ、日本時間では翌12日の午前3時過ぎ。部
屋に入ってトランクの荷物を開き、シャワーだけしてベッドに入る。
                              (歩数 12,700)




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久喜市 定福院の五百羅漢(埼玉) 

2015-07-09 23:02:33 | Weblog
 2015年7月4日(土)に確認のため訪れた場所のひとつとして、久喜市佐間の定福
院(じょうふくいん)があります。

 この寺院の参道や境内には、平成の五百羅漢とも呼べるようなたくさんの五百羅漢像が
並んでいました。平氏3年(1991)から素人の人達が奉納するために彫り始め、平成
11年には500体となり、その後も増え続けたので、現在はそれ以上の羅漢像が見られ
ます。

 ほかの寺院にある古い羅漢像と違い、ここにはかなりユニークな羅漢さんも並んでいる
ので、それらの幾つかを紹介しましょう。

 山門前の羅漢像の一部


         

          以下は境内のあちこちで見たもの
          

                またのぞきで何を見てるのかな?
                



      

 これは羅漢像ではありませんが、いぼ地蔵の横の台座ごと傾いたお地蔵さん。
            

       右端の羅漢さんは、バナナでも食べているのかな。
       

 叫んでいる羅漢さんの前は、うるさいのか耳をふさいでいます。
             
 
         眼鏡をかけた羅漢さんも。
                                                    
              何を話し合っているのだろう…
              

 境内の中ほどにある羅漢さんを彫る場「弘福庵」、ここで誰でも彫ることが出来るよう。




        

            信州・安曇野に多い双体道祖神に似た姿
            

      お眠り羅漢さん
      



         弘福庵の南側に並ぶ
         

 傘を被った羅漢さんも
 

           

      


          Vサイン

         

            

 よく見ると、まだまだユニークな羅漢さんがおられたかもしれません。

 なお、定福院の場所はこちら。近くにお出かけの際にはお立ち寄りを。




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梅雨半ばに咲く花(埼玉・皆野と栗橋)

2015-07-05 21:59:08 | Weblog
 2015年7月4日(土)

 今日は、数年前に月刊誌に投稿した記事が近く冊子化されるというので、その後変った
ところはないか確認のウオーキングで久喜市栗橋を歩いて来ました。

 曇り空で、駅近くまで戻った頃には一時小雨にもなりましたが、14時半過ぎに確認を
終えることが出来ました。

 今日回った途中やポイントのお寺などで咲いていた花と、6月29日(月)に秩父鉄道
皆野駅周辺を歩いたときに撮った花の写真の中から幾つか紹介することとします。

 まずは6月29日の秩父鉄道皆野駅周辺の花から。

 皆野駅の西側、虚空蔵堂近くの民家に咲いていた白ユリ


   荒川右岸に近い円福寺境内に咲き出したナツツバキ
  

        

         路傍の畑に咲いていた花3つ
        

    



      これは花ではありませんが、梅の実が良い色だったので…
       

           背の高いノウゼンカズラを見上げて撮ったもの。
          

 皆野町役場の駐車場に咲いていた花


      

          

 以下は、7月4日の久喜市栗橋に咲いていた花。

       栗橋駅西口から近い、迎盛院に咲き出したムクゲ
      

             松永集落にて 
            

     佐間集落の畑に咲いていたユリ
    

             これもすぐそばの畑、キクのよう
            

   佐間の定福院境内のガクアジサイ
  

       これも定福院境内にて
      

           同じ定福院境内のハンゲショウ。
          

 ちなみに、前々日の7月2日(木)が季節の節目、七十二候のひとつ、半夏生(はんげし
ょう)でした。




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秩父・皆野駅の周辺を歩く(埼玉)

2015-07-01 22:18:03 | ウオーキング
 2015年6月29日(月)

 西武鉄道のPR誌のプレゼント当選でもらった「西武沿線一日フリーきっぷ」の期限が
明日までに迫ったのと、梅雨の晴れ間にもなったので、秩父へのウオーキングに出かけた。

 西武池袋線・秩父線で西武秩父駅へ。秩父鉄道の御花畑駅から上り電車で皆野駅に10
時19分に下り、10時23分にスタートする。



 駅北側の小さい踏切を渡って線路の西に回り、原集落の荒川右岸近くにある虚空蔵堂へ。
お堂の前で2体の石仏が迎えてくれた。
    

 2本南の通りには、五輪塔と石仏が並ぶ。五輪塔は室町中期の明応3年(1494)の
造立。
    
 たくさんの花に囲まれ、この地域の人たちの信仰の厚さがしのばれる。

 畑と集落の間に武甲山を望みながら南に緩やかに回り込み、皆野橋へ下る車道に出た。


 道路の南側には、赤鳥居の並ぶ出世稲荷神社があり、拝殿には油揚げが奉納されていた。

 狭い境内の右手に、大きなかめと石碑が並ぶ。これも信仰の対象になっているらしい。
    

 皆野橋の近くまで進むと、緑の木々に囲まれて高さ2.5mという「皆野橋記念碑」が
立っている。
        
 対岸の大田に住む若者が皆野の娘に恋し、毎日渡し船で渡っていたが、舟ののろさに
「橋があれば早く会えるのに」といい、これがきっかけで橋が生まれてといういきさつが
記してあるという。

 荒川に架かる延長105mの皆野橋は昭和10年(1935)に完成し、近年修復され
たとか。

 対岸近くまで往復して緑に囲まれた荒川の流れを一望した。


 出世稲荷まで戻り、すぐ先を下った浄水場の先に秩父七福神の大黒天を祭る円福寺があ
る。


      
 開基は平将門(たいらのまさかど)の弟、平将兵(まさひら)で、墓地には平将兵↑と
畠山重能(はたけやましげよし)↓の墓と伝えられる崩れた五輪塔がある。
          

 畠山重能は近くの吉田の生まれ、代々秩父氏と称していたが川本町(現在の熊谷市)に
移り畠山氏を名乗り、畠山重忠の父である。

 本堂右手の斜面上には、名取観音堂が祭られている。東京・佃島(つくだじま)の児童
50名を引率して名取広作先生は円福寺に疎開したが、昭和20年(1945)3月に心
身過労で亡くなられた。それを悼み、地元民が立てたのだという。


 荒川右岸沿いを東進すると薬師堂がある。古墳だった場所を台状に削って建てたもので、
南側を含め一帯が的塚古墳だったらしい。


 その先のY字路を左折し、台地に上がった左手の豊富な緑陰に、椋(むく)神社が祭ら
れている。

 景行天皇41年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国巡見の折、猿田彦命の導き
により創始したと伝えられるとか。椋神社は秩父に5社あり、延喜式神名帳(えんぎしき
じんみようちよう)に記された椋神社はどれか不明のようだが、円福寺が鎮守として崇敬
し、近くに古墳の多い当社がそれとの説もあるらしい。


 社殿左手の宝物殿前から背後に回ると摂社が並び、右手には護国神社↑や神楽殿、皆野
出身の俳人、金子兜太(かねことうた)の新しい句碑もある。
    

 正午に近いので手水舎横の椅子を借り、西武秩父駅横の仲見世で買った秩父釜めしで昼
食とする。
    


 12時15分に境内を出て、正面の大鳥居をくぐる。すぐ左手に「秩父みそ屋」ののれ
んの下がる荒井武平商店の直売店があったので立ち寄ってみた。


 店内には秩父味噌やその加工品などが並び、店員がお茶を出してくれた。子供の頃愛用
したおなめと、みそ飴を求めて店を出る。


    
 店の前の広場の一角にも金子兜太の句碑があり、道路際には昭和60年(1985)ま
で味噌の仕込みに使っていたという大樽が2つ並んでいた。


 秩父鉄道の踏切を越えて東側を平行する旧国道に出る。南東に進んで皆野秩父バイパス
の高架橋下を抜けた先に、県指定史跡の大塚古墳がある。
    

 古墳時代後期の7世紀前半の築造と推定される円墳で、秩父地方に現存の古墳では大規
模のものとか。
    
 直径約33m、高さ約7mあり、秩父の片岩(へんがん)を用いた横穴式石室があるが、
入口の扉は施錠されていて入れない。古墳上は高木に覆われ、全体像は認識しにくい。


 東側の国道140号に出て、折り返し北進して右側の小道に入る。リサイクルパーツの
建物の先の標識に従い、そばの草道を進んだ山すそが小池氏館跡である。

 小池氏は、室町時代に左間之助光里がこの地に館を設け、養子に迎えた弥八郎は寄居・
鉢形城の北条氏邦(うじくに)に仕えたといわれるという。

 弥八郎の子、左馬之助栄算は名主を務め、大塚池を掘り付近一帯を開拓したとか。その
後も小池氏は代々皆野村の名主を務め、明治になってからも戸長になっているようだ。

 館跡は土塁の一部しか残っていないが、新編武藏風土記稿には「郡中第一の庭」と記さ
れ、近在から遊覧に来るものが多いとも記されているという。


 南側の細長く大きい池はほとんど水が涸れていたが、北側の心字池には弁財天が祭られ、
当時の面影がしのばれる。


 皆野秩父バイパスに沿って右に回り込み、ムクゲ自然公園の入口に出る。「本日休園」
の札があるので行かなかったが、斜面を上がると四季折々の草花や樹木が楽しめるようで、
7月下旬には10万本のムクゲが咲くという。
      

 すぐそば、バイパス美の山トンネル入口手前の急石段を上がると、小池氏の鬼門に祭ら
れた八幡神社がある。
      


 拝殿左手背後にはまきが積み置かれ、木々の切れ目から西方の山の展望が良い。


 バイパス下をトンネルを抜けて腰集落に入る。国道の東を平行する腰通りを北進して2
つ目の十字路を東に入り、山すその山根福徳稲荷神社へ。

 お堂にはたくさんの白キツネが並び、傍らのカシは、根元から何本もの枝が伸びていた。

 次の十字路を左折し、滝の入沢沿いの桜並木の道を進む。国道の信号を渡り、すぐ北の
道を斜めに入ると、たくさんの鳥居の並ぶ河原崎稲荷神社がある。
      

 素朴な社殿上部には数多くの絵馬が掲げられ、ユニークな絵柄が多く見飽きない。


 社殿の左右には、甲子塔と庚申塔が立っていた。


 国道を次の十字路まで進み、腰通りのT字路を少し戻ると、「吉岡佐五郎幸英先生之碑」
が立つ。
        
 吉岡佐五郎幸英は、江戸時代の古武道のひとつ秩父気楽流(きらくりゆう)を広めた人
物のようだが、現在継承者はないらしい。

 さらに越通りを北上し、実のふくらんできたぶどう園の横を過ぎる。次の十字路で美の
山からの道路に入り、皆野町役場入口交差点で国道140号を横断する。
    

 役場の駐車場の東南隅に「県立秩父農工高等学校皆野分校跡」碑が立っていた。
        
 皆野分校は昭和24年(1949)1月に開校し、文武両道で県外にも知られていたが、
昭和59年(1984)3月に閉校したという。

 道路を挟んだ役場にも立ち寄り、「皆野町登山&ハイキングマップ」などを入手した。


 変則四差路を左折し、すぐ先の下原交差点際から参道を入ると円明寺。墓地の傍らの地
蔵堂に、八坂地蔵尊が祭られている。
        


 本堂は寺院らしからぬ近代的なつくり。右手の不動堂の横には、金子兜太と父・金子伊
昔紅(いせきこう)の句碑、兜太書の「唄と踊りと花の寺」碑が並ぶ。
    

 東側の原通りに出て北にすぐ、皆野小校庭に「火伏のエノキ」と呼ぶ2本のエノキが立
っていた。
        

 下原交差点に戻り、すぐ先の変則交差点際には、「右 寄井熊谷……」などと読める古い
道標が土塀の隅に残され、小さな広場には休憩用ベンチもある。
        

 南西から南に回り込む旧道を進むと金子医院がある。金子兜太の父、金子伊昔紅が昭和
2年(1927)に国神村から移転して開院し、兜太が小学2年生から旧制熊谷中入学ま
で過ごしたところ。


 祖父母の時代からあったかと思われる土蔵も残されていた。



 病院の南側には、金子家の氏神だったという茂徳稲荷神社が祭られている。今日訪ねた
稲荷神社はこれで4つ目。皆野の町中にどうしてこんなに稲荷神社があるのだろうか…。
    

        
 駅近くまで戻り、矢尾商店の東南側交差点には、↑「左大ミや 右よし田」と刻まれた
道しるべ石と「秩父音頭家元碑」↓が立つ。
        

 ちなみに秩父音頭は、古くからあった盆踊り唄が低俗な詞と単調な踊りですたれていた
のを、昭和初期に金子伊昔紅が格調ある歌詞と踊りに改めて秩父音頭とし、今では八木節、
日光和楽踊りとともに関東三大民謡といわれている。

 2つの碑のそばには火の見やぐらが残り、南側の広場にある皆野町営バス待合所には、
観光パンフレットも置かれていた。

 西側の突き当たりが皆野駅。15時16分に戻り、15時35分発下り電車に乗る。
 
(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 皆野、歩行地 皆野町、
 歩数 17,300)


 今日のコースは、「地図で歩く秩父路」(さきたま出版会発行)の95コース中から選
んだ。著者の飯野頼治(いいのよりじ)さんは、秩父の高校で32年間地理の教師をされ、
秩父をくまなく歩かれ秩父を知り尽くされていた。

 私は、やまさんの「関東百駅巡礼歩行」で飯野さんとお会いし、その後、飯野さんが代
表をされていた「所沢山里探訪会」の催しで、講演会と秩父や所沢周辺の歩きに参加させ
てもらい、現地での歴史や暮らしなどの解説を聞きながらの歩きを楽しませていただいた。

 ところが、飯野さんはちょうど1年前の昨年7月2日に急逝され、後からそのことを知
り驚き、もうご一緒する機会の無くなったことが大変に残念だった。

 遅ればせながら、飯野さんのご冥福をお祈り申し上げます 合掌



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