2010年11月27日(土)(続き)
日向(ひなた)とも呼ばれる、荒川北岸の下郷集落への旧道に入り、高台にある熊野
神社で昼食となる。川向こうに聞こえてきた秩父鉄道のSLの通過を眺めてから、弁当
を広げた。
神社の社殿は小さいが、境内では10月9日に、「御殿ざさら」と呼ぶ獅子舞が行われ
る。南に見える熊倉山にあった熊倉城主・長尾景春に召され、城中で舞ったと伝えられ、
雄獅子、雌獅子、子獅子の3頭で舞うのだとという。
昼食後、前・現保存会長の両Sさんから、それらの話を聞いた。
山際の高台を回って行くと、荒川両岸の展望が広がり、やや霞んではいるが、いずれ
も広葉樹の彩りが見頃。集落のある家には、ユズがたわわに実っていた。
国道に出て、日向橋の先から再び右手の旧道、秩父往還を進む。上郷集落の阿弥陀
寺の石段下に、大きなお地蔵さんが立つていた。
この先にあった、旧川端集落から移されたもののようだ。
そばに、秩父特産の緑泥片岩(りよくでいへんがん)でできた板碑もある。
阿弥陀寺は、貞治2年(1363)の開創で、秩父十三仏霊場の一つ。入口の馬頭尊の
花台には、珍しい小さい馬が彫られている。
境内には、少し朽ちてはいるが秩父最大級という↑宝篋印塔(ほうきよういんとう)や、
これも珍しい六道能化地蔵がある。モミジの彩りも一段と鮮やか。
国道に戻って贄川の八幡橋を渡る。少し先から八幡坂を荒川左岸に向かって下って行
くと、馬頭尊や地蔵など5体の石仏が並び、その上の斜面に八幡神社がある。
境内は狭いが、石段横の夫婦ケヤキと呼ぶ樹齢400~500年と推定される大ケヤキ
が、寄り添うように立っている。
さらに下った川岸が、江戸中期の宝暦年間(1751~64)にはあったと記録の残る、
白久の渡し場跡。上流の白川橋ができる昭和4年(1929)まで、渡船が行われていた
という。
このあたりは川幅が広がり、昔は上流から集められた木材が、ここで筏(いかだ)に組
まれて、筏師により江戸まで運ばれたという。
国道に上がり、北側の秩父往還に入る。小さい流れの横にある橋場家↓は、最近、国
の登録有形文化財に指定された旧家。
その横の急坂を上がると贄川宿(にえがわしゆく)である。
贄川宿は江戸時代、秩父甲州往還道の大宮郷(秩父市の中心)に次いで賑わい、
三峯山の講中や、秩父札所への巡礼者、商人などの宿泊が多く、物資の集散地でも
あったことから、六斎市(ろくさいいち)と呼ぶ市もあったという。
当時の面影を残す家並みが続き、紅葉の時期(今年は前週の土・日)には、民家の
縁側に絵画や写真、彫刻、陶芸など展示する、縁側展と呼ぶ催しが開催されている。
家並みの最初の三差路際、屋号・番場さんのお宅で、秩父地方に伝わる「おなめ」
と呼ぶ、大麦、大豆、塩、麹菌を原料にした自然食品を販売しており、多くの参加者が
買い求めた。私にとっても懐かしい味なので、1パック入手する。
贄川宿が終わり、国道140号の権田橋の先で国道を歩道橋で越え、荒川にかかる
白川橋を渡る。
橋から眺めると、下流は流域が広がっているが↑、上流は↓狭く切り立つ渓谷となっ
ている。
このあたりが地層の変わり目とのことだが、その詳しい説明はメモを漏らした。
両側ともに、紅葉の彩りは今が盛りといった感じ。
橋を渡って東に向かう。山すそを回る旧道に入り、上サ(かさ)集落にある神明神社
へ。境内の神楽殿では、春、夏、秋の祭礼には、安政年間(1854~60)から伝わる、
神明社神楽が奉納されるという。
社殿横の戸板に、森玄黄斎が彫りかけたたままの鍾馗(しようき)像が残っている。
森玄黄斎とは、文化4年(1808)、近くに生まれ、極めて小さい彫刻や、漢詩、書
画などに優れた業績を上げた人のようだ。
ここで今日のコースは終わりとなり、秩父ジオパーク理事長の挨拶がある。北側の
車道に出れば、秩父鉄道の終点、三峰口駅は近い。15時25分に着いた。
(天気 晴一時曇、距離 7㎞、歩行地 秩父市(旧荒川村)、地図(1/2.5万)
秩父、三峰、歩数 12,700)
日向(ひなた)とも呼ばれる、荒川北岸の下郷集落への旧道に入り、高台にある熊野
神社で昼食となる。川向こうに聞こえてきた秩父鉄道のSLの通過を眺めてから、弁当
を広げた。
神社の社殿は小さいが、境内では10月9日に、「御殿ざさら」と呼ぶ獅子舞が行われ
る。南に見える熊倉山にあった熊倉城主・長尾景春に召され、城中で舞ったと伝えられ、
雄獅子、雌獅子、子獅子の3頭で舞うのだとという。
昼食後、前・現保存会長の両Sさんから、それらの話を聞いた。
山際の高台を回って行くと、荒川両岸の展望が広がり、やや霞んではいるが、いずれ
も広葉樹の彩りが見頃。集落のある家には、ユズがたわわに実っていた。
国道に出て、日向橋の先から再び右手の旧道、秩父往還を進む。上郷集落の阿弥陀
寺の石段下に、大きなお地蔵さんが立つていた。
この先にあった、旧川端集落から移されたもののようだ。
そばに、秩父特産の緑泥片岩(りよくでいへんがん)でできた板碑もある。
阿弥陀寺は、貞治2年(1363)の開創で、秩父十三仏霊場の一つ。入口の馬頭尊の
花台には、珍しい小さい馬が彫られている。
境内には、少し朽ちてはいるが秩父最大級という↑宝篋印塔(ほうきよういんとう)や、
これも珍しい六道能化地蔵がある。モミジの彩りも一段と鮮やか。
国道に戻って贄川の八幡橋を渡る。少し先から八幡坂を荒川左岸に向かって下って行
くと、馬頭尊や地蔵など5体の石仏が並び、その上の斜面に八幡神社がある。
境内は狭いが、石段横の夫婦ケヤキと呼ぶ樹齢400~500年と推定される大ケヤキ
が、寄り添うように立っている。
さらに下った川岸が、江戸中期の宝暦年間(1751~64)にはあったと記録の残る、
白久の渡し場跡。上流の白川橋ができる昭和4年(1929)まで、渡船が行われていた
という。
このあたりは川幅が広がり、昔は上流から集められた木材が、ここで筏(いかだ)に組
まれて、筏師により江戸まで運ばれたという。
国道に上がり、北側の秩父往還に入る。小さい流れの横にある橋場家↓は、最近、国
の登録有形文化財に指定された旧家。
その横の急坂を上がると贄川宿(にえがわしゆく)である。
贄川宿は江戸時代、秩父甲州往還道の大宮郷(秩父市の中心)に次いで賑わい、
三峯山の講中や、秩父札所への巡礼者、商人などの宿泊が多く、物資の集散地でも
あったことから、六斎市(ろくさいいち)と呼ぶ市もあったという。
当時の面影を残す家並みが続き、紅葉の時期(今年は前週の土・日)には、民家の
縁側に絵画や写真、彫刻、陶芸など展示する、縁側展と呼ぶ催しが開催されている。
家並みの最初の三差路際、屋号・番場さんのお宅で、秩父地方に伝わる「おなめ」
と呼ぶ、大麦、大豆、塩、麹菌を原料にした自然食品を販売しており、多くの参加者が
買い求めた。私にとっても懐かしい味なので、1パック入手する。
贄川宿が終わり、国道140号の権田橋の先で国道を歩道橋で越え、荒川にかかる
白川橋を渡る。
橋から眺めると、下流は流域が広がっているが↑、上流は↓狭く切り立つ渓谷となっ
ている。
このあたりが地層の変わり目とのことだが、その詳しい説明はメモを漏らした。
両側ともに、紅葉の彩りは今が盛りといった感じ。
橋を渡って東に向かう。山すそを回る旧道に入り、上サ(かさ)集落にある神明神社
へ。境内の神楽殿では、春、夏、秋の祭礼には、安政年間(1854~60)から伝わる、
神明社神楽が奉納されるという。
社殿横の戸板に、森玄黄斎が彫りかけたたままの鍾馗(しようき)像が残っている。
森玄黄斎とは、文化4年(1808)、近くに生まれ、極めて小さい彫刻や、漢詩、書
画などに優れた業績を上げた人のようだ。
ここで今日のコースは終わりとなり、秩父ジオパーク理事長の挨拶がある。北側の
車道に出れば、秩父鉄道の終点、三峰口駅は近い。15時25分に着いた。
(天気 晴一時曇、距離 7㎞、歩行地 秩父市(旧荒川村)、地図(1/2.5万)
秩父、三峰、歩数 12,700)